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聖典引用 板
119
:
商人
:2012/01/13(金) 12:44:51 ID:TCt66b8E
戦後『昭和文学全集』を発行してたちまち出版界を席巻し、一年あまりのうちに一億円も儲けたと噂されている角川書店というのがある。その主人の角川源義氏は国学院大学出身のまだ青年と言って好い若い人である。
終戦後の出版物飢饉状態の昭和二十三年の夏、名刺三枚を懐ろに仙台の阿部次郎氏邸を訪れたのである。
氏は理想家であり、人格主義者であり、若い時に読んだ阿部次郎氏の論文『人格主義』にいたく感動したことがあったので、是非、終戦後の出版事業の旗あげに、この真面目な精神的な人格主義の論文を終戦後の混乱している人心を善導することに貢献したいと思って、その出版の許諾を阿部次郎氏に求めて行ったのである。
一面識もない阿部先生であるけれども、この青年の熱と誠心とに打たれて阿部さんは出版の許諾を興えたのであった。それが角川氏の出版社としての成功の第一歩であって、自分の理想に向って敢然として進む断行の決断と勇気が、氏の後年大いに出版事業に成功する要素となっているのである。
しかも感心なことには、氏は、その後、東北地方を襲った風水害の情報を手にすると取るものも取り敢ず、リュックサックに手に入るだけの食糧をつめて、阿部次郎氏を見舞っている。
角川書店の後年の繁栄は實にこの角川氏の恩を忘れぬ心から来ていると言わなければならないのである。
恩は原因を知る心である。
本源を培うとき、その人は栄えるのである。
しかし昭和二十四年五月頃角川書店の経営は最悪状態に陥った。
角川文庫がサッパリ売れないで、三、四千万円の借金の支払の道に窮して二進も三進も行かなくなった。
この時、角川氏自ら夫人と共に有楽町駅に立ってチラシを配った ー ここにも不屈不撓の強靭な商魂が見られるのであるが、氏の出版業の危機を救ったのは阿部次郎氏の『三太郎の日記』の出版であった。
これは岩波書店で前から出していたが、あの東北地方の風水害のときにリュックで食糧を運んだその恩を知る青年の心に動かされて、阿部氏は岩波書店に手紙を書いて、それを角川書店で出版することの許諾を得てくれたのである。この『三太郎の日記』が、旺んに売れた。刷っても刷っても間に合わぬ位売れた。これが角川書店を立直らせた基となった。
もし阿部次郎氏が『三太郎の日記』の出版許可を興えなかったならば、角川書店の今日はない。しかもそれが東北水害の際の食糧見舞にかけつけた恩を知る心がかくならしめたのである。
角川氏は後に仙台に阿部日本文化研究所を建てて再び恩に報いるためにこれを阿部次郎氏に贈ったのである。
あの成功した『昭和文学全集』は改造社の山本實彦氏が嘗て発行した『現代日本文学全集』の形や組方を模倣して一冊の中に大量を収録することにして出来たというので、その恩義に報いるため、『昭和文学全集』が出来上ると故山本實彦氏の霊前にその第一冊を捧げて感謝の意を表したというのも有名な話である。
角川氏の今日の成功あるは全く氏の知恩の心からである。角川氏は又親孝行で宅には何百万円もする立派な仏壇があり、その奥には父の遺品天秤棒が祀ってある。
孝は百行の基であるのは今も昔も変りはない。
『若人のための78章』 谷口雅春先生著 より
私もがんばろう!!
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