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聖典引用 板

954復興G:2012/07/12(木) 01:35:21 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(10)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(10)

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   病気は無い

 いったい、皆さんは「病」というものが実際この世にあると信じておられますか。「病気」というものを神がこの世に造り給うたと信じておられますか。もし神にして「病気」というものをお造りにならないならば、病気は第一義的にいえば本当は存在しない。ただそれはあるように見えているにすぎないのです。それは本当は「無い」けれども、あるように見えている「迷い」なのです。「ない」ものをあると思っているから「迷い」なのであります。「迷い」という心的状態が客観的(かたち)にあらわれて映っている。これを病気とかいろいろの人生苦とかいうのであります。これをたとえていいますと、「大生命」は活動写真を映す機械の本源に輝いている光のような、不可思議光(光明生命)であります。それを無色透明の正念(しょうねん)のレンズを透すとただ光輝燦然(こうきさんぜん)たる大生命の肖像(にすがた)ができる。これが神のつくり給うたままの光輝燦然たる人間そのままの姿であります。ただこのわれわれの生命にいろいろの影や不完全な状態があらわれるのは、それにいろいろの迷いの姿を描いた「念(こころ)というフィルム」をあてがうからで、われわれが「念(こころ)しだいでどうでもなる」というのはこのことであります。

 本来、われわれ自身の「生命」が「光明生命」でないならば、影さえも顕わすことができない。光がなかったら活動写真を映すことができないと同じであります。いろいろの病気や、いろいろの苦しみを「人生という映画」にうつし出すことができるのは、病気や苦しみ以上の「光」がその本源にあるからで、この「光」こそ、われわれが大生命からいただいているわれわれの「真生命」なのであります。いい換えると、それは神が造り給いしままの「真の人間(リーアル・マン)」であって、この「真の人間」そのままを観るとき、それは円満完全であって、なんらの欠点もない。むろん、病気や不幸はぜんぜんないのであります。各人の、この「真の人間」を観ることを「実相を観ずる」とか「本来の面目を観る」とかいうのであります。「生長の家の生き方」に「生命の実相を礼拝せよ」とあるのは各人に宿っている「真の人間」を礼し拝することをいうのであって、この「真の人間」というものは心でこれを認めれば認めるほど、明らかに形にも顕われてくるのであります。

 つまり「真の人間(リーアル・マン)」を認めるということは、「真の人間」(光明生命)に陰影(かげ)のあるフィルムを当てがわずに、「真の人間」そのものを直接(じか)に見ることになり、したがって陰影のある暗い映画が人生というスクリーンにあらわれなくなり、「光明生命」ばかりが客観化してスクリーンにあらわれることになるのであります。
<つづく>


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