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聖典引用 板

1394復興G:2012/10/06(土) 22:15:22 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(8)
       (頭注版 p.185〜187)
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     旧我の否定と新しき更生

 このようにどの宗教におきましても、「迷い」を洗いきよめて本当の知恵をうることをもってその主要眼目としているのでありますが、では「本当の知恵」をうるとはどういうことであるかと申しますと、それは「人間は神の子である」という一大事実に目覚めることであります。キリスト教でいえば「なんじにやどるキリスト」を知ることでありります。仏教でいえば「仏性」を自覚することであります。

 わたしが光明生活法を説いて、「人間は神の子である、自分自身をも悪く非難してはならない」と申しますと、なかには早呑みこみして「このままの自分で完全な神の子だ」と思って、驕慢(たかぶ)った心になっている方もあるかもしれませぬが、「本当の知恵」とか、「神の子の自覚」とかいうのは、そんなに安っぽい自覚ではないのであります。

 仮に、ここに、身体じゅう腫物(できもの)だらけの人間があるとしまして、「人間は神の子だ」と教えられたとします。そこでその人間が、その腫物だらけの身体(からだ)を「神の子としての完全な身体」であると思いこみ、その腫物だらけの身体を「これこそ完全な神の子の姿だ」といって自慢しだしたとしたならば、実にはたから見て見苦しい鼻つまみの所業(しわざ)でありますし、それではまた、その病気もなおらないのであります。

 人の徳性にしましても芸道上の技倆にしましても、このままで「神の子」としての自分の貴さや深さがでていると思ったらそれは慢心でありまして、それ以上、その人は徳性においても、芸道においても進歩するということはないのであります。

 本当の「神の子」としての自覚というものはそんな安っぽいものではない。今の状態をありありと反省し、こんな見苦しい不完全な状態は「神の子」らしくないということを知り、自分は神の子であるから、こんな不完全な状態は自分の本性ではない、本性でないものはウソである、いつまでもウソを自分の天性だと思って天狗になっていてはならないと、豁然(かつぜん)大悟、「神の子」としての自分が別に厳然として存在することを悟る――これが「神の子」としての本当の自覚であります。

 こうして今まで「これこそ自分だ」と思っていた「仮妄(うそ)の自分」を捨ててしまうことが、新しく「神の子としての自覚」に入る第一歩であって、毎日反省して、蛇が皮をぬぐように毎日「ウソの自分」を捨てる――こうすることによってわれらは毎日新たに神にいっそう近づくことができる、すなわちわれわれの無限生長の道があるのであります。

 われわれが毎日『生長の家』を読んだり「神想観」を実修したりするのは、要するに「旧我(ふるいわれ)」を捨てて「新我(あたらしいわれ)を掴むことにあるので、本当の「神の子」としての自覚を得るにはぜひともいったん「旧我」を捨ててしまわねばならないのであります。

 それでメタフィジカル・ヒーリングによって他人の病気を治すにも、ぜひとも「否定」と「肯定」との思念法を用いるのであります。「否定」とは現在の不完全な病気の状態は偽物であって本物の存在でないと取り消す思念で、「肯定」とは「本物の自分」は神の子であって現に今も神の造りたまえる世界――すなわち真実存在の世界に、完全な病気無き相(すがた)で存在すると肯定する思念であります。


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