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聖典引用 板
1179
:
うのはな
:2012/08/26(日) 22:45:49 ID:DYtKCfk2
宇治のひととき 谷口輝子 先生
私たち夫婦は例年のように宇治へ出かけて行った。宇治に於ける四日間は曇り日が
つづき、小雨の降る日もあった。智泉荘の玄関を出ようとする私たちに、係りの人は白の
ビニールの雨ゴートを着ることは初めてであった。着物の裾が一尺ばかり出ていたが、小雨だったので
よごれることはなかった。
宝蔵神社の大拝殿は、いつもながらの超満員で、信徒たちは毎日のように座を詰めさせられていた。
広い檀上にいた私は、詰めこまれる人たちを気の毒に思ったが、皆さんには苦しそうな表情は見当らず、
明るい輝いた眼をした人が多かった。講習会に出席することは、講師の講話はもとより、体験談を聴くことは、
私の魂の大きな喜びであった。御教えによって救われたことは、話す人も喜びいっぱいで話されるが、聴く人たちも喜び
に満たされるようである。
体験談は顕著なものばかりなので拍手が止まなかった。中には、若き医学博士が元気な姿で、熱情をこめて語られたのも
珍しかったが、ブラジルよりはるばると、訪日団団長として来られた竹本清光氏(地方講師)の夫人の体験談も異彩を放っていた。
竹本清光氏は、戦後幾度日本へ来られたか知らないが、二、三年前に来日したされた時、飛田給道場に滞在せられた。竹本氏は夫人を
亡くされたが、長男、次男に嫁を貰って家業を継がして居られた。鰥となった竹本氏が飛田給道場で聴講して居られると、氏の隣に中年の
一婦人が座って居られた。隣同士なので、つい話しかけると、その婦人はアメリカから来て居られた未亡人であった。
二人は親しくなっていると、或る日、竹本氏よりプロポーズされた。
“神様の道場で隣りに坐っていたということは、何か神縁であると思う”という意味の言葉であった。
二人はスムーズに婚約することになり、ブラジルの伝道本部で結婚式を挙げられた。その時の式場の写真を、私はかつて見せて貰ったことがあるが、
ブラジル住居の竹本氏と、アメリカで暮らしていた人との結婚式なのに、黒の紋付裾模様姿であった。
いくら外国在住でも、日本人は矢張り日本的な服装をしたいものらしいと嬉しかった。
竹本夫人は、物静かな誠実な雰囲気をもって雄弁に話つづけられた。
先妻の遺された男四人、女四人の子供たちと仲よく暮し、一家二十人同居し、近所へ嫁入っている娘たちと
毎日顔を合わしているので、二十五人の家族全員什一会員だと言われた。長男が一番生長の家の信仰に熱心だそうだから、
その円満な大家族の楽しい生活が想像されてうれしい。
私たち夫婦が十三年前にブラジルへ初めて行った時、ノーバエスペランサ市の講習会場へ来られた竹本氏は「一家十二人全員受講
しています」と言われた。その十二人のうち、最初の夫人は亡くなられたが、今は二十人の大家族が、仲よくコーヒーやその他の栽培に
働いて居られる。ブラジル在住の日系人は大家族が多いが、御教えあばこそ大調和して居られることと有難いことに思う。
竹本夫人は、先妻の遺子たちと調和した家庭を作りながら、夫を助けて光明化運動に活躍しておられ、白鳩会員も増加の一途を進んでいる。
私たちの住む智泉荘は訊ねる人は少ないが、夕食後のくつろいだひとときにと、二日目と三日目に訪ねて来た人があった。
三日目の朝、秘書に手紙をことづけたМ子という女性があった。その女性は何年か前に我が家にいたことのある人であった。
『・・・今晩お風呂から上られましてお暇なお時間がございましたら、マテナ(指圧)をさせて下さい。何んとか、かんとか口実を作り、奥様に
甘えてお側へ行かせて頂く機会を作ろうとする私でございます』私はこの率直な手紙を見てほほ笑ましくなり、“来てください”と秘書にことづけた。
つづく
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