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聖典引用 板
402
:
「訊け」管理人(3/3)
:2012/04/13(金) 19:25:54 ID:???
かくの如くして、天地一切の山も川も緑も青も黄も花々も人々も、光明身である神の子なる自分を讃嘆する神の真理のコーラスであると拝ませていただくとき、すべての人々は、周囲のすべてのものという光りにつつまれていられる姿であるのであります。まさにこれは光りが光りの中で光りしているのであります。「讃嘆の中で讃嘆しているのが研修である」というのはこのことなのであります。何かしら力強きもの、円相なるもの、喜ばしきものの気配がふっくらと自分の眼にふれる限りのものを包んでいるのを感じるとき、そのものとこちらが調和の状態にあることを私たちの本性は知っているのであります。
景色を見て私たちは「いいなあー」という思いが湧いてくるときは、私たちはその景色と調和し、和解し、感謝が通い合っているときなのであります。不調和であるならば「いいなあー」という思いにも、いつまでもふれていたいという気持にも、なれないはずであります。
研修生の諸君が宇治別格本山の境内を景色を眺めながら歩いている姿を見るときがあります。そのとき、その人は景色全体と和解が成立しているのであります。本山を囲む山の木が何十万本あり、木の葉が何億枚あり、土の砂つぶがどれだけあるのか、はかり知れませんが、それらの一つ一つとすべて和解が成立しているのであります。和解が成立しているとき、もう既に神がそこに顕われてい給うのであります。そして自分をとりまくすべてのものが神であるのであります。本当は神がすでに現われ給いて自分を生かし感謝し和解せしめ給うていたのであります。
そもそも私たちは神のいのちによって誕生し、生かされていたのであります。和解のあるところ神があり給い、神のあるところ和解があるのでありました。天地すべてのものに感謝したときに神が顕われるのであります。そして天地一切のものがすでに神であることを礼拝するのが感謝であります。そしてまた天地一切が神であることを拝めるのは、自分のいのちが神であるからであります。すべてにおいて神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿なのであり、實相の世界で實相が實相しているのがこの世界であり、唯神實相、光明一元の教えが生長の家の教えであります。
尊師が啓示を受けられたとき、庭の木が黄金色の光りに輝き、その木の枝から枝に飛びうつる雀が金色に輝いていたのであります。このときすべての生きとし生けるものがこのように拝まれたのであります。尊師が「招神歌」において「生きとし生けるものを……」と言われるときは、このような光明生命として生きているすべてのものを拝み給うているのであります。
研修生が『生命の實相』をひらいてあちらのページ、こちらのページと読み移られる姿は、聖典という光明の木の中でページという光明の枝々をとびかう金色(こんじき)の雀の姿として、尊師は私たちを拝み給うているのであります。また、あちらの部屋からこちらの部屋へと移り、あるいは棟から棟へと移られる練成員のお姿もまた、そのように拝まれているのであります。
『生命の實相』は、ただただそのような生命のほんとの相(すがた)を、讃えに讃えて書かれたものなのであります。
<終了>
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