したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

聖典引用 板

1975goro:2013/01/26(土) 17:44:29 ID:nCo1DokU
>>1973の続き

かく思うとき、私は明治十年薩摩における西郷隆盛挙兵の心情がよく判るような気がした。忠誠なる彼が、陛下に敵対するような考えのないことは明瞭であり、且つ日本陸軍育ての親の一人として、鹿児島一地方の兵力が全日本陸軍の兵力に対し、到底対抗のできないことは百も承知で上でありながら、敢えて薩摩隼人の強請に応じて立ち上がったのは、我が愛する若殿原に見苦しい狂い死にはさせたくない。この際、自分が統制をとって、われもろとも立派に玉砕しよう、という自分の名誉も命も捨てた最後の処置であったのではなかろうか。

開戦当時、私はお側にお仕えしていなかったが、ほんとに偶然なことで、ちょうど日米戦端の開かれた昭和十六年十二月八日の朝、三十分ばかり、陛下にお目にかかることになった。当時、私は帝室会計審査局長官の職にあったが、長官の仕事は、宮内大臣の指揮監督外に立って、宮内省会計の全般に亙って、これを審査した上、独自の判断を以て、その適否を直接、陛下に上奏する責任を持っていた。この拝謁上奏の時期は毎年十二月が常例であったので、私は十一月の中旬、侍従職を経て、陛下に十二月何日の何時に拝謁上奏いたすべきや御都合をお伺いしたところ、十二月八日午前十時との御指定があった。

八日朝早く、私は我が家の庭の梅の木の下に立った、というのは、上奏のとき図表を御説明する指し棒として、我家の庭の梅の若枝一本を持参するのを毎年の例としていたからである。適当な枝を、と選んでいると、そのとき、ラジオが俄然威勢のいい軍艦マーチを放送しはじめ、続いて日米海軍衝突、真珠湾奇襲攻撃成功の重大ニュースが発表され、日頃静かな私たちの街も俄に騒然としてきた。さては、いよいよ日米衝突か、今日の上奏は当然お取止めになるだろうと思ったが、侍従職から何ら取りやめの電話がないので、私は予定時刻に侍従職に出頭した。

私の到着を聞いて、百武侍従武官長が出てこられ、只今、御前で重大な会議が開かれているから、暫く待たれるように、とのことであった。三十分ばかりたって拝謁したが、陛下は、いかにもお寝不足の御様子である。会計審査報告などは、何も今日に限ったことではない、いつでもよろしいのに、陛下は、一旦お決めになったことは、なかなかご変更にならない。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板