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聖典引用 板
3041
:
a hope
:2014/07/27(日) 12:40:09 ID:cEpBaIdo
(
>>3037
つづき)
「驀進日本の心と力」より
『所有権の根拠』p72
領土権や、夫婦の貞潔が人格の自由の上に基礎を置くが如く、所有権も吾等の人格の自由の上に基礎を置くのである。
所有はある人格の延長と見らるるものである。
彼は彼自身の行動の自由を、その所有を通って発現する。
彼の所有は彼の人格の自由が『認め』かつ『宣言』したものであると云う点に於て彼の人格の延長であるが、同時に彼はその所有を道具として自分の人格の自由を形の世界に実現する点に於て、また彼の人格の延長なのである。
これを侵すことは人格の自由を侵害することになる。
それ故に、所有権の侵害は人格の自由の侵害として罪悪としてみとめられるのである。
すべて、罪悪とは人格の自由の隠蔽又は侵害である。
人格の自由はそのおのずからなる顕現として、円満完全さを伴うものである。
『自由』の別名は『完全』であるを要する。
なぜなら『不完全』は自由自在の欠乏を意味するからである。
本当に生命の本質――即ち人格が自由にして無礙であるならば、その発現は完全なるものとならざるを得ないのである。
本来人格の自由と云うことが倫理学上、先験的に要請せられるものである以上、人格の本来円満完全と云うことも、倫理学上、先験的に要請せられねばならないのである。
そこで本来円満完全なる人格が円満完全さが隠蔽(おお)われて不完全不円満を顕すが故に、これを『隠蔽(いんぺい)』即ち『ツツミ』すなわち『ツミ』と云うのである。
本来不円満不完全なるところの者が不円満不完全なる有様を呈しても罪とはいわない。
それは円満さの隠蔽ではないからである。
牛が隣の土地の草を喰っていても牛の罪とはならないが、人間が隣の所有権を侵せば罪となるのは、人間の本来完全であることが要請せられ、他者の人格を尊重し所有権を尊重するのが当然であると要請せられているからである。
されば吾等の罪が問題にされるのは、人間が本来完全であることを先験的に要求されるからであると云わざるを得ない。
されば谷口倫理学では、人間は本来完全なりと主張するのである。
(注)「認め」の倫理的価値は、遥かに遡(さかのぼ)れば『法華経』の「常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつほん)」に於て、常不軽菩薩が万人を成仏すべきものとして礼拝したのに始まる。認めて初めて存在に入るのである。この時よりして万人は成仏すべく定められたのである。大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)が※十劫(こう)の間を道場に坐してしかもなお成仏しなかったのは、本来「仏」でありながら「認め」が存在しなかったからである。
近代文学に於いて認めの価値を力説したのはオスカー・ワイルドであって『倫敦(ロンドン)の霧は詩人がこれを歌うまでは存在に入らなかった』と云った。
また頼襄(らいじょう)が『耶馬溪(やばけい)を以て海内第一とするは頼山陽(らいさんよう)より始まる』と豪語したのも『認め』の価値を力説あいたのである。(谷口)
※十劫・・・きわめて長い時限のこと。天女が五百年に一度、羽衣で岩をかすめ、その岩がすりへってなくなるまでの時間を一劫という。(「生命の實相」13巻の頭注より)
(以上、謹写終わり 感謝 合掌)
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