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聖典引用 板

1393復興G:2012/10/06(土) 22:14:39 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(7)
       (頭注版 p.182〜185)
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 皆さん、脳髄という物質に心があると思ってはなりません。胃袋という物質に消化力があると思ってはなりません。心が複雑になるから、それが映って脳髄の組織が複雑になるので、脳髄が複雑になってから心が複雑になったのではないのであります。おいしいと思ったら胃袋に消化液が分泌してきてよく消化するのでありまして、まずいと思ったり、感情が興奮していて食欲が本当に起こらない時には何を食べてもなかなか消化液を分泌しないのであります。

     無知無明

 われわれが「生長の家」でとく「生命の真理」――「存在の実相」が根本的にわかってきますと病気にならないばかりでなく、性格も善くなり、境遇も運命も善くなるのであります。善くなるのではない。われわれが本来神が造った「神の子」であるからはじめから善いのしでありますが、その「善さ」が隠れていたのがしだいにあらわれて来るのであります。

 「罪」と「迷い」とはひっきょう同じものでありまして、その本来の善さを無知無明(まよい)のためにツツミ隠している、これが「罪」であり「迷い」であり、真理の無自覚、すなわち「本当の知恵」の欠乏から来るのであります。
 世の中で知恵が欠乏しているほどの大きな罪(つみ=包みかくす意)はないのでありまして、あらゆる罪悪は、この「本当の知恵」の欠乏からくるのであります。

 修行中の弟子が、ある日釈迦にむかって「知らずに犯した罪と、知って犯した罪とはどちらが重いでしょうか」とおたずねしたということがお経に書いてあります。すると釈迦は「知って焼火箸(やけひばし)を握るのと、知らずに焼火箸を握るのと、どちらが大きな怪我をするか?」とたずね返された。そこで弟子は「それはお師匠さま、知らずに握った人の方が大きな火傷(やけど)をするに相違ありません」とお答えした。釈迦はニコニコ笑って、「そうじゃろう、だから知らずに犯した罪は、知って犯した罪よりも深いのだ」とおっしゃったということであります。

 つまり「真理を知らぬ」ということは、あらゆる罪の源になる大きな罪(包み)であって、この大きな「包み」に包まれて、真理の光線が心の中にはいりこまないから、その暗闇の中でいろいろとありもせぬ怪物が心の迷いではびこる――この怪物の中に、病気とか、不幸とか、不和とか、家庭苦とか、生活難などといういろいろの一つ目小僧や、三つ目小僧や、大入道がいるのであります。

 「本当の知恵」のないところから、あらゆる不如意不完全は出発するのでありますから、仏教でも「阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)」すなわち「サトリ」ということを第一においている。キリストも「真理はなんじを自由ならしめん」といって、「真理を知る」ということすなわち、サトルということをその教えの第一においている。それからまたキリスト教の信者となるには「洗礼」ということをする。「洗礼」というのは水をそそぐことで、日本古神道でいう身禊(みそぎ)に当たり、「罪」すなわち本当の自己の生命を包んでいる「迷い」を洗い浄めるという精神を形にあらわして水をかけたり水の中に浸ったりするのであります。

 こうして、身禊すなわち洗礼をせられたときに、キリストの身体に「聖霊(みたま)鳩のごとく降れり」と聖書にはあるのであります。つまり自分の生命と御祖神(みおやがみ)の大生命とを絶縁させていた「迷い」が洗礼によって洗い浄められ、心のうちに知恵が輝き出し「迷い」という絶縁体がなくなれば、神と人間との間に完全な感応道交(かんのうどうこう)の道がひらけ、「聖霊(みたま)が鳩のごとく」キリストの身体(からだ)に降臨して、ここにキリストは完全に「神の子」としての自覚に入ることができ、驚くべき奇跡や神通力を発揮するにいたられたのであります。」


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