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聖典引用 板

324「訊け」管理人:2012/04/02(月) 20:54:26 ID:???

WEB榎本恵吾記念館「葩さんさん」より謹写――

生長の家では、恨み心や憎み心、赦せない心があると完全な實相が出てくることを邪魔をしてしまって出て来れなくしている、と仮にそういう表現をするときもありますが、その恨みや憎みや赦せない心も神様が取り去ってくださるのであるというのが本当の教えなのです。なぜなら「神の国は汝らの内にあり」であり、神の国、即ちはじめのはじめからそのままで善いという實相はいつも私達の内に厳然とあり続けているのであり、私たちは常に神に愛され、生かされ、赦され続けているからです。神はいつもこちら側にいてくださるのが大前提であればこそ、懺悔さえも神様に任せることができるのです。憎みや恨みや赦せないという心が現実にあって、その向こうに神を追いやってしまってはいけないのです。全托するということも全托できるのでなければまことの全托とは言えないのです。こちらの力は何も要らないのであり、神と一度も離れたことのない、晴れ渡って、澄み切って、神と一つである姿が先であって、それは永遠の昔から、今も、久遠の先の先まで変わることのない實在の實相であるというところに全托という雰囲気が生まれるのであります。

  生長の家には「浄心行」という行がありますが、これは「懺悔」の行であると言えるでしょう。この中身をよく見てみますと、はじめに「實相」と書かれた掛軸を礼拝して、まず神の子そのままの円満完全で未だかつて罪を犯したことのない自分を喜び、拝し、受け入れ、その次には「招神歌」を唱えて、無条件に今、神に生かされていることを感謝します。それが終わると、いよいよ焼却の行事に入りますが、そのときには聖経『甘露の法雨』を読み続けています。そして最後に「光明思念の歌」を唱えて、暗は無く、光のみの世界が本当であること、未だかつて、犯された罪もなく、報いられなければならない罪もない世界であったことを確認して終わるのです。どこにも罪を認めたすがたは無いのであります。あらゆる罪は、すでにそのままでよい姿である完全の實相を包み隠して喜ぶことを遠慮したところにあるのであって、過去である現象を責め足りなかったところにあるのでは断じてなかったのです。實相の完全を遠慮しないで喜ぶことが、生長の家のあらゆる行事の根本となっているのであります。

  普通なら懺悔をして心が浄まってはじめて、神に顔向けができるのであって、それから神をよぶ歌が唱えられるのが順序でありましょう。生長の家の浄心行というのはこれとはまったく趣を異にしていると言わなければならないのです。「浄心行」とは「心を浄める行」と読むこともできますが、実際にやっている中身から言えば、浄い心が行う「浄い心の行」ということになっているのです。


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