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聖典引用 板

2835a hope:2014/05/02(金) 22:42:10 ID:cEpBaIdo
そういうふうになりますと、すべてのもの、美しいものはもちろん、醜いものでも、人が嫌うようなものでも、いやらしいものでも、みんなそのままでありがたいということになることができるのであります。そのままありがたいということになりましたら、不平も、不満足も、腹立ちも何もなくなってしまいまして、ただただありがたいばかりである。苦しめられてもそこに本当にありがたいものがあるのだ、こんなにまでして、わたしを鍛えてくださるのである、ああありがたいと、こう思えるようになるのであります。


こうして天地一切のものと和解し仲よしになったら、本当に感謝の念が湧いてくるのです。世間普通の人はいいことを与えられた時には、「こんなにまでしていただくのだ、ありがたい」こう思うのでありますけれども、生長の家の生き方はいいことでも悪いことでも、「こんなにしてまでわれわれに体験を積ませていただくのだ、ああありがたい」とこう思わなければならないのです。雨が降ってもありがたいし、天気でもありがたい。

ところが天気なら天気ということばかり把(つか)まえておりましたら、雨が降る時にはうるさい、うっとうしいというような小言がでてくるのであります。ところがまた百姓さんが旱魃(かんばつ)の時に、雨が欲しい欲しい、こう思って雨が欲しいということばかり把まえておりましたら、せっかくいい天気でみんながうららかな天気だと思って喜んでいる時に、自分だけは悲しまなければならないでありましょう。

形の世界では、同時に二つのことはできないことが多いのです。雨が降って太陽が美しく輝いて道が渇いているということはできませんから、人間はなんでもこういう形がほしいと一つの形を把まえたらもうだめです。把まえたらもう自由ではなくなり苦しくなるのです。何も把まえないで手放しになってしまって、引っかかりをみんな外してゆく生活になります時、本当に自由自在な幸福の生活というものを送ることができるのであります。


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