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聖典引用 板
617
:
復興G
:2012/05/08(火) 13:59:59 ID:ojEbkDH2
<つづき>
『新版 真理』第7巻{悟入篇}
(谷口雅春先生著)より(p.13〜16)
皆さんが、東大寺へお出でになって大仏の像を御覧になりますと、その毘盧遮那仏の後光の中に無数の仏が安置されてあります。そして大仏の台座の所にも、こう線が引いてあって、色々の世界を区画し、その一々の世界に仏が坐っていらっしゃる有様が、彫刻してあるのであります。これはあらゆる世界にこの毘盧遮那仏の影が映っていることをあらわしております。影というと変でありますが、これはラジオや、テレビや、映画のように一つの根元の世界が各方面の受信装置に映っているのでありまして、一仏一切仏と云う華厳(けごん)の哲学を仏像に表象してあらわしたものであります。一仏一切仏であって、一つの仏さまが、無数の仏様に現れていらっしゃるので、其の荘厳極りなき姿が、あの仏像に現されているのであって、一仏一切仏、相即相入の世界と云うのが実相であります。
そして毘盧遮那仏が説法するというのは、中心座に本仏がましまして、自分の分身の仏様に対して、説法しているというように、現象化して言えば相対的に言うほかないのでありますけれども、もともと、それは一つの仏様のいのちの波が、無数の仏様になっておって、それが別々に相対的に分れてはいないで、互に相即相入して、到る所で説法が行われているのでありまして、そういう荘厳極りなき世界が、実相の世界なのであります。即ち如来説法のコトバの拡がりが、客観的に見れば「世界」なのであります。釈迦牟尼如来が法華経をお説きになりました時にも、そう云うことが書いてあります。
妙法蓮華経の多宝塔品
法華経の中に多宝塔品という所がありまして、釈迦牟尼如来が説法をなさいますと、荘厳きわまりなき多宝塔が空中に忽然(こつねん)と出て来る。そして塔の中に多宝如来が出現せられる。この時に、多宝如来の分身の、即ち分れたるからだの、無限のほとけ様が、一時にそこに集って来られるということが書かれてあるのであります。これがまた一仏は一切仏であることを現しております。そして釈迦牟尼如来が法華経をお説きになる時に、無数の分身の仏様がずーっと来集して来られて、そしてその説法を聞き給うのである、というと、これは話す人と話される人との対立関係みたいだけれども、それは全部自仏の分身の仏様なのです。他仏は何処にもないのであります。
丁度私がここで説法をいたしておりますと、皆さんがここにこうして集って来て、そして、私の説法をお聞きになる、そうすると、話す人と聞く人と対立的に別れているように見えているけれども、実はそうじゃないのであって、互に私と皆さんとは一つなんであります。謂わば釈迦牟尼如来が、こうして説法なさいますと、無数の聖使命菩薩がここに集って来て、その説法を聞き給うのでありまして、菩薩は皆、釈迦牟尼如来の一つのいのちの波の現れであって、諸君は皆その分身の菩薩である、ということになっているのであります。それでその多宝如来が、「釈迦牟尼仏ここに坐し給え」と言って多宝塔の中で半座をわけられると、その半座の上に釈迦牟尼如来がお坐りになる。これは多宝如来と釈迦牟尼如来が互に一体であると云う事をあらわしている。多宝如来という仏様が別の世界から出て来られたところの別の仏様かと思うとそうではないのであって、釈迦牟尼世尊と、多宝如来とが一体であらせられるということがあらわされているのであります。諸仏は互に一体であることがわかりますと、宗派争いと云うようなことも自然になくなるのであります。
菩薩雲集(ぼさつうんじゅう)・光明三昧
それと同じ事が今ここに現れているのでありまして、此処に雲の如く集っているのは皆聖使命菩薩である。そして私の分身である。まことに一仏一切仏の光景をあらわした荘厳極りなき講習会であるのであります。だから私が神想観をしまして、招神歌を歌って手を拍(たた)くと、皆さんが一つも乱れずに、ちゃんとただ一つの手のひらを拍いているように皆んな一度にピタリとお拍きになる。これはつまり一つのいのちが互に共感し共鳴して、一つになっているという所の素晴しい状態があらわれているのであります。一即多・多即一であり、相即相入であり、皆さんのいのちは、私のうちにあり、私のいのちは皆さんのうちにあり、相即相入していることがわかるのであります。これが華厳の真理であり、生長の家の真理でもあり、法華経にもそれが説かれているのであります。
そのように人間の生命の実相は互に一体でありますから、一人が悟ればすべての人が悟るということになっでいるのであります。
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