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聖典引用 板

1258復興G:2012/09/07(金) 14:57:56 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(14)

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 この実話は実に面白いではありませんか。心臓弁膜病も、バセドー氏病も現代医学ではどちらも劣らぬ難治症なのであります。
 「心臓弁膜病でない、バセドー氏病だ」といわれても、医学の知識のある人にとっては、一つの不治症を他の難治症におきかえられたにすぎないのでありますが、この患者は心臓弁膜病の不治であることは知っていても、さいわいにしてバセドー氏病の難治だということを知らなかった。なんだか変な名前の新しい病気だから、今まで診(み)てもらったほかの医者には判断がつきかねたのであろう、この医者があんなに軽々しそうにいう以上はすみやかに治るに相違ないという「信念」がわいて来、その「信念」のとおりじっさいすみやかに治ってしまったのであります。
 ここにも半可通な医学の知識のない方が健康になれる実例があるのであります。

 この場合石塚右玄氏がこの患者をバセドー氏病だといったのは診断が正しかったのか、故意に誤診して患者から不治症の観念をとり去ったのかは別問題として、医者がいわゆる不治症の患者に対してどんな態度をとることが愛の道にかなうか、「医術」が「医道」として真に癒す力を発揮するには「言葉の力」をいかに発揮すべきものであるかについての深い深い暗示があると思います。
 或る病人が一つの病名が付せられて不治だと思っていると時には、医者としてはことさらその病気を別の病気だと診断してその患者から今までの「不治症」という観念を奪いとってやることは非常に愛深き賢き手段と思われるのであります。

   万病は眼病より来るという新説

 それについて思い出されるのは、神戸の元町に西村美亀太郎(みきたろう)という眼科の医学博士がありました。
 この医者は万病一元論者で、どんな病気でも一種の眼病(角膜表層炎)から来るということを唱え、自分もじっさいそう信じていたのであります。
 だから心臓病の人が来ようが、慢性胃腸病の人が来ようが、神経痛の人が来ようが、どの病人にも
 「あなたは心臓じゃない、眼病だ」
 とか、
 「あなたは胃腸が悪いのではない、眼病だ」
 とか、断固として宣言するのであります。
 じっさい医者自身がそう信じていてそう宣言するのですから、いう言葉に確信が満ちていて、権威がある。そして胃腸が悪かろうが、座骨神経痛であろうが、目の上に厚い温湿布をしてその上をグルグル繃帯(ほうたい)で巻いて三十分ぐらい放っておくのであります。
 患者は、今まで胃そのものが病気だとか心臓そのものが病気だとか思っていたのがまちがいであって、想像もつかなかった眼病だったという観念を与えられたまま、三十分も眼を繃帯で巻かれて暗黒(くらがり)の中を見つめていなければならないのです。眼は薬液と温湿布の影響でその間にいかにも眼病だったかのように充血して来て、なんだか本当に自分は眼病だったのであって心臓や胃腸が悪かったのではなかったという観念がいよいよ深く染みこんでくるのであります。
 長期間の慢性病が、短時日、なかには一回のこの療法で治ってしまう人さえもあるのであります。
 これを西村博士は、万病は一元であって、すべては眼病から来るのだといっているのでありますが、わたしの考えでは、今まで患者が不治だと信じていた病気を全然否定してしまって、そんな病気は存在しない、あなたのは眼病だ、その眼病は今こうして治るのだといって、今までの病患部だと思っていたところとは全然別の部分を温罨法(おんあんぽう)で刺激されるために、今までの不治症という観念がとり去られてしまって、不治症もずんずん治ってくるのであります。

 わたしはこういう治療法を「病名転換療法」だと名づけています。病名すなわちコトバを変えるために病気そのものさえも変わって来て病気が治るのであって、これも「コトバの力」の応用の一部門にはいるのであります。
<つづく>


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