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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

2問答迷人:2002/12/16(月) 16:47

112020 ゲットしました。

3犀角独歩:2002/12/17(火) 23:31

皆さん、特定の個人の顔色、気にしながら投稿するのはやめよう。

4犀角独歩:2002/12/19(木) 05:24

言うまでもないことですが、誰が何を信じようとそれは自由です。その勧誘をすることも自由でしょう。しかし、反面、信じないと言うことも自由です。勧誘に反対することも自由です。

また、集団の功利面を主張するのも自由です。しかし、反面、被害に遭ったら、それを主張することも自由です。

正しいと思えば進めればよいし、間違っていると思えば止めるのも自由です。
また、進められた断るのも自由ですし、止められたら、「止めるな」というのも自由です。
ただ、ここは特定集団の、例えば顕正会、法華講などの、翼賛掲示板ではありません。
各人の発言に抑止を加えるのはやめていただきたいと思います。

5やーこ。:2002/12/19(木) 06:40
ちょっと待て。独歩さんのおっしゃる意味が微妙に違うのでは。
名前や、どのレスやスレがとはあえて言いませんが、自分の立てた某レスにおいて、ある立場のお二人がレスされなくなったようですが、それには自分を含む何人かが「やりすぎ」と思えるレスをした記憶があると思うのです。
二人ともある会員で、うち一人がもう一人を心配される立場なのですが、「まずご自身を心配すれば」等のレスがあった事等、それから某スレ、ある方が組織の会合でOFF会に参加出来ないレスに対し、「まだそんなことしているのですか」「いい子ぶり」等のレス

6やーこ。:2002/12/19(木) 06:45
(続き)(これには後で両者間でメールで解決したようですが)等です。また自分にもそういう雰囲気があった点。反省すべきだと思います。顔色をうかがうのではなく、立場を考えて投稿しよう。そういう事です。
あまりにもひどい!のでぶちぎれレスです。

7ガンコ:2002/12/19(木) 08:45
さーすが、やー古参。
でも、わたくしは大丈夫です。顕正会員はそんなにヤワじゃありませんって。
逆に、だからこそ皆さんは厳しく接して下さるのでしょう。
しばらくしたら復帰するつもりです。

わたくしの大先輩もムダな論争を避けただけで、またそのうちお出ましになると思います。

8犀角独歩:2002/12/19(木) 09:46

やーこさん、ガンコさん、だから、あなた方、何を言っているのですか。
私にも書く権利があります。こういう下らない応戦はしないでください。
だいたい無駄な論争とは何ですか。
また、個人が接する掲示板で、「大先輩」とはいったい何のことですか。

私が書いて、言い過ぎであるとそこで感じたのであれば、そこで私に直接、その本人が記せば、よいでしょう。
あなた方から横から言われる筋合いはありません。

そもそも、ここは論考の場なのに、論争とは何ですか
私は顕正会と論争しているつもりは毛頭ありません。
組織を背負って、議論するのはお門違いでしょう。

9犀角独歩:2002/12/19(木) 10:03

つづき

私が批判したという一人は、富士桜さんのことであるのはROMの人もわかります。
であれば、過去のROMを追ってもらえばよいのです。
私が石山の30万登山等において、単なる労働力にされているだけである、それは信心とは関係のないことであると、どれだけの時間と文章量を割いて書いてきたか、あるいは個人的に受けた電話、メールでもその点については、何度となく記してきました。
その結果、ご本人が「わかりました」という返答をもらっていた。
それなのに、それまで、長い時間と文章量、電話などを通じて話し、納得したという本人が、そんな私とのやりとりがなかったような投稿をすれば、「まだやっている?」という驚きの返信になるのはむしろ当然のことです。

それを、その言葉尻をとらえて、云々されるのは片腹痛いというものです。
まあ、過去のたくさんの投稿を読んでいない人、読んでも左の耳から右の耳に抜けてしまう人には、自分の気に入らない言葉だけが残るのでしょう。そして、当人すら、「反省」と言ったことを脇でケチをつけるわけです。だから、私は言われる筋合いはないと言うことになります。

また、もう一人のことはいったい誰のことを指しているのか、私は思い出せませんが、その人は、ポッと出たところで、私は言うようなことを記したのですが、それとも、それ以前に長い議論が合ってのことですか。どちらなんでしょうか。
仮に長い議論の末の発言であれば、その経緯を無視して、一つの言葉尻だけをとらえて云々することは言われなき批判であると記しておきます。

あと、その「大先輩」とやらは、ガンコさんにかばわれるその人物は誰のことでしょうか。実名(HNですが)挙げて、明示してください。でなければ、私のほうも応じようがありません。

10犀角独歩:2002/12/19(木) 10:05

9の訂正

誤)私は言うようなことを記したのですが、
正)私は言うようなことを記したのですか、

11五月雨:2002/12/19(木) 11:31

>「まずご自身を心配すれば」等のレスがあった事等…

これは私へのご批判でしょう。私がアヤエさんへ記したものです。
彼女はご自身が顕正会員だということを仰らずにこの掲示板へ書き込まれていました。全くの第三者の立場からの物言いでした。言われないから知りようも無かったのですが、私はカルト信者だったという観点から、お友達を案じる彼女に対するレスを書いていましたが、実際は顕正会員だった訳です。ただ入会しただけで、ご自身は顕正会員のご自覚も無かったそうですので、第三者的な物言いは当然だったかとは思います。だけれども、顕正会に入会したという事実はあるわけですし、それはまた違った問題を生むように思ったのです。アヤエさんご自身がまた顕正会に巻き込まれてしまう懸念です。
カルト問題にお詳しい社会心理学の西田公昭先生はこう警告されています。

『軽はずみな接触

多くの人は「やってみなきゃあ、わからない。とりあえず、経験してみてからでも遅くない」という軽い気持ちで接触してゆくが、それは非常に要注意なのである。』

アヤエさんへのレスに書きましたが、私は学会員の時にまた法華講でもそうでしたが、「活動家」を増やす活動をしていました。顕正会でもそんな活動があるのではないか、そう思ったのです。アヤエさんの場合もとりあえず入会した事実、そして顕正会員のお友達との接触があるのですから、
アヤエさんも顕正会から言葉巧みにもう一度誘われて「活動家」にされる恐れは十分にあると思って「まずご自身の心配をするのが先決」と書いたのですが、それが批判に映るとは思いませんでした。

カルト宗教に入るのも入らないのも信仰の自由でしょうね、だけれどもそれでご自身の人生を無駄にはしないのでしょうか。
私は無駄にしました。21年の時間を無駄に費やしたのです。家族まで巻き込んでしまいました。その後悔がここの掲示板で書き込まれる「ご自身の信仰に悩まれる方へ」のレスになるのです。自分では体験者としての忠告のつもりです。

真偽未決書ですが「佐渡御書」の一節に

「今謗法の酔さめて見れば、酒に酔る者父母を打て悦しが、酔さめて後歎しが如し。歎けども甲斐なし、此罪消がたし。」

私の発言は先に酔いが醒めた者としての発言のつもりなのです。私は組織の実態をあげつらうばかりで先に進まない議論に対して、たしかに教義で議論すればと意見したことがあります。でも議論するなとは言ってません、誰にも掲示板での節度ある個人の発言を封じる権利などないと思っています。

私もこの掲示板で石山のまやかしを教えて頂いたひとりです。石山の大嘘振りには本当に傷付きました。関西弁でいうならば「一体何やったんや」という感じです。でも「“真実”に対して正直」でなければなりません。何故なら日蓮聖人のお教えを信じている信徒としての姿勢だと思うからです。道に外れた組織信仰に陥っている現代の日蓮信者を見て祖師はどう思われているでしょうか。「わしはそんなことは言ってないぞ」と言われているのではないでしょうか。
石山から聞いた日蓮聖人の教えは、本当の日蓮聖人の教えでは無いですから、真実の日蓮聖人のお教えについて、独歩さんと問答さんに教えて頂きたいと願った次第です。

また、組織から日蓮聖人を見るのでは無くて、日蓮聖人から自分の所属する組織を見ることで真実が分ってくるようにも思っています。
取り止めの無い事を書きましたが、そんな気持ちを込めてのいままでの私のレスです。

12やーこ。:2002/12/19(木) 19:25
こんなくだらない事でパケ代を使いたくはありません。
自分は、言い方が悪かったみたいですね。私が北朝鮮や戦争についてまたは各組織については一部の人に配慮をかけたものだと今感じておりますし、以前のレスも少しは考慮しての事です。
しかしメールのやりとりはロムしている方にとっては分かりにくいですし、私が指摘した発言というものはそれぞれ、単体のみで力を発揮し、確実に人を傷つける言葉だととらえます。
私自身過去にいじめを受け、またいじめられた方の相談に数多く素人風でのってきました。(続きはあとで)

13やーこ。:2002/12/19(木) 19:43
(続き)そんな私から見れば、まだやっているのですか→時代遅れをからかうことば、いい子ぶり→いじめの台詞の定番、自分の心配をしたら→若い女性や女子中高生にみられるからかいの台詞、ということです。私含め富士門流信徒は、御書や機関誌の暴言(教学に詳しいらしい学会員の指摘がありました)慣れしているので知らず知らずのうちに使ってしまう癖がある。要するに、内容としては認めるが相手と言葉を選べ、ということです。もっと別の言葉を使いませんか。それに、富士桜さん同様、進んで参加する人を支える者のひとりでもありますし、

14トゴシ:2002/12/19(木) 19:47
アレアレ、ほかんとこで「ここは被害者の会運動促進の掲示板ではあ
りません。以上」て、人を批判していた人が「いじめられた方の相談
に数多く素人風でのってきました」というわけ?
被害者運動の促進運動はだめで、いじめの相談経験はよいの?
自分勝手だな。それにあんたの言葉も十分に人を傷つけているんじゃ
ないの。
自分で言い出して「こんなくだらない」とかいうのも最低じゃん。
くだらないというのはレスした相手をくだらないといっているわけだし
さ。そういう自分のことはぜんぜん見えてないよねえ。

15トゴシ:2002/12/19(木) 19:49
富士桜さんて人は、あんたにかばってもらわなきゃなんない
弱虫なの?
自分のことは自分で言えばいいんだよ。
あんたがかばうと富士桜弱虫のレッテル張りになるよ。

16やーこ。:2002/12/19(木) 19:53
実際にカキコしていることと行動をとるのは違いますし、違うことをするのはご自分の自由だからノータッチの立場で来ました。なお、お二人がレスしづらくなった状況を攻めているのであって、ガンコさん他の味方をしているのではありません。
あしからず。

それと、性格が180度暗い方向に変わった今の私では、みかんさんご指摘の通り、富士門流の生き方にそぐわないと思います。ですのでカルト対策を除いては仏道から離れると思い、離脱を考えています。しかしながらやり残した宿題だけはしようと思います。五月雨さん、忘れてはいませんよ。

17トゴシ:2002/12/19(木) 19:54
いい子ぶりって、独歩さんに言ってたよね。
独歩さんて文章を読むとすごい大人に見えるけど、
あんた、こどもだよね。そんなこどもが大の大人に
いい子ぶるなんていうの、すっげえ馬鹿にしてる
ことになんじゃないの。
ちっとは字分の言葉を点検しなよ。

18やーこ。:2002/12/19(木) 20:03
トゴシさん。ここは富士門流信徒の掲示板で、被害者の会みたいなことをここでやるな、という事であって、被害者の救済にかんしては、別サイトでまれにレスしていますよ。
またこの掲示板にはそれぞれテーマ別にスレがあり、方向がずれたら、自主的に該当スレに移動または新しくスレッドをつくってやっているんですよ。被害者救済はここのテーマから逸脱しているんですから当然の事です。それから、私がかばっているのは富士桜さんが、とは言ってませんよ。私には同じ立場の同居人がいるので、同じ立場の人がいるというのを言った迄です。

19やーこ。:2002/12/19(木) 20:07
(続き)よく文章を読んでくださいね。また富士桜さんに弱虫とは何事ですか。

20トゴシ:2002/12/19(木) 20:08
ここのどこが被害者救済なのさ。
それに仮にやったからなんだっていうわけ。
「やるな」とは、なんだよ。
なにがあんた、そんなに偉いわけ。
なのに、いじめ救済はいいわけかい。

21トゴシ:2002/12/19(木) 20:08
富士桜さんが弱虫だという印象を与えている
のはあんただよ。

22やーこ。:2002/12/19(木) 20:18
それとトゴシさんに、誤解の無き用訂正いたします。すみませんでした。
くだらない→意味をなさない悪口の濫用に関するテーマの議論というくだらないもの

人や相手ではありません。テーマですよ。これ以上、論争がただの喧嘩になってしまわないよう、以上の回答を持ってトゴシさんの批判には答えないこととします。批判ご意見はメールして直接会いましょうよ。
仕事でスケジュール会わないかもしれませんがお待ちしてますよ。

23やーこ。:2002/12/19(木) 20:36
トゴシさんの批判には答えない、に、掲示板では、を入れてください。
また私は仏道主義に反して、いきる権利があるなら死ぬ権利を認めたい立場になったので。

24やーこ。:2002/12/19(木) 20:41
だからここから離脱しロムする事となったのです。俺の生き方だけの問題で、自分だけの世界にとどまる選択をしました。これが正しい、二十一年生きて無駄だった。自分の存在は邪(よこしま)だった。さようならみなさん。ありがとうございます。これがOFF会後さんざん悩んだ後の答えです。なお私のここでの発言は三日たったら消去してください。

25富士桜:2002/12/19(木) 20:48
やーこさん、トゴシさん。
ちょっと待った!
今晩まとめて書き込みます。仕事から帰って来たばかりなので
取急ぎ書き込ませて頂きます。
.
やーこさん、本当に沢山の御気使いありがとうございます。
こう言った経緯になると予想もしていませんでしたので、自分自身びっくりしているのですが
今度は個人的にではなく、これ以降はすべてここに書き込みます。
大変わかりづらい所はあったかと思います。心からお礼とお詫びを申し上げます。
.
トゴシさん
自分はあなたの言う通り弱虫だと思いますよ。良い子ぶっているのかどうかは別として、少なくともこの掲示板は
他の掲示板とはちょっと違う所と言う印象はありました。いい意味でですが。
発言に関しても、差し支えないかな。。。と思う所だけに書いて来たつもりです。
何にしても、ごちゃごちゃせず、きちっと書き、けじめ取りますから、良い子ぶりだの弱虫なんだのは結構ですが
今後の応酬は自分宛にして下さい。
これも良い子ぶりなんですかね。書き込んでいてなんだかわからなくなりそうですけど。(笑)

26犀角独歩:2002/12/19(木) 21:46

トゴシさん、ありがとう、でも、もうやめてください。
私もかばっていただくほど、弱虫ではありませんので。
また、富士桜さん、この文章のいちばん、最後に問いかけています。読んでもらえれば有り難く思います

他のROMの方にも誤解があるようなので、私は私で書かせていただきます。
以下は、まあ、菊水護国さんの所のような例外の話ではなく、私が見聞した石山と法華講の本音の部分です。

私は過去2年間、最初は問答名人さんや、アネモネさんなどに対して、続いては五月雨さんなどにも、そして、いまなんだか話題になってしまった好青年・富士桜さんなどにも「やめたほうがいい」ということは、ずっと言い続けてきました。
しかし、それが、ここのところ、どうも誤解を受けているようなので、どうして、そう言ってきたのかという点を記しておきます。また、この投稿が法華講連合会で読まれ、何らかの啓発になればと思い、記し置くものです。

私が学会から寺院に移講したのは平成2年のことでした。思えば、もう干支が一回りするほど昔のことになったのだという感慨があります。

入講した時、私は住職に「お陰様で法華講になりました」、こう挨拶をしたのです。
すると、住職は、笑みを含みながら、「法華講というのはな、もう何百年も、代々日蓮正宗の檀家だった人のことを言うんだよ。昨日今日、講に入ったからって法華講なんて言わないよ」と言ったものでした。住職の笑みとは裏腹に私はちょっと納得のいかないところが残ったわけです。しかし、指導教師の“お言葉”ですから、素直に「はい」と頭を下げたものでした。

その後、それこそ四六時中、寺に泊まり込むような超多忙な日を過ごすことになります。これはもはや筆舌に尽くせない忙しさでした。その頃、支部登山(お目通り登山)、教学試験などの仕組みを構築するために連合会にも出入りするようになっていったのです。

ある時、古参の法華幹部が私を指さして、「学会出がでかい面するんじゃないよ」とこう言ったのです。私はこの性格ですから、黙って聞いてはいません。「何ですか、その言い方は!」、すると、その人間は不敵の笑いを浮かべて「学会の家なんかに生まれたのは前世に信心がなかったからだよ。前世でもちゃんと信心をしていれば、法華講の家に代々、生まれるんだよ」と、吐き捨てるように言いました。
かなり、頭に来ましたが、場所は寺院、それ以上、言い争うのはやめにしたわけです。

まあ、それでも連合会の仕事も徐々に増える傾向となっていきました。
私は役が欲しくてやっていたわけではありませんでした。ご奉公であると思えばこそ、一所懸命にやっていたわけです。

ところが「あんた、やっても無駄ですよ」と、こうある法華講幹部が私に耳打ちしたのです。「法華講というのは“法華講”しか信用しないし、登用しないんだよ」と。

「私だって、法華講…」と反論しようとしたとき、私の脳裏を住職の一言がよぎりました。「ああ、そうか。ここは生まれながらの法華講以外は法華講としてなんか見ていないのだ」とすべてを了解したわけです


さらに、これに連合会では本行寺閥というものがあるわけです。
かつて顕師がいた、そして柳沢さんが赤いバイクで走り回った時から人脈です。
これがすべてを握っているわけです。

はっきりと書いておきますが、この生まれながら法華講幹部という連中は、中途から入ってきた学会出を、前世の行いという因縁論でもって見下していると私には思えます。

さらに坊さんに至っては過去世の行いが良かったから坊さんの家に生まれたと本気で、…もう一度書きますが…本気で思っています。

つまり、いちばん過去世の行いが良かったのが「猊下」で、続いて、坊さん、それに続いて、生まれながらの法華講の、それも幹部と彼らは思っているというわけです。前世の行いが判断肢になっているのですよ、これが。こんな神経をした連中の下で、使われる「昨日今日法華講になった」人々、特に「学会出」は、彼らから前世から見下された上で、使われているわけです。

こんなところで、「法華講の活動をすることが信心だ」などと考えて、自分を酷使しては自分が可哀想というものだと言うことです。

そんな事情がわかっても、それでも、法華講役員に従っていた自分を思い出すと、実に慚愧の念に絶えないのです。ここから出た言葉が富士桜さんに向けた言葉でした。
まあ、過ぎた言葉であると富士桜さんが思うのであれば、私はお詫びすることは吝かではありませんよ。しかし、忠告もいけないと言われるのは私は心外ですが。

27五月雨:2002/12/19(木) 21:46

やーこ。さん

何があったのですか、よく分らない展開になっていますね、ちょっと理解出来ません。

自分が言ったことに関して、思わぬ方向から批判されて違う点があれば反論するのは、これは大人の反応でしょう。反論されてご自身に納得がいかなければ再度言葉を継げばよいのです。

トゴシさんの言うのは、少し言い方はきつい点もあったかと思いますが、それはそれで彼の考えです。

反論されたらお互いに納得がいくまで話合うのが、この掲示板の在り方だと思います。

反論されたら人身攻撃に移るというみっともない御仁も、確かにいるのはいますけど、それはその人自身がご自分の不徳の致すところと気がつけば良し、気がつかなければご自身の人生のマイナスだということでいいのではないですか。

>お二人がレスしづらくなった状況を攻めているのであって

とやーこ。さんは書かれていますが、それはその人達の問題なのですから、やーこ。さんがいくら心の優しいお嬢さんであっても同情などする必要はかけらも無いでしょう。
どんなお二人かは知りません、でもいい歳した大の大人でしょう。ご自分で解決する問題では無いですか。やーこ。さんの同情心はもしかしたらこのお二方には必要がないかもしれませんね、解決出来る大人を捕まえて余計なご心配だったのではないでしょうか。

やーこ。さんはまだ若過ぎるのですね、私にも、やーこ。さんと同じ時がありましたら言わせて貰いますね。そしてやーこ。さんよりもうんと長く生きているからもうひとつ言わせて貰いますね、人の意見に耳を傾けて、話を聞いて否定は後からしましょうと。

>しかしながらやり残した宿題だけはしようと思います。五月雨さん、忘れてはいませんよ。

やり直した宿題?五月雨おばちゃんはすっかり忘れています、何でしたっけね。

ね、歳を取るとこうなってしまいます、嫌になってしまうけどこれも自然の摂理かな。
やーこ。さんはまだ若いのですから、その柔軟な思考でいっぱいいろいろと考えて欲しいと思います。自分の頭で考えて下さいね。

やーこ。さんの詳しい状況が分りません、私でアドバイス出来ることでもあれば、どうぞ私にメールを下さいね。

28富士桜:2002/12/20(金) 00:42
実は、ようやく書き上がった原稿を書き込もうとしたら、長過ぎて入れられませんでした。
ところが、このようなお返事を頂いていた事に気が付き読みました。
また違う内容にはなっているかとは思いますが、このレスに当てたものではないと
御了承ください。特に法華講連合会の所は内容と附随しないかも知れませんが入れておきます。
そして、自分はけして好青年とは思えません。何をもって好青年なのか。

29富士桜:2002/12/20(金) 00:46
: 犀角独歩さん
.
まず、このような内容での書き込みに際し先に記された文面において、意味合いがまがってしまっている箇所が見受けられます。
.
>私が石山の30万登山等において、単なる労働力にされているだけである、それは信心とは関係のないことであると、どれだけの時間と文章量を割いて書いてきたか、あるいは個人的に受けた電話、メールでもその点については、何度となく記してきました。
.
自分が個人的に独歩さんからメールを頂いた事は三度あります。
そのうちの二つは電話番号、アドレスに関しての事です。
個人的なお返事として書かれているものは一度だけです。
.
また電話の件ですが、今夏に1度だけです。
自分の携帯電話から電話させて頂きました。ですが、その内容は30万登山などには全く関係のない内容であったと記憶しています。
また、掲示板でも30万総登山に関して自分は独歩さんと議論した事はありません。
登山参詣に関し、昔の参詣の仕方はこうだった、的な発言にレスを入れた記憶はあります。
.
その中で「距離を置く」事をアドバイスして頂きました。
のめり込むような事は危険だと言う趣旨のお話をして頂き
「それは思い当たる節があるな」と自分で納得をし、了解した事はあります。その他は自分の恋愛の挫折に至る心境をアネモネさんも含めお話を頂いきました。
.
>その結果、ご本人が「わかりました」という返答をもらっていた。
それなのに、それまで、長い時間と文章量、電話などを通じて話し、納得したという本人が、そんな私とのやりとりがなかったような投稿をすれば、「まだやっている?」という驚きの返信になるのはむしろ当然のことです。
.
このようなお話の内容になりますと、まるで自分が独歩さんとのアクセスを全く無視した成りゆきになってしまいます。
もちろんこの掲示板でのお返事も頂きましたが、自分もあまり書き込まないせいなのですが、沢山議論までも行かなく、この一連のやり取りで全て独歩さんの考え方を理解するには無理なお話です。
自分の方こそ「なんでそこまで言われるんだろう?」と逆に思ってしまいます。「いじめ」に捉えられ気味なんですが、そのように捉えられても仕方のない内容での批判ではないでしょうか。
.
もし、これこそ正当と言えるのでしたら自分も今後はレスも一切せず、オフ会にも参加しませんし、ここを見ないよう「お気に入り」からはずしますのでロムもしません。

30富士桜:2002/12/20(金) 00:49
.
>まあ、過去のたくさんの投稿を読んでいない人、読んでも左の耳から右の耳に抜けてしまう人には、自分の気に入らない言葉だけが残るのでしょう。そして、当人すら、「反省」と言ったことを脇でケチをつけるわけです。だから、私は言われる筋合いはないと言うことになります。
.
この「ケチ」とは先に個人的にお送りしたメールの事でしょうか。
一部抜粋し載せます。
.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
独歩さん
お久し振りです。
富士門流信徒の掲示板で自分へのお返事ありがとうございました。
大変に厳しく、痛い言葉ではあったのですが、なぜかわかりませんが、暖かく感じました。
こうしてメールにてのお返事は、公の掲示板ではお話に水をさすような気がして個人的にお送りしました。
.
>富士桜さん:
まだ、法華講に会合参加に拘っているんですか。
.
はい。
月に一度は必ず登山に行っています。連合会の会合などは出席していませんが今年最後の登山参詣と思い約束したのがこの日でした。
たまたま、こういう行事があると御住職にお聞きしましたので、じゃあ、と参加する事になりました。
.
>そんなもの、出て何か意味があるんですか。
.
わかりません。。。
ですが、何度も出た事はないので、どのような事が行われるかの趣旨もよく聞いていませんでした。
折伏してもらった先輩と一緒に行く事になっていますが、ここしばらくは個人での登山だったので、しばらく振りに一緒に行こうか、と言う話になりました。
問題は、この自分の「何があるのか?」と聞かれ「なんだかわかりません」と答える所にあると思います。
.
自分は独歩さんの書き込みのファンです。
なぜにここまでインターネットの文字だけで、ここまで人を動かせるのかと。ある時は怒りの鉄槌を下す書き込み、ある時は涙がでるほど優しい言葉。この人の根底には何があるのか、とずーっと思っていました。
.
自分が独歩さんに興味があったのは
「過去何があったんだろう」
と言う事でした。
幼い頃から、創価学会で行動し、脱会後、法華講での活動。
その何十年間の中で、今に至る心境を四月のオフ会の時には聞きたいと思っていましたが、緊張してうまく聞けませんでした。(笑)
ただ、種々の書き込みを読ませて頂いて、到底、議論にはならないと感じていました。
これは感覚的なものでしかないんですけれど。
.
独歩さんはその何十年間に渡り、現在に至る答えを、今信心して三年もしない自分には等身大の言葉では聞けないのです。
どうしてなのだろう、と考えても、どうしてもある意味、神格化して聞いてしまいます。オフ会の時、以前電話でお話して頂いた時。
未だにこうして独歩さん宛にメールを打つ事も、なんだか憧れの芸能人に送っているような感覚があるんです。

31富士桜:2002/12/20(金) 00:50
どうしても、自分が「こういう風に話したい」と思う望みばかりで、例えば問答名人さん、菊水護国さん、五月雨さん達のように話せないんです。
.
自分はなんらかの劣等感を常に持っているのが強すぎるせいなのでしょうか。自信がない、まして、こんなたいした勉強もしていない自分が対等に話など出来る訳がない、と、感じてしまうんです。
.
こういう言い方をすると「何を言ってるんだ?」と思われるかも知れないですが。
相手を何も言えないくらいの勢いで負かせるその言葉の圧力を、自分は脅威とも取れるんです。
独歩さんに賛同してもらえるお話でしたら、安心して書き込めるんですが、何か独歩さんの逆鱗に触れるような書き込みをすると、言葉を失うほどの返答が帰って来ます。
また、数々のやり取り、議論を見ていてその論陣を張るには、他を寄せつけない気迫はだれよりも感じます。
何人もの方々が独歩さんと議論して来て、明らかに独歩さんは、理論明解でねじ伏せた方々は、独歩さんに賛同するか、消えて行くか、しか選択権はないような気がします。
もちろんそれが論戦なのでしょうけれど。。。
当然、そんな戦わずして負け犬の遠ぼえのような声に聞こえるかも知れません。
.
日蓮正宗を否定しながらのお話に進めないと、何も言えなくなる状況に今はあると思います。別格なのは菊水護国さんだけで。
その他の自分を含めた法華講が情けないだけなのでしょうけれど。
.
以前「距離」を置くように言われましたが、確かにその通りな状況が自分の回りでも起こって来ました。距離を持たなければ、カルト宗教を始めたと勘違いされても仕方のない状況に今現状陥っています。
現実的なお話ですが、仕事場では「俺は日蓮正宗だ。創価学会はあほたれ集団だ。」な内容の話をしていると、仕事場の中に、隠れ学会が居て、「富士桜は最悪なやつだ。精神世界のレイプだ」と振りまかれ、現在は職場でも疎外されるほどに陥ってしまいました。
自分が原因なんですけれどね。
.
お話があちこち飛んでしまいました。すいません。
.
>集団の中で好い子に振る舞うこと、組織の中でいい人と思われるように振る舞うことに拘っていませんか。
.
お寺でも、以前お話した通り、元彼女を心配して頂いているJの0さんなどは、あまり口も聞いてくれませんし、良い子で振る舞おうと何をしようとも変わりません。特に連合会など、知り合いも居ませんし、組織の中で信心している感覚はありません。
所属しているお寺のせいかも知れませんが、講頭さんや役職の方々なんかにもうるさく登山参詣はまず言われません。
言われるのは御住職に言われるだけです。
特によく思われるような行動はないと自分では思っています。
.
>仏様に対して、素直であることが大切なのですよ。
.
簡単な言葉がこんなに難しいと感じた事はありませんでした。
自分は大聖人が御本仏と言う考え方から変わっていません。かと言って釈尊に素直に。。。と思っても対象がわからないんです。
でも、これも感覚的なのですが、この言葉が一番暖かく感じました。
シンプルですが、仏様と言うより、今は自分に素直になりたいです。
.
てんでんばらばらなお話になってしまいましたが、お許し下さい。あまり他の方々に知られたくない内容もありましたので、メールにて書き込ませて頂きました。
.
実はマンションを購入しまして、色々手続きが重なり、仕事もやんやと忙しくなり始めました。ですがよろしかったら、あの内容の通り今度のオフ会にはまた参加させて下さい。
.
それでは失礼します。
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富士桜
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以上、先にお送りしました個人的にお送りしたメールの内容ですが、細かい個人的な名前などは差し控えさせて頂きました。
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この中での文面から「顔色を見ないで投稿しよう」と言う内容を独歩さんが書かれていた事を見ました。
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しかし、一度だけ自分にお返事を書いてもらったメール内に独歩さん御自身が日蓮大聖人の再誕を思わせるような内容があった事を覚えていらっしゃるでしょうか。
そのような内容を自分宛にして来られた訳です。
当然、「もしかしたら本当にこの人は・・・」と思う所もあり、自分は別視していたのかも知れません。
それは、独歩さん御自身が気が付かない、身の覚えのない成りゆきかも知れませんが、そのように人を威圧する空気を持っていらっしゃる。そう書き込んだ内容のメールです。

32富士桜:2002/12/20(金) 00:51
特に、日蓮正宗御僧侶、法華講に関しては、裏側を暴露するような内容も時として見受けられますが、独歩さんが言う言葉は自分に取って、脅威に感じる事は確かです。
なにしろ法華講の元大先輩なのですから、思い当たる節は時として
「あれ?」となる場合はあります。
実際、最近は無くなりましたが、御開扉、内拝も「これって・・」と教本も見ずに、もやもやした気持ちで過ごす時もありましたし、御住職とお話している時でも変な心境になっていた時もあります。
良い子ぶる訳ではないのですが、これは独歩さんのせいではなく、自分がそのように動揺している気持ちでそうなっただけです。
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ですが、たかだか一人でも自分のような信徒が独歩さんの言葉で動揺する場合。それは個人の問題で預かり知らぬ所ではあるでしょうけれど、特に御自身が所属されていた場所の裏側を語るのは危険だと思います。
もっと言えば筋ではないと申します。
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もし、昨今このような内容を書かれるのでしたら、直接に所属の寺院に言うべきであって、インターネットで情報を開示するにはそぐわない内容だと思います。これが独歩さんの言う書き込みや、意志の自由をうたうのでしたら、日蓮正宗御僧侶がいらっしゃる掲示板(あるかどうかわかりませんが)
で、またはここへ御僧侶の方に書き込んで頂き、大石寺の意見も正当に出せる場所においてのみ可能だと思います。
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自由と言えばとかく何でもそうですが、御自身の所属して、自ら登山会を最初に形付けて行ったと自負されるのでしたから、この法華講の登山参詣が全く無意味な金もうけ主義の悪しき体質と、言うのも自由ですが、独歩さん達が形付けて行った登山会が未だに行われている事。それを知らず自分を始め新しく入信して来た人間は、当たり前のように登山しています。その事体をまずインターネットで非難するよりもなんらかの行動で改める事であると感じます。

33富士桜:2002/12/20(金) 00:52
ちなみに。
自分はとある有名な牛丼屋さんでバイトを数年していました。
そこの肉は、牛は牛でも訳わからない牛の肉でした。最近ではうるさくなって来て、検査も厳しいらしいですが。
そんな事もつゆ知らず、大勢のお客さん達はそこの牛丼を食べて行きます。
時には飛んで来たゴキブリや虫が大鍋の中に舞い込んできましたが、お構い無しで「はい!並一丁!」と出していました。もちろん虫は取りますが。
そんな実態でも、忙しい時間帯は平気でやっていました。これは店長も暗黙のうちです。ゴキブリや虫が入ったからと言って、忙しい稼ぎ時の時間に
「すいません、ただいま虫が入った為作り治しております」
なんて言える状況ではないくらいの忙しさです。
そんな牛丼を食べているお客さん、時には女の子なども、見ていて
「よくこんな牛丼食べるよな〜」
と思っていました。それもそのはず。知らないんですから。
そんな事を繰り返していると、新しい店長に変わり、同じ事をしていたら
「何を考えているんだ!時間がかかっても良いから捨てろ!やりなおせ!」
と思いっきり怒られました。
さらに
「自分が食べると思って作ったら、そんなものは出せる訳がないだろう!金を貰っているんだぞ、こっちは!」
と、むちゃくちゃに言われました。
その時に、自分のやって来た事が、なんてひどい事をして来たのか気が付きました。そこからは、どんな事があっても時間がかかっても作り直ししてお出ししました。後から入って来る後輩にも、自分が指導した記憶があります。もう何年も前の話ですが。
よく考えれば、と言われなくても、当然の事なんですけどね。
言うだけならいくらでも言えると思います。
もちろん、このお話も嘘か本当かわからない話かもしれません。
ただ、そこの店の看板を汚すのは簡単ですが、自分自身の中で、今でもそこの牛丼屋さんで安心して食べられるのは、そのような厳しき中にも正当な事を当たり前のようにこなす店長のいる店だからです。それを自分は知っているから食べれます。
もし「ふざけんな!忙しいのに、んなことやってられるかよ!」と反抗していたら首になっていたでしょう。
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牛丼屋の自分の話とリンクするのは不本意ではあろうかとは思います。
ちょっとした経験からの自分なりの話ですが。
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意を決して大石寺を背にしたのでしょうから、ただ単に大石教学を批判するだけでは済ませれない独歩さんの連合会役員の責任はあるのではないでしょうか。正式には破門もされていなければ、通告もなされていないと聞いてはいましたし、御自身も日達上人書写の御本尊に手を合わせていると書き込まれていましたし、自分も聞きましたし。
本当に離れたのでしたら、その御本尊様は御山に返却するのですよね。
なぜ返却さないのですか?今の日蓮正宗は血脈も相乗もなにもうそっぱちなんですよね。何故なんですか?そこは個人の自由とは思えないのですが。
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とりあえず、独歩さんの顔色に関係なく書き込みました。
最後に、どんな宗派も自分は葬儀で関わって来ましたが、日蓮正宗に所属した事を後悔はしていません。良かったと思います。未だに。
日蓮正宗がカルトなら、もっと問題にされる宗派は沢山ありますけれどね。仕事上での経験ですが。
以上です。

34犀角独歩:2002/12/20(金) 02:40

富士桜さん:

かなり長い書き込みで、全般的にカバーできるかどうかわかりませんが、特に気になるところをカバーします。

「顔色に関係なく書き込みました」ということですが、ここで、多岐に亘って、私を批判したわけですから、その部分に関しては責任をもってこちらのレスに応えてください。
その覚悟があってのことでしょうから。

まず、いちばん大きなことは富士桜さんのなかでとらえられた私は実際の私ではないこと、かなり、あなた自身の解釈が入っている点、この誤解を私の考えとしたことには私は大いに抗議をします。

> 独歩さん御自身が日蓮大聖人の再誕

こんな馬鹿なことを言うわけはないでしょう。
第一、私は日蓮の無謬生を否定したわけです。日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である、このように記したわけです。
しかし、このような日蓮の実像を明らかにする責任を過去40年の信仰生活のなかで私は負ったということを言ったかも知れません。事実、そう思っています。

> 今このような内容を書かれるのでしたら、直接に所属の寺院に言うべきであって、インターネットで情報を開示するにはそぐわない内容だと思います。

これは富士桜さんの考えであって、それ以外の考えを排斥する根拠は元よりないでしょう。私は開示するべき内容であると判断するが故に記しているのです。見解の相違というのです。決めつけないでいただきたい。

> これが独歩さんの言う書き込みや、意志の自由をうたうのでしたら、日蓮正宗御僧侶がいらっしゃる掲示板(あるかどうかわかりませんが)

ここの掲示板では少なくても5人の石山僧侶と、7人の日蓮宗僧侶が閲覧しています。
これは個人のプライバシーに関わることなので、その名前は記しません。

> で、またはここへ御僧侶の方に書き込んで頂き、大石寺の意見も正当に出せる場所においてのみ可能だと思います。

その書き込みは当人の自由意志に基づくのであって、書き込もうが書き込みをしまいが、それは各人の勝手です。

また、論点を変えれば、私が石山に異があり、例えば『大日蓮』『大白法』に、私の考えを掲載するように希望したとき、それが掲載されるでしょうか。それは不可能でしょう。私とは意見を異にするけれど、例えば今泉さんの意見が正当に扱われたことがあったでしょうか。「批判する相手のいない場所での批判」という点で、私を批判をしているとお見受けしますが、何より一方的なのは常に力を持った団体のほうである点が見落とされています。

> 意を決して大石寺を背にしたのでしょうから、ただ単に大石教学を批判するだけでは済ませれない独歩さんの連合会役員の責任はあるのではないでしょうか。

誤解があるようですね。私は先の投稿でも記したように、生まれながらの法華講ではありません。それ故、連合会役員を歴任した経験はありません。
このような読み違いによる批判の責任をあなたはどう取るのですか。

> 正式には破門もされていなければ、通告もなされていないと聞いてはいましたし、御自身も日達上人書写の御本尊に手を合わせていると書き込まれていましたし、自分も聞きましたし。本当に離れたのでしたら、その御本尊様は御山に返却するのですよね。
なぜ返却さないのですか?今の日蓮正宗は血脈も相乗もなにもうそっぱちなんですよね。何故なんですか?そこは個人の自由とは思えないのですが

相乗は相承のことであると思いますが、この点は他で書いていたと思います。漫荼羅書写と相承は別問題です。私は自身に貸与された漫荼羅は過去30年間、護持してきたのです。30年、この時間を苦しみも悲しみもこの漫荼羅と過ごしてきました。書写の達師自身、既に鬼籍に入っています。その漫荼羅を返却しようがしまいが、それは私の意志に基づくものです。「相承を否定したら返すべきだ」という前提に基づいて返却しないことに非があるように語るあなたの論調は石山義に基づく押しつけでしょう。ここを個人の自由意志で考えて何が悪いのですか。こういう頑なあなたの考えは間違っていませんか。

> 日蓮正宗がカルトなら、もっと問題にされる宗派は沢山ありますけれどね。仕事上での経験ですが。

そんなことはわかっています。しかし、自分が過去40年間関わってきた団体が日蓮正宗創価学会であったこと、また、ここが富士門流信徒の掲示板であることに基づいて、ここで、その功罪を考えることにどのような問題があるというのでしょうか。

35犀角独歩:2002/12/20(金) 03:05

―34からつづく―

「好青年」という表現が気に入らないようなので、これは撤回しましょう。
しかし、あなたが私のファンであるなど言う文面をここに記された点は、私にとっては極めて不快です。取り下げてください。

ここで私は真面目に日蓮を考えているのです。人に評判を得よう、人気を得よう、賛同を得ようなどという姑息な考えは元よりないからです。

> 意味合いがまがってしまっている箇所

このような表現で一方的に批判を受けることを潔しとしません。
私は記述のとおり、あなたに話したつもりですが、そうはとられなかった。
つまり受け側の受け取り方と私が意が異なったのでしょう。それを「まがった」と記述されることには不快感が伴います。

しかし、オフ会、電話で話した内容について、ここで「言った言わない」は記しても、元より、取られ方が“ずれて”しまうわけですから、水掛け論になるでしょう。故にここに記した内容に基づく以外にないことになります。
このような文面ではじめる文章は、それなりの意図に基づくと残念に思うばかりです。

> この「ケチ」とは先に個人的にお送りしたメールの事でしょうか

違います。今回のやーこさんの私への批判について言ったことです。
邪推をしないでください。

> 別格なのは菊水護国さんだけ

別格という表現は私は違うと思います。
菊水護国さんは議論をする当然のルールを守っているのに過ぎません。
このやり方は私は正しいと思います。
見習うべきでしょう。

> 理論明解でねじ伏せた方々

この表現も勝手な感情が入っているでしょう。
私は誰もねじ伏せて等いません。
何か主張するのであれば、その根拠を求めてきたのに過ぎません。
根拠を応えられず、根拠曖昧な主張は、文章として成り立ちようがありませんから、引き続きの投稿が不可能になっただけでしょう。通常であれば、そこで自らの非を認め謝罪すべきところ、そのあるべき潔い態度を取らず、黙ることで自分の考えを温存したのに過ぎないのでしょう。何で、そのような人たちの斯かる行動にまで私が責任を取らなければなりませんか。


さて、今回、私が投げかけた投稿上の疑問は以下の部分だけです。

>集団の中で好い子に振る舞うこと、組織の中でいい人と思われるように振る舞うことに拘っていませんか。

となれば、直ちに以下の文章を記せば、それで終わったのではないでしょうか。
何をこんなに長い批判文を寄せる必要があるのか、この点では私は理解に苦しみます。

> 「お寺でも、以前お話した通り、元彼女を心配して頂いているJの0さんなどは、あまり口も聞いてくれませんし、良い子で振る舞おうと何をしようとも変わりません。特に連合会など、知り合いも居ませんし、組織の中で信心している感覚はありません。
所属しているお寺のせいかも知れませんが、講頭さんや役職の方々なんかにもうるさく登山参詣はまず言われません。
言われるのは御住職に言われるだけです。
特によく思われるような行動はないと自分では思っています」

そして、このように返されれば、私は単に「そうですか。好い子という言葉は不適切でしたね。お詫びします」と終わったことでしょう。

36犀角独歩:2002/12/20(金) 03:21

> 独歩さん達が形付けて行った登山会が未だに行われている事。それを知らず自分を始め新しく入信して来た人間は、当たり前のように登山しています。その事体をまずインターネットで非難するよりもなんらかの行動で改める事であると感じます

この点でも、私の文章を読み違えています。
私(たち)はまだ支部お目通り登山というものがなかった時代に、自分たちの赤誠から、一度だけというつもりで、そのような登山会を企画して行ったと記したのです。その後、、連合会主導で支部登山が定例化したのです。

連合会が定例化したことに、私が何の責任を負うというのでしょうか。
的はずれの批判にも程があります。

…以上、なんだか長い文章で取り留めがなく、故に取り留めのない言葉を返すしかありませんでしたが、まとまった富士桜さんの文章を読んで、私がいちばん感じることは、私の記したことを自分のなかで自分の考えで解釈し直し…この時点で私の考えとは違ってしまっています…、それを恰も私の考えのようにして、批判を加えているところが目立ちます。
これは通常、議論をする上では大きなルール違反でしょう。
しかし、斯かる事態が、何故起きるのか。それを私なりに考えると、あなたは考えを心のなかにためすぎるのではないでしょうか。そのために、それが心のなかで一人歩きして変質していってしまう。その変質したものを相手の考えであると勝手に決めつけてしまう、そんな状況があるように見えます。

今回、私は自分の名誉のために…あなたの言葉を使えば…まがっている部分に関しては、その考え違いを記し、さらに反論を加えました。ため込めば、また、変質していってしまうでしょう。ですから、ただちに応えていただきたいと思います。

何よりも迷惑なこと、それは私が考えてもいないことを考えているように言われ、書いてもいないことを書いたように言われることです。その典型が、私が日蓮の再誕であると記した如き文面です。

しかし、このような掲示板は、単に自分の考えを押しつけ合うことは愚です。
語り合うことで、不明であった点を明らかとし、日々、自分の考えを改めていく利用の仕方が健全なのです。そのようにしませんか。ため込み、いつしか怨念に変質するような在り方は、ストレートに記せば、愚かなことです。であれば、賢明な使い方に切り替えればよいだけのことでしょう。

まあ、まだ文句が言い足りないのであれば、どうぞ、もっとお記しください。
しかし、違う、変質したと思う点は、また、私も歯に衣を着せず、反論するべきはします。けれど、元より、怒り、恨み、憎しみは生じません。どうぞ、お気軽に。

37犀角独歩:2002/12/20(金) 03:56

―36からつづく―

もう一点だけ。
既に成人として認められ、あなたの記述に従えばマンションも購入するという大人が

> 「いじめ」に捉えられ気味…捉えられても仕方のない内容での批判ではないでしょうか。

などという被害者ぶった発言は、私は見苦しいと思います。
私は今回、大いに曲解した独歩像を、ここに長々と記され、正直、言えば気分は悪い。
しかし、だからと言って、これを「いじめ」であるとかなんとかとは思わない。
誤解があるのであれば話し合おうと思うだけです。

文句があれば、堂々と言えばよいのです。それを、私に言えない雰囲気があるだ何だと記して反論できないことまで私にかぶせて「いじめ」とは何たる言い方かと思うわけです。
反論があれば反論していただければよいのですが、どうもあなたの言葉には怨恨と被害者意識がついて回ると感じるのは私の思い過ごしでしょうか。そんな個人的な感情の責任は、その個人が負うものではないのかと私は考えると記しておきます。

38犀角独歩:2002/12/20(金) 04:31

まだ、ちょっと書き足りないので記します。

> 日蓮正宗を否定しながらのお話に進めないと、何も言えなくなる状況に今はあると思います。


別段、そんなことはないでしょう。肯定するのであれば、その根拠を示す、否定するのであれば、その根拠を示す。そう言った単純なやり取りでしょう。
ただし、今の流れでは肯定者側が説得力のある根拠を示せない、そのために流れは否定的になっているというだけのことです。肯定したいのであれば、斯かる根拠を示せばよい。それだけのことです。

もう一点。

> 御自身が所属されていた場所の裏側を語るのは危険だと思います。
もっと言えば筋ではないと申します

これは私が判断することで、筋だ何だといわれる批判される筋はありません。
危険であるというのはまったく、私はそうは思いません。
仮に裁判になれば、それなりの資料はすべて用意してあることを記していますよ。

なお、富士桜さん、あなた人には厳しく自分に甘いんじゃないですか。
自分が所属していた裏話を書くは危険で、筋ではないと私を批判しましたね。その当人が

> 自分はとある有名な牛丼屋…訳わからない牛の肉…ゴキブリや虫が大鍋の中に…お構い無しで「はい!並一丁!」と出していました

あなたは、この有名な牛丼や“所属”していたことにはならないのですか。また、ここで記したことは裏話も裏話、危険も危険な話ではありませんか。あなたの素性を知っている人が「この牛丼屋は○○のこと、店は○○」と特定されないのでしょうか。

ここは富士門流信徒の掲示板ですね。
ここで牛丼屋の危険な裏話を書くことのほうがよほど筋ではないのではないでしょうか。

もう一点。

> 日蓮正宗に所属した事を後悔はしていません。良かったと思います。未だに。

ですから、どんな感情を抱かれようとそんなのはあなたの勝手です。信仰は自由なのですから。ということは、私のように「日蓮正宗に所属したことを後悔している。悪かったと思っている」という反対の立場があってもよいことを意味します。しかし、後悔の場で、それを論うのであれば、最低限、根拠を示すというのがルールだとここでは論じられてきたのでしょう。そのルールをあなたは、いとも容易く犯しています。

ここは、そんな良かった悪かったの感情論を話すという性質より、信不信に跨る日蓮正宗とは、なかんずく富士門流とは何かを冷静に話し合う場所なのでしょう。

結局のところ、あなたは「日蓮正宗に所属してよかった」という立場から、悪かったという私に感情的に反発しているのに過ぎないのではないでしょうか。

そして、その自分が所属して良かったと思う団体の悪口を書くべきではないなどと規制を加えているだけとしか映じないわけです。

そうではなく、もし、良かったというのであれば、何が良かったのか、また良かったというものが、どのような根拠で正しいと言えるかという点について論じ合うのがこの場所ではないのですか。

単なる組織の弁明など、個人から聞いても、意味はありません。個人は組織の代理人として用をなさないないからです。用をなすもの、意味があるのは、その根拠です。
「良かった」というのであれば、根拠を示してください。私が「悪かった」根拠を示してきたように、です。

まだまだ、言いたいことはありますが、まあ、今朝はこれでやめておきます。

39問答迷人:2002/12/20(金) 07:44

113051 ゲットしました。

40犀角独歩:2002/12/20(金) 08:46

管理人さん:

退去の自分に斯かる記述が載ったために、それに反論せざるを得ず、当スレッドの「会話、議論の応酬は避けましょう!」という規約に違反することになりました。

慎んでお詫び申し上げます。

41犀角独歩:2002/12/20(金) 09:06

40 退去 → 大挙 です。

42犀角独歩:2002/12/20(金) 09:35

ここの掲示板を「富士門流信徒“だった人の”掲示板」になっていると指摘された方がありました。

この原因は富士門流信徒だった人の発言のほうが強いからでしょうか。
かつて、私も富士門流信徒だった一人として、思うのですが、いまだに石山門流信徒である方々は、何故、その信仰の根拠を示さないのでしょうか。

戒壇之漫荼羅は疑わしいと言われれば、真筆である証拠を示せばよいのです。
唯授一人は疑わしと言われれば、事実である証拠を示せばよいのです。
真偽未決・相伝書が日蓮の教えでない言われば、その証拠を示せばよいのです。
法華経は後世の創作であると言われれば、釈尊の真説である証拠を示せばよいのです。

そのようなことを一切せず、感情的になり、被害者意識を募らせても意味はないでしょう。少なくても日蓮の教えが折伏であると信じ、さらに三証をもって決することを知っているのであれば、その日蓮の如くにすればよいのでしょう。

ここでは賛成派も反対派も、その論拠を示すことによって、やってきたはずです。
それがいつの間にか、感情論になっていることを残念に思うものです。
論拠を示し合うなかで、論拠を示せない方が、相手を詰るのでは見苦しい、そのような個人攻撃をするのではなく、事実は何かを探るために、論拠を示せ合えばよいのでしょう。ここは事実を探求する場であるべきだと私は思うわけです。

以上、これはツブヤキです。

43五月雨:2002/12/20(金) 10:33

ここの掲示板は「日蓮正宗の礼讃掲示板」だったのですか、私はここの掲示板を四月頃に知りました。読ませて頂いてこう思いました、「日蓮正宗の真実が書いてある」。それまで抱いていた日蓮正宗に対しての疑問の数々が氷解し、そして疑問に対する答えがひとつ、ひとつ見付かっていったのです。
日蓮の教えについて、シャキャム二の教えについて、仏教についての博識な皆様方の論議は、今までの信仰生活で見聞したことがないものでした。聞いていた御書の解釈が本当は違ったこと、本尊の曼荼羅も板にして彫ってしまうのは日蓮聖人のお文字を塵にしてしまうこと、正しい視点で物事を見るというのはこのことなのかと目からウロコが落ちる思いで読ませて頂きました。

日蓮正宗の教えが全てどこかからパクってきた、昔風に言えば“盗ってきた”これがきつければ“拝借してきて知らん振り”の教義だったと、独歩さんも問答さんも論拠を示して説得力のある論議を展開されておられればこそ、そこに真実が見えたんだと思うのです。これがそれこそ感情論で「正しい」「間違っている」と遣り合っていれば、真実など見えてこなかったでしょう。事実、他の掲示板では宗・創が互いに詰りあって、それが正義だと遣り合ってる人間だけが思い込むという醜い姿を世間に曝している掲示板も数多くあります、そこにはここにある真実はありませんでした。

日蓮正宗は正しいと信じているのなら、そう思われる方はそれを論拠を持って証明してください。そこに真実が見えたなら、私もまた、日蓮正宗に日蓮聖人の教えあり、と再び信仰を置くでしょう。

富士桜さんは日蓮正宗の僧侶のいないところで議論するのは一方的だと言われていますが、私もそれは違った観点からいつも思うところです。
ここの掲示板で石山の教義は「中古天台本覚思想恵心流口伝法門のパクリ」だと証明されているのですから、ロムされている法華講員の為にも石山僧侶はそれに反論すべきだと思っています。そうでなければここで証明された石山教義のまやかしが正しいと石山僧侶が認めたことになりませんか。
それとも石山僧侶の教学力の無さを露呈するのが怖くて、ここに出てこれないのか、いずれにしろ、ここは誰でも書き込める掲示板なのですから、富士桜さんが言われる「日蓮正宗の僧侶のいない場所での議論は一方的」だという批判は的が外れているように思います。石山僧侶が勇気を持って出てくればいいだけの話なのですから。

>で、またはここへ御僧侶の方に書き込んで頂き、大石寺の意見も正当に出せる場所においてのみ可能だと思います。

ここの掲示板はまさにそんな場所だと思います、大石寺の意見も聞いてみたいものです。勇気あるご僧侶はひとりくらいはいらっしゃると、籍はある法華講員として、希望を持ってお待ちしております。

45妙薬:2002/12/20(金) 12:18
 五月雨さんの考えに賛成です。
 私自身、現在も法華講組織に籍を置き、宗門の大事な行事には参加しています。しかし、この掲示板を読むようになった今秋頃から、「真実」が知りたくなりました。そういう立場から、独歩さんと富士桜さんの論争は興味深く読んでいます。
 是非、宗門ご僧侶の意見をこの場で披露してください。少なくても、独歩さんが指摘している「(創価学会を)脱会した法華講員」に対する僧侶方の見解については知りたいものです。一部でしょうが、旧信徒幹部(昔からの法華講員)の考え方にはあきれてしまいました。
 少なくても、私の所属寺院には、そういう雰囲気はありませんでしたが。

46アネモネ:2002/12/20(金) 14:01
>ここの掲示板を「富士門流信徒“だった人の”掲示板」になっていると指摘された方がありました。

これと似た言い回しで、「あなたの言っていることは、所詮信じてない人の理屈だ」ということも、よく言われます。また「信心がないからなんじゃないの」とか、「最初から信心してなかったみたい」とかもよく言われますが、これらの言葉は人の言葉を遮るものであり、遠まわしの言論封鎖だといつも感じます。信じている人と信じていない人を分けて考える。つまり潜在的に差別して考えていると私には思えるわけです。

結局、こうやって人々を排斥し、独り善がりになっていくのが、この門流の体質なのでしょうか。
しかも当たり前に発する言葉に悪意の気持ちはなく、この体質の根はかなり深いものだとさえ感じます。

しかしお釈迦さまにしても、日蓮聖人にしても、信じる信じないの別なく、来るものは拒まなかったという印象を私はもっており、その姿勢とはかなりかけ離れた狭い心だなと感じるものです。また狭くすることがこの門流の優位姓だと勘違いをしていたりもするのではないでしょうか。それが唯一最高の教えだと、ますます自己陶酔していく、といったところでしょうか。
ここまで書くと、信じていると言っている人に対する痛烈な批判になるかもしれませんが、私は信じている人のことを排除しようなどとは思ってはいません。

これが信心だと刷り込まれたことを、今いちど、本当にそれが人の道なのかどうか、自分で考えてみることは、組織人間の社会的責任としても重要なことだ思います。そこには人を排除するような間違った考え方もたくさんあると思われます。そういうものを見直していくことも、宗教の目差す信仰のひとつの姿ではないかと、私は思いますね。


>旧信徒幹部(昔からの法華講員)の考え方にはあきれてしまいました。
 
私もそう思います。代々の法華講の人が元学会の方について、陰がコソコソっと口にする言葉で呆れたのは、「育ちが悪い」「生まれが悪い」といった言葉です。そんなことを本当に思っている代々の法華講は、「心根が悪い」と私は思います。
しかし、その法華講、宗創蜜月の頃には、「お寺信心」と学会から馬鹿にされていた存在だったとか。もうどこを見ても聞いても、信仰するものの心ある姿とは思えなかったですね。離れてよかったです。それこそ信心がおかしくなります。

トゲのあるつぶやきで失礼いたしました。

47犀角独歩:2002/12/20(金) 18:05

一つだけ。「富士門流信徒“だった人の”掲示板」と感想を漏らされた方、けっして悪意をもって仰ったことではなかったと思います。名前の通り、心も不信もなく、皆が参加できるのがよいという意味であったのであろうと拝察しています。その方もROMなさっていると思いますので、お詫び旁々、小さな軌道修正と言うことで、記させていただきました。

48犀角独歩:2002/12/20(金) 18:06

どうして、こう打ち間違えてしまうのでしょう。すみません。

47 心も不信も → 信も不信も

49モモ:2002/12/21(土) 11:52
アネモネさん

私は「信じるのも自由、信じないのも自由」だと思います。
もっとも信じる人から信じない人の理論をはじめて聞くと「うーん」
と思ってしまうのです。「差別」と言う表現はいかがかな、と思います。

あとある連合会の役員の言葉で
「日蓮正宗にいらない人はいない」と言ったひとがいます。
私がその言葉をはじめて聞いたときは目からうろこが落ちる思いをしたのですが、
しかしその人は連合会の活動の人事について自分のお寺系統の人を重く用いると
いうようなえこひいき人事をしています。ちゃんと信心と人格と適正を考えて人
事をしているとは到底思えません。
「信心に役職は関係ない」とも言いました。だったらまず御自身が役職を降りて
その見本を是非とも示してほしいと思います。はじめすごい尊敬していたのです
が結局このひとはきれいごとばかりで他人に厳しく自分は勝手なひとなんだな、
と思いました。

50犀角独歩:2002/12/21(土) 12:30

横レス失礼します。

モモさん、差別している人間は差別していることに気がつけないのが常です。
私は法華講は十分に差別的であると思います。

その例を私も引いたし、アネモネさんも引いた。その例にコメントもせず、なぜ、「差別」という言葉だけに敏感に反応するのですか。

モモさんは、自分の信仰に向けて使われては困る言葉に敏感に反応しますね。
この前は「信伏随従」でした。すべて、根拠を示して、そのことが語られているのに、言葉チェックだけというのは「はいかがかな、と思います」。

まあ、しかし、その後半の人間は私が取り沙汰したことと同じ問題ですね。ということから、単に言葉チェックで、アネモネさんが言われているような実態は肯定していると言うことなのでしょうね。

51アネモネ:2002/12/21(土) 12:36
モモさん

この話は、オフ会の2次会でも出ましたね。もう少し書いておきます。

「日蓮正宗にいらない人はいない」という言葉、敢えて言う必要もないほど、とても当たり前なことだとなのではないでしょうか。だけど、わざわざ言われてみると、目からウロコと感じる人がいるということは、裏を返せば、その組織がいかに、いらない人といる人を選別するかのような体質であることを物語っていると思うんですね。いろんなお寺があって、一概には言えないかもしれませんが、少なくとも私はそんなことを感じる法華講組織だったと思います。

オフ会で話したことの繰り返しになるかもしれませなんが、人の内心が自由であるということは、言い換えれば基本的には誰も立ち入れないものだと私は思っているんです。私は○○を信じていますということは、わざわざ人に言わなければならないことではありませんし、逆に言わないからといってその人の心に信仰心がないと言い切れるものでもないわけですね。
たとえば私自身の内心に、どのような信仰心を持っているか、いないかは、私以外の他人が表面的に推し量れることなどできるものではないわけです。お寺に行かなくなったから、所属寺院の悪口を言ったから、その表面的な行為をもって信心がないというのは、それこそ石山が刷り込んだ思考回路でみた、もの言いであって、それが真実であるというわけではありません。その刷り込まれた思考方法を私は、批判しているわけです。私の拙い説明で理解して頂くには、無理があるかもしれませんが…。
考えてもみて下さい、どこまでいっても他人の内心には誰も立ち入ってみることはできませんし、表面的な行動だけで、その人の内心がわかるほど単純なものでもないわけです。
モモさんが信じている心、信じようとしている心にも私は立ち入れないですし、それは私についても同じです。一見、組織を離れ、お寺の悪口を言っている。信じることをやめたと思うかもしれませんが、信じているか信じていないかの、内心までは他人にもわからないことですね。
だから、信じる信じないということを問題にして、教義を語り始めると検証にはならないと思うのです。それが言いたいのです。自由なのですから、それを言ってしまえば、そこで話は終ってしまいます。自由だからこそ、わさわざ信じる信じないなど関係なく、科学的に教義を検証してほしいと思うのです。時間がなくて、とりとめもなく、誤解を招くかもしれませんが、記しておきます。
また、オフ会でお会いできたらお話ししましょう。

52アネモネ:2002/12/21(土) 12:38
訂正です。
オフ会の2次会でも出ましたね。→この話は3次会でしたね。

53みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/21(土) 14:16
「日蓮正宗にいらない人はいない」のオリジナルは
「創価学会にいらない人はいない」はないかもしれませんねぇ。
創価学会で聞いたことがあります。まあいかにも多用されそうな
言葉なので、もっとほかがオリジナルなのでしょうが。
そういえば昨日金八の再放送で「腐ったみかん」やってましたね
見ませんでしたが。


犀角さんに「富士門流信徒“だった人の”掲示板」と言ったのは
私だと思いますが、私自身「だった人」なので私は全然かまわないんです
ただ、現役信者の方々は居心地悪いだろうなと思っただけでね。
わたしはこういう掲示板の方が楽ですが、開設者の意図とは
ずれているんだろうなぁとは思いました。
まあ、掲示板は所詮生物(なまもの)なので、意図とずれるのは
仕方がないんですけどね。

仏教における「信」という漢字の意味の話はオフでもしたと
思いますが、またこんど。

54みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/21(土) 14:21
あと一言だけ。

創価学会や日蓮正宗に蔓延している前世論についてはねぇ……。
日本の現代の宗教は因縁・因果を誤解していて、
大まかに分けると「前世の業」「先祖の業」の二つのいずれかで説明
します。
どっちも差別の元だし、因果を正しく見ていないので批判されるべきだと
思いますが、やはりこれもまたこんど。

55問答迷人:2002/12/21(土) 18:26

113509 ゲットしました。

56モモ:2002/12/22(日) 02:01
>モモさん、差別している人間は差別していることに気がつけないのが常です。
>私は法華講は十分に差別的であると思います。
>その例を私も引いたし、アネモネさんも引いた。その例にコメントもせず、なぜ、「差別」という言葉だけに敏感に反応するのですか。

先日、私がアネモネさんに「(大石寺を)信じない人の理論ではないですか」
と申し上げたことがありました。私は別に差別するつもりはなくその発言をしたということです。
そのときの返答が51の内容のレスだったわけです。二元論で考えることは有効な思考方法である
と同時に危険が伴う場合があると思います。

>信じる信じないということを問題にして、教義を語り始めると検証にはならないと思うのです。それが言いたいのです。

まさしくこの部分について私が考え込んでしまうところです。検証できなければ証明できない、という答えが返ってきそうですが
はたして仏法の功徳とは検証できるような性質があるのか、と思います。そういってしまえば
どんな宗教にも功徳がある、ということになってしまうか。うーん。

内心の自由=人が立ち入れない、という視点は重要だと思います。
私自身、自分の言っていることを理解してもらえず、
所属寺院の指導教師や奥様から「ばかやろう」「ばか」なんて言われたときは「やれやれ」と思ったものです。

58犀角独歩:2002/12/22(日) 09:47

モモさん:

ちょっと、言葉の意味が取れないのですが、

> 二元論で考えることは有効な思考方法である
と同時に危険が伴う場合があると思います

これは至極当たり前のことでしょう。
さらに言えば、二元論で考えるか・考えないのかという二元論もまたあるわけですね。

それは私の意見として、このモモさんの2行が、どうして、私の質問の「差別という語に敏感に反応する」の答えになっているのかが、わからないのです。
ちょっと、補足してもらえませんか。

あと、相手が坊さんだろうと、そのパートナーだろうと「馬鹿」呼ばわりされたら、「そんなことをいうお前さんと所属宗派こそ、馬鹿野郎」だと言い返せばよろしいのです。そして、相手が言い返しそうになったら、「不軽菩薩の但行礼拝を知らぬのか」と言えばよろしいのです。

59アネモネ:2002/12/22(日) 10:26
みかんさん

>犀角さんに「富士門流信徒“だった人の”掲示板」と言ったのは私だと思いますが、

そうでしたか。私、言葉の真意を曲解して引用してしまったかもしれませんね。失礼いたしました。

60アネモネ:2002/12/22(日) 10:30
モモさん>私がアネモネさんに「(大石寺を)信じない人の理論ではないですか」

この言葉、実はモモさんに言われたのが初めではないのです。所属寺院の方からもよく言われてきた言葉なのです。モモさんのことだけを指して書いたのではありません。そして、私はこの言葉には敏感なんですね。差別という悪意のつもりはないことはわかってますよ。だから、潜在的に…と書いているのです。それが差別になりかねない考え方だということ、なかなか気がつかないものなんです。でも、「差別」という言葉に反応したモモさんは、どこかで私の言ってることも理解しつつあるのではないでしょうか。それこそ潜在的に気づきはじめている。そんな印象も受けます。

それから、「功徳」とは何かということも、オフ会でも出たことですが、確か認識を誤って理解されているといった話が出たのではなかったでしょうか。いま一度、あの場での功徳の話を聞きたい気がします。
乞食信心という表現がありますが、私としては、法華講で当たり前に使われていた功徳という言葉は、どことなく何かの見返りを期待するために功徳を積むという、損得勘定で認識されているような感じをうけ、先にキリスト教を経験している私としては、まさに乞食信心のようで、どうも馴染めないのです。
キリスト教が説く「無償の愛」のほうが、高い境地にあるような気がするんですね。これはキリスト教のほうが正しいという話ではありません。ただ仏教が目差す本当の素晴らしい慈悲の教えが、正しく今日に伝えられていないのではないかと感じるのです。いちりんさんや、独歩さん、そしてみかんさん方が、研究なさってこられた内容を伺っても、感じていることは、そんなに外れたことではないと思うんですね。やはり、原書や文献をきちんと追って、体系立てて勉強していくことは重要なことだと思います。そのうえで、個人的宗教体感というものを全面に打ち出すならば、また聞く側に響くものもあるかもしれません。

どんな宗教にも、個人的体感や奇跡話があるということも、オフ会で出てましたね。個人的な思いでもって、その教えの正しさは結局は、どこまでいっても個人的な体感を超えるものではなく、その教えの正しいを本当に証明することはできないと思います。
しかしだけど、個人がその教えによって、どのような考えを確立し、どのような人格となって、どのような心でどのような行いをしているのか、ということではもしかすると、その教えの素晴らしさを示せるのかもしれません。それが宗教の実践ということなのではないかと思います。その見地からいって、法華講での指導の内容は、私にとっては求めるものが違っていたという気がするのです。しかし日蓮聖人への敬慕、さらに仏教への崇拝を捨てたというわけではないのです。

> 二元論で考えることは有効な思考方法であると同時に危険が伴う場合があると思います

私もこの発言は意味がとれないのですが、私の前のレスの説明が二元論だということなのでしょうか。

61犀角独歩:2002/12/22(日) 15:08

破壊的カルトの特徴について、少しハッサン氏の言を引用しておきます。
上述までの議論と照らしながら、参考にすると、一つの現実が見えるでしょう。

◇マインド・コントロールの定義◇
個人が自己自身の決定を行うときの人格的統合性を壊そうとするシステムだけを、私はここで『マインド・コントロール』と呼ぶ。マインド・コントロールの範質は、依存心と集団への順応を助長し、自立と個性を失わせることである

◇集団組織での生活に浸して操作する◇
マインド・コントロールは、ある人をひとつの集団環境へ浸すことで達成されるのであり、その人は、その環境でやっていくためには、自分の古い人格を捨てて、そのグループが期待する新しい人格を身につけなければならない。以前の自分の人格を思い出せるような現実――彼の古い自意識を認めるようなもの――はすべて排除され、それはグループの現実と置き換えられる。はじめはわざと役割演技をやっていても、ついには演技そのものが現実となる。彼は全体主義的なイデオロギーを身につけ、それが自分のものになってしまうと、それが以前の彼の信念体系にとって変わる。通常、人格の根本的変化と人生行路の劇的中断(変更)が起こる。この課程は、2、3時間で作動することもあるが、それが固まるには、ふつう数日か数週間かかる。

◇話し見れば所属団体がわかる理由◇
特定のグループにはそれぞれ、そのグループを結び合わせる特色ある儀礼的な行動のセットがある。それには、グループの信仰を表す比較的伝統的な方法とともに、型にはまった話しかた、身振り、表情などが含まれる。
もしだれかが『熱烈に』行動していないと、その人はリーダーに呼びつけられ、利己的だとか不純 だとか、あるいはじゅうぶんに一生懸命やっていないとか非難される。先輩メンバーのようになる ように迫られ、先輩の声の調子までまねる。
リーダーに対する服従こそ、身につけるもっとも大切な教えである。
リーダーといえども、だれかの内面の思想まで支配できない。しかし【行動】を支配できれば、感 情と精神はそれについてくる。

◇使わせる言葉で思想を操作する◇
ある言葉をコントロールすると、思想をコントロールするのに役だつ。たくさんがグループが、複雑な状況を単純化してそれにレッテルをはり、カルトの決まり言葉に換言してしまう。このレッテルこそ、詰め込み言語を具体的な言葉に表したものなのだが、それが、ある状況でメンバーがどう考えるかを支配する。カルトの決まり文句または『詰め込み言語』は、また、信者と外部の人々の間に見えない壁をつくる。詰め込み言語は、メンバーたちが自分を特別だと感じるのを助け、彼らを一般大衆から引き離す。詰め込み言語はまた、メンバーが何のことを話しているのか理解したいと思っている新参者を混乱させ、真理を『理解』するためには自分はひたすらもっと勉強しなければいけないのだと思わせるのに役だつ。実際は、詰め込み言語を身につけることで、彼らはいかに【考えない】かを学ぶにすぎない。彼らは、理解するとは信じることだということを学ぶ◇破壊的カルトは
◇正当な脱会理由を認めない◇
破壊的カルトは、メンバーがそもそもグループをやめること自体を怖がるように、恐怖症を心に植えつける。こうすることで彼らは、自由な選択の扉を閉ざしてしまう。人々は破壊的カルトに入る自由はもっていたのだが、やめる自由はない。実際、破壊的カルトの目には、だれかがそのグループをやめる『正当な』理由など存在しないのだ

◇個人的な体験を経験させて操る◇
破壊的グループはマインド・コントロールのテクニックを使って新会員を勧誘する。その人の人格を崩壊させ、教え込みをし、カルトのイメージに作りあげてしまうために、その人の体験をコントロールすることが欠かせない

◇空想世界の住人◇
破壊的カルトでの生活は、ほとんど犠牲と苦痛の生活である。破壊的カルトですべての時間を過ごす人々には、全体主義のもとで暮らすのがどんなことかわかるのだが、自分自身にどんなことが起こっているのかは、客観的にわからない。彼らはグループが作りだす空想の世界に暮らしている

62犀角独歩:2002/12/22(日) 15:12

61の訂正

誤)

理解するとは信じることだということを学ぶ◇破壊的カルトは
◇正当な脱会理由を認めない◇

正)

理解するとは信じることだということを学ぶ

◇破壊的カルトは正当な脱会理由を認めない◇

63sat:2002/12/22(日) 19:50
J.C.ロス、M.D.ランゴーニは破壊的カルトについて以下のように記しているようです。
皆様のご参考になれば・・

①真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
②組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない。
③自分の頭で考えることをしないように指導する。
④世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ。
⑤白黒を常にはっきりさせる傾向が強い。
⑥外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える。
⑦信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある。
⑧組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる。
⑨家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている。
⑩社会からの迫害意識を持ち、それをかえってバネにする。
⑪外部に対して正体を隠す傾向がある。
⑫生活が細部にわたって規定される。
⑬組織が信者の生活のすべてになっている。
⑭共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている。
⑮組織からの離脱について極度の恐怖心を与える。

64sat:2002/12/22(日) 20:32

上記の書き込みどうも出所を間違えたようです。
正しくは、①マインド・コントロール研究所「親は何を知るべきか」(いのちのことば社)、②中澤啓介「宗教は恐ろしいか」(大野キリスト教会)、③スティーブン・ハッサン「マインド・コントロールの恐怖」(恒友出版)、④浅見定雄「統一協会=原理運動 その見極め方と対策」(日本基督教団出版局)を参考に、日本イエス・キリスト教団函館中央教会の長田永一牧師が書いたものとのことです。

修正いたします。すみません。

65トゴシ:2002/12/22(日) 21:26
うー、ここまで読んでくんのシンドかった。
えーー、ほんとにsatさんて、学会の人なの??

66トゴシ:2002/12/22(日) 21:58
>複雑な状況を単純化してそれにレッテルをはり、カルトの決まり言葉に換言してしまう。このレッテルこそ、詰め込み言語を具体的な言葉に表したものな

なある、てことは、戒壇の本尊を絶対に疑わない、国立戒壇は、決まり言葉なんだわさ。

67sat:2002/12/22(日) 22:03
トゴシさん

正真正銘の創価学会員ですが・・
なにか変ですか?

68トゴシ:2002/12/22(日) 22:15
あれ、怒った。
学会てさ、「極悪日顕」とかいう人ばっかみてきたんだよね。
だから、satさんみたいな常識人がいるとは知らなかったのよね。
気、悪くしたんなら、ゴメンね。

69sat:2002/12/22(日) 23:07

トゴシさん

いえいえ怒ってなんかいませんよ(笑 怒る理由もないですし・・

70犀角独歩:2002/12/22(日) 23:20

satさん:

適切な資料を提示していただきました。

①はパスカル・ズィヴィ師、主に統一協会問題、②はエホバの救済支援者、③は言わずと知れています。みなControversial Groupを扱う方々ですね。
これらの方々の指摘が、ここ富士門―学会を含む石山系教学範疇―に当て嵌まってしまう現実は、やはり解消されていかなければなりませんね。

71犀角独歩:2002/12/22(日) 23:39

みかんさん、お詫びが遅れました。私の“だった”投稿、失礼しました。
また、アネモネさん、妙薬さん、五月雨さん、貴重なご意見、有り難うございました。

石山教義の差別性、しかし、よく考える必要があるのは事実ですね。
「信じない人の理論」を無視する信じている人の論理を「独善」と呼ぶのだと、私は思います。独り善がりの社会から乖離した独善主義、しかし、そういう人から見ると世間のほうが独善と見える、この180度の見解の相違がどこから生まれるのか、よくよく考えてみる必要があると思うわけです。

72犀角独歩:2002/12/22(日) 23:40

ところで、ガンコさん、「大先輩」はどうしたかな。

73犀角独歩:2002/12/23(月) 10:44

我々が若いとき、法論・議論というのは命がけでした。もし、言葉に窮し、論拠を示せず、公正に見て、明らかに負けと認められるとき、負けた相手の宗教に転宗を余儀なくされるか、また、そうしないまでも所属集団から『脱会状』、あるいは『自己批判書』を書かされたものでした。

そうしないで、逃げてしまう者には、宗教・思想を問わず、卑怯者のレッテルが貼られ、2度とまともに相手をしてもらえないというのが常であったのです。仮に相手が過激派などの学生運動家であれば、「総括」と言われて、鉄パイプでリンチを受け、死ぬか、半殺しにされた者でした。もちろん、そのような私刑が正しいと言うことではありません。折伏は、それくらい、命がけであったということです。実際、我々は、大学のキャンパスで学生運動盛んなりし頃、そんな修羅場をくぐりながら、布教をしていました。

それに比べて、ここにおける議論は甘っちょろい、仏教でいう「無慚無愧」が罷り通る有様には溜息が出る思いがします。

特定団体に所属する若い青年達は、信仰を、どんなに批判されて、自分が回答不能になるような事態に至っても、枉げないことであると解釈しているのだろうと想像しています。それが非公開の個人的現場であるのであれば、それはそれでよいでしょう。しかし、ネットいう斯かる公開の場で、その有様を示すことは、単に恥を晒しているだけと見られていることは留意されるべきである、「恥さらし」を信仰とは言わないことも書き留めたいと思います。

74sat:2002/12/23(月) 12:18
日本人は、西欧人と違って、依存と自立との深刻な葛藤が存在しえないとか、自他の間の身分化な体験、いわゆる「間」のない状態を目指して事を行う特性があるといった意見が数多くあります。

それはそれとして、私達が生きてる現代は、幼児期から青年期において何らかの精神的外傷を受けることも多く、同時に①父親不在(父親像の無力化とか父性の喪失)や、②母子関係の強化が行われてきたようです。親自身が社会疎外の渦中にいればなお更です。

土井健朗氏は、①恨み、②すね、③ひがみなど、攻撃性を内に秘めた感情は、甘え(相手との一体感への求め)の不満に基づいていると指摘しています。攻撃は「依存欲求の不満」による反応であると・・
注目すべきことは、土井氏の指摘するこういった転移性の攻撃は全く他人と感じられた人には向けられないで、むしろ甘えるこができるのではないかという幻想期待を抱いた人に対して向けられていくということではないでしょうか?

甘えと攻撃とは、いずれも対人関係を求める行動であり、この場合の攻撃とは「相手に対するもとめ」の表現であるような気がします。攻撃の対象となる人というのは、単なる個人を指すばかりでなく、特定の団体に所属する人もまた含まれていくのではないでしょうか?
カルトからの依存・・そして自立に向けた攻撃・・つまり、対象の結合を「依存」と見て、攻撃を「自立」への努力と見ることは変でしょうか?

75sat:2002/12/23(月) 12:27

しかし、自立へ向けた努力、この場合法論とか議論といった意味合いになるのでしょうが、それまでの依存関係を断ち切るには至らず、新たな依存欲求を求めて再び彷徨う・・ネットの特殊性も含めて、それが現代なのかもしれません。

76犀角独歩:2002/12/24(火) 03:58

satさん:

『甘えの構造』ですね。なるほど。
しかし、「対象の結合を『依存』と見て、攻撃を『自立』への努力と見ること」はできるでしょうが、私は、そんな精神構造を却下します。もちろん、satさんの分析を非難するのではありません。

現代の若者の精神的特徴分析には、ほぼ同感です。
父親不在はそのとおりで、母子関係の強化は、むしろ、母言病というべきであると思われさらにパラサイトシングルという病弊が加味されるべきであろうかと思います。

「依存欲求を求めて再び彷徨」ことをさせないために、甘えの構造を理解したうえで、敢えて「甘ったれるな」と、私は言うわけです。

77富士桜:2002/12/24(火) 04:55
犀角独歩さん:
お返事が遅れてしまい申し訳ありません。
生半可なお返事にはいかないと思い、何日か読み返しながらのレスになります。
.
前置きはどうでも好い事と思いでしょうが、すぐにお返事を出さなければ逃げ出したと思われるのは御止め下さい。
おそらく「そのような書き込みはしていない」と言われるでしょうが、なにかしらの意図が感じられる文脈は不快です。
.
まず取り留めもない発言、批判と言う事でしたので、確かにそのような荒れた文面であった事は認めます。
取りあえず、独歩さんの文面参考に自分なりに分けました。

78富士桜:2002/12/24(火) 04:56
<独歩さん御自身が日蓮大聖人の再誕>について
.
>こんな馬鹿なことを言うわけはないでしょう。
第一、私は日蓮の無謬生を否定したわけです。日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である、このように記したわけです。
しかし、このような日蓮の実像を明らかにする責任を過去40年の信仰生活のなかで私は負ったということを言ったかも知れません。事実、そう思っています。
.
これは自分が一番最初に送らせて頂いたメールへの返答に記されていた最後の部分なのですが、内容に関しては個人的な文面と判断しますので、私が独歩さんにこのメールを送り返します。
これが「再誕」を感じさせるか、否かは、御自身で公開し御意見を伺うなり、そうではないとおっしゃっていただければ良いと思います。
しかし、誰がどのような意見を書き込んだとしても、少なくても、自分は「再誕」を思わせる文面と判断します。

79富士桜:2002/12/24(火) 04:58
<一連の批判>について
.
>> 今このような内容を書かれるのでしたら、直接に所属の寺院に言うべきであって、インターネットで情報を開示するにはそぐわない内容だと思います。
>これは富士桜さんの考えであって、それ以外の考えを排斥する根拠は元よりないでしょう。私は開示するべき内容であると判断するが故に記しているのです。見解の相違というのです。決めつけないでいただきたい。
.
「決めつけ」とはなんですか?独歩さん御自身が勝手に言っているだけの事です。よく文面を見て頂きたいです。「〜思います」と書いています。
「〜でなければいけない」などと決めつけていますか?
そして、それ以外の考えの排斥する根拠ですか。
.
法華講連合会の会合に参加する事への独歩さんの非難が入った為、出ようが出まいが、確かにそれこそ個人の自由であるし、そこへ批判された事への反応の問題です。
.
>さて、今回、私が投げかけた投稿上の疑問は以下の部分だけです。
「集団の中で好い子に振る舞うこと、組織の中でいい人と思われるように振る舞うことに拘っていませんか。」
.
先にも自分で公開しましたが、個人的に送った独歩さんのメールにその内容は記しました。
.
>そして、このように返されれば、私は単に「そうですか。好い子という言葉は不適切でしたね。お詫びします」と終わったことでしょう。
.
そのようにお詫びされた覚えは全くありませんし、撤回もされていないでしょう。
.
確かにそのようなお詫びが入っていたとしたら、おっしゃる通りにあのような長ったらしい批判レスは書く必要もなかった事でしょうし、それに附随していく批判も新たに考え直していた事と思います。
.
しかし、その後の独歩さんの書き込みは、
.
>28 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/12/13(金) 08:50

富士桜さん:
メールでのご返信有り難うございます。
機会がありましたら、お会いし、ゆっくりお話しましょう。
.
とだけ記されています。
しかし、自分が「なんだなんだ?これは?」と思い始めた書き込みは
.
>3 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/12/17(火) 23:31

皆さん、特定の個人の顔色、気にしながら投稿するのはやめよう。
.
>4 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/12/19(木) 05:24

言うまでもないことですが、誰が何を信じようとそれは自由です。その勧誘をすることも自由でしょう。しかし、反面、信じないと言うことも自由です。勧誘に反対することも自由です。
また、集団の功利面を主張するのも自由です。しかし、反面、被害に遭ったら、それを主張することも自由です。
.
と言う内容に続いていました。
この期間内にこの発言にあてはまる方はどなたもいらっしゃいませんでしたし、自分が個人的に送ったメールのみの内容にしかあてはまらない内容と感じておりました。
さらにやーこさんのレスに際し独歩さんは
.
>9 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/12/19(木) 10:03

私が批判したという一人は、富士桜さんのことであるのはROMの人もわかります。
(中略)
それなのに、それまで、長い時間と文章量、電話などを通じて話し、納得したという本人が、そんな私とのやりとりがなかったような投稿をすれば、「まだやっている?」という驚きの返信になるのはむしろ当然のことです。
.
直接HNを記して自分宛におくる批判なら対処のしようもありますが、だれに書いているんだかなんだか訳のわからないようなレス。独歩さんの意図は自分には理解出来ません。
.
>私が批判したという一人は、富士桜さんのことであるのはROMの人もわ.
かります。
.
だったら直接自分宛に書き込めばいいではないですか。
なんなんですか?
当然この辺から急激に敵意を抱く感情になった事は認めます。
だいたいそこまで法華講連合会について何か言われた事ありましたか?そこまで驚かれるほどのやり取りは、一体いつの事をさしているのですか?
自分でも確かに「ファン」と言ってたくらいですから、独歩さんの言葉には、こと自分宛のレスには敏速に反応して来ましたし、過去電話で一度、メールで一度だけお話を頂きましたが、
.
>しかし、オフ会、電話で話した内容について、ここで「言った言わない」は記しても、元より、取られ方が“ずれて”しまうわけですから、水掛け論になるでしょう。故にここに記した内容に基づく以外にないことになります。
.
この言葉で終了されてしまうのでしたら、掲示板内において、「何度となく」とどれほど自分宛に記してきたとおっしゃるのか、全く見当もつきません。
しかし、前回にも書きましたが、そう言った団体と「距離を置く」事は自分なりに独歩さんのおっしゃる事は理解し、わかりました、と答えた事はあると思います。

80富士桜:2002/12/24(火) 05:00
<法華講連合会批判>について
.
>ここの掲示板では少なくても5人の石山僧侶と、7人の日蓮宗僧侶が閲覧しています。
これは個人のプライバシーに関わることなので、その名前は記しません。
.
日蓮宗の御僧侶はお一方だけ察する事は出来ますが、日蓮正宗御僧侶が御覧になっている事は自分にも確認しようがありませんし、どのようにこの人数を信じていいのかわかりません。言うだけならいくらでも言えるのも自由ですが。
この場を借りて。
もし、本当に日蓮正宗の御僧侶の方が御覧になっているのでしたら、どの御僧侶の方でも所化さんでも結構です。どうぞ自分宛にメールを下さい。
自分は日蓮正宗の御僧侶への信頼は、この掲示板によって判断する訳ではありませんが、どのような内容であろうとも揺らぎませんので、自分のようなアホな法華講員に確認させて下さい。ここの掲示板についての事実関係のいくつかはお聞きしたい事があります。お願いします。
.
>また、論点を変えれば、私が石山に異があり、例えば『大日蓮』『大白法』に、私の考えを掲載するように希望したとき、それが掲載されるでしょうか。それは不可能でしょう。
.
不可能か可能かは自分には判断出来ません。
.
>私とは意見を異にするけれど、例えば今泉さんの意見が正当に扱われたことがあったでしょうか。「批判する相手のいない場所での批判」という点で、私を批判をしているとお見受けしますが、何より一方的なのは常に力を持った団体のほうである点が見落とされています。
.
はたしてそうなんでしょうか?
今泉氏に関しては詳しい事情は存じ上げませんが、破門に先駆けて「弁疎」があると聞いていますが、その場において逃げも隠れもせずお話する、とだけ内容は書かれていたのを見ましたが、その後はどうなったのか、本当に破門になったのかどうかは、自分は知りません。
力を持った団体のみが一方的なのかどうかは、ハッキリ言って今泉氏に限っては自分はそうは思えません。今泉氏にも何らかの誤解はあった事と感じます。
仏縁を切る事は、相当な意味を持つと聞いています。特に破門に関しては一個人と言えども団体の力によって一方的になされるとは日蓮正宗に関してはそうは思えません。

81富士桜:2002/12/24(火) 05:02
<独歩さんの法華講連合会役員>の誤解について
.
>誤解があるようですね。私は先の投稿でも記したように、生まれながらの法華講ではありません。それ故、連合会役員を歴任した経験はありません。
このような読み違いによる批判の責任をあなたはどう取るのですか。
.
この件に関しては、確かに自分の認識不足と反省し、撤回させて頂きます。
.
ここは自分の反省の意味も含め認識不足の確認の為書き込みます。
.
四月のオフ会、二次会の折り、自分は独歩さんが
「顕師は恩人ですよ。」と言う内容のお話をされていた事。
自分は御法主上人猊下直々に御目通りの叶う方々は一般信徒ではまず、お聞きした事がありませんでした。特に直接お話されるような方は本当に特別な方と思っていました。
「大白法」などにも、必ず役員の御目通りの席でのお言葉、と書かれてあったり、また、以前独歩さんが登山の昔ながらの参詣は、最後の最後に大奥において所属寺院の御住職の許可証(?)を提出し猊下と対面する趣旨のお話を聞いた覚えがありました。
自分の所属の坊には総代さんがいらっしゃるんですが、そのような方々や寺族、または役員でなければ
「やっぱり猊下と御目通りは叶わないんだな。」
と思い込んでいました。
.
そして登山会の事についても、
.
>私(たち)はまだ支部お目通り登山というものがなかった時代に、自分たちの赤誠から、一度だけというつもりで、そのような登山会を企画して行ったと記したのです。その後、、連合会主導で支部登山が定例化したのです。
連合会が定例化したことに、私が何の責任を負うというのでしょうか。
.
についても
「独歩さん達が始めた事がきっかけで、今の登山会の原形があるのか。」
と聞き違えていた点です。
確かに独歩さんには何の責任はありません。勝手に自分が大きく捉え過ぎていました。
.
大変申し訳ありませんでした。

82富士桜:2002/12/24(火) 05:03
<いじめ>等の発言について
.
> 「いじめ」に捉えられ気味…捉えられても仕方のない内容での批判ではないでしょうか。
などという被害者ぶった発言は、私は見苦しいと思います。
.
勘違いしないで頂きたいです。自分はいじめられた、とは言っていませんし、被害妄想と書き込まれていましたが、やーこさんの発言が自分へ「いじめ」と捉えてのお話でしたので、外から見れば自分へ対し「いじめ」に捉えられても仕方のない言葉なのではないですか?と問いかけただけですが。
.
自分は独歩さんに毛頭いじめられただのと思ってはいませんし、この程度でいじめと思うほどやわじゃないですから、御心配なく。
自分は「怒り」ですから。
.
>「好青年」という表現が気に入らないようなので、これは撤回しましょう。しかし、あなたが私のファンであるなど言う文面をここに記された点は、私にとっては極めて不快です。取り下げてください。
.
了解しました。このお話が始まったと同時に自分はとっくにそのような域ではレスをしていません。おっしゃる通り、正式に取り下げます。
.
>既に成人として認められ、あなたの記述に従えばマンションも購入するという大人が
> 「いじめ」に捉えられ気味…捉えられても仕方のない内容での批判ではないでしょうか。
などという被害者ぶった発言は、私は見苦しいと思います。
.
マンションは銀行審査が通れば誰でも買えるんではないでしょうか。
こんな事が大人の価値基準に値するのか、またそんな例を出す必要があるのでしょうか。
.
しかし被害者ぶったと申しますが、自分から言わせてもらえば、ぶったも聖人もないですよ。
.
>それを、私に言えない雰囲気があるだ何だと記して反論できないことまで私にかぶせて「いじめ」とは何たる言い方かと思うわけです。
.
と申しますが、
.
>皆さん、特定の個人の顔色、気にしながら投稿するのはやめよう。
.
等の提案発言から
.
>「顔色に関係なく書き込みました」ということですが、ここで、多岐に亘って、私を批判したわけですから、その部分に関しては責任をもってこちらのレスに応えてください。
その覚悟があってのことでしょうから。
.
と、このようなレスの「覚悟」とはどう言うことでしょうか。
.
>私は今回、大いに曲解した独歩像を、ここに長々と記され、正直、言えば気分は悪い。
.
当然でしょうね。
自分もこのような話のやりとりにとっととケリをつけて終わらせたいもんです。けして自分も気分のいいもんじゃありませんし、こんな朝方まで書き込みをしているのもいい加減にしたいもんです。
なかなか書き込みに応じるのもこれだけの労力を必要とするのは改めて感じるのは正直な所ですが。
.
書き込みたい事、また書き込みに応じていない部分もまだありますが、余りにも長く渡ってしまう為にここまでのお返事を書かせて頂きました。
.
しかし、日を追う度に、特に感じている事。
今回は記せませんでしたが、独歩さんが創価学会から法華講に移り、その法華講内での出来事は、やっぱりここだけは軽はずみには書けない場所でしたので追って書き込みします。自分にも身に覚えのある事がありますので。
.
単なる言い訳なんですが、良い調子で書いていても、所詮自分も学会に所属して来た訳でもなく、いきなり法華講に入った立場なので、積年の感情にはあまり立ち入れる場所ではない気がして構成しなおしています。
今回は以上です。

83犀角独歩:2002/12/24(火) 08:42

えーと、面倒くさいので、私が富士桜さん「独歩さん御自身が日蓮大聖人の再誕」と思わせたという、わざわざ、私に送り返してきた文章を以下に貼ります。
これで、私自身が日蓮を再誕を漏らしたことになるかどうか、ROMの皆さんで、判断してください。
もちろん、私はそのようなつもりで書いていません。
この読み違いが、私は富士桜さんの文章全体にあると思うわけです。
このような添付は私は嫌ですが致し方ありません。

***** 以下、添付です *****

私が真剣に教学を学び直そうと思ったきっかけは、やはり、石山との訣別からでした。
それまでの自分は教義を信じているつもりが、「与えられた解釈の仕方(つまりは日蓮本仏論など)を信じさせられていたのに過ぎなかったことに気が付いたわけです。

結局、石山の虚構にまず気づき、その具体的な意味を文献的に説明しておくことが自分の役割であると考えたからでした。

ある日蓮宗僧侶が「あなたの名前は200年間は語り継がれるだろう。あなた自身が日蓮を語るしかない。けれど、生きている間に報われることはないだろう」、そんな予言めいた感慨を私に語ってくれた人がいました。果たして、200年後まで私が語り継がれるか否かは別として、私が今記し続けていることは、なかば日蓮から託された使命に基づくような思いがあります。

母は私を懐妊するとき、雲の中を歩いていき、天上にある寺院に到り、その御宝前で実に立派な僧侶から男児を受け取った夢を見たといいます。夢をお告げを信じることが尋常であるか否かは別として、私の40年に及ぶ苦難の道すがらは、750年目に与えられた我が今生の使命を果たすための前方便であったと考えています。

84犀角独歩:2002/12/24(火) 09:24

ちょっと、今日から3日間、忙しいので、掻い摘んで誤解のあるところだけ、書いておきます。

1点目。私は「自分が日蓮の再誕といっていない」ということについては、上述の貼り付けから判断してください。

2点目。私が「皆さん、特定の個人の顔色、気にしながら投稿するのはやめよう」と記したのは、学会員であれば池田大作さん、石山であれば顕師、顕正会であれば浅井さんを指してのことです。富士桜さんが、なぜ、自分に当て嵌まるなどと思うのか、このような誤解に基づいて、長々と書かれても、日蓮再誕と同様、言う言葉は一つ、「誤解です」


3点目。切り文で、さらに誤解していること。

>> そして、このように返されれば、私は単に「そうですか。好い子という言葉は不適切でしたね。お詫びします」と終わったことでしょう。
> そのようにお詫びされた覚えは全くありませんし、撤回もされていないでしょう。

などと文を切り取ってしまっていますが、私はそのあとに、

>> 何をこんなに長い批判文を寄せる必要があるのか、この点では私は理解に苦しみます。

と続けているのです。つまり、この文章の主意は「お詫び」「撤回」にあるのではなくて、「長い批判文を寄せることが理解できない」というところにあります。これまた誤解に基づく発言です。

私が言っていないことを言ったと言い、あなたに言ったことではないことあなたに言ったと言い、さらに趣旨を取り違えた抗議となっています。

少し冷静になって書いたほうがいいでしょう。
このような誤解に基づく記述を、これまた延々と記述して、自分に言われた言葉に、抗議をしてよいのですか。

上述の点、誤解であると、富士桜さんは認められますか。
困った者ですね。

85犀角独歩:2002/12/24(火) 09:57

だいたい、こんな個人的な恨み節、公開の掲示板を使ってやることは管理人さんに対して、失礼でしょう。
会って話しましょう。電話をください。それとも、こちらから、かけますか。
文句があるのでしょう、応じましょう。

86犀角独歩:2002/12/24(火) 11:49

もう、出かけなければならないのですが、もう一点だけ。

ここで石山僧が閲覧していると書くのは書けるということで証明できないと。
私も閲覧者のプライバシーを公開することはできません。

で、こうすればよろしい。
富士桜さんの寺院住職に、あるいは知ってる石山僧に、ここの掲示板の存在を告知し、石山僧として、私の記述に破折を加えるということを提案します。
公開法論です。
これならば、正式に石山僧が閲覧していることを富士桜さんが確認し、議論できます。
ただし、議論の内容は怨恨、憎悪という感情論で、相手に何を言ってもよいなどというものではなく、完全な証拠主義に基づく、公正な議論です。
坊さんを引っ張ってきてください。

個人的な文句は85に記したとおり、会ってお聞きしましょう。
もちろん、私のほうも言わせていただきます。

87犀角独歩:2002/12/24(火) 12:06

余計ながら、もう一点。富士桜さんへ。

> どうぞ自分宛にメールを下さい。

と、坊さんに呼びかけておきながら、名前にアドレスが入っていませんよ。
これでは、相手がメールの差し出しようがないでしょう。

88五月雨:2002/12/24(火) 13:43

横レス失礼致します。

富士桜さんの独歩さんへのお返事を読ませて頂いて思うこと。
まだ信心三年の富士桜さん、甘いなぁということ。まだ日蓮正宗の現実が見えていないのでしょうね、そして吹き込まれた理想論に燃えているのでしょう。

信仰歴の浅い富士桜さんの文章を読むと、信仰歴は浅いのにこの信心特有の「他者への蔑視」を感じます。悪いことには直ぐに染まってしまうのですね。
自分の信じている宗教は一番正しくて、それを信じない人間を徹底的に否定するから憎悪も生まれてくるのでしょう。ハッサン氏はこう言ってますね。

「破壊的カルトは、どんな種類の反対も我慢できないのである。人々は賛成するか(または入会候補者とみなされるか)、さもなければ敵である」

富士桜さん、どんな種類の反対も我慢できなくて、目の前が見えなくなってませんか、富士桜さんのレスは独歩さんへの個人攻撃になっていますよ。独歩さんの人格をどの位傷つけているか分っていますか。

富士桜さんが「なんなんだこれは」と思われた独歩さんのレスは、富士桜さんの誤解から生じたものというのはご理解されましたか。どうも富士桜さんのレスを読んでいると読み違えの部分がかなりあるようにお見受けするのです。きっと怒りが邪魔をして正しく読み取れないのかもしれません。私にも経験があることです。

独歩さんの言われる恨み節にしか私にも聞こえない富士桜さんのご返事のレスです。どうぞ今一度冷静になって考えてみられたらいかがでしょうか。

言うに事欠くと最後は個人攻撃、この構図を宗創戦争で嫌というほど見てきましたが、本当にみっともないばかりです。こんな事はこの掲示板では止めて頂きたいと思います。
感情的にではなく、冷静に独歩さんとお話されたらいかがでしょうか。


>この場を借りて。
もし、本当に日蓮正宗の御僧侶の方が御覧になっているのでしたら、どの御僧侶の方でも所化さんでも結構です。どうぞ自分宛にメールを下さい。
自分は日蓮正宗の御僧侶への信頼は、この掲示板によって判断する訳ではありませんが、どのような内容であろうとも揺らぎませんので、自分のようなアホな法華講員に確認させて下さい。ここの掲示板についての事実関係のいくつかはお聞きしたい事があります。お願いします。

私はこの文章に富士桜さんの「甘さ」を見ました。私も43のレスに石山僧侶に同じ様に呼びかけていますよね、あれから何日経ちました?いまだに石山僧侶は書き込んでいません。個人メールなら発言出来るのでしょうか、皆が見ている場所で発言しないのは、それを腰抜けと言うんでしょ。こんな日蓮正宗の僧侶へご信頼するのはご自由ですが、この現実はどう見ますか。

また、今泉さんのことも詳しい事情は知らないけれど、とご意見を述べられていますが、詳しい事情を知らないならば、知ることから始めらたらいかがでしょう。

http://homepage2.nifty.com/syousyu/index.htm 今泉さんのサイト

http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageListForm/syousyu MLです。


ここには石山僧侶も書き込んでいますよ。時々同門同士で詰り合あったりして、とても見ていられなかったりしますけど。

また「日蓮の再誕」については、富士桜さんは「産湯相承事」と結びつけて、独歩さんの文章をそう解釈されたのではと推測するのですが、そんな解釈をしてしまう富士桜さんは石山義から外れているということだけは、ひと言付け加えさせて頂きます。

89トゴシ:2002/12/24(火) 16:22
ちょ〜〜っくっだらねぇぇーつうの。
なんだかめっちゃひどいよねえ。
貼り付けメール(んなの、ひどいね、おちおち個人メールもかけないね)
でひらうかぎり

 独「集団の中で好い子に振る舞うこと、組織の中でいい人と思われるように
   振る舞うことに拘っていませんか」
 富「大変に厳しく、痛い言葉ではあったのですが、なぜかわかりませんが、
   暖かく感じました」

これで、終わったん、ちゃうわけ?
それがなんで、こんな悪く口言いになっとんの?
僕が模範解答をしたげる

 独「イイ子ぶってねえかい」
 富「いや、そんなことないすっ」
 独「あ、そか、悪りいわりい」

 独「特定の人の顔色見て書くなよ」
 富「それって、オレのことっすかぁ!」
 独「あんでえ? 学会の池田、お山の顕チャン、正信会の浅井のことだろが」
 富「あ、そうすか、なあんだ、てっきり自分のこと、言われたと思った、
   ダハハ(照笑)

て、感じにさあ、確認しながら、会話すりゃいいってぉの。それがさあ、
 「これはボクちゃんのことを、書いているに違いない、
  チクショー、悔しい、怒ったる、悪口、タップシ書いたる、
  えーい、もっと書いたる、なんたって、日蓮正宗はじぇったいに
  ただしいんだもん。脱会者と学会はアホタレやからに」
富士桜のお兄ちゃん、自意識過剰の被害妄想、なんでも自分の悪口言われている
思っちゃるよんだねえ。
で、エスカレートして、何でもかんでも言いたい放題、で「イイ子ぶりってたな、
あやまれ、あやまれ」ったってさあ、自分のほうがあやまんなきゃいけんこと、
多くなっちゃってもんねえ。ダメだなあ、こりゃ、なあ。

では、ごいっしょに〜、よっ
♪〜 富士のサクラは、触らぬ癇にたたりなしぃ♪〜
♪〜 それを独歩のオジさん伐っちゃった(爆)♪〜

お山のサクラの伐採でアレンジしてみたよ、チャンチャン、
あ、そうそう。おいらの父ちゃん、お山の坊さん、、、ウソだよん

90みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/24(火) 17:48
宗教を一応職業にしている人たちが、アマチュアの前で恥をかく、しかもインターネットで恥をかくリスクを犯すとは思えませんけどね。

わたしは1995年以来、宗教関係のネットを見てきましたが、日蓮正宗の僧侶が(名乗って)ネットで書き込みをするのをみたことがありません。名乗らなくてもおおよそ見当はつきますが、日蓮正宗の僧侶だろうと思われる人の書き込みを見たことはありません。
他宗の僧侶はたくさんあります。

91三学無縁:2002/12/24(火) 19:14
わたしもそうなんですが、「元正宗系」というのは「言葉」に敏感になる傾向があります。
と、いっても、自分の言葉には鈍感になってしまいがちなんです。
ひとつには、正宗の思考形態に染まってしまっていて、それがなかなか払拭できないんです。
ようやく払拭できたとしても、今度は正宗時代の残滓を消そうとして、必要以上に「言葉」にこだわってしまう場合があります。
わたしなんて、約二十年もそれであがいていました。

正宗の信仰をもっているひとはその信仰を自分を高める糧にしてほしいですね。
往々にして正宗系のひとは、布教することが信仰だと思いがちなのですが、それは信仰でもなんでもなくってサークルゲームなんです。
組織といい教団といい、もともとそれは個人の信仰と二律背反するもののような気がします。

「ご」僧侶とか「ご」宗門とか「御」「法主」上人「げいか」「様」という言い方も、外からみれば「異様」なものです。
昔は正宗でも住職のことは「和尚」といっていましたが、せいぜい「和尚さん」で「和尚さま」ともいわなかったものです。
大石寺の住職だってせいぜい「上人」どまりで、内輪の坊さんも「げいか」なんて呼んだりはしていなかったようです。
妻帯したり妾をつくったり、外でこどもをつくったり、什器を売って酒代や博打につかったり、明治維新以降の正宗でもよくあったことです。
「代々僧侶」といったところで明治維新からがせいぜい、「代々法華」に比べれば新参者でしかないわけです。
つまり「代々法華」からみたら坊さんなんて偉くもなんともないわけです。
だからどんなに偉そうな坊さんでも「代々法華」にはさからうことはしませんね。
坊さんを敬うようにさせたのは創価学会でした。
それは、正宗の坊さんは他宗の坊さんとは違う、という考え方を徹底するための方策にしかすぎなかったわけです。
現実に、なぜ僧侶が偉いのか、を説明できるひとがいたらぜひ教えていただきたいと思います。

正宗の坊さんは、在家なんて相手にしていませんね。
彼らは「げいか」しか見ていませんから、「ひきこもり」に近いです。
はなっから「在家ごときがなにをいうか」というかんじですよ。

だからみなさんも、あまり「幻想」をもたないで、ふつうに信仰すればいいのでは。

という、つぶやきでした。

92ガンコ:2002/12/24(火) 19:18
タイゾウさん。
ただでさえクチのわるい人がますますヒドクなっている。
つぶやきだからって、あんまりじゃありません?
キザクラさん、気にしちゃいけません。

93トゴシ:2002/12/24(火) 19:54
気にしなきゃだめだよおお、あに言ってんの、ダンゴさん。
♪〜坊さんなんか出てこない、出てこない、出てこないったら出てこない
♪〜在家の心配しやしない、しやしない、しやしないったらしやしない
♪〜自分の心配それだけよ、在家は金だけ運んでこい・・・・♪♪

94三学無縁:2002/12/24(火) 20:16
トゴシさん、いわずもがな、ですよ。
秘すればこそ、って言葉もあります。
挑発しても無駄なものは無駄なんです。
どうも、トゴシさんの挑発は「嫌よ嫌よは良いのうち」のように感じるのは考えすぎでしょうか。

ところでお住まいは池上線ですか目蒲線ですか、あ、都営線もありましたね。

95アネモネ:2002/12/24(火) 20:40
独歩さんの>71のレスの中に書かれている

>独り善がりの社会から乖離した独善主義、しかし、そういう人から見ると世間のほうが独善と見える、この180度の見解の相違がどこから生まれるのか、よくよく考えてみる必要があると思うわけです。

このことは、本当に真剣に考える必要があると思いますね。
かつて、日本へ仏教が伝来してから、大雑把にとらえても明治維新までの間、仏教は日本の中で最高水準の学問だったといえるでしょう。比叡山で学ぶ学僧は、現代に置き換えれば東大出のエリート僧とみなされるでしょうし、また中国へ渡って仏教を学ぶ学僧は、さしずめバイリンガルといったところでしょうか。
重要な外交を担ったり、文化の交流をはかったり、時には政治の参謀として重用されることもありと、あらゆる歴史の局面に学識をもつて活躍してきたのが日本の仏教界だっという側面があるのかもしれません。しかし、それは残念ながら、日本が近代化するまでの話でしょう。近代化とともに、仏教は日本の中で国の舵取りを担う最高水準の学問ではなくなったわけです。
欧米先進国の科学的な学問に押され、ここ百年の間には、むしろ逆に今日に伝えられてきた仏教の歴史的信憑性が、科学的に検証されるようになったわけです。このことで、正しいと信じられてきたことが、実はお釈迦さまの教えでなかったというものもたくさんあるわけですね。
大きなところでは、法華経が釈尊が直接説いたものではないことなど、日蓮正宗にとって非常に都合の悪いことが証明されてきたのだと思います。180度の見解の相違とは、恐らく、学問的地位の逆転という見方もできるかと思います。

しかしこれは推測ですが、石山僧の中枢の方々は、そうしたことをとっくにわかっていらっしゃるのではないでしょうか。わかっていて、敢えてそのことを信徒には明かさない。
だから、ネットなどにおいそれと自らの教団の存亡に関わるような、墓穴を掘るレスなどするわけはないでしょうね。
しかも、歴史的事実を信徒に明かさないどころか、謗法という言葉を巧みに使って、そうした科学的検証などが耳に入らないように盲信させているわけです。もちろん、その目的は仏法のためなどという高い志のものなどではなく、ただ未来永劫にわたって、日蓮正宗の教団が金銭的に支えられるためでしょう。早い話が、今の僧侶方のお家安泰のため。そう、日本国の安泰や民衆の安寧のためではないのです。ただし、教団の繁栄は必ずや民衆の幸福につながるものという、言葉のトリックが信徒にはしっかりと刷り込まれているので、私がここに書いた指摘などは、なかなか気がつかないものだと思います。

話を学問的地位ということに戻しまして、宗教的なことで科学的に証明されないこともあるでしょう。しかしそれでも、少なくとも証明されてしまったことは受け入れるしかないわけです。それすら受け入れることを無視して、ただ自分は信じているの一点張りでは議論にならないわけです。
仏教が近代化という時代の波に乗れなかった原因のひとつに、形骸化ということがあるでしょう。形骸化とともに、人々は僧侶の教えを心から求めなくなってしまったわけです。ただ、葬式と法事のためだけの仏教です。それは求めなくなった民衆が悪いのではなくて、葬式仏教とまで揶揄されるほど形骸化してしまった仏教界そのものに原因があるわけです。
日蓮正宗もその例外ではありません。むしろ、他の教団のほうがその危機意識を持って、歴史に乗り遅れまいと模索をしているくらいです。ところが、日蓮正宗はおめでたいほど、僧俗ともにシーラカンスなわけです。

ところが、日蓮聖人という方、私の目からみると、形骸化ということを最も嫌った方ではないかと思われます。それは、日蓮聖人の生涯を通した行動原理そのものが物語っていると感じるものです。
お寺の行事に参加し、言いなりになっていることが信心だと思う姿は、本当に犠牲を払って仏教を研鑚した人の目から見れば、まさに形骸化された仏道に自己満足しているだけのことに映るのは無理もないことでしょう。
形骸化された教団から教えられる信心は、形ばかりの信心ということも言えると思います。

96三学無縁:2002/12/24(火) 20:43
アネモネさんの発言・指摘に全面的に同意します。

97アネモネ:2002/12/24(火) 21:03
三学無縁さん、心強いご賛同、ありがとうございます。

98モモ:2002/12/24(火) 22:19
なにやらマナー違反の投稿が続けてあるようですね。
掲示板の規定からしてマナー違反の投稿は断固削除すべきです。
ロム者に大変失礼です。

99やーこ。:2002/12/24(火) 22:48
99番目ですか。そもそも、私がかっとなったのは悪かった。
しかも、喧嘩に近い論争をやめさせるつもりが、水掛け論になってしまったのは
私の責任です。すみませんでした。富士桜さん、独歩さん、もう、やめてください。

信じる人信じない人の問題はこれ以上、やっても平行線のままだと思います。
現実を見ないで信じきってしまうのも、思い切って信仰をやめてしまうのも、
どちらでもいいのじゃないかと。

それから、管理者様、私の存在は消してください! といいましたので、
もう、消してください。五月雨さん、ほかみなさんへの宿題を残したままになってしまいますが、
もう、投稿もROMもしませんし、OFF会にも来ません。
私は悪魔教に入ることにしましたから。でなければ、他の「カルト」に行って、
自分の悪い思考を止めるつもりですので。この掲示板が原因ではないのは
行っておきます。自分の作った詩を見て、富士門流信仰にそぐわなくなったと
みましたから。アーティスト「マチルダ・キサラギ」として、活動して、
ますます壊れた表現家になろうと思って。自閉症は自閉症のままでいいんです。
とじこもりはとじこもりのままでいいんです。ご心配をおかけした皆様方、
ありがとうございました。そして、ごめんなさい。何かあったら、もうアクセス
しませんので、メール下さい。
moon0630@docomo.ne.jp(文字制限あり)
moon0630@itpmail.itp.ne.jp
http://myhp.cafesta.com/@darkmooon0630
http://plaza.rakuten.co.jp/darkmoon0630
みなさん、さようなら。

100モモ:2002/12/25(水) 00:56
誤解を招くのは心外なので補足します。
私が大変失礼に感じた投稿は88のレスです。

>富士桜さんの独歩さんへのお返事を読ませて頂いて思うこと。
>まだ信心三年の富士桜さん、甘いなぁということ。
>まだ日蓮正宗の現実が見えていないのでしょうね、そして吹き込まれた理想論に燃えているのでしょう。

人の心の何が分かるのでしょうか。決めつけは相手に対し失礼でしょう。
何が分かって「甘いなぁ」と仰るのか私には理解できません。投稿者の認識が「甘いなぁ」ということなら理解できますが。その根拠は次の通りです。

>信仰歴の浅い富士桜さんの文章を読むと、信仰歴は浅いのにこの信心特有の「他者への蔑視」を感じます。

なに人を高みから見下しているのですか。「まだ信心三年」「信仰歴の浅い」「信仰歴が浅い」という言辞でもって人を差別、侮辱していることに気が付かれていないようです。
「他者への蔑視」という表現はそのまま投稿者にもあてはまりますね。

>富士桜さんのレスは独歩さんへの…

これを読み替えてみましょう。

「五月雨さんのレスは富士桜さんへの個人攻撃になっていますよ。富士桜さんの人格をどの位傷つけているか分っていますか。」
そしてロム者も傷つけています。

>富士桜さんが「なんなんだこれは」と思われた独歩さんのレスは、富士桜さんの誤解から生じたものというのはご理解されましたか。どうも富士桜さんのレスを読んでいると読み違えの部分がかなりあるようにお見受けするのです。

正直いいますが私もこのレスに対し「なんなんだこれは」と思ったのです。どういうことか様子を見るためにも黙っていたまでです。「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう。一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか。

>どうぞ今一度冷静になって考えてみられたらいかがでしょうか。
>言うに事欠くと最後は個人攻撃、この構図を宗創戦争で嫌というほど見てきましたが、本当にみっともないばかりです。こんな事はこの掲示板では止めて頂きたいと思います。
「本当にみっともない」「止めて頂きたい」という言辞はそのまま投稿者にも当てはまります。
私からも投稿者にお願いします。「どうぞ今一度冷静になって考えてみられたらいかがでしょうか。」

なお独歩さんと富士桜さんの件について私はは中立の立場であり、不利な立場に付け込んだ驕慢の言を指摘しているということをひと言付け加えさせて頂きます。

101sat:2002/12/25(水) 02:25

独り言モードですが、
今まで信じていたものは何だったんだ・・・唯一絶対と信じ込まされていたものは何だったんだ・・みたいになると全てが180度違って見えてきます。

記憶を消し去り、リセットし、これまでの時間を取り戻すことができれば、どんなにか楽になるだろうと思います。
が、実際のところ、そうはいかないところがつらいところですね。捨てたくても完全に捨てきれない・・

修正可能な誤謬を発見する過程で、真の正しさはそのどこかにあるのだ・・
或いは自分で見過ごしていたものや、発見していないものがあるかもしれない・・
精査していけば、間違っていると思う自分が間違っていることがわかるかもしれない・・
などと私自身色んなことを考えてしまいます。

ネットの色んな掲示板を見て感じることですが、バトルは先ず批判をする権威を体内に取り入れ、禁じられた衝動の興奮を他人に投影することから始まるような気がしています。
その場合、自分自身に対しては厳格ではなく、他人に対して厳格となりがちです。

批判を取り入れることによって、どんなものが否定されるかということを自分は知っていますから、自己防衛のメカニズムが働いて不快な自己批判をどこかでごまかそうともしますよね。

その意味から考えれば、他人を激しく非難するのは、自分の罪悪感の代理の意味を持っているような気がします。自分で自分の罪に気付いてくるようになると、非難も同時に激しくなりますから。

でも、取り入れられた批判が内在化し、そのために自分の過程を自覚するようになるとき、その厳しさは自分に向けられ始め、そして他人に対する不寛容さは次第になくなっていくのではないかと思います。

しかし問題はその先にあり、この段階に来ると自己批判と罪悪感によって起こされるもっと大きな不快を耐えなければならなくなるのではないかと・・と感じるこの頃です。

102管理者:2002/12/25(水) 07:49

>98
なにやらマナー違反の投稿が続けてあるようですね。掲示板の規定からしてマナー違反の投稿は断固削除すべきです。ロム者に大変失礼です。

とのご指摘がありました。管理者は、現時点では、削除すべき、という判断に到っておりませんが、精査してみたいと存じます。その上で、掲示板のルールに照らして、対処、あるいは容認を決めたいと思いますので、少し時間を賜りたいと存じます。

103犀角独歩:2002/12/25(水) 09:27

富士桜さんと私の件は2人の問題なので、ここでこれ以上、この場所を使うのはどうかと思ったので、会って話すことを申し出たのです。
それにも関わらず、まだ、そのことを蒸し返す、これによって、また繰り返されている構造を理解できないのかと思うわけです。

私の「好い子ぶり」発言に関しては、メールで判事が来た段階で、「暖かく感じました」という一言を受け取ったので、その点で終わっていました。
ところがロム者が、それを蒸し返した。
さらにここで醜い様相を呈するようなので、個人面談で事を決すると私は記しているのに、また蒸し返す。こういう周囲の無配慮が掲示板を荒らしている原因にもなっているのに、荒らしているほうが荒らしていると気づかないわけです。

また、更にいえば、今回の件は先に記したとおり、私にとっては富士桜さんとの件は、メールの受け取りをもって、終止符が打たれていたわけです。つまり、当事者は、やーこさんと私であったわけです。けれど、菊水護国さんから「やめよう」という仲裁が入ったから私はその後、やーこさんのことに触れていなかった。やーこさんも悲鳴を上げ続けていました。99でもさらに悲鳴を上げている。可哀想であるという気持ちが年を食っている私にはあるわけです。

繰り返しますが、この件は言い出したやーこさんが「やめて欲しい」といい、さらに私は富士桜さんと私で話し合いで決するといっているわけです。
なぜ、蒸し返し続け、たき付け、囃し立てるのですか。

こういうことを記すのではなくて、富士門を考え直すことにここの意義があったのではないでしょうか。

104犀角独歩:2002/12/25(水) 09:40

モモさん:

あなたは五月雨さんに対した投稿はすべてモモさん自身に“言い換えられる”ことではないのですか。

モモさんは五月雨さんを「わかったような言い方」と批判した。しかし、今度、私がロム者の立場からモモさんの言葉を観察すれば、その言葉は発言したモモさん本人に当て嵌まると見えるわけです。

それと、もう一点、最近で言えば、アネモネさん、私は、あなたの「二元論」発言に対して、質問しているわけです。それには答えようともしない、批判するだけして、それに対して質問されると答えない、こういう不誠実な対応をしておいて、他人の非ばかりを論う自分自身に気づけない。そのために、あなた方の言葉を使えば「なんなんだ」という思いはこちらにもあります。

皆さんへ:

繰り返しますが、当事者間の問題は当事者で、を原則にしてすることが問題は明快になります。これは他のロムの方にもお願いをしておきたいと思います。

もちろん、賢明な意見を寄せてくださること…直前の例で申し上げれば、satさんのように…は、その限りではありません。事に乗じて、人身攻撃を重畳的に繰り返し、感情的にエスカレートするようなやり方は、ともかく自重し合いませんか、と提案しておきます。

105犀角独歩:2002/12/25(水) 09:41

【103の訂正】

誤)メールで判事が来た段階で
正)メールで返事が来た段階で

106犀角独歩:2002/12/25(水) 11:19

モモさん:

読み直し、不適切であると思うので「モモさんは五月雨さんを「わかったような言い方」と批判した」という部分は撤回します。

ところで、たびたび「ロム者」という言葉が出てきますが、このロム者には、五月雨さん、私は入らないのですか。

それと、

> 正直いいますが私もこのレスに対し「なんなんだこれは」と思ったのです。どういうことか様子を見るためにも黙っていたまでです。「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう。一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか。

という部分の「このレス」は私の「好い子ぶり」発言を指すのですか。
ということは、これはモモさんが個人が私に向けた言葉と判断できます。
そこで、おたずねしますが、そのあとに続く、「「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう」の意味がまったく理解できません。
これも私に向けられた批判なのでしょうか。意味を説明していただけませんか。
さらに「一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか」とは、これは私に言っている言葉ですか。「一方的に分かったような言い方」と決めつけるあなたの言葉は、あなたの言葉を使えば「失礼」には当たらないのですか。

以上、私という当事者が、発言当事者モモさんにお尋ねすることです。お応えください。批判された私にはそれに質問をし、かつ答えを受ける権利があります。
他の方には申し訳ありませんが、ご意見無用にお願いしたいと思います。

モモさんの「失礼」に当たらない模範的な在り方をここに示してください。

107犀角独歩:2002/12/25(水) 12:32

satさん:

> 唯一絶対と信じ込まされていたものは何だったんだ・・みたいになると全てが180度違って見えてきます

この意見にはまったく同感です。
ここは、その180度違う視点の違う信仰価値に基づく議論が可能かどうかの実験場みたいなところであると思えます。2年前、私は、この議論を可能にするものは、証拠主義に基づく方法論であると思ったわけです。これは学者の議論でも同様ですね。まったく違う意見で正否を事実が証拠となって認定していくやり方です。証拠を挙げられない学者に発言権はありません。しかし、ここの掲示板はそれほど、厳格な場ではありませんので、いつしか感情論がまかり通ることになるのでしょうか。意識しないと、水は低いところに流れていってしまうわけですね。

証拠に基づく論理的証明→感情的反論→論理的証明批判

というあってはいけない流れがいとも簡単に起こります。
以上のような流れは実は歴史の中に常にあったことですね。誰にでも手に入る岩波新書で挙げれば、J・B・ビュアリが書いた『思想の自由の歴史』はそれにもとづく記述であったし、森島恒雄の『魔女狩り』もそうでした。宗教者であってもA・D・ホワイトの『科学と宗教の闘争』という名著もありました。ここでは明らかにされたことは科学を宗教がどれほど、感情論によって抑圧し、進歩を妨げてきたかと言うことでした。しかし、現代は、その闘争後にあるのですね。

通常、証拠によって自分の考えを覆された場合、次に自分の持論を証明できる証拠が見つかるまで、それに甘んじなければならない、そこでまた、必死に学ぶわけです。まあ、私はまるで証拠主義で、さらにしがみつくものもありませんから、単純に優れた証拠、それを挙げる人には敬服します。ここで、もっとも駄目なやり方は「始めに答えありき」ですね。これでは時代に逆行してしまいます。もっと言えば、人間のようやくと手に入れた自由精神に違反することになるわけです。もったいないことです。

自分の考えと違うと、証拠も何もかまわず、感情的反発だけで心が占められてしまうこと…誤解がないように断りますが、これはここの投稿者・ロム者の特定の個人を指しているのではありません…。そして、異なる意見の人間への人格攻撃に終始し、それで勝敗を喫し、論理的証明まで覆してしまうわけです。これでは魔女狩りです。

この原因は様々に考えられます。その足がかりとしては、先にsatさんが挙げられた日本人特有の心理「甘えの構造」もあるでしょう。集団信仰の現場であれば、古典的な社会心理学的に見れば、権威主義的人格化ということもあります。魔女狩りとナチズムは、実は同じ心理構造によって支えられているという分析でした。現代的に言えば、破壊的カルト・マインド・コントロールという分析視点も有効であるというのが、satさんと私の共通認識であろうかと思います。

ここで重要なことは、この判断肢は複数で、かつ統計的であればあるほど、また、証拠主義に基づけば基づくほど、より精査され正確になるということですね。
ところが信仰集団は、これを認めさせない。判断肢(地図)はただ一つ、教団と指導者、そして教義です。

実は180度の違いというのは、ここの部分に由来することなのであろうと思います。
ですから、複数の判断肢を持つ人間と、一つの判断肢しか持たない違いが180度なのであろうと思うわけです。180度の違いを埋める方法論 ― 証拠主義 ―、もはや議論は成り立たず、一つの判断肢しか持たない側からの一方的な感情論で埋め尽くされてしまいますね。ですから、このときはまた、共通の基盤、証拠主義に戻って冷静な議論を始めればよいのだ、まあ、そうできる同士で議論をしていけばよいのだというのが、私の考え方です。

108sat:2002/12/25(水) 19:02

中村元氏の原始仏典の訳本なんか読んでみますと、仏陀自身がとても合理的かつ実証的な思考の持ち主であったような気がしました。「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」とか「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。」といった訳文がとても印象に残っています。

犀角独歩さんの「証拠に基づく論理的証明」や「証拠主義に基づく方法論」には大変共感いたしますし、信仰の次元においてもコペルニクス的展開が可能かもしれません。と同時に本掲示板の趣旨から見れば、それはフェーズ1なのかもしれません・・

精査してみて、そこから様々なものを発見していく段階をフェーズ1とすれば、次の段階は私達を取り巻く現状や社会、或いは未来に向けて、新しく見出したフェーズ1の視点に基づいて多様な示唆を提示していく・・こういったフェーズ2に至れば、本掲示板は大変価値あるものとなるような気がします。

更には、フェーズ2によって、新しい視点そのものが証明という観点から精査されていくのだろうとも思います。温故知新はフェーズ1とフェーズ2のワンセットによって、常に有効な手段になるのではないでしょうか?
ゲーテのファウストにある「日に新たに、また日々に新たなり」の言葉とか、ベルグソンのいう絶えざる進歩や前進を遂げていく「創造的進化」という言葉が思い浮かびます。

109sat:2002/12/25(水) 19:03

「感情論がまかり通ることになる」とのご指摘は、私達にとって言葉の意味を改めて考えさせられます。言葉の背景には発言者の感情が含まれている訳ですし、受け手側も理解していく背景に感情があるわけですから、僅かなボタンの掛け違えがいつまでたっても修正されるどころかますます乖離していくということは日常でもよくありますね。

富士門流の各組織や団体も類似点は、集団全体としての親和性を素地とした統合性にあるのではないでしょうか。そのいずれも、言語的コミュニケーションを超えた強固な連帯感があるかと思います。また、そうした統合性をもって、機能するときには、下位集団としての指導者群と従属者群の地位が分化し、連携と協力の活動を行うといういわばヒエラルキー構造を形成していくのだろうと思います。

カルト問題とも関連してきますが、集団構造は、その集団が対社会的にどの程度半価値的であるかに依存する面が大きいというパラドックス的な結合要因も見逃してはならないような気もします。集団によっては、それは必ずしも恒常的ではなく、ある状況下においてのみ妥当し、時とともに変動するとしても、反社会的であれば、それだけ構造は組織化され、ヒエラルキーを強固にしていくのではないでしょうか。

攻撃を一種のカタルシスとして見れば、攻撃を通じて組織は強化され、再び全体として社会に反抗する構えをとるようになります。それ故、反社会的価値体系の担い手としての集団組織と攻撃行動とは相補完的関係にあると言えるのではないかと思います。この場合の攻撃は組織維持の手段であるばかりか、同時に組織の目標ともなっているのであって、単に集団過程の位相として現れるものではないような気もします。

集団構造の側面からみれば、攻撃行動が反社会性を強化するか、社会化を促進するかの契機となる条件は、まず当事者が全体としての集団過程にどの程度関与していたかということだと思います。更に付け加える点は、指導者や従属者の役割をとる成員の固有のパーソナリティなのでしょう。自己顕示性格の強い人はしばしば全過程において、或いは特定位相(攻撃行動)において指導性をとりますから、彼の性格を集団過程が要請するとも言えるのではないかと思います。

ある成員の攻撃行動が単なる状況的・位相的な怒りの感情の表出か、それとも社会に対する根深い敵意の態度の表現かという重要な岐点に関連してくると思います。もし、敵意の態度の現われなら、攻撃行動のカタルシスの効果はもたらしませんね。また、更に言えば、現象的には攻撃をしなかった集団構成員に一層の敵意を認めることもできます。このようなパーソナリティの形成に、過去の生活体験(生育環境での体験)と素質が複合的に関わっているのだと思います。

110犀角独歩:2002/12/25(水) 19:33

シャキャムニについても同様の感慨を実は私も懐いていました。
世界で最も早く合理精神に目覚めたのはシャキャムニであったのでしょうね。

この掲示板における記述を、フェーズ(phase)として、とらえる視点は新鮮でした。
phase2とセットというのは、もっともながら、そこまでのグローバリゼーションまで、運ぶのは至難の業ですね。しかし、方向は、そうあるべきと思います。

反対意見を憎悪、憤慨に置換する手法は、人心操作の基本ですね。
また、論理性を感情論に置き換えるのも同様でしょう。これが攻撃行動(衝動)へと変換できれば、組織側の人心操作は功を奏したことになります。この場合、個人の行動を操作する基本が“権威”であって、その実質的な行動は“服従”ですね。まあ、個人レベルでは仲間意識なんかもそうなのかもしれません。

なお、私は学会から離れるのと併せて、ユング、また、ベルグソン、ショーペンハウエルなども含めて、いわゆるインド学の影響延長にある人々にかなり慎重になっており、それ故、その引用は控えてきました。

先だってから、それらをさり気なく引用されるsatのご投稿を拝見しながら、懐かしいなと。あ、これはもちろん、批判ではありませんよ。

特にユングは、意見が分かれるのであって、基本的には宗教病理研究なのでは、スポイルされますが、小田晋師などは、別段、そうでもありませんね。新鮮な感じがします。

一点だけ、質問させてください。

> 攻撃を一種のカタルシスとして見れば

この点を、もう少し、補足いただけませんか。

111sat:2002/12/25(水) 19:34
間違い:半価値的であるか
修正:半価値であるか

・・です。すみません

112犀角独歩:2002/12/25(水) 19:48

失礼、呼び捨てになっていました。もちろん

誤)satのご投稿
正)satさんのご投稿

です。お詫びし訂正します。

113犀角独歩:2002/12/25(水) 20:02

もう、出かけなければならないのですが、もう一点だけ。

> 言葉の背景には発言者の感情が含まれている訳ですし、受け手側も理解していく背景に感情がある

ええ、ここで「180度」も関係しています。
この感情を不瞋恚、慈悲とするのが仏教の在り方でしょう。
しかし、全体主義、カルト集団では、この鉄則を内部にだけ、通用させ、反対論者に憎悪と瞋恚を煽るわけです。この段階で、仏教教義から逸脱します。いまの学会を含む石山教学範疇の集団が、わかっていながら、あえて犯すタブー、集団煽動の方法論でもあります。

114無徳:2002/12/25(水) 20:12
皆さん今晩は、仕事が一段落したものですから久しぶりの書き込みです。

今更ながら、言葉のやり取りの難しさを皆さんの議論を拝見していて痛
感します。

 かつて私も独歩さんとの意見交換のおりに言語使用の困難さを感じて、
直接お会いして話す事がなにより肝要と思い、池上でのミニオフ参加して
独歩さんと直にお話しすることが出来ました。

お会いしての会話は、やはり掲示板でのやり取りとは趣が異なりました。
それはそれで又違った難しさはございますが、とにかく互いの息使いを感
じながらの話し合いですから、なにより相手を思いやる心がなければ反っ
て危ないことになりかねません。(笑)

 掲示板での発言から受ける独歩さんの強い感じの表現とは違って、大変
理性的で知的な中に優しさを感じさせる好青年、いや好男子かな!であり
ます。

日蓮御坊も普段いろいろな方とお会いしてお話をなされたこと思います
が、常に「四箇の格言」を前面にしてお話されるはずもありません。それ
どころか御消息文を拝するかぎり、話される相手を包み込まずには置かな
い様な慈愛と思いやりに満ちたお姿と言葉が溢れておられたことと推察さ
れます。

 むろん、他宗のお坊さんと公場対決のような形でお話しなさる時は激し
い気迫と、あの開目抄に見られるような強い確信で言語を駆使なされたこ
とでしょう。しかし、おそらくその時ですら深い慈悲のお心を以ってなさ
れたことと確信します。

 とにかく言葉と言うものは文章によって確定した形になってしまうと、
時間の流れや心的な情動を失いがちです。したがって、相手に対しての心
情や客観的見方を表現しきれない処から来る誤解や偏見を生みがちです。

 お互いにそれらのことを理解し、それを踏まえたうえで論議しないと、
いたずらに感情的になってしまい結果として相手に誤解を与へたり傷つけ
てしまうことになりかねません。
ましてや、それぞれの方が置かれている状況が千差万別ですから、お互い
に相手を理解し思いやる心無くしては真の会話は成立しないと思います。

 もちろん相手が、こちらが全く受け入れられない様な言動をすることが
あるでありましょう。しかし、その時でも相手を理解しようとの思いやり
が不可欠と思います。ただし、どう見ても間違ったことを言っていると思
われた時は冷静に指摘してあげることが慈悲かもしれません。

 その辺の兼ね合いが大変難しいと言えば難しいですが、やはり、相手を
思いやる心が基本といえましょうか、いずれにしましても、この掲示板に
集う方々の多くは、それぞれ立場は違っても、日蓮御坊の弟子を自認なさ
れる方々と推察します。であるならお互い日蓮御坊の精神に立ち返るしか
ありませんですよね!

長々と記しましたが、これらのことは自分自身に言い聞かせつつ自戒す
る為にも書かせていただきました。どうか失礼の段がございましたらご寛
恕ください。

115富士桜:2002/12/25(水) 22:36
独歩さん、そしてロムされている皆様への謝罪文
.
先ほど独歩さんに電話をもってお詫びさせて頂きました。
しかし、それだけではずうずうしく思い、また、この掲示板を見ていられる方に失礼にあたると感じ(散々失礼な書き込みを続けていたとは思われるでしょうが)正式にここで書き込ませて頂きます。
.
この度の件は、独歩さんに自分自身の個人的な怒りにまかせた投稿による「過ち」であった事を認め、ここへ謝罪いたします。
独歩さん、申し訳ありませんでした。
また、個人的な電話による謝罪にも寛大に応じて頂いた事を本当に感謝しています。
.
舌の根も乾かないうちから180度違うこの書き込みも、最初こそ確かに怒りに任せての投稿でしたが、何度も打ち直しているうち、読まれている方々にも散々指摘されていましたが、自分自身は以外に早く冷静になってしまっていました。
自分自身が仕掛けたはずなのに、仕事もプライベートも嫌な気持ちでここ数日過ごしていました。
しかし実際独歩さんを相手に、あそこまで書いてしまった以上ひっこみがつかなくなっていた、と言うのが本音です。
.
多岐に渡り個人攻撃を書き込んだ為に、独歩さんから自分への返答を求められる場所も当然あるかとは思いますが、これ以上またここへ書き込んでしまうと、文字だけでは限界がある、と今回感じました。
.
これは自分の書き込みに対する対処の問題に関しての認識ですので、今後は実際にお会いして、自分も聞きたい事、または言いたい事は、、、とりあえず同じ東京なので自分の方からお伺いさせて頂きます。
.
また今回自分が引き起こした独歩さんへの個人攻撃において、お怒りの方も納得されない方もいらっしゃると思います。
反省の念も込めまして、お一人ずつに必ず返答します。今度こそ名前の所にメアドを入れておきましたのでお叱りの言葉を入れて下さい。
.
また正式に独歩さん、または管理人さんにはこの掲示板を通じお許しは得ていないのですが、これを機にここを立ち去る事、これこそ独歩さんの意に反する事と思いますので、今後も書き込まさせてもらいたい意志がある事を明記させて頂きます。
.
以上です。

116モモ:2002/12/26(木) 01:11
犀角独歩さん:

>ところで、たびたび「ロム者」という言葉が出てきますが、このロム者には、五月雨さん、私は入らないのですか。

「掲示板を閲覧している第三者」という程の意味です。

>> 正直いいますが私もこのレスに対し「なんなんだこれは」と思ったのです。どういうことか様子を見るためにも黙っていたまでです。「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう。一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか。
>という部分の「このレス」は私の「好い子ぶり」発言を指すのですか。

違います。3の「特定の個人の顔色…」のレスを指します。故にこの部分は私が独歩さんに向けた言葉ではないので、それ以下の質問は意味をなさないと考えます。
「一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか」とは100のレスで直前に引用したレスを指します。
また私が失礼に感じたのは信仰歴を云々して相手をさげすむような表現です。「まだ信心三年」「甘いなぁ」「信仰歴の浅い」「信仰歴は浅い」などのような言辞は差別的だと考えます。

>当事者間の問題は当事者で、を原則にしてすることが問題は明快になります。これは他のロムの方にもお願いをしておきたいと思います。

という意見には賛成です。私が問題視しているのは当事者間の問題に、一方をかばい一方をさげすむようなレスが入ったことです。
蒸し返した張本人のレスはまさしく88のレスです。私はそれを問題視しているのです。実に無礼なことです。

>それと、もう一点、最近で言えば、アネモネさん、私は、あなたの「二元論」発言に対して、質問しているわけです。

すぐさま追って投稿させていただきます。よろしくお願いします。

117アネモネ:2002/12/26(木) 02:08
富士桜さん

今回、個人的感情にせよ、あれだけのレスを書き込むそのパワーはすごいものがあったなと、ある意味で感心してみていました。確かに第三者にとっては不快な内容もあったのかもしれませんが、そんなことより公開の場を使ってでも訴えたい自分の内なる思いをみつめる良い機会だったのではないでしょうか。少なくとも、人の目を気にせず、体当たりなさっていた印象です。
確かに掲示板は荒れたかもしれませんが、荒らしただけの発見もまた、第三者も含めてそれぞれにあったかもしれませんね。
掲示板のルールに明文化できるものではありませんが、私の中では、そういうのも有りだと思っています。人間同士のことなんですから、感情の行き違いはありますね。それをはっきりさせることも、ときには大事だと思います。
まずは直接のお電話で、意思の疎通をはかられたこと、本当に良かったです。今後また直接お会いになって、膝を交えて話をなされば、さらに新しい発見もあることとお察しします。これからも自分の思いや考えを、どんどん綴っていかれますように。

118sat:2002/12/26(木) 06:38

犀角独歩さん:

亀レスになりました

>懐かしいなと。

心情的にとてもよくわかるような気がします(笑)私はいまだ創価学会員ですから。


> 攻撃を一種のカタルシスとして見れば> この点を、もう少し、補足いただけませんか。

人の攻撃性を規定する因子としては、人が「言語」と「記憶」をもち自らの歴史性を担う精神的存在であることを考慮しなければならないと思います。集約すれば、①同一視、②投射、③記憶の三点かと思います。

①の同一視ですが、これは人は他者の苦痛を感じることができるという意味で書きました。サディスティックな感情は人特有の感情であり、同一視の典型かと思います。

②の投射ですが、これは自分の内的攻撃性を他者に投影し、自分の防衛のために他者を攻撃するということになります。これは犀角独歩さんのご指摘にある集団現象としての魔女狩りにも当てはまるのではないでしょうか。

③の記憶ですが、人は過去を現在に持ち込む記憶能力がありますよね。八つ当たり take it out on の it は慢性的なフラストレーション・憎悪・復讐心・執念を指すとも言われているようです。

攻撃を①衝動的攻撃と②計画的攻撃に分けて考える人もいるようです。衝動的攻撃は抑制と抑圧能力減退によって起こるものであり、最小の契機で衝動の爆発の起こる状態を「攻撃性失禁」と称しているようです。それに比較して「計画的攻撃」は、投射によって起こり、決意と実行の間にはある一定の時間を必要とします。これが人特有の攻撃パターンだろうと思います。

或いは、子供などを見ていますと、その攻撃性は外界の人や物に向けられているのをよく目にします。「甘えの構造」の中で、依存欲求の転移性攻撃といったことを前述しましたが、攻撃性を自己に内在する不安からの脱却とか、自己充足的な活動とみなした場合、こういったことと関連してくるのではないかと思います。

攻撃は当然相手の報復の危険をもたらすのでしょうが、報復に対する不安から攻撃が一層激烈で容赦ないものとなる悪循環が成立してくるようにも感じます。これも多分、人のもつ記憶・同一視・投射からくるのではないでしょうか。

「人は山の中で孤独になるのではなく、群集の中で孤独になるのだ」といった言葉がありますが、他と関わりなく孤立存在することは、個人にとって耐え難いものがあり、また集団にとっても、継続的に存続維持することそのものが不可能だろうと思います。集団が集団足りうるためには、組織規範と外界規範といったダブルスタンダードにおいて外界に向かって攻撃を仕掛けていくことがカタルシスにつながっていくということにもなるのでしょうか。カルトがカルトたる所以は、そういったところにもあるような気もします。

集団間の葛藤に問題を転じますと、比較的固定した支配的序列が、新しい異質な侵入者によって、結果的に集団内のシステム崩壊につながっていくといった前兆段階において、攻撃性の亢進や触発が起きるということかもしれません。外界に向かって・・

119モモ:2002/12/26(木) 09:09
犀角独歩さん、アネモネさん

>> 二元論で考えることは有効な思考方法であると同時に危険が伴う場合があると思います。

アネモネさん>私もこの発言は意味がとれないのですが、私の前のレスの説明が二元論だということなのでしょうか。

そうではなくて、一般論として「信じる、信じない人の理論」という二元論があるということです。そして

独歩さん>これは至極当たり前のことでしょう。
独歩さん>さらに言えば、二元論で考えるか・考えないのかという二元論もまたあるわけですね。

という意見もあります。

独歩さん>それは私の意見として、このモモさんの2行が、どうして、私の質問の「差別という語に敏感に反応する」の答えになっているのかが、わからないのです。
独歩さん>ちょっと、補足してもらえませんか。

私は「信じる人の理論」「信じない人の理論」を相対的に考えているということです。

独歩さん>石山教義の差別性、しかし、よく考える必要があるのは事実ですね。
独歩さん>「信じない人の理論」を無視する信じている人の論理を「独善」と呼ぶのだと、私は思います。独り善がりの社会から乖離した独善主義、しかし、そういう人から見ると世間のほうが独善と見える、この180度の見解の相違がどこから生まれるのか、よくよく考えてみる必要があると思うわけです。

「信じない人の論理」を無視する信じている人の論理であれば差別ですが、信じている人の理論と相対的に信じていない人の理論を考えることは有効だと私は考えるからです。
故に「信じない人の理論」という言葉を即、差別ととるのはいかがなことでしょうか、と思ったのです。ここの独歩さんのレスに信じる、信じないの考え方が明瞭、簡潔に示されていると思います。

120アネモネ:2002/12/26(木) 09:46
モモさん

たぶん、まだ私の言っていることが理解されていない気がします。
もう一度、自分の言葉と私の言葉をよく考えてみて下さい。
「アネモネさんの言っていることは、信じてない人の言葉だと思います」
言葉は正確ではないかもしれませんが、そのようなニュアンスのことをモモさんは私に言ったわけですね。これは掲示板でも自ら認められたことでした。
この言葉の持つ意味が「信じる人、信じない人」という二元論的発想なのではないでしょうか。自分を信じる人とみなし、私を信じない人とみなした二元論です。
一方、私は、「信じる、信じない」は内心の問題であって、本当のところは誰も立ち入れない話だと言ったわけです。この人は信じる人、この人は信じない人などと、安易に他人が選別できることではないと言っているわけです。そんなことを意識するなと。「信じる人の言葉、信じない人の言葉」と人を分けて考えたりしないで、まっすぐ教義を検証すべきだと言っているのです。それは、石山が指導している内容とは違っているからモモさんには馴染めないことかもしれませんが、石山の指導が二元論的思考であるということは、気がついておられますか?
私の言っていることのほうが相対的なのではないでしょうか。モモさんが、私も含めて信じていないとみなす人の言葉、どことなく肝心なところを都合よく聞き流しているのではないかと、感じるときがあります。掲示板の書き込みを通しても、モモさんが人の話を相対的に捉えているとはなかなか思えないというのが、率直な感想です。

>「信じない人の論理」を無視する信じている人の論理であれば差別ですが、信じている人の理論と相対的に信じていない人の理論を考えることは有効だと私は考えるからです。

モモさんはまだ私の言っていることが理解できてないようです。私に対して、「信じてない人」となぜレッテルを貼るのでしょう。それが差別だといっているわけです。石山の理論から言えばそういうことではないでしょうか。百歩譲って、モモさんには石山流の差別の気持ちはないとしても、私としては、私がここに書くことも含めて、モモさんに話すことも、「信じてない人の話」とレッテルを貼られることは不本意なわけですね。差別された気分にもなるわけです。それこそモモさんが五月雨さんに発していた言葉ではありませんが、私の心の内の何がわかるのでしょう?といったところです。
「信じていない人の論理」とレッテルを貼ることが、二元論的であり、差別思想にもつながる考え方ということ、もう一度考えてみて下さい。
相対的に考えようと思うのであれば、自分の尺度で人にレッテルを貼らないことだと思います。

>ここの独歩さんのレスに信じる、信じないの考え方が明瞭、簡潔に示されていると思います。

この独歩さんのレスは、重要なひとつの問題提起ではむないでしょうか。モモさんも信仰者として、このレスに納得するだけではなくて、このことを真剣に考える必要がかるのではないかと思います。
ちなみに私は、この問題提起は非常に重要なことだと思い、>95で現時点での考えをまとめております。

121sat:2002/12/26(木) 11:12

二元論、或いは「信じない人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、

素朴な質問ですが・・

仏教(極めて曖昧な表現ですが)を、①合理的な思惟として見ていくのか、②認識論として見ていくのか、③哲学等諸学全般の中で見ていくのか、④救済原理として見ていくのか、⑤自身の信仰という次元で見ていくのか、⑥はたまた別の視点で見ていくのか・・・で、ベースとなる議論や考え方や解釈や方向性も違ってくるのではないかと思いますが、掲示板の趣旨に沿えば一体どこに戻っていけばいいのでしょうか?

話題に即していなかったら無視してください。

122sat:2002/12/26(木) 11:33

間違い:二元論、或いは「信じない人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、
修正:二元論、或いは「信じる人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、

すみません

123犀角独歩:2002/12/26(木) 12:36

富士桜さん:

昨晩はお電話、有り難うございます。
ちょっと、打ち合わせ中でゆっくりとお話ができずに残念でしたが、近いうちに必ずお会いしましょう。

今回の件は私の「好い子」発言に就き、周囲からの不満が上がったことに、大きな原因があったのでしょう。この点を私は率直に認め、反省し、謝罪の意を表します。

しかし、このような私の投稿に対して、誠実なメールを下さったことには「オフ会開催案内」328で既に謝辞を述べたとおりです。

私は「議論は常に生産的であれ」と思っています。
ですから、意見の相違もまた、生産の助とできれば、過去の経緯がどうであれ、良い結果として生かせるのが議論であると思います。

> これを機にここを立ち去る事、これこそ独歩さんの意に反する事と思いますので、今後も書き込まさせてもらいたい意志がある事を明記させて頂きます

ええ、そのとおりです。
寛大な管理人さんもそれを望んでおいでであろうと拝察します。

議論は分かれ去るためにあってはならないものですね。繰り返しますが「議論は常に生産的であれ」ですね。

では、再会を楽しみにしております。また、投稿を期待しています。

124犀角独歩:2002/12/26(木) 12:38

無徳さん:

ご無沙汰しています。
ご投稿の内容、よく噛み締めさせていただこうと思います。
有り難うございました。

125犀角独歩:2002/12/26(木) 12:42

> 118 satさん:

解説、有り難うございます。
たいへんに整理されていて、参考になりました。

126犀角独歩:2002/12/26(木) 14:20

モモさん:

信・不信ということ、私は、これは二元論ではなく、二極論、より正確に言えば、二極思考という視点で考えなければならない問題であると思います。

辞典に拠れば

にげん 【二元】
事物が異なる二つの原理で成っていること。また、その原理。「物心―の哲学」

とあり、けれど、「二極」という成句は載らず、「極」は

きょく 【極】
(1)物事のそれ以上行く先のない最後。きわまり。きわみ。果て。極限。

という意味を持つとのことでした。
この意味からすれば、モモさんがいう「信じる人・信じない人」という観点は、二元論ではなく二極論になっていませんか。

私は仏教に言われる信・不信は元来、移り変わり、定まらない心的状態を、いちおう二つに分けて信を目標とするのでしょう。そして、完全な信の状態は、ほぼ成仏・記別と同義に扱うのが法華経ではないでしょうか。

蓮祖にしても、彼の『開目抄』における自問自答のなかに於いても、「我が身法華経の行者にあらざるか。此の疑ひは此の書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑ひを強くして答へをかまうべし」と、厳しく論を構えるほどなのであって、その700年後の我らが容易に「私は信じている」などという事自体、まあ、モモさんの言葉を使えば、蓮祖に対して「失礼」に当たるでしょう。

そして、ここで重要な点は、この記述において「信」の対語に日蓮が置くのは不信ではなく、「疑」です。そして、「疑ひを強くして答へをかまう」というのです。

この信・疑の対句関係は、聖人の特質ではなくて、天台已来の系譜です。
例えば、玄義には「斷大“疑”生大“信”」と言う如く、また「動執正“疑”」に「断疑生“信”」という如くです。

そもそも石山教学では、真偽未決の『教行証御書』を採り、その下種の特性を金剛宝器戒というのです。「此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず」という一文をもって、受戒を説明します。ここで、一度、受戒をした者を「信じない者の論理」と排斥することはできないことになるわけです。信・不信は証悟に至る道程なのであって、その課程において、信・不信のレッテルを貼ることは、私は実に相手に対してというより、何より教化の師・日蓮に対して、実に「失礼」なことに当たるでしょう。何故ならば、下種の衆生を皆成仏をするというのが、少なくとも石山義で言う日蓮の教えであるからです。

石山義では真偽未決の『経王殿御返事』の「日蓮に怨(あだ)をなせし人々は、先(ま)づ必ず無間(むけん)地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成って成仏すべし」という一節を採って、文句記の因謗堕悪・必因得益、所謂、毒鼓の縁に充て、本仏の種熟脱の長遠の師弟関係を宣べることを詮とします。これらの定石がモモさんは「自分を石山を信じる人の理論」といいながらまったく考慮されていない点で、石山義、日蓮義、妙楽義、天台義に至っていない見受けざるを得ないわけです。

更に言えば、私はモモさん「信じない人の理論」という一節を読んで直ちに想起したのは、石山教学、日蓮教学でも、仏教でもなく、キリスト教です。「唯一絶対・全知全能の神を信じなさない」「信じる者は救われる」、そして、この神は証明することができない故に正しいというキリスト教の神学系譜です。

この点は、しかし、モモさん独りの問題ではなく、日本仏教全体が抱える問題点です。西欧化のなかで、仏教の根本仏をキリスト教の全知全能の神の如くに見立てる傾向が、近代、強く起こり、その解釈を日蓮の考えであると誤謬され現在に至っています。この点は、むしろ、みかんさんがお詳しいところでしょう。

キリスト教の信は何もわからなくても成立しますが、日蓮が言う信は、常に「疑」の克服の上に成り立っています。その意味から、私から見ると、モモさんの言う「信じる人の理論」は日蓮的ではなくて、キリスト的であると思えるわけです。

あと、「失礼、失礼」を連発する前に、自分が相手に対して、失礼に当たらないのかを少し考えてみる余地があるのではないでしょうか。私から見る限り、モモさんの対応は実に失礼なものになっていると映じます。

127みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 14:59
信について。

わたしは漢文仏典を読む機会が多少ありましたが、その際に引っかかったのが「信」という感じの意味でした。これは現代日本語の信じるとは違う意味なのではないかとずっと考えていました。そうでないと理解できない用例が多いからです。

漢文仏典で使用される「信」ということばは、信・疑、信・不信が対になったことばではありません。もし宗教団体の信者が自分が信仰している、信じているとういことを「信」だと思うので有ればそれは誤りです。その人は「信」を得ていません。
宗教の信者の信は相対的なモノであり、自分は絶対の確信を抱いている、この信は揺らぐことはないと今は思っていても、機縁さえあれば容易になくなってしまうモノです。

わたしが漢文仏典で見てきた「信」とは全く別のことです。それは慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなることです。
法を慧眼で見、知るということは、事実を事実として体験したということですから、それは揺らぐことがありません。それはのどが渇いたら水を飲むとか、眠くなったら寝るというのと同じぐらい当たり前のことです。「のどが渇いたら水を飲む」ということを信じる人などいません。それはナンセンスです。それは事実として誰でも知っていることです。そのような有りようが、仏教における「信」の意味です。そして「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。

128みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 15:04
×感じ
○漢字

ですね。

余談ですが、レッド・ツェッペリンのStairway to Heaven の最後の[When all is one and one is all, to be a rock not to roll.]
(全てが一であり、一が全てであるとき、巌のように確かな物となり、揺らぐことはない)という神秘主義的表現は、そういう「信」であるのだろうなと思っています。

129みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 15:09
127を書いた後で、独歩さんの126を読みましたが、126の内容と私の127は矛盾しませんので念のため。

仏教(特に禅宗)では「疑団」ということを大事にします。疑団がなければ菩提心もないし、「信」も起こらないわけです。一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」です。

130犀角独歩:2002/12/26(木) 19:15

> 漢文仏典…「信」…慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなること
> 一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」

こう記されると、ようやくと仏教で言う「信」が見えてきます。

これに反して、現在、言われるような「絶対的信仰」のようなものは、外来思想で変形したものであると見ることを私は指示します。

以前、これらの点について、バカバットギータのバクティ(誠信)思想の影響であるという岩本裕師の説を紹介したことがあったのですが、特に浄土系の人に反発を受けた記憶があります。

一部、紹介すると、

「バクティ
 =誠信。バクティとはある特定の神への絶対的帰依を意味する」『極楽と地獄』

「バクティー(誠信)を説くバーガヴァタ教の信仰が西北インドに盛んに行われていた。……仏教ともバーガヴァタ派とも関係の深いヨーガは哲学の基本経典の『ヨーガ=スートラ』はおよそ西暦300年頃に編述されたと考えられているが、この経典の始めにプラニダーナという語がバクティと同じ意味に用いられている。これは明らかに自力的なプラニダーナが他力的なバクティに解釈し直されたことを意味しており、当時の西北インドにおける宗教思想を示すものと言わねばならぬ」『布施と救済』

この点についてはたしか、ワラシナさんが「信」の起源を仏典に探り、興味深い論考をまとめていたと記憶します。みかんさん、ご存じありませんか。ご本人がロムしてくださっていたら、是非ご紹介いただければ参考になるのですが。

「バクティ(仏教への影響)
 バクティ思想が水のみなぎりさかまくように西北インド方面の宗教界に渦巻いていたことを示し、自力的な菩薩行をモットーとする仏教徒もこれを無視することができなくなり、自らの教説の中に採り入れて、理論的調和をはからざるをえなかったことを示すといわねばならぬ」極楽と地獄』

ところで、岩本師は、このバクティが浄土思想の「信」に強い影響を与え、仏教からかけ離れた恩寵説の信仰を生じさせたとも指摘するわけです。

「称名念仏ということは、仏の恩寵を懇請することであり、バクティと同じ宗教的態度である」(同)

「ヒンドゥー経のバクティ(誠信)思想が仏教に受容されて本願思想が展開し、これが大乗仏教の菩薩思想と結合し、さらに西アジア方面の宗教思想(救済)の理念を受容して、阿弥陀仏と極楽の信仰があらわれた」『布施と救済』

というわけです。しかし、浄土系の学者は恩寵説、本願思想、それよりなにより、阿弥陀如来が仏教から生まれたものであるという見解なので、この点に否定的になるわけです。シンクレティズムを否定する理由が私にはわかりません。

オウムで知られるバクティ(ヨーガ)の起源をバカバットギータに求める緒論です。
すぐ見てわかるとおり、これらのバクティに係る信の有様はみかんさんがご紹介くださったところとは違い、実にキリスト教的です。キリスト教の信の様態はバカバットギータに言うバクティ(誠信)、あるいは浄土教と強い親和性があるように見えます。

「念仏しようという善意志と信心とは全くアミダ仏の恩寵の賜物
この思想は明らかにキリスト教の恩寵説と全く同じであり、アウグスティヌス(354−430)の言葉を借りれば「恩寵の賜物」Gratuitum donum「神の恩恵的な恩寵」Gratia Dei gratuitaであり、したがって「恩寵が功徳を与えるのであって功徳によってそれが与えられるのではない」Gratia dat merita, non meritis daturということである」『極楽と地獄

と岩本師は指摘します。

さらに中国では、キリスト教の流伝は、既に貞観9年(635年)で確認できるというので、天台から時を経ず、恩寵説の信は仏教にも影響を与えはじめたと見てよい気もします。

「信」の意味も、再考してみる必要があろうかと思われますね。

131犀角独歩:2002/12/26(木) 23:41

モモさん:

「失礼」だと、何度か、私は書いたけれど、若いあなたのこと、気にもしていないかも知れないけれど、鷹揚に構えて、自在にレスしてください。
誤解なきよう、私はそんなに個人のそのものには批判的ではありませんから。
集団には厳しいけれどもね(笑)
まあ、レスを楽しみにしていますよ。

132無徳:2002/12/27(金) 00:37
独歩さん今晩は:

 こちらこそご無沙汰しました。仕事に追いまくられ精神的にも余裕を失って
いました。まだまだ、修行が足りませんですね反省していますがこれも我が力
量のしからしむ故かも知れません。

 独歩さんのご活躍には本当に頭が下がる思いです。ただ、私も独歩さんもこ
れまでは解体作業を主に成して来たのではないかと思います。

 ただ、私は力量の不足の故に、自らの心的領域に住む共同幻想の解体に追わ
れていましたが、独歩さんは一歩先んじて大きな組織との対決の中で共同幻想
の解体を担ってこられたものと思います。

 創価学会や法華講更には顕正会と、まさに共同幻想を紡ぎだす巣窟との対決
でしたね、しかし、最近私は年齢的に先が見えてまいりました故か解体作業だ
けでは気が済まなくなってまいりました。

 残された人生を建設的な作業に振り向けたい衝動に駆られます。もちろん新
たな建設のためにはまずは解体作業が不可欠ではありますが、いつまでも強大
な組織や絶対者との対決を試みても空しく感じるのは私だけでしょうか?

 この掲示板の目指すコンセプトも富士門流の再構築では有りませんでしょう
か?問答迷人さんのご意見を賜りたいと存じます。

 なんとしても、この目の黒いうちに新たな日蓮仏法の燭光を見ずして旅立つ
のは口惜しい気が致します。むろん、私如きが出来うる事は限られたものと自
覚してはおりますが、独歩さんや更には様々な形でこの掲示板に集う方々と共
に草の根的に共同戦線を張れたらと思わずにはおれません。

 特に私より一回りもお若い独歩さんであれば成し得る領域は大変広く、また
その力量も十分に備わっておられると確信いたします。かってに期待や確信を
されても迷惑とは思いますが、おそらく、誰かが成さねばならない使命を持っ
ていることで有りましょう、私も出来うる範囲でその使命の一端を担えれば幸
いと思っております。

 来年は私にとって6回目の未年です。つまり、還暦というわけであります。
新しい年に向かっての決意表明みたいな投稿になってしまいましたが、皆様に
とっても縁り良き建設的な未年となられることを祈りつつ筆を置かせていただ
きます。おやすみなさい!

133今里祐二:2002/12/27(金) 02:48
独歩さんへ

>漢文仏典…「信」…慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなること
> 一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」

「慧眼を開くことによって、……」か、素敵な言葉ですね。

僕自身は、御書の中で当たり前のように語られている「輪廻転生」ということと、
石田次男さんや福島源次郎さんを通じて教えていただいた「無我」ということ、
この二つを「同時」に理解することが出来ず、ずーっとそこに引っかかっていたのですが、
ある日、ふっと「別に、解らなくても良いんじゃない」と思うことが出来て、
それ以降は仏法に対しての迷いはほとんどなくなったような気がします。(気のせいかも…(^^:

理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;

僕の理解した一念三千では、大聖人様が自受用報身如来様でないと困るので、
独歩さんが主張されている

>日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である

という考えは、おそらく一生受け入れることは出来ないでしょうが、
独歩さんの広大な知識をベースにしたカキコにはいつも勉強させていただいています。

ではでは。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

134モモ:2002/12/27(金) 04:57
アネモネさん、レス拝見しました。

「アネモネさんの言っていることは、信じてない人の言葉だと思います」
というような発言は撤回し、おわびいたします。もとより「レッテルを貼る」つもりはなかったのですが…。
申し訳ありませんでした。

135アネモネ:2002/12/27(金) 09:14
モモさん

今回は逆に、私の語気の強いレスが、モモさんを傷つけたかもしれませんね。モモさんがレッテルを貼るつもりはなかったこと、わかっています。
独歩さんの126のレスを読んで、私がなぜこの「信じていない人」という言葉に敏感に反応してしまうのか、その理由は恐らく、私自身がキリスト教を経験しているからなのだろうと、新たな自己分析を得ました。
もともと私はモモさん自身のことを非難しているわけではないです。「信じていない人の言葉」とその言葉に神経質に反応したからといって、逆にモモさんに対して偏見を持っているわけではないですから、気にしないでください。
ただ、刷り込まれた考え方そのものを、この掲示板を通して考え直してみてもらいたかったのです。それを伝えたくて、オフ会の3次会のときから続けて、多少語気も強くなりました。そして、やっとこの問題に向き合ってくれたのでは、という感触を得た気がします。
モモさんが自分の名誉のために反論してくれたことで、独歩さんやみかんさんから、仏教における「信」の本当の意味、本当の捉え方を示していただき、かえって良い方向を得たと思います。
あまりに当たり前に使っている言葉というのは、ほとんどの人がそのまま疑問に持つことなく、考えなおしてみることもなく、やり過ごしているものですが、実はそこに非常に重要な、ある意味で根源的ことが潜んでいるものなのかもしれませんね。
私にとっても大変勉強になりました。

136sat:2002/12/27(金) 11:22

懐疑とは本来、「うかがう」「正確に調べる」「求める」「探る」などを意味していたようです。その意味から考えますと、懐疑によって求められているのは懐疑ではなく真理であるということになりますでしょうか。懐疑が払拭されない限り、探求は続くのだから徹底的に懐疑家であるべきだと・・

一方で、信は疑を生みだし、疑いは信を深めていく・・その往還において理性は有効ではあるが、理性によって絶対的な信に到達するものでもないと・・

絶対的な信(表現が適切かどうかわかりませんが)に到達した後に来るものは何でしょうか?心の平安なのでしょうか?誓願なのでしょうか?救済なのでしょうか?それとも?


無徳さんの「解体から再構築へ」との示唆は大変共感いたします。

137問答迷人:2002/12/27(金) 12:09

無徳さん

>この掲示板の目指すコンセプトも富士門流の再構築では有りませんでしょうか?問答迷人さんのご意見を賜りたいと存じます。

仰るとおりです。当初は、富士門流と言うものの、実際は大石寺門流の再構築を目指して出発しましたが、現在は、掲示板のコンセプトは結果的に拡大され、文字通り、北山本門寺、西山本門寺、保田妙本寺を含む、富士門流の再構築を目指す事となったと思っています。

138犀角独歩:2002/12/27(金) 13:35

無徳さん:

有り難うございます。
また、お会いし、お話ができればと思っております。
そうですか、無徳さんは未年でいらっしゃいますか。
還暦といえども、あと20年はばりばりと共同幻想を壊していただかなくては。
20年プラスすると顕師の年齢です(笑)

139犀角独歩:2002/12/27(金) 13:36

今里祐二さん:

> 「輪廻転生」…「無我」

考えるのをやめるには勿体ないテーマです。
私の好きな御遺文

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」

> 石田次男さんや福島源次郎さん

懐かしい名前ですね。石田さんの『現代諸学と仏法』、5回は読み直しました。
内外相対で畢え、残りは宿題でしたね。
福島さんは、よく池袋の勉強会に参加したものでした。文句も付けましたが(笑)
『蘇生の選択』もあの当時は新鮮に感じたものでした。
お二方とも、生命論批判と四句分別を論ったことは有意義であったと思います。
その残りのほうがはるかに多いのですが。

> 慧眼を開くことが出来た

ならば、羨ましい。

> 一念三千…大聖人様…自受用報身如来様でないと困る

これは中世以降の秘密荘厳論的理解なのでしょうね。
『就註法華經口傳』に闡明な

「第廿二 自我偈始終(しじゅう)の事
 御義口伝に云はく、自とは始めなり、速成就仏身の身とは終はりなり、始終自身なり。中の文字は受用なり。仍(よ)って自我偈は自受用身なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)とは一念三千なり。伝教の云はく、一念三千即自受用身、自受用身とは尊形を出でたる仏と。出尊形仏(しゅっそんぎょうぶつ)とは無作の三身と云ふ事なり云云。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり云云」

というところでしょう。
さらに恵心流の伝に、天台勝釈迦劣・止観唱法華劣が日蓮勝釈迦劣・題目勝法華劣に解釈し直され、さらに寛師においては日蓮・釈迦を名異体同と決するに至り、さらに人法体一にまでまとめた日蓮本仏論、中世の系譜ですね。これが本当に日蓮自身の教えであればよかったと、私も思います。そうすれば、こんなに苦しまずに済みました(苦)

>> 日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である
> という考えは、おそらく一生受け入れることは出来ないでしょうが、

まあ、そう決めつけないことです。『立正安国論』に

「人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。譬へば猶(なお)水中の月の波に動き、陣前(じんぜん)の軍(いくさ)の剣(つるぎ)に靡(なび)くがごとし」

と言われる如きです。

> 独歩さんの広大な知識…

いやいや、そんなことをお書きいただいては他のロムの方に嗤われます。

お会いできることがあるかも知れません。その時はまた、ゆっくり語らいましょう。

140犀角独歩:2002/12/27(金) 14:04

satさん:

横から失礼します。

> 信は疑を生みだし、疑いは信を深めていく・・その往還において理性は有効ではあるが、理性によって絶対的な信に到達するものでもないと・・

ここで「理性」を挟むところにオリジナリティを感じます。

仰るとおり、理性で信に到達するのではなく、到達させるのは「行」であるというのが仏道なのでしょうね。となれば、信疑の往還は学でしょうか。掲示板では表しがたい部分ですね。

141sat:2002/12/27(金) 14:46

犀角独歩さん:

ご示唆いただいた「行」とはどのように理解していけば宜しいのでしょうか?
①関与と、②定型化でしょうか?

142犀角独歩:2002/12/27(金) 14:56


satさん:

いやいや、そんな深い意味で申し上げたわけではないんですよ。
また、私がそうであると思っているというより、信行学の設定というのは、そんな形になっているのであろうと、その程度のことです。

ところがこの行の問題は、ご承知のとおり、トランス、忘我、乖離などと言われる精神病理に抵触する問題と背中合わせですね。実は悩んできたところなのです。
satさんは、いわゆる「仏道修行」の行は、どんなふうに考えていらっしゃいますか。
自分の管見を述べず、質問申し上げて恐縮です。

143sat:2002/12/27(金) 15:51

犀角独歩さん:

信に至る「行」とは何か・・

正直いって、どこから絞りこんでいけばいいのか・・私にはとても難しいです。
皆様のご意見をお聞かせいただければ・・というのが偽らざるところです。

人の持つレセプター(生理学的側面や社会的関与側面)を外して、孤独な沈思黙考の中で真理を求めようとするのではなく、関与や定型化を必要とするのかなあと簡単に考えてしまったのですが・・

ブッダから今日に至るまで、仏教における行の変遷と、その意味付けみたいなものを、一度整理してみたほうがいいかもしれませんね。この辺になると全く私はうといのです。

ご指摘のトランスレーションの問題もありますし、マインドコントロールやカルト問題にも関連してきますし、組織論理を信仰論理にすげ替えている集団信仰の誤謬を考えていく上でも必要かもしれません。また本掲示板の他のスレッドにある本尊とか信仰対象そのものにも関連してきますし・・

すみません、質問の回答にならなくて。

144犀角独歩:2002/12/27(金) 16:16

satさん:

有り難うございます。
要領の良い答えをいただいたら、かえっておかしなことですから、当然のレスと拝見しました。そうなんですよ、ここのところが難しい。

まあ、社会心理学的な言い方をすれば、少し病理から離れても、「個人的リアリティ」に分類されるわけですね、行の実感というのは。

やや横道ですが、薬師如来、薬王菩薩なんていう「薬」に関する仏菩薩は仏教にはありますね。法華経でもありますし、さらに良医の譬えもあります。たぶん、これは仏教集団のなかでは日常的に薬物…、まあ薬草その他であったでしょうが、使用されていたことを物語っていると思います。また、例えば歌というのも当然、精神作用はありますでしょうね。

ここら辺を整理しないと、仏教は社会的認知を受けようもないという思いが実は私にはあるわけです。悩みますね。

145sat:2002/12/27(金) 17:07

犀角独歩さん:

こちらこそ有難うございます。
本掲示板は「気づき」の世界でもありますね。

146今里祐二:2002/12/27(金) 17:33
独歩さんへ、レスありがとうございました。

>>「輪廻転生」…「無我」

>考えるのをやめるには勿体ないテーマです。

考えを止めた、というよりも、
理解できなくても、そのことを不安に感じることが無くなった、といった感じです。

例えが適当かどうか判りませんが、光には「粒」という性質と「波」という性質があることが広く知られています。しかし、「粒」という性質と「波」という性質は物理的にはまったく異質の事態です。
そして、光が「粒」として観測されるか「波」として観測されるかは観測者(観測方法)に依存しています。何故そうなるのかは解明されていません。

僕は「輪廻転生」と「無我」もこのような関係ではないかと考えています。

>懐かしい名前ですね。石田さんの『現代諸学と仏法』、5回は読み直しました。

5回はすごいですね。僕は通読は3回ぐらいです。
福島さんから「『現代諸学と仏法』、読んで理解できたかい?」と聞かれて、
「うーん、半分ぐらいは解りました」と答えたら、
「半分も解るとはすごいなぁ」とひやかされました。……今となっては懐かしい思い出です。

>内外相対で畢え、残りは宿題でしたね。

僕は残りの宿題はすべて大聖人様にお任せして、ちゃっかり答えだけ教えてもらうという方法をとりました。
『蒼蝿驥尾に附して万里を渡る』ってやつです。楽でいいですよ(笑)

>お会いできることがあるかも知れません。その時はまた、ゆっくり語らいましょう。

よろしくお願いします。
それと、僕はこれからお正月モードに入るのでしばらくカキコできません。
それでは、よいお年をお迎え下さい。

147犀角独歩:2002/12/27(金) 17:35

satさん:

「気づき」ですか。善い言葉ですね。

前にみかんさんが「信・疑、信・不信が対になったことばではありません」と書かれていましたが、もっともなことであると思うわけです。たしかに天台已来の系譜で信疑は対句に見えますが、これは因果的関係であって対句ではありません。

よく私は言うのですが、自然科学などで疑があった場合、その解から得るものは「知」ですね。これは「覚」と言ってもよい気がします。現代的な言葉で探せば、satさんが書かれた「気づき」かもしれません。ここに信の介在する余地は元来ないのであろうと思ってきました。そう、みかんさんの言葉をまた引けば「のどが渇いたら水を飲む」というような至極当たり前の認識として現前するのでしょう。ただ、そのことに気づけるかどうかですね。

そういえばたしか、いちりんさんが「気づき」で初期経典を説明してくれていたと思いました。その延長にあるこの掲示板も、仰るような気づきの場となれば、たいへんに意義深いものになると思います。

148犀角独歩:2002/12/27(金) 17:42

今里祐二さん:

> それでは、よいお年をお迎え下さい

有り難うございます。
今里さんもよいお年をお迎えください。

149モモ:2002/12/28(土) 05:45
五月雨さん

あれ以来投稿されなくなってしまったようです。相当こたえたことが拝察されます。
私もずいぶんときつい言い方をしてしまって申し訳ありませんでした。
しかし富士桜さんについて五月雨さんが仰るような方ではないことは115のレスをみれば明らかです。
他の方は五月雨さんに物を申すのを遠慮されているようです。批判する人は批判される結果になるゆえ、自分が泥をかぶるのもどうかと思ったのですが、これ以上マナー違反の投稿がエスカレートするようであれば誰かが指摘しなければなりません。
どうか気になさらなず、これからも投稿されてください。よろしくおねがいいたしします。
それでは良いお年をお迎え下さい。

150五月雨:2002/12/28(土) 09:01
モモさん

私が何に相当こたえなければなりませんか?
モモさんのレスを私は微笑ましく読ませて頂いております。私が富士桜さんに宛てたレスに、モモさんの必死の抗弁は私の書いたことが、余程モモさんの気持ちに突き刺さったのかと思っておりました。

>他の方には申し訳ありませんが、ご意見無用にお願いしたいと思います。

独歩さんがこう書かれていますので、私は意見を控えていただけです。
マナー違反の投稿をした記憶もありませんから、これからも投稿させて頂きます。
心優しいご心配を有り難うございました。モモさんも良いお年をお迎えください。
でもその前に、独歩さんにお返事を書く宿題が残っていますね、私も楽しみにしております。頑張って書いて下さい。

151犀角独歩:2002/12/28(土) 09:52

モモさんのマナー違反の指摘というのは偏っているのだよな。
要するに同信の人についてのことは厳しく指摘するのに、“だった人”へのマナー違反には無頓着。

本人は書くのも面倒でしょうから、「だった」私が代わりに書きます……と書いて投稿しようと思ったら、先に書かれていました。まあ、いいか、このまま、投稿します。

五月雨さんに「相当こたえたことが拝察」なんて書いていますが、これは外れです。「自分の子供ぐらいの年齢の青年の言うことだから、まあ、言わせておいて上げましょう」、その程度です。関西弁だと「アホくさ」とでも言うのかな。

富士桜さんを非難していると誤解されては心外なのですが、「3年」じゃ、何もわかりませんよ。わからないと言えるのは3年目の記憶が年食った我々にはあるからです。20年、30年…私は40年いたわけですが…と信仰組織で生きてきた人間からみれば、3年と聞いて、「まだまだ」「甘いな」というのは、むしろ実感のこもった発言であると、私は思います。繰り返しますが、富士桜さんを批判しているのではなく、信仰世界のあくまで一般論です。

「まあ、20年もすれば、あなた方にもわかるかもしれない。しかし、若いあなた方が考える、そんなもんじゃないんだよ」というのは先に生きてきた人間の実感なんですよ。そして、無駄にした時間を、同じように若い人たちに無駄にさせたくないと言う親心は、いつの時代も子供には伝わらないわけです。

「五月雨さんに物を申すのは遠慮」しているのではなくて、そんな大人の分別発言を至極当然のこととしてとらえて、自分も若いときはそうだったなと懐古の一時を過ごしているのですよ。わからないかもしれませんね、若い人には。おまけに信仰上で「である人」は「だった人」には懐疑的になるように組織的に訓練されていますからね。なおさら伝わらないのでしょうね。

「マナー違反にもの申す正しい行い」みたいな自己像を感じるけれど、まるで見当違いをしているんだよな、モモさんは。

私は感情的なマナー違反というのもそれはあると思う。けれど、問われたことに答えもしない在り方こそ、意見を交わす掲示板ではマナー違反であると思うわけだ、そんな意味ではモモさんは実にマナー違反なのだけれど、…あさんとのやりとりなんか特にそうでしたね、もちろん、私の問いかけにも感情的な指摘はあっても答えは少ない…、そんな自分のことは見えないものだよね。

まあ、「だった」側の言葉はスポイルしてしまうだろうけれど、書かないとね。
また、批判だ、失礼だと言われてはかなわないのだけれどもね。伝わらなければ、そんな言葉が返ってくるのでしょう。

152アネモネ:2002/12/28(土) 11:45
モモさん

横から口出しして申し訳ないですが、

>他の方は五月雨さんに物を申すのを遠慮されているようです。批判する人は批判される結果になるゆえ、自分が泥をかぶるのもどうかと思ったのですが、これ以上マナー違反の投稿がエスカレートするようであれば誰かが指摘しなければなりません。

ここのところの五月雨さんに対する、モモさんのレス、>98と>100からよーく読んでみると、なにか、自分の個人的感情を、ロム者の代弁という形で意見されているようですね。どのくらいの数のロム者がいるのかわかりませんが、自分の思いが、ロム者全体の思いと同じであるなんてことあるんでしょうか。それこそ、多くのロム者ひとりひとりの心の内のなにがわかる…といったところではないかと感じます。私なんかも、ロム者のひとりでしたが、モモさんが感じる憤りのようなものは覚えなかったです。

よく、この掲示板でカルトにおける組織の代弁ということが聞かれてきましたが、個人的感想を、集団の言葉の代弁として大きくとらえて発言するモモさんの心理、どこか共通しているのかもしれませんね。
個人的感想は、個人的感想として述べたほうがいいのではないかと、これは私の個人的感想です。

それと、モモさんのいうマナー違反とは、どういうことなのかも、わかりにくいですね。本来、応酬禁止のスレッドですから、私も含めて、ルールを超えたレスをしてしまっているのは確かでしょう。しかし、管理人さんの懐の深さもあって、とりあえずレスは続けられてきました。誰が何を意見するかは基本的には自由ですし、その意見に対して、また誰が何を発言するのかも基本的には自由でしょう。
だけど、モモさんの「失礼、マナー違反」は、何か相手の発言を遮ろうとしている心理が働いてないでしょうか。全くこれは私の個人的印象ですが、解決した話ながら、「信じていない人の言葉」と言ってしまうのと同じ心理的発言ではないかとさえ感じます。
理論の摩り替えと、言論封鎖みたいなものを感じますね。
自分に向けられたレスではないにも関わらず、「失礼、マナー違反」と非常に感情的になってしまう今の心の状態が何に因るものなのか。それを自分自身でみつめてみることが、今のモモさんにとって大事なことではないかと、余計なことながら、私の意見です。

153モモ:2002/12/28(土) 12:16
五月雨さん、犀角独歩さん

レス拝見しました。ああ、そうなんですか、的外れですか、というのが感想です。自分も言いすぎたのではと心配していたのです。
信仰歴はやはり長くなければ分からないものなのでしょうか。私は信仰は子供の時からしているのでほぼ「年齢=信仰歴」となります。私の場合はもう少し世間を知るべきなのだと思います。
私は正宗信者ですが別に吹き込まれた理想像に燃えているわけではありません。御戒壇様には少なくとも何らかの力があると思うし、かといって今の大石寺の状況はいろいろほころびがある、というのも理解しております。

また、そうしたら代々法華も一代法華に対して同じような構図が成り立つと思いますが。彼らは「一代じゃ信仰は分からない」とでも思っていることでしょう。

>私は感情的なマナー違反というのもそれはあると思う。けれど、問われたことに答えもしない在り方こそ、意見を交わす掲示板ではマナー違反であると思うわけだ、そんな意味ではモモさんは実にマナー違反なのだけれど、…あさんとのやりとりなんか特にそうでしたね、もちろん、私の問いかけにも感情的な指摘はあっても答えは少ない…、そんな自分のことは見えないものだよね。

今後気をつけます。

154モモ:2002/12/28(土) 12:29
犀角独歩さん

126のレス拝見しました。二元論と二極論を混同していた感があると思います。

>更に言えば、私はモモさん「信じない人の理論」という一節を読んで直ちに想起したのは、石山教学、日蓮教学でも、仏教でもなく、キリスト教です。「唯一絶対・全知全能の神を信じなさない」「信じる者は救われる」、そして、この神は証明することができない故に正しいというキリスト教の神学系譜です。

キリスト教、というより、理系的な考えの下でそういう事を考えたまでのことです。信じない立場の論理と信じる立場の論理ではお互いかみ合わないのでは、というようなことを考えていたということです。

155モモ:2002/12/28(土) 12:46
アネモネさん

レス拝見しました。ご指摘の点は考えてみます。しかし、先にも申し上げましたが一般論としていうのならともかく、ある意見に対して信仰歴を云々するような表現は拝見していて不快感を感じたまでです。
信仰歴とは相対的なのだから、たとえば「信仰歴○○年のお前に何がわかる」なんて頭から言われたら、誰でも反発したくなると思います。独歩さんの26のレスとも通じるところがあると思うのです。

156アネモネ:2002/12/28(土) 13:18
モモさん

私の推測ですが、五月雨さんや独歩さんは、信心歴(信仰歴)として書いていますが、それは実際のところ「カルト歴」として読めばいいのではないかと思うのです。
つまり三年やそこらでは、石山組織のカルト性はなかなか見抜けるものではないと。
だけど、何十年もどっぷりつかってから気がついたのでは、遅すぎるわけですね。組織を離れることは出来ても精神の脱カルトには、信仰歴の年数だけかかるといわれ、結局人生を棒に振ることになってしまうということを、身をもって体験している者として訴えたかったのではないかと、私には読めました。
そのことを五月雨さんは日頃、痛切に感じているだけに、思わず意見されたのだろうと思います。(五月雨さん、違っていたらごめんなさい)
だけどこのような公の場では、安易に「カルト歴」とは書けない状況もあるわけです。日蓮正宗が「カルト」か否かを断定するような書き方は、慎重でなければならないわけですね。モモさんにとっても、日蓮正宗がカルトだと決め付けられることはまだ抵抗があることと思います。だけど、お寺の中での人間関係などをよく観察していくならば、その傾向性は否めないこと、モモさんも体験してこられたのではないかと思います。
ですから、そこを察して五月雨さんのレスを読めば、「カルト歴20年」の長さは、奢りの言葉などではなく「カルト歴3年」を「甘い」と言うのは、本当の忠告というるものかと思いますよ。語気の強さは、軽蔑などではなくて、訴えたい思いの強さですね。それだけ若い石山信徒のみんなのことを、心配しているのです。

157アネモネ:2002/12/28(土) 13:39
訂正です

誤→精神の脱カルトには、信仰歴の年数だけかかるといわれ、
正→精神の脱カルトには、カルト歴の年数だけかかるといわれ、

信仰歴という言葉、すぐ出てしまいますね。組織歴と置き換えてもいいかもしれません。
「信」は一生のことかもしれないですね。組織を離れても、「信」を追い求めているのが、組織を離れた「だった人」の多くの心の内でしょうか。

158犀角独歩:2002/12/28(土) 13:53

モモさん:

> 信仰歴はやはり長くなければ分からないものなのでしょうか

長くしないとわからないことはたくさんあります。
しかし、善い悪いで言えば、しないほうがよいこともたくさんあるでしょうね。

> キリスト教、というより、理系的な考えの下でそういう事を考えた

なるほど。けれど、理系であれば絶対信などというものが介在しないことは、解されるでしょうね。疑→解→知・覚のあとに、まあ置けば信がある程度です。

アネモネさん:

> 独歩…信心歴(信仰歴)…「カルト歴」として読めばいいのではないか

さすが、賢察ですね。私についてでは、そのとおりです。
まあ、平ったく言えば、自分がやっていたことが信仰ではなく、信仰をしようとする善意を利用されていただけと気付くのにはそれなりに人生を経験し、勉強もし、客観眼もつけないとわかるはずはないという意味でした。

159五月雨:2002/12/28(土) 14:17

アネモネさんも独歩さんも私の気持ちをよく分かってて下さる、見透かされているようです。
独歩さんにはついに関西人の思考までご理解頂いているようで、嬉しく思います。「アホくさ」思っておりました(笑)

>そのことを五月雨さんは日頃、痛切に感じているだけに、思わず意見されたのだろうと思います。(五月雨さん、違っていたらごめんなさい)

いえ、アネモネさん、合っています。私は正直に申し上げて脱カルトの最中です。自分が居た組織がカルトだったとは自分でも信じたくないのですが、カルトの定義にこれほど当て嵌まってしまったら、認めたくなくても認めざるを得ませんでした。これが私の脱カルトの始まりでした。学会で石山で信じてきたことは何だったんだろうかと、真実を探しました。その真実は受け入れ難く、自分が信じてきたものが崩れていく様にどれほど泣いたか分かりません。21年の長きに亘って自分の人生だった信心が日蓮聖人の教えと何ら関わりのない、虚偽だったことには後悔にさい悩まされましたが、もう過ぎ去った時間は取り返し様がありません。
だから、今まさに人生を無駄にしようとする人には老婆心ながら、ついご忠告申し上げたくなるのです。
忠言は耳に逆らうと言いますから、聞いて下さらない方もいます、でもそれも仕方のないことです。一度経験して痛みを味合わないと分からないのも人間ですから。
独歩さんの言われるように「それなりに人生を経験し、勉強もし、客観眼もつけないとわかるはずはない」のでしょう。


>レス拝見しました。ああ、そうなんですか、的外れですか、というのが感想です。自分も言いすぎたのではと心配していたのです。

モモさん、少し拗ねているようなカワイイお返事をありがとう。また、ご意見して下さいね。

162トゴシ:2002/12/29(日) 19:07
モモさん、がんばれよなあ

163モモ:2002/12/30(月) 06:16
レス拝見しました。そういうことなら理解はできます。忠告は忠告として心に留めておきたいと思います。
しかし、内心の自由ということをいうならば、必要以上の表現はどうかと思います。誤解されても仕方ありません。
私も発した言葉を曲解され、攻撃モードになったことがあります。

あと前から思っていたのですが「石山」とは蔑称であり、差別表現であることを指摘しておきます。
大石寺を厳しく批判する意味からその方が都合がよいのだろうと思って何も言わないでおきましたが。

164モモ:2002/12/30(月) 06:18
皆様、本年いろいろお世話になり、まことにありがとうございました。
どうか良いお年をお迎え頂きたい存じます。

165犀角独歩:2002/12/30(月) 08:00

モモさん:

> 「石山」とは蔑称であり、差別表現であることを指摘しておきます。

「石山」という表現は“大石寺59世堀日亨上人”が『富士宗学要集』のなかでも使用している言葉です。蔑称でも、差別用語でもありません。テキスト・データ版富士宗学要集で検索したところ、亨師の言として“51ヒット”ありました。「石山」が蔑称であり、差別表現であるとすれば、亨師こそ、大石寺を「石山」と蔑称し、差別表現をした張本人となりますが、如何でしょうか。

それとも亨師は大石寺を蔑如、差別、批判した人であったというのがモモさんの主張なのでしょうか。

もし、そうでないのであれば、調べもせず、是の如き、莠言を吐くことは批判されなければならないでしょう。

> 大石寺を厳しく批判する意味からその方が都合がよいのだろうと思って何も言わないでおきましたが

ということは、モモさんが大石寺を批判、蔑称、差別するのに、都合好い以上の意味はなく、他の使用者とは無関係です。

誤解がないように言っておきますが、私自身、大石寺を石山と記し、多くの指摘をしてきましたが、それは蔑如するためで、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません。単に知れる厳正な事実を列挙した作業に過ぎません。

166管理者:2002/12/30(月) 09:18

160と161に、禁止事項に該当するレスがありましたので、削除しました。掲示板のルールをお読みいただき、レス戴きたいと存じます。

167問答迷人:2002/12/30(月) 09:27

116091ゲットしました。

168犀角独歩:2002/12/30(月) 10:25

【165の訂正】

誤)それは蔑如するためで、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません
正)それは蔑如するためでも、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません

169犀角独歩:2002/12/30(月) 11:20

たしか三学無縁さんも指摘されていましたが、石山系というのは言葉に敏感すぎると思えるわけです。それはもっと言えば、呼称の仕方に既に敬意、あるいは蔑如まで意味が決められているという、世間ではあり得ない、特殊性があることを、理解しないとならないといことです。

たとえば、日蓮を「日蓮大聖人」と言わないだけで、もう軽蔑的に見ていると考えます。これが「日蓮聖人」でも「日蓮上人」でもだめで、まして、「日蓮」と尊称を省くことはとんでもないと考えるようです。私自身、このような傾向があったのですが、この言語の操作性に気づき、呼称の幅を広げた経験があります。

元来、興目両師…現石山信徒であれば、この書き方も蔑称と考えるかも知れません、日興上人・日目上人と書くべきであると…は「日蓮聖人」と申状その他に記述していたわけですから、興目の流れを自負すれば、この呼称が妥当と言うことになるでしょう。たしかに既に道師『御伝土代』に「日蓮大聖人」の記述は見られ、また寛師は大人・聖人の両義を含めて「大聖人」の呼称を置いています。以降、石山では「大聖人」が決定したかと思われるかも知れませんが、これはやや違います。例えば明治44年、石山正師の時代、監を亨師に採ったという熊田葦城師発刊の書名は『日蓮上人』です。ここには戒壇之漫荼羅の写真も掲載されていました。では上人と記した熊田師は日蓮を他山並みに拝していたかというと、そうではなく、石山に帰伏した人であったわけです。これは一例です。

同じように、私は他派・異論に対するとき、自分の尊敬する日蓮を「日蓮」と一般的に記します。元より、その無謬性を信仰するわけではありませんから、学的・科学的分析に抵触する場合は、この一般の呼称がふさわしいと個人的には考えるからです。しかし、それは日蓮を軽蔑してでも、侮辱してでもありません。一つの事象を客観的に考えようとするとき、その基本に尊敬、本仏、その他の固定概念を含む尊称を付してしまうと、それだけで、客観性を失い、厳正を期せない故の配慮です。また、歴史的位置では、蓮祖と記すことが妥当であると思います。信仰その他の情動的に表現したければ、聖人とも記し、それぞれ使い分けています。けれど、通じて、蔑如するような動機は微塵もありません。けれど、「日蓮大聖人」と呼ぶことが信仰に含まれると思う人々は過敏に反応するのかも知れません。

なお、無徳さんの如く、「日蓮御房」との呼称は鎌倉時代当時の僧侶を呼ぶ一般的な尊称であって、言語の起源を日蓮に求めるのであれば、僧侶全般は、日蓮も含めて充てるのに、この「御房」は至当であろうかと思います。

以上、記したことで重要な点は日蓮を日蓮大聖人と呼ぶ人は「信心のある正しい人」で、呼び捨て…実際は単なる客観的記述なのですが…にしたり、「聖人」「上人」「御房」と呼ぶ人は「信仰心のない間違った人」という固定観念で推し量ると、結局、私の書き込みのみならず、世の学術的文章、歴史文章もすべて読み違えることになるという点です。

いずれにしても呼称に尊敬・軽蔑などの感情を含めるのは学会を含む石山系信徒の際だった特徴に過ぎず、その固定観念で発言と発言者を見るとすべてを読み違えることになるということを、過去の自分の反省を含めて、記しておきたいと思います。

呼称そのものが蔑称、差別表現、批判を含むとは限らない、含むと考えるのは単なる信仰上の固定観念に過ぎないと言うことを記しました。

170犀角独歩:2002/12/30(月) 13:40

富要等に見られる略記

石山 → 大日蓮華山富士大石寺
北山 → 富士山本門寺
西山 → 富士山本門寺
要山 → 富士山要法寺
房州 → 中谷山妙本寺
小泉 → 富士山久遠寺

延山 → 身延山久遠寺
中山 → 正中山法華経寺

などが見られます。
上述でわかるとおり、興門流では富士を山号に採るところが5カ所もあり、さらに富士山本門寺と記述しただけでは北山、西山の区別はできず、久遠寺と記しただけでは小泉と身延の区別が付かないのです。

以上のような事情から石山その他の略記は、何の感情的な動機もなく使用され、今に至っています。

いったい、何を根拠に「石山」が蔑称、差別表現などといわれるのか、皆目、見当が付きません。

モモさん、根拠を示してください。

171ワラシナ:2002/12/30(月) 16:07
no151 犀角独歩さん発言の下記部分に触発された呟き。

ー「おまけに信仰上で「である人」は「だった人」には懐疑的になるように組織的に訓練されていますからね。なおさら伝わらないのでしょうね。ー

0、特に、、「である人」は「だった人」には懐疑的になるように、、という部分の表現の適確さに感心した。学会顕正会を通して、教団権力維持のため奴隷的青年部だけを意図的に組織現役者に選別していたように思う。顕正会に入った時が、初めて本当の自覚的入信動機を持った時だったが、それ以前10代後半から20代前半までは知識と教養がまるで欠けていたから、他の教団員の組織体験談の微妙な部分の意義が、当時は分からなかった。が話は確実に記憶にとどめていた。

1、具体的に言えば、会内の権力が戸田路線から池田路線に変節した事に反発していた人々の話の意義がわからなかったのである。もし当時これがわかっていて、自分らしい生き方ができていたら、色々な意味で自分の可能性、才能開花に役立つような未知な人々との善い出会いが早くやってきて、もっと中年期の現在を輝かせていた筈だという後悔になっているのである。

2、そこでなぜ、あの時そういう知恵が湧かなかったのか、今となって色々反省するのであった。その理由として、三つ考えた。

2−1、言わば青年初期の心理として、これから未来に向かっていこうとする時の生き方にある、一種の本能指向性の欠点面というか「大きく賑やかでエネルギーとパワーを感じさせるような集団に身を寄せれるのが暗黙のベスト選択とする」という生き方の持つ危険性に無知だった事、と思うのである。誰も「しょぼくれた寂しそうな世界」に飛び込んでいこうとはしなかろう。そう思って自分は、学会の中でははやりそうで元気そうで、自分の可能性が開かれそうな世界と人を選んで接触を求めていったのだけれど、内部反体制派を心の中では軽視していたのであった。(彼らの話の真実を知ろうともせずに、、これが、今となっては大失敗)理由は、といえば、恥ずかしい話、簡単に言えば、自分が組織奴隷青年部だったから、に尽きる。「である人」は「だった人」には懐疑的になるように、、という文言を胸に突き刺さるように感じてしまった背景には以上の前提が働いているのである。

2−2、上のように愚かで浅はかな判断しかできなかった事の理由として大きいのは、文芸的な教養の欠如だったと思う。あの当時もっと長編小説や詩歌や推理小説など読書のつみかさねがあったなら、もっと「臆病で?マイナーな生き方のもつ積極的価値」に気づけただろうと後悔している。

2−3、自分には孤独僻があって友人を積極的に増やそうとしなかった事。先輩の忠告助言の意図真意がその当時は全く理解できていなかった事。その理解できていなかった事をその場で問いたださず聞き流してしまっていた事。ただ、先輩の話の方にも自分の失敗談を入れるなり表現技術上の一工夫が必要だったとは、思うのだが、これは5年年上の学生部だと同じ青年同士になってしまって、人生全体が駄目になる本格的失敗談は体験していないので、これは初老期の先輩との交流不足の必要を物語っていると思うのである。

172こまった:2002/12/30(月) 20:17
独歩さんの諸山の呼称に少々補足を。

保田妙本寺=房山ボウザン、保田ホタとも
大石寺=石山セキザン、大石オオイシ・ダイセキとも

これらは堀日亨さんの使用した呼称であり、蔑称でもなんでもありませんね。
石山の蔑称は「お山」「上野」「上野村」というもので、これは根檀家が使っていたんですよ。
多山はたいてい「ダイセキジ」と呼んでいましたし、「セキザン」と呼ぶのは他の富士七本山での呼び方ですね。
「お山」は「御山」ではなく「お山の大将」という意味合いだったみたいですね。

モモさんに「セキザン」を蔑称などと教えた人がいるならば、それはシッタカでしょうね。
しかも宗旨も宗史ほとんどなにも勉強していない六百代言です。
歪な「言葉狩り」などする必要はないのですよ。
どうせなら「偽信心・偽仏法狩り」をしたらいかがでしょう。
もちろんこの「偽信心・偽仏法狩り」は、今の石山に向けてということですが。
言葉だけの「大慈大悲」なんてイッセンダイゲンですからね。

「だった人」に対する色眼鏡、それがその信仰を如実に物語ってしまうのです。

173こまった:2002/12/30(月) 20:18
訂正です。
多山→他山

174こまった:2002/12/30(月) 20:59
いい忘れです。

明治維新以前の石山信徒は「ホンザン」と呼んでいたようです。
けっして「ソウホンザン」ではありません。
なにしろかつての大石寺は身延山久遠寺の配下・末寺だったわけですからね。
もっとも身延だって「ソウホンザン」と呼ばれていたわけではないのですが。

身延が祖山とよばれ権力をもったのは不受不施問題で池上に完勝してからでしょう。
もちろんそのころの石山は不受不施を嫌い、国諌も嫌い、身延の尻尾にぶらさがっていただけでした。
日奥や日親のように純粋に不受不施義を唱えるようなことをせず、保身だけを考えていたのが石山でした。
それでも所詮は田舎寺の悲劇で日蓮宗内で力をもったことは一度もありませんでしたし、ご開帳で繁盛したようすもありません。
なにもかもが中途半端だったのが石山の歴史です。
それは借り物ばかりで創作した教義のためだったのかもしれませんね。
つまり石山には「日蓮」という「バックボーン」がなく、あったのはパッチワークだけだから無理もないですが。

石山系以外から石山はけっして差別されていませんでした。
それどころか相手にもされていなかったし、だいいち存在すらほとんど知られていなかったのです。
興門系では苦々しく想ってはいたでしょうね。
なぜあんな寺が「ミデラまがい」の勝手をゆるされるのか、と。
これは菊水さんの領分ですね。
でも、その部分は、今の大石寺にはもう残ってはいないわけですし、石山住職も知らないわけです。

175犀角独歩:2002/12/30(月) 22:17

ワラシナさん:

コメント、有り難うございます。
参考になりました。

過日は久しぶりにお会いできて、たいへんに嬉しく思いました。
お体の調子が思わしくないと伺っていたのですが、お顔を拝見する限り、元気そうで安心しました。もっと、お話をしたかったのです。是非、またお会いしたいと思っております。

176犀角独歩:2002/12/30(月) 22:23

こまったさん:

補足有り難うございます。

本門寺といえば、池上も讃岐(高瀬)もあり、これまた、地名で呼ばないとわからなくなります。こんな例は枚挙が暇がありませんね。

あと、石山でも、売店のある辺りは、「新町」と言って、境内地と区別するなんてこともありました。

一つ、私が意外だったのは「お山」が蔑称であるということ。私は生まれながら、「日蓮正宗創価学会」員であったのですが、子どもの頃、石山に行くこと…つまり登山会ですが…を「お山に行く」と行っていたものでした。この言い方は学会では一般的であったと記憶しています。

それと、北山などが「上野方」などというのも蔑称であったわけですね。なるほどな、と思いました。

177犀角独歩:2002/12/30(月) 23:02

○呼称が信者の心を操作している

169に日蓮の呼称について、少々記しましたが、それに就き、こまったさんに「言葉狩り」という観点で整理していただき、「あ、そうだな」と思ったのです。

こんなことがありますね。
学会では池田さんを「池田先生」「池田名誉会長」と言わないと、この会で言う信心に抵触します。
同じく顕正会では、浅井さんを「浅井先生」「浅井会長」と言わないと、この会で言う信心に抵触することになります。
石山では顕師を「御法主日顕上人猊下」と呼ばないと、これまた宗の信心に抵触することになります。

これはまた、やめた人間はひどく抵抗するところで、学会をやめた人は「池田先生」とは言いたくない、顕正会をやめた人は「浅井先生」とは言いたくない(菊水護国さんは例外!(笑))
石山を離れた坊さんも顕師を「管長」とか「阿部法主」とか言い方に苦慮しています。

つまり、これはその尊称、呼称に既に大きな意味が孕んでいることと、服従・違背という両極にある“信仰であると信じ込まされた感情”が蠢いているからでしょう。つまり、どう呼ぶかによって、既に心理操作が可能になっているという点を聡く看取することが大切なんでしょう。

やめた人でも、演技でも『先生』と何度も絶唱していると、熱烈に崇拝していたときの感情がこみ上げてきます。ところが元学会では池田さん、顕正会では浅井さんに、対するかつての思いが、と異なることになります。

言葉による操作は、人心操作の基本です。しかし、これは宗教だとか、信仰ではありません。心理操作なのです。その操作技術を宗教団体が使っているのに過ぎません。

このように各個人に以前とひそむ心理の正体が何であるかを見極めることは意義のあることだと思います。

けっして被害者運動をここで展開しているとか、そんなことではなくて、そのように思うわけです。(この最後の一節はやーこさんを批判する意図は、もはやありません。しかし、そのように考える複数の人がいれば、その人に向けた言葉であると理解されることは、敢えて否みません)

178菊水護国:2002/12/31(火) 02:26
> これはまた、やめた人間はひどく抵抗するところで、学会をやめた人は「池田先生」とは言いたくない、顕正会をやめた人は「浅井先生」とは言いたくない(菊水護国さんは例外!(笑))

失礼な(爆)。私が浅井さんを浅井先生と呼ぶのは、酔っ払ったときだけですよ(笑)。
でも酔っ払うと本心が出ると言いますから、私って、結構潜在的には未だ浅井さんの弟子なのかしら(笑)。

179犀角独歩:2002/12/31(火) 11:32

菊水護国さん:

「自分は住職のことを先生と呼ぶ」と言っていたでしょう。
私は講に就いて、いちばん最初に直されたのはこの点でした。
学会では僧侶を「先生」と呼ぶことで統一されていたんですが、講では「御尊師」
(オウム事件以降、この尊称は(笑))

役員になったとき、住職を御尊師と呼ぶことは徹底できたのですが、所化さんの呼び方が各人まちまちになっていたので住職指導で統一しました。結果は教師補任式を終えた僧は「御尊師」それ以前は「尊師」というものでした。

しかし、たぶん、これは菊水護国さんならば直ちに気づかれるでしょうが、石山の一般的な呼称とは違っていますよね。教師になっていない場合「さん」付けが普通ですものね。まあ、かなり気を遣って統制をしていったわけです。

けれど、菊水護国さんから「先生でいいじゃないの」と言われたとき、実は私は目から鱗が落ちる思いがしたわけです。いいわけですよ、ほんとに。そんなことはどうでも。

地方では坊さんをみな「上人」と呼ぶところがあると『法華講随感』にも記されていました。日蓮の時代は「御房」、順師に係るとされる文献では「和尚」と見えます。

石山大奥では「御法主上人猊下」なんて呼ばず、「御前様」。これは本山格であれば、他でもそうですね。

風情、敬愛の情が表せれば、それでよいのでしょうね。
それを「○○と呼ばなければいけない」とする頑なな決めつけを、どうしてするのかを考えてみることですね。菊水護国さんの「先生」の呼称は、学会とか、顕正会のそれとは違い説得性があったものです。

また、脱けた人は、元いた集団の指導者を出来るだけ敵意を篭めて呼ぼうとします。これまた、見苦しい。

私は実際に現役と喋るときは、その人が呼んでいる尊称を付けて指導者は呼ぶことにしています。ただ、現役と違うのは尊称を付けても批判するところはしっかり批判すると言うことです。通常、批判する場合、信者が敵意を懐くような呼称で呼びながらすることになりますが、私はそうしない。彼らが尊敬の念を表す呼び方で批判をするわけです。このアンバランスに相手は通常、戸惑います。この戸惑いは尊称に刷り込まれた心理操作に由来するものでしょう。

まあ、そんな意味で菊水護国さんが酔っぱらったとき限定付きでも「浅井先生」とさらっと言えるのは、まったくそんな心理操作に引っかかっていないからでしょうね。よい模範だと思うわけです。

阿諛と揶揄、そこに潜む心理操作の罠にご注意というところでしょうか。

180菊水護国:2002/12/31(火) 12:42
独歩さんの仰るとおりだと思います。
呼び方にこだわるのは、本音では僧侶を敬ってない、建前で敬ってるから・・・なんて言ったら言いすぎでしょうが。
また、脱けた組織はもちろん、敵対する組織を揶揄するのも見苦しい。
たとえば、顕正会=犬性会等です。昔、妙観講は「痴犬」と呼ばれた事に対抗して顕正会をこう呼びました事は皆さんご存知だと思います。
しかし、相手に合わせるのはそのまま「相手の土俵に乗る」事になって、同じレベルになってる事に気づいているのであろうか。

さて、私は確かに正宗はもちろん他宗でも全ての御僧侶を「先生」と呼びます。ただし、我が住職だけは「お師匠」とお呼びする場合もあります。
私は某講に所属してたとき、皇室・伊勢問題議論で、信仰も精神もおかしくなりかけたとき、現在のお師匠の一言に救われた過去があるから、自然にこう出る訳ですが。
何気に信仰を始めた方はここまでの思いは中々無いと思いますので、とりあえず「先生」とお呼びしておけば良いんでは無いでしょうか。後は全て自然にお呼びしたいようにお呼びすれば宜しいんでは無いでしょうか。別にこだわる必要は何も無い。

181犀角独歩:2002/12/31(火) 13:39

「お師匠」…、美しい言葉ですよね。
寺にいたとき、所化さんが「おっしょさん」と住職を呼んでいる姿が好きでした。
当初、「おしょう(和尚)さん」と呼んでいるのかと思い、変だな思っていたんです。
でも、途中から「おしししょう(お師匠)さん」が「おっしょさん」と聞こえるのだと気づきました。まあ、私は「御前様」というのも案外好きですね。

けれど、講では住職を菊水護国さんのように「お師匠」と呼んだり、石山住持を「御前様」などと言おうものならば「僭越だ」という非難が帰ってきますね。こんなうるさいところはさっさと去るに限ります。

私は日蓮宗僧には「上人」と呼びかけます。石山僧や、正信会僧には会えば今でも教師なら「御尊師」を使いますね。まあ、会う石山僧は限られていますが(笑)

ぜんぜん関係ありませんが『男はつらいよ』で柴又帝釈天こと経栄山題経寺の住職役を演じる笠智衆に皆は「御前様」と呼びかけています。微笑ましい場面です。
富田常雄原作で黒澤明が撮った『姿三四郎』、道場代わりにしていた寺の住職を、三四郎達は何と呼んでいましたっけ? まあ、姿三四郎といっても知っている若い人は少ないのかもしれませんが。

こういうところ、世間は鷹揚なのに、カルテッィクな集団であればあるほど、呼称に拘ります。会社でも役職で呼び合う日本は外人から見ると奇異なのでしょうね。

日本のNGOなんかでも、「さん」付けを推進していますね。略歴は紹介しても、呼びかけは「さん」。坊さんが在家から「さん」付けで呼ばれるのは締まりませんが、それでもそれなりの教導が出来れば、それはそれで大したことでしょうね。

ようやく、ツブヤキになりました。

182犀角独歩:2002/12/31(火) 13:39

間違えました(笑)

「おしししょう(お師匠)さん」は「おししょう(お師匠)さん」です。

183菊水護国:2002/12/31(火) 14:04
日蓮正宗の旧檀家さんに聞くところによると、大石寺に限らず、末寺でも昔は「御前」と呼んだそうです。
全ての寺院は「一山の御前」だからだそうです。
末寺住職は「御前様」、法主は「御山の御前様」だったそうです。

さて、呼び方といえば、昔のテレビドラマ西遊記で境正章演じる「孫悟空」が、夏目雅子演じる「三蔵法師」に「おっしょさん」と呼んでるように聞こえましたが、これも「お師匠さん」なんでしょうね。

184菊水護国:2002/12/31(火) 14:06
> 富田常雄原作で黒澤明が撮った『姿三四郎』、道場代わりにしていた寺の住職を、三四郎達は何と呼んでいましたっけ? まあ、姿三四郎といっても知っている若い人は少ないのかもしれませんが。
うーん。見た事はあるんだけど覚えてないな。ビデオ出てたから借りて見てみようかな。

185問答迷人:2002/12/31(火) 21:02

昨年の12月31日に、僕は次のように書き込みました。

>151 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/31(月) 23:10

>36206 ゲットしました。

今現在のアクセス数は、116483です。差し引き、この一年間で80277のアクセス数がありました。一日平均約220アクセスです。

皆様のご利用を厚く感謝致します。来る2003年も、引き続き皆様の活発なレスを頂戴出来ますことを切望致しております。

新年に入りましたら、過去ログに、2002年12月31日までの全レスを保存する予定です。合わせてご利用賜れば幸甚に存じます。

116783 ゲットしました。

186犀角独歩:2002/12/31(火) 21:46

問答名人さん:

本年も本当にお世話になりました。
随分と勝手な投稿をさせていただいたのにも拘わらず、いつも寛大に接していただきましたこと、深く御礼申し上げます。

私は年末・年始、押している仕事があり、休みも取れない状況です。
けれど、昨晩は風邪をこじらせ、12時間もたっぷり寝、昼近く起き出し、少しこちらに投稿させていただき、また、夜まで寝てしまいました。これで年末・年始の休みを終わらせないと仕事のけりが付かなくなります(笑)

いま、こちらを拝見させていただいたところ、問答名人さんの書き込みの時間は午後9時。私が講の役にあった頃はとうに寺院に入っていた時間でした。本年はゆっくりと、年の過ぎていく時間に浸っています。

思えば1年の重要な節々を常に組織のために過ごしてきた自分が、たっぷりと寝、ゆっくりと行く年・来る年を味わえるのことに、不思議な思いがあります。これはまた、問答名人さんとの出会いも大きく一因をなしたことでもあります。

お体のお加減は如何でいらっしゃいますか。明年もさらなるご活躍を期待いたしております。

有り難うございます。

187問答迷人:2003/01/01(水) 12:29

掲示板御参加のみなさん

新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞ活発な御議論、宜しくお願いいたします。

犀角独歩さん

>午後9時。私が講の役にあった頃はとうに寺院に入っていた時間でした。

僕も、例年はとっくに寺院に出向いていた時間です。昨秋より、寺院参詣を停止いたしましたので、自宅で新年を迎えました。

>たっぷりと寝、ゆっくりと行く年・来る年を味わえるのことに、不思議な思いがあります。

僕にとっては、これは独歩さんと出合わなかったら、あり得ないことでした。独歩さんの指摘によって、大石寺門流の淵源に疑問を持つことがなかったなら、そのからくりに気づくことも出来なかったからです。

>お体のお加減は如何でいらっしゃいますか。

ありがとうございます。お陰様で、かなり回復していますが、まだ、長時間座っているのは困難です。仕事には、全然差し支えない状態にはなっています。

本年は仕事に掲示板に、心機一転、取り組みたいと決意しております。(おやおや、まだ、創価学会の習気が抜けずに、正月早々、決意発表をしてしまいました)(笑)

188犀角独歩:2003/01/01(水) 15:38

問答名人さん:

明けましておめでとうございます。
自分のためのお正月、なかなか、好いものですよね(笑)

190さかなこ:2003/01/02(木) 00:52
あけましておめでとうございます。今年も去年に引き続いてROM専で
行きますので宜しくお願いします(笑)

初詣は鶴岡八幡宮と円覚寺に行ってきました(笑)
相方が気を遣って可愛い羊型のお守りを買ってくれました。可愛いお守りコレクションが
また増えました^_^;
私自身はおみくじを信じてないのでいつも引きたくないのですが
(悪いのが出ると不愉快だから(笑))相方が引きたがるので引いたら
案の定「凶」でした。いつも何故か凶ばかりでしょぼーん。。(笑)

円覚寺は以前、独歩さんが坂本弁護士一家のお墓があるとお話されていたので
行ってみたのですが係りの人に聞いたら工事中らしいとか場所がわからないとかで
断念してしまいました。とほ。

夜は新年のお食事を祖母をしました。祖母は戸田時代からのばりばり会員ですが
改めてその凄さにショックを受けて帰ってきました(>_<)(>_<)
終始「福運、宿業、宿命、功徳」を連呼してました。ふう。
とりあえず祖母が親じゃないだけよかったとご本尊に感謝しておきましゅる(笑)
両親はまだ寛容なので。。汗汗

191モトミナ:2003/01/02(木) 00:59
新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

192モモ:2003/01/02(木) 05:48
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいいたします。

193モモ:2003/01/02(木) 06:37
犀角独歩さん

あけましておめでとうございます。甚深のレスを拝見しました。ありがとうございました。
私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」というようなことです。
学術的に用いるならばともかく、一般的な呼称ではないように感じます。
最近の大日蓮など、「石山」という表現は拝見したことがありません。
また大石寺の山号は先にもありましたが「大日蓮華山」であり、「石山」ではありません。
「石山」を連呼し、「石山僧」「石山組織」「石山法華講」など、このような用法は蔑視、揶揄しているように感じる人もいるでしょう。
「石のような山」「石のように頭が固い僧」「石のような組織」など。なるほど確かに今の大石寺、日蓮正宗は石のように頑固で部外者を排斥するようなところがあるかもしれません。
「名は体にいたる徳あり」というような言葉が御書にあったと思います。
言葉は変化していきます。たとえば「おみおつけ」は「御御御付け」と書きます。言葉が変化していった例としてあげられると思います。
一般的呼称として「石山」を連呼するのはどうかと思いますが。
あと私は「大石寺」とは広宣流布、本門寺顕現への夢のある呼称として気に入っています。
「日蓮正宗」はセンスがないと思います。だからたとえば「日蓮正宗信者」というより「大石寺信者」という方が気に入っています。

194モモ:2003/01/02(木) 06:54
>私は実際に現役と喋るときは、その人が呼んでいる尊称を付けて指導者は呼ぶことにしています。ただ、現役と違うのは尊称を付けても批判するところはしっかり批判すると言うことです。通常、批判する場合、信者が敵意を懐くような呼称で呼びながらすることになりますが、私はそうしない。彼らが尊敬の念を表す呼び方で批判をするわけです。このアンバランスに相手は通常、戸惑います。この戸惑いは尊称に刷り込まれた心理操作に由来するものでしょう。

私もこの意見には賛成です。ある御僧侶が「池田大作(氏)のような大謗法者は呼び捨てでいい」と仰せになったそうですが、私はどうかと思います。
大百法や慧妙、創価新報、聖教新聞でも「池田大作氏」「日顕上人」「日顕師」などとするべきであると思います。

195犀角独歩:2003/01/02(木) 21:40

モモさん:

> 私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」

だから、いったい誰から聞いたのですか。

> 学術的に用いるならばともかく、一般的な呼称ではないように感じます。

学術的とは、どの程度を指すのかわかりませんが私が「石山」等の略記の使用は通日蓮教学における“一般的な”使用です。さらに狭く富士門一般の僧俗が寄り集まって議論をする場合、以上の略記はごく一般的なことです。また、私が石山僧、あるいは正信会僧などと話す場合も、普通に使用している言葉です。

モモさんが言う一般的とは「日蓮正宗」僧俗一般よりもさらに狭い自分の考えに過ぎません。

> 最近の大日蓮など、「石山」という表現は拝見したことがありません。

『大日蓮』には編集部で独自に定めた表記があります。
また、雑誌編集一般の常識として、略記、略称は使用しないのは通常のことです。
この編集の常識と、口語に近い、掲示板の記述を同様に語ること自体、おかしなことです。

> 大石寺の山号は先にもありましたが「大日蓮華山」であり、「石山」ではありません。
そんなことは誰でも知っていることでしょう。
「石山」は略記、あるいは略称なのであって、誰も山号であると言っていません。
いずれにしても、モモさんは亨師を批判していることはよくわかりました。

> 「石山」を連呼し、「石山僧」「石山組織」「石山法華講」など、このような用法は蔑視、揶揄しているように感じる人もいるでしょう。

どこにいるのですか。もし斯様な人がいれば、略記が蔑視、揶揄であるという偏見を持っているだけのことでしょう。つまり、それはモモさん自身が持っている偏見です。

> 「石のような山」「石のように頭が固い僧」「石のような組織」

そう。モモさんは大石寺を思っているわけですね。
しかし、石山という語彙を使用する人が思っているわけではありません。

> 「名は体にいたる徳あり」というような言葉が御書にあったと思います。

略記、略称とは、まったく関係ありません。

> 言葉は変化していきます。

これもまったく関係ありません。
また、あったとしても、「石山」などの語彙を使わない理由にはなりません。

> 一般的呼称として「石山」を連呼するのはどうかと思いますが。

何度も繰り返しているとおり、略記、略称として使っているのであって、一般的呼称であるとは言っていません。
こんなことで「どうかと思います」とケチをつけるほうが、よほど「どうかと思います」。

また、この言葉は、先にも記したとおり、石山59代亨師を批判する言葉であると受け止められます。

当掲示板のような、異種の価値観、思考をもっている人の議論の場で、学術的に、また、通日蓮教学で“一般的な”記述を、自分の語彙使用法以外を認めない言葉狩りに応じる気はありません。

今後とも、私は「石山」その他の語彙を使用します。
しかし、それは軽蔑でも、侮蔑でもありません。

196犀角独歩:2003/01/02(木) 21:44

> 「池田大作氏」「日顕上人」「日顕師」

一般的な表記というのであれば、

「池田大作氏」は宗教法人創価学会名誉会長池田大作氏
「日顕上人」「日顕師」は宗教法人日蓮正宗阿部日顕氏(師ではなく氏)

となるでしょう。
自分の所属する宗派の長は「上人」「師」といい、他団体の長は「氏」とする、このような扱い方こそ、まったく一般的とは言わないのです。

197犀角独歩:2003/01/02(木) 21:46

【196の訂正】

誤)宗教法人日蓮正宗阿部日顕氏
正)宗教法人日蓮正宗総本山大石寺(66世)阿部日顕氏

198菊水護国:2003/01/02(木) 23:11
モモさん。
石山は、決して蔑称ではありません。
うちの住職も「石山教学では」等と使用することは多々あります。

> 私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」というようなことです。
とありますが、どなたから聞いたのでしょうか。その方が間違っていると思います。
また、文献はどこにお有りでしょうか。
日蓮正宗において「石山は蔑称だ」等という考えも通説もありません。
「私は誇りを持って、石山の信徒です」と云えます。これはおかしいですか。

199犀角独歩:2003/01/02(木) 23:30

自己レスです

> 編集の常識と、口語に近い、掲示板の記述を同様に語ること

やや補足すれば、亨師の富要の記述「石山」等は口語体であるというより、通日蓮教学における一般的な記述です。

たぶん、193の「言葉は変化していきます」というのは、この亨師の記述に係るのではないのかと思いますが、別段、この点については何ら変化していません。

いずれにしても、このようなことは、言い張ったり、拘ったりするほどのことではないでしょう。

枝葉末節の言葉尻をとらえられて、つまらぬ個人攻撃をされているようで、好い気分はしません。

200歌右衛門:2003/01/03(金) 12:34
以前にレスをした者です、仕事で忙しくお礼のレスが遅れましてどうもすいませんでした。
以前のレスの続きなのですが、いままでのみなさんのレスを読んで、思うのですが、
苦しんだ挙句、学び、思惟のはてに辿りついた思考がいままでのレスなのでしょうか、
私は、いま悩んでいる事があるんですが、アドバイスして頂けないでしょうか、
現宗門から身延に移りたいのですが、どうなのでしょうか?

201犀角独歩:2003/01/03(金) 13:59

歌右衛門さん:

はじめまして、でよいのでしょうか。

私は学会35年、石山5年で、独歩の道を選びました。
そこに至るのは筆舌に尽くせない苦悶の選択がありました。

歌右衛門さんは、何を悩んでいらっしゃるのでしょうか。
また、石山から延山への転宗は、何を基準にお考えになられているのでしょうか。
もちろん、その点を否定しようなどと言うことでは毛頭ないのですが、参考にお聞かせください。

202歌右衛門:2003/01/03(金) 15:25
早々の返事ありがとうございます。
戒壇大御本尊が日蓮聖人、真筆でないとすれば宗門の教義は後に作られた、日蓮とは、まったく関係のないとんでもない代物、こんな物を信じれば信じるほど、
不幸になるのは必然、まして公平かつ平等な社会の作るなど無理、ほんとうの日蓮が後世の者に伝えたかったものは、何か、こんな事を悩んでいます、
転宗の基準は、前項からも、察していただきたいのですが、現宗門には日蓮聖人が後世に伝えたかったものはないのでは?
であるならば日蓮の教えを求めたい、そんな衝動に駆られるのです、おかしいでしょうか?
ならば触れるだけ腐ってしまうよう気がする宗門から離れてたいと思うのですが、身延に行っても嫌なこともあるのでしょう、
ふといろいろ考えてしまうのですが。

203犀角独歩:2003/01/03(金) 15:38

歌右衛門さん:

お記しのところ、共感するところも多々ございます。
ただ、石山に真実はないけれど、延山にはあるというのは、やや短絡ではないでしょうか。檀家制度に甘んじてきた日蓮門下全般、そこに日蓮の祖意があるのでしょうか。

私はここで問答名人さんとともに、その点を考えてきました。日蓮の祖意は何か、その難問について考えてきた2年間でした。そこでたしかに言えることは宗派教団指導者の都合で語るご都合主義には日蓮の祖意はないということです。

宗派、集団、指導者によらず、まずは日蓮の祖意を考え、それからゆっくりと共に歩むべき朋友を求めることが大切ではないのかと私は考えます。もちろん、元より、私の管見に過ぎませんが。

204問答迷人:2003/01/03(金) 16:10

107074 ゲットしました。

205問答迷人:2003/01/03(金) 16:21

歌右衛門さん

>身延に行っても嫌なこともあるのでしょう、

僕もそんな気がします。どの宗旨、宗派にも、もはや日蓮聖人の祖意はないように思えます。

独歩さん

>宗派、集団、指導者によらず、まずは日蓮の祖意を考え、

そうして日蓮聖人の祖意、さらに遡って、釈尊の悟りを求めることが、一番日蓮聖人の歩まれた道に近いのではないのでしょうか、そんな気がしています。

206問答迷人:2003/01/03(金) 16:30

歌右衛門さん

メールでご案内しましたが、1月5日に名古屋オフ会を行います。参加されませんか?詳しくは、「オフ会 開催案内」スレッドをご覧下さい。

207歌右衛門:2003/01/03(金) 16:45
犀角独歩さま
そうそうの返事ありがとうございます。
おっしゃるとうりだと思います、
朋友を求める、そんな事を考えたこともありました、しかし物理的にネット上でしか得られないと思うのです、
地域、時間の違いそれを埋める事ができるのはネット、
しかし近隣で宗門や宗門が生んだ学会の被害者が多いこと、しかし被害者たちは、自分が被害者と思っていない
そんなどうにもならない事を見るにつけどうしたらいいのか、どうにもできません
これからどうしたいいのでしょうか?
いいアドバイスがあればいただけます?

208犀角独歩:2003/01/03(金) 17:03

歌右衛門さん:

どうぞ、「さん」付け、私もそうさせていただきます。

> 朋友…物理的にネット上でしか得られない

ええ、斯様に存じます。
今後の世界ではこのネット上に、サンガが現出する可能性を私はいちばん考えております。徹底した議論が出来ること、ネットは節度と約束を守って使えば、これ以上の利便的な場はないでしょう。集団のための個人ではなく、個人のためのサンガ。その可能性を、私は問答名人さんが設けられるこの場に見ております。

集団と指導者のためではなく、各個人のために、また各個人が個として連なる場こそ、サンガなのであろうと私は思います。

集団の代弁者ではなく、自利が利他を兼する場とネットはなり得るでしょう。もちろん、まったく逆の働きをするような運営の場もあります。利ある場を選び取るところから、個人の自由は始まっていると思うわけです。

209犀角独歩:2003/01/03(金) 17:04

> 205 問答名人さん:

まったく同感です。

2102chより:2003/01/03(金) 20:12
2ch創価板よりコピペ

>119 :不甲斐ない一法華講員 :03/01/03 18:59 ID:v43amsm5
>ご尊敬申し上げる法華講の皆様にお願いいたします。
>富士門流信徒の掲示板において、http://jbbs.shitaraba.com/study/364/
>犀角独歩なる人物が
>1日蓮は、本仏ではない。
>2戒壇の大御本尊は、偽者である。
>3口伝や相承書は、すべて偽書である。
>4唯受一人血脈相承は、まったくの嘘である。
>5僧侶は、信徒を蔑視している。
>6登山を強要し、大御本尊を金儲けの手段にしている。
>7石山は、カルト教団以外の何者でもない。
>などなどの数々の暴言を吐いております。
>ところがこれに反論できる信徒や僧侶が全くおりません。
>猊下様の教えを正しく拝受しておられる皆様方ならこのような邪義を厳然と破折できると確信しております。
>どうかどうか、この犀角独歩を破折し、日蓮正宗の正義を顕正していただきたく思います。
>私にはそのような教学も力もございません。
>どうか伏してお願いいたしますので、犀角独歩を粉砕してください。
>宗旨建立750年を慶祝申し上げるために、伏して、伏してお願い申し上げるしだいです。
>どうかどうか私のこのお願いをお聞き届きいただきたく存じます。

独歩さんガンガレ!!

211犀角独歩:2003/01/03(金) 21:11

> 210

これは実に楽しみですね。
しかし、以上の3「口伝や相承書は、すべて偽書である」とは言っていません。
証明できないと言っているのに過ぎません。

また、コピペの方、応援、有り難うございます(笑)

212無徳:2003/01/03(金) 21:15
皆さん明けましておめでとうございます。
何時も亀レスにて失礼しておりますが本年も宜しくお願い致します。

satさん
 >無徳さんの「解体から再構築へ」との示唆は大変共感いたします。

 共感していただきありがとうございます。過去にsatさんの投稿された
論を拝見しますと大変知的な力量を感じます。特に「現代思想」にも通
じておられるように思われ今後のご活躍に期待を致しております。

213管理者:2003/01/03(金) 21:21

管理者から一言

>210 どうか伏してお願いいたしますので、犀角独歩を粉砕してください。

新年早々、一応、楽しみです。まぁ、あんまり期待していませんが・・。独歩さんを破折しようとされる方は、姑息な「荒らし」の様な真似をせずに、当掲示板のルールに則って正々堂々と論線を張られることを要望しておきたいと存じます。そして、途中で逃げ出さずに、とことん議論されることを望みます。

214無徳:2003/01/03(金) 21:23
問答名人さん今晩は、

>仰るとおりです。当初は、富士門流と言うものの、実際は大石寺門流の再構
築を目指して出発しましたが、現在は、掲示板のコンセプトは結果的に拡大さ
れ、文字通り、北山本門寺、西山本門寺、保田妙本寺を含む、富士門流の再構
築を目指す事となったと思っています。

とのコメントありがとうございました。
この掲示板の目指すところが再確認でき嬉しく存じます。

 本年こそ富士門流の再構築という壮大なるテーマに微力ながら皆様と共に
挑戦してまいる所存ですので宜しくお願いします。

215管理者:2003/01/03(金) 21:27

> 210

スレッドは、特に指定しませんが、内容からして、「続 大石寺問題提起」が適当かと思います。出来れば、そちらで思う存分議論していただければと存じます。

216無徳:2003/01/03(金) 21:29
独歩さん今晩は:

>還暦といえども、あと20年はばりばりと共同幻想を壊していただかなくては。

とのコメントありがとうございました。
この掲示板における独歩さんの獅子奮迅のご活躍はまさに共同幻想を解体する
利剣となっております。本年もますますのご活躍期待いたします。

217無徳:2003/01/03(金) 21:40
また、

>今後の世界ではこのネット上に、サンガが現出する可能性を私はいちばん
考えております。

との独歩さんのご意見は、日頃私も考えておりました問題意識と軌を一にして
おり驚いています。富士門流の再構築というテーマも、このネット上における
現代的サンガの構築といった側面があるのかも知れません。

 この点における皆様のご意見を是非お伺いしたいと存じます。

218犀角独歩:2003/01/03(金) 21:43

管理者さん:

210の件、了解しました。

まあ、悪口言われておしまいになるのが関の山(爆)と思っていましたところ、適切なコメントをまず頂戴して、有り難く思います。

219犀角独歩:2003/01/03(金) 21:45

無徳さん:

明けましておめでとうございます。

> 217

そうですか、それは嬉しく心強く思いました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

220:2003/01/04(土) 04:10
単なるツブヤキ。
私は「お祖師様」という呼び方に、あこがれます。
江戸古典落語で「おそっさん」なんて聞くと、「ホノボノとして、いいなあ」と思います。
2年以上前になりますが、古今亭志ん朝さん、残念なことでした。

221犀角独歩:2003/01/04(土) 05:06

あさん:

お久しぶり、明けましておめでとうございます。
日蓮宗の人たちは「お祖師様」と言いますね。
好い呼称ですね、たしかに。

222モモ:2003/01/05(日) 21:08
犀角独歩さん

レス拝見しました。丁寧な御教示ありがとうございました。どうやら石山とは蔑称でも何でもない、ということがよくわかりました。
安易な発言について謹んでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

223モモ:2003/01/05(日) 21:10
菊水護国さん

レスありがとうございました。222にも書きましたが、石山とは蔑称でもなんでもない、とのことがわかりました。ありがとうございました。

224犀角独歩:2003/01/05(日) 22:49

モモさん、どうも。
こういう素直な謝罪というのは気持ちが好いものですね。
有り難う。

225無徳:2003/01/05(日) 23:21
皆さん今晩は:

富士門流の再構築というテーマに対しどの様なモデルが考えられるか考えて
みたいと思います。

まず<リゾーム>と言う現代思想上のタームがあります。

このタームは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神科医フェリックス・
ガタリの共著『千のプラトー』の基本用語で、西洋の伝統的形而上学が一から
出発して分岐してゆくトゥリー(樹木)状の存在モデルとそれに対応する思考
形態をとってきたのに対し、ドゥルーズ/ガタリはリゾーム(根茎)状の存在
モデルと思考形態を提唱しました。

それは特定の中心をもたず、それぞれ異質なものが異質なものと接合されな
がら、始まりもなく終わりもなく、多方向にまた重層的に錯綜しながら延びて
ゆく。当然リゾーム的思考は、パラノよりもスキゾ、定住性よりは遊牧性を志
向する。

このように、二人は垂直に聳え立つ樹木のイメージに従って体系を構築し、
そこに組みこまれないすべてのものを排除してきた西洋の哲学的思考を疑問に
付し、そうした樹木を支えている地下のリゾームをモデルに、発想の根本的転
換をはかろうと企てています。(現代思想用語辞典より)

 このリゾームという考え方は独歩さんが、

>今後の世界ではこのネット上に、サンガが現出する可能性を私はいちばん
考えております。

とされた意見に沿って、ネット上に展開し得るサンガの在り方としてのモデル
となり得る思考形態のではないかと思われます。

 これまでの富士門流の在り方は、このリゾーム的な存在様式とは対極的なる
組織形態であったといわざるを得ません。もっとも、組織と言う存在様式その
ものがどうしてもトゥリー(樹木)状的な在り方を要請せざるを得なかったと
言う面は否定できませんが、今後の富士門流の再構築にあっては、これまでの
様な組織形態を踏襲することは絶対に出来ないし、してはならないと私は考え
ますが皆さんはどう思われますでしょうか?

 したがって、もしネット上にて富士門流を現代的サンガとして形成するとし
たらリゾーム的にならざるを得ませんし、何よりもインターネットという存在
そのものが、まさにリゾーム的であるといって過言ではないと思います。

 もちろん、簡単に現代的サンガが形成されるなどとは夢夢思われませんが、
この<富士門流信の掲示板>はもとより、様々な方が立ち上げるホームページ
を介してネットを通じた意見交換が活発化し、更にはネットに集う人々が全国
津々浦々にてオフ会等を開催し連帯連携を強めることが出来得れば決して不可
能なこととは思いません。

 皆様のご意見も是非承りたく存じます。

226犀角独歩:2003/01/06(月) 21:00

無徳さんのお話。含蓄が深くて難しい(笑)
でも、仰るところに私は賛同の意を表します。

227無徳:2003/01/06(月) 22:38
独歩さん今晩は:

賛同の意をありがとうございました。

そうですね難しいのは当然と思います。
そもそも現代人は社会の成り立ちからして、トゥリー(樹木)状の組織形態に
慣れきっていますから、リゾーム的な関係性を受け入れることは相当に困難で
あることは想像に難くありません。

 しかし、インドにおけるサンガの形成と言うモデルがあるわけですから、全
く不可能と言うわけでも有りませんよね、もっとも現代社会とかつてのインド
社会とは全く様相が異なりますから、インドにおけるサンガの形態がそのまま
適用できるわけでは毛頭ありません。

 ただし、インターネットという人類史上かつてなかった情報空間が現出した
現在では、かつてのインド社会とは全く違ったサンガの形成条件が生まれたの
ではないかと私は考えています。

 リゾーム的人間関係や社会システムの有り方は、ドゥルーズやガタリが目指
すように発想の根本的転換を必要とするために、現代社会に生きる我々にはな
かなか理解し難いのは当然と言えましょう。

 ましてや、人類にとってインターネット社会が一体どの様なパラダイムシフ
トを起こすのすのかもまだ予想がつきません、したがってリゾーム的社会シス
テムや人間関係が人類にとってどの様なパラダイムを提供するかも解りかねる
訳ですから、難しいといえばこれほど難しい問題もありませんね。

 しかし、私はかえって未曾有のチャンスなのではないかと考えます。何故か
ならば我々一人一人がその主役を演ずる事が出来うるかも知れないかです。
これまでの世の中では我々の様な庶民が本当の意味で主役を演ずることは不可
能に近かったからです。

 インターネットと言う情報空間は全く中心点すらないのですね、ネットに連
なる一人一人が中心であると同時に周辺を担っているわけです。まさにリゾー
ム的空間を形成しているといって過言ではありません。

 これまでの富士門流では、創価学会や顕正会的な絶対的指導者を中心にした
ヒエラルキーを形成した組織が、圧倒的な力を持ち宗門の中心である本山を脅
かし続けているわけです。総本山側も今やそれに対抗すべく日顕氏を絶対的権
威者に仕立て上げざるを得ないと言う悪循環に陥っているのが現状なわけです。
 
 この様な状況を解体し打破するには、リゾーム的なサンガを草の根的運動で
展開する以外に有りえないのではないかと考えますが如何なものでしょう。

228sat:2003/01/07(火) 02:24

横レスにてすみません

リゾームのベースとなるところは、①テキスト(すべての言語媒体による情報)を収集して博識になることではなく、②テキストの文自体を暗記して専門家になることでもなく、③テキストから自分にとって革命的な部分をよみとり、自身の運動の糧とすることとされているようですが、「解体から再構築」へ向かおうとする際の大事な視点だと感じます。
また「諸部分」や「全体」を直接見るのではなく、その「差異」に着目、「そこからしか思考は生まれてこない」とするリゾームの主張も的を得たものではないかと思います。

また、「定住の知による世界」である①秩序、②法則性、③言語体系(ロゴス)による説明、④論理配列型によるパラノ世界から、
「遊牧の知による世界」である①複雑かつ多元的、②流動的、③容易な定式化の拒否、⑤複雑に錯綜した多数多様体としてのスキゾ世界への移行は、
秩序・位階制度的、伝統的・ヒエラルキー的な限界思考を打ち砕くのではないかという期待感もあります。

或いは、ヒエラルキー型組織としての強制−服従型コミュニケーションから、ネットワーク型組織としての説得−納得型コミュニケーションに転換を図ることで自己産出を為すというのも納得できるところです。

しかし、問題はドゥルーズ/ガタリ自身が指摘している領土化→脱領土化→再領土化ではないでしょうか。

創価学会が戦後最大の大衆運動へ胎動を始めた時代は、有る意味でリゾームでありスキゾ的であったかと思います。世間の秩序や位階から漏れ落ちた人々が、リベンジ志向を中心とし、人的つながりを何者にも優先する「縦線組織」を形成していったのはリゾームそのものであり、スキゾであり、スキゾと関連して語られるところのノマドでもあったのではないかと思います。しかしながら組織の効率的運営やマス化による操作性向上を目的とした縦線組織から「ブロック組織」への移行が始まった段階でツリー化、パラノ化したということではないでしょうか。

仏典にある「修行僧たちは私に何を期待するのか?私は内外の隔てなしに理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような『教師の握りこぶしは存在しない』。『私は修行僧の仲間を導くであろう』とか、或いは『修行僧の仲間は私に頼っている』と、このように思う者こそ、修行僧の集いに関して何事かを語るであろう。しかし、向上につとめた人は『私は修行僧のなかまを導くであろう』とか、或いは『修行僧の仲間は私に頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧の集いに関して何を語るであろうか。・・」みたいな世界が、いつの間にか一子相伝みたいなものになってしまうのは何故なのでしょうか。

ネットワークという特殊な世界が生まれたことで、私達の思考や信仰の世界もリゾーム化への可能性を開くものだということは否定しないどころか、大いなる期待をしますが、一方で領土化→脱領土化→再領土化もあるような気がします。何せ未体験な世界ですから正直よくわかりません。

その中で考えつくことは、リゾームから学ぶべきは「ゆらぎ」ではないかと・・

229犀角独歩:2003/01/07(火) 11:45

無徳さん:
satさん:

リゾームということを主軸にした考証も面白いところですね。
私はポスト構造主義となると、もうほとんど勉強していないので、余計なことを記さず、横で読ませていただきます。非常に有意義な議論ですので、どうか続けていただければと思います。

230無徳:2003/01/08(水) 17:40
satさんこんにちはコメントありがとうございます。

>リゾームのベースとなるところは、①テキスト(すべての言語媒体による情
報)を収集して博識になることではなく、②テキストの文自体を暗記して専
門家になることでもなく、③テキストから自分にとって革命的な部分をよみ
とり、自身の運動の糧とすることとされているようですが、「解体から再構
築」へ向かおうとする際の大事な視点だと感じます。

 全くその通りと思います。ドゥルーズとガタリの二人はスキゾ的な在り方を
肯定し、現在知からの逃走を企てつつノマドロジーを通じて西洋的知の体系の
解体を図ったとも言えましょう。

>また「諸部分」や「全体」を直接見るのではなく、その「差異」に着目「そ
こからしか思考は生まれてこない」とするリゾームの主張も的を得たもので
はないかと思います。

とのことは、フーコが賛したドゥルーズの主著『差異と反復』の主要テーマ
ですね、西洋的知の体系の殆んどが「同一性」の原理の上に成り立っていたわ
けですが、実は同一と見える現象の中に微妙な差異が有り、時には大きな差異
さえ有ることを発見し、これまでの西洋的知としての「同一性」による暴力的
世界支配からスキゾ的に逃走を企て、「差異」の視点から当時学生や労働者によ
ってフランスを席巻した「マルクス主義」による革命運動をも批判しました。

>或いは、ヒエラルキー型組織としての強制−服従型コミュニケーションから、
ネットワーク型組織としての説得−納得型コミュニケーションに転換を図る
ことで自己産出を為すというのも納得できるところです。

とのことも全く賛成です、まさに我々が目指す富士門流によるサンガの形成
も「ネットワーク型組織としての説得−納得型コミュニケーションに転換を図
ることで自己産出を為す」と言われた事と軌を一にする考え方です。

>しかし、問題はドゥルーズ/ガタリ自身が指摘している領土化→脱領土化→
再領土化ではないでしょうか。

とのことは、人間の欲望と言うものをどう考えるかに尽きていると思われます。
かつてヨーロッパやアジアでも定住を嫌った遊牧民による殆んど本能的とさえ
言える欲望の奔流が、定住民たる都市や国家と衝突したときに数々の戦争を起
こしました。そして、領土を区切るような都市や国家のあり方を破壊し尽くし
た、まさにノモドロジー的な在り方をヒントに、ドゥルーズとガタリは領土化
を必然とする西洋的知の体系と言う不自由なパラダイムの裏をかいてそこから
逃走しつつ様々なカルチャーと接続し交流することによって新たな変革を目指
したと言えます。

 ただ、少なくとも仏教的な欲望否定の原理持つ文化圏に生きる我々にとって
は、ドゥルーズやガタリとはちがった形の西洋的知の体系に対抗する軸が有る
筈ですし、現に我々が目指すサンガの形成は仏教理念による欲望の制御と言う
課題を果たし得るのではないかと考えています。

私には限界を露呈した現代文明とは、人類が果てしない欲望追及に明け暮れ
た結果であると考えます。おそらく大半の人々も同じ意見ではないかと想像さ
れます。したがってこの現代社会の欲望追及の原理に沿った様々なシステムを
根本的に変革せざるを得ません。

 もちろん簡単に変革が出来得るなどと夢夢思われませんが、誰かが成さねば
おそらく人類はそう遠くない将来に終末を迎えることでしょう。したがって、
領土化→脱領土化→再領土化どころではないと考えますが如何なものでしょう。

>その中で考えつくことは、リゾームから学ぶべきは「ゆらぎ」ではないかと

とのことは、もうちょっと具体的に語っていただきたく思います。

231sat:2003/01/09(木) 15:49

無徳さん:

>現代社会の欲望追及の原理に沿った様々なシステムを根本的に変革せざるを得ません。
>我々が目指すサンガの形成は仏教理念による欲望の制御と言う課題を果たし得るのではないかと考えています。

そうなれば大変素晴らしいことかと思います。西洋哲学一辺倒から来る限界やほころびが、仏教の有する可能性とか、新しい視点を導き出す序章になるということかもしれませんね。当たり前として身につけてしまった既成の概念や思考から抜け出すことは困難を極めますが、本掲示板に集う人々によって、その萌芽が見出されることを期待しています。

>「その中で考えつくことは、リゾームから学ぶべきは『ゆらぎ』ではないかと」とのことは、もうちょっと具体的に語っていただきたく思います。

特に難しいことを考えた訳ではありません。リゾームを主軸とする主張を読ませて頂いた時、無徳さんの記された「同一性」の原理とも関連しますが・・組織のもつ「凝集性」とか、「ゆらぎ」という言葉がふと心に思い浮かんだという程度に過ぎません。

「凝集性」という言葉は集団構成員に対して、集団内に留まるよう働きかける全ての「合成力」を意味する時に使われ、また、凝集性を高める条件(魅力)として、①集団内の威信、②集団内で重視される人への魅力、③集団内の協力関係、④集団内の協同関係、⑤集団内の相互作用、⑥集団構成員の類似性、⑦集団の社会的位置、⑧他集団への攻撃といった点が挙げられているようです。

問題とすべきは凝集性に潜む「組織外に敵を作る」こと・・「所属外集団」に対して憎しみを抱くこと・・所属集団が完全無欠のユートピアであるために、誤謬を指摘するものに対して非難し抹殺しようとすること・・であろうかと思います。

集団が事実の上において失敗し誤謬を認めざるを得ない状況に陥り始めた時、損なわれた凝集性を取り戻そうとして、その傾向は益々強くなり、集団構成員の「ゆらぎ」そのものをノイズであり罪悪であると意識づけ、忌避させ、排除させ、所属集団のもつ欠陥を容易に、無自覚に、何らの痛みも感じることもなく看過させるという・・こういった「凝集性を強化する最善の方法」が、所属集団内の整然たる秩序、完全なる秩序を強制希求させ、カルト化への一端とつながっていくのかもしれません。

「ゆらぎ」といえば、半導体や発光ダイオード・発振子のノイズ理論から導き出され、家電製品から景観デザインにまで幅広く応用されている「1/fゆらぎ理論」というのがあるかと思います。森羅万象はすべて1/f0--1/f1--1/f2の数式で表現できるとされ、1/f0(カオス)と1/f2(秩序)との中間に1/f1(変調:ゆらぎ)が自然界に普遍的に存在するとのこと。地球の自転、季節の移り変わり、羊水中から聞く母親の心音、電車のゆれ、音楽・・規則性の中にある不規則性としての僅かな変調が快い気分をもたらすのであり、その変調はノイズではなくゆらぎなのだと・・

単純系から複雑系へ向かっている今・・或いは既存パラダイムからの差異化によって組織構造の意味そのものを問い直そうとしている本掲示板のようなサイトが出現している今・・この規則性の中にある不規則性、意外性、期待性が大事なのではないかと感じる次第です。ゆらぎは偶然のノイズであるというよりは、安定性を見いだそうとして選択した行動であり、差異化と自省作用の結果と考えれば、リゾームとあながち無縁ではないような気がしました。

中心もなく、位階序列もなく、主体と客体の区別もなく、秩序とカオスの区別もない多様体、或いは個の全体に対する従属を転倒させ、秩序や均衡の発想を脱構築しようとするリゾームには「ゆらぎ」があるのではないでしょうか。

構造機能主義的世界から、差異のダイナミックスへと向かう非決定論的視座への転換がリゾームであり、インターネットの持つ世界観が平等性・公開性・自律性といった自立分散型であるとするならば、リゾームとネットワークがコンデンスするような自己組織化が起きる可能性は充分考えられることですし、新たな宗教共同性の成長過程にも、求心力にも、遠心力にもなっていくかもしれないという期待感はあります。

232今里祐二@日蓮本仏論者:2003/01/09(木) 21:49
『聖人御難事』
『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。』

お釈迦様の教えの正しさは大聖人様に依存している、ということになると思います。
きっと、お釈迦様には、未来に大聖人様が出現されるという大確信がおありになったのでしょう。

法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい、などということは
つい最近知りました。しかし、もしそうであったとしても、仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として
羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、
大聖人様は身をもって教え示されたと思います。

『十八円満抄』
『総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。』

腹痛から復活するためにつぶやいてみました。(^^;

233問答迷人:2003/01/09(木) 22:15

大石寺では、『聖人御難事』は、日蓮大聖人が、出世の本懐、戒壇板本尊の建立を遂げられた事を書き記された御書とされていますね。ところが、『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。』と有るわけです。つまり、二千二百三十余年とこの御書にしたためられた訳ですから、同じく、戒壇板本尊も二千二百三十余年としたためられておれば、整合性が取れていることになります。ところが、なんと、戒壇板本尊には、二千二百二十余年と認められています。僕は、だから、この聖人御難事は、戒壇板本尊の建立=出世の本懐を遂げたことを述べられているとは、到底思えない訳です。今里さんは、この御書と戒壇板本尊との記述の違いをどうお考えになられますか?

234今里祐二@日蓮本仏論者:2003/01/09(木) 22:31
問答名人さん

>この御書と戒壇板本尊との記述の違いをどうお考えになられますか?

なぜなんでしょうね?
ぜんぜん分りません。
もしかしたら単なる書き間違えかも(笑)

仏滅年は数百年もずれているという事が最近の定説だそうですから、
10年ぐらいどうって事ないのでは(笑)

実用上は何の問題もない、というのが僕の考えです。

235五月雨:2003/01/09(木) 22:52

今里さん

こんばんは。腹痛は治まりましたか?

>仏滅年は数百年もずれているという事が最近の定説だそうですから、
10年ぐらいどうって事ないのでは(笑)

日蓮聖人のお言葉と出世の本懐といわれる戒壇之漫荼羅に整合性がないのを、笑って流せる今里さんは、中々の大人物ですね(笑)

10年くらいどうって事なければ、石山のお形木本尊(仏滅年数二千二百三十余年)も、戒壇之漫荼羅と同じく仏滅後二百二十余年と認めておけば、何の矛盾も生じなかったと思いませんか。今里さんには整合性があるかもしれませんけど、お形木本尊は戒壇大御本尊のそのままのお写し、と教育されてきた私には大矛盾です。

>実用上は何の問題もない、というのが僕の考えです。

ここで言われる「実用上」というのは、どんな意味合いで言われているのかお示し頂けませんか。よろしくお願いします。

236今里祐二@日蓮本仏論者:2003/01/09(木) 23:13
五月雨さんへ

>ここで言われる「実用上」というのは、どんな意味合いで言われているのかお示し頂けませんか。

仏様の望みは『如我等無異』です。僕の望みは『如我等無異』になること、つまり成仏することです。
成仏するという目的を果たすための「実用上」ということです。

237犀角独歩:2003/01/09(木) 23:21

今里さん:

あなた、こんな所に出てきても意味がないんじゃないのかな。
自分の本仏論を抱きしめて悦に入っていれば好いんだから。
言葉をやり取りすること自体、意味ないでしょう、あなたには(笑)

それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。

238犀角独歩:2003/01/09(木) 23:33

まあ、本仏論なんて看板背負って出てきても、説明も何も出来ないかけ声だけじゃ、退屈ですね。
独りよがりの好い気分、聞いたって、何の参考にもならないし、本仏論というのはただの思いこみなのかと。
思い込んでいる人とは会話は成り立たず、ただ、説明も出来ないことを押しつけられるだけでは、公開の議論の場にはふさわしくないでしょうね(笑)

239ROCK@日蓮宗葵講:2003/01/09(木) 23:53
久しぶりにお邪魔します。

○二千二百二十余年と二千二百三十余年に関して

大石寺戒壇本尊(弘安二年十月十二日の御本尊)に関して、大石寺門流は、
寛師の「観心本尊抄文段」を以って、大石寺戒壇本尊こそ本懐である。まぁ
こういうわけですね。(『折伏教典』『日蓮正宗入門』)
寛師は、弘安元年以降は二千二百三十余年であると強調するわけですねその上で、
「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。」
と結論付けている訳ですが、大石寺戒壇本尊には二千二百三十余年となく、二千二百
二十余年とある訳ですから、寛師の説はむしろ、大石寺戒壇本尊は本懐ではないと
いう証左ともなりますね。

240蘭鋳:2003/01/10(金) 01:22
すいません。。突然。。。
犀角独歩さんのHNの元になったブッタの言葉を、前にTVで(日本テレビだったかな)聞いたことがありました。
その時、ナレーターの話す 犀の角のようにただ一人歩め・・・・に涙がでてしまいました。心の奥にしまって
あった忘れた何かに感応してしまったようで理由もなく泣いてしまったのです。過大評価しすぎかもしれません
が、あの時優しさに包まれた気がしたというか、尖がっていたものが割れ崩れたというのか、何とも不思議な気
分になってからというもの、それまで学会や正宗で聞いていた『末法に釈尊の力が無い』と教わり見向きもしな
かった『ブッタ』に興味が湧き、身延の方の掲示板なども見るようになりました。日蓮宗での掲示板では質問に
対してよくブッタの言葉を用いていて分かりやすく納得できるものばかりでした。

私は頭が弱く、皆さんのように色々と語ったりできませんが、祖師の力強さはもちろん、興師の間違いを許さな
いような厳格さがとても好きです。興師は身延の僧侶も認める素晴らしい方と記憶しています。正宗をやめて身
延の門をたたくのは簡単なのかもしれませんが、興師と縁のある大石寺を離れたくありません。重須もあります
が私は日蓮仏教は祖師が妙法を広めなさいと言った以上、縁を考えています。正宗(学会)により祖師の『心』
に触れられたことを感謝しています。是非、大石寺には教義の間違いや歴代法主の立場上の誤解を正して頂き、
せめて古き良き頃の大石寺をこの肌で感じてみたく思います。この時代、良き事は評価され、間違いには人はつ
いてこないと思うのです。昔は立場や営むために他門との差別化は一つの糧としてあったろうと考えますが、今
はいりません。例え、直すべきところを直して身延や他門との一線が消えようとも誰も非難しないでしょう。逆
に拍手されるべき事で他門や他宗は尊敬するのではないでしょうか?仮に外野で悪く言われても過去もあるので
それは甘んじて受けるで良いと思うのです。間違いを正しても今の大石寺の信徒が離れることは無いと感じます
。それどころか、宗門より分派した会の信徒が戻ってくると考えます。根本的な原因は皆、いっしょに思います
。正直なところ富士門をまとめるのは大石寺でなければできないと思います。

日蓮宗史にも宗門のことにも疎い私ですが、いつか良い宗門になることを願っております。

PS 以前、菊水護国さんの言っていた、富士周辺の正宗檀家に英師の頃の釈迦仏像や大黒像があるのは本当なの
でしょうか?本当なら凄く拝見してみたいです。そして心より手を合わせたく思います。

241犀角独歩:2003/01/10(金) 08:42

蘭鋳さん:

はじめまして。
私のHNの元になったのは仰るとおりスッタ・ニパータ第1蛇の章・犀の角の「犀の角のように独り歩め」というフレーズから採ったものです。私も、この教えに言いしれぬ感動を覚えた一人です。

独歩…、このように聞くと単に孤独な歩みを考えがちですが、しかし、蘭鋳さんもご承知のとおり、

「もしも汝が、賢明で、協同し律儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、かれとともに歩め。しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならぱ、あたかも王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め」

「博学で真理をわきまえ高邁・明敏な友と交われ。いろいろとためになることがらを知り、疑惑を除き去って、屋の角のようにただ独り歩め」

という教えもありますね。

ここでは、単なる孤独の勧めではなく、集団従属から離れたうえで、今度は個を中心にした闊達な思想交友も教えています。

その意味から240にも記されるところ、概ね賛同するものです。

242犀角独歩:2003/01/10(金) 13:39

真偽未決である『十八円満抄』を恰も確定した真跡のように扱ったうえ、さらにまるで学問、教学不要の如き扱われることはまさに片腹の痛む思いがします。

何度も挙げていますが、聖人は『富木殿御書』に

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」

という名文を遺しています。
また、同じく最近も引きましたが、真偽未決ながら、

「何度もかれが云ふ言にて、やゝもすれば己がつまる語なり。されども非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。都(すべ)て理におれざるなり、譬へば行く水にかず(数)か(書)くが如し」

という『諸宗問答抄』の有名な一節が存します。

このような“非学匠”の在り方は、外教のサンジャヤ・ベーラティプッタ鰻の論理(異問異答)にほかならない。

――サンジャヤ・ベーラティプッタは、例えば、“死後の世界はありますか”、とたずねると、“私は、あるとも考えず、無いとも考えず、その他だとも考えず、考えないとも考えない・・・”などと、ぬらりくらりと、筋の合っていないような、合っているような答え(異問異答、“うなぎ”の論理と呼ばれている)をする――

つまり、いわゆる内外相対で簡ばれる外道義なのであって、石山義でいえば、第五位下の論理。第一位上に置かれる本仏義とは天地雲泥、遠くかけ離れた非仏教的なであると指摘しておきます。

249三学無縁:2003/01/10(金) 20:13
でも石山ってアンタッチャブルの寺でしたよね。
つまり不なるが故に浄の寺。
元々は他門の本尊に対する「おきよめ」であったものが、いつのまにか自門のものにまで援用されてしまった、ということなのではないでしょうか。

250今里祐二:2003/01/10(金) 20:16
独歩さんへ

ほかのスレッドだと独歩さんに突っ込まれて恐そうなので『つぶやき』にしたのですが…
学会を追い出され、法華講からも追い出されてしまって、友達いなくて淋しいので、
あまりいぢめないで下さい(^^)

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」

独歩さんの解釈では上記御文の「之」とは何を指すのですか?
それとも「之」とは何かを探すため、犀の角のように独り歩んでおられるのでしょうか?

251犀角独歩:2003/01/10(金) 20:46

「之」の意味は『富木殿御書』に明確でしょう。
私が記すまでもないことです。
いずれにしても、「私が解釈」するのではなく、日蓮がどう書いたかが、ではないですか。

この文の前文に

「夫(それ)賢人は安きに居て危ふきを欲(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを欲(おも)ふ」

ともあります。そののちに「之」を論じていくのでしょう。

「之」は文の運びで前文を指す言葉でしょう。不明になっているわけではありません。よって私が求め歩いているものなどの意味は、本来、ありません。

けれど、この日蓮の気迫ある考証の姿勢は門下一同、もっとも見習うべき点であると思うから、引いたわけです。

252三学無縁:2003/01/10(金) 20:57
横レス失礼します。
之、ですか。
石山も含めて日蓮教団的には「広宣流布」ということになるかもしれませんね。
でも、「何」を。
「板本尊」による救いとか、「板本尊」を根本にした教え、であるわけはないですね。
身延にも石山にも池上にも中山にも、というより今の日蓮教団には、その「何」はないのでは・・・。
要山か房山には残っているかもしれませんが、少なくともいまは忘れられてしまっていますね。
真筆御書に戻れば案外かんたんにわかるのですが。
要は、数ではないのです。
日蓮さんも晩年になってその自覚を深めたようです。
数でなければ何を、という向きは、まず真筆御書を読まれることをお勧めします。

でも、「何」の委細は真筆にはないというふうにも私は考えています。
真筆・偽書・疑書を含めて、3篇だけ残して後は捨ててもいいと思っています。
いやはや、抽象的ですみません。

253・・・:2003/01/10(金) 21:02
三学さんでしょ

ということは
御義口伝
不動愛染管見記
あとは
−ん
産湯記
かな
正解?

254犀角独歩:2003/01/10(金) 21:14

あれ。三学無縁さんまで、そんな抽象的なことを(笑)
この書で日蓮が「之」と言ったのは

「此の三大師(円仁・円珍・空海)の意は法華経は已今当の諸経の中の第一なり。然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり等云云。此の義、心有らん人信を取るべきや不や」
という当時、真言になずんでしまった天台宗の考えを指したのではないでしょうか。それが、もはや一般的になってしまったが最為第一は法華経である、これを案ぜよではないでしょうか。

こういう大疑を断じていく台学の在り方を日蓮は徹底していたのですね。
三学無縁さんに対してでは、真面目に答えすぎかな?(笑)
この点ですよ、今里さん。

255今里祐二:2003/01/10(金) 23:57
独歩さん

僕は「之」を「仏様の御意(みこころ)」と受け取っておりました。
僕にとっての仏様は大聖人様ですから「大聖人様の御意」です。
まぁ、僕の勝手な解釈に過ぎないので、どうだっていいことですが。

独歩さんのお考えは、日蓮聖人はただの人、法華経は後世の創作で、シャキャムニとは無関係…
というものだと受け取っておりました。

そのようにお考えの方が

>何度も挙げていますが、聖人は『富木殿御書』に
>「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」
>という名文を遺しています。

ただの凡夫が偽経を引いて、ごたくを並べているのを「名文」などとおっしゃるので、
いったい如何なる事なのかという疑問がわいたので、「之」という言葉に託して質問したのですが、

>最為第一は法華経である、これを案ぜよではないでしょうか。

…なんだかなぁ、偽経など案じてどうするんですか?
僕には、毎日毎日この掲示板にカキコされている独歩さんの気持ちがよく分りません。

それでは、おやすみなさい。

256無徳:2003/01/11(土) 00:56
Satさん今晩は:

>そうなれば大変素晴らしいことかと思います。西洋哲学一辺倒か
>ら来る限界やほころびが、仏教の有する可能性とか、新しい視点
>を導き出す序章になるということかもしれませんね。当たり前と
>して身につけてしまった既成の概念や思考から抜け出すことは困
>難を極めますが、本掲示板に集う人々によって、その萌芽が見出
>されることを期待しています。

全くその通りですね、
ただ、私が<現に我々が目指すサンガの形成は仏教理念による欲望
の制御と言う課題を果たし得るのではないかと考えています。>と
したのは、決して意識的な形で欲望が制御できると考えたわけでは
ありません。例えば法律や教育さらには倫理や道徳と言った人間の
識知や制度のみでは欲望の制御は叶わないと思います。

仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能
にするのであって、人間は向うからやって来る不可避的な状況に急
かされてのみラジカルな変革が結果として可能になるのであり、所
詮人間が意識して出来得る事などたかが知れていると、私が敬愛す
る吉本隆明氏から教えられました。

>「凝集性」という言葉は集団構成員に対して、集団内に留まるよ
>う働きかける全ての「合成力」を意味する時に使われ、また、凝
>集性を高める条件(魅力)として、①集団内の威信、②集団内で
・・・・・・・・・・・・<中略>・・・・・・・・・・・・・・
>問題とすべきは凝集性に潜む「組織外に敵を作る」こと・・「所属
>外集団」に対して憎しみを抱くこと・・所属集団が完全無欠のユー
>トピアであるために、誤謬を指摘するものに対して非難し抹殺し
>ようとすること・・であろうかと思います。

とのことは、これも吉本隆明氏から学んだことですが、「共同幻想」
と言う、人間にとって非常に厄介な心的作用がもたらす弊害の典型
と言えます。独歩さんとのやり取りでも申し上げましたが、まずは
この厄介至極な「共同幻想」を解体することが肝要ですね、しかし
解体と同時に並行的に再構築を図って行くことこそ大切ではないか
と考えます。

>中心もなく、位階序列もなく、主体と客体の区別もなく、秩序と
>カオスの区別もない多様体、或いは個の全体に対する従属を転倒
>させ、秩序や均衡の発想を脱構築しようとするリゾームには「ゆ
>らぎ」があるのではないでしょうか。

正直に申して私は「ゆらぎ」と言う概念が今一つピンと来ません。
なにか、とても都合のよいタームではありますが、特に宇宙の生成
過程で特異点から「ゆらぎ」が生じてビックバンに繋がったとする
解釈が有るようですが、私には理解が届きません。リゾーム的あり
方が「ゆらぎ」とどの様に関係するかは今後の解明に待ちたいと思
います。

>構造機能主義的世界から、差異のダイナミックスへと向かう非決
>定論的視座への転換がリゾームであり、インターネットの持つ世
>界観が平等性・公開性・自律性といった自立分散型であるとする
>ならば、リゾームとネットワークがコンデンスするような自己組
>織化が起きる可能性は充分考えられることですし、新たな宗教共
>同性の成長過程にも、求心力にも、遠心力にもなっていくかもし
>れないという期待感はあります。

とのことは全くその通りだと思います。
これは私が抱く現代的サンガの在るべき姿を素描したものですが、
まずサンガを形成する人々は全く自由であることが大前提でなけれ
ばなりません。もちろん、仏教理念を背景にして形成されることが
大切な要件では有りますが、決して仏教理念を強制するものではあ
りません。

ただし、当然ながら全っき自由であることは全てに亘って自己責任
が生じます。誰彼に強制はされませんが全てに対して自己決定しな
ければ自己変革も社会変革にもなりえません。向こうから到来する
あらゆる事象に対しサンガが全体で対抗することはサンガの持つ性
格上出来得ないと思われます。個々人の悩みや問題をサンガの中で
助け合い相談しあって解消することは大切なことですが、それとて
自己責任が前提となります。

サンガにとって様々な問題や障害が生じた時や重要な事項が持ち上
がった時は、全てネットを通じて問題を提起し、出来るだけ多数の
意見によってサンガの合意事項とすべきですが、決定し得ないこと
は「重層的非決定」とせざるを得ません。つまり、差異は差異とし
て非決定のままで良いと思います。それが、<差異のダイナミック
スへと向かう非決定論的視座への転換がリゾームであり>とsatさ
んが言われたことに通じると思いますが如何なものでしょう。

257みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/11(土) 00:56
>今里さん
法華経や日蓮があなたの思っているようなものではないかもしれないということと、価値がないということはまったく違ったことです。

法華経が仏語でなくて後代の作でも、何らかの価値がある可能性があります。
日蓮が本仏でなくて凡夫でも、何らかの価値がある可能性があります。
そういう単純な話なのですが、如何でしょうか。

258みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/11(土) 01:43
>>133
>今里さん

>理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
>慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;

たとえば、今里さんが日蓮の開目抄なり本尊抄なりを読んで、何を言っているのかよくわかるなら、増上慢ではないでしょう。
(古文・漢文がわからないとか、事実関係や引用元を知らないということは全然かまいません)

別に、経典でも教行信証でも正法眼蔵でもなんでもかまわないと思いますけどね。

259今里祐二:2003/01/11(土) 08:10
みかんさんへ

>理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
>慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;

これは輪廻転生と無我との関係というか、
理論的整合性というか、そういう事が僕にはどうしても理解できないのですが、
そのことを言ったのであって、
開目抄や本尊抄をよく理解できる、などという大それたことを言ったわけではありませんです。

260みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/11(土) 08:44
「慧眼」というのはそういうものだからそう申し上げたまでです。
慧眼とは智慧の眼です。ダルマをこの身でありありと体験する能力です。智慧の眼とは仏のみが開いている目です。
智慧の眼の一分を開くというのは、仏智の一分が開くということです。
すなわち菩薩になるということです。
智慧の眼の一分が開いていない人は菩薩ではありません。主観的に菩薩行を営んでいると思っていても、
自分が地湧の菩薩だと思いこんでいても、そんな人は菩薩ではありません。
発菩提心というのは、決心することではありません。智慧の眼の一分が開くことです。
智慧の眼の一分が開いていたら、開目抄なり本尊抄が理解できるというのは、日蓮が菩薩であり
智慧の眼の一分を開いているからです。唯仏与仏であるから、お互いにわかるのです。
わからないなら、智慧の眼の一分が開いていません。

261sat:2003/01/11(土) 17:10

無徳さん:

>私が敬愛する吉本隆明氏から教えられました。

確か、吉本隆明氏の「共同幻想論」は「文芸」掲載原稿に加筆して昭和40年代に初版が発行されたものですよね。「共同幻想」という言葉は大変インパクトが強く、安保闘争の中でバイブルともされた書だったと思いますが、マルクスやフロイトから民俗学に至るまで幅広く展開された同書は、当時、私には読んでみて難しく・・よくわからなかったというのが正直なところです。

同氏は、「共同幻想」というものは、個の集合としての幻想が発展的に消失しても「逆立」して自己幻想に対して圧力を保持し続けるものだと指摘していたかと思います・・国家も法も宗教も共同幻想なのだと・・

また、「共同幻想が個人幻想に同調しているように感ぜられるためには、個人幻想に対する共同幻想の先験性が個人幻想の中で信じられていなければならない」という同氏の言葉も大変示唆に富んだものかと思います。

伝統性とか正当性とかは、集団が他集団との接触によって何らかの危機的状況に陥った時に意識され、過去・現在・未来の間の距離を集団心理的に調整し、集団内の共同幻想を安定・延命させるために生み出されてきた方法だと指摘する人がいます。それは、好むと好まざるとに関わらず、他の異質集団と接触することで、所属集団内で自己同一性を良くも悪くも確認するということなのでしょうが、その異質なものとぶつかるという空間的な差異の問題が、伝統性とか正当性といった時間的な差異の問題にすり替えられるということなのかもしれません。
その意味からすれば、伝統性とか正当性とかいったものは、必ずしも実質的な歴史性に裏付けられたものではなく、また実在する具体的な何物かを指すものでもない・・集団の共同幻想を守る働きを果たした時に、それはあたかも歴史的な実体の如くに認知される幻想であるということになるのかもしれませんね。

>仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能にする

この点は大変興味深いところです。もう少し詳しく教えていただけませんでしょうか。

>差異のダイナミックスへと向かう非決定論的視座への転換がリゾームでありとsatさんが言われたことに通じると思いますが如何なものでしょう。

無徳さんの主張される現代的サンガは、①形成する人々が全く自由であること、②自己責任が前提となること、③多数の意見によってサンガの合意事項とすべきこと、④差異は差異として非決定のままで良い・・という点に整理されているかと思いますが、異論はありません。

無徳さんの「所詮人間が意識して出来得る事などたかが知れている」との指摘はその通りだろうと思います。だからこそ逆に、特定の個人に意思を委ね、特定の個人を完全無欠なものに仕立て上げ、誤謬を許さずカリスマ化し、その凝集性を高めようとするのでしょうね。
非決定論的視座とは決定しないということではなく、個人の特定意思とは違うところで決定され(合理的な思考や集団での合議)、その決定はくつがえすことのできないものではなく常に新たな局面で発展系を遂げていくというもので、その流れは全体の中において一見無秩序とみえるもののそうではなく大いなる流れとなっていくといったイメージでしょうか。

変化を求める内面的衝動→開いた対決→再秩序付け、或いは、開いた再生感覚→新しい思想や感情の吸収→より大きな受容性と世界への開放性には場が必要であり、
ある一定の課題が共有された空間あるいは集合内でネットによる回答出しが無徳さんの提唱されるネットによる現代的サンガなのだと・・そう理解させていただければ、

現代的サンガは、成員となった社会以外の別の客観的世界を内在化する過程であり、①他者との高度な情緒的な同一化、②主観的現実と自我の根底的な変化、③現在と過去を断続させ、前後の一貫性を放棄して現実を新たに構成しなおす場になるということでもあるのかもしれませんね。

262無徳:2003/01/11(土) 20:42
satさん今晩は:

私が吉本氏の「共同幻想論」に出会ったのは、創価学会という組織の中で自ら
の力量不足も手伝って二進も三進も往かない所に追い込まれた時でした。

その頃は創価学会が言論問題等で爆発的な膨張が収束する前夜だったように記
憶しています。人材不足からか全く力量不足の私に隊員数130名程の男子部
の隊長と言うおはちが廻ってきました。

元々、私とどっこいどっこいの力不足の班長が二人居ただけの組織でしたから
たまったものではありません。(笑)案の定、新聞啓蒙や座談会さらには部隊
会や本部総会等への隊員の出席数も惨憺たるものでした。

そんな状態で隊長会において折伏や新聞啓蒙の結果報告をする時は、まさに地
獄でした。部隊長や本部長の顔が鬼のように見えてとても直視出来る状態では
ありません、なんと宗教とは残酷なものだろうと、自分の力量不足を棚上げし
て御本尊を恨みたくさえなりました。(笑)

そんな時に確か早稲田の古本屋で吉本氏の「共同幻想論」に出会ったのです。
今考えれば正直言って中味などどうでも良かった様に思います。「共同幻想」と
言う四文字に惹きつけられたのです。<そうだ!今の俺は共同幻想に捕らわれ
ているのだ>と、創価学会という組織の中で自分の主体性を埋没し、信仰する
人間としてでなく、ただ組織の奴隷のように振舞っている己に気付いたのです。

その後「共同幻想論」を何度か読み直しましたので、「共同幻想」と言うターム
に対する理解がある程度は進みましたが、未だに本当に理解できたかどうかは
心許ない気がします。

>>仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能にする

>この点は大変興味深いところです。もう少し詳しく教えていただけませんで
しょうか。

とのことは、あまり難しく考えたわけではなく仏教における人間の欲望に対す
る対処の仕方が、どちらかと言えば否定的であり禁欲的なものであって、特に
物欲や性欲に対する制御を為し得なければ悟りには達しないとする理念があり
ますので、仏教理念を背景にしたサンガが形成され、それが広範な運動となり
得れば人類としての欲望の制御にも繋がるだろうと考えたまでです。

>変化を求める内面的衝動→開いた対決→再秩序付け、或いは、開いた再生感
>覚→新しい思想や感情の吸収→より大きな受容性と世界への開放性には場が
>必要であり、ある一定の課題が共有された空間あるいは集合内でネットによ
>る回答出しが無徳さんの提唱されるネットによる現代的サンガなのだと・・・
>そう理解させていただければ、

とのことはお察しの通りです。私より深い理解を示されておりsatさんの今後
のご活躍を心よりご期待申し上げます。

263無徳:2003/01/11(土) 21:05
訂正__<仏教理念を背景にしたサンガが形成され>を
    
    <仏教理念を背景にした現代的サンガが形成され>と訂正します。

264今里祐二:2003/01/11(土) 21:15
>>127
みかんさんへ

僕は127を完全に読み落としていて、みかんさんに対し大変失礼な態度をとっていたことにようやく気づきました。
申し訳ありません。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
127 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2002/12/26(木) 14:59

信について。

わたしは漢文仏典を読む機会が多少ありましたが、その際に引っかかったのが「信」という感じの意味でした。これは現代日本語の信じるとは違う意味なのではないかとずっと考えていました。そうでないと理解できない用例が多いからです。

漢文仏典で使用される「信」ということばは、信・疑、信・不信が対になったことばではありません。もし宗教団体の信者が自分が信仰している、信じているとういことを「信」だと思うので有ればそれは誤りです。その人は「信」を得ていません。
宗教の信者の信は相対的なモノであり、自分は絶対の確信を抱いている、この信は揺らぐことはないと今は思っていても、機縁さえあれば容易になくなってしまうモノです。

わたしが漢文仏典で見てきた「信」とは全く別のことです。それは慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなることです。
法を慧眼で見、知るということは、事実を事実として体験したということですから、それは揺らぐことがありません。それはのどが渇いたら水を飲むとか、眠くなったら寝るというのと同じぐらい当たり前のことです。「のどが渇いたら水を飲む」ということを信じる人などいません。それはナンセンスです。それは事実として誰でも知っていることです。そのような有りようが、仏教における「信」の意味です。そして「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

僕は、みかんさんの上記のご意見に全面的に賛同します。
本当に申し訳ありませんでした。

265犀角独歩:2003/01/12(日) 00:17

255 今里祐二さん:

あなたは二重に私の書いていることを誤解していますね。

まず一点は本仏論者、日蓮全面肯定のあなたが日蓮が案ぜよと言っているのに案ぜなければ、日蓮の意に背くことになるであろうと言ったのです。

第二点。私は法華経は後世の創作であるという現代の仏教学並びに科学の、分析結果に反論する資料を持っていないので、法華経を釈尊の真説とすることはできない、こうは言ってきました。しかし、法華経には菩薩道という非常に勝れた精神が説かれているので、この点は捨てるべきではないと言ってきたのです。

本物であれば信じる、疑経であれば捨てればよいよいなどという二極思考はただの一度も記したことはありません。

このような浅薄な読み込みでは「気持ちがよく分りません」と言うのは寧ろ当然のことであろうと思うわけです。批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたいものです。

あと、「之」については、日蓮の言とあなたの解釈は大きく異なっていることはよくわかりました。

266sat:2003/01/12(日) 02:31

無徳さん:

仏教理念を背景にした現代的サンガについて、大変勉強になりました。ありがとうございました。
また、学会青年部時代の心情を語られたところ・・私自身、自らの問題として捉え今後の信仰の糧にさせていただきたいと思います。
重ねて御礼申し上げます。

267菱村正敏:2003/01/12(日) 07:22
無徳さん。こんにちは。

学会でバリバリやってらしたころのお話をあらためて興味深く拝見いたしました。
昨秋あたりでしょうか、聖教新聞販売店?の方からSGIグラフかなグラフSGI
か、、、そのような名前のフォーカスみたいな池田万歳の写真冊子を3ヶ月で
いいからとってくれ云々の話がありました。その悲壮な感じから新興宗教の信者
とはノルマ地獄だな、それにしてもノルマこなしが日蓮さんの思いとどう関わるのかな
と少しく考えさせられました。たぶん、池田さんという接着剤で学会員さんはかろうじ
て日蓮さんにふれさせてもらってるんでしょうかね。んで、気の毒だからとることに
いたしました。

 そんなこんなで、その写真冊子。郵便受けに入ってることはいいのですが、
少し大きいので外にはみ出しています。人目につくことをやたら想像し、少し
恥ずかしいのでございます。

268今里祐二:2003/01/12(日) 10:23
独歩さんへ

>まず一点は本仏論者、日蓮全面肯定のあなたが日蓮が案ぜよと言っているのに案ぜなければ、日蓮の意に背くことになるであろうと言ったのです。

何をおっしゃりたいのかよく理解できません。

>第二点。私は法華経は後世の創作であるという現代の仏教学並びに科学の、分析結果に反論する資料を持っていないので、法華経を釈尊の真説とすることはできない、こうは言ってきました。しかし、法華経には菩薩道という非常に勝れた精神が説かれているので、この点は捨てるべきではないと言ってきたのです。

>本物であれば信じる、疑経であれば捨てればよいよいなどという二極思考はただの一度も記したことはありません。

なるほど、真偽未決ではあるけれど、なかなか良い事が書いてあるので参考になるよ、といったとこでしょうか。
それにしても独歩さんの考えは、大聖人様のお考えとは掛け離れたものですね。

『報恩抄』
『天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く「法に依て人に依らざれ」等云云。 依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉て外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。 此の経に又云く「了義経に依て不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。』

269今里祐二:2003/01/12(日) 10:24
(つづき)

大聖人様は鎌倉時代の方ですから、当然その時代の科学知識や仏教学の成果の限界に制約されます。
であるがゆえに、法華第一という考え方のまま人生を押し渡って行かれたけれども、
もし現代の科学知識と仏教学の成果を元に、仏法を研鑽されたらどのようになるだろうか……?

上記の道を歩いてみよう、というのが独歩さんの立場だと理解しています。
僕からみれば「身の程知らず」という言葉しか思い浮かびませんが……、

僕はまだ創価学会にいた頃こんなことを考えていました。
「なるほど、大聖人様は経文に忠実に書いてある通りの事を仰ってただけなんだな、ふむふむ。
それにしても昔の僧侶ってバカばっかりだなぁ、字が読めなかったのかしら(爆笑)」

今の僕はそのようには考えていません。
法然や空海のように法門の海の中で溺れず、妙法の珠を取り出だすことが出来たのは、
大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だったからである、と考えています。

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』
『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給ふ。』

270無徳:2003/01/12(日) 17:31
satさん今日は:

こちらこそありがとうございました。今後とも宜しくお付き合いのほどお願
い致します。

satさんは現役の創価学会員とのことですが、学会内部においてどんな思いを
抱かれておいででしょうか?

satさんのような知性をお持ちの方にとって、今の学会は開かれた許容領域が
在りますでしょうか?Libraさんという優秀な青年も居られますし、なんだか
んだ言っても創価学会は大きな組織ゆえに、優れた知性をお持ちの方も大変
多いと思われます。

しかし、池田大作氏に対する絶対的信奉といった側面は、総本山と袂を分け
てらますます強化されたのではありませんでしょうか?現在の私には学会の
内部情報を知る機会があまりありません為に、勝手な想像ですので失礼の点
がありましたらお許しください。

ただ、昨年の10月頃に九州の総合長をされている方を、信濃町から羽田まで
お乗せしたおり(現在私はタクシーに従事しています)、その方が現在にお
いては池田先生を信じることが全てなんだとの趣旨のことをしきりに力説さ
れおられましたので、ああ!やはりそうなのかと思ったものですからsatさん
にお聞きしてみたわけです。

差し障りのない程度で結構ですからお話いただければ幸いです。

271無徳:2003/01/12(日) 17:42
菱村正敏さん本当にお久しぶりです。お元気ですか?

菱村さんはまるで多摩川方面に時々出没して皆を楽しませ癒してくれる
タマちゃん見たいですね(笑)

確か菱村さんは創価学会には批判的でしたよね、それでも時には聖教新
聞やグラフ等を購読され創価学会に貢献をされるとは何と心優しい御仁
なのでありましょう(笑)。

最近はお会いする機会が余りありませんですね、また、オフ会等でお会
い出来ることを楽しみにしております。

272犀角独歩:2003/01/12(日) 19:59

祐二さん:

> 何をおっしゃりたいのかよく理解できません

理解できないのであればどうしようもありません。

> 大聖人様のお考えとは掛け離れた

私は、日蓮の考えとは、かけ離れているところもあれば離れていないところもあります。それがなにか?

> 身の程知らず

身の程知らず等と詰られる筋合いはありません。
しかし、人をして「身の程知らず」と詰るあなたはよほど、身の程知らずではないのでしょう。そこでお尋ねしますが、

> 大聖人…本地…久遠元初の自受用報身如来

ということですが、(1)久遠元初とは何ですか。(2)自受用報身如来とは何ですか、また、(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか。身の程知っているのでしょうから、お答えいただきましょうか。

なお、本地が自受用報身如来ならば日蓮は垂迹となります。そこで日蓮を仏というのであれば、日蓮は垂迹仏となりますが、これでは日蓮迹仏であって本仏となりません。この点は如何でしょう。実際、『産湯相承事』には「本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給う」と是の如しです。日蓮本仏は同相承と相違しています。

たしか、あなたは日蓮本仏論者であったはずなのに、何故、日蓮迹仏で論を運ぶのでしょうか。これまた、身の程知ったあなたが、また「理解できません」と、よもや、答えませんでしょうね。

273今里祐二:2003/01/12(日) 21:29
独歩さんへ

>身の程知らず…

平易な言葉で判りやすい事例を挙げたつもりですが(>>269)……。

>ということですが、(1)久遠元初とは何ですか。(2)自受用報身如来とは何ですか、また、(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか。身の程知っているのでしょうから、お答えいただきましょうか。

(1)手持ちの辞典を引いたら「五百塵点劫に成道した釈尊の本因の時」と書いてありました。
久遠即末法とも言われますが、今現在のことです。
(2)三世諸仏に対しても主師親である根本の仏、です。
(3)法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断することが適当と考えます

>なお、本地が自受用報身如来ならば日蓮は垂迹となります。そこで日蓮を仏というのであれば、日蓮は垂迹仏となりますが、これでは日蓮迹仏であって本仏となりません。この点は如何でしょう。実際、『産湯相承事』には「本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給う」と是の如しです。日蓮本仏は同相承と相違しています。

>たしか、あなたは日蓮本仏論者であったはずなのに、何故、日蓮迹仏で論を運ぶのでしょうか。これまた、身の程知ったあなたが、また「理解できません」と、よもや、答えませんでしょうね。

このような揚げ足の取り方があるとは思いもよりませんでした。恐れ入りました(笑)

274みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/12(日) 21:35
>今里さん

今里さんのサイトは「成仏しようぜ」だったと思いますが、
今里さんにとって成仏ってなんでしょうか。
あと、成仏した人って現在や過去にいると思われますか。
いるとしたら誰ですか。

>>264
あんまり恐縮しないで下さい。
あんまり他人に振り回されなくても良いと思いますよ。
自信満々なところと、過剰に恐縮するところがあって、
他人からはとても不安定に見えます。

>>268-269
さて
> 法然や空海のように法門の海の中で溺れず

法然や空海の著書は読まれましたか?
日蓮が法華経を選択したのも、「法門の海の中で溺れ」た
ことになると思いませんか?

> 妙法の珠

これは、一言で言って、なんでしょう。


今里さんの「危うい」ところは、仏教一般や
日蓮一般についての知識がなく、創価学会や
宗門や石田次男からの知識のみで、
仏教一般や日蓮について語るところだと思います
よ。(的はずれであればごめんなさい)

とりあえず、仏教一般や日蓮については、次の三冊
だけは読んでから議論していただけませんでしょうか。

中村・三枝『バウッダ 佛教』(小学館ライブラリー)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094600809/

末木『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101489114/

末木『日蓮入門』(ちくま新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480058559/

275みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/12(日) 21:40
>>273
今里さん
独歩さんの指摘は揚げ足取りでは全然ないですよ。
あなたの日蓮本仏理解が根本的に不十分であるということです。
わたしもその点は指摘しようと思いましたが、
独歩さんが既に指摘していたので指摘しませんでした。

あなたは、外部から与えられたイデオロギーとして
日蓮本仏というものに執着していますが、自分の主張として
日蓮本仏論を組み立てられていません。
ですので、あなたは「日蓮本仏主義者」と呼ばれるべき存在であって、
「日蓮本仏論者」ではありません。論じていないし、理解していないからです。

「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、
日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまうのです。
なぜなら日蓮は垂迹に成ってしまうからです。垂迹は当体とは根本的に
違います。

276犀角独歩:2003/01/12(日) 21:46

祐二さん:

(1)〜(3)について、辞典の記述など、どうでもよいのです。
日蓮はなんと言っていますか。

> 揚げ足の取り

揚げ足取り?
本地に対する語は垂迹です。

“本地・自受用報身如来 / 垂迹・上行菩薩=凡夫・日蓮”というのが『産湯相承事』の記述であれば、日蓮を垂迹仏というのが、なぜ揚げ足取りなのでしょうか。

(笑)などで誤魔化さないでください。
日蓮が本仏であるというのは、いかなる証拠によるのでしょうか。

277犀角独歩:2003/01/12(日) 22:13

> 276

補足です。日蓮垂迹仏と記しましたが、これはもちろん日蓮本仏という語を受けてのことです。
実際は“本地・仏(如来) / 垂迹・菩薩(謙下で凡夫)です。

みかんさんも書き込まれていましたか。
そう、この点が、追って、当体に置換されていくわけですね。

278らん♪あらため蘭:2003/01/12(日) 22:51

わぁ!菱村さんこともヤッホさ〜〜〜 ん!! また「いちりんさん」とこ
来て下さいよ〜〜〜っっっ!!!!待ってますね〜〜っっっ!!!!

(o・・o)/~

279:2003/01/12(日) 22:53

菱村さんへ  http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/

280波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2003/01/12(日) 22:57
いきておったか糞爺(藁)

281:2003/01/13(月) 01:23

ドモドモ\(^_^ )( ^_^)/ドモドモ

なにしろ、いちりんさんところでは、みんなで「一体ヤッホさんは、どうしたん
だろう」って心配してました。それでね、ヤッホさん。ヤッホさんから言われた
「君は病院に行きなさい」という発言ですが、それが他の病院に診てもら
ったけれど「病気じゃない」って言われてしまいました(。-_-。)・・とほほ。

それで私は、ヤッホさんに対しては、それほどの憎しみというものは持って
いないのです。まわりはヒヤヒヤしていた面がありましたけれども、私は、
本当の「悪」というものを貴方には感じないのです。本当の悪というものは、
男性にはいないんじゃないかなって最近思うのです。「女」のほうが(自分
含めて)本当にやっかいです。だから私は、女人成仏というものを一度はして
みたいけれども、どうやらちょっと最近感情に走ってしまいがちです。
それにしても、ヤッホさん。ほんとお帰りなさい。またいろいろ口喧嘩しましょう
ね〜♪

282sat:2003/01/13(月) 06:46

>270 無徳さん:

>現役の創価学会員とのことですが、学会内部においてどんな思いを抱かれておいででしょうか?

私の体内において、無徳さんのご指摘するところの「共同幻想」は崩れつつありますが、学会員の飾り気のない庶民として見せる素顔は大好きですし、この人たちのためならという素朴な気持ちが失せているわけでもありません。なので、上記のご質問に対するシンプルな答えが用意できるかと言いますと、言葉ではなかなか尽くせない複雑なものがあるというのが偽らざる心情です。正直申し上げまして、カオスの真っ只中にあります。

>今の学会は開かれた許容領域が在りますでしょうか?

これまでに色々ありましたが、確かに、あまり居心地がいいとはいえませんね。

>池田大作氏に対する絶対的信奉といった側面は、総本山と袂を分けてからますます強化されたのではありませんでしょうか?

ご存知のように、現在の学会は、①戦後草創期時代の入会世代、②昭和50年代以降のマス路線による入会者、③学会員子弟(二世・三世)に分布が分かれています。その三層構造による世代意識やモチベーションがコンデンスされている点を見誤ると読めない点が多くなります。

昭和54年4月24日の勇退問題は有る意味で内部クーデターでもあったのでしょうが、事実上失敗しましたし、宗創問題により破門されたことは、むしろ池田名誉会長を絶対視するには好都合に働いたことになります。今般の会則変更の淵源はこの辺からあったと思います。

現在は、かつての池田本仏論をそのまま踏襲する形ではありませんが、「池田名誉会長に対する絶対的信奉」は、「強化された」というよりは、「それしか残っていない」といったところではないでしょうか。①専従者(本部職員や外郭団体勤務者)や、②組織風土に違和感を感じている人にとりましては、自らの信仰の正当性とか確信を語ろうとした場合、「池田名誉会長に対する絶対的信奉」に問題を帰着させなければ説明がつかないということでもあろうかと思います。しかし、末端においての日常風景では、外部が思うほど大きな問題として顕在化していませんし、会合でそういった言葉をことさらアジテーショーンする幹部は逆に見かけなくなっています。むしろ、その沈黙の意味するところを考えたほうがいいような気がします。末端の沈黙は異論を挟まずとも、決して是認でも容認でもないと・・

もっとありていに言えば、学会は、池田名誉会長、或いは本部職員を始めとする専従者によってコントロールされているとの見方もあるでしょうが、構成員はもっとしたたかなような気もします。コントロールする側の論理と、される側の論理を人々は有る意味で肌で知っており、是非はともかくとして、そこに集う人々の意思なのだとする(したい)・・その一点で暗黙の了解を得、二極が交差しているような気もします。

283sat:2003/01/13(月) 06:46

>270 無徳さん(続き):

話が逸脱してしまいますが、エリック・ホッファーが「あらゆる『大衆運動』は、宗教運動にその原型があり、欲求不満に苛まれた人間が、その状態から脱出して、自己存在の不安を救おうとするところにある」と記していたかと思います。同氏は、大衆運動の背景として①潜在的回心、②共同行動、③自己犠牲について論じていますが、創価学会の戦後における運動もこのことと無縁ではないような気がしますし、運動体としてはマスムーブメントとモッブの往還をしなやかに繰り返して巨大化してきたのではないでしょうか。

集団活動の魅力とか、集団所属の魅力が人を惹きよせ、この感情が集団内親和性と相まって顕著になれば、集団を超越的で絶対的な価値とし、それはやがて一体化を目指すことにつながり、自己犠牲や狂信的行動が発現されてきますよね。しかし、学会員の中には、それが組織の延命にとって命取りになることを知っている層もいます。

池田本仏論の蒸し返しとか、創価仏とか創価菩薩みたいな路線に発展させ、財務を中心により独善的・排他的集団となっていくのか・・それとも宗教的権威から世法的権威にターニングした時点から、宗教団体的色彩を脱し、出版事業や教育事業を中心に平和団体、教育団体、文化団体、政治団体的な色彩を強めていくのか・・議論の分かれるところですが、在家集団である以上、ソフトランディングとして、後者の道を選ばざるを得ないのではないでしょうか。

「七つの鐘」とか「正本堂建立」といった具体的かつ明確な組織目標が終了してしまった今、市場原理に基づいた「生き残り戦略」にシフトしたことは否定できない事実であり、国家権力にとって、はなはだ好都合な存在として機能をし始めたような気がします。組織が未完成で急進的かつ過激的な目標を掲げ、外に敵を意識し、上昇志向にあるとき、矛盾など問題ではありませんが、世界平和などという曖昧模糊とした抽象的概念に至っては、到底組織の凝集性を高める集団意思としての目標などになり得ているとは思えません。なり得ているとすれば、それは学会の巨大さであり、財力であり、人的ネットワークであり、そこに身を置くという所属と承認欲求への満足なのかもしれません。

安定飛行に入った段階から、具体的な目標を提示できなくなった巨大集団としての学会は、国家と対立軸にあったわけではなく、国家意思(保守的勢力)の補完作用として機能してきたということであり、違った意味で保守勢力との政教一致路線を展開し、現在も拡大継続しているということになります。宗教政党から国民政党への転換とか、他宗との融和路線の加速化といった事実が正直にそれを物語っているのであり、学会の指針とする「境涯革命五原則(①他人に言ったら愚痴になり、御本尊に訴えれば祈りになる、②世法で苦労すれば苦しみが残る、信心で苦労すれば喜びと福運が残る、③感情をぶつけると怨嫉となる、題目で包容すれば成長できる、④方法ばかり考えると迷いになる、決意して祈ると智慧がわく、⑤出来ないと決めると出来なくなる、やろうと決めて祈ると力がでる)」など、国家権力にとって誠に都合のよい謳い文句以外の何ものでもないような気がします。

かつて差別問題の中心にあった水平社を取り込む形で翼賛運動が完結した歴史を想い、国家権力にとって創価学会が極めて都合のよいガス抜き機能を有し始めたということを考えますと・・もしもそれが大衆の意思だと言うのであれば・・社会への積極関与としての国家諌暁が成就し得ず、身延で晩年を過ごされた日蓮はどのように感ぜられるのでしょうか・・

284今里祐二:2003/01/13(月) 12:59
独歩さん、みかんさんへ

>>232 の僕のつぶやきに対して、独歩さんより
>>237 >>238 >>242 の無礼とも取れる発言があったので、僕も少しカチンと来て
>>250 で、単純で幼稚な罠を仕掛けてみました。
そうしたら >>254 でまんまと引っかかってくれたので、
>>255 >>268で、独歩さんのスタンスの根本的な矛盾点を指摘してみました。

日蓮が仏であるかどうかはともかくとして、日蓮が用いた法華経が仏の金口でなければ、
日蓮の所論はすべて崩壊します。
このことは、誰にでも解るような簡単なことではないでしょうか?

独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわりを見せますが、
日蓮が仏でなければ、そのようなこだわりはナンセンスです。

>>272 あたりから、お得意のグラウンド勝負に持ち込もうとされているようです。
寝技に持ち込まれたら僕など秒殺されてしまいそうなので、その手には乗りません。

日蓮が仏ではなく、法華経が仏の金口でないのなら、
そんなものにいつまでもとらわれているのは時間の無駄です。
すでに40年も無駄にされたとの事ですので、こんなところでカキコなどしている暇はないはずです。
原始仏典を研究し、シャキャムニの真意をつかんでください。ご健闘をお祈りします。

みかんさんの >>127 に賛同したのは、僕自身にそのような『信』の自覚があるからです。

>自信満々なところと、過剰に恐縮するところがあって、

ご指摘の通り、僕に仏教一般や日蓮一般の知識が不足しているからだと思います。
紹介していただいた本も読んでみたいと思います。ありがとうございました。

285アネモネ:2003/01/13(月) 15:15
今里さん

少し気になりましたので、失礼ながら横から意見させて頂きたいと思いました。
オフ会のときにも言ったことですが、ご自分の言葉に責任を持つべきだと思うんですね。
まず日蓮本仏論者と自称する以上、論者ですからしっかり「論」を展開して頂きたいです。

250>において、
>ほかのスレッドだと独歩さんに突っ込まれて恐そうなので『つぶやき』にしたのですが…学会を追い出され、法華講からも追い出されてしまって、友達いなくて淋しいので、
あまりいぢめないで下さい(^^)

この時点で、今里さんは独歩さんからの突っ込みを回避するために「論」を捨てたことになるのではないでしょうか。それが証拠に、HNから「@日蓮本仏論者」が消えているわけです。既に、議論から降りて「私の個人的信仰に突っ込みを入れてくれるな」といったところでしょう。要するに、自分の個人的世界観の中での日蓮本仏論だったことを自ら露呈されたわけですね。しかしそのことは、とっくに独歩さんは指摘していて、確かに棘のある言い回しでしたが、237>のレスでそのことを示したということでしょう。

そして見抜かれた今里さんは、255>において、
>僕は「之」を「仏様の御意(みこころ)」と受け取っておりました。僕にとっての仏様は大聖人様ですから「大聖人様の御意」です。まぁ、僕の勝手な解釈に過ぎないので、どうだっていいことですが。

ちゃんと、「僕の勝手な解釈」と断りを入れてあるわけですね。今里さんの日蓮本仏論は、論ではなくて、単に今里さん的勝手な解釈と明示したとなるでしょう。

しかしです、私はここで一言言いたいことは、オフ会のときにもやんわりと申し上げましたが、信仰を人に語り広めるときには、自分の言葉に責任を持って頂きたいのです。個人的な信仰観の域を超えないないなら、そのことを断ってほしいと思うのです。
宗教や信仰は、人の人生を大きく左右するからです。この重大な問題を軽く考えてはいないでしょうか。
少なくとも、日蓮は自分の言葉に社会的責任をどこまで負おうとした人であり、そのために多くの書を残してもいるわけですね。言いっ放しではないわけです。
今里さんが、個人的信仰で日蓮を本仏と崇め続けること、これは個人の自由ですから、論が展開でないからといって、今里さんの信仰する内心には誰も立ち入れません。構わないことでしょう。
しかし、今里さんは「成仏しようぜ!」というサイトを管理し、ネットを通して信仰を広めている立場のはずです。この時点で社会的責任が伴うわけです。その社会的責任の上からも、しっかり日蓮本仏論を展開しなければならない立場にあるのではないでしょうか。
また組織から追い出され、お友達欲しさを感じているならば、尚更ご自分の言葉には最後まで責任を持つことが肝要だと思います。

286アネモネ:2003/01/13(月) 15:15
(つづき)
オフ会で成仏ということについてお尋ねしたとき、今里さんは自分が死ぬときまでこの信心で本当に成仏できるか否かはわからないことだと言われました。私は正直なところ、無責任さを感じたものです。しかし、その無責任さの体質は、恐らく「信伏随従」の組織信仰の影響だろうと思っていました。今里さんだけを責められることではないでしょう。ですから、それ以上のことは言わなかったのです。
だけど、掲示板での一連のご発言を見ながら、やはりなんかおかしい気がして意見したくなりました。
世の中に向けて「成仏しようぜ!」と誘いかけていることに、今里さんはどれだけの社会的責任を感じていらっしゃるのでしょう。宗教への勧誘とは、人の人生を左右することですから、厳しい発言になりますが、そのことを一度しっかりご自分に問い掛けて考えて頂きたいと思います。生意気を言うようですが、それこそ「観心」ということにもつながっていくことではないかと思います。恐らく、ご自身はまったく責任を伴わないところに位置して発言しているのではないでしょうか。恐らく、誰かの言葉に依存したところでのご発言でしょう。
布教の自由はもちろん、言論も自由です。しかし、その自由には重大な責任が伴うという意識、抜け落ちてはいないかと感じられるところです。

最後にもう一言、
269>僕からみれば「身の程知らず」という言葉しか思い浮かびませんが……、

自分は、「論」を展開できずに、突っ込みを入れないでほしいと議論を回避しておきながら、人に対しては「身のほど知らず」と言って、その理由が「単純で幼稚な罠を仕掛けてみました」という。
成仏を目差す人の発言とは思えないのが正直なところです。
しかも、「身のほど知らず」はレスの流から言えば、今里さん的勝手な解釈のうえからのご発言。勝手解釈を認めた時点で、人のことをそんな風には言えないのではないでしょうか。

そもそも罵倒されようと、中傷すれようと、誹謗されようと、自分が絶対的信を傾ける「日蓮本仏論」を徹底的に展開していくのが、今里さんが本仏と崇める日蓮のやり方ではないでしょうか。恐らく自分は仏ではないから、そんなことは出来ないなどとはぐらかされるところかもしれませんが…。
日蓮本仏論など日蓮は言ってないそうですが、それでも日蓮本仏論をどうしても捨てきれないならば、反論するだけの知識と理論武装をして出直せば良いだけのことです。
それにしても、今里さんが本仏と崇める日蓮の気質とは、幼稚な罠を仕掛けるようなことを最も嫌うお方ではなかったかと思います。私はもはや本仏とは思っていませんが、それでもかつては信じていたのです。それは、そこを信じさこませるほどに、まさに仏のように潔く堂々とした人格者であったからであろうと思われます。その点における日蓮への敬慕と信頼は、私は今も変っていません。
今でも日蓮を本仏として崇め勧める立場ならば、幼稚な罠を仕掛けるといった姑息な手段などとらず、潔く堂々とした姿勢を目指して真剣に議論に挑んで頂きたいものです。本仏・日蓮はおろか、人間・日蓮をもおとしめる言論行為ではなかったでしょうか。

287犀角独歩:2003/01/13(月) 15:26

祐二さん:

まず、第一に、あなたは276の私の質問に何も答えず、まったく見当外れのことを記してきましたね。感情論に陥ることなく、質問に答えてください。

また、自分が仕掛けた罠に私が引っかかったことのような言いぐさですが、それは答えに窮した自分をひた隠しにするまさに“罠”でしょう(爆)

さらに質問を続けます。

> 日蓮が用いた法華経

日蓮が用いた法華経とは何ですか。

> 独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわり

これまた、学問を知らないまったくの浅はかな発言なのであって、祖書学において、日蓮の真筆を基準にすることなど、基本中の基本、原則中の原則です。
この言は私を批判するに似て、自らの無知からこの学問的姿勢を批判しています。真筆にこだわりを見せることが異常なのではなくて、なにが真筆か、何が真偽未決か、偽書かすら考えずに、あなたのように放言することのほうがよほど異常なことです。

> 日蓮が仏ではなく、法華経が仏の金口でないのなら、
そんなものにいつまでもとらわれているのは時間の無駄です。

これは二極思考でしかものを考えられない、日蓮本仏主義者ならではの発言です。
時間の無駄なのは、まじめに学ぼうともせず、自分の考えに執着し、形勢不利と見るや、如何にも自分が優位に立っているような見苦しい書き込みをして、さらに自分の考えに執着し、時間を無駄にするあなたの信仰人生にこそ言えることです。

日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。

さらに執着を増し、自己弁明を計り、時間を無駄にされないことを祈るばかりです。
いずれにしても、不遜な発言を投げかけた以上、こちらの質問にはお答えいただきたいものです。

288波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2003/01/13(月) 19:48
>>283
>身延で晩年を過ごされた日蓮はどのように感ぜられるのでしょうか・・

蒙古の王を折伏するんだって息巻いていたのサ。

289今里祐二:2003/01/14(火) 02:24
アネモネさんへ

僕のオリジナルの「日蓮本仏論」などありません。
オフ会の時もお話したと思いますが、僕は日寛教学全面肯定という立場です。

290今里祐二:2003/01/14(火) 03:43
独歩さんへ

伝言ゲームの一番最後でシャキャムニの最初の言葉とはすっかり変わってしまった漢訳の法華経を真に受けて、
頭カチ割られ、腕を折られ、首を切られそうになり、島流しにされた愚かでおっちょこちょいの「変なおじさん」
などに、いつまで未練がましくこだわっているのですか?

独歩さんは原典を重視されるお方だと思っていますが、そうであるならば、歴史の流れの中で不純物をいっぱい
抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?

スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りませんけど、そういうシャキャムニの直説と考えられるような
経典を原語でスラスラ読めるほどに研鑽されることの方が先ではないでしょうか?

僕は大聖人様を仏様と信じるという立場から、
「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい、などということは
つい最近知りました。しかし、もしそうであったとしても、仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として
羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、
大聖人様は身をもって教え示されたと思います。」と述べました。

独歩さんは
>それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。
などと暴言を吐くのみで、その根拠を示していません。実用上問題があるのならその根拠をお示し下さい。

また、日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言を吐きながら
それでも日蓮にこだわり続けるという、摩訶不思議な態度で、ネット発言を続けています。
独歩さんが日蓮にこだわる理由は何なのですか?
法華経が後世の創作で、日蓮が仏でないのなら、独歩さんにとって日蓮などどうでもよい存在なのではないですか?
「うなぎの理論」ではなく、明快な答えを期待しています。

291今里祐二:2003/01/14(火) 03:59
独歩さんへ

>日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。

何を根拠にこんなことを言ってるんですか?

292アネモネ:2003/01/14(火) 08:58
今里祐二さん

>289
僕は日寛教学全面肯定という立場です。

ならば、なぜ日寛教学を全面肯定する立場をとられているのか。まずは、そこのところを説明していただけませんでしょうか。

独歩さんはかつてこの掲示板を通して、日寛教学の理論的な矛盾を突いたことはご存知のことと思います。そのことで私も本仏論への信をやめたわけです。
ですから、今里さんはその矛盾に対して反論すべきではないかと思いますね。

291>
>日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言を吐きながら

このことは理論的に何度も説明されてきていることなのに、なぜ今里さんはこのことを妄言と言うのでしょうか。それを説明するためにも、この掲示板で矛盾崩壊した日寛教学をなぜ全面肯定しているのかを説明するところから入って頂きたいと思います。
今里さんの説明如何によっては、私だって再び本仏論を信じることだってあるかもしれません。

293犀角独歩:2003/01/14(火) 09:00

祐二さん:

○質問に答えなさい

わたしは272において

(1)久遠元初とは何ですか。
(2)自受用報身如来とは何ですか
(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか。

という三つの質問を立て、さらに276において、日蓮の言をもって、その証拠を上げてくださいといい、さらに、あなたのは本仏論ではなく、日蓮垂迹論になっている点を指摘ししました。つまり、そこから同じく267に

(4)日蓮本仏何故言えますか。証拠を上げてください。

という質問を足しました。しかし、まったくあなたは答えないのでこの点を287に指摘しました。そこでもさらに

(5)日蓮が用いた法華経とは何ですか

と質問を加えています。さらに今回の暴言について、質問を加えておきます。

(6)「変なおじさん」

変なおじさんとは誰ですか。

もう一度、言います。日蓮の言をもってその証拠を上げてください。

294犀角独歩:2003/01/14(火) 09:00

さらに、祐二さん:

○暴言に応じます

さて、以下に私に投げかけた暴言について、

> 伝言ゲームの一番最後でシャキャムニの最初の言葉とはすっかり変わってしまった漢訳の法華経を真に受けて、頭カチ割られ、腕を折られ、首を切られそうになり、島流しにされた愚かでおっちょこちょいの「変なおじさん」などに、いつまで未練がましくこだわっているのですか?

仏教の伝播が私は伝言ゲームであると思っていません。しかし、あなたはそう決めつけています。おっちょこちょいの変なおじさんとは誰のことでしょうか。こんな一方的な決めつけには答えようがありません。既に私は265において「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と言っております。

> …歴史の流れの中で不純物をいっぱい抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?

これは研究の方法を根本的にあなたは取り違えているのでしょう。
「不純物」というのはあなたの言であって私はこの言葉を使いません。まず、これを断ります。何が後世、言われるようになったことなのか、原型はどのようなものなのかを考えなければ、釈尊にしても、日蓮にしても「本当は何を言ったのか」がわからないので、そのための研究でしょう。これはあなたがいうような「無意味」なことではありません。

> スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りません…

自分が知らないのであれば何も言えないでしょう。知ってから言いなさい。


> 僕は…仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)…実用上は何の問題もない

この言葉は他のあなたの言葉と完全に矛盾しています。あなたは289で、アネモネさんに対して、「僕のオリジナルの「日蓮本仏論」などありません。僕は日寛教学全面肯定」と書いていますが、ならば、全面肯定する寛師はどこで、「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい」という前提で論を説いているのでしょうか。また、後世の創作、怪しい漢訳を元に“道具”として論を立てたと言ったのでしょう。もし、寛師がどこにも言っていないとすれば、この「実用」という一言こそ、あなたのオリジナル本仏論にほかなりませんが、この点はどうですか。


>> それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。
などと暴言を吐くのみで、その根拠を示していません

前節に書いたことがあなたに向けた批判の根拠です。

> 日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言

「妄言」などと言われる筋合いはありません。また、これは数百万人しかいないごくわずかな日蓮を本仏と信じるマイナリティとは違い、ごく一般的な学問を基礎にするマジョリティな考え方です。その大多数から見れば日蓮本仏こそ、妄言以外の何ものでもありません。なぜか、日蓮は自分を本仏であるといっていませんし、何度も記してきたことですが、真跡中に「本仏」という語彙は一カ所にしか使用されないのであって、日蓮の教学に採り入れられた考えではないからです。

> それでも日蓮にこだわり続ける

自分が40年間、本仏だと騙されてきた日蓮とは、本当はいかなる人物であるのか、それをこの場で問答名人さんその他の方々と議論をしてきたのです。しかし、その場合、あなたのようにただの思いつきで発言するのではなく、証拠を上げています。まさか「難しい文章は呼び飛ばす」などということをしていないでしょう。過去のログをちゃんと見たうえで責任ある発言をしてもらいたいものです。

> 独歩さんが日蓮にこだわる理由は何なのですか?

理由は前項に書いたとおりです。

> 法華経が後世の創作で、日蓮が仏でないのなら、独歩さんにとって日蓮などどうでもよい存在なのではないですか?

これも前項に書いたとおりです。

> 「うなぎの理論」ではなく、明快な答えを期待しています。

うなぎの理論とは、あなたのように証拠も上げることもできず、自分に寄せられた質問に答えもせずに、人に難癖を付ける態度を言うのです。別名を異問異答と言います。異なった問いに異なった問いです。まさにあなたの態度そのものです。

>> 日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。
> 何を根拠にこんなことを言ってるんですか?

いみじくも290のあなたの書き込みがこの問いについて、自分で露呈して見せているではないですか。

295今里祐二:2003/01/14(火) 12:05
独歩さんへ

>○質問に答えなさい

>>273において(1)(2)(3)はすでにお答えしています。
(4)は(3)と重複しています。

(5)経典という意味で、主に羅什訳の「妙法蓮華経」です。
「正法華経」「添品妙法蓮華経」も助用されています。

(6)「変なおじさん」とは日蓮のことです。
独歩さんの立場だと、「そうならざるを得ないだろう」という意味で書きました。

>もう一度、言います。日蓮の言をもってその証拠を上げてください。

ここが独歩さんの「仏法を信仰する者」として根本的におかしい所です。
日蓮が仏でないのなら、日蓮がどのような言を残そうと、何の証明にもならないのではないですか?
>>290で質問したこともその意は同じ事です。

>これは研究の方法を根本的にあなたは取り違えているのでしょう。…
>原型はどのようなものなのかを考えなければ、釈尊にしても、日蓮にしても「本当は何を言ったのか」がわからないので、そのための研究でしょう。これはあなたがいうような「無意味」なことではありません。

これは「研究」という言葉を使った僕のミスでした。僕は「信仰」という言葉を使うべきであり、
「研究」ということでは、独歩さんの仰るとおりだと思います。
>> …歴史の流れの中で不純物をいっぱい抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?
この質問は取り消します。申し訳ありませんでした。

>>スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りませんけど、そういうシャキャムニの直説と考えられるような
>>経典を原語でスラスラ読めるほどに研鑽されることの方が先ではないでしょうか?

>自分が知らないのであれば何も言えないでしょう。知ってから言いなさい。

僕の質問と独歩さんの答えとが、チグハグですね。
僕はいつでも「信仰者」として考え、質問したり答えたりしています。
それに対し独歩さんは「研究者」として、答えたり質問したりしています。
やはりこれではいつまでたっても平行線でしょう。

>…なぜか、日蓮は自分を本仏であるといっていませんし、何度も記してきたことですが、真跡中に「本仏」という語彙は一カ所にしか使用されないのであって、日蓮の教学に採り入れられた考えではないからです。

本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています。

>> それでも日蓮にこだわり続ける

>自分が40年間、本仏だと騙されてきた日蓮とは、本当はいかなる人物であるのか、…

僕は独歩さんに「騙されてた訳じゃないよ、大聖人様は仏様だよ…」と言いたいですが、
「独歩さん」が納得できるような根拠を示すことは出来ません。

>うなぎの理論とは、あなたのように証拠も上げることもできず、自分に寄せられた質問に答えもせずに、人に難癖を付ける態度を言うのです。別名を異問異答と言います。異なった問いに異なった問いです。まさにあなたの態度そのものです。

僕の「信仰者」としての問いに「研究者」としてしか答えようとしない独歩さんの態度に対し「うなぎの理論」と言ったまでです。

>>> 日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。

僕は「信仰者」として、日蓮が仏であり、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなければ
「人を功利せしめる源泉」などないと考えています。
独歩さんの研究で「源泉」が発見できたなら、その時は教えてください。

>>242での独歩さんの過剰な反応には少し驚きましたが、もう一度あげておきます。

『十八円満抄』
『総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。』

「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。」
日蓮が仏でないのなら、必ずしも日蓮がごとく修行する必要はないと思います。
良い所は取り入れ参考にし、悪い所は受け取らないというのが正しい態度でしょう。
日蓮が仏であるならば「師弟子をただす」という態度が必要になると考えます。

「智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。」
これは「道理」を述べてあるところです。
仏の言葉であれ凡夫の言葉であれ「真実」です。

296犀角独歩:2003/01/14(火) 14:09

祐二さん:

> >>273において(1)(2)(3)はすでにお答えしています

私は「日蓮の言をもって」と言ったのです。
あなたの273の答えは

(1)手持ちの辞典を引いたら「五百塵点劫に成道した釈尊の本因の時」と書いてありました。
久遠即末法とも言われますが、今現在のことです。
(2)三世諸仏に対しても主師親である根本の仏、です。
(3)法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断することが適当と考えます

です。これのどこが日蓮の言なのですか。
答えたことになっていません。
もう一度、記します。日蓮本仏、寛師全面肯定の立場のあなたでしょう。
日蓮の言でお答えください。

> (4)は(3)と重複しています

私の質問、「(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか」であり「(4)日蓮本仏何故言えますか。証拠を上げてください」は重複していません。
日蓮の言をもってお答えください。

> (5)経典という意味で、主に羅什訳の「妙法蓮華経」です。
「正法華経」「添品妙法蓮華経」も助用されています。

(5)' では「南無妙法蓮華経」と日蓮が言うとき、この妙法蓮華経は経典であるというわけですか。

> (6)「変なおじさん」とは日蓮のことです。
独歩さんの立場だと、「そうならざるを得ないだろう」という意味で書きました。

先にも記したとおり、「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と申し上げてきました。恰も私が日蓮を「変なおじさん」と考えている如き誘導…あなたの言葉で言えば“罠”…ともとれることは、あなたの自信の品格を下げることになります。おやめになるべきでしょう。この議論は本仏義が日蓮の教えといえるかどうかを考える厳粛かつ公正、そして、証拠主義に基づく議論でなければならない。あなたは日蓮本仏の信徒の自覚、私は人間日蓮を敬愛する自覚、この相違する自覚に立つ2人のどちらが、忠実に日蓮の言に基づき、責任ある発言をしているかを問う議論であるべきです。お互い姑息な罠、仕掛けなどはせず、アネモネさんが指摘くださったよう正々堂々と論じ合いましょう。

> 僕はいつでも「信仰者」として考え、質問したり答えたりしています。
それに対し独歩さんは「研究者」として、答えたり質問したりしています。
やはりこれではいつまでたっても平行線でしょう。

あなたは、信仰と研究が別々のものであると考えているようですね。
かつて研究の成果をまとめた書籍を「論」と言ったのではないですか。
日蓮において、果たして信仰と研究が別のものであったのでしょうか。私は而二不二としてとらえていたと思います。
すなわち、あなたと私が信仰・研究と言うとき、その食い違いがあるのではなくて、日蓮が信仰・研究を別に見ていたか、一つのものに見ていたかの違いである点は留意されるべきです。日蓮は研究は研究、信仰は信仰などといった現在の僧学の如き姿勢は微塵もなかったと私は拝しています。

> 本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています

これは池田さんの「私は謙虚な人間です」発言を想起するような記述ですが、まあ、それは置きましょう。このあなたの言葉は日蓮は本仏であるけれど、謙虚だから自分では仏などと言わなかった、こんな意味合いでしょうか。これで合っているとすれば、仏は自分で仏とは言わない、言うと謙虚じゃないという伏線を指示することになりますね。
しかし、これは勝手な固定観念です。例えば妙法蓮華経・寿量品に「今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たり」とあります。つまり、仏は自らを常に仏であると宣言するのは通常、少しもおかしなことではありません。となれば、日蓮が仏であれば、その宣言をすることは仏教の常道と言うことになるでしょう。

297犀角独歩:2003/01/14(火) 14:09

―296からつづく―

> 日蓮本仏…納得できるような根拠を示すことは出来ません。

そうですね。ここで過去2年間、議論をしてきましたが、結局、証拠を示す人はいませんでした。ですから、私は「日蓮が本仏であるという証拠はない」と言ってきたのです。
また、本仏とは言い難い証拠については、過去のログのとおりです。
残念な結果であると私自身、思います。しかし、日蓮の真実の姿は人間であっても、学ぶところは多いのです。この点については、あなた自身、

> 日蓮が仏でないのなら、必ずしも日蓮がごとく修行する必要はないと思います。
良い所は取り入れ参考にし、悪い所は受け取らないというのが正しい態度でしょう。

と記すとおりです。これは『十八円満抄』の真偽の問題ではなくて、私の考えです。
しかし、「日蓮が本仏である」というのに、何ら証拠も示せず、さらに学問的に否定されたことを見て見ぬふりをして、成仏しよう、地獄に堕ちるなどということを私は無責任というのです。

故に冒頭の質問の如く、日蓮が本仏であるというのであれば、その証拠を示すべき、本仏と信じれば成仏するというのであればその証拠を示すべき、地獄に堕ちるなどと脅しの言説を述べるのであれば尚更のことであると、その挙証義務を果たすことを強く求めてきたのです。しかし、結局、あなたはそれができないという。しかし、証明できないという事実が事実でないことを語るととらえるのは取られる側の問題ではなく、それを証明できない側の問題です。

なお、同抄をはじめ、真偽未決をその真偽を決せずして、また、断りもせず、引用することを私は無責任というのです。なぜ、特にこの点について、私が口うるさく言うかと言えば、日蓮本仏論というのはまさに真偽未決書を拠り所にして、成り立っているからです。

> 僕は「信仰者」として、日蓮が仏であり、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなければ「人を功利せしめる源泉」などないと考えています。

これはあなたの思い込みであると申し上げるわけです。
何度も記してきたように、菩薩思想は、後天的な仏教思想です。それをモチーフにして出来上がったのが法華経でした。釈尊は菩薩思想を説くことはなかったでしょう。しかし、この思想は、人類にとって大きな精神的な財産です。このような人類の財産たり得る教えは数多あります。それを釈迦の真説でないという理由だけで、捨て去ることは実に愚かな短絡です。また、日蓮が本仏でなければ、その教えは無駄であるというのも同様です。艱難辛苦を生きた日蓮の一生は、信徒ならずとも学ぶところは大であり、人間であればこそ、病み、老い、そして、死んでいったその苦しみの相克を示した姿は多くの教訓を700年間、与え続けてきました。

> 独歩さんの研究で「源泉」が発見できたなら、その時は教えてください。

私は研究者ではありません。また研究と信仰は而二不二であるという日蓮の精神を指示します。

この掲示板では過去2年間、それこそ膨大な議論がされてきました。本仏論者も否定論者もそれは真剣に挙証義務を果たしながら、論じ合ってきたのです。
そこにあなたは「説明できない」ことを当然のように本仏論肯定を論じたことです。
これは過去2年間の議論に対する冒涜であり、軽視であると私は受け止めた。

あなたは237、238の私の発言を無礼とも取れると言った。
しかし、私からすれば、過去皆が真剣に論じてきたことをまるでなかった如く「@日蓮本仏論者」などと名をして、証拠も上げられない、説明もできないと語るあなたの、その姿勢を、無責任とも、無礼とも見たからこそ、論難を強いたのです。

しかしながら、あなたは、私の問うた(1)〜(5)を日蓮の言として何一つ証明できなかった。これこそ、日蓮本仏の実態をさらに示したものであったと私は思うわけです。もし、違うと言われるのであれば、もう一度、真摯に私の質問に答えてください。

298今里祐二:2003/01/14(火) 15:17
独歩さんへ

>日蓮の言でお答えください。

僕が、自分の手帳や友人への手紙に「実は僕こそ、末法の本仏なんだ」という言葉を書いたとします。
独歩さんはその言葉をもって、僕が「末法の本仏」であると認めますか?当然、認めませんよね。

このような場合、言葉など無意味です。

大聖人様にとっても、このことは同じです。
大聖人様が「自分が末法の本仏である」という言葉を残されていたとしても、
そんな言葉は無意味です。何の証拠にもなりません。

であるが故に、経文通りの大難にあわれるという「現証」で示されたのではないですか?
そして僕はその「現証」だけで充分ではないか、と言っているのです。

>この掲示板では過去2年間、それこそ膨大な議論がされてきました。本仏論者も否定論者もそれは真剣に挙証義務を果たしながら、論じ合ってきたのです。
そこにあなたは「説明できない」ことを当然のように本仏論肯定を論じたことです。
これは過去2年間の議論に対する冒涜であり、軽視であると私は受け止めた。

「挙証」とは主に「文証」のことですね。
大聖人様のお考えでは、三証の重み付けは、現証>理証>文証、ですよね。
この掲示板での議論が「文証偏重」に傾いていったため、
「日蓮本仏否定」という誤った結論になっているのだと思います。

功徳の大きさという事で仏の位を計るなら、日蓮本仏で何も問題ありません。

『法蓮抄』
『是れ程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて、頭を低て他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ、飢ゑて食を思ふがごとく、間無く供養し奉る功徳よりも、
戯論に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。
これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり。十号と申すは仏の十の御名なり。
十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかかれたり。
妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり。
已上、上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり。争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや。
而れども是を妄語と云はんとすれば釈迦如来の金言を疑ひ、多宝仏の証明を軽しめ、十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし。
若し爾らば現身に阿鼻地獄に堕つべし。巌石にのぼりてあら馬を走らするが如し。心肝しづかならず。
又信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし。如何してか今度法華経に信心をとるべき。
信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し。』

299犀角独歩:2003/01/14(火) 15:34

祐二さん:

> このような場合、言葉など無意味です。

だとしたら、『十八円満抄』を引くことも、以下に『法蓮抄』を引くことも無駄ですね。もっと言えば、日蓮の御書、経典もすべて無駄と言うことになりますね。
これが本仏という言葉に限れば、言葉を引くことは無駄で、他は無駄でないという有様はおかしいですね。

要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。

> 経文通りの大難にあわれるという「現証」で示されたのではないですか?

日蓮の遺文で見る限り、経文通りの難に遭うことによって自分が法華経の行者であると言っています。しかし、本仏であると言っていません。
あなたが書いている現証は法華経の行者たる自覚をもったことのみしか書かれていません。それが何故、本仏たる証明として十分といえるのですか。

> この掲示板での議論が「文証偏重」に傾いていったため、
「日蓮本仏否定」という誤った結論になっているのだと思います。

それは日蓮本仏に固執するあなたの勝手な考えです。
上述の通り、現証から見ても日蓮が本仏であることにはなりません。
法華経の通り、難に遭うと本仏なのだとはどのような根拠で言っているのですか。
もし、この掲示板が偏重なのだという批判の現を奪って言えば、あなたは日蓮本仏偏重に傾いているために、何でも自分の都合のいいように解釈しているのに過ぎないでしょう。

> 功徳の大きさという事で仏の位を計るなら、日蓮本仏で何も問題ありません。

これまた、何ら証拠を示さない口から出任せの放言としか映りません。

最後に『法蓮抄』を引いていますが、あなたの言に従えば、現証のほうが大事なのでしょう。何の意味があるのですか。

300無徳:2003/01/14(火) 15:36
satさん今日は:

現在の創価学会に対する内部からの、まことに冷静かつ客観的な分析に感銘し
ました。satさんのような方が内部おられる創価学会にはまだまだ救いがある
と言うべきかも知れません。

しかし、私は池田大作氏や創価学会の幹部連中には創価学会としての歴史的
総括をなすべきではないかと訴えたいと思います。satさんも取り上げられた

>「七つの鐘」とか「正本堂建立」といった具体的かつ明確な組織目標が
>終了してしまった今、

に関して言えば、総本山側も創価学会も全くの虚言を弄し、創価学会員や正宗
信徒を欺き続けた結果が、現在のごとき有様に至った根本原因である事は明瞭
な事実と言わざるを得ません。したがって<具体的かつ明確な組織目標が終了
してしまった>のではなく、これらの事実を全く総括せずに、なし崩しに再び
会員を欺き続けようとしているのではないかと思わざるを得ません。

正本堂に関して言えば総本山側も明確に総括をし、全信徒に文書をもって詫び
てから正本堂を破壊などせず、名称を変えるなり用途を変更するなりして存続
させるべきでありましょう。いくら維持費が掛かるからとは言え解体し跡地に
奉安堂なる巨大な建築物を建てるとは、私にはとうてい理解が出来ません。

どちらにしても総本山側も創価学会も、どこに軸足を置いて信仰というものを
立てようとしているのかが本当に解っているとは思えません。

日蓮仏法は僧侶の為や創価学会という組織の為にあるのではないことは明瞭で
す。全て末法と言う現在に生きる凡夫としての庶民大衆の為にあることは多言
を要しません。したがって我々はあくまで自らの足で立ってネット社会と言う
利点をフルに活用して、現代的サンガを形成し我々の手に日蓮仏法を取り戻す
べきではないかと考えますが如何なものでしょう。

301みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/14(火) 23:23
>今里さん こんばんは
大変ですね。
あのですね、すぐに返事を付けるようですが、おそらく、今里さんは他の発言者がどういう意味を込めて言葉を使っているかよく分からずに、返事をしているように見えます。
それはなぜかというと、元信仰者には信仰者がどういう気持ちであるかはよく分かります。しかし、信仰者には、無信仰者や元信仰者がどういう気持ちであり、どういう意図で言語を使用しているかがさっぱり分からないからです。
なぜならば、元信仰者には信仰者の使用する言語のルールが分かるが、信仰者には元信仰者の使用する言語のルールが分からないからです。
という訳なので、相手がどういう意図で言語を使用しているか自分なりに了解がつくまで、時間をかけて返事をする癖を付けた方が良いです。

という上記の提言と矛盾するようですが、次の質問にできればわりと急いでお答えいただきたいのですが。
一部は既出の質問ですが、お答え頂けておりません。

1)今里さんのHPは「成仏しようぜ!」ですが、今里さんがお考えになる成仏とはどういう事ですか。
2)成仏した人に会ったことがありますか。あるいは、過去または現在に成仏した人は誰ですか。
3)本仏とはどのような仏ですか。
4)本仏以外の仏とはどのような仏ですか。
5)本仏と、本仏以外の仏の違いはなんですか。

以上、お答えいただけると大変うれしいです。



===
>無徳さん
『共同幻想論』について拝見しましたが、そのような問題関心であれば、次の本も興味深いと思います。
笠井潔『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080694/
田川建三『宗教とは何か』(大和書房 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479730206/
島田弘巳『イニシエーションとしての宗教学』(筑摩書房 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480051848/

なお、現代的サンガはむずかしいと思います。人が寄り集まると必ず偏りが生ずるからです。
また、不要なのではないかと思います。仏道修行は自分一人でするものだからです。
善友ができることはありますが、それはたまたまのことです。

302五月雨:2003/01/15(水) 00:12

今里さん

独歩さんとの対話はものの見事に噛み合っていませんね。独歩さんが言われた「外教
のサンジャヤ・ベーラティプッタ鰻の論理(異問異答)」の実演を見ているようで
す。
どうして、今里さんは独歩さんの理論が分からないのかと考えてみました。オフ会で
お会いした時に、私が言った言葉を覚えておいでですか。『今里さんは思考停止して
いる』と言いましたよね、今もそうみたいですよ。日蓮本仏論に拘っていて、独歩さ
んの言われることを考えようともしていませんね。それゆえに反論の基となる根拠を
示すことも出来ず、問いと違う答えにすり替えながら、ついには人を貶める言葉を書
き連ねています。

結局「日蓮本仏論」は日蓮本仏論者(みかんさんに言わせれば、論じていないから論者にもならないみたいですが)にも証明出来ないことが、証明されたのでしょう。
こんな事、今里さんおひとりが信じているのなら、ほんの物笑いになる程度です。今
の世にあって天動説を信じるようなものです。
だけど、今里さんはインターネットの世界でご自分のサイトを持ち、ご自分のお考え
を世に知らしめていますよね。成仏しようぜ、なんてまるで成仏が出来るようなタイトルで。その上成仏出来るか出来ないかは、博打なんですってね。御自分でもどうなるかは死んでしまわないと分からないという無責任ぶりです。今里さんのサイトを見て真に受けてしまった方への責任は、信じてしまった方にあると無責任の上塗りをされていましたね。
だけど、いい大人が自分の言葉に責任も感じず、証明されないことを世に垂れ流している姿は、傍から見ると酷いとしか映りません。

私は、この掲示板で仏教全般から聖人の教えを見るということを学びました。聖人の教えは絶対だから、他に目を向けなくてもよいと学会で石山で教え込まれてきましたが、聖人の本当の教えを知ろうと思った時には、この視点はとても大切でした。
そこで、みかんさんがとりあえず、仏教一般や日蓮については、次の三冊だけは読んでから議論していただけませんでしょうかと挙げられた三冊の本ですが、きっとすぐには読めないと思います。そこで今里さんが敬愛されている小林よしりんさんがいまSAPIOで連載されている『古寺記』をお薦めします。聖人とも関係のある密教について詳しく書かれていますよ。ゴーマニストの今里さんは読まれているとは思いますが、社会一般から見た仏教という視点から、見えなかった何かが見えてくる筈です。
どうぞよしりん先生に仏教とは何かを学んでから、日蓮本仏論の理論武装を出来るものならして下さい。そして独歩さんと議論をして貰ってください。
今里さんは、人間性はとても好い方なのに、石山教学と石田さんの考えでしか話が出来ないのが残念です。

303アネモネ:2003/01/15(水) 01:36
うーん、なんだか、今里さんがお答えにならない質問というのは、かなり核心的な部分なんでしょうね。それを答えると、どういう反論がかえってくるか、今里さん自身わかっていて、つまりそれこそ罠に嵌ってなるものかと、避けておられるのでしょうか。
だとすると、とっくに今里さんは、ご自分が全面肯定の立場をとってこられた寛師教学の本仏論が崩れていること、わかっているんでしょうね。

寛師教学全面肯定としての論は最後まで展開をみることが出来なかったのは、誠に残念ですが、それが現実ということでしょう。
むしろ、今里さんのレスを通して、本仏論の弊害をみる思いがしました。

>本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています。

本人が言わなかったことは、謙虚だからという捉え方だけではないはずですね。そのまま、本当に本仏ではなかったから当然言わなかったという、ごく自然な捉え方が一番にあるはずです。ところが今里さんは、この場合のことについての思考は、まるで意識にないよう。
恐らく本仏であっていてほしい、あつていてもらわなくては困るという、今里さんの切なる願望が、そのことを考えなくさせているのでしょう。
だから、信は信でも、盲信ということになるのではないかと思われます。

304今里祐二:2003/01/15(水) 02:19
五月雨さん、アネモネさん

独歩さんへのレスだけでいっぱいいっぱいなので、しばらくお返事できません。
ごめんなさい。

305今里祐二:2003/01/15(水) 02:27
みかんさん

1)お釈迦様のような仏様に成ること
2)ありません。
3)日蓮大聖人
4)お釈迦様のような仏様
5)本仏=本仏以外の仏の師、本仏以外の仏=本仏の弟子

以上です。

306今里祐二:2003/01/15(水) 03:16
独歩さん

>要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。

『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。』(開目抄)

僕はこれだけで充分信じられるのですが、独歩さんには不足なのでしょうね。

>あなたが書いている現証は法華経の行者たる自覚をもったことのみしか書かれていません。それが何故、本仏たる証明として十分といえるのですか。

>>298であげた『法蓮抄』の中に
『心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。』とあります。
功徳の大きさの違いを示すことにより、暗に「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様なんだよ、という事を示していると考えます。

独歩さんの、疑いを尽くして、真偽・正邪を見極めていく姿勢は大変素晴らしい事だと思います。
しかし、過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない問いだと思います。

もし「そのような発言はしたことがない」と仰るのであれば、釈尊の事は「仏」と信じていらっしゃるのでしょうか?
釈尊の事を仏と信じているのなら、釈尊が間違いなく仏だという根拠は何でしょうか?
釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません。>>298で論じた通りです。
証拠を挙げて、具体的にお答えいただけるとうれしいです。

307みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/15(水) 03:16
>今里さん

お答えいただきありがとうございました。
今里さんが仏や成仏についてどう考えているのか今ひとつわかりにくいのです。
すいませんが、もうすこしだけ質問させて下さい。

6)日蓮と釈迦以外に成仏した人はいますか?
7)いるとしたらそれは誰ですか?
8)「成仏」が「お釈迦さまのような仏様になること」だとしたら、具体的には人間は成仏するとどうなると思いますか。
9)「3)」の答えが「日蓮大聖人」ですが、それは鎌倉時代の日蓮なんですか。
10)鎌倉時代に生きた日蓮は、人生のなかでいつ成仏したと思いますか。
11)鎌倉時代の日蓮と、久遠元初自受用報身如来はどういう関係でしょうか。
12)本仏と、本仏以外の仏の、覚りや力に違いはありますか。
13)石田次男氏は成仏していたと思いますか。
14)今里さんがもし成仏したら、ご自分がどう変化すると予想されますか。

308今里祐二:2003/01/15(水) 04:25
>>307 みかんさん

6)判りません。
7)日興上人とか熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。
8)判りません。
9)そうです。
10)判りません。
11)不一不異
12)うーん、どうなんでしょう。判りません。
13)そうあってほしいと思いますが、断言できません。
14)僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています。その後どうなるのかは判りません。

309今里祐二:2003/01/15(水) 04:29
>308 の訂正

6)判りません。
7)日興上人とか熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。

6)日興上人
7)熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。

310今里祐二:2003/01/15(水) 05:48
>308の訂正

13)そうあってほしいと思いますが、断言できません。

13)していません。

>13)石田次男氏は成仏していたと思いますか。

>13)石田次男氏は成仏したと思いますか。
と、勘違いしていました。

311みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/15(水) 06:26
すいません。また疑問が増えてしまいましたので、恐縮ですがもうふたつだけ聞かせて下さい。

15)成仏とは臨終に際して起こることなのですか? 生前に開悟することはないのですか?
16)釈迦は、30歳もしくは35歳で成仏したとされていますが、それと「僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています」というのは、どう整合性がつくのですか。

312アネモネ:2003/01/15(水) 09:20
今里さん

私の書き込みは、お読み下さるだけで構わないです。気が向けば、お返事ください。

284>原始仏典を研究し、シャキャムニの真意をつかんでください。ご健闘をお祈りします。

と嫌味のようなことを言われた方が、成仏とはどういう事ですかという質問に対して、
1)お釈迦様のような仏様に成ること

と答えられるのは何か、矛盾してますね。お釈迦様のような仏様になることが成仏であると考え、成仏を目差しているならば、それこそご自分が原始仏典を研究をすることに行き着かなければならないはずですし、先にそのような研究をなさっている方の言葉には耳を傾けるものだと思います。

だいたい、日蓮が本仏ならば、日蓮のような仏様になることというのが道理ではないでしょうか。どうしてここでお答えがお釈迦様となるのかそれこそ疑問ですね。

284>独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわりを見せますが、日蓮が仏でなければ、そのようなこだわりはナンセンスです。

逆に日蓮を本仏だと思う方が、真筆以外の真偽未決の書に対して無頓着であるほうが問題ではないかと感じます。
今里さんは偽書が書かれる中世の宗教を取り巻く時代背景という認識が欠けているのではないでしょうか。日蓮が本仏だと考える方のほうが、真筆以外の書に対して慎重になるものではないかと思うほどです。
たとえば、好きな人から届いたラブレターが、実は別人の創作だったとあっては、好きな人の心の内の真意を取り違えることになるでしょう。また本人が書いたものだと思い込んで大事にしていることも滑稽なわけです。しかし、疑わしき場合は、確認をするでしょう。そこに書かれていることと違っていたら怖いと思って、信じていたいと思っているのが、今の今里さんではないかと感じます。

真剣に日蓮の真意を求めるならば、文献の信憑性には厳格になり、疑問も生じ、慎重になるのは当然のことだと思います。それを異常だと思う神経が、無責任さでありカルト性であるのかもしれません。
楽な道を選んで、日蓮の真意を求めることに怠慢なだけではないかと思います。

313アネモネ:2003/01/15(水) 09:21
(つづき)

305>しかし、過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

逆も真で、過ぎたる信は何も生まず、かえって害になるものではないかと思いますね。掲示板でみかんさんと独歩さんが、「信」について幾度となく書き記して下さっているわけですが、お釈迦様の教えをもとに発生した仏教が説くところの本来の「信」と、今里さんが思っている「信」とは違うものかもしれないということにも、問題意識を持ってほしいと思います。

>独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない問いだと思います。

答えを見出せるかどうかはともかくとして、そういう疑問を持つことは、宗教を求め広める信仰者の社会的責任のうえで、非常に重要なことだと思います。
ごく当たり前のように、「神や仏」と、お釈迦様を神格化したものとして今日に伝えられ、教えられ、それが当然のことのように私たちは身についているわけですが、実はその固定観念こそ、後世につくられたものかもしれないわけですね。
いちりんさんや独歩さんがよく書かれていましたが、お釈迦様だって私たちと同じ人間だったんだということ、当然、日蓮も同じで、そのうえで仏に成るとはどういうことを意味するのか、そこを考え抜くことこそ、本当の「信」に通じていくものではないかと思います。
歴代の方々の言葉に依存するうえで「信」を訴えるだけで、それ以外のことを考えることを害だと言い切る。
それが宗教のカルト的な思考であり、それが人々を不幸に導いているという社会的側面にも目を向けてほしいです。それが宗教を広めようとする人の最低限の責任でしょう。
今里さんの主張は、オウムとなんら変らないということに気がついてほしいです。

314犀角独歩:2003/01/15(水) 09:51

祐二さん

>>要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。
>『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。』(開目抄)
> 僕はこれだけで充分信じられるのですが、独歩さんには不足

不足であるとか何とかいう憶測を一々書き付ける必要はありません。
私はそんなに粘着質ではありませんし、「ああ思うだろう、こう思うだろう」という他人の感情を探るような言葉を一々挟むとそれでなくても長くなる文章がもっと長くなるでしょう。今後、ご無用に願います。

さて、「しうし父母」だとなぜ、本仏なんでしょうか。

> 「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様

この“解釈”には賛成しかねます。これは衆生側の功徳を論ずることであって、仏の優劣を論じるものではありません。それはそれとして、

(7)仮に法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いとしても、なんでそれが本仏であると言えるのですか。

また、あなたの記述によると法華経の行者(本仏)、お釈迦様(権仏)として、その優劣を論じ、さらにこのお二方を別体の如き口ぶりですね。これは如何なることでしょうか。たしかあなたは寛師全面肯定論者と言うことでした。以下はご存じの寛記雑々「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」というのです。

また、先にも寛師とまったく本地・垂迹説を展開していました。
この本地・垂迹(もちろん、本門・迹門とは別)に就き、寛師は『蓮祖の本地内証外用の事』に

「凡そ蓮祖大聖人は若し外用を論ぜば本化上行菩薩の再誕、諸抄の中に或は仏の御使と云ひ、或は霊山相伝等と云ふが如き是れなり。若し内証を論ずれば、久遠元初の本因妙の教主釈尊なり」

といい、石山の同体異名の相伝を論じます。まさか寛師全面肯定のあなたが知らないわけもないでしょう。となれば、

(8)「「法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様」などと別体の如く論じることは寛師の跡を冒涜し、石山の相伝を蔑ろにするものではありませんか。

もちろん、私は寛師の実否を問い、相伝の是非も論じます。しかし、ここにおいて、寛師全面をうたい文句にするあなたが寛師とまったく違う“解釈”をもって論じられてはますます話はわかりづらくなります。

(9)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

> 過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

確かに疑わなければ自分のぬくぬくとした考えのなかで一生を終えることができるでしょう。しかし、この信・疑については既にみかんさんも加わってくださり、論じたことです。私は疑うことを少しも恐れません。あなたは疑うことが怖いのでしょう。

315犀角独歩:2003/01/15(水) 09:52

―314からつづく―

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…

これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう。

> 釈尊の事は「仏」と信じていらっしゃるのでしょうか?

質問には質問に答えてから答えるのが礼儀です。
私はあなたに聖人が本仏であるという聖人の言を挙げるように言いました。
しかし、あなたは言を挙げる必要がないなどと言葉を巧みにする変え、いまだに答えていません。まず、こちらの質問に答えるべきでしょう。異問異答にまた逃げ込むあなたの罠には引っかかりません。

> 釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません。>>298で論じた通りです

論じた?、これが論のつもりなのですか。
言葉は根拠にならないのであれば、ここであなたが書いていることはなんなのですか。
また、私はこの298に対しても

「だとしたら、『十八円満抄』を引くことも、以下に『法蓮抄』を引くことも無駄ですね。もっと言えば、日蓮の御書、経典もすべて無駄と言うことになりますね。
これが本仏という言葉に限れば、言葉を引くことは無駄で、他は無駄でないという有様はおかしい」と、その過ちを指摘しています。それにはまったく答えもせず、論とは、まったく、あなたという人は。

呆れてものを言う記も失せますが、たしか、あなたは石田次男さんを尊敬しているんでしたね。石田さんは『現代諸学と仏法』に

「『像法決疑経』には言う「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」と。「若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」である。この意図の下、虚妄性不可避の分別ではあるが、常に非著亦用の方便として闊達に駆使される。
 我々もこの意図の万分の一をも見習いたい」

> 釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません

仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。

316犀角独歩:2003/01/15(水) 10:33

答えがない質問が溜まってきました。
ナンバーを付け忘れたものなどもありますので、以下、整理しておきます。
お答えください。異答はおやめください。また、異問は答えてから。

本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。

(a)久遠元初とは何ですか。
(b)自受用報身如来とは何ですか
(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
(d)日蓮が本仏と何故言えますか
(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

文字では表せないなどという言い逃れを続けるのであれば、以下の日蓮の言も用いないのでしょう。しかし、あなたはここに書き連ねている。すなわち、つまり、あなたの日蓮本仏“論”とは日蓮の言に拠らない己義荘厳の夢想であると考えるほかありません。あの石田さんでさえ「天台が言う様に「文字は三世諸仏の気命なり」…言語・概念・文字(記号)は仏様の自行と化他のとについての気命なのです。…ですから、「仏は文字に依って衆生を度し給うなり」」と記しています。あなたは石田さんを尊敬しているのではなかったのですか。尊敬表明をするだけで書いたことも話していたことも覚えていないのですか。それとも読んですらいないのですか。

「仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり」

誤解がないように言っておきますが、私はあなたの本仏“論”を聞いているのではありません。日蓮が本仏であるというのが日蓮の教えであるというのであれば、日蓮の言を挙げて論じるのが筋だと言っているのです。

お答えください。

317sat:2003/01/15(水) 15:54

>>300 無徳さん

>内部からの、まことに冷静かつ客観的な分析に・・

過分なお言葉頂戴していますが、創価学会の立場を代弁して書いているわけでなく、あくまで私個人が感じることを書いているまでです。正しいかどうかわかりません。独歩さんや無徳さんを始めとして本掲示板に書き込まれる方から多くの事を教えて頂いている・・そして学ばせて頂いている一人の創価学会員であるというだけに過ぎません。その点ご理解賜ればと思います。

>私は池田大作氏や創価学会の幹部連中には創価学会としての歴史的総括をなすべきではないかと訴えたいと思います。

仰るとおりだと思います。学会は過去幾度となく対外的に問題が発生しそうになると、事実を封印し葬ろうとしてきました。今も、体質が変っているとは思えません。池田名誉会長のスピーチや書籍は、過去の出来事を修正し、理想化するための作業だったのでしょうし、三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念ですが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えにくいものと思われます。

組織の諸矛盾とか信仰のあり方に懐疑を持った人々・・信仰自体は間違っていないはずだとする人々は・・その後脱会して様々な人生の軌跡を描いておられるかと思います。逆に今も学会に所属する人々の中にも、ご指摘の問題を総括し「負の遺産」を背負うことが自身のクライシスにつながることを動物的嗅覚として知っている人も数多く存在します。言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さないという事は、表裏一体なのだと思います。日本人的感情の側面と言うのでしょうか・・宗創戦争の意味づけとして、負の遺産を全て宗門に帰そうとする方向に向かったことは当然の帰結だったような気がします。

「現世超越」モデルの持つ強烈な思想性は、「事実」の面でいくら「誤謬」を指摘されたところで容易に崩れるものではないという側面があるかと思います。「事実」などは無限にあるため、指摘しうる「事実」はたえず部分的であるほかないのに対し、思想性が描き出すのは先験的に「全体」像であるという主張がまかり通ってしまうのが実情ではないでしょうか。

学会幹部のスピーチが、次第に空疎な言葉で埋められていき、やがて論理性の無い学会の肯定演説に行き着くという日常風景になって久しいですが・・異分子をはじき、より純粋性に向かって組織が形成されていくと、かたやそれがボディーブローとなって崩壊の道を早めることは充分に予想されることです。後はしなやかに変身していくしか学会には残された道はないと存じます。

318sat:2003/01/15(水) 15:55
>>300 無徳さん(続き)

>日蓮仏法は僧侶の為や創価学会という組織の為にあるのではないことは明瞭です。

これも仰るとおりだと思います。全く異論はありません。その上に立って、「学会は池田教に堕した」という巷の通説批判は果たして正鵠を得ているのでしょうか。私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか。

学会が方面制へと組織を移行強化して、今に至っている事は、無徳さんもよくご存知の事であろうと思われます。方面制への移行により管理システムは高度に完結され、本部職員や方面長を始めとする支配の複層化が進展し、権力の分散的存在というセクショナリズムが存在しています。都市から農村へ、そして農村から都市へという路線が昭和50年代以降の戦略でもありました。セクショナリズムは中央集権化の必須条件であり、その欠くことのできない補正手段として機能しうる・・つまり本部職員や方面長によって分散された権力構造とか、セクショナリズムは、自主性や創意性や個性を圧殺するものではなく、ガス抜きとして機能し、更には構成員によって一致して承認された枠内で行われる限り、必要機能として積極的に作用しているというのが実態ではないでしょうか。

これからの生き残りを考えれば、大衆が何を求めているか、オールラウンドにそのニーズを拾っていかなければならず、独裁化から官僚化への移行、そして市場原理化へのシフトに向けたソフトランディングしか方法はないと感じます。それが事実上の解体なのかもしれませんし、歴史の審判を待つということなのかもしれません。

>総本山側も創価学会も、どこに軸足を置いて信仰というものを立てようとしているのかが本当に解っているとは思えません。

創価学会が存在しなければ、大石寺も静かな風情で代々法華講の方を中心として信仰を維持継続していたかもしれませんね。

>我々はあくまで自らの足で立ってネット社会と言う利点をフルに活用して、現代的サンガを形成し我々の手に日蓮仏法を取り戻すべきではないかと考えますが如何なものでしょう。

サンガと言えば、タイあたりで黄色の衣をまとった人たちが集まっている姿みたいなものを想像してしまうような未熟な私ですから、サンガそのものの意味を本質的にはわかっていないのかもしれません。しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもってバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のようなものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。
ネットのもつ匿名性は、節度さえあれば自由に発言はできますし、自分にとって意味を為さないと思えば去ればいいのですし、意味があると思えばオフ会等に出席して実際にお会いしてみることも可能なのですから、組織論理に拘束されない、場に拘束されないという点では有効に働くかと思います。

319今里祐二:2003/01/16(木) 02:21
独歩さん

(a)久遠元初とは何ですか。

釈尊の本因の時

(b)自受用報身如来とは何ですか

日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか

『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

(d)日蓮が本仏と何故言えますか

法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか

本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。

『祈祷抄』
『袋きたなしとて金を捨る事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取らざるべし。行者を嫌ひ給はば誓を破り給ひなん。』

(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。

否定などしていませんが、もしかしたら、僕は日寛教学を一歩進めたと言えるかもしれません。
「私が(他人より)遠くを見ることが出来たとすれば、それは私が巨人達の肩の上に乗っているからだ。」
とは、物理学者アイザック・ニュートンの言葉ですが、そんな感じで受け取ってください。

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

>(f)の答えと同じです。

(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか

「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
「仏である」だけで何故「本仏」と言えるか?については(i)で答えます。

(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。

『法蓮抄』の中に
『心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。』とあります。
功徳の大きさの違いを示すことにより、暗に「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様なんだよ、という事を示していると考えます。

>この“解釈”には賛成しかねます。これは衆生側の功徳を論ずることであって、仏の優劣を論じるものではありません。

との事でしたが、「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。

(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

これに対する答えは(e)の答えと同じです。

以上、お答えしました。

>本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。

独歩さんの質問は、平成の今現在の時代状況の中で、大聖人様に直接お伺いしなければ判らない類のものが多く
答えに窮します。
鎌倉時代の、大聖人様の直接の対告衆へのお言葉の中に、適当なものが見つからないからといって
相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。

『女人往生抄』(真偽未決)
『問うて云はく、内外典の詮を承るに道理には過ぎず。されば天台釈して云はく「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。』

320今里祐二:2003/01/16(木) 02:23
独歩さんへ

ご質問します。

1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。

2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。

<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。

<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。

以上です。お答え下さい。

321今里祐二:2003/01/16(木) 02:38
みかんさんへ

>15)成仏とは臨終に際して起こることなのですか? 生前に開悟することはないのですか?

「成仏とは臨終に際して起こること」と聞かれると答えにくいです。
「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。

>16)釈迦は、30歳もしくは35歳で成仏したとされていますが、それと「僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています」というのは、どう整合性がつくのですか。

「因位」と「果位」という事を考えてもらえば判ると思います。それで整合性はつきます。

322今里祐二:2003/01/16(木) 03:28
>>319 訂正

誤) 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
正) 仏身を離れて南無妙法蓮華経はありません。

323犀角独歩:2003/01/16(木) 09:45

祐二さん:

これだけ、衆目に恥を晒す人も珍しい。
「僕は日寛教学を一歩進めた」とは、それはよほど。寛師の文献を精査、読了されたのでしょうか。誇大妄想という言葉以外、思いつきません。

(a)久遠元初とは何ですか。

> 釈尊の本因の時

日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。

(b)自受用報身如来とは何ですか

> 日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事

日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか

『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

これは要山の相伝です。
日蓮の御書と相伝の区別も付かないようですね。
また、ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。勘違いしているのでしょうか。

(d)日蓮が本仏と何故言えますか

> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。

日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。
日蓮の言を聞いているのです。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか

> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。

なぜ、差し支えないのですか。

> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。

> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。

仏身とは何ですか。


(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。

> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。

受け取れません。
寛師教学どころか、あなたの述べていることは異問異答の鰻理論、いわゆる外道の論議としか映りません。

だいたい、また、訳のわからないことを言って煙に巻いています。
では、あなたは日蓮が釈迦であると考えているわけですか。
そうではないのであれば、その「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。

324犀角独歩:2003/01/16(木) 09:46

―323からつづく―

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

> (f)の答えと同じです。

「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。


(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか

> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。


(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。

>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。

これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。

> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。

これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。


(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

> これに対する答えは(e)の答えと同じです。

答えになっていません。

> 以上、お答えしました。

私は日蓮の言で、と言ったのです。
それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。

>> 本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。
> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?

まず、日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。
また、私がいつ全否定しましたか。また、勝手に想像・憶測で、恰も私が言ったように記して罠を仕掛けるのはやめてください。

> 相伝

では、日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。

> 「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。

道理を表にすることを私は否定するわけではありません。
では聞きますが、700年も前の日蓮の事跡、文字(文証)で書かれたこと以外で、いったい、何で知ることができるのですか。言うところの道理は、文証を基礎にしない限り、知ることも考えることもできないはずです。だから、文証が重要なのでしょう。それとも、あなたは文証を離れて、日蓮の事跡を知り、ただちに道理によれると言うわけです。まさか夢や幻想に基づいているわけではないでしょう。

故に、引用される『女人往生抄』、また天台釈は、まず文証の正しい選定を基礎にして道理を考えるものであるはずです。しかし、あなたは文証は答えられない、けれど、道理だという。ここでいう「道理」は文証によらないわけですから、単にあなたの想像憶測で、そうあって欲しいという願望の賜物に過ぎません。そんなものは道理とは言いません。

以上、11の質問に就き、相も変わらず、聖人の言を引いていません。
道理という単語に名を借りたあなたの考えを書き連ねたばかりです。

もはや、これ以上、繰り返しても同じことでしょう。
要は、あなたの日蓮本仏という考えは、日蓮の言に依れない、夢想・想像の願望を「道理」という言葉でカモフラージュして肯定したものであると、私は考えるざるを得ない。なぜならば、日蓮の言に拠っていないので、日蓮の教えに従っているとは言えないからです

325みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/16(木) 09:49
>今里さん
一仏一土、仏の三身(法身・報身・応化身)、本地垂迹、久遠実成、本仏・迹仏、これらの概念は了解されているでしょうか。

「久遠」「元初」「自受用」「報身」「如来」。それぞれを理解されているでしょうか。

伝統的な天台法華宗の教理、そして伝統的な日蓮法華宗の教理を理解しないと、それの大胆な読替としての日寛の日蓮本仏説は了解がつかないと思いますよ。


あと、だれかが仏であることを証明できるのは、仏だけです。
他人が開悟したかどうかは、開悟した人にしかわからないからです。
それ故、禅門では、印可は師家しか与えられないのです。

326犀角独歩:2003/01/16(木) 10:02

祐二さん:

> 320

なんですか、これは?
また、「簡単な罠」という奴ですか(爆)

先にも、あなたが「日蓮を変なおじさんと言った」ときにも記したことです。

私は自分の言っていることに対しては責任は負いますので、自分の発言に就き質問されるのはわかりますが、自分が言ったことでないことを、“恰も私が言ったことのように”仕掛けて質問される“罠”には答えかねます。質問するのであれば、私が言っていることに就き質問してください。

320質問の構成は、実に誘導尋問の性格を帯びています。
的確な、私の過去の発言に基づくものに変えてください。
先に「罠を仕掛けた」と公言して憚らないあなたです。
ここは、私も用心してかからせていただきます。

しかし、それにしても、(2)の質問を読んで思ったのですが、先には「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」と記していましたが、今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。

327今里祐二:2003/01/16(木) 12:58
>今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。

不正な事の代表事例として挙げているのです。

独歩さんのお考えは以下のようなものですね。
>>42
>戒壇之漫荼羅は疑わしいと言われれば、真筆である証拠を示せばよいのです。
>唯授一人は疑わしと言われれば、事実である証拠を示せばよいのです。
>真偽未決・相伝書が日蓮の教えでない言われば、その証拠を示せばよいのです。
>法華経は後世の創作であると言われれば、釈尊の真説である証拠を示せばよいのです。

>>306 で、初めて質問した時の反応はこうでした。

>仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。

独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。

再度質問します。

1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。

2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。

<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。

<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。

以上です。お答え下さい。

328犀角独歩:2003/01/16(木) 14:42

祐二さん:

>> 仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。
> 独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。

何の証拠をですか。
言いがかりはやめてもらいたいですね。
あなたは仏徒ではないと言ったまでです。

そして、あなたが言う「道理」は、日蓮の言を挙げない自分自身の考えに基づくものであるわけです。そして、さらにそれは寛師よりも優れたものであるそうですね。たしか、日寛教学全面肯定であったはずが、いつの間にか自分の考えのほうが優れている変わってしまいました。これから、どんなふうに変わるんでしょうかね。

再度の質問とのことですが、あなた、日本語がわかりませんか。
私に対する質問の形に変えてくださいといったのです。

329犀角独歩:2003/01/16(木) 14:43

質問を変える理由については、既に326に記したとおりです。

330無徳:2003/01/16(木) 15:23
satさん今日は:

>三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念で
>すが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えに
>くいものと思われます

>言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さ
>ないという事は、表裏一体なのだと思います。

とのことその通りでしょうね、私も決して創価学会も総本山側も歴史的
総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。
ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。

>私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも
>思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換
>済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか

とのこと、おそらく創価学会内部におられる方々はsatさんとほぼ同様
な感じを抱いているであろうことは想像されます。何故かならば現在の
鵺的な日本社会においては、独裁的権力があからさまな形で現前する事
は有り得ないと思われるからです。(国家権力そのものが鵺的)その為に
何処をどう攻めたら変革が可能になるのかさえ判りません。

したがって、権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず結果と
して官僚化し制度として自己正当化を図ってしまうという最悪の状況と
言えます。このことは現在の日本の若者達が自らのレゾンデートルを得
られない為に、そのエネルギーの捌け口が見つからないところから来る
フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れま
せん。

>しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもっ
>てバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示
>板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のような
>ものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。

本当にそうですよね!問答名人さんが別のスレッドでこの掲示板の存在
そのものが富士門流の再構築に繋がっているとの趣旨の発言をされてい
ましたが同感です。更にこの掲示板の在り方そのものが現代的サンガの
萌芽であると私も感じています。大いなる期待を込めて私も参加させて
いただいております。

331犀角独歩:2003/01/16(木) 21:27

なぜ、私は今里さんの質問に答えないかを、ちょっと補足しておきます。

すぐ前で言えば、327において、今里さんは私に対して、

> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか

と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。

この(1)の質問は、実は私の言葉ではなくて、質問者今里さん本人が言った言葉なのです。すなわち、306に

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない

このように私に問いかけているわけです。私はこれに対して、315において

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…

「これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう」

と応じています。ところがこの今里さん自身が言い出した言葉は、恰も私が言った言葉の如くに扱い、320において、私への質問と姿を変えます。そして、その質問はまた327において繰り返されています。それが(1)の質問です。

自分の言った言葉の意味を相手に問うという、この異常な在り方に、私は何度となく、「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と記してきたのにも拘わらず、自分が言った言葉の意味を私に問うという通常ではあり得ない質問を投げかけたわけです。

自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。なぜ、あなたが言った言葉について、私が答えなければいけないのですか。

あなたのこのような狡猾な罠を仕掛けては、自分に有利なように議論を運ぼうとする。先には日蓮を「変なおじさん」と言い、恰も私がそのように考え言っている如き印象をロムの人々に与えようとするあくどい手段も取っています。私はこのような不正直な態度は日蓮本仏を真面目に考える人々に対する裏切り行為であると指摘しておきます。

そして、自分が言った言葉を恰も私の言葉のように繕いながら、自分の言葉である「釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠」を「今里祐二は末法の本仏」・「池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録」とどこが違うのかという質問を投げかけています。ここで実に不誠実であるのは「今里祐二は末法の本仏」という自分の言葉に就き、327において「不正な事の代表事例として挙げている」と言っている点です。つまり、この質問はどのように答えても、答えた相手は不正な事を弁明したように仕組まれていることがわかります。

このスレッドは213に管理人自ら「当掲示板のルールに則って正々堂々と論線を張られることを要望」と仰っている。私も、今里さんとの議論が始まったのち、296において、「正々堂々と論じ合いましょう」と私は呼びかけた。それにも関わらず、あなたは実に卑劣な罠を仕掛けてきた。。

自分で言った事を恰も私が言ったようにして質問し、その誘導は間違いなく不正な弁明とレッテルが貼れるように仕組まれた狡猾な質問。私は、この在り方を公然と批判するものです。あなたの態度は日蓮本仏論者の面汚しです。

332今里祐二:2003/01/17(金) 12:14
独歩さんへ

>自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。

なるほど。
ところが僕は、>>232 において、ほぼ、この質問に対する答えと呼んで差し支えない発言をしています。
この考え方に立てば、誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます。

この>>232 の発言に対し、独歩さんは>>237-238 のような反応をされ、僕の発言を否定しています。
誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せる考え方・信心のあり方を、
独歩さんは否定されているのだから、独歩さんには「対案」を示す義務があると思うのです。

>あなたは仏徒ではないと言ったまでです。

僕の事を「仏徒ではない」と断言できる独歩さんは、さぞかしご立派な「仏徒」なのでしょう。
釈尊の名誉を守るためにも

>> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか

>と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。

などと逃げ回らずに、質問に答えていただけませんか?

333sat:2003/01/17(金) 14:07

>>330 無徳さん:

いつもご示唆ありがとうございます。

>私も決して創価学会も総本山側も歴史的総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。

お気持ち大変よくわかるような気がします。「歴史的総括」を為さないならば再構築を目指す人々の手によって明らかにしていくしかありませんね。正本堂問題のみならず・・だと思います。学会は一貫して唯一無二の反戦平和団体だと標榜し、その根拠を「三代会長の収監」に依拠し歴史付けています。しかし、往事、総体において学会が戦争賛美していたことは紛れもない事実ですし、宗教弾圧などと言うならば、大本教の第二次弾圧でも同じく治安維持法と不敬罪が摘要され、信徒3000余人の検挙、拷問などで16人を死に至らしめ、活動拠点はことごとく破壊されたとされているのですから、学会の比ではありません。

戦後、いずれの新興宗教も多かれ少なかれ権力構造の下支えとして機能しているかと思いますが、そういった欺瞞性もより明らかにされ、歴史の審判を待つべきだろうと思います。本掲示板では教義に関して、様々な視点から史実考証が為されていますが、戦中戦後の新興宗教の史実考証もきっちりとしておいた方がいいかもしれませんね。集団は凝固したものではなく、誕生し、発達し、持続し、分解する・・つまり、集団はそれ自体の歴史を持っているのですから。

>権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず・・フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れません。

フラストレーションが持続して緊張が高まると、攻撃的な行動をとることによって緊張を一時的に解消する場面がよくあります。学会においても、被害者意識がそのまま加害者意識になっていると思える光景は日常良く目にします。集合的場面に特有の、ある種の内部圧力から直接生じているこれらの行動は、その圧力を強化し集団を結晶化を助けますし、同調傾向、逸脱に対する抵抗、部外者に対する攻撃につながっているかと思います。

学会は集団全体としての強い親和性を素地とした統合性に特徴がありますが、そこには、言語的コミュニケーションを超えた強固な連帯感が認められ、そうした統合性をもって機能し、下位集団としての指導者群と従属者群の地位が分化しているかと思います。また攻撃を通じて組織を強化し、再び全体として社会に反抗する構えをとっているかのようにも見えます。

問題は、その抵抗なり反社会的行動が、しばしば「みせかけ」に過ぎず、組織維持手段と組織目標としての欺瞞性を有していることであり、それは単なる位相として現れたものではないということでしょうか。

334犀角独歩:2003/01/17(金) 16:54

今里さん:

自分の言葉でないものに答える義務はありません。この点については331に記しました。
ちゃんと読みましたか。

逃げ回っているとかなんとか、人の書いたことを全然、読まないで勝手なことを言っていますね(爆)
そうやって煽れば、怒って、「簡単な罠」に引っかかけようと、まだやっているんですか。331に記したとおりです。

姑息な手段はやめなさい。なんだか観ていて恥ずかしくなります。
いま、ここであなたが記し続けていることは、日蓮本仏ではなくて、あなた自身の人格は如何なるものであるのかを暴露し続けているようなものですよ。

また、あなたは日蓮本仏を何一つ、証明することはできなかった。
この点については何も触れていないけれど、どうしたのでしょうか。
私が立てた(a)〜(j)に対して、あなたの答えになっていない言い訳に就き、323、324に再度、答えになっていない点を言い、質問をしています。あなたはそれに答えていない。解答はどうなっていますか。

こちらに自分の言葉で質問をかけて、自分にかかった火の粉を払うような真似はやめるべきでしょう。

ところで

> 232 において、ほぼ、この質問に対する答えと呼んで差し支えない発言をしています。この考え方に立てば、誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます。

あの寛師より一歩進んだとあなたが自画自賛するのはこのことですか。
これで、釈尊が覚者・仏であると根拠づけられると、どんなふうにして日蓮が本仏と言うことになるんですか。ちょっと、文章をもう一度、記しましょうか。

> お釈迦様の教えの正しさは大聖人様に依存している

この文を次の文章と整合性が取れていませんね。次のところで「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作…羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい…もしそうであったとしても」と法華経が釈尊の直説でないことを認めているのに、その直説でないものの正しさ?は日蓮に依存しているとは如何なる意味なのでしょうか。

> お釈迦様には、未来に大聖人様が出現されるという大確信

どんな証拠があるんですか。

> 法華経…お釈迦様…羅什三蔵…仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、大聖人様は身をもって教え示されたと思います。

ここでいう妙法蓮華教はまあ妙法蓮華経の打ち間違いでしょうが、それにしても、何を言っているんだかさっぱりわかりません。
だいたい、石山で使う真偽未決書では

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし」

と法華経を斥けて、ただ題目の五字七字であるというのに、あなたの場合はその題目を取らず、“実用上”羅什訳「妙法蓮華教」を取るそうですが、これまた御書とも、寛師とも違いますね。これも「日寛教学より一歩進んだ」、成仏しようぜ、今里教というヤツですか。

先にも記しましたが寛師教学は同体異名の相伝を以て釈尊=日蓮を説明します。
この点から、あなたは「日寛教学より一歩進んだ」と先に記しましたね。どんなふうに進んだんですか。自分の言葉なんですから、ちゃんと説明してもらえませんか。

しかし、今回のあなたの書き込みでは「釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます」というわけですから、まるで日蓮本仏なんか関係ないような口ぶりになってきましたね(笑)

335犀角独歩:2003/01/17(金) 17:19

今里さんへの323、324の未回答の質問

(a)久遠元初とは何ですか。
> 釈尊の本因の時
【問】日蓮の言と言っているのです。

(b)自受用報身如来とは何ですか
>日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事
【問】日蓮の言と言っているのです。

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
>『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)
【問】ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。

(d)日蓮が本仏と何故言えますか
> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。
【問】日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。日蓮の言を聞いているのです。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
【問】なぜ、差し支えないのですか。
> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
【問】では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。
> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
【問】仏身とは何ですか。

(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。
【問】「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
> (f)の答えと同じです。
【問】「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。

(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
【問】日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。

(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
(独歩)これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。
【問】↑反論がないということは認めわけですか

> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。
これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。
【問】↑反論がないということは認めわけですか

(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか
> これに対する答えは(e)の答えと同じです。
答えになっていません。
【問】答えてください。

> 以上、お答えしました。
【問】私は日蓮の言で、と言ったのです。それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。

> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
【問】日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。

> 相伝
【問】日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。

336ガンコ(冬眠中):2003/01/17(金) 19:09

将棋には千日手というのがあるそうです。
お互いに同じ手ばかりを三回だか四回くりかえすと、これはもういつまで経っても終わらないとみなされ、はじめからやりなおすのだそうです。

議論なんかでも確認のために同じことを繰り返し問うたり答えたりすることはあるでしょうけど、それが三回も四回も続くとねえ・・・
しかもつぶやきすれっどなんですよ、ここは。

管理人さん、なんとかしてちょうだい。

337犀角独歩:2003/01/17(金) 21:09

問われても、答えない専門のガンコさんならではの、いい提案しますね(笑)

今里さん風日蓮本仏主義は、

・日蓮の遺文には全然よらない
・文章は要らない。道理があればいい
・道理の基準は自分が決める
・自分の考えは寛師より一歩進んだものだ

議論の仕方は

・簡単な罠を仕掛けて相手を引っかける
・自分が言ったことを相手のせいにする

という特徴によっていると私には見えます。

有師とも、寛師とも、福重師とも、もちろん、応師とも違い、さらには現石山教学とも違う、固有の自己主張であることはわかりました。これは石山とは無縁の考えですね。
これ以上、議論を続けても、まあ時間の無駄であることは確かと思います。

もちろん、ガンコさんが私に塩を送るわけはないでしょうが、この申し出には一理あります。

ほら、ガンコさん、こういうときは「大先輩」を呼んでこなくちゃ(笑)

338五月雨:2003/01/17(金) 21:26

ガンコさん

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ガンコさんは趣向をかえるそうですので、楽しみにしておりましたが、はや今日は十七日ですね。いつになったら趣向を変えたお話をお聞かせ下さるのかと、首を長くしてお待ちしておりました。ここに御出現とは思いませんでしたよ、「…カルトっぽいか」のスレッドに早くお出ましをお願いします。冬眠から早く目覚めて、顕正会のタメにもならないお話をまたお聞かせ下さい。

今里さんと独歩さんのお話し合いは、独歩さんの気の長いお付き合いに感心しておりましたが、独歩さんも今里さんが早くご自身の過ちに気付かれることを願っておられるのではないでしょうか。(間違っていたらゴメンなさい)
明日は今里さんも、独歩さんのご質問に正々堂々とお答えになられるでしょう。
もう一日待って差し上げたらいかがでしょうか、ガンコさん。

339今里祐二:2003/01/18(土) 03:59
独歩さんへ

>また、あなたは日蓮本仏を何一つ、証明することはできなかった。

仰るとおり、証明することは出来ていません。相伝書の類を「真偽未決」と否定されたら誰も出来ません。
「信解」出来るか、出来ないかという所でしょうね。

>「簡単な罠」に引っかかけようと、まだやっているんですか。

これは独歩さんがいつも使っている手口を真似してみただけです。「証拠を出せ、証拠を!」というやり方です。
結局、独歩さんも出せませんでしたね(^^)

ガンコさんから「千日手」というご指摘もありますし、まぁ、この辺で終わりにしましょう。

340問答迷人:2003/01/18(土) 08:29

今里さん

横レス失礼しますね。

>結局、独歩さんも出せませんでしたね(^^)

それは違うと思いますよ。今の議論は、今里さんが「日蓮本仏」を主張されたことから始まっています。だから、釈迦が仏である事の証明は、この議論には直接の関係はないし、その上、独歩さんは釈迦が仏であると主張しているわけではありませんから、元々、独歩さんには、根拠を出す義務なんか無いですよ。

あたかも、独歩さんにも、根拠を示す責任があるようにこじつけて、ご自分が日蓮本仏の根拠を示せなかったことをチャラにしようとしても、単に、往生際が悪いだけだと思います。しかも、「ガンコさんから「千日手」というご指摘もありますし、まぁ、この辺で終わりにしましょう。」等と、逃げを打つのは、いかにも不誠実で卑怯だと思います。お会いした今里さんの御印象からは想像出来ませんでした。残念です。

341みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:00
>今里さん
 これは千日手とはちょっと違いますね。独歩さんが囲碁のルールで戦っているのに、今里さんが連珠(五目並べ)のルールで戦っている、そういう議論でした。ようするに、議論になっていないのです。

 そして、投了を宣言しないかぎり、試合が終わらないのです。囲碁の試合は、双方が「もう良いですよね」と終局に同意するか、片方が「負けました」と言って投了しない限り終わりません。どんなに傍目から見て勝ち負けの形成が明かであってもです。まして、囲碁対連珠の試合なのですから、「負けました」と投了しない限り、決して負けませんよね。

 わたしがいくつか、今里さんに質問しましたが、あれは、今里さんが、どの程度、仏、成仏、本仏について理解しているか、具体的なイメージを持っているかを確かめるためです。私の感想は、今里さんは、なんら具体的なイメージを持っていないと言うことです。今里さんのお答えは、すべて断片的で、ひとことでした。また「判りません」という答えもいくつかありました。

 本当にものごとが分かっているのなら、そのものごとについて饒舌に語らざるを得ないのです。それが仏教というものの持つ宿命です。なぜなら、仏教が指し示していることがらは、言葉では語り尽くせないからです。決して伝えられないからです。しかしもしある人が仏教についてなにか分かっているなら、言葉を尽くして、条理を尽くして相手に伝えようとするのです。それ故、饒舌に成らざるを得ません。しかし饒舌に仏教について語る人は、それが決して相手に伝わらないことを知っています。それは仏教とは、同じ気づきを気づいたもの同士、同じ境涯の者同士にしか分からないことだからです。言語は、必ず誤解されます。それでも語らなければならないというあきらめと絶望の上に語られる言葉、それが仏教の言葉です。

 禅門が、「不立文字」といいながら、あれだけ膨大な禅籍を残しているのは、そういう事情からです。彼らは言語に絶望していたが、それでも言語以外のメディアを持たなかったのです。

 日蓮だってそうでしょう。本尊抄を富木常忍をはじめとする門下が本当の意味で理解するとおもって発語していたとは思えません。なぜなら、本尊抄は日蓮の覚りそのものの表明だからです。それでも何万分の一の可能性を信じて発語する、それが仏教の言葉の持つ性格です。

 「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。すくなくともあのHPのタイトルは変えた方が良い方と思います。今里さんには、あの呼びかけに責任はもてないでしょう?(あとトップページに「成仏しようぜ!」という文字列が入っていないので、googleでトップページがヒットしません。TITLEタグとALTタグを使って、ソースに「成仏しようぜ!」という文字列を入れたほうが良いと思いますが)

342みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
 とりわけ、321の今里さんの発言、
> 「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
これは何が言いたいのですか? すいませんが説明してくださると大変助かります。誰かが考えてくれるのですか? あなたは法華講から籍がなくなったと聞いています。あなたを指導してくれる、指導教師なんてもはやいないのでしょう? あなたは一人で考えるしかないんですよ。

 今里さんは、即身成仏ということが分からないのだと思います。そして即身成仏と言うことが、この身の上に起こりうると、考えられていないのでしょう? ちがいますか。

 一般論ですが、これは、日蓮正宗(含む、創価学会、顕正会)の人全般に言えることです。即身成仏といいながら、彼らはこの人生に於いて、この身で成仏するとは本気では思っていません。それが端的に表れているのは、「仏界の生命が湧現する」という言い方です。あれは、自分は成仏していないが、ときどきは仏界の生命が出ていることもあるのだと言い訳する機能を果たしています。そして、即身成仏が、ほんとうに今世・現信に開覚することであるというあたりまえのことを隠蔽する機能を果たしています。

 さらに一般論ですが、これは現在の日本仏教の他宗派でも同じです。開悟が現身に可能であるとは、彼らは本気では思っていません。たとえば、現在の曹洞宗では悟りについて語ることはタブーであるそうです。もしそうであるなら、それはあそこまで悟りをとりつめて考えた道元に対する裏切り行為です。

 今里さんは、仏教についての基礎教養がないと思います。こまごまとした指摘はとりあえずしませんが。

 先日紹介した三冊の本は、ぜひ読んで欲しいです。あの程度の基礎教養もなしに、仏教一般や日蓮一般について語るのは、おかしな事です。あれで十分ではありませんが、最低限度です。あの三冊は新書や文庫です。安いですし、大学生や高校生レベルで読める内容の本ですので、ぜひ読んでください。

 それと、今里さんがどの程度、日蓮遺文や六巻抄や文段に親しんでいるのか知りませんが、すくなくとも真跡現存と曽存の日蓮遺文は繰り返し読んでください。そして、「日寛教学全面肯定」と言うのであれば、日寛教学を理解していないとおかしいでしょう。そのためには六巻抄や文段も繰り返し読む必要があります。

343みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
 そしてそれらを理解するためには、天台法華宗と日蓮法華宗の教理を理解する必要があります。そのために何を読んだらいいかは、今日はご紹介しません。もし必要になったら言ってください。いくらでも文献をご紹介しますから。

 デカルトを読まずにフッサールを理解することができないように、またフッサールを読まずにハイデガーを理解することができないように、日蓮を理解するためには日蓮が読んだ文献、日蓮の思想形成の礎となった文献はできるだけ読まないと理解できないのです。また日寛もそうです。彼らは、他宗を含む広汎な仏教に関する教養があるのです。当時の学僧ならどの宗派に所属していても、当然読んでいる文献というのがあったのです。そういう教養を共有することを抜きにして、彼らの文献だけ読んでも、彼らが何を言っているのか分かるはずがないのです。前提となる教養が欠けているのですから。

284
> みかんさんの >>127 に賛同したのは、僕自身にそのような『信』の自覚があるからです。

 よくわかりません。その自覚の根拠はなんですか。わたしは127で「「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。 」と言いました。それに対し、今里さんは259で「開目抄や本尊抄をよく理解できる、などという大それたことを言ったわけではありませんです」と言ったのにもかかわらず、284で「僕自身にそのような『信』の自覚がある」とおっしゃる理由が分かりません。260で私は「智慧の眼の一分が開いていたら、開目抄なり本尊抄が理解できるというのは、日蓮が菩薩であり智慧の眼の一分を開いているからです。唯仏与仏であるから、お互いにわかるのです。わからないなら、智慧の眼の一分が開いていません」と申し上げました。今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。

 あともう一つ繰り返しますが、だれかが仏であるかどうかを判断できるのは仏だけです。それは他人の境涯は、同じ境涯か上の境涯の人にしか分からないという、仏教の基本的な原理があるからです。だから、われわれ凡夫には、日蓮や釈迦が仏であったかどうかは、原理的には判断できません。

 また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。

 今里さんが今なさるべき事は、自分が何が分かっていないかを了解することです。何が分かっていないかを了解すれば、何を学べばいいか分かるからです。とにかく、最低、先日紹介した三冊を読んでください。すべてはそれからです。

344菱村正敏:2003/01/18(土) 09:05
 釈迦を仏とたてるのは、仏教のお約束だからそもそも証拠をだして証明す
る云々というお話、この際はなじまないかなと思います。まぁ宗派によって
は他仏を本尊としてあがめ優劣関係はあるのでしょうが、さりとて釈迦を仏
とする思考は捨てられていないと存じます。

「江戸のカタキを長崎で」という次元ならば、今里氏の反論も益なしとは
言えませんがね。ちょいとズレてるかもしれません。ただ、日蓮本仏云々は
当時の日蓮の脳裏に何度かよぎったかもしれない。それも夢のある話です。

 また、信仰は個人の自由ですし、霊感商法まがいの勧誘でなければ、
わたしは掲示板などで無責任ととられかねない発言を書き込んでも「可」だ
と思います。ここにおられる脱会者?の方々、つまり日蓮本仏などを吹聴して
第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任を
とったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

 つぶやきでした。

345五月雨:2003/01/18(土) 10:00

> また、信仰は個人の自由ですし、霊感商法まがいの勧誘でなければ、
わたしは掲示板などで無責任ととられかねない発言を書き込んでも「可」だ
と思います。

自分の言葉に責任などいらへんと言うてんのかなぁ、このお方。

>ここにおられる脱会者?の方々、つまり日蓮本仏などを吹聴して
第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任を
とったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

なのに、脱会者は勧誘した責任をどう取ったかなんて、上の言葉と矛盾してるんと違うの。

脱会者は責任を感じているから、自分の言葉には責任を持って書き込んでいるのに、ホンマになに言うてんねん、と思うわ。アキレルわ。

関西弁でつぶやいてみました。

346五月雨:2003/01/18(土) 10:41

今里さん

問答迷人さんが仰ったように、私も今里さんの態度は不誠実だと思います。
オフ会で「証明出来ないからといって正しくないとは限らない」と今里さんはお話されていましたが、「証明出来ないものは正しくない」のではないですか。
ここの掲示板は、正しさを証明するのが目的のひとつだと思います。証明出来ないのが分かっていながら、議論を始められた今里さんの本当の目的はなんだったのでしょう。

吉本新喜劇で、コテンパンにやられた人がむっくり起き上がって「今日はこれくらいにしとってやるわ」と言うのと、今の今里さんは同じ状態です。
きっとロムされている方全員がズッコケたでしょう。

独歩さんとの議論?は終了されたようですから、質問をさせて頂きます。
今里さんはご自分の主張されることに、何の責任も感じないのは何故ですか。今里さんのサイト「成仏しようぜ!」に書いた事柄を読んだ人が真に受けて、死ぬ時に成仏しなかったら今里さんに責任はないのでしょうか。
今までの今里さんのレスを読んでいたら、今里さんの『無責任』さばかりしか感じられませんでした。
今里さんにとってのご本仏日蓮大聖人様も、今里さんの心得違いを悲しんでおられることだと思います。

344の菱村さんが(初めましてですね、ご挨拶が遅れました)書いておられるように、

>つまり日蓮本仏などを吹聴して第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任をとったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

このご指摘の責任を感じなくてはいけないと思うのですが。いかがですか。

347菱村正敏:2003/01/18(土) 11:59
五月雨さん。どこの誰だか存じませんが・・・。

> 自分の言葉に責任などいらへんと言うてんのかなぁ、このお方。

 ちょいと意味が通じてませんでしたか。わたしが申し上げたいのは
相手に対して「無責任」と求める姿勢は結構ですが、いわば脱会された
ご自身たちは当時折伏をとおして第三者に対していくらかの「無責任」な
行為をされたんじゃありません?平たく言えば日蓮本仏なる言を基本に
して宗教勧誘されたんでしょ?今と過去とは違うと言われるかもしれま
せんがね。過去の「無責任」な言動をもちいた宗教勧誘を自らの目が
開いたからといって過去の問題を案外とさらりと流してませんか?それとも
折伏した人たちに対して「俺は無責任なことをした」などとと謝罪して
まわったとでも?

349犀角独歩:2003/01/18(土) 12:20

既に問答名人さんが総括をされたので、私は敢えて、この既述については屋上屋を重ねることはしないことにします。

みかんさんが記されたことは、特定個人における批判などという狭隘さとは格段の階梯をなすのであって、日蓮仏教を、否、通じて仏教を志す人々の道標とたり得る重要なものであると思います。

私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」からです。ハッサン氏は以下のように言っています。

「カルトのいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできない』教義である。それは非常に複雑なため、解くのに何年もの努力が必要だということになっている…
教義は受け入れるべきものであって理解すべきものではない(という)。それゆえ、教義は、漠然としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければいけない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる」

また、さらに言えば証明できない“確信”とは如何なるものであるのかという問題もあるでしょう。よく上げますが、ヤスパースの妄想の定義 (1)間違った考え (2)強い確信 (3)訂正不能 という指標に就き、その考えが間違ったものであるかどうかを判定するのは証明にかかっています。

証明を重要視する必要性はここにあります。罠を仕掛けた本人が言う、証明を迫ることが罠であるなどと言う類とは次元を異にしています。

また、日蓮に限定してみれば、日蓮もまた、それまでの系譜に従い、この文献的に証明に非常に熱心な人でした。その点はまた寛師もそうであったでしょう。ただし後者は、その教義体系の基礎に相伝・口伝を採り入れた点で、日蓮とは趣を変えていると私は思っています。しかし、たぶん、寛師には現代における祖書学その他の科学的な手法とは無縁であったろうし、そもそも精師の説法を聞いてこの道に入ったという人物でもあり、さらに天台檀林能化という地位からも相伝の文献的成否を問う位置にはいなかったのでしょう。さして、彼ができたことは中古天台・恵心流口伝を批判し、けれど、そのモチーフに則って新たな体系を虚構することであったのでしょう。

350犀角独歩:2003/01/18(土) 12:38

> 344 菱村正敏さん:

私、五月雨さんが示した違和感、ちょっとわかる気がするんですね。
これは批判などということではないのですが、要するに「皆さまは折伏された方たちにどのような責任をとった」という問いかけを読んで直ちに思うのは、「だったら、菱村さんはどうなの?」という疑問が生じるからです。まあ、菱村さんご自身に転教体験がなければ、該当しないのかも知れませんが、その辺の事情が見えないので、自分のことだけを棚上げにして語っていないかという疑問が生じるわけです。

以前、実は問答名人さんご自身が、この点については書かれています。

―― 今まで多くの方に、間違った事を伝えてしまった、その罪滅ぼしのためにも、益々、聖人の祖意を明らかにすべく、懸命に努力して参りますので、今後ともよろしくお願い申し上げます ――

むしろ、この掲示板を管理される理由も、このお気持ちにあると拝察しております。
そして、この言葉を受けて私も記しました。

―― 私もかつて問答名人さまのように、折伏をした相手に謝って歩いたものです。その中で3歳からの幼馴染がいるのです。親が牧師さんであったことから、徹底した論争をしていました。私は勢い込んで、「もし、日蓮正宗・創価学会が間違っていたら、俺の命をやる」とまで言ったのです。その友人に、脱会したとき、私は頭を下げに行きました。彼は「お前、間違っていたら、命をくれるといったよな」私は黙って頷きました。「本当だったら、さあ、ここで死んでもらおう……と言いたいことだけれど、これからの人生、命をくれてやるから、自分の罪滅ぼしに使ってくれ。まあ、キリスト教が正しいってきまったわけじゃないしな」と、そう言ってくれたのです。
考えてみれば、本気で仏教を考え直そうと思ったのは、この時からでした。――

さらに、一つの紹介もしました。

―― オウム真理教であったという私の友人は、300人もオウムに入れました。脱会後、その300件の家族を訪問し、脱会を進め、謝罪して歩いたといいます。もちろん、すべての脱会に成功はしませんでした。家族や本人から罵倒され、蔑まれ、恨み言を投げつけられながら、それでも彼は自己責任を果たし続けたのです。
私は彼に心から敬意を表しています ――

私の折伏は40年の長きに亘りましたので、この尊敬する友人のように、その全員に歩き回ること自体、物理的に不可能な状態にあります。ですから、かつての知人に会うとき、私はまず、脱会の事実を告げ、謝罪し、許しを請うてから、新たな人間関係を構築するように努めてきました。もちろん、それで贖罪になったということではありません。

いずれにしても、以上のように、既に自己責任に基づく既述がなされておりますので、菱村さんのご発言は、それを知る五月雨さんに、むしろ、私にとっても違和感を以て受け止められた次第があるのであろうと思います。

351犀角独歩:2003/01/18(土) 12:43

私は今回のやり取りのなかでもっとも心に響いた既述は、実はアネモネさんが292に記したことでした。

「今里さんの説明如何によっては、私だって再び本仏論を信じることだってあるかもしれません」

この真摯な叫びに、誠実、正々堂々と応えるべきであったのではないのかという点が、いちばん惜しまれます。

352今里祐二:2003/01/18(土) 12:59
みかんさんへ

>「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。

お釈迦様のような仏に成りたい……、ではダメですか?

>> 「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
これは何が言いたいのですか? すいませんが説明してくださると大変助かります。誰かが考えてくれるのですか? あなたは法華講から籍がなくなったと聞いています。あなたを指導してくれる、指導教師なんてもはやいないのでしょう? あなたは一人で考えるしかないんですよ。

僕が生きている間に、僕自身がお釈迦様のような立場になることは有り得ない、ということです。

>今里さんは、仏教についての基礎教養がないと思います。こまごまとした指摘はとりあえずしませんが。

知識量が少ない事は何度も認めていますので、あんまり突っ込まないで下さい(^^)
ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。
僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

>今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。

そうです。
「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です。

また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。

これは「お互い様」という気がしますが(^^)

353みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 14:37
>>352 今里さん

> これは「お互い様」という気がしますが(^^)


>>301 を参照。
301 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2003/01/14(火) 23:23

>今里さん こんばんは
大変ですね。
あのですね、すぐに返事を付けるようですが、おそらく、今里さんは他の発言者がどういう意味を込めて言葉を使っているかよく分からずに、返事をしているように見えます。
それはなぜかというと、元信仰者には信仰者がどういう気持ちであるかはよく分かります。しかし、信仰者には、無信仰者や元信仰者がどういう気持ちであり、どういう意図で言語を使用しているかがさっぱり分からないからです。
なぜならば、元信仰者には信仰者の使用する言語のルールが分かるが、信仰者には元信仰者の使用する言語のルールが分からないからです。
という訳なので、相手がどういう意図で言語を使用しているか自分なりに了解がつくまで、時間をかけて返事をする癖を付けた方が良いです。
(後略)




> 「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です

そんなことは、盲信の人でも思います。なぜ絶対の確信だと言えますか。わたしだってかつてはそう思っていましたよ。

http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&amp;KEY=1029381997&amp;START=639&amp;END=639&amp;NOFIRST=TRUE
639 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2003/01/13(月) 01:12

 具体的に説明します。

 我(アートマン)という概念自体が日本にはないので、わかりにくいのです。我とは、あるものがあるものであることの確実な根拠あり固定的な性質です。それが確実にあり、しかも過去から未来まで永遠にあるというのが、我の思想です。
(略)
 もう一つ例を出します。日顕書写の本尊は破門前は創価学会員にも、尊いものに見えた。ところが、破門後は忌み嫌われるようになり、尊いものに見えない。。
 逆に、日寛書写の本尊は、創価学会員には尊いものに見える。ところが、法華講の人にはコピー本尊として尊いものに見えない。
 ところが、信仰心のない人には、ただの掛け軸に見えるでしょう。
 さらに、シロアリやシミにとっては餌でしかないかもしれません。
 そのように、見る立場、見る視点、見る時期によって、同じものがまったく違うように見える。本尊それ自体には、尊いという実体はない。それが無我(アナートマン)ということです。

354今里祐二:2003/01/18(土) 15:26
問答名人さんへ

僕が言いたかったのは
「お釈迦様を供養する功徳よりも大聖人様を供養する功徳の方が百千万億倍大きいのだから「日蓮本仏」でいいじゃん、あんまり細かいこと気にすんなよ」ということです。ども、お騒がせしました。

五月雨さんへ

>証明出来ないのが分かっていながら、議論を始められた今里さんの本当の目的はなんだったのでしょう。
>吉本新喜劇で、コテンパンにやられた人がむっくり起き上がって「今日はこれくらいにしとってやるわ」と言うのと、今の今里さんは同じ状態です。

「大聖人様を御本仏と信じるのは当たり前」と思っている人としか議論したことがなかったので、ここでは随分ズッコケてしまったみたいですね。ウケてもらえただけで満足です(^^)

アネモネさんへ

>そもそも罵倒されようと、中傷すれようと、誹謗されようと、自分が絶対的信を傾ける「日蓮本仏論」を徹底的に展開していくのが、今里さんが本仏と崇める日蓮のやり方ではないでしょうか。

大聖人様は果位の立場にある仏様ですが、お釈迦様を絶対に信じるという因位の立場を表にして法を説かれました。ですから鎌倉時代の文献的な証拠をいくら集めても「日蓮本仏論」など出てこないのだと思っています。

オフ会の時も「思考停止」という言葉が出ていましたが、僕は「釈尊が何故仏と言えるのか?」という所まで疑問を持って考えていました。「釈尊だって俺と同じ人間だし、子供も作ってるし…」って。
「釈尊は何を悟ったんだろう?」ってずーっと考えてて、ある日気付いたんです。
「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
時系列的に逆転しているところがスゴイんですが(笑)。まぁ、らせんの様なイメージで理解しました。

そう考えたら、もう、何もかもが納得出来るようになりました。
法華経には内容などほとんどなくて褒め言葉ばかりしか書かれてない事、釈尊が器物崇拝を禁じた事、一念三千の事……。

御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。

そういう僕自身の宗教体験を元に、HPを作ったり掲示板に出てきたりしています。
教義の細かい所など、僕にとってはもうどうでもいいことですが、他人を説得する時は中々そういうわけにはいきませんね。

それでは。

355アネモネ:2003/01/18(土) 15:33
菱村正敏さん

恐らく、今回の今里さんへ対するレスにおいて、私アネモネが一番「責任」という言葉を投げかけたと思っております。また過去のレスにおいても、「責任」という言葉を多く書いてきたと自覚しておりますので、その立場から少し書き込みたいと思います。

>相手に対して「無責任」と求める姿勢は結構ですが、いわば脱会されたご自身たちは当時折伏をとおして第三者に対していくらかの「無責任」な行為をされたんじゃありません?

その通りでしょう。その過去の行為をもっとも痛感し苦しみ、そして自分の振る舞いが果たして本当に正しいと言い切れる行為だったのかどうかを、厳しく自己に問いかけ追及した結果、組織を離れているものだと思います。少なくとも、私に関してはそうです。自分の無責任な言動を棚上げしているのではありません、自分の言葉に責任をもつべきだ主張するのは、他人事として書いているのではないのです。過去の自らの行為を悔悟した結果の主張なのです。
今里さんへのレスにも書きましたが、信仰を語ることにおいて、掲示板のレスだろうが個人のサイトだろうが、多くの人の目に触れる公の場ですから、このことは、軽く考えないでほしいのです。繰り返しになりますが、宗教を語るということは、場合によっては読む人の人生を変えてしまうことが往々にしてあるからです。このことは、重く考えなければならないということを、理解して頂きたいです。

仮に、掲示板だから、無責任な発言も「可」と許されるとしても、最低限、責任の持てない自分の憶測や思い込みであることを言い回しにおいて慎重にあってほしいのです。科学的分析で証明できないことを、最もらしく断定して記述することが、どれだけ人を惑わすものなのかという問題認識、大切ではないでしょうか。
しかし、このことは、今里さんだけが責められることではないのです。組織を上げて煽動してきた宗教教団の持つ体質なわけです。それがこの掲示板の意図する、問題提議でもあったわけです。

356アネモネ:2003/01/18(土) 15:34
(つづき)

>平たく言えば日蓮本仏なる言を基本にして宗教勧誘されたんでしょ?今と過去とは違うと言われるかもしれませんがね。過去の「無責任」な言動をもちいた宗教勧誘を自らの目が開いたからといって過去の問題を案外とさらりと流してませんか?それとも折伏した人たちに対して「俺は無責任なことをした」などとと謝罪してまわったとでも?

謝罪をして回ることはひとつの方法でしょう。しかし、謝罪をしてまわっても、過去の無責任な発言が撤回され責任がとれるというものではないでしょう。大袈裟でもなんでもなく、人の人生を変えてしまっていることだってあるわけですから、ここで組織を離れる決断をした人の内心としては、取り返しのつかないことをしてきたと苦しい思いを抱えているのです。そのくらい、自己を追求しているわけです。自分に対して厳しさを課しているというわけです。それが同時に社会への責任にも通じるものでもあるわけです。

いったん発した過去の言葉の完全な責任をとることは、残念ながら出来ません。だから、言葉には慎重ですし、このことにまさに気づいたところで、今できることは何かといえば、たとえ掲示板の投稿といえども、自分の言葉に責任をもっていく姿勢を崩さないということが先行されるわけです。
それが、宗教を語るものの姿勢として求められること。当然のことではないでしょうか。
あまりにもそのことに対して、みんなが無神経であったということに気づいてほしいものです。

そのような観点から今回の議論において、自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、宗教に対する誠実さははっきり目に見えていたと私は思います。
多くのカルト性の強い教団は、世の中を救うと称しながら、実は証明できないことを最もらしい言葉で信じ込ませ、世の中の人々を惑わしているのが現状なのではないでしょうか。
証明できないことにも真理はあるという。しかし、単純に真理でない確立のほうが遥かに高いはずです。にも関わらず、そちらに対する意識はまるで抜けおちているわけです。
さらにそこには、証明できないけれども、信じる者は救われ、信じない者は地獄行きと、二極論で強迫し脅していくのが常套手段なわけです。
今里さんは、そういう手法のカルト性や危険性に無神経なわけですね。なぜ無神経でいられるのかというと、自分が無責任であることに甘んじているからではないでしょうか。人々を救うはずの宗教が、実は救いを求める人々を惑わし不幸に導いている現実的側面があることに目が向いていない。現証というなら、そのことこそ現証ではないかと言いたいくらいです。
しかも、宗教が原因で不幸になった人に対してすら、信心が足りないからとか、過去世の業だとか、またまた証明できないことでもってさらに苦しめているのも事実です。全て言葉に対して無責任だから、発せられる無神経な言葉なのです。

みかんさんが、痛快なレスをなさっていました。まさに宗教を語る者は、文献に対する研鑚と自己への追及、そして社会への洞察を怠ってはならないと思います。そんなこともせず、それどころかそのような自分の姿勢に開き直るばかりか、真摯な姿勢で臨んでいる人を簡単に見下しながら、自分の言動には責任を全く回避するような人の言葉こそ、私は信用できないと判断し、そしてそのような人の言葉こそ世間を惑わすものではないかと公然と批判します。

357アネモネ:2003/01/18(土) 15:43
今里さん

>ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

その結論が正しいか否かの議論をしているわけです。そのことをみんなが指摘しているのに、なぜその意味が理解できないのでしょう。
それが正しいことのように断定して話す以上は、証明しなければならない立場に立つということです。それが出来ないことがわかった以上は、言葉の表現に慎重にならなければならないわけです。そういう責任を感じるようになることも、仏教徒の振る舞いとして求められることではないでしょうか。今里さんには、そういう姿勢が微塵も感じられないのです。
このような指摘や忠告は、うるさいだけなのかもしれませんね。
しかし、今里さんの語る言葉は、どれもこれも信用できないというのが私感想です。

>「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です。

井の中の蛙大海を知らずとは、まさに今里さんのことだと思います。
開き直っておられるようですが、決して誉められたことではないでしょう。しかも浅学だったことを自ら認めながら、なんら自己批判を持たない。それどころか、教義研鑚に対して真摯な姿勢の人に対して、見下す姿勢さえ改めないわけです。それが成仏を目差すという今里さんの振る舞いなわけです。

>僕が生きている間に、僕自身がお釈迦様のような立場になることは有り得ない、ということです。

とのことですが、「成仏しようぜ!」と呼びかけることこそ、釈迦のような立場で人々を煽動する言葉ではないでしょうか。今里さんのことの言葉を問題にする人は、皆そのことを指摘しているのだといえます。なのに、なぜその指摘をどこまでも交わし続けることができるのか、私にはわかりません。本当に今里さんは、成仏を目差しているのでしょうか。心の底から目差しているならば、この指摘に対して真剣に自己を追求するものではないかと思います。

>また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。
これは「お互い様」という気がしますが(^^)

立証できない結論を今里さんは理屈抜きで信じている。その心情をわかってもらえないことを、「理解されない」ととっているのかもしれませんが、そうではないと思います。今里さんの信じたい気持ちはわかるのです。なぜならば、みんな過去は信じていたからです。しかし、そういう議論ではないということを今里さんは理解していないのです。そういう「思い」は、どうしたって議論にはならないのです。議論になっていないことすら気がついていないようですが。今里さんの本仏論は、「鰯の頭」だったというところでしょうか。

>「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。…御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。

そういうのを、鰯の頭というのだと思います。自己の探求、追及、そして自己批判にまったく欠けているものだと思います。今里さんの個人的信仰観とみなされるものだということです。そのことをもって、これが真理なんだわかってくれということの危うさにも目を向けてください。
単に、自分の都合のいいように解釈して自己陶酔しているだけだと感じます。そういうのは「信」でもなければ、覚りでもないでしょう。自己への厳しさを捨てた、ただの盲信だと感じます。
私は。そのような宗教観からは、卒業したつもりでいます。

359エド:2003/01/18(土) 16:53
はじめまして。
とても興味深く拝見させていただいております。
一寸ご教示願いたく、質問させて頂きます。

独歩様。
>私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」
>からです。ハッサン氏は以下のように言っています。(略)

では、証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなものがありましょうか?

360みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 23:26
>>354 今里さん

> 「釈尊は何を悟ったんだろう?」ってずーっと考えてて、ある日気付いたんです。
> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
> 時系列的に逆転しているところがスゴイんですが(笑)。まぁ、らせんの様なイメージで理解しました。

「釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」という時の、「御本尊様」って何ですか?

361今里祐二:2003/01/18(土) 23:49
アネモネさんへ

>>ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

>その結論が正しいか否かの議論をしているわけです。

僕は正しいと信じています。
まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。

「責任」について色々言われていますが、アネモネさんは御本尊様を否定している事がどういう事か解っていないようです。
これまで、そして現在も多くの人達が「御本尊様を信じていれば成仏できる」と信じています。
それを否定するのであれば「対案」を出すべきです。

たとえば「鰯の頭を信じれば成仏できる」「大黒様を拝めば成仏できる」「マニアにしか解らんような教学話をゴチャゴチャやってれば成仏できる」等々です。
否定するだけで「対案」を示さないのは無責任な態度ではないですか?

>自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、

独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません。
自らリスクを負って「こうすれば成仏できる」と言わない限り、無責任なのは独歩さんの方です。

>>359 エドさん

ナイスです♪

362今里祐二:2003/01/18(土) 23:50
みかんさんへ

>「釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」という時の、「御本尊様」って何ですか?

みかんさんが「不一不異」という事を理解されているという前提で答えます。

大聖人様が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様です。

363無徳:2003/01/18(土) 23:56
Satさん今晩は:

>「歴史的総括」を為さないならば再構築を目指す人々の手によって
>明らかにしていくしかありませんね。正本堂問題のみならず・・だ
>と思います。

その通りですね。創価学会に限らず顕正会も法華講も更には正信会も
その組織を構成する人々が、我こそ正しく他が間違っていると言った
正当意識を払拭し、それぞれが富士門流の再構築という視点で日蓮仏
法の原点に帰るべきでしょうね。

その為にも、我々がそれぞれの組織の指導者達が紡ぎ出す共同幻想と
も言うべき迷妄を打ち砕く事が何より先決と思います。兎にも角にも
それぞれの組織の指導者たちがお山の大将意識ではお話になりません。

その意味でもリゾーム的な現代的サンガの形成がなにより要請される
と思います。ネットに集う一人一人が中心であり尚且つ周辺を担う事
が何より大切な変革の起爆剤となり得ることでしょう。

satさんのご活躍を心より期待いたします。今後ともお互により良き情報を
交換してまいりましょう。

364さかなこ:2003/01/19(日) 01:37
みかんさん>

日蓮さんの御書をよりよく理解するための前提としてこれだけは
覚えておかないとだめーな基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて
安い本があったら教えてくださいm(__)m

がっかーいんさんに御書難しい。。というとみんな読みやすいといふ。。
日蓮さんは後世のことを考えて現代人にも読みやすく書いてくれたといふ。。
読みにくいとおもうているのはあたしだけなのだらうか。。。

365みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/19(日) 12:16
>>364 さかなこさん
> がっかーいんさんに御書難しい。。というとみんな読みやすいといふ。。
論文は読みにくいです。手紙は比較的読みやすいと思います。論文も空海や親鸞や道元に較べれば読みやすいとは思います。

> 日蓮さんは後世のことを考えて現代人にも読みやすく書いてくれたといふ。。
それはでたらめです。

> 基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて安い本

そういう概説書みたいなのはちょっと心当たりがないです。それに習うより慣れろだと思うし。
日蓮の遺文を読む場合、現代語訳か注釈のついたもので読みはじめるのがよいです。堀日亨編の御書全集(いわゆる創価学会版の御書)をいきなり読もうとしても、挫折します。あるいは誤読します。それに堀日亨の御書全集は句読点が極端に少ないし、字も小さいし、配列も独特なので、使いにくいです。(もちろん現代語訳や注釈が間違っていることもありますけどね)創価学会版の御書講義の本は、日蓮正宗独特の文底読みを採用していて、日蓮の原意を損なっているのでお薦めしません。

増谷文雄『日蓮 書簡を通してみる人と思想』(筑摩叢書78 筑摩書房 品切れ)

『日蓮文集』(岩波文庫、書き下しおよび古文 注釈付き 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400333051X/

『中公クラシックス 日蓮』(中央公論新社 現代語訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121600150/


辞典は創価学会版の『日蓮大聖人御書辞典』(絶版)が、一番良いと思います。サイズが小さい割に、項目が多いし、しかも出典も明記されているからです。ただ、これも日蓮正宗教学や創価学会教学独特の解説をしている箇所がありますが、それさえ気を付ければ、役に立つ辞典です。


あと日蓮の概説書はいっぱりありますが、次の二冊が良いかも。
佐藤・小島・小林『日蓮大聖人の生涯と思想』(第三文明社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476061265/

末木文美士『日蓮入門―現世を撃つ思想』(ちくま新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480058559/


あと、大石寺門流と他門流一般で、読み方が違う重要箇所があります。それも気を付けた方が良いです。

「開目抄」(真跡焼失)
一般「したし父母」
大石寺「しうし父母(主・師・父母)」

「本尊抄」
原漢文「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
一般「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの国に立つべし。」
大石寺「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」

どちらが正しいかは解釈に依ります。私の考えでは、「開目抄」は「したし父母」が読みとして自然だと思います。「本尊抄」は「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」が漢文訓読上、自然だと思います。

366山の王:2003/01/19(日) 12:28
また、話がずれていますね。
日蓮が本物であるかを文献的に証明できなければ、普遍性がないという話をしていたんじゃないの。

成仏でいる対案がなければ無責任というのは一見すると筋が通っていると思えるけれど、けれど、今里の言っていることが成仏できることが証明できないんだから、まるで反論になっていないんじゃないの。

367山の王:2003/01/19(日) 12:53
それにまた、ぜんぜん、質問に答えない上、自分で「この辺で終わりにしましょう」と言っておきながら、まだ独歩さんの悪口を書き連ねている。
別に独歩さんの味方しようと思わない。しかし、ひどいね。端で見ていて気分悪い。
366の「今里」は、さん忘れ。

368山の王:2003/01/19(日) 13:10
だいたい、なんで日蓮さんが本仏のわけ?
日蓮さんはお釈迦さんに帰命しているからこそ、自分の書いた御本尊に「南無釈迦牟尼仏」って書いているわけでしょう。
それで釈迦=日蓮だというのが日寛さんの言葉にあったって、それは日寛さんの言葉でしょう。
あと、本仏ってなんなの。
それで成仏できるって言われても、ぜんぜんわかんないよね。

369アネモネ:2003/01/19(日) 14:09
今里さん

>「御本尊様を信じていれば成仏できる」と信じています。

それは今里さんの内心の自由ですから、よろしいのではないでしょうか。そのことについては、私はなんら立ち入っているつもりはないです。ただし「成仏しようぜ!」と誘いかけている以上、個人的信仰の領域を超えていることなので、誘いかける言葉に責任を持ってほしいと意見させて頂きました。信じているの一点張りでは、なんら責任を持っていないのです。正しさを証明しなければならないのです。そのことが文献から立証できないのなら、自ら実際に成仏してから世間に誘いかけて頂きたいものです。その場合には、成仏とはどのようになることなのかまで、人々に語り連ねるところまで説明が出来なければならないのです。お釈迦様のような仏様では、説明になっていません。


>アネモネさんは御本尊様を否定している事がどういう事か解っていないようです。

私がいつ否定したのでしょうか。曲解されては困りますが、私は一度たりとも御本尊様を否定などした覚えはありません。今里さんの信心が、鰯の頭的信心だと感想を述べたまでです。それを「御本尊を否定した」などと曲解してレッテルを貼られては迷惑です。

だいたい御本尊とは何なのでしょうか


>それを否定するのであれば「対案」を出すべきです。

何の対案でしょう。私は御本尊様を否定した覚えはありませんので、対案の出しようがありません。

>否定するだけで「対案」を示さないのは無責任な態度ではないですか?

繰り返しますが、否定などしていないのですから、対案を出すことなど要求される覚えはありませんし、無責任呼ばわりされる筋合いもありません。

>独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません。
自らリスクを負って「こうすれば成仏できる」と言わない限り、無責任なのは独歩さんの方です。

今里さんは、私がいうところの責任における認識が全然わかっていないようです。私が何度も言っていることは、自分が発する言葉、つまり今里さん自身が発言している言葉に責任を持ってほしいと言っているのです。今里さんはご自分が信じている、「御本尊様を信じていれば成仏できる」ということで「成仏しようぜ!」と世間に誘いかけているわけです。この「御本尊様を信じていれば成仏できる」ということに対してどのような責任を今里さんが持つのかです。その責任の持ちようこそ、証明しかないのではないでしょうか。信じているだけでは、証明になっていないわけで、今里さんの「成仏しようぜ!」はどうしたって無責任な誘いであることは免れないということ、理解できませんか?

そもそも、成仏の方法を「案」として提示すべきなどという今里さんの言葉は、仏教にはそぐわないような違和感を感じます。
私は、正しいことが証明されないことを、あたかも正しいと断定して誘いかけるような無責任なことに慎重な立場をとっているのです。そのような責任の持ち方が、今里さんには理解できないということでしょうか。

それから、人の投稿を正しく理解せずに曲解してとらえ、あたかも「御本尊様を否定した」というレッテルを勝手に貼るのは卑怯です。言葉を正確に理解して頂きたいですし、理解できないのであれば、自分には理解できないと誠実にお答え頂きたいと思います。

370五月雨:2003/01/19(日) 16:50

今里さんに、アネモネさんの言葉が届かないのはどうしてなんでしょうね。
日本語が通じないなんてことはないでしょう、ご自身に都合の悪くない返事は返されていますもの。ところが一番肝心な「日蓮本仏論」についての問い掛けにはだんまりを決め込むか「あまりいじめないで下さい」などと逃げ回り、あげくに自分の言葉を他者が言ったかのような“罠”を張る。
オフ会でお会いした時に受けた今里さんの人間性から、掲示板における今里さんのお振る舞いはちょっと信じられない思いがしています。
ご自分でご自分の人間としての品性を、ここまで貶めなくてもいいように思うのですが。

それにしても、この鰻の論理に挟まれた無徳さんとSatさんの意義ある議論が霞んでしまったように思います。勿体無い限りです。

371今里祐二:2003/01/19(日) 17:20
アネモネさん

>私は一度たりとも御本尊様を否定などした覚えはありません。

これは大変失礼しました。申し訳ありませんでした。
でも、それだったら、独歩さんではなく僕の意見を支持して下さい。

>だいたい御本尊とは何なのでしょうか

日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。

>信じているだけでは、証明になっていないわけで、今里さんの「成仏しようぜ!」はどうしたって無責任な誘いであることは免れないということ、理解できませんか?

前回「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」と言いました。
無責任と言われても、それ以上の責任は取れないわけで、…困りましたね(^^)

>正しいことが証明されないことを、あたかも正しいと断定して誘いかけるような

宗教って、そういうもんじゃないですか。

>無責任なことに慎重な立場をとっているのです。

そんなに慎重にならなくても、臨終の時にはキッチリ清算されると思いますよ。
また、そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

372犀角独歩:2003/01/19(日) 17:30

今里さん:

ちょっと待った。
いったい何なのだね。
山の王さん(はじめまして)も書いてくれたが、339に「まぁ、この辺で終わりにしましょう」と書いた故に、こちらとしては、335に整理したように質問に何ら答えないこともさらに追究をしなかったのです。それにも関わらず、「独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません…無責任なのは独歩さんの方」と、おわりにしたはずが、質問されたことを応えない卑怯な態度を取っておいて、批判するとはいったい、どういうつもりなのかね。

まずはこの点について、弁明を聞かせてもらいましょうか。

373犀角独歩:2003/01/19(日) 17:45

エドさん:

> 証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなものがありましょうか?

できる限り、仰る意を正確にお聞きし、お答えしたいと思います。
この「宗教」とは、どのような意味でお使いになっていらっしゃいますか。
宗教教団の意味ですか、それとも分類上の意味…たとえばキリスト教、仏教といった…、それとも、教えの意味ででしょうか。

エドさんが引用された、349において「のいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできない』教義である」というハッサン氏の言葉を引いたわけですが、ここで言われていることは「教義」ということです。ですから、上述、仮に私が記したなかで言えば「教え」に該当します。

それなのに、「証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなもの」と「宗教」という言葉に代わって質問がなされていますね。これはそのような批判の対象にならない教義を持つ宗教(団体、分類)はなにかというご質問なのでしょうか。

374みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/19(日) 17:49
>今里さん。
>> 362
> みかんさんが「不一不異」という事を理解されているという前提で答えます。

「不一不異」というのは仏教一般で使用される言葉ですので、それだけでは何と何の「不一不異」を言っているのか分かりません。
1-1)何と何の「不一不異」ですか?
1-2)そしてそれはどういうことがらを示していますか?

> 大聖人様が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様です。

2)それは、「日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。」と言われるところのあの木製の物質ですか? それともそれが関わる何かですか?


>>354
> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。

3)それは、一体どういう事ですか? 釈迦が何をどのように悟ったのですか? その悟りの内容はどういうことですか?

> そう考えたら、もう、何もかもが納得出来るようになりました。

4)何がどのように納得がいきましたか。それは具体的にどのようなことですか?


>>305
> お釈迦様のような仏様に成ること

5)「お釈迦様のような仏様に成ること」とは具体的にどのようなことですか?

375犀角独歩:2003/01/19(日) 17:52

今里さん:

あなたはアネモネさんに対して、

> そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです

などと言っています。
出てきても意味がないのはあなたのほうでしょう。その点について、私は237、238に

「あなた、こんな所に出てきても意味がないんじゃないのかな。
自分の本仏論を抱きしめて悦に入っていれば好いんだから。
言葉をやり取りすること自体、意味ないでしょう、あなたには(笑)

まあ、本仏論なんて看板背負って出てきても、説明も何も出来ないかけ声だけじゃ、退屈ですね。
独りよがりの好い気分、聞いたって、何の参考にもならないし、本仏論というのはただの思いこみなのかと。
思い込んでいる人とは会話は成り立たず、ただ、説明も出来ないことを押しつけられるだけでは、公開の議論の場にはふさわしくないでしょうね」

と嗤ったわけです。結果はまさにそのとおりなのであって、何一つ説明できないばかりではなく、それぞれ問いを投げかけた人々を軽蔑し、不誠実、卑怯の限りを尽くしたうえで、ついにはアネモネさんに斯様な言辞を投げつけている。

私は、もう一度、237、238に記したことを告げるものです。

376犀角独歩:2003/01/19(日) 18:18

みかんさん:

鰻と鰯頭のは横に置いて、少し真面目に質問をさせてください。

『開目抄』の「しうし父母」は「終始父母」の可能性は、どのようにお考えですか。

『本尊抄』の「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」につき、私は、みかんさんとは考えを異にし一般の読みのほうではないかと考えてきました。その理由は、『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」との整合性です。ここが同じく三つの法門となる本門本尊について同じく論じているとすれば、整合性がなければならない、となれば、『本尊抄』「釈尊為脇士」は「釈尊の脇士と為(な)り」でなければ、辻褄が合わないと思えるわけです。この点は、どのようにお考えになられますか。

377ワラシナ:2003/01/19(日) 18:52
「上野国立博物館の大日蓮展を見てきた。」

1、臨滅度時の御本尊の大きさに驚いた。
2、「観心本尊抄」「立正安国論」の御真蹟を拝し得た有難さ。
3、2時間半かかってみた。どうしてもその位の時間が必要になる。
4、入り口の券売機で1300円入れる時は500円硬貨が使えない。
5、一度は実物を見ておくと色々と着想が湧いてくる。あの展示物に限って宗祖の筆記された文字のサイズを見れば、宗祖はやはり大き目の字の方を好んでお書きになっているとしか思えなかった。

378今里祐二:2003/01/19(日) 19:51
>>372 独歩さん

>まずはこの点について、弁明を聞かせてもらいましょうか。

アネモネさんより
>自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、

と、独歩さんと比較した質問をされたので、それに対する反論です。

僕は「文証」を出せないし、これ以上独歩さんとやり合う気もありません。
無礼に感じられた点がありましたらお詫びします。申し訳ありませんでした。

379今里祐二:2003/01/19(日) 20:13
>>374みかんさん

1-1)何と何の「不一不異」ですか?

釈尊が凡夫であった時に拝んでいた御本尊様と、僕が現在拝んでいる御本尊様とが不一不異という事です。

1-2)そしてそれはどういうことがらを示していますか?

質問の意味がよく理解できません。

2)それは、「日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。」と言われるところのあの木製の物質ですか? それともそれが関わる何かですか?

そうですが、御本尊様の事を「木製の物質」と見ている間は、信心が成立していないと思います。

>> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
3)それは、一体どういう事ですか? 釈迦が何をどのように悟ったのですか? その悟りの内容はどういうことですか?

これは釈尊の悟った内容を言ったのではなく、僕がそのように感じたという事です。

4)何がどのように納得がいきましたか。それは具体的にどのようなことですか?

一言では言えないのでHPの方で、みかんさんご自身が判断してください。
http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

5)「お釈迦様のような仏様に成ること」とは具体的にどのようなことですか?

具体的には、なってみなければ判らないと思います。

380エド:2003/01/19(日) 20:47
独歩様。

他意はありません。宗教としたのは、ただ単純に「教義とは特定の宗教の教え」と考えたからです。

>私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」からです。

との引用をされたことから、「“証明”できる教義」の存在も認めていらっしゃると推察申しあげました。
あらためてお伺い致します。
“証明”できる「教義」(教え)とは、どのようなものでしょうか?

蛇足ですが、“教義”については広辞苑には次のように記載されております。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【教義】
特定の宗教や宗派の信仰内容が真理として公認され、信仰上の教えとして言い表されたもの。
教理。ドグマ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

381アネモネ:2003/01/19(日) 23:05
今里さん

>それだったら、独歩さんではなく僕の意見を支持して下さい。

支持を得たいのならば、最低限、議論に対する姿勢を改めて頂きたいと思います。内容はもちろんのこと、議論に対する姿勢からして、私は今里さんを支持する気になれないのです。

>そうですが、御本尊様の事を「木製の物質」と見ている間は、信心が成立していないと思います。

木製の物質ではないのですか?とすると、何なのでしょうか。

>前回「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」と言いました。
無責任と言われても、それ以上の責任は取れないわけで、…困りましたね(^^)

オフ会のときにも、「困りましたね」とつぶやいておられました。この歳、とことん困って追求して頂きたいと思います。
しかし、「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」とのご発言から察するに、今里さんは地獄に落ちるかもしれないことをそんなに重大には考えてはいないような印象を受けますね。それは裏を返せば、成仏するということもそんなに重くは考えてはいないということでしょうか。
なのに、「御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした」と感涙に浸っている。成仏と地獄をさして重く考えているとも思えないのに、何をそんなに感涙することがあるのか、まるでピンとこないです。

>宗教って、そういうもんじゃないですか。

私はそうは思いません。
今里さんはそれで納得して済ませているかもしれませんが、私は宗教を求めるものとして、それで宗教とはそういうものだと納得して済むことは出来ないと思っております。あくまでそこを探求し、追求していく自分でありたいと思っています。また、その点においては、文献などの研鑚に努力を惜しまず長年の思索を経てきている方に対しては、敬意を持って耳を傾け、学ばせて頂きたいと思っています。そして、自らの思索や社会への洞察も怠らない。それが今の宗教を求める私に出来る、責任をもった姿勢と振る舞いに通じるものと考えるからです。

>そんなに慎重にならなくても、臨終の時にはキッチリ清算されると思いますよ。

ご自分のことはそれで済むでしょう。しかし、今里さんの誘いに乗って信心を始めた人はどうなのでしょう。一緒に清算されても、自分には責任はないよと思っているということですか。宗教とはそんなもんだよと言って、終るのでしょうか。救われないとはこのことかと感じます。

>また、そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです。

私がですか?
冗談じゃない。今里さんのように無責任でいい加減な態度のロムを読むと、黙ってはいられないのです。そのような姿勢に甘んじている人の無責任な言動に対して、批判的に意見する私の言葉は、自ら責任を持って書き込んでいます。
今里さんに限りませんが、大御本尊様さえ信じていれば人間としての振る舞いは二の次、三の次という方、組織の中でも多く見てきました。
それが本当の仏教なのかといつも疑問に思ってきたのです。組織に疑問を持ったのもそんなことからでした。そのような問題提起もこめて、私は掲示板に参加してきたつもりです。
責任を感じるからこそ、この場で問題提起をしてきたともいえるのです。私の掲示板参加の意識は、根本的に今里さんの意識とは根本的に違うものだと思います。

382みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/20(月) 09:09
>>376 独歩さん

「終始父母」という読みははじめて見ました。そのような説を唱えている方がいらっしゃるのですか。もしよろしければ、お名前とか、何という本に出てくるかとか教えて頂ければ幸いです。

 報恩抄との整合性については、考えてみたいので、時間を下さい。


「本尊抄」の読みについては、

「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの国に立つべし。」
と読むためには、漢文はたとえば、
「此時地涌千界出現為本門釈尊之脇士可立一閻浮提第一本尊於此国」
のような語順でなければならないという理由からです。(漢文を読むことはある程度できますが、書く訓練は受けていないので、間違っているかもしれません。)

原文が「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
であるので、
「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」
としか読めない、ということです。

また、「本尊抄」の中の二つの記述の間で整合性が取れていると考えるからです。つまり「一閻浮提第一本尊」=「南無妙法蓮華経の主題」の脇に「南無釈迦牟尼仏」=「本門釈尊為脇士」が書かれている、ということを表している文章だと、私は読むわけです。
かつて(1997年)わたしはとある文章で以下のように書きました。
以下引用
===
「その本尊の為体、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。文殊・弥勒等の四菩薩は、眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣・月卿を見るがごとし。十方の諸仏は、大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表するが故なり。かくのごとき本尊は、在世五十余年にこれなし。八年の間、ただ八品に限る。」
「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿。十方諸仏処大地上。表迹仏迹土故也。如是本尊在世五十余年無之。八年之間但限八品。」

「この時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇土と為す一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。」
「此時地涌千界出現本門釈尊為脇土一閻浮提第一本尊可立此国。」

 これらの記述は、中央に「南無妙法蓮華経」と大書きされ、その向かって左脇に「南無釈迦牟尼仏」、右に「南無多宝如来」とあり、さらにその右脇に「南無上行菩薩」「南無無辺行菩薩」、左脇に「南無浄行菩薩」「南無安立行菩薩」とあり、下方には諸々の菩薩・天・人など十界の衆生が描かれる日蓮の本尊の構成を顕している。
 下方にどの尊格が書かれているかなどの、本尊全体の構成は必ずしも一定ではないが、中心部分はほとんど変わらない。その中心部分を略記するなら次のようになる。

  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多宝如来
南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

385犀角独歩:2003/01/20(月) 13:19

380 エドさん:
(この掲示板では「さん」付けとなっていますので、そのようにさせていただきます。私にもそのようにお願いいたします)

> 「“証明”できる教義」の存在も認めていらっしゃると推察申しあげました。

この点については、存在の否定・肯定といった二極思考として考えているのではなくて、「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように語っている」のがカルト理論であるという意味です。

少し言葉を継げば、「証明できない教義」とは「証明できないことによって組み立てられている教義」という意味です。

その意味において、証明できる事実の積み重ねによって教義は構築されているべきであるという考えはあります。

しかし、証明できない教義に対して、証明できる教義があるという二者択一を言っているわけではありません。

> “証明”できる「教義」(教え)とは、どのようなものでしょうか?

ここで議論されていることであれば、日蓮の真跡か否か、日蓮が実際に説いた教義であるかどうかという証明に基づく限定を設定して、日蓮本仏論については考えるべきだということです。

386さかなこ@暇なOL:2003/01/20(月) 13:36
>>365

みかんさんどうもありがとうございました(^o^)丿
でも絶版になってるものが多いのですね(´・ω・`)
「あなたの大きさに気付いたときににあなたはいない。。」人生って
上手くいかないものなのですね(´・ω・`)
我が家にある本は御書講義全集はがっかーい版のなので
ちと問題がありそうです。

質問したいなあ。。と思っていた個所を独歩さんが訊いて下さったので
このままお話をロムいたしましゅる。

387犀角独歩:2003/01/20(月) 13:36

みかんさん:

有り難うございます。

実は私自身、自然な訓読としては石山読みであると個人的には思っています。
しかし、日蓮は先に挙げたとおり『報恩抄』において三つの法門中、本門本尊を「本門の教主釈尊」と定義しています。題目の(南無)妙法蓮華経、つまり、漫荼羅中尊に等しい言については「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし」であるといいます。(蛇足ですが、本門戒壇については何ら説明もありません)

故に自然な訓読と思える「本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊」では『報恩抄』にいう“本門本尊・教主釈尊が脇士にもなる”不都合が生じてしまうと思えるわけです。実際、『報恩抄』では「上行等の四菩薩脇士となるべし」と明確に脇士についても定義されています。そのことから見れば、「本門の釈尊を脇士と為(な)す」では脇士の定義が異なるという不都合も生じることになります。

これはけっして、みかんさんを批判してなどと言うことではなく、一つの難問を、ここに考えてみる試論と言うことで、ぜひ『報恩抄』との整合性のご賢察をお聞かせいただきたいと願うものです。

388犀角独歩:2003/01/20(月) 14:27

―387からつづく―

一つ記し落としました。

> 「終始父母」…説を唱えている方…お名前…本

申し訳ありません。これは私の勝手な想像を記したまでのことです。
焼失した『開目抄』真跡、該当部分が「しうし」か「したし」か、今となっては憶測の域を出ませんが、「しうし」という仮名書きであったとすれば、他にも様々な可能性が考えられるのではないのかと思って記したことでした。

389犀角独歩:2003/01/20(月) 14:40

みかんさん:

もう1点、ご意見をお聞かせいただきたいのです。

『本尊抄』の「其本尊為体本師娑婆上」の文につき、この本尊に掛かるのは、その前文「但召地涌千界説八品付嘱之」にということになります。それで、ここでいう「之」はさらに前文の「本門肝心於南無妙法蓮華経五字」です。となると、本尊は南無妙法蓮華経と見えます。たしかにここまで読むと本尊は「南無妙法蓮華経」であると思えます。

ここで目を引くのは「本師」の二字です。「其本尊」は「本師娑婆上」というわけです。さらに前を見れば、「我等己心釈尊五百塵點乃至所顕三身無始古仏」であり、その仏は寿量説法の次第の如く娑婆にあって「仏既過去不滅未来不生」であるというわけです。その仏が本師であるとなりましょうか。

私にはここの文「其本尊」に始まる部分の結論は「来入末法始此仏像令出現歟」にこそあるのではないのかと思うわけです。

前文ばかり読めば、言われるところの本尊は字像を漫荼羅として座配、図示すれば事足りるように思えます。けれど、ここには確かに「仏像」の二文字があります。

「南無妙法蓮華経」が「仏像」かといえば、これは苦しい。つまり、この仏像とは本師・本尊の仏像という意味にならないでしょうか。そうなると、本尊とは図示漫荼羅というより、寿量仏、『報恩抄』にいう「本門の教主釈尊を本尊」であり、その仏像ということにならないのかと私には思えるわけです。

ここで「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空」の件は本尊を南無妙法蓮華経としてしまうと、本尊・本師・宝塔ともに南無妙法蓮華経となってしまいます。そうなると「仏像」の二文字の意味がまったく取れなくなります。

この点を、みかんさんは、どのようにお考えになりますか。
ご賢察をお聞かせいただければ有り難く存じます。

390犀角独歩:2003/01/20(月) 16:45

つぶやきです。

「来入末法始此仏像令出現歟」の文の後には「本門壽量品本尊竝四大菩薩」の文が来るわけですから、本尊を漫荼羅とすると漫荼羅の横とは別として、さらに四大菩薩を置くという配置になります。しかし、本門壽量品本尊を寿量仏・教主釈尊仏像と見做せば、いわゆる一尊四士の奉安となります。この場合、やはり、本門壽量品本尊を仏像と見做すほうが自然であると私には感じられます。

一つの可能性として、よく言われることですが、本尊=教主釈尊=妙法蓮華経ということは、もちろん、考えられます。しかし、この説明は「仏像」の説明には少しもなっていないように思えます。

では、「為体」と示されるところは何事かとなります。

「宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿十方諸仏処大地上表迹仏迹土故也」の「釈尊脇士上行等四菩薩」を、先より取り沙汰している「地涌千界出現本門釈尊為脇士」の石山読み「本門の釈尊の脇士と為し」と対校して読めば、「釈尊は上行等四菩薩の脇士」とせざるを得なくなります。しかし、もちろん、釈尊の脇士=上行等四菩薩であることは「本門壽量品本尊竝四大菩薩」の文との整合性からも明らかなように思います。

この文を読んで着目するのは「塔中」の二文字です。前文の「宝塔」を受けているのでしょうから、塔中とは「宝塔の中」の意であることは疑う余地はありません。この「中」はどこまでの範囲を言うのでしょうか。宝塔品の文で勘えれば、涌出の宝塔の中には元より多宝如来が在り、そこに釈迦牟尼仏が並座するとなります。そして、神力をもって衆をして虚空の上げるというわけです。「塔中妙法蓮華経」の文を取り敢えず依用すれば、宝塔の中には妙法蓮華経の五字が掛かりそこに多宝如来が元より在り、次いで釈迦牟尼仏が並座したということになります。その他の衆は虚空にあり、他方迹仏は大地からこれを仰ぎ見ているという記述です。

文字で書かれているので、宝塔が漫荼羅には書き込まれていないけれど、宝塔品の記述に従えば、塔中には他方如来と釈迦牟尼仏しか在らず、さらに本尊抄の記述を足せば、その塔中に妙法蓮華経の五字もありということになるのでしょうか。

ところでこの塔とは、他方如来の為の宝塔であるという点があまり取り沙汰されていないように私は思います。『開目抄』でも、この点は明瞭に「多宝如来、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じ」とあり、この塔は多宝如来塔であることは、はっきりしています。

もし、日蓮漫荼羅がこの宝塔を図したものであるというのであれば、多宝如来塔を図したというに異ならないことになるわけです。ここでこの宝塔=漫荼羅が末法の為の本尊であるというのであれば、それは取りも直さず、多宝如来塔信仰確立になってしまわないのかという疑問が私にはあります。

以上はあくまでつぶやきですが。

391菱村正敏:2003/01/20(月) 16:47
横レス失礼。

 日蓮の本尊観あるいは本尊定義には整合しており矛盾があるまいという
前提にたつと「本尊抄」の当該漢文の読みを、本来しない苦しい読み方を
しないと不都合になりますね。それはココでたまに言われているところの
坊主の学問・教養になっちゃうんではないでしょうか?

 ですから、独歩さんのような立場のかたは、このような順逆の読み方を
認知していく手段としては、当時に書かれた誰かの書物で同例をさがして
示すことも必要ではないでしょうかね。

 ここの読みについては本尊論資料(臨川書店)404頁・549頁あた
りを、もし見ていなければどうぞ。

392今里祐二:2003/01/20(月) 18:47
アネモネさん

>木製の物質ではないのですか?とすると、何なのでしょうか。

僕は「木製の物質」であることを否定などしていませんが…。もう少し落ち着いてよく読んでみてください。

戒壇の大御本尊様は、大聖人様が滅後の衆生の為に御自身の御身代りとして残されたもので、
自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束です。

ところで仏教には「色心不ニ」という教えがあります。
初歩的な事なので説明は省きますが、「色」を離れて「心」はありません。
「色」を離れて「心」を立てるのが外道の特徴で、「宇宙根源の法則」などがその代表事例です。
つまり「木製の物質」である所の戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はないのです。

>「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」とのご発言から察するに(略)

僕は自分が地獄に落ちることはないと確信を持っています。

>>宗教って、そういうもんじゃないですか。
>私はそうは思いません。

それでは宗教って、どういうものなのですか?

>ご自分のことはそれで済むでしょう。しかし、今里さんの誘いに乗って信心を始めた人はどうなのでしょう。

成仏できると信じています。

>今里さんのように無責任でいい加減な態度のロムを読むと、黙ってはいられないのです。
>今里さんに限りませんが、大御本尊様さえ信じていれば人間としての振る舞いは二の次、三の次という方、

これは「必ず文証を示す」という、この板のローカルルールのようなものを破った、という事ですか?
僕は大聖人様の御真筆だけを文上のままで読んでいけば独歩さんのような結論に成らざるを得ないだろうという事は解っていたので、
「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」という事を言いたかったのです。
僕の文章力が未熟で、不快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんでした。

それにしても、ここ数日間では、誰よりもたくさん謝っているんですけど…。

393犀角独歩:2003/01/20(月) 19:26

菱村正敏さん:

ここで私が問いを設けたのは、みかんさんがどのようにお考えになるのか、という興味に基づくものです。これは私が個人的にみかんさんのお考えに興味があるからです。

395犀角独歩:2003/01/20(月) 19:45

今里さん:

また、勝手に私の考えを曲解して載せています。
このように私が言っていないことを記すことを何度も抗議してきたはずです。
いい加減にしてください。

> 独歩…「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」
私はこんなことは一度たりとも言っていません。エドさんに答えた如く「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように語る」ことは無責任である言っているのです。
あなたの392の記述の如くに、です。

それにしても「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

396犀角独歩:2003/01/20(月) 19:52

【390の訂正】

誤)宝塔品の記述に従えば、塔中には他方如来と釈迦牟尼仏しか在らず
正)宝塔品の記述に従えば、塔中には多宝如来と釈迦牟尼仏しか在らず

誤)ところでこの塔とは、他方如来の為の宝塔である
正)ところでこの塔とは、多宝如来の為の宝塔である

397犀角独歩:2003/01/20(月) 20:03

今里さん:

395の、私の記述は撤回し、以下のように書き換えます。

「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

398犀角独歩:2003/01/20(月) 20:41

みかんさん:

私は宗派教義から文を読み解くことを不謹慎であると思います。
ですから、日蓮本仏義に否定的でありながら、しかし、純粋に、漢文読みとしてのみ、石山読みを採り、しかし、本佛義を採らないみかんさんの在り方に深く賛同するものです。

しかし、何か非常に重い質問を寄せさせていただきました。
いつもご賢察を載せられるみかんさんのご意見を伺ってみたいという気持ちからです。
それ以上の意味はありません。
読み直してみて、過去にもこの掲示板でもやや論じあったことですが、一長一短に答えを書き連ねられるほど、簡単なことでないことは理解しております。
お暇な折にでも、お記しいただければ有り難く存じます。

399エド:2003/01/20(月) 21:12
独歩さん

>ここで議論されていることであれば、日蓮の真跡か否か、日蓮が実際に説いた教義であるかどうか
>という証明に基づく限定を設定して、日蓮本仏論については考えるべきだということです。

その教義が日蓮の真跡か否か、日蓮の実際に説いた教義であるかどうかを証明できるのか否か、それを
精査検証されているという意味ですね。するとそれは文献学的な証明の範疇で、日蓮の教義(おしえ)
そのものが証明できるか否かという問題とは異なる、ということになりましょう。了解いたしました。

>「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、
>それを逆手にとって真>理のように語っている」のがカルト理論であるという意味です。

ハッサン述べるところの「カルトは証明できない教義によって成り立っている」という“教義”(doctrine)
は、いわゆる教義(教え)の内容に対しての言及であり、限定された条件による史学的ないし文献学的論証
に限られたことではないと考えます。
極論ですが、独歩さんの言葉を借りるならば、世にあまたある宗教の教義はすべて「証明できないことを、
さも証明できることとして論じ」「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように
語っている」と言えるのではないかと。その是非、その意図的であるかどうかは別として。
そこで独歩さんの見解をお聞きしてみたかったわけです。独歩さんを決して批判するつもりではありません。 

宗教の教義は科学のように合理的論証によって証明されるものではなく、信者も、教義そのものに証明を
求めてはいない、というのが現実ではないでしょうか。そこにカルト付け入るる隙もあるのでしょう。
現在、カルトに対しては世界共通認識としての定義が定まっておらず、ハッサンのカルト定義をそのまま
鵜呑みにし、文節を取り出してそれにあて嵌めることにのみ熱心である傾向を随所で見かけているのですが、
それに少々抵抗を感じておりました。それで、先のぶしつけな質問になった次第です。

独歩さん、飛び入りトピずれにお相手して頂きましてありがとうございました。

400困ったという字:2003/01/20(月) 21:32
つぶやきスレッドということなので挨拶は省略させてもらいます

今里サン、過去ログをしっかり読んでから書き込むようにしなさいな。
本仏論も血脈論も本尊論も、あなたは過去ログをなにひとつまともに読んでいないとしか思えないよ。
あなたの書き込みに真摯さを感じているロム者はほとんどいないんじゃないかな。

過去ログというのは、基礎的な知識、ということなんですよ。
あなたの発言は俗にいう「唐人の寝言」以下に思えます。
あなたの書き込みを読んでいると、あなたの信じている宗教はなんと無力な宗教だろうという気がします。

この掲示板は宗教ゴッコの場ではありません。
もちろん自分の信仰を宣伝したり勧誘したり押し付けたりする場でもありません。

401犀角独歩:2003/01/20(月) 21:38

エドさん:

非常にご賢察をお示しくださり、有り難うございます。
私自身、いわゆる破壊的カルト・マインド・コントロール論を無謬に扱うわけでなく、今後、蓄積されるデータによって逐一、書き換えられていく前提で引用しています。これは当然のことです。近日では、専門家から Abuse という視点を加味し、破壊的カルトの心理操作は Abuse の下部構造として機能しているという興味深い仮定も示されています。

「世にあまたある宗教の教義はすべて」以降の記述はまさに私の懐く疑問なのです。ただし、証明ができない故にその教義による宗教を捨て去るという極論を言うのではなくて、社会的批判の俎上に立ちながら、修正されるべき点は修正されて然るべきと考えています。

また、ご質問のみならず、ご賢察をさらにお聞かせ願えれば有り難く存じます。

402今里祐二:2003/01/20(月) 21:39
独歩さん

>「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

僕のような信徒の立場からすれば「御相伝」という事になるのですが、大石寺自体に「御相伝」と呼べるべきものがないそうですし…
日有上人の頃からそのような考えが現れたとするなら、日有上人が「大聖人様が本仏だ」と悟られたという事になります。そして日寛上人の代で教義としてほぼ完成したのでしょうね。
仏様の悟りとまではいかなくても、信徒としての分々の悟りはあると思いますし、そういうものの積み重ねが「日蓮本仏論」ではないかと思っています。

その考えが正しいか間違いかは、客観的に判断できるものではなく、正しいと思える人は信じ、そう思えない人は信じない、という事になるかと思います。

>戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

これは独歩さんの仰るとおりだと思います。証拠があれば皆が安心できます。でも証拠は無い…。
証拠が無いから偽者だ、と言う事も出来ないわけで、これも、正しいと思える人は信じ、そう思えない人は信じない、という事になるかと思います。

だた、これは僕の考えなのですが、「戒壇の大御本尊」を否定してしまったら、もう後は「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていないと思います。「戒壇の大御本尊」の代わりになるものを出せる人は誰もいないのですから。

ですので、僕は「信じるしかない」という立場に立っています。

403困ったという字:2003/01/20(月) 21:47
>、「戒壇の大御本尊」を否定してしまったら、もう後は「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていないと思います

具体的にその理由を述べてもらいたいと思いますが、つぶやきスレッドではなく、新たなスレッドか本尊スレッドでお願いしたいです。


>戒壇の大御本尊」の代わりになるものを出せる人は誰もいないのですから。

代わりになるものが必要なのですか?
必要だとしたらそれは何故ですか?

404犀角独歩:2003/01/20(月) 21:51

○色心不二

「色心不二」は著名なところでは湛然著『法華玄義釋籤卷第十四』十不二門に挙がります。決して「初歩的な事」などではありません。

一色心不二門者。且十如境乃至無諦。一一皆有總別二意。總在一念別分色心。何者。初十如中相唯在色性唯在心體力作縁義兼心色。因果唯心。報唯約色。…

(手許に訓読テキストがないので、雑駁に読み下しますが)
一に色心不二門とは、且く十如境乃至無諦、一々に皆総別の二意あり。総じて一念は分別して色心あり。何者ば。初めに十如の中、相は唯色に在り、性は唯心に在り、体力作縁の義は色心を兼ねる。因果は唯心、報は唯色に約す…

と説明は延々と続きます。日蓮はこの義を踏襲するのは至極当然のことなのですが、真跡中「色心不二」は『木絵二像開眼事』に一カ所見えるのみです。ここでは

「仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」

とまず生きておわした三十二相の仏に対して、仏の木像・画像は梵音声とを欠く(故に三十一相)で、心も欠くので天地雲泥の相違があるといいます。
けれど、

「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり」

といい、仏像・画像の前に法華経を置けば純円の仏となるといいます。すなわち、これは法華経が梵音声を不可見無対色で仏像・画像に書けないところを法華経を仏の梵音声なので、置くことによって三十二相を具足することになると言うほどの意味合いでしょう。すなわち、ここに色不二を説明として使用し、

「意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。」

というのです。(梵音)声は色法。仏の心より色(梵音声)をあらわす。また、(梵音)声を聞いて心を知る。色(梵音声)が心(仏の御意)を顕すのである。色(梵音声)心(仏御意)不二なるが而二とあらわれて、仏の御意はあらわれて法華の文字となる。文字は変じてまた仏の御意となる、と言います。

これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。

もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。

なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。

405犀角独歩:2003/01/20(月) 22:00

402 今里さん:

このような記述のされ方で在れば、議論の余地があると思います。
また、記された日蓮本仏確定の過程は類推として、説得性はあると思います。

> 戒壇之漫荼羅…でも証拠は無い

かつて、ワラシナさんが科学的に放射性炭素による年代測定を提案されたことがあったと記憶します。

もし戒壇之漫荼羅が750年前に実際に作られたものであるとすれば、これは国宝であると見てよいはずです。ですから、是非ともその真偽を科学的に調査するべきであると私は思います。

> 「戒壇の大御本尊」を否定…「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていない

私はこのようには思いません。
また、実際、混乱するとしても、否定されるべきが否定され混乱するのは致し方のないことであると思うばかりです。

ただ、そうなると信じる立場は道標を喪うという危惧はそのとおりでしょう。
しかし、実際、その危惧は始まっています。故に事実認定に基づく新たな信仰の確立がそれを信じ勧めてきたものの責務ではないのかと私は考えているわけです。

406犀角独歩:2003/01/21(火) 12:02

○有師・化儀抄に見る「本尊」観

有師の本尊観はたしかに際だった特徴を示します。

(1) 当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし…未断惑の導師を本尊
(2) 釈尊の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人
  …四依弘経の人師…地涌菩薩
(3) 只十界所具の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり、是れ則ち法華経
  …法華経計りに限りて本尊とする

この(1)(2)は共に日蓮を本尊とすることを言います。
しかし、ここでは実は日蓮本仏義は展開されていません。(1)に「未断惑の導師」といい、(2)に「人師」という如く、有師の日蓮観は日蓮=人師という枠組みから出ていません。ただし、「四依弘経の人師」とはその次下に「末法四依の人師、地涌菩薩にて在す」といい、すなわち地涌菩薩であるといいます。この菩薩道の人師は釈尊の因行、すなわち「我本行菩薩道」、同じく菩薩行を本尊としているのが有師の本尊観です。もちろん、ここでは釈尊・日蓮同体論は見えません。

そして、もう一面(3)には「十界所具・所図・本尊…法華経・本尊」という別立ての本尊観を示します。これは興師古写本?を遺す『本尊問答抄』以来の法華経題目本尊論の系譜でしょう。しかし、有師に人法一個思想は見られません。

この人法一個という思想は、恰も石山独一の論の如く石山信徒で思っている人があるようですが、文献で見る限り、この考えは房州我師が先行するのであって、郷門の系譜であることが指摘できます。

では、有師における日蓮と漫荼羅のこの対象はいったい、何を意味するのか。「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」というときの日蓮は、おそらくは日蓮御影本尊を指しているのではないかと私は考えます。重須より、日蓮御影像の背に十界漫荼羅を置く奉安が定まっていた興門において御影・漫荼羅奉安形式に基づいて説明されるのが、日蓮・漫荼羅本尊観なのではないのかと私は読みます。

そして、重要な点、この奉安は人(仏)・法一体を示すものではなく、人=菩薩−因行・法をそれぞれ示すのが本来の意義であったということです。因行−日蓮、文字通りの「人」と漫荼羅という法を示す奉安形式であったのだと、有師の記述からは考えられます。

有師の発想は人師・菩薩本尊、法華経本尊の二本立てであったと知れるわけです。

407犀角独歩:2003/01/21(火) 13:21

○「日蓮本仏」の初出

日蓮本仏論を初めて述べるのも、実は石山ではありません。
文献では『五人所破抄見聞』であるというのが一致した意見です。
ここに

「不軽ト日蓮トハ本仏也。威音王仏と釈迦仏とは三十二相八十種好の無常の仏陀、不軽と上行とは唯名字初信の常住の本仏也」(富要4-1)

とあります。

著述は妙蓮寺5代眼師の著述と言われてきましたが、現在、これを直ちに鵜呑みにする学者はおりませんでしょう。著述年代は富要の文末で見る限り、

「伝写本云
 康暦二庚申年六月四日書畢
 本化末弟日眼在御判」

とあるので、西暦にして、1379年の書と見られると思いしや、この点は実に疑わしい。その理由はまず「康暦二」という年はなく、「天授三」とすべきであるけれど、この年は「庚申」ではなく「己未」です。また、伝写本で、真筆を見ません。

しかしながら、『五人所破抄見聞』というこの書は、誰が一体、いつ記したものかは日蓮本仏義発生の大きな鍵を握っているのは事実であろうかと思います。

なお、伝眼師述のこの書においても、いわゆる人法一個は論じられず、漫荼羅についても独自の見解を示しています。すなわち、

「本仏ヲ貴ム人ハ本国土妙の大曼荼羅ヲ信仰シ奉ル也」

と言います。いわば、本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本箇妙、仏果を合論して得るという伏線があるようにも受け取れます。

いずれにしても、ここに「妙蓮寺・日限」の名を残す以上、この思想系譜を同寺に見ることはさほど蛮勇とは思えません。

となれば、日蓮本仏義は妙蓮寺に緒を見、人法一個は保田妙本寺、そして、一大秘法開合六秘の人法本尊の展開は寛師に、徐々に前説を当宗、批正しながら形成されていったのでしょう。もちろん、これは雑駁な記述であって、実際はさらに詳細な事情がありますが、大まかに言えば、そのように概観できます。

日蓮本仏義は、少しも石山のオリジナルではなく、また、他山に見られる故に唯授一人の相伝でもないことは、しかし、概観できようかと思います。

408犀角独歩:2003/01/21(火) 13:23

【407の訂正】

誤)徐々に前説を当宗、批正しながら形成
正)徐々に前説を踏襲、批正しながら形成

409犀角独歩:2003/01/21(火) 13:26

すみません、もう1カ所訂正

誤)本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本箇妙
正)本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本果妙

410犀角独歩:2003/01/21(火) 15:00

○そもそも本仏とは何か

私は本仏という言葉について、そもそも非常に違和感があります。
この言葉の意味するところがあまりに曖昧であり、かつ石山教学では少なくとも二つの本仏論が混在し、論者がどちらを以て語っているのか不明瞭であることが多いからです。

二つの本仏論とは現石山などで言われる、一つは本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊、もう一つは本仏=釈尊=日蓮の二つです。寛師を学んだ人であれば、寛師教学の至極は後者であることを了解しているでしょうが、現在流通しているいわゆる教学入門書などでしか読んでいない人は前者であると思っているはずです。

次に、そもそも本仏とは何でしょうか。この語彙は既に文句、玄義に見られます。ここでは「本仏・迹仏」の対句で見られ、次いで釋籤では「開權顯實即識迹佛之所從生。開迹顯本即識本佛之所從生」と記されます。誤解がないように記しますが、この場合の本仏・迹仏は同体なのであって、ただ、開顕顕実を迹仏・開迹顕本を本仏といい、通じて釈尊一仏における「顕」れの相違を論じるのみです。

寛師が、こんな基礎を知らないわけはありませんから、いわば、釈尊・日蓮の同体を基本にして、開迹顕本を迹仏・開脱顕種を本仏ほどの意味で論を立てたのであろうと推測されます。いわゆる本種迹脱の伏線です。(断るまでもありませんが「開脱顕種」は意を示すためにここに造語した言葉です)

しかしながら、現行、言われる日蓮本仏というのは、この点とまったく趣を変えているように窺えるわけです。

一体、台学でいうような迹仏を簡んで本仏というのか、あるいは垂迹仏を簡んで本(地)仏をいうのか、あるいは権仏を簡んで本仏というのか、はたまた非仏を簡んで本仏というのは、あるいはそれ以外なのか、釈然としません。時には根本仏を本仏という如く言も見られますが、これでは「心実相・我一切本初」の如くであり、あるいは全知全能の神の如く、本来の仏陀−覚者という本来の意味からも脱線し、聖書の如き絶対者に日蓮を仕立てる如きは、まさに石山歴代の言とも相違するところとなります。

日蓮本仏論を語るのであれば、まずはこの点を整理し、人に披露し、整然と論を宣べるべきであると私は思います。

411犀角独歩:2003/01/21(火) 17:17

石山系譜における「本仏」を探っていたところ、道師の『御伝土代』にその語彙の使用がありました。

「日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の“本仏”なり」

 日蓮聖人の仰ったこと。本地は寂光である地涌の大士上行菩薩は六万恒河沙の上首である。久遠実成釈尊の、最初に結縁し道心を発(おこ)せしめた第一の御弟子である。
 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常に在って滅せず、我れ本(もと)菩薩の道を行じて成ずる所の寿命、今猶未だ尽きず復(また)上の数に倍する本仏である。

先文は上行菩薩を嘆じ、後文は本門教主を嘆じています。ここに「本仏」語が見えます。言うまでもなく、「我本行菩薩道」の引文は寿量品三妙合論中、本因妙を顕すとする文ですから、この「本門教主」本仏は、疑いなく寿量仏・釈尊を指しています。

ところがこれは、いまは日蓮本仏を言う石山にとって、まことに都合の悪い文章であるわけです。それ故、『日蓮正宗要義』では、あろうことか

「久遠実成無作三身 乃至 我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり」(聖典600)
と本因妙の仏といわれるのは、文底観心の重では上行菩薩が久遠実成の三身であることを暗示されるもので、もし教相の本果仏をとるならば「我本行」以下は“必要がない”文となる。(要義251頁)

と、目師から唯授一人の血脈付法の正師と持ち上げる石山4代の文章を添削し、「必要がない」と言い切っています。これが石山がいう唯授一人の正体かと呆れ果てます。
要は歴代の言であっても、現行の教学からして都合悪ければ、「必要ない」と切り捨てることによって成り立っているのが日蓮本仏論である好見本として、ここに提示しておきます。

(注:六万恒河沙は正しくは六万 [河-可*亘] 河沙です)

412犀角独歩:2003/01/21(火) 18:16

さて、もう少しだけ『御伝土代』を。

「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや」

ここに「三身即一の有縁の釈尊」と明確に釈尊の名前が見られます。411に挙がった本仏です。
ここを『日蓮正宗要義』で見ると、

「釈尊が表現として三大秘法抄の人本尊を受けるもので、大曼荼羅能弘能顕の仏、日蓮大聖人を指されている。文によってのみ義を判ぜず、義をもって文を見なければならない。日興上人日目上人日道上人と相伝して御影を仏と拝し、大曼荼羅即日蓮大聖人と拝する信条の本義の上から文を見極めることが大切であろう」(同251頁)

これまた曲解の限りを尽くしています。

そもそも、この文は前文の「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」を受けるのであって、もし、この「釈尊…日蓮大聖人」と読み替えてしまえば、「法華本門の日蓮は日蓮等の四菩薩を脇士となす」となってしまい、まるで意味をなさなくなります。
それに「日興上人日目上人日道上人と相伝」した血脈付法の“法主”の言を本義の上から読み替える必要が、どこにあるのでしょうか。この本の著述は宗務院であって、歴代ではい。つまり、付法にあらざるものが付法の言を読み替えろと言っているのに等しいことになります。
いったい、道師とは如何なる人物であるというのでしょうか。末の不付僧が読み替えなければならない文章を書いたとは、よくぞ言ったものだと、ここでも呆れものです。

なお、この著述のなかで「御影を仏と拝」すると明言されています。石山僧俗の中には御影を仏像と拝することに異議を唱える人がいますが、少なくとも、ここでの記述ではこのようになっている点は記憶されるべきでしょう。

もう一点。「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」と、道師もまた「二千二百三十余年」であることを記しています。しかしながら、戒壇之漫荼羅は「二千二百二十余年」です。
たしか石山では目師から道師が戒壇之漫荼羅を別付されたとするのですから、道師はなんと、その戒壇之漫荼羅を無視して、他の「二千二百三十余年」と記された漫荼羅を取り沙汰していることになるわけです。

文を「必要ない」と切り捨てたり、「読み替え」たりしなければ、辻褄が合わない教義であると道師を物笑いにしているのが、この『日蓮正宗要義』の該当の記述と見えます。

413犀角独歩:2003/01/21(火) 19:09

昨日、今日と2日間。時間が空きましたので、まとめて少し投稿させていただきました。
が、気が付いたら、こちらはつぶやきすれっどでした。
今後は、それぞれの項目に投稿させていただきます。
管理人さん、すみません。

414今里祐二:2003/01/21(火) 19:38
独歩さん

>>404
>これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。

ここは独歩さんと意見を異にしますので、以下理由を述べます。

第一点は『木絵二像開眼事』は木絵二像についての御指南で、大聖人様が顕された御本尊様に対しての記述ではないという事。

第二点は、大聖人様は『日蓮は広略を捨てて肝要を好む』(法華取要抄)と言われるように、肝要を好まれたお方です。
『木絵二像開眼事』の冒頭に『仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。』
とありますが、大聖人様御自身は、可見有対色の三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕すことにより、御本尊様を直ちに三十二相具足の純円の仏とされたのではないかと推察しています。
『仏に三十二相有り、皆色法なり。』という事ですので、戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つのではないかと考えています。

>もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。

この点はご指摘の通りです。ただ「そうではない」という証拠も無い訳で…。

>なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
>つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。

これは、みかんさんからご指摘を受けた時は僕自身まだよく解っていませんでした。ご教示ありがとうございました。その後自分なりに考えた事があるので記してみます。

『下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

「自受用身は本、上行日蓮は迹」と優劣を論じる場合と「自受用報身如来の御當體」と大聖人様を直ちに「自受用報身如来の御當體」と論じる二種類があるのは、大聖人様の御生涯の中での優劣を判じる為ではないかと考えました。
御幼少の頃、蓮長と名乗られていた頃、あるいは立宗宣言された後も、御食事を召し上がっておられる時、用を足しておられる時、等々、いわゆる普通の人間として生活しておられる時は「自受用身は本、上行日蓮は迹」。

それに相対して、出世の本懐を遂げられた時、つまり戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様の大慈大悲の御一念は「自受用報身如来の御當體」そのものであるのではないか、という事から、その時の大聖人様の御一念をそのまま顕した「戒壇の大御本尊」を「自受用報身如来の御當體」というのではないかと考えました。

415今里祐二:2003/01/21(火) 19:38
(つづき)
つまり僕達信徒が帰命しているのは、いわゆる普通の人間として生活しておられる時の大聖人様ではなく、出世の本懐の時・戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様である、ということです。
ただ、出世の本懐の時の大聖人様は、普通の人間として生活しておられる時の大聖人様に依存してしか存立し得ないので、分別として分ける事は出来ても、実際には分ける事は出来ないと考えています。

戒壇の大御本尊様をお顕しになった時の大聖人様の御一念が、本当に「自受用報身如来の御當體そのもの」であったかどうかは、他人にはうかがい知る事の出来ない事であり、証明は不可能です。
またこの事は、いわゆる物質としての戒壇の大御本尊様が「100%大聖人様の御真筆である」という事が証明されても、その戒壇の大御本尊様が「自受用報身如来の御當體である」という事は証明されない、証明不可能という結論になると思います。

ここまで考えて「やはり仏法とは信に始まり信に終わるのだなぁ」と思いました。
もちろん、これは信徒としての僕の考えであり、他人に押し付けるものではありません。

>二つの本仏論とは現石山などで言われる、一つは本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊、もう一つは本仏=釈尊=日蓮の二つです。

僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。
一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。
(まぁ、独歩さんのされている提案に比べれば、ずいぶんカワイイものですが…)
大聖人様の事を釈尊に相対し百千万億倍勝れた仏と立てれば「不ニの尊体」と称し管長を大聖人様のごとく拝する悪弊も少なくなると思いますし、また、そのことによって血脈の尊貴が損なわれる事も無いと考えています。

困ったという字さん(はじめまして)、からのご提案もありますので、重ねての議論はスレッドを移動したいと思いますのでよろしくお願いします。

最後に、僕の不徳により、本来楽しいつぶやきの場であったこのスレッドが論争の場のようになってしまったことを謹んでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

416犀角独歩:2003/01/21(火) 20:23

今里さん:

うん。まあ、一所懸命に頭を捻ったのはわかります(笑)
ここはつぶやきなので端的に2点だけ。

> 戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つ

考えは何でも成り立つでしょう。でも、その考えが日蓮によるからこそ、日蓮(正)宗というわけでしょう。今里さんの考えであれば、今里宗になってしまう。日蓮の正しい宗であれば、日蓮に根拠を求めるべきであると言ってきたわけです
私は文を挙げているのだから、今里さんも文を挙げればよいわけです。
例えば私だって自分の考えを延々と記すことが可能ですよ。でも、それじゃ、ジャッジのしようがなくなります。

ちなみに『木絵二像開眼事』では「三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏」という記述があります。これは明快ですね。日蓮が仏像を否定しているなどと少しも見えません。

ですから、同じように、どうすれば、日蓮漫荼羅が日蓮本仏であるか、その根拠を示せば、皆が納得するということになります。

> 本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべき

これは要するに寛師教学全面肯定を覆したと取っていいわけですね。

私は、この掲示板で書いてきて、いつも言っていることですが、前言を覆すことは恥ずかしいことではないと思います。みかんさんのご指摘を受けて考えを変えた、私は立派なことであると思いますよ。

いずれにしても今里さんが日蓮本仏義を宣揚したいと考えたいのであれば、どのような方法が最も効果的か、と言うことです。
自分の考えを書き連ねることなのか、それとも日蓮の言をもって説明することなのか、どちらが説得性性があるか、私は自明であると思うわけです。

まあ、ご健闘をお祈りします。
ここはつぶやきなので、これ以上、突っ込むことはしないことにします。

417アネモネ:2003/01/21(火) 20:37
今里さん

>戒壇の大御本尊様は、大聖人様が滅後の衆生の為に御自身の御身代りとして残されたもので、自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束です。

もはや私には、日蓮正宗のお約束だから、それが正しいんだと信じることはできないところに来ています。そういう思考が組織の論理であり、そのような論理や思考が、果たして本当に教祖の示す教えだったのだろうか、というのがこの掲示板で長く考えてきたところであると思うんですね。
このことはおわかり頂けるでしょうか。
また、何度も書いていることですが、絶対に日蓮正宗は正しいとアナウンスを受け指導されながら、実際にその組織の中で活動をしている人たちの姿に目を向けると、僧俗ともに仏教徒とは思えない心無い姿ばかりがどうしても目につきます。今里さんはお感じになられたことはないでしょうか。私は、そのことが掲示板に参加するキッカケとなり、また私の大きな問題意識でもあるのです。それは日蓮正宗に限らず、現代宗教が抱える最大の問題ではないだろうかとさえ思い、自分に問い掛けてきました。それは同時に、社会問題でもあるとも思うからです。

そしてそのことを、私が意識するよりももっと前から意識を持って取り組まれ、しかも、ただ思索にふけるだけではなくて、体系的に文献を深く研鑚されてこられた方々が、この掲示板に貴重な内容を記して下さってきているわけです。
これまでの掲示板の流れの中で、日蓮正宗のお約束として教えられてきたことが、長い歴史の中、解釈や他門の流儀なども加えられながら、教団の都合でかなり変遷し教祖の教えからおよそかけ離れたものとして、今日に伝えられてきている可能性もあるということがわかってきたわけです。
またその変遷の内実こそ、私が問い掛けてきた組織の論理そのものだったのではないかということにも気づかされます。

つまり日蓮正宗の歴史をひもとくことは、即現代宗教の抱える問題にも通じることだったともいえるわけです。

しかし、そんなはずはないという思いで信じ続ける人もいるでしょう。でも私はその道は選びません。感情的に信じたいという思いに固執して、立証されてわかってきたことに目を背けることは止めました。なぜならば、信じるべきものが教えられていることとは違っているかもしれないからです。そのことを、重大に受け止めようと思いました。もちろん間違っていないかもしれない。その可能性も残っていますが、それだけでは私はもはや絶対に信じるという気にはなれないですし、当然、そのわずかな可能性に賭けて、これが成仏の道だと断定して人に語ったりはしません。「信じている」という感情論でもって、人の大事な人生を左右することはしたくないと思っているからです。

組織の中では、お約束が絶対ということで通ることでしょう。しかし、この掲示板ではその言葉だけでは何の意味も力も持たないわけです。その言葉に納得させるだけの力を持たせたいならば、なぜそれが絶対と言い切れることなのかの根拠を示さなければならないという、非常に厳格なところにまで議論はきているわけです。
もちろん、これは掲示板で明文化されているルールなどではありません。今里さん流に自由に書いてかまわないのです。しかし、証明できないことを断定する表現で記された場合は、どうしても突っ込みが入ってしまうのは避けられません。突っ込みを回避しようとつぶやきスレッドに書いても、それを黙って見過ごすわけにはいかない人はたくさんいると思われます。

418アネモネ:2003/01/21(火) 20:37
(つづき)

>つまり「木製の物質」である所の戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はないのです。

この一文はとても理解できないのです。あの戒壇の大御本尊様と称している板曼荼羅を離れて、大聖人の心はないということでしょうか。そう指導されているとしても、私はそれをそのまま信じませんし、疑問に思うところでもあります。あの板曼荼羅に固執して離れない多くの人たちの人としての振る舞いそのものが、真偽を証明しているようなものだという見方だつて出来ようかと思われます。
しかし、この板曼荼羅については、菊水護国さんが記されている

383>当宗は本来、器物・物質信仰ではありません。その根本に有る法を拝しているのです。

こういうことであるならば、私も受け入ることは出来るでしょう。
しかし、あの板曼荼羅でなければならないという日蓮正宗の教義に関しては、それが本当に日蓮の意図したところなのかどうか、疑問を抱いています。


>僕は自分が地獄に落ちることはないと確信を持っています。

この点については、個人的な信仰観でしょうから、私の意見はこれ以上は挟まないことにします。

>それでは宗教って、どういうものなのですか?

私の宗教との関わりは、小学校2年生のときからですから、人生の大半の時間の流れの中に、信仰があったわけですね。オフ会でもお話した通り、キリスト教でしたから、今里さんから言えば外道の信仰です。しかし、絶対を理屈抜きで信じるという行為は、どちらも同じでした。だからこそ今里さんは、「宗教とはそんなもんでしょう」という言葉も出たものでしょう。しかしこの発言、日蓮正宗だけが正しいと言いながら、宗教とはそんなものだと、外道となんら変らないことを認めていることにもなりはしないでしょうか。この時点で今里さんは、潜在的には日蓮正宗といえども、結局は外道と同じだと思っていることになるかといえます。
まあ、それはそれとしても、ともかく私は、その当たり前に思ってきた「宗教とは」というそのあり方が、果たしてそれが本当にそうなのかということを、掲示板に参加した頃から考え続けてきています。
考えているところですので、こういうものですというお答えはできません。

宗教は支配者によって、常に利用されてきた歴史の側面もありますね。そのことが本当の教祖の教えを捻じ曲げられ違ったものになって今日に伝えられてきている側面があるわけです。日蓮正宗は750年間正しく教義を伝えてきたということからして、疑わしいわけです。だからこそ教祖の真の教えとは何だっただろうかという探求が、いま求められることであり、その探求の先にようやく、宗教とは、また仏教とは、ということが言えるのではないでしょうか。

419アネモネ:2003/01/21(火) 20:38
(つづき)

>成仏できると信じています。

お気持ちはわかりますが、しかし「信じている」では人の人生に対して責任を持っているとはいえないですね。感情論に逃げているだけです。
「宗教とはそんなものだよ」と納得してその先は一切考えない。証明できない真理もあるからと納得してその先は一切考えない。この一切考えないというところが、今里さんのいう「信心」ということになっているわけですね。ところが、かつて、みかんさんと独歩さんが仏教における「信」について、貴重なことを記している箇所がありました。そこでは仏教の「信」とは、私たちが今日当たり前に思っている「信」とは、かなり違っているものかもしれないということが示唆されていたかと思われます。
成仏を求めて「信じている」を通そうと思うならば、まずは仏教における「信」とは何かという問題を自分に問い掛けてみられることも大事ではないでしょうか。わかっているつもりのことが、実は全然わかっていなかったということ、よくあることです

>これは「必ず文証を示す」という、この板のローカルルールのようなものを破った、という事ですか?

いいえ、私はそのようなルールで意見を挟んでいるのではありません。自由に発言なさるのは構わないと思っています。しかし私は、自分の持つ問題意識において、そこに記されている内容に問題ありと判断したら、レスとして意見を挟ませて頂きます。そして今里さんの考え方、そして私の考え方がたとえ平行線であっても、その違いにおいてどちらがどうかということは、個々のロムされている方々のの内心の自由なご判断にお任せするところです。

>僕は大聖人様の御真筆だけを文上のままで読んでいけば独歩さんのような結論に成らざるを得ないだろうという事は解っていたので、
「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」という事を言いたかったのです。

結局今里さんは、目先の議論の展開のみに囚われたところで、レスを繰り返してきたということでしょう。つまり大局的にものごとを捉えておられなかったのだと思います。
今里さんは、まず結論ありきで自らを縛り、そのことだけのために、突っ込みを避けたり、質問を交わしたり、罠を仕掛けたり、言い訳をしたりとしてきたといえるのではないでしょうか。しかしそれでは、議論は堂々巡りになるばかりでした。
考えてもみて下さい。この場で大事なことは、真実は何であるかの探求だと思います。証明されない結論は、この場では真実の結論だとはみなされないわけです。つまり、今里さんの信じている動かし難い結論が、必ずしも日蓮聖人の真の教えであるとは言い切れないということです。そのことをどのように自分の中に受け入れるかは、それは個々の自由です。感情的にそれでも信じると受け止める人もいるでしょう。しかし、議論の場にその思いを持ち出されても、いつまでも堂々巡りする不毛な議論になるだけなのです。
「信じている」は感情論だということ、そこをまず認識して、感情論に逃げないところで議論をして頂きたいと思います。感情論に入ると、真実が見えてこない場合が多いということ、おわかりいただきたいと思います。
しかし、内心において感情的に信じつづけるということ、これは自由なんです。そのことまでは私は立ち入らないつもりです。

420アネモネ:2003/01/21(火) 20:40
(つづき)

ここではロムの方も含めて、みんな真実を求めているといえます。真実を求めているが故に、科学的な分析から証明されてしまったことからは目を反らさない姿勢を大事にしているのでしょう。そうした過程においても、正しいと信じていたものと辻褄が合わなくなってきているわけです。
ですから、まず今里さんの信じる結論は、否定するのではなくて横に置いておいて、なぜ独歩さんが御真筆にこだわるのかということを、とことん追求して考えてみられてはどうでしょうか。そのための質問ならばどんどんなさっていいと思います。ロムの方々にも再認識のうえでも大変勉強になることと思われますね。
くれぐれも目先の感情論のために、相手を罠にかけようとする行為は、ご自分が損をするだけですから、止められたほうが良いでしょう。

>僕の文章力が未熟で、不快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんでした。

考えを文章に著すということは、これは本当に大変なことです。またここの掲示板には文筆業を生業としている方も多くロムされていますから、どうしても言葉の言い回しには厳格になります。言い回しひとつが、死活問題になることを心得て書き記しているわけです。
ですから、そのような人から今里さんの文章を見るならば、「信じている」思いだけで断定して記述することの危険性がどうしても目についてしまうのです。それは見逃すことが出来ないのです。
ネット社会において趣味であれ仕事であれ、文章を公表するということはもう立派な言論活動を意味します。そこにはプロも素人もなく、言葉ひとつが命取りにもなるというわけです。素人だから見逃されるということにはならないのです。それが開かれたネット社会の危険性でもあるわけです。ですから、今里さんご自身のためにも、くれぐれもこのことは心得ておかれることを申し上げたいと思います。

>僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。

要するに、これが今里さんの「案」というものですね。しかし教義が信徒の思いから出る「案」で決まっていくというのもおかしなものかなと思いますが。

>一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。

まさにこのように宗門組織の秩序のために、教祖の教えを超えて、教義は変遷してきたのでしょう。そのように個々の人間の幸福よりも、組織の秩序が優先され、それを守ることがあたかも仏法を守ることのように教えられて、大胆な新しい解釈を教祖の教えとして正当化する必要が生じ、偽書が生まれてきた。
偽書成立のシュミレーションを、わざわざ今里さんが示されたようなものではないかと感じます。

スレッドを変えるというご提案ですが、仏教における「信」について議論するスレッドを立て、そこで論じ合うことが良いのではないかとご提案いたします。

421犀角独歩:2003/01/21(火) 21:00

416のちょっと、補足です。

『法華取要抄』の引用がありましたが、その少し前を

広略を捨てヽ要を取るや。答へて曰く、玄奘三蔵は略を捨てヽ広を好む、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨てヽ略を好む、千巻の大論を百巻と成せり。日蓮は広略を捨てヽ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり

つまり、

広・玄奘・四十巻の大品経を六百巻
略・羅什・千巻の大論を百巻
要・日蓮・上行菩薩所伝の妙法蓮華経

しかし、これは本尊について論じるところではありません。なぜならば、この『法華取要抄』に「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり…本門の三つの法門之を建立」の明文が見られます。この三つの法門については、より具体的に、『報恩抄』に

「三つあり…一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし」

とあり、「本門の教主釈尊を本尊」は日蓮の取り定めるところです。殊、本尊に限って言えば、この明文ははずせません。『法華取要抄』の述作は文永11年(1274)5月24日53歳、『報恩抄』は建治2年(1276)7月21日55歳です。

少なくともこの時期に日蓮は本尊・教主釈尊、題目・妙法蓮華経を分別して論じるのであって、引用されるところの(肝)要は、この題目を論じたと以外は読めません。

ですから、「三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕す」という想像は残念ながら、日蓮の真跡が指示しないことになります。

422犀角独歩:2003/01/21(火) 22:03

アネモネさんの提案の「信」について、新スレッドを立てていただくことに賛成です。
あと、

日蓮本仏論は 49の『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
現石山教学は 27の現在の日蓮正宗の教義について
板漫荼羅は  4の本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

と分散しましょう。まあ、できたら、過去ログは読んでもらうと話はスムーズなんですが、たいへんでしょうかね。

403の困ったという字さん(はじめまして)のご提案は4に入るかと。
なお、みかんさんへの私の質問はちょっと個人的ですから、メールで返信をいただくということで(笑)

マインド・コントロール問題も取り上げたいのですが、議論が止まっているので、続くようなら管理人さんにお願いする、こんな感じでどうでしょうか。

まあ、実りある議論をいたしましょう。

423犀角独歩:2003/01/21(火) 22:05

あと、無徳さんとsatさんの議論をなんだか、邪魔してしまったようで申し訳ありません。この件については、ご当人に案を出していただくのがよいと思います。

424無徳:2003/01/22(水) 00:04
独歩さんお気遣いありがとうございます。

ちっとも気にしておりません。satさんと有意義な意見交換が出来ました事を
感謝しています、ありがとうございました。

尚、私も日蓮本仏論者としては今里さんに引けを取らない心算であります(笑)

だた、日蓮本仏論に関しては別スレッドで意見を出し合いましょう。

と言いながら、一寸だけ意見を言わせていただきますと、私の想像ですが独歩
さんが日蓮本仏論に否定的な拘りを持たれる大きな理由として、法華講時代の
苦い経験が有る為ではないかと思われますが、もし間違っていましたらご寛恕
ください。

特に総本山内における僧侶方の権威主義的な在り方に強く反発なされたのでは
ないかとも想像されます。私も総本山において日顕猊下への御目通りと称する
儀式みたいなものに列座したことがあります。

なんと大時代的な所業であろうと呆れた経験があります。さらには一般僧侶の
信徒に対する見下したような態度にも苛つかされました。全ての僧侶がそのよ
うな態度とは言いませんが昔から登山の折々に感じたことでした。

もし、日蓮本仏や唯授一人と言った信仰に於ける「信」の置き処とも言うべき
確信が、権威主義に繋がっているとしたらそれは悪しき共同幻想であり迷妄と
言わざるを得ません。

私は日蓮本仏論が絶対の真理のように解釈されているとしたら、それは間違い
であり誤謬であろうと思います。そもそも、仏教に限らず宗教上の教理は所謂
科学的な真理観とは位相を別にするものであり、基本的なパラダイムの違いを
考慮に入れなくては論議が噛み合いません。

もっとも、こんな事は独歩さんにとっては百も承知のことであり「仏に説法」
と言えましょう。

しかし、独歩さんが日蓮御坊の遺文に日蓮本仏論の根拠(証拠)の全てを求め
ようとする在り方は、確かに一つの正当なる道ではありますが文献学的な方法
論との差異が明確でない感じがしますが如何なものでしょう。

後日別スレッドにて、私にとっての日蓮本仏論として試論を述べてみたいと思
います。

425犀角独歩:2003/01/22(水) 01:01

無徳さん:

お言葉、たいへんに嬉しく存じます。

> 私も日蓮本仏論者としては今里さんに引けを取らない心算であります(笑)

ええ、承知しております(笑)

> 特に総本山内における僧侶方の権威主義的な在り方に強く反発

もちろん、その気持ちはありますが、これと本佛義批判は別です。
私は、日蓮が心の底から釈尊を思う熱い心に胸打たれているのです。

> 私は日蓮本仏論が絶対の真理のように解釈されているとしたら、それは間違い

なるほど。さすがのご賢察と拝します。

> 独歩さんが日蓮御坊の遺文に日蓮本仏論の根拠(証拠)の全てを求め
ようとする在り方は、確かに一つの正当なる道ではありますが文献学的な方法
論との差異が明確でない感じがしますが如何なものでしょう。

ええ、仰るとおりです。
実は私ほど、相伝文大好き人間もいないと自負しております(笑)
しかし、この事実に気がつかれる御仁は少ないのです。
真跡遺文に基づく追究など、初歩の初歩、始まりの始まりであることは百も承知しております。私とて、それほど、馬鹿ではありません。

> 後日別スレッドにて、私にとっての日蓮本仏論として試論

楽しみにお待ち申し上げております。

今回のやり取りに就き、決して言葉を挟まず、見守ってくださった懐の深さに深く感謝申し上げます。

428菊水護国:2003/01/22(水) 12:56
第156回国会開会式(平成15年1月20日(月)(国会議事堂)
「本日,第156回国会の開会式に当たり,この席に親しく臨めないことを,誠に残念に思います。 国会が,永年にわたり,国民生活の安定と向上,世界の平和と繁栄のため,たゆみない努力を続けていることを,うれしく思います。国会が,国権の最高機関として,当面する内外の諸問題に対処するに当たり,その使命を十分に果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。」
以上の言葉を皇太子殿下が御代読されました。殿下が摂政になられる可能性もあるそうです。さて今上の帝におかせられましては、何時までも御身、御大切に御健勝であられることをお祈り申し上げます。菊水護国。

429問答迷人:2003/01/22(水) 20:14
124686 ゲットしました。

430問答迷人:2003/01/23(木) 14:00

125030 ゲットしました。

432問答迷人:2003/01/24(金) 20:58

125567 ゲットしました。

433問答迷人:2003/01/25(土) 22:49

Leoさん

お久しぶりです。どうぞごゆっくりなされて下さい。

125926 ゲットしました。

434Leo:2003/01/25(土) 23:13
問答迷人さん

ありがとうございます。よろしくお願いします。

435モモ:2003/01/27(月) 01:39
上野博物館の大日蓮展に行ってきました。正宗内ではあまり今回の展示については何もコメントがありませんでしたが、
立正安国論と観心本尊抄(両方とも千葉の中山法華経寺にある)の真筆が拝見できたのはとても良かったと思いました。
貞観政要の真筆もありましたが混んでて良く見れませんでした。あと日蓮大聖人真筆の大きな曼荼羅(名前は失念しました)も印象に残っています。
一塔二尊四士の仏像も拝見できました。あと金文字の法華経など。以上の展示が印象に残っています。

しかし、今回は日興門流の展示はなかったようです。日興門流以外の上人さん達の絵像もありましたが、正直言ってあまり興味がありませんでした。
あと日蓮大聖人の年表もちょっと見てみましたが、大事な弘安2年10月12日の本門戒壇大御本尊建立が書いてありませんでした。世間的な大聖人の見方はこんなものかな、というのが正直な感想です。
大石寺からの出品もなにもなかったようです。もっとも大石寺では大講堂の展示で諫暁八幡抄の真筆(のレプリカ)があったのでそれはそれで良かったと思います。

436問答迷人:2003/01/27(月) 09:51

126506 ゲットしました。

438困ったという字:2003/01/27(月) 20:20
>435のモモさん
>大石寺では大講堂の展示で諫暁八幡抄の真筆(のレプリカ)があった

花押はありましたか、それともなかったですか?

439:2003/01/28(火) 13:53
127000ゲット!

440モモ:2003/01/29(水) 02:40
そうです。文字曼荼羅の名前は「臨滅度時」です。

諌暁八幡抄の花押まではちょっとわかりません。たぶん巻物の中に隠れていたと思います。

441問答迷人:2003/01/29(水) 22:21

127514 ゲットしました。

442問答迷人:2003/01/31(金) 10:20

128000 GET!

443一等:2003/02/02(日) 03:15
壊れてませんか?

445問答迷人:2003/02/02(日) 09:09

一等さん

>壊れてませんか?

何か、不都合がありましたでしょうか?


128616 ゲットしました。

447問答迷人:2003/02/03(月) 17:14

129060 ゲットしました。

448一等:2003/02/04(火) 17:06
>>445問答迷人さん
2/1に、ほとんど投稿がなかったのでそう思いました。大変失礼しました。
(こちらのPCが調子悪かったのかもしれません)

449犀角独歩:2003/02/05(水) 21:49

私もやっと大日蓮展を見てきました。
感想としては「つぶやきすれっど2」にワラシナさんがお書きになっている点を「なるほど」と思ったものです

臨滅度漫荼羅の前に小一時間おりました。
何度も表装されたのでしょう。周囲が損なわれているのは、むしろ、大切に表装を繰り返されたためなのかと思いました。

しかし、それにしても、真筆の漫荼羅の何とも優美なことか。

あと、『立正安国論』をあれだけの量を展示していたのを、少なくとも私は初めて見ました。ここだけでも1時間以上はいました。『本尊抄』が少ししか拝せなかったのは残念でした。

日蓮の文字の迫力の前には、それ以降の作品など、どんな著名な芸術家でも色褪せていました。

私は個人的に感慨を懐いたのは、あれほど大きな釈迦涅槃図を見ても、墨一色の日蓮入滅図のほうがはるかに胸を打ったことでした。やはり、自分は日蓮を崇敬しているのだと改めて再認識しました。

あと、余談。
先のガンダーラ・マトゥラー仏像展の時も同じ光景を見たのですが、国立博物館の手前の公園で、上野よみがえり会というキリスト教の一派がホームレスを集めて賛美歌を歌っていました。ざっと数えて400名以上いました。礼拝のあとに食事でも配るのでしょうか。
閲覧を終えて、その場所に戻ると3人の床屋さんがホームレスの髪を刈っていました。
その前を形ばかりの袈裟、毛糸の帽子をかぶり、スニーカを履いた坊さん?が何事も見えないように通り過ぎていきました。ボランティアと目する人たちと残っているホームレスの人がにこやかに話している横を、です。

それと展示との対比、私は複雑な思いを抱きながら、その場を去りました。

450みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/07(金) 07:24
>>364 さかなこさん
> 基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて安い本

御書の概説書みたいのがあるのを忘れてました。

『御書を学ぶ人のために』(第三文明社 2000年 1000円)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476061648/

小林・河合『御書と鎌倉時代 上・下』(第三文明社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476060838/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476060846/

『御書と鎌倉時代』の方が内容的には、良い本だと思いますが、『御書を学ぶ人のために』のほうが、安いし読みやすいとは思います。んが、御本仏がどうのとか、ウソもいっぱい書いているので、そこは自分で判断する必要があります。
あと、偽書とか真偽未決について明記していないので、そこも自分で注意する必要があります。

451タロウ:2003/02/07(金) 17:38
こんにちは。
偽書・真偽未決御書について、たとえばこの御書は、身延に真蹟がある」など
詳しくわかるHPをご存知でしたら、教えていただけませんか?
以前は有ったのですが閉鎖され困っています。よろしくお願いします。

452さかなこ:2003/02/07(金) 23:03
みかんさん>

どうも。ウソが見ぬけない私にはちと難しい本かもしれませぬ。。汗

そういえば以前、ご紹介して頂いた「日蓮大聖人御書辞典」が家にありました。

453みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/08(土) 14:46
>>451
タロウさん
「詳しくわかるHP」というのは、どこのことでしょうか。日蓮正宗法華堂にあった、各遺文集・御書全集の目次を校合したcsvファイルのことでしょうか。あれなら私は保存しています。

さて、そういうHPはちょっと知らないのですが、基本的には、遺文集の目次を見れば(どの遺文集でも)、真跡・古写本がどこにあるかは書いてあるので、それを参考にしてください。

たしか小林正博氏の本に、御書の信頼性を、A,B,C,Dにランク分けしたものが載っていたような気がしますが、どの本かちょっと覚えていません。たぶん、『日蓮大聖人の「御書」をよむ』(第三文明社)だったような気がします。手元にないので、確認できません。

454タロウ:2003/02/09(日) 12:26
みかんさん こんにちは
膨大な量の、「御書」。全ては読めないかも。しかし真蹟だけでも読もうと思っています。
>遺文集の目次を見れば(どの遺文集でも)、真跡・古写本がどこにあるかは書いてある
そうですか。過去ログに、確か「昭和なんとか定本」と言う本のことが書いてありましたが
ちょっといまあたれません。この本でも良いでしょうか。

455みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/10(月) 18:02
>タロウさん
『御書』は何をお持ちですか。学会版の『御書全集』『編年体』、大石寺版の『平成新編』のいずれかをお持ちで有れば、それで良いと思います。
本当は注釈付きとか、現代語訳つきの奴の方が、最初は良いです。

『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺)は、3万5000円ぐらいしますし、市販してないし、漢文は書き下してないし、日蓮研究者以外には必要有りません。日蓮研究者はこれ持ってないとまずいですが。
もし『昭和定本』がどうしても欲しいなら、日蓮宗新聞社に電話すれば買えます。(03-3755-5271)

456タロウ:2003/02/10(月) 18:24
みかんさん
3万5000円じゃない方のを買ってみます。(笑)
どうもありがとうございました。

457犀角独歩:2003/02/12(水) 05:35

学会を含む石山系心というのは奇妙であると思う。漢文を難しいという。教学といいながら、漢文原典をオミットするからだ。

ところが、朝晩、漢文のお経を唱えているのである。そして、その意味もわからないのだろう。学会を含む石山系信徒には、漢文は唱えるには唱えるが意味のわからないお呪いなのだろうか。

その意味のわからないお呪いを、これまた、漢文だけで書かれた漫荼羅本尊に向かって唱え続けている。題目の「南無妙法蓮華経」にしても漢文である。それなのに、漢文はわからない、意味がわからないと言う。たぶん、私が引用する漢原文など、多くの人は読み飛ばしていることであろう。それが信仰の根幹をなす一念三千なるものに係るものであっても、漢文となれば途端に拒絶反応が起こるのだろうか。

意味がわからないけれど、信じることが大切だというわけなのだろうか。
私は意味のわからないものは信じない。信じることと覚ることは同時であると思うからだ。各人が勝手に信仰と思っていることは“わからないことを思い込むことを信じること”と錯誤しているのに過ぎないと思うのだ。

…日はまだ昇らない眠れない朝を迎えて、私はそんな有様を思っていた。

458犀角独歩:2003/02/12(水) 05:50

「意味のわからないものは信じない」
こういうと、学会を含む石山系信徒は、こういうだろう。

「そんなはずはない。今、目の前に、コップにつがれた水がある。それを疑わず、飲むのはそれが毒でないと信じているからだ」

折伏と言われる勧誘でよく使われるトーク・テクニックだ。
けれど、私はそのコップの水を毒でないと信じているから飲むのではない。経験から、そのコップの中の液体が安全であると思うから飲むに過ぎない。この経験の蓄積から得る安全認識もまた、「信」の結果とすり替えられる。人間は信じなくとも行動することも、生きていくこともできる。仏・法の崇敬も元来、直接的に信仰と呼ぶものではなかった。そんなことを考えようとしたのが「仏教における信」のスレッドであった。しかし、無条件で信じ込ませることによって利益(りえき、りやくではない)を挙げてきた集団と指導者にとって、斯くなる考えは眉を顰める被支配者の雑念ととらえたいであろう。

漢文の意味がわからなくても有り難がって支配され、言われたとおり行動する烏合の衆であるほうが都合が好いからだ。意味のわからない漢文を日々唱え、有り難がっている人々が、漢文原典に振り向きもせずに、自信満々でいられるのは、そんな支配者の罠に易々とはまり続けているからに他ならない。何故ならば、原典から理解されて、いちばん困るのは常に集団とその指導者であるからだ。

459犀角独歩:2003/02/12(水) 11:46

漢訳仏典教学は終焉を迎えた。これは間違いのない事実である。
ただ、現在もそのような信仰が可能なのは、偏に隔離対策が成功しているからに他ならない。恐怖と功徳、選民思想で糊塗すれば、肉の付いた歯が700年以上も生き続け、今も成長しているなどという嘘も罷り通る。

梵本原文と漢訳経典が違っていようと、その漢訳経典によって組み立てられた教義の絶対性にしがみつく。しかし、しがみついているのは自分自身の執着へ、だろう。

そして、梵本原典は、というと、これまた、シャキャムニの直説とは言い難いようだ。では、シャキャムニの直説探しに時間を費やすことが賢明なのであろうか。ここで言う直説とは真理とか、法とか言われるものだ。

結局のところ、シャキャムニはそんな真理だ、法だと言われるものを言語化してはいないのだと思う、「正しい教え」、「真理」に類する発言はあったろう。それはシャキャムニが実感した、いわゆる悟りというものをそのようが語彙を以て説明したのに過ぎない。真理という語彙はしかし、真理そのものではない。

そんな言葉の限界をシャキャムニは知っていたろうと思う。そこで示せたのは、ではどうすれば、その真理にいたれるかという方法の提示であったろう。それが修行方法の提示ということであった。修行方法を語った言葉・経典に霊力があって願いを叶えるわけではない。その方法に則って修行をするから成果として真理、法にいたる悟りを得られる可能性があったのに過ぎない。

偶像崇拝というキリスト教側の批判があるが、つまるところ、言語化されたものでさえ、言語という偶像である。言語化されたものは言語であって、そのものではないからだ。その意味では聖書も偶像ならば、経典も偶像である。だから、捨て去るというのではない、限界を知るということだ。

生を得ることは天文学的な確率で、胎内では、生物数十億年の進化を追体験し、そして、わずか100年に満たない時間を与えられる。火花の煌めきよりもさらに短い一刹那の出来事である。

その間に、人間は生まれ苦しみ、老いて苦しみ、病んで苦しみ、死に苦しむ。
愛するものとはやがて別れ、憎みものと会うこともある。四苦の限界を持つ生物は叶った願いもやがて潰え、考えあぐねる身心はむしろ苦しみを生じさせる。

しかし、私はいま生きていることを奇跡であると思う。
この奇跡からすれば、宗教団体が提供する奇跡物語など、一切は色褪せて見える。
奇跡は自分が今生きている現実そのものであるからだ。

460いちりん:2003/02/12(水) 11:55
独歩さん 
まことにもって同感です。

461さかなこ:2003/02/12(水) 13:11
>>458

>「そんなはずはない。今、目の前に、コップにつがれた水がある。
>それを疑わず、飲むのはそれが毒でないと信じているからだ」

私はよく「構造を知らなくてもテレビを見ることができる。テレビを
見るためにはいちいち難しい構造を知る必要はない。信心もそれと一緒だ」
と言われます(笑)

463五月雨:2003/02/12(水) 14:19

>考えあぐねる身心はむしろ苦しみを生じさせる。

そうなのでしょうね、考えあぐねている今の私の状態です。
苦しみしか生じないものであれば、それは人生の無駄になるのでしょうね。
宗教が無くても生きていけます。もしかしたら、その方が楽なのかもしれません。

464いちりん:2003/02/12(水) 14:24
>神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、
 自分に変えられることは変える勇気と、
 そしてそのちがいがわかるだけの知恵をお与えください」

ほんと、いいことばですね。
智慧というのは、「変えられることと、変えられないこと」を識別する力をいんだなあとも思いました。
わたしたちは、変えられないことをなんとかしようと頑張って、そうして苦労してしまうわけですけど。いや、苦労することも意味があるわけだけど。

でも、ああ、これは受け入れればいいんだなあ、ああこれは勇気を持って変えていけばいいんだなあと、穏やかにものごとに対処できること、それがひとつの宗教的な境地なのかもしれませんね。

そうして、わたしが尊敬するフランチェスコというキリスト教の聖者がいますが、その方の祈りのことばです。これもすばらしいです。有名なので、皆さんご存じだとは思いますが。。


平和を求める祈り 

主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい

憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを

分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を

誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を

闇に光りを
悲しみのあるところによろこびをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを

わたしが求めますように
わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ

自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから

465五月雨:2003/02/12(水) 14:38

>平和を求める祈り 

主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい・・・

このことばはところどころ知ってはいましたが、全文を読んだのは初めてです。
いい祈りのことばですね、感動しました。

意味の分からない勤行要点で21年勤行してましたが、こんな感動を感じたことは無かったです。

意味を知る、分かるということは大事ですね。
勤行要点の意味することが分かっていれば、感動もあったかもしれないです。

いちりんさん、素敵なことばを有り難うございました。

466犀角独歩:2003/02/12(水) 15:55

マイケル・J・フォックスが書いた言葉は仏教であると私は思いません。
仏教であれば、神などに祈ったりはしないからです。ひたすら、自分の精進のなかで、しかし、獲得されるところが、ややフォックスと見かけばかりが似通っているように見えるだけでしょう。

しかし、仏教がもたらすものは平静ではなく平安であり、それは神と言った絶対者に与えられるのではなく、自らが至る結論です。仏教は絶対者の介在など必要としません。そして、絶対者へ何ものも期待しません。それだけにフォックスの言葉以上に徹底されているのだと私は思います。

467五月雨:2003/02/12(水) 16:04

言葉足らずでしたね、神様の部分はなんでもいいと思います。
そして仏教に通じると訂正致します。

468犀角独歩:2003/02/12(水) 16:22

絶対者も期待しない、死後の世界も望まない、もはや、救済すら不要の、あるがままのすべてを受け入れる境地には、何ものも、遠く及ばないと思えます。

469五月雨:2003/02/12(水) 16:34
>468

私は元より神など信じていませんから、仏教を学ぶ者として
マイケルの言葉を仰る通りに受け止めました。

470みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/12(水) 16:37
にょ。

独歩さん、五月雨さんにマイケルの「平安の祈り The Serenity Prayer」(アルコホリックアノニマスが使用)を紹介したのは私ですし、これが仏教で、これ以上何も要らないと言ったのも私なので、あとでレスします。

わたしは神は要らないですけどね。仏も要りません。本尊も要りません。

おっしゃるように、あれになったら何も要らないんですよね。仏も要りません。ただあるようにあればいい。
あのあとは、そういうザッハリッヒ(Sachlich)なありさまです。それが仏教です。

そうなったら、ただ生きれば良いんです。

471五月雨:2003/02/12(水) 16:46

>470

みかんさんに教えては貰いましたが、それを読んでの感想は私の感想です。
どんな感想を持とうと自由でしょう。

472犀角独歩:2003/02/12(水) 16:50

みかんさん:

私の言いたかったのは457〜459です。
フォックスのことはどうでもよいのです。

ただ、いちおう記したのは、神に与えられることを望み、死後の昇天を望む人たちが、受け入れる・平安などということは、まだ不徹底であり、解脱、涅槃には遠く及ばないとだけ言いたかっただけです。その手前のものと混同されては誤解が生じると思ったので、敢えて付言したまでです。

473犀角独歩:2003/02/12(水) 16:51

最後に近づきながら、また間違えました。

誤)受け入れる・平安などということ
正)受け入れる・平静などということ

474みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/12(水) 17:53
>独歩さん、

あれの前の仏教(仏教に限らず)と、あれの後は違います。

あれの前の仏教(仏教に限らず)に、いろんな方便があるのは当然です。神を立てようが、本仏を立てようが、本尊を立てようが、んなことはかまいません。

ただ言わないと行けないことがあるとすれば、方向性が根本的に間違っているときです。
で、マイケルの祈りは方向性はまったく間違っていません。ちっとも間違っていません。知恵(智慧)を求めているからです。
で、大石寺(に限らず現在の日本仏教)は方向性が根本的に間違っています。
何が間違っているかというと、覚(日蓮的に言えば開目、親鸞的に言えば信心獲得・入大乗正定聚、道元的に言えば初発心時便成正覚)を本気で全然目指していないからです。彼らは智慧を求めていないんです。

475犀角独歩:2003/02/12(水) 18:36

みかんさん:

マイケルの方向性が正しいのであればそれでよいのではないですか。
ただ、私は仏教の方向性は絶対者である神も、与えられることも、目指していないという点で、仏教には遠く及ばない、と思っただけです。

以下は五月雨さんが意図したことではありませんが、文章の運びとして、こうなっているという点を注意してください。462に、

「シャキャムニの教えも生死病死の四苦を越えられるものだろうか。どうも、そうではないらしい…マイケル・J・フォックスの自伝に書かれていた言葉、これこそが仏教だと思う」

このような文脈からすると、恰もシャキャムニよりフォックスのほうが仏教であるという印象を与えることになります。しかし、もちろんこれは違います。たぶん、五月雨さんもそんなことを意図したわけではないでしょう。しかし、文の運びはそうなってしまっています。

ですから、フォックスの方向性が仮に合っているとしても、シャキャムニには及ばない、私はその点を強調したかったのです。

なお、みかんさんは

> 神を立てようが、本仏を立てようが、本尊を立てようが、んなことはかまいません

ということですが、私は違います。神を立て、本仏を立て、本尊を立てれば、それはシャキャムニの教えとは違うといいます。また、智慧を求めるか否かを以て、少なくとも私は判断しません。しかし、判断することは否定もしません。智慧とは何かは大きなテーマですが、フォックスの言葉に仏教の智慧を私は見ません。神の恩寵は見えますが。しかし、これは些細なことであって、議論したい内容でもありません。
時間がありませんので、この件はこれでやめにさせていただきます。

私がここに言い残しておきたいのはそんなことではないからです。

476みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/12(水) 18:47
わたしはあれに神の恩寵なんてあまっちょろいものは見ません。あれは絶対的な絶望に立った人から発せられるぎりぎりの言葉です。

さて、五月雨さんの「シャキャムニの教えも生老病死の四苦を越えられるものだろうか。どうも、そうではないらしい。」
というご発言を批判されていますが、これは半分正しいんですよ。

「シャキャムニの教えも生老病死を越えられるものだろうか。どうも、そうではないらしい。」
なら100%正しいんです。

覚ったって、生老病死は消えません。一の矢は受けます。

覚った人が、覚ってない人と違うのは、生老病死を苦しみと感じないこと、いたみを苦しみと感じないことです。そういう意味づけを手放すからです。
そして、様々なトラブルに出会ったとき(一の矢)、それに正しく対処できるので、トラブルをこじらせてさらなるトラブル、さらなる苦しみ(二の矢)を受けないんです。

それが「如来は二の矢を受けない」という言葉の意味です。

477みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/12(水) 18:50
五月雨さん。大変失礼致しました。

五月雨さんの感想と、わたしの感想が別個のことは自明なので、書きませんでしたが、誤解を招く表現であったと思います。

なんでああいうことを書いたかというと、わたしも同じことを感じているわけで、それを独歩さんに否定されたら腹が立つのです。

五月雨さんに降りかかった火の粉は、私にも降りかかっているので、はらわにゃならんと思うわけです。もちろん、はらわにゃならんと思うこと自体が、余計なことで、わたしの無明なのですが。

いずれにせよ、五月雨さんをご不快にさせたわけで、配慮が足らなかったのです。失礼致しました。

478犀角独歩:2003/02/12(水) 18:51

みかんさん:

では、フォックスのほうがシャキャムニより、智慧があり仏教であるというわけですか。私の骨子はここにありますが。

479犀角独歩:2003/02/12(水) 18:56

もう一点、私に腹を立てるのは勝手ですが、私はみかんさん、五月雨さんを否定したわけでも、火の粉を振りかけたわけでもありません。疑義を立てると相手を否定したことになったり、不快にしたりすることになったりというのであれば、議論などできないでしょう。

何をそんな感情的にならなければならないのですか。

480みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/12(水) 19:05
独歩さんに感じるのは、仏教と仏教でないものをまだ区別しているということです。あれのあとにはそういうものはなくなって良いと思うんです。

そして、あれのあとの見地から、あれの前のことを批判していると思うんです。それって意味ないと思いませんか? だって絶対に届かないんですよ。

> フォックスのほうがシャキャムニより、智慧があり仏教であるというわけですか。

それはまったく違います。マイケル・J・フォックスに智慧があるかどうかなんてわたしは知りません。

ただ、

自分に変えられることを変える勇気を持つ。(つまり自分の行為だけ。他人と過去は変えられない。自分が自分であることは変えられない)
自分に変えられないことは受け入れる。(つまりトラブルを苦しみと感じる余計な判断や期待(煩悩)を手放す)
それを見分ける知恵を持つ。(これが智慧・般若)

この三つは、仏教そのものだ、釈迦の思想と同じだ、と私は思ったということです。

481犀角独歩:2003/02/12(水) 19:22

みかんさん:

> 仏教と仏教でないものをまだ区別している

これはまったく存外のご意見です。
そんな矮小なカテゴライズをやめようといってきてきました。
むしろ、「仏教だ」ということをフォックスに掛けて主張しているのはみかんさんのほうでしょう。

また、私は何も批判していませんよ。批判を展開しているのはみかんさんのほうのようにこれまた、感じますが。少し感情が高ぶっていませんか。みかんさんらしからぬ、矛盾に満ちた記述になっていますよ。

「マイケル・J・フォックスに“智慧があるかどうかなんてわたしは知りません”…見分ける知恵を持つ。(これが“智慧”・般若)…“仏教”そのものだ、釈迦の思想と同じだ」

前文では智慧があるかどうか知らない、後文では仏教だ、智慧・般若は釈迦の思想と同じ=智慧があるという記述になっています。

まあ、どうでもいいですが。フォックスにシャキャムニと同じ智慧があるのであれば、けっこうなことではないでしょうか。ただし、私は、その質は違っていると映じます。

一つお尋ねしますが、そのフォックスはシャキャムニを敬虔に崇拝する人なのでしょうか。それとも神を信仰しているのですか。この方に「あなたの言っていることは仏教だ」と言って本人は喜ぶのでしょうか。彼は神を信じているのではないのですか。本人はシャキャムニの智慧と同じであるといわれて、「そのとおりだ」と言うものなのでしょうか。

しつこいようですが、私がここで考えたいのはフォックスのことではありません。
これまた関係ありませんが、私の母もパーキンソン症候群を煩う80歳の老婆です。

482五月雨:2003/02/12(水) 20:23

独歩さんが厳格なまでに、シャキャムニの教えを探求されたことは分かります。
それがきっと当然なことなのでしょう。

私にはまだその教えは完全には分かりません。

だけれども、私の理解は間違っているとは思わないし、マイケルの自伝をあらかた目を通しましたが、彼も仏教を生きてきたと思いました。
人は全て、仏教を生きるのだと思います。
どんな宗教に属していても。

これは感覚的なことです。感覚的にシャキャムニの教えを感じてはいけませんか。

独歩さんにはもうこんな事に関わっているお時間はないのでしょう、もうこれでおしまいです。

私の言ったことに関して誰も突っ込まないでください。無駄な議論になるのでしたら、どうぞ管理人さん、私の462のレスを削除してください。

485犀角独歩:2003/02/12(水) 20:33
敬虔なクリスチャンからすれば、すべては神の御業と映るでしょう。
もちろん、各人がどう感じようが勝手です。

しかし、フォックスはクリスチャンであれば、彼に敬意を表して、彼の感じる神とその考えを尊重したいと思います。私が仏徒であり、すべて仏教と見たいとしてでもです。以上です。

487犀角独歩:2003/02/12(水) 20:37

いずれにしても、私はフォックスに仏教を見るのではなく、シャキャムニに仏教を見ようと思います。

488犀角独歩:2003/02/12(水) 20:46

> 482

突っ込むなと言いながら、問いかけになっているので、この点だけは記します。

> 教えは完全には分かりません…私の理解は間違っているとは思わない…感覚的にシャキャムニの教えを感じてはいけませんか。

完全にわからないのであれば間違っているかどうかはわからないでしょう。
感覚的にシャキャムニの教えを感じることが是であれば、みかさんがいう智慧を不要と言うことになるでしょうね。

どう感じようと勝手だというのであれば、五月雨さんの今里さん批判も成り立たないことになるでしょう。

感情論に終始されるのが、交わす会話の最後となるのは残念な結末でした。

489犀角独歩:2003/02/12(水) 20:47

【488の訂正】

誤)みかさん
正)みかんさん

490みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/12(水) 21:14
ちょっとまってくださいね。いま何が行き違っているのか考えてますから。
こういう場合は文字面をみたらあかかんのですよ。文字面の後ろにあるものを見ないといけないと思うんです。

一個だけ。

>何をそんな感情的にならなければならないのですか。

それはわたしが短気な人間だからです。
気質的な問題です。
こどものころから、切れやすいです。
これはわたしの克服しないといけない多くの問題の一つです。

ごめんなさい。

491さかなこ:2003/02/12(水) 21:31
>「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、
>自分に変えられることは変える勇気と、
>そしてそのちがいがわかるだけの知恵をお与えください」

この言葉を読んで2年くらい前に読んではっとし本のことを思い出しました。
今、流行の癒し系の本か、なーんちゃって心理学の本だか題名は忘れましたが。
「できないことを無理にしようとしてない?できることをやらないでいない?
まずは少しずつできることから始めよう」
不可能を可能に変える信心ということを念頭において世間的な成功の結果ばかり
求めていた私にとってはものすごく衝撃的な言葉でした。

M.J.フォックスくんってなかなか良いことを言うのですね。確かパーキンソン病
かなにかでしたよね。今となってはスクリーン上で彼を見ることはできないの
かしら…残念(>_<)今度その本を探してみます〜。

って話しの流れが読めないやつでごめんなさい。ちこっと言ってみたかったので汗

492犀角独歩:2003/02/12(水) 21:38

みかんさん:

どうも。
基本的に、私は何も批判していないわけで、まあ、そういうことです。
「ごめんなさい」と言われると「ごめんなさい」と意味もなく返したくなり、前に進むのが人間の感情ですね。ありがとうございます。

493五月雨:2003/02/12(水) 21:39

残念な結末にしないでください。

494いちりん:2003/02/12(水) 22:33

それが仏教かどうかは知りませんが、わたしなりに思うこと。

他人は変えられない。
けど、自分は変えられる。
自分が変わると、他人が変わる。

けど、他人を変えようとして、自分を変えてはいけない。
自分は自分でいい。

自分でいいというところに、徹底的にくつろぐことができると、まあうまいこといったりしますね。
この自分ということを、探求していく道。
他人がどうのこうのでなく、ひたすら自分を観る。
その観方をブッダは、示しているんだなあと思ったりするわけです。

で、わたしには、それはどうも大乗経典を読んでもわかりにくい。
小難しい漢字が多くて、難解なことこのうえない。
なにより自分の心を観るという大切な視点が欠落して、哲学的な理屈にエネルギーが向かってしまう。

ところが、原始経典のダンマパダとかスッタニパータなど読むと、自分を観る、とてもいいヒントがある。
ああ、智慧の静けさがあるなあと、感じるんですね。

495阿呆陀羅經@半可通:2003/02/13(木) 03:17
お久しぶりです。

「自分では変えられないことを受け入れる平静さを保ち、
 自分に変えられることは変える勇気を持ち、
 そしてそのちがいがわかるだけの知恵を得る。」

という表現なら、佛教により近づくのかもしれませんね。

496国司@富士宮門徒:2003/02/13(木) 18:03
知らなかったよ。
金正日氏の誕生日が2月16日だって事。

497Leo:2003/02/14(金) 02:00
だいぶスレッドが進んでしまいましたが...

独歩さん曰く:
>学会を含む石山系心というのは奇妙であると思う。漢文を難しいという。教学といいながら、漢文原典をオミットするからだ。

>漢文の意味がわからなくても有り難がって支配され、言われたとおり行動する烏合の衆であるほうが都合が好いからだ。
>意味のわからない漢文を日々唱え、有り難がっている人々が、漢文原典に振り向きもせずに、自信満々でいられるのは、
>そんな支配者の罠に易々とはまり続けているからに他ならない。何故ならば、原典から理解されて、いちばん困るのは
>常に集団とその指導者であるからだ。

「支配者」が成立している背景には「被支配者」側の志向も問題となるのではないでしょうか。
考えずに信等に邁進する方が確かに楽ではあるのでしょう。
かつて民衆が王や皇帝をありがたがっていた時代は民衆はその支配に甘んじていた。

一部の仏教界でも「民は由らしむ可し、知らしむ可からず」(衆愚政治、あるいは民衆に法律や方針を強制
することは可能だが、その背景や理由を理解させることはきわめて難しい。いっそのこと支配者の意図を
説明することは省いて従わせるほうが手っ取り早い)なのだろうか。

無徳さん曰く:
>菅野氏がレグルス文庫の『一念三千とは何か』の中で書いていますと申し上げたまでです。
私は以前一念三千を口にしましたが、この本を読んだくらいで原典を読んでいませんでした。

独歩さんがこのように言われているので複雑な気持ちですが、
独歩さん曰く:
>漢訳仏典教学は終焉を迎えた。これは間違いのない事実である。
私は原典を読む気になりました。

498Leo:2003/02/14(金) 02:03
(追伸)
もちろん、原典を読む《だけ》で仏教が理解できるとは(も)思ってないです。

499犀角独歩:2003/02/14(金) 11:23

Leoさん:

> 一部の仏教界でも「民は由らしむ可し、知らしむ可からず」

なかなか適切な言葉を引用されますね。
まさにこのとおりです。しかし、「一部の仏教界」ではないでしょう。全仏教界、殊に学会を含む石山系の際だった特徴でしょう。

昨日、こちらにも投稿されるとある御仁から、非常に興味深い情報が寄せられました。
たぶん、今後、富士門流教学研究の中心となるであろう拠点で、日蓮真跡遺文の研究会が向こう10年近くの予定で始められるということでした。

もう一つ。学会でも四半世紀前から注目してきた人物が、近く梵本直訳の法華経の出版に着手するとのことでした。これもまた、上述と同様の拠点からであるといいます。

上記、二つの出来事は今後の「日蓮」動向を大きく変えていくものとなることでしょう。その成果がようやくと実を結ぶのはいつのことか、また四半世紀もあとのことになるかも知れません。しかし、確かにいま大きく変わりつつあります。

漫画を読んでいた子どもも長じては文を読むようになります。
生命論は漫画としては面白かったのですが、SFコミックを超えるものではありませんでした。漫画を捨てて良書を読むことで日蓮の実像は知られることになるのでしょう。

私も学会から出た一人として、漫画を捨て書を読む、日々を送りました。それは漢字だらけの書物でした。しかし、その守文はさらに心を頑なにしました。

冷静になって仏教学会に眼を向ければ、仏徒は原典を追っていたのです。僅か100年前からの出来事です。そこで気付かれたのは、2000年前の神話時代の原典は、さらにその500年前のものより神話的であるという事実でした。

どの方向に自分が歩むことが賢明か、どうかその道を過たず、お進みください。
違う道から歩み出しても、その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう。何年先か、あるいは何十年先か、涅槃の先かわかりせんが、再会を楽しみにしております。

500菱村正敏:2003/02/14(金) 20:39
その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう→一切衆生、到着点は違うし同じ。日蓮や釈迦の呪縛から解放されるともっと楽に生きられるかもね。リラックスリラックス。ご苦労さまでした。

501問答迷人:2003/02/16(日) 07:47

133060 ゲットしました。

502犀角独歩:2003/02/16(日) 11:30

> 499

自己レスです。「再会」などと勝手なことを書いてしまいました。
再会するのは個人と、ということではなく、「考え」にということになるでしょう。
そんな意味でした。

503犀角独歩:2003/02/16(日) 11:55

かつて、問答名人さんとアネモネさんと3人で沸騰した議論をしたことが懐かしく思い出されます。ここに初めてお邪魔したとき、私はまだ戒壇本尊論者でしたし、日蓮本仏論者でした。唯授一人血脈相承も信奉していました。

本当に多くの学びと問答名人さんと議論ができたことを嬉しく思います。
そして、アネモネさんと議論し合えたことを嬉しく思います。

富士門教学に引きずられていたときが序分であれば、3人で語り合ったことは正宗分、そのあとは流通分といったところでしょうか。

時間は、あっという間に過ぎ去ってしまうものですね。気付きがなければ、意味なく人生は終わってしまうでしょう。鷹揚に構えている暇はないと考えています。

いちりんさんが記された「気付き」は実に重要でした。私たちに共通する点ではないかと思ってきました。

執着のあるところには自己弁明と言い訳…、こうあって欲しいという願望だけがあり、そこにしがみつく姿は、離れた辺から見ると、滑稽とも、哀れとも映じます。石山人であった過去の自分は、そう想い起こされます。

手が届かない天空と思い仰ぎ見ていたものは、執着を離れて見れば、自分が踏みしめている大地でした。その大地から仰ぎ見る天空は、過去半世紀眺めてきた天空より遙かに広大なものでした。

そんな気付きに向かい、3人で語らい会える時間を持てたこと。懐かしいですね、あの頃のことは。お会いできてよかった。

以下の言葉をかみしめて、また独り歩いていこうと思います。

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。

504五月雨:2003/02/16(日) 12:24

独歩さん

私は、去年の春頃にこの掲示板に巡り会い、そしてやり取りされた議論を読ませて頂きながら、沢山のご質問を独歩さんにしました。もしかしたら、私が一番独歩さんに数多くのご質問をしたかもしれません、いつも独歩さんは真摯に答えて下さいました。
当時石山信仰から脱けきれていなかった私には、それは衝撃的ではありましたが、「真実にたいして正直であれ」というお言葉を道しるべに石山の真実を見てきました。
そしていま、石山信仰の呪縛から解き放たれた私があるのは、独歩さんのお陰です。有り難うございました、心から感謝を申し上げます。

独歩さんが居なくなった掲示板は寂しくなりますが、どうぞお元気でいらして下さい。

505アネモネ:2003/02/16(日) 15:41
犀角独歩さん

この約2年間の掲示板での議論の数々を振り返られ、私のことも思い出に数えて頂いたこと、心より嬉しく思います。

どれほど多くのことを学ばせていただき、気づかせて頂いたでしょうか。
理解するまでには、かなりの時間とレスを要したこともあり、理解し納得する過程においては、ついつい感情的になってしまったことも幾度となくありました。
今となってはそれも良き思い出であり、全てが感慨深く、とても言葉には尽くせない思いです。
それでも敢えて言葉にするならば、少し前の独歩さんのレスの中にありました「一刹那」と「奇跡」という言葉が、今の私の心境に近いものだと感じています。

犀の角のようにただ独り歩む「犀角独歩」さんの、そのただ独りの歩みの一刹那において、実に多くの人々をこの掲示板に集め、意義深い議論を重ねてきて下さいました。
その交わりの場で共に過ごし学ばせて頂いたこと、振り返ればまさに一刹那の奇跡だったようにさえ感じております。

その交わりは長く続いていくものだと思っておりました。
しかし、移り変わっていくことも受け入れなければならないということを、最後に教えられたのかもしれません。

それでも、どうぞまた懐かしくなったら、いつでもお立ち寄りください。
本当に、ありがとうございました。

506無徳:2003/02/16(日) 19:20
皆さん今晩は:

何か独歩さんがこの掲示板でのやり取りから引退するかのような、お話になっ
ているようですが本当でしょうか?

もしそうであるとしたら残念ですね、それに、この掲示板はプロの書き手が集
まる言説空間ではないでしょうから、引退的なけじめはなさらなくてもよいの
ではと思うんですが、

確かに独歩さんが中心的書き手であったことは事実ですが、もっと気楽な形で
の参加でよろしいのではないでしょうか?

ただ、独歩さんの持たれる性格からはっきりしたけじめを就けたいとお考えで
あれば、それも仕方ないかなとは思います。

どちらにしても、まずは独歩さんお考えをお聞きしてから書くべきコメントで
した。

509問答迷人:2003/02/16(日) 21:15

独歩さん

>かつて、問答名人さんとアネモネさんと3人で沸騰した議論をしたことが懐かしく思い出されます。ここに初めてお邪魔したとき、私はまだ戒壇本尊論者でしたし、日蓮本仏論者でした。唯授一人血脈相承も信奉していました。

独歩さん、本当に有り難う!

独歩さんとの議論を通して、僕は、戒壇本尊、日蓮本仏、唯授一人血脈相承という、大石寺教学の根幹が、如何にその根拠が薄弱なものかと言うことを、まざまざと知ってしまいました。本当に貴重な二年間であったと思います。幾度もお会いして、独歩さんの真摯な姿勢に、頭の下がる思いを幾度したことでしょう。

今後、独歩さんは、富士門信徒という枠を超えて、大きくご活躍されることになるのだとご拝察申し上げ、その成果、戦果に大いに期待致しております。

それにしても、寂しくなります。時々は掲示板を覗いてみて下さいね。

510Leo:2003/02/16(日) 21:40
独歩さん

>どの方向に自分が歩むことが賢明か、どうかその道を過たず、お進みください。
>違う道から歩み出しても、その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう。
>何年先か、あるいは何十年先か、涅槃の先かわかりせんが、再会を楽しみにしております。

今までのご教示と今回のアドバイスありがとうございました。

>自己レスです。「再会」などと勝手なことを書いてしまいました。
>再会するのは個人と、ということではなく、「考え」にということになるでしょう。
>そんな意味でした。

了解しました。
(機会がございましたら「個人」としても一度ご挨拶申し上げたいと思っておりました)

511いちりん:2003/02/20(木) 21:30
書き込みが止まってしまって、淋しいですね。

512タロウ:2003/02/21(金) 01:01
興門以外の本尊観について、知りたいです。

513問答迷人:2003/02/21(金) 08:15

いちりんさん こんにちは

本当ですね。今までは、独歩さんが頑張っていて下さったので、次々と書き込みが有りましたが、やはり淋しくなってしまいました。これを、一つの節目として、今までの議論を整理しながら、新しい展開を模索したいと思っています。宜しくお願いいたします。

タロウさん 

以前、独歩さんのご紹介で、富士宮にある、日蓮宗のお寺にお邪魔したことがあります。そこには、紙幅の曼陀羅が奉掲され、その前に釈尊像が祭られていました。一尊四士だったように記憶しています。久遠実成の釈尊を本尊とするわけで、木像の仏像を本尊としていました。また、信徒さんに対しては、信徒さんが総本山の身延山で買ってきた曼陀羅に、住職が裏書きをして、各家庭に祭る形を取っていると話しておられました。たしか、身延山で売っているのは、日蓮聖人の真筆曼陀羅を印刷したもの。

134148 ゲットしました。

514脱会者:2003/02/21(金) 10:04
某学会批判の掲示板で下記の書き込みを見たのですが、日蓮大聖人は釈明の手紙を書いているのでしょうか?
とても気になって仕方がないので、場違いな書き込みですが、知ってる方がいましたら教えていただけないでしょうか。
>法華経の行者は迫害される”というのは、
「観持品第十三」に書かれていること。
日蓮もこれをもって自分は法華経の行者であると
自認していた。
もっとも次の「安楽行品第十四」にて、
法華経を広める者は、他宗を批判しないように
とも書かれている。
当時の日蓮は弟子にこのことを突っ込まれて
釈明の手紙を書いているはず。

515いちりん:2003/02/21(金) 11:40
うわっ。風呂に入っていて、いま気がついた。
大日蓮展は、今月の23日までだ。
土日は、混むだろうから、これから行かなくちゃ。

516問答迷人:2003/02/21(金) 11:40

脱会者さん

開目抄下 574頁(大石寺版)に以下のようにあります。

疑って云はく、念仏者と禅宗等を無間と申すは諍ふ心あり。修羅道にや堕つべかるらむ。又、法華経の安楽行品に云はく「楽って人及び経典の過を説かざれ。亦、諸余の法師を軽慢せざれ」等云云。汝、此の経文に相違するゆへに、天にすてられたるか。答へて云はく、止観に云はく「夫仏に両説あり。一には摂、二には折。安楽行に長短を称せずといふが如きは是摂の義なり、大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れといふは、是折の義なり。与奪、途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云。弘決に云はく「夫仏に両説あり等とは、大経に刀杖を執持すとは、第三に云はく、正法を護る者は五戒を受けず、威儀を修せず。乃至下の文、仙予国王等の文、又、新医、乳を禁じて云はく、若し更に為すこと有れば、当に其の首を断つべし。是くの如き等の文、並びに是破法の人を折伏するなり。一切の経論此の二を出でず」等云云。文句に云はく「問ふ、大経は国王に親付し、弓を持ち箭を帯し、悪人を摧伏せよと明かす。此の経は豪勢を遠離し、謙下慈善せよと剛柔碩いに乖けり。云何ぞ異ならざらん。答ふ、大経は偏に折伏を論ずれども、一子地に住す。何ぞ曾て摂受無からん。此の経は偏に摂受を明かせども、頭破七分といふ。折伏無きに非ず。各一端を挙げて時に適ふのみ」等云云。涅槃経の疏に云はく「出家・在家、法を護らんには、其の元心の所為を取り、事を棄て理を存して、匡しく大経を弘む、故に護持正法と言ふは小節に拘らず、故に不修威儀と言ふなり。○昔の時は平らかにして法弘まる。応に倶に戒を持つべし、杖を持つこと勿れ。今の時は嶮にして法翳る。応に杖を持つべし、戒を持つこと勿れ。今昔倶に嶮なれば応に倶に杖を持つべし。今昔倶に平らかなれば応に戒を持つべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず」等云云。汝が不審をば、世間の学者、多分道理とをもう。いかに諌暁すれども、日蓮が弟子等も此のをもひすてず。一闡提人のごとくなるゆへに、先づ天台・妙楽等の釈をいだして、かれが邪難をふせぐ。夫、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし。譬へば、熱き時に寒水を用ひ、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失ふ。末法に摂受・折伏あるべし。所謂、悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし。

517脱会者:2003/02/21(金) 21:35
問答迷人さん
御書の語文並びに現代訳まで載せていただき、ありがとうございました。
自分は学がなくて理解不能です。(汗
用語辞典を片手に、何度も読み返して見ようと思います。

518いちりん:2003/02/21(金) 22:48
日蓮さんが、自分は「法華経の行者である」という自覚というか確信を得たのは、やはり観持品の偈からだったのでしょうかね。

しかしまあ、その観持品の偈というのは、「迹化の菩薩」の決意表明であるわけですよね。
であるとしたら、観持品の偈を身で読んだということは、自らが、「迹化の菩薩」ということになってしまうわけです。

でもって、お釈迦さまは、安楽行品において、そんなに気張らんと無理せんでもいいよ。というわけですね。あっちこっちぶつかって、強情をはって布教するのは、違うのだよと。

519三吉:2003/02/21(金) 23:10
強情はって布教するのは違うというのには賛成ですが。。。
布教つーのは「後姿」でせいと思いますが。。
以下、つぶやきです

安楽行品はさいてーだと私は思います。
無理するな=「こーいうヤツには近寄るな」ですから。

あいつは危ないヤツだから近寄るな。
そんなことはいわれんでも日常的にしておる私がいる。


日蓮さんは安楽行品の摂受より、不軽品の折伏といわれた。

すぐ他人様を馬鹿に軽蔑し、悦に入る愚かな私がいるが、
「誰をも軽んじない」姿勢こそが仏教者の生き様との日蓮さんの
メッセージではないかと私は受け止めております。

520問答迷人:2003/02/22(土) 10:13

三吉さん

いつも書き込み有り難うございます。

>「誰をも軽んじない」姿勢こそが仏教者の生き様との日蓮さんのメッセージ

不軽品の折伏とは、具体的には、どのような姿を言うとお考えでしょうか。やはり、堪え忍んで、誰をも軽んずることなく、黙々と菩薩道を行じる姿でしょうか。或いは、声高々と、法華最勝を掲げて、他宗を強く責める姿でしょうか。如何お考えでしょう。お考えをご教示戴ければ幸いです。

521脱会者:2003/02/22(土) 11:46
514の書き込みをした者ですが、
>当時の日蓮は弟子にこのことを突っ込まれて釈明の手紙を書いているはず。
の手紙が「寺泊御書」と判明しました。

523問答迷人:2003/02/22(土) 23:38

脱会者さん

寺泊御書の該当個所は以下の通りですが、まだ、この段階では、釈明が完結していないように思います。やはり、開目抄の516 の前掲文に至って、釈明が尽くされたと言えるのではないでしょうか。

寺泊御書   文永八年一〇月二二日  五〇歳(大石寺版御書486頁)

 或人(あるひと)日蓮を難じて云はく、機を知らずして麁義(あらぎ)を立て難に値(あ)ふと。或人云はく勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或人云はく、我も此の義を存ずれども言はず」云云。或人云はく、唯教門計りなり、理は具(つぶさ)に我之を存ずと。卞和(べんか)は足を切られ、清丸(きよまろ)は穢丸(けがれまろ)と云ふ名を給ひて死罪に及ばんと欲す。時の人之を咲(わら)ふ。然りと雖も其の人未だ善き名を流さず。汝等が邪難も亦爾(しか)るべし。勧持品に云はく「諸の無智の人有って、悪口罵詈(あっくめり)す」等云云。日蓮此の経文に当たれり。汝等何ぞ此の経文に入らざる。「及び刀杖を加ふる者」等云云。日蓮此の経文読めり。汝等何ぞ此の経文を読まざる。「常に大衆の中に在って、我等の過(とが)を毀(そし)らんと欲す」等云云。「国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士に向かって」等云云。「悪口して顰蹙(ひんじゅく)し、数々擯出(しばしばひんずい)せられん」と。数々(さくさく)とは度々(たびたび)なり。日蓮が擯出は衆度(たびたび)、流罪は二度なり。法華経は三世説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来に不軽品たるべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。一部八巻・二十八品、天竺の御経は一須臾に布(し)くと承る。定めて数品有るべし。今漢土・日本の二十八品は、略の中の要なり。正宗は之を置く。流通に至って宝塔品の三箇の勅宣は、霊山(りょうぜん)・虚空の大衆に被らしむ。勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は、日蓮が浅智に及ばず。但し「恐怖(くふ)悪世中」の経文は末法の始めを指すなり。此の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云はく「於末世」等云云。同本異訳の正法華経に云はく「然後(ねんご)末世」と。又云はく「然後来末世」と。添品法華経に云はく「恐怖悪世中」等云云。当時、当世三類の敵人之(これ)有るに、但八十万億那由他(なゆた)の諸菩薩は一人も見へたまはざるは、乾(ひ)たる潮(しお)の満たず、月の虧(か)けて満ちざるが如し。水清(す)めば月を浮かべ、木を植ゆれば鳥棲(す)む。日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す。彼の諸の菩薩の加被(かび)を請くる者なり。

524いちりん:2003/02/22(土) 23:47
寺泊御書って、なかなかいい御遺文ですね。

過去の不軽品は今の勧持品
今の勧持品は過去の不軽品なり
今の勧持品は未来に不軽品たるべし
其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし

また、


日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す

て、なかなかすごいですよね。
まさに、佐渡流罪に入るときですよね。
生きて帰ることはできないかもしれない、そういう思いも日蓮さんには、あったことでしょうね。
そして、弟子・檀那たちは、ものすごく動揺している。

525:2003/02/23(日) 03:41
折伏摂受

まず折伏摂受適宜は『勝鬘経』の説である。(該当箇所)
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/FBaoJi/T120217c.htm
上宮太子はこれを『涅槃経』の勢力折伏の説(該当箇所)
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/GNiePan/T120381a.htm
と折衷し、注した。(該当箇所)
http://www.socket.co.jp/sanbouji/pdf/00084.pdf

日蓮の摂折観も基本は勢力折伏・道力摂受である。

此ノ四菩薩折伏ヲ現ズル時ニハ賢王ト成ツテ愚王ヲ誡責シ、攝受ヲ行ズル時ニハ
僧トナツテ王法ヲ弘持ス。-『観心本尊抄』
「賢王」とは元の世祖フビライ・ハンをいい、「僧」とは日蓮自身を指す。

正法ヲ行スルモノヲ國主アタミ。邪法ヲ行スル者ノカタウトセハ。大梵天王帝釋日月
四天等隣國ノ賢王ノ身ニ入カワリテ。其國ヲセムヘシトミユ。例セハ訖利多王ヲ雪山下王ノセメ。大族王ヲ幼日王ノ失カコトシ。訖利多王ト大族王トハ月支ノ佛法ヲ失シ
王ソカシ。漢土ニモ佛法ヲホロホシシ王ミナ賢王ニセメラレヌ。コレハ彼ニハニルヘクモナシ。-『報恩抄』
しかし日蓮は道力摂受の中に更に摂折があるとし、かつ摂折の意味が逆転している。

「今の勧持品は未来に不軽品たるべし、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし」

日蓮は摂受の中の摂受は未来の目標とし、摂受の中の折伏を行なったといえる。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/

526顕正居士:2003/02/23(日) 03:51
上は顕正居士です。なお。

「摂折の意味が逆転している」のは悪律儀を摂受し、破戒を折伏する、『勝鬘経』とは
逆転している意味です。

527問答迷人:2003/02/23(日) 11:18

顕正居士さん

少し、質問させて下さい。

>「賢王」とは元の世祖フビライ・ハンをいい、「僧」とは日蓮自身を指す。

この本尊抄の文の、このような読み方は、今、初めてお聞きしましたが、日蓮聖人の元意は、そうであったのであろうと改めて、納得しました。

>悪律儀を摂受し、破戒を折伏・・

この点、理解が出来ませんので、お聞きします。聖徳太子は、軽悪は摂受、重悪は折伏、と述べていますが、太子の段階では、勝鬘経に則っていたのに、日蓮聖人が逆転させて用いていると言うことでしょうか。

>日蓮は摂受の中の摂受は未来の目標とし、摂受の中の折伏を行なったといえる。

ここも、少し意味が取れませんが、勧持品は摂受の中の折伏を説き、不軽品は摂受の中の摂受を説いていると言う意味合いが有ると言うことでしょうか。

528問答迷人:2003/02/23(日) 15:53

134614 ゲットしました。

529顕正居士:2003/02/23(日) 19:39
問答迷人さん。今成元昭師が日蓮摂受本懐を唱えておられるが。
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/p4c2.htm
「折伏」は力により屈服させる意味の語で通常は「以不淨觀折伏煩惱令不得起」
(不浄観をもって煩悩を折伏し起こることを得ざらしめよ・阿育王経)のように使う。
「摂受」は「摂取」と同じ語で教えなどを受容する(absorb)意味と衆生を摂護する
(conserve)意味とある。「摂受正法」は受容、「摂取不捨」は摂護である。
「勢力折伏」は王者が刑法を制定し警吏が犯罪者を捕縛するなどをいう。なんら
道徳観念を持たない者に五戒を説くなどはできないゆえ、折伏は在家菩薩には
摂受と同様に修行だが、要するに「折伏」は権力をもって悪人を退治する意味で
弘教の方法などではない。

本尊抄の「行折伏時〜」の文により、日蓮の摂折観は特別でないといえる。
しかし出家菩薩の弘教について「折伏」を使う文がある。たとえば『佐渡御書』 。
http://nakanihon.net/nb/gosyo//sadogosyo.htm
これらの文がある遺文にはほとんど真蹟がない。今成師はぜんぶを偽書とし、
真蹟遺文の問題箇所も後人添加とする。だが、日蓮には自らの弘教が勧持品
の説相に合致したという自覚があった。「法華経の行者日蓮」の体験は遺文の
主内容である。かつ日蓮は浄土、真言の祖師、自身所属の山門の円仁を謗り、
同時代の忍性については限度を越えている。『崇俊天皇御書』(真蹟曽存)にいう。
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。 不軽菩薩
の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
http://nakanihon.net/nb/gosyo/susyunntennnougosyo.htm
日蓮の矛盾をどう考えよう。ただし、折伏を末法弘教の方軌とした上で、それは
不軽品の精神の実行そのものという説を『寺泊御書』(真蹟完存)は否定している。
「今の勧持品は未来は不軽品為るべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為るべし」

「摂受」は「摂受正法」、「摂護衆生」(摂取不捨)の意味である。悪律儀者は折伏の
対象のはずだが、日蓮はこれら殺生を生業とする武士、漁師を摂受の対象とした
とおもう。「摂受の中の折伏」は権化の菩薩やその眷属であっても「時にあわない」
人々を批判してよいと考えたのでなかろうか。日蓮は「仏種」を本仏が下種すると
し天然と考えなかったから、「但行礼拝」は将来に属する。『本尊問答抄』は天然と
いうので困るのだが。

530問答迷人:2003/02/24(月) 22:29

顕正居士さん

ご教示有り難うございます。少し、日蓮聖人の摂受観、折伏観の大綱が飲み込めました。如説修行抄が、刷り込みとして働いていましたので、顕正居士さんの仰っておられる意味が取れませんでした。日尊師の古写本のみ残す如説修行抄が偽書とすれば、随分と、如説修行抄によって摂受と折伏について、間違った固定観念を持って仕舞ったために、本尊抄の「行折伏」等の文の意味を取り違えてしまっていたのだと思いました。

>「摂受の中の折伏」は権化の菩薩やその眷属であっても「時にあわない」人々を批判してよいと考えたのでなかろうか。

道力摂受の上において、時にあわない人々は、かえって武士漁師よりも重悪であり、摂受の上の折伏によってしか利益する事が出来ないと考えられたのだと思います。

>日蓮は「仏種」を本仏が下種するとし天然と考えなかった

この点、上手く理解が及びません。もし、宜しかったら、もう少しご教示賜れば幸いです。

>『本尊問答抄』は天然というので困るのだが。

本尊問答抄も、日興写本のみを残し、真跡がありません。偽書、或いは、改竄の可能性が有るのではないでしょうか。

531問答迷人:2003/02/25(火) 13:35

135048 ゲットしました。

532ハル:2003/02/26(水) 02:37
「北極へ立っている人へ」
.

あなたは北極に立っている。
あなたの絶えまない求道心があなたをその極北へ導いた。
.
あなたは北極に立っているから、自分とは違う位置に立っている人を
すべて「南」に立っていると見なすのだろう。
だがそれは違う。
.
ぼくは北極に立っていない。
ぼくの周りにいる人は「東」であり「西」であり「南」であり「北」である。
いろんな人がいる。
ぼくも「いろんな人」のひとりなわけだ。
.
あなたの視点。
しかしその視点がすべてではない。
.
あなたへ
ほんのすこし、その位置から動いてみるがいい。
今よりもっと、「いろんなもの」が見えてくることだろう。

533無徳:2003/02/26(水) 23:59
皆さん今晩は:

私もこの度、自前のWebサーバーにてホームページを少々リニューアルして
立ち上げました。以前よりはセキュリティーにも力を入れましたのでよろしか
ったらタマにはお立ち寄りください。 http://sakumayk.com

534いちりん:2003/02/27(木) 10:32

春ですね。
庭にフキノトウが生えていた。
いくつか摘んだ。天ぷらにでもするかなあ。

535五月雨:2003/02/27(木) 11:06

ホント、春が来たようですね。
東大寺のお水取りが終わらないと春はこないと思っていましたが。

春、と聞くだけで何だかワクワクしますね。

春、はる、ハルさん、532の詩はとても素敵でした。
ハルさんが書かれた詩なのでしょうか。
(春からハルさんを連想しての唐突過ぎるレスですね、
ゴメンなさい)

いちりんさんのお家のお庭にはフキノトウが生えるのですか、
いいですね。
私は食べたことはないのですが、
フキノトウのてんぷらはとても美味しいとか。

私も試してみようかな…

536いちりん:2003/02/27(木) 11:57
いま庭に生えていて食べられそうなのは、ユキノシタもそうですね。
これも天ぷらにしたらおいしい。
すぐそばの湧き水の小川では、クレソンが育っていました。これはサラダですね。

東大寺のお水取りは、3月12日ですね。
いちどは、行きたいなあ。

537五月雨:2003/02/27(木) 12:27

ユキノシタも食べられるのですか、知りませんでした。
クレソンまで育っているだなんて、いちりんさんの周りには
自然に生えている食材がたくさんあるのですね、いいなあ。

私もお水取りには行ったことがありません。
石山の呪縛が解けて去年にやっと大仏さんを見たくらいですから。

今年は思い切って行ってみようかな、お水取り。

石山の呪縛が解けると、世界が広がるように思います。

538モヨコ:2003/02/27(木) 15:07
創価学会の友達が、十字架のブローチをつけていたのですが、
十字架=キリスト教みたいなイメージがあり、十字架つけるのっていけない事じゃないの?と聞いたら、
アクセサリーだからいいのよって言っていました。
日蓮宗の教えでは、他の宗教は間違った宗教だよと言っておきながら、
十字架をつけてるのって、認められているのでしょうか?
どこで質問していいのか分からないので、ここで質問して良かったでしょうか?
もしダメなら、管理人さん。削除して下さい。

539みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/02/27(木) 16:30
一般的にいえば、認められていません。十字架つけて創価学会の会合に行ったら、そのひとは叱られると思われ。それは学会員の家にダルマがないのとか、公明党が選挙でダルマを使わないのと同様。(ダルマは禅宗の菩提達磨が由来。招き猫のタマちゃんも禅宗(豪徳寺)由来なのだがあれは良いみたい)

ですが、人それぞれの価値観なので、別になにやってたってばれなければ、そして本人が気にしなければ全然オッケーだと思われます。

ご友人が十字架をつけるのは、こだわらない性格なのか、キリスト教についてあんまり知識がないのか、信仰がつよくないのか、その原因はわかりませんが、そういうことにこだわらないのは、部外者にとってはとても歓迎すべきことなので、そのお友達には、それはおかしなことだと、モヨコさんから指摘しない方が良いと思います。おかしなことなのだと指摘することによって、宗教的なこだわりが深くなったら、部外者にとってはやぶ蛇ですので。

あと創価学会は広い意味では「日蓮宗(=法華宗)」ですが、狭義の「宗教法人日蓮宗(総本山久遠寺)」という団体とは関係ないので念のため。創価学会は「宗教法人日蓮正宗(総本山大石寺)」という別の宗派の信徒団体でした(現在は破門されている)。

540管理者:2003/02/27(木) 17:52

モヨコさん

>どこで質問していいのか分からないので、ここで質問して良かったでしょうか?

この掲示板は、掲示板のルールを守っていただける限り、何を書き込んでも、何を質問しても御自由です。また、最適のスレッドか見当たらない場合は、この、つぶやきスレッドに書き込んでいただければ幸いです。

541五月雨:2003/02/27(木) 21:20

モヨコさん、初めまして。

>日蓮宗の教えでは、他の宗教は間違った宗教だよと言っておきながら、
十字架をつけてるのって、認められているのでしょうか?

というのがモヨコさんが一番言われたかったことではないでしょうか。
私も学会経験者なのですが、今から10年前には十字架をアクセサリーで
つける人は居なかったように思います。でも、日蓮正宗破門後は何でもありの
様相です。

他の宗教が間違っていると言いながら、他の宗教の象徴みたいな物を
アクセサリーとして付けている姿は腑に落ちないでしょうね。
でもまあそれでOKなのです。ご本人が気にならないのですから、モヨコさん
もそれ以上ツッコミを入れないで、温かく見守ってあげてください。

理不尽だと思われるかもしれませんが、学会という世界は理不尽だらけだった
ような気がします。

「(キリスト教のシンポルの)十字架がよく似合ってるね」と言ってあげたら
いかがですか。ちょっぴり皮肉を込めて(笑)

542孤独な迷子:2003/02/27(木) 22:06
みなさん、こんばんは。

以前参加させて頂いたのですが、しばらく迷子になっていました。
やっとこの掲示板にたどり着けました。

よろしくお願いいたします。

543モヨコ:2003/02/28(金) 05:42
>みかんさん。
>>こだわらない性格なのか、キリスト教についてあんまり知識がないのか、信仰がつよくないのか、その原因はわかりませんが、

友達は前に、助手か2級試験の試験を受かったとか聞いたことがあります。
1日のお題目を3時間はしてるのよ。とかも言っておりました。
話を聞いても理解できない世界なので、創価学会の話はあまりしないでね。とかは、日ごろから言っております。
今後、おかしいな?って思っても、指摘するのは止めようと思います。(^_^)

>五月雨さん。
>>理不尽だと思われるかもしれませんが、学会という世界は理不尽だらけだった
ような気がします。

創価学会は理不尽な組織なんですね。
イベントや行事みたいなことがあると、いつも、イベントや行事の話とかしだすのですが、私はいつも変だな?って、疑問に思いながら聞いていましたが、
今度からは、理不尽な組織のしてることだから、話をしてきても気にしないようにします。

管理人さま。質問できる場所を提供していただき、ありがとうございました。m(__)m
みかんさん。五月雨さん。丁重な回答ありがとうございました。m(__)m
創価学会って組織がどんな所かいろいろ回って調べてきてましたが、
某掲示板などは誹謗・中傷ばかりが多くて、質問とかできる雰囲気ではなかったので、
ここの掲示板みたく、紳士的にマナーがいい場所にめぐり会えた事は、うれしいです。(^_^)

544顕正居士:2003/02/28(金) 12:56
-仏性と仏種-

問答迷人さん。

『法華文句』は不軽品を注して不軽菩薩の礼拝の対象は正因仏性である、縁・了の
仏性もその種子は本有であるが、今はあたらないと述べる。三因仏性は本よりある
のだが、天台や日蓮の学では衆生は久遠の下種を覚知して不退の位に至るという。
久遠の下種とは最初成道の際の久遠の法華経、あるいは久遠の五時八教である。
「本未有善」の衆生は久遠下種がないのか、忘れてしまったのか、明らかではない。
中国で成立した法華宗は『華厳経』のビルシャナ仏(報身)を前提にし、『法華経』の
仏(応身)はこれと別でないとし、応身も一仏に統一する一神教であるから、本仏の
教導の歴史が救済史であって、三因仏性は教導を受ける可能的素質といってよい。
キリスト教の「啓示の光」が「久遠下種」であり、「自然の光」が「三因仏性」であろう。
法華宗は衆生に歴劫の修行をして最後に法華経の仏のように成道せよといわない、
本仏の実在を信仰せよという。信仰によって本仏と一体になることが「成仏」である。
『法華経』自体は永遠の菩薩行により、法華経の仏と等しくなれというのであるから、
不軽品が元初の修行になるが、法華宗はそうならない、本仏でなく衆生に向うのは
信仰ではない。久遠の釈尊、阿弥陀仏、大日如来の三仏の中で久遠の釈尊を信仰
せよが日蓮の教導である、不軽品は釈尊前世の修行の正体である、しかし釈尊は
すでに成道された、久遠の仏の実在への信仰のみが必要である。けれど日蓮がそう
であるように久遠下種を覚知した者は、本仏と一体になった上では、他者の救済へ
向かわねばならぬ、それが久遠の五時八教であり、未来には不軽行があり得る。
『寺泊御書』の文の意は親鸞の往相、還相の教義に類似しているのではなかろうか。

545問答迷人:2003/02/28(金) 19:46

孤独な迷子さん

お帰りなさい。いろんな疑問や、意見やら、いっぱいレスして下さいね。楽しみにしています。

546いちりん:2003/02/28(金) 20:56
>『法華経』自体は永遠の菩薩行

そうなんでしょうね。
要するに、「教菩薩法」。
「菩薩に教えるおしえ」あるいは「菩薩を教えるおしえ」と。

たんなる凡夫であっても、ものすごい弥勒とか、普賢みたいなプロの菩薩であっても、あるいは地湧の菩薩のような真打ちであっても、発心したものは、みいんな菩薩の道を歩んでいる。

そして、それは菩薩と言うことでは、みいんなおんなじ。

そうして、永遠に、無限に、不断に(やすまずに)
いまここで、この場所で、この忍耐の娑婆世界で、俗世で、菩薩を行ずる。

それが、法華経。

547孤独な迷子:2003/03/01(土) 17:20
問答迷人さん

暖かく迎えて下さいまして有難うございます。またいろいろとレスさせて頂きます。
よろしくお願いします。

548問答迷人:2003/03/02(日) 18:03

顕正居士さん

示唆に富んだご教示、誠に有り難うございます。

>天台や日蓮の学では衆生は久遠の下種を覚知して不退の位に至るという・・・本仏の教導の歴史が救済史であって・・・信仰によって本仏と一体になることが「成仏」・・・久遠下種を覚知した者は、本仏と一体になった上では、他者の救済へ向かわねばならぬ、それが久遠の五時八教であり、未来には不軽行があり得る。

なるほど。天台大師や日蓮聖人の教えでは、成仏とは信仰によって本門(久遠)の教主釈尊と一体となる事であり、ここでは、仏種、すなわち本門の教主釈尊の久遠下種が問題にされている訳ですね。そして、本門教主釈尊との一体化を前提条件として、はじめて『法華経』に説くところの永遠の菩薩行、他者への救済、不軽行が成り立ちうる、という事で、ここでは、仏種ではなくて、仏性が問題にされている、と。
又、さらに、本門教主釈尊に一体になろうとする方向と、一体となった上で衆生に向かう方向とは、それぞれ、親鸞の説いた往相、還相の教義に類似している、と。

そうしますと、日蓮聖人の教えは、本仏との一体化を説き、曼陀羅を信仰の中心に置いた形からも、密教そのものということになると思いますが、この点は如何お考えでしょうか。ご教示賜れば幸いに存じます。

549問答迷人:2003/03/02(日) 20:50

136195 ゲットしました。

550顕正居士:2003/03/02(日) 22:40
>日蓮聖人の教えは、本仏との一体化を説き、曼陀羅を信仰の中心に置いた形から
>も、密教そのものということになると思いますが、この点は如何お考えでしょうか。

日蓮は密教そのものを批判していません。批判するのは善無畏、一行、空海、円珍、
円仁です。日蓮の筆写がある覚鑁の『五輪九字明秘密釋』は顕密教判を主張する。
http://www.infosakyu.ne.jp/~yssimizu/sub2.htm
日蓮が反対に「顕教」の立場から「密教」を批判した文はありません。一行阿闍梨が
一念三千の教義を「盗み」(『大日経義疏』)、空海が密勝顕劣をいい、円珍、円仁は
対して「理同事勝」と防衛したが、「事勝」の分は「密教勝」を認めてしまったのを非難
し、密教の経論には密教を成立させる理論自体はなく、天台学の一念三千がそれだ
という。日蓮は「顕・密」や「聖道・浄土」の経典分類を認めず「五時八教」のみ認めた。
だから「顕・密」判、「聖・浄」判の教義を否定するために阿弥陀仏、大日如来の信仰に
反対したともいえる。

最澄は「顕密に優劣はないとおもう」(空海への書簡)と云ったから、「理同」は祖意に
かなう。しかし日蓮の説もいちがいに祖意に反しない。「理劣事勝」はあらゆる経論に
該当し得る。だが日蓮は事相を密教で建立したから、密教の事相を特別に評価した
のは間違いない。「(いくらか)理劣+(すぐれて)事勝」のゆえ、顕密に優劣なしなら、
祖意にかなうからである。彼の「一念三千」は「事の一念三千」である。凡夫が観見し
あたう範囲である。「末法二來入シ始メテ此ノ佛像出現セシム可キ歟」(『本尊抄』)
とは、東大寺のビルシャナ仏のような規模をイメージしたのだとおもう。

551ハル:2003/03/04(火) 04:21
北イタリア、トリノのサン・シンドネ大礼拝堂には、あの有名な「聖骸布」が伝えられています。聖骸布とは十字架にかけられたイエスの屍骸をつつんだ布のことです。
しかしこの聖骸布、1988年に炭素測定によって、たかだか700年前に作られたシロモノだということが分かり、それも大々的に報道されました。
けれどもこの聖骸布の所有者のバチカンは、いまだにこれがニセモノだということを認めていないのです。

信仰対象になっている「モノ」は、それが「科学的・合理的に」ニセモノだと証明されても、それを信仰している人にとっては、たいした動揺をもたらさないようです。
「不合理ゆえに我信ず」という言葉がありますが、「信じている人」にとっては、科学的・合理的な反証はどうやら無意味なのです。

ここで僕は「信じる」ということの凄み、恐ろしさを感じます。
「科学的・合理的に」ホンモノだと証明されたモノを信じることは、たやすいことです。これは「信じる」というのではなく「理解する」ということなのでしょう。
科学的、合理的でないもの。それを信じるということが、本当に「信じる」ということなのかもしれません。

宗教というのは、もしかしたら、「壮大な嘘」なのかもしれません。
その嘘があまりに壮大すぎて、嘘なのか本当なのか、凡人にはおいそれとは証明できないものが、「宗教」になってゆくのかもしれません。

 ―――――――――――――

僕ら凡人は、普段、自信のない生活を送っていますから、誰か偉い人に自信たっぷりに「これはこうなのだよ」と断言されると、ついつい「そうなのかな」と思ってしまいます。
「なんか変だな」と感じても、「あれだけ自信たっぷりに言っているのだから、ちょっと変なことなのだけれど、それには深い意味があるに違いない」と思ってしまいます。

だいたい聖書だとか法華経みたいな聖典には、冷静な頭で見てみると、おかしなことばかりが書かれている。「死人が生き返った」なんてありえるわけがないし、「ワシは××億年前から悟りをひらいていたのだ」なんて台詞は、ふつう、誇大妄想狂でなきゃ言えない。
けれども信仰する人は、その記述を怪しいとも思わずに真面目に読むわけです。

聖典には(冷静な頭で見てみると)あまりに常軌を逸したことばかりが書かれている。いやこれが「嘘」だとしても、これだけの「嘘」を考えつくのはちょっと大した想像力だ。しかも何百年、何千年もその「嘘」を自信たっぷりに言いつづけているのです。

なんか、凄い。

552モヨコ:2003/03/04(火) 22:09
また、疑問なこと言われたので、書き込みしちゃいます。(^^;
釈迦が説いた法華経は今の時代では効果がなくて、日蓮の説いた法華経。
ご本尊か南妙法蓮華経(だったかな?)じゃないと効果がないのよって、言われたんですけど、
釈迦が説いた法華経と日蓮が説いた法華経って、違うものなんですか?

553問答迷人:2003/03/05(水) 10:26

顕正居士さん

ご教示有り難うございます。

>日蓮は「顕・密」や「聖道・浄土」の経典分類を認めず「五時八教」のみ認めた。

なるほど、日蓮聖人が一方で真言を徹底的に批判しながら、他方で、大日如来の相伝を受けている事を不可解に思っていましたが、そういう意味合いで真言批判をされていたと見ると、納得できます。

>だが日蓮は事相を密教で建立したから、密教の事相を特別に評価したのは間違いない

五時八教の教判に立って、密教の事相を法華経開会の上から重用したと言うことですね。了解です。ただ、ここで気になるのは、法華宗としての、日蓮聖人の教えは、信仰によって本仏と一体になることを教え、その為に曼陀羅を建立したことは判りますが、そのような信仰形態が、果たして「法華経」のどの部分に由来するのか、また、もし、法華経には由来せず、法華宗の独創だとすれば、それは、何に由来するとお考えでしょうか。

554有無:2003/03/05(水) 10:27
>552
それは文上の法華経と文底の法華経の違いのことでしょう

555問答迷人:2003/03/05(水) 10:36

ハルさん 

こんにちは

>しかも何百年、何千年もその「嘘」を自信たっぷりに言いつづけているのです。

ほんとですね。石山の、唯授一人の血脈相承、大聖人の出世の本懐たる戒壇板曼陀羅、お肉牙。これらも、根拠が薄弱なのにも拘わらず、何百年も自信たっぷりに言いつづけられていますね。なんだか、怖いですね。

556顕正居士:2003/03/05(水) 20:27
-法華曼荼羅-
は法華経の宝塔品を描いているのだから直接に法華経に由来するといえるでしょう。
釈迦多宝並坐の像は起源が古い。
http://www.fsinet.or.jp/~kyouko-h/chinacave/unkou/unkou07/unkou07-1.htm
日本の最初の二仏並坐の像は東大寺戒壇院のご本尊です。「戒壇」は段差を設け
諸尊を勧請するゆえ "mandala" といいます。2壇に菩薩を配し、3壇に神々を配する
と法華曼荼羅になります。
http://www.chohoji.or.jp/dharma/butu2/mandara/butu-m6b.htm
諸尊にはおのおの梵字(種子・しゅうじ)があるので.法(文字)曼荼羅もあります。
http://www.chohoji.or.jp/dharma/butu2/mandara/butu-m5b.htm
日蓮は漢字で法曼荼羅をあらわした。墨、筆、硯以外には入手が困難な佐渡だから
発明したのでしょう。
*-儀軌。成就妙法蓮華經王瑜伽觀智儀軌、法華曼荼羅威儀形色法經など。

-大蘇開悟-
慧思は智邈が彼のもとに来た時、「昔し霊山でともに法華を聞いた宿縁であろう」と
述べた。智邈は薬王品の捨身供養の段を読誦した際、まのあたりに霊山を見た。
「霊山一会厳然未散」といい、漢字文明圏では常識のように流布した。法華経の次
には法華宗の第3祖、智邈の体験にもとずくといえよう。
*ボーディセーナ(婆羅門僧正)を行基菩薩がむかえた歌(拾遣和歌集)
霊山の釈迦の御前に契りてし真如朽ちせずあひ見つる哉

557問答迷人:2003/03/09(日) 09:30

顕正居士さん

懇切なご教示、誠に有り難うございます。日蓮聖人の文字曼陀羅の由来が、大変鮮明に理解できました。ただ、一点、戒壇と曼陀羅について、合点が行きませんので、お伺いいたします。

>「戒壇」は段差を設け諸尊を勧請するゆえ "mandala" といいます。

そうすると、本来は戒壇と曼陀羅とは、同意義ということなんですね。それでは、報恩抄の

「問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや・・・求めて云はく、其の形貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。」

との文の「本尊」と「戒壇」の関係に於いて、日蓮聖人は、「本尊」を文字曼陀羅として顕わしており、「本尊」=「戒壇」と言うことになろうかと思います。それにも拘わらず、日蓮聖人が本尊と戒壇を別の事としたのは、どういう理由によるとお考えでしょうか。

558顕正居士:2003/03/12(水) 02:00
三大秘法を

戒-戒壇
定-本尊
慧-題目

と三学に配当します。"mandala"は輪円具足と訳し、丸い、完全、集会などを意味し、
具体は壇を指す。戒壇も曼荼羅も壇だから "mandala"と云うが、戒壇は授戒の場所、
曼荼羅は仏菩薩の集会です。曼荼羅と本尊も意義が異なります。曼荼羅の本尊とは
集会の中心の尊でありましょう。

日蓮において本尊とは法華教主釈尊のことであります。しかし本尊問答抄は法華経
の題目が本尊であるとし、法華教主を本尊とするのは法華経の正意でないと云う。
不思議であるけれど日源、日興の写本がある。法華経の題目とは宝塔のことだから
これは釈迦多宝両尊を本尊とする意味になります。

559パルチザン:2003/03/13(木) 14:04
2003年3月、地球規模で動乱の兆しが見えます。日蓮大聖人は、立正安国の為に生涯を送られたと承知しています。
今、世界では、強大な国家権力を手にした者達が、人々の安穏な暮らしも、世界の平和も、武力によって実現できると、大量殺戮兵器を使いたがっています。
我が日本政府も、靖国参拝総理が、力の論理を世界に振り撒いています。
もし、日蓮大聖人がおみえになったら、どんな行動をお取りに成られるか・・・
立正安国論を小泉総理大臣に宛てて、国諌をなされるのか・・・
仏法の真髄を説かれて、国主の迷妄を開かれるのか・・
大聖人御建立の御本尊を信奉する皆さん!一度考えてみましょう!世の中に目を向けて・・・

560疑問:2003/03/13(木) 18:05
こんにちは。
前に慧妙の中で見たのですが、池田さん達が顕氏の御本尊を信者より集めて
焼いた日に阪神淡路大震災が起こったとありましたが本当なのですか?

561顕正居士:2003/03/14(金) 03:30
報恩抄

「一ニハ日本乃至一閻浮提一同ニ本門ノ教主釋尊ヲ本尊トスヘシ。所謂寶塔ノ内ノ
釋迦多寶。外ノ諸佛竝ニ上行等ノ四菩薩脇士トナルヘシ」(大正大蔵経)

法華曼荼羅の構造は第一壇-釈迦多宝、第二壇-仏菩薩、第三壇-神々であるから、
上の文章の意味は「本門ノ教主釋尊」=「寶塔ノ内ノ釋迦多寶」であろう。釈迦応身と
多宝法身の並坐を本門教主釋尊というなら、本尊問答抄の説は不思議ではない。

562問答迷人:2003/03/14(金) 11:03

顕正居士さん

貴重なご教示、誠に有り難うございます。

>上の文章の意味は「本門ノ教主釋尊」=「寶塔ノ内ノ釋迦多寶」であろう。釈迦応身と多宝法身の並坐を本門教主釋尊というなら、本尊問答抄の説は不思議ではない。

なるほど。報恩抄の文をそのまま読めば、「本門ノ教主釋尊」=「寶塔ノ内ノ釋迦多寶」と読めますね。そうすると、日蓮聖人の書かれた曼陀羅で言えば、「中尊の妙法蓮華経及び釈迦多宝」=「本門教主釈尊」とされている事になります。そう考えると、観心本尊抄の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」という文が、「本門教主釋尊」に対する信仰を述べている意味になります。また、同じく観心本尊抄の末文の「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、太公・周公の文王を摂扶し、四晧が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。」という意味も、「五字」という表現をもって「中尊の妙法蓮華経及び釈迦多宝」=「本門教主釈尊」を顕わしていると捉えると、「四大菩薩の此の人を守護」と続いて、釈迦多宝の事が説かれていない理由が鮮明になる様に感じます。

ただ、そうしますと、日蓮聖人が顕わした曼陀羅において、中尊は、「題目だけ」ではなく、「題目と釈迦多宝の二仏並坐」と言うことになりますが、そのような、「複数の中尊」を持つ曼陀羅は、他に例が有るのでしょうか。日蓮聖人の独創なのでしょうか、如何お考えになられますでしょうか。ご教示賜りますれば幸いに存じます。

563五月雨:2003/03/14(金) 11:39

疑問さん、初めまして。五月雨と申します。

>前に慧妙の中で見たのですが、池田さん達が顕氏の御本尊を信者より集めて
焼いた日に阪神淡路大震災が起こったとありましたが本当なのですか?

疑問さんが仰っている内容について、「配偶者がカルトに入ったらどうしますか 」のスレッドにおいて、
116のあ さんのご発言から議論が始まっています。
一度読んでみられらいかがでしょうか。

564問答迷人:2003/03/14(金) 17:29

138027 ゲットしました

565顕正居士:2003/03/15(土) 01:50
>中尊は、「題目だけ」ではなく、「題目と釈迦多宝の二仏並坐」と言うことになります

妙法蓮華経が単に経巻の題ならば、本尊とか、唱題修行とか、云うのは無意味です。
妙法蓮華経は仏名でなければならない。中尊、釈迦、多宝と三尊があるのではなく、
両尊の並坐以外に宝塔はない、妙法蓮華経あるいは宝塔は二仏並坐を指すと思う。
さらに多宝仏は釈尊の教説が真実であることを証明するために来たったのだから、
結局は、「本門ノ教主釋尊」の一尊が本尊であるとはいえます。

>「複数の中尊」を持つ曼陀羅は、他に例が有るのでしょうか。

法華曼荼羅の第一壇は宝塔の釈迦、多宝並坐です。日蓮の曼荼羅も同じであるが、
宝塔を南無妙法蓮華経であらわし、かたわらに二仏の名を書く。釈迦、多宝二仏は
宝塔=南無妙法蓮華経に座っている表現である。中尊・南無妙法蓮華経の脇士で
あるのではない。

○日蓮の法華曼荼羅は従来の絵画による表現と差異があるものではない。

566問答迷人:2003/03/16(日) 11:20

顕正居士さん

>○日蓮の法華曼荼羅は従来の絵画による表現と差異があるものではない。

納得です。ご教示有り難うございます。

>釈迦、多宝二仏は宝塔=南無妙法蓮華経に座っている表現である。中尊・南無妙法蓮華経の脇士であるのではない。

この点に付きましては、日蓮正宗版及び創価学会版の御書編集者は、別の見解を持っていると思われます。創価学会版並びに平成大石寺版の御書では、観心本尊抄の該当個所を次のように書き下しています。

「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊」(大石寺平成版・創価学会版)

ここでは、明らかに、中尊を南無妙法蓮華経として、本門の釈尊は脇士とされています。

観心本尊抄は漢文体で認められていますが、大石寺版並びに創価学会版の、このような書き下し方がはたして正当なものかどうか、判断出来ずにいます。どうお考えになられますでしょうか。

なお、昭和定本及び、行道文庫では、この箇所の読み方は以下の通りです。この場合は、顕正居士さんの、『中尊・南無妙法蓮華経の脇士であるのではない。』のご見解と同じ考えに立っての書き下しで有ろうかと思います。

「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊」(昭和定本・行道文庫)

567顕正居士:2003/03/17(月) 00:44
此時地涌千界出現本門釋尊爲脇士

堅樹日寛の観心本尊抄文段の有名な箇所ですが。

訓読-「甲を乙とする」は「以甲爲乙」と書く。「甲ヲ以テ乙ト爲ス」と読み、「以」の字が
必要です。この文は「本門ノ釋尊二脇士ト爲ル」です。「本門ノ釋尊ノ脇士ト爲ル」では
ないです。

内容
1-宝塔の横に釈迦・多宝が立っている話を聞かない。
2-宝塔=地涌千界の意味がわからない。
3-現実の曼荼羅に変わった所がない。

中古の口伝には経文をでたらめに訓読し、自分の発明を説く形式があります。
「自も我も得たる仏来れり」など。本尊抄文段に引く訓点はこの類いの遊びだろうと
おもいます。

568一字三礼:2003/03/17(月) 12:58

相対的崇拝対象と同一的崇拝対象

相対的崇拝対象
一般的な仏・菩薩の尊像を崇拝する場合、対面者(参拝者・信仰者)はその尊像の手の組み合わせ・持物・標識等の印相(mudra)によって、その尊像の意思・働きを知ることが出来る。この形式は、尊像の自身の主体的な救済の働きを、対面者が認識して崇拝対象とするもので、二元的・相対的関係と考えることが出来る。

同一的崇拝対象
日蓮聖人の顕わした曼荼羅の役割は「観心本尊」にある。建治後半から弘安年間の一般的な曼荼羅相貌では、四天王及び諸神を除いて、首題をはじめとする仏・菩薩等には「南無」が冠されている。この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。つまり、曼荼羅と対面者とは本来、別の存在であってはならないので、一元的・同一的関係といえる。これが「観心本尊」の由来ではないだろうか。

曼荼羅座配の諸尊を仏像・絵像として表現することが妥当かというと、結論的には「南無」を冠した仏・菩薩を仏像として表現することは出来ない、と考えざるをえない。
たとえ金剛合掌や帰命合掌、十ニ合掌等で表わそうとしても、それは尊像側の主体的意思表現となって、観心行の対象としての一体感は無くなってしまう。
また、極端なことを言えば「南無」を冠さぬ諸尊も可能とするのであれば、曼荼羅本尊の中尊も「南無妙法蓮華経」ではなく、「妙法蓮華経」でも良いということになり、蓮組弘通の唱題行の意味も薄れることにはなりませんか。

569川蝉:2003/03/17(月) 16:57
本尊抄の訓について。

昭定713頁3行(学会版248頁1行)には「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為す」(小乗釈尊迦葉阿難為脇士)
とある。この訓と同様に、この文は「此の時地涌千界出現して本門釈尊を脇士と為し」と訓むべきだと言う意見があるが、前文は「小乗の釈尊」が主語となっているから、「迦葉・阿難を」とある目的語が主語(主格)の「脇士と為り」と云う訓になるが、件の文ではは、「地涌千界出現して」は直接の主語ではないので、「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」と同例にならない。
正式漢文なら
「地涌千界出現為本門釈尊脇士」と書くべきを、鎌倉時代の時代文で、「本門釈尊為脇士」と書いたものであろうと指摘されている。
昭定713頁9行(学会版248頁9行)に
「於正宗十巻中」(正宗の十巻の中に於いて)と書くべきを「正宗於十巻中」と時代文で書いてある。
昭定713頁11行(学会版248頁10行)にも
「分別功徳品自現在四信」(分別功徳品の現在の四信自り)は、正式漢文では「自分別功徳品現在四信」であるべきだが、時代文で書かれている。
故に、「正式漢文の例に倣って、件の文を訓むべし」とは一概に言い得ないと指摘されている。
先師の意見はというと。
「録内啓蒙」には
【或る義に、釈尊を以て題目の脇士と為る義に見るべし。所以は何となれば、地涌千界が垂迹(日蓮と)出現の時、本尊を建立し給うについて、本門の釈尊を脇士とし、閻浮第一の妙法の本尊を立つる意にして、上の「塔中の妙法蓮華経の左右に(脇士)釈迦多宝」等との文にも叶うべし】
と云う意見に対し
【この義現文に順ずるに似たりと雖も正轍の義に非らるべし。
・・・三には、当書の向の文、並びに諸御書に四大菩薩を脇士とせる格に背くのみならず、四菩薩を脇士とするに非らずんば本門の本尊顕れざるが故に。・・四菩薩の本門釈尊の脇士たる事は上の文に既に顕著なる故に、今、文を省き給うなるべし。
是れ則ち「地涌千界(垂迹)が出現して、地涌を本門釈尊の脇士と為す」と遊ばすべきを、次上の「地涌千界」の言と近くかしましき故に、巧みに上の「地涌千界」の言を下に及ぼし用いて、下の「地涌」の二字を略し給うなるべし。】(啓蒙19巻73〜74紙))と解説している。

「祖書綱要刪略」には、
【因みに問う。或る説に云はく、「当今下種の時至れり、宜しく本因口唱の人法を用いて以て本尊を定むべし。法は謂はく南無妙法蓮華経なり。人は謂はく大聖人なりと」。便ち之を証するに本尊抄に此時地涌千界出現本門釈尊為脇士と云うを以てす。意の曰く釈尊を以て而も地涌の脇士と為すと。色相荘厳の本尊の如きは則ち是在世脱益の形像にして都て末法に用無し云々。此の説奈何】
との問いを設け、その説に対して
【彼の的拠とする文の如きは、固と地涌出現して釈尊を以て本尊と為し躬自ら脇士と為ることを明かす。即ち是れ一尊四士の立意なり。・・・
上の文に云はく「地涌千界は己心の釈尊の眷属なり。例せば大公周公等は周武の臣下、成王幼稚の眷属。武内大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるが如し」已上。この文、周武神后を釈尊に擬し、成王・仁徳を下種の機に比し、周公等を以て地涌に類するなり。それ臣は宜しく以て君を補佐す、君は能く臣をして左右せしむ。人臣還って君主をして眷属と為らしむる者は未だ之有らざるなり。総結の文また準知すべし。
而るを曲げて為の字を訓じて恣いままに倒解を作し、自ら古本を見ず、前後の文を検せざるの愚盲を訴う。一と何ぞ暗短なる】(刪略巻之七・三十紙)
と説いている。(続く)

570川蝉:2003/03/17(月) 17:00
(続き)
(総結の文とは、「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裏て、末代幼稚の頸に懸けさしめ玉ふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、大公、周公の文(成)王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり」を指す)

次に山川智応師は、
【「本抄正宗分の終わりに「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」とあるのを「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為す」と訓んだのと同例に「本門の釈尊を脇士と為し」と訓み、本門の釈尊を妙法五字の脇士とする閻浮未有の本尊と解する向き(寛師文段)もあり、その理由は、上の正宗分に「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩」とある文、及び流通分の「此の時地涌千界世に出現して,但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」とあるからで、即ち正宗分の文は、おのずから釈迦・多宝が妙法五字の脇士たるを示し、流通分の文は、地涌出現して幼稚に授けるのは妙法五字なるを証するというのである。
この別証は、また報恩抄の「宝塔の中の釈迦・多宝外の諸仏、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」とあるのも、また同証とすることが出来るように見える文だし、必ずしもその義はないことはないが、報恩抄すでに曼荼羅の形貌を出されているのに係わらず「本門の教主釈尊を本尊とすべし」といわれ、本抄にも正宗分にすでに「未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」といわれ、流通分の初めにそれを受けて「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣未だ崇重せざるの由之を申す」とあって、「本門寿量品の本尊」は「寿量の仏」なるを示され、第二十八答にも「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」といわれて、上の「寿量の仏」を意味せられているから、大曼荼羅の中尊の南無妙法蓮華経は、名は法であっても体は仏でなければならない。左右の釈迦・多宝は、妙境妙智を表して、八品会上の能説を示し、また五百塵点劫の能覚を示し、中央の南無妙法蓮華経は、所説に約しては、境智冥合の常住の仏果を表し、所覚に約すれば、無始の本覚を示されたもので、ともに本仏釈尊の久遠本有常寂常照の一念三千で、本仏の本体をお挙げになったものである。
だから本抄の正宗分は「本尊為体」に、釈迦仏・多宝仏に脇士の名を用いられず、上行等を本門釈尊の脇士とし、報恩抄も、形貌は大曼荼羅なるに係わらず、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」といわれているのである。
また文字の配合上から、正宗分の迦葉・阿難・文殊・普賢等に同例との説についても、必ずしも尽理といえぬ。・・・鎌倉時代の時代文としては、斯様にも自在に配字したのであって、今も漢文的ならば、必ず「地涌千界出現、為本門釈尊脇士」であるのを、時代文的に配字せられているに過ぎないのであろう】(観心本尊抄講話570〜571頁)
と解説している。

清水龍山師は、
【本抄全篇始中終を通じて「本門の釈尊」は主尊本仏で「地涌千界」は脇士本僧であることは文義意の自然妥当で、断じて主尊本仏が脇士なる地涌千界の脇士となる文義意はない。
一、本門の本尊の体相を明かして、
『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』(昭定712頁。学会版247頁)
二、其の顕現の時を明かして、
『是の如き本尊は在世四十余年之無し、八年之間但八品に限る。』(昭定713頁。学会版248頁)(続く)

571川蝉:2003/03/17(月) 17:01
(続き)
三、其の滅後流行の時を明かして、
『正像二千年の間、小乗の釈尊は(主尊)迦葉阿難を脇士と為し。権大乗ならびに涅槃経法華経の迹門等の釈尊は(主尊)文殊普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り書けども、未だ寿量品の仏有らず(地涌千界を以て脇士と為る)。末法に来入して始めて此の仏像を(地涌千界を脇士とする寿量品の本仏釈尊本尊)出現せしむべき(地涌の垂迹日蓮が顕彰する)か。』(昭定713頁。学会版248頁)
と略して小乗権大乗並びに迹門等の迹仏と、本門寿量品の本仏(文は且く主尊を標して脇士を略す)との正像(小・権・迹)末(本門)三時流行を明かし、続いて広く、
『正像二千年の間、四依の菩薩ならびに人師等は余仏小乗・権大乗爾前迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門の寿量品の本尊(主尊)並びに四菩薩をば(脇士)三国の王臣倶に未だ宗重せず、此の事粗ぼ之を聞くと雖も前代未聞の故に耳目を驚動し心意を迷惑す。請う重ねて之を説け、委細に之を聞かん。』(昭定713頁。学会版248頁)
と数番問答料簡して
四、最後の結示が即ち今の文、
『此時(末法)地涌千界出現本門釈尊為脇士、一閻浮提第一本尊可立此国』
と、すなわち主尊も脇士も前後一貫している。

但し第三の文略明の下には「小権迹の釈尊」には各其の脇士を挙げて「脇士と為し」とあるのに、独り「本門の釈尊」には、但、主尊のみを標して「地涌千界を脇士と為し」の語が省略されている。
然し続いて広明の下には「本門寿量品の本尊」(主尊)「ならびに四大菩薩」(脇士)と、具に主尊本仏と脇士地涌とを並べ挙げられてある。
その結示の今の文、豈に忽ちに正反対に主尊が地涌で、脇士が本仏と成るの理あらんや。況や第一の文、明らかに「釈尊の脇士上行等の四菩薩」とあるをや。
古来吾が宗先哲にも、前の第三の小権迹の主尊及び脇士の文と同じく「脇士と為して」と訓じて、而も其の主尊は興門流の言う「地涌千界」ではなくて、「中尊の妙○経に対して前の文の左右」を今文には「脇士」と遊ばしたまでで、もし「釈迦」と「地涌」と相対すれば「釈迦は主尊」「地涌は脇士」なることは前後一貫、設へ「脇士と為す」と訓ずればとて、「地涌本僧なる日蓮」が「主尊本仏本尊」となる如き、仏宝(本仏)僧宝(本僧)師(本仏)資(本僧)顛倒の義ではなく、「末法に地涌千界が日蓮として垂迹示現して、中尊の妙○経の左右(脇士)に、本門寿量品の本仏並びに本僧四菩薩を脇士と為したる一閻浮提第一の本尊を此の国に始めて造り書き顕彰(出現)せしむべきか」の意である。】(日蓮聖人遺文全集講義第十一巻・527〜529頁)
と説明している。(以上)

572顕正居士:2003/03/18(火) 01:47
本尊抄

其本尊爲體本師娑婆上寶塔居空塔中妙法蓮華經左右釋迦牟尼佛多寶佛釋尊脇士
上行等四菩薩文殊彌勒等四菩薩眷屬居末座迹化他方大小諸菩薩民處大地如
見雲閣月卿十方諸佛處大地上表迹佛迹土故也如是本尊在世五十餘年無之

其ノ本尊ノ爲體(テイタラク)、本師ノ娑婆ノ上ニ寶塔空ニ居シ、塔中ノ妙法蓮華經ノ
左右ニ、釋迦牟尼佛、多寶佛。釋尊ノ脇士タル上行等ノ四菩薩、文殊彌勒等ノ四菩薩
ノ眷屬ハ末座ニ居ス。迹化他方ノ大小ノ諸菩薩ハ民ノ大地ニ處シテ雲閣月卿ヲ見ル
ガ如シ。十方ノ諸佛ハ大地ノ上ニ處ス、迹佛迹土ヲ表ス故也。是ノ如キ本尊在世
五十餘年ニ之無シ。

第一壇-釈迦・多宝(塔中)
第ニ壇-八菩薩(虚空)
第三壇-迹化他方仏菩薩(大地)

1-「リフトの左右に甲さん、乙さん」とはリフトの中の左右の座席をいう。
2-第ニ壇の八菩薩中、上行等の四菩薩は「釋尊の脇士」だから内側に居る。
3-「文殊彌勒等ノ四菩薩」は「迹化他方ノ大小ノ諸菩薩」には属しない。

573いちりん:2003/03/18(火) 11:06
うわあっ。
漢字が
多いですね。

574問答迷人:2003/03/21(金) 08:42

顕正居士さん

>訓読-「甲を乙とする」は「以甲爲乙」と書く。「甲ヲ以テ乙ト爲ス」と読み、「以」の字が必要です。

納得です。有り難うございました。

>第一壇-釈迦・多宝(塔中)

佐渡流罪の時、文永八年十月九日、相州本間依智において認められた曼陀羅、通称「楊子御本尊」(立正安国会の御本尊集№1)には、南無妙法蓮華経の中尊と、愛染・不動の梵字のみで、釈迦・多宝も省かれています。勿論、第二壇、第三壇の諸菩薩等も省かれています。

http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/001.html

しかしながら、日蓮聖人の曼陀羅に対する考え方の原点が窺えるように思えてなりません。愛染・不動を脇士と考えると、中尊の南無妙法蓮華経は大日如来を表している、という説が有りますが、密教の曼陀羅と法華の曼陀羅が融合されているのではないかと思っています。

さらに、日蓮聖人の認められた曼陀羅は、その共通する形として、第一壇の、宝塔を表している南無妙法蓮華経は、第一壇、第二壇、第三壇を貫く形で、最も巨大、且つ、太字で描かれています。つまり、中尊の南無妙法蓮華経が、他の諸尊に対して、極めて優越的に描かれていますが、そのような描き方を以て、日蓮聖人は、何を表そうとされたのかと言う点、如何お考えでしょうか。これは、本尊問答抄の「法華経の題目を以て本尊とすべし」の箇所とも関連してくる様に思いますが。ご教示賜りますれば幸いに存じます。

575問答迷人:2003/03/21(金) 08:49

一字三礼さん

ご無沙汰致しております。宜しくお願いいたします。

>この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。

何を根拠として、このように判断されたのでしょうか。もう少し詳しくお考えをお聞かせいただけませんでしょうか。宜しくお願いいたします。

576問答迷人:2003/03/21(金) 09:17

川蝉さん

いつもながら、適切なご教示有り難うございます。清水龍山師の

>一、本門の本尊の体相を明かして、『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』

の箇所について、お伺いいたします。「塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏」という表現は、『中尊が妙法蓮華経、その脇士が釈迦・多宝』という説のように取れますが、そのような理解で宜しいでしょうか。その場合、塔と妙法蓮華経との関係はどうお考えになられますでしょうか。ご教示賜れば幸いに存じます。

577問答迷人:2003/03/21(金) 09:24

いちりんさん

こんにちは。ご無沙汰しています。

僕も、漢字がいっぱい並んでいると、やはり、身構えてしまいますね(笑) だけど、朝晩の勤行は、お経の漢文を読んでいて、別に何にも抵抗が無いんですよね。漢文で書いてあると、さぞかし有り難いことが書かれているのだろう、と有り難がる反面、その経文に何が書かれているのかという事には、あまり関心が無い。これって、どこか変ですね。

578川蝉:2003/03/21(金) 15:54
576 : 問答迷人 さんへ。
前回は、長文で読みにくい投稿になってしまいました。

『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』(昭定712頁。学会版247頁)
との文に従えば、妙○経は宝塔の中にあるのですから、妙○経と左右の釈迦牟尼仏・多宝仏は宝塔の中身・内容と云えますね。

清水龍山師は「左右」を「脇士」の意味としていますが、
山川智応師の
「大曼荼羅の中尊の南無妙法蓮華経は、名は法であっても体は仏でなければならない。左右の釈迦・多宝は、妙境妙智を表して、八品会上の能説を示し、また五百塵点劫の能覚を示し、中央の南無妙法蓮華経は、所説に約しては、境智冥合の常住の仏果を表し、所覚に約すれば、無始の本覚を示されたもので、ともに本仏釈尊の久遠本有常寂常照の一念三千で、本仏の本体をお挙げになったものである。」
との説明では、「左右」を脇士の意味としてなく、左右の釈迦・多宝、中央の南無妙法蓮華経を一具として、本仏の本体としているようですね。

本尊抄の訓についての、諸学者見解を列挙しましたが、細かい点になると、説明に違いがありますね。

顕本法華宗の井村日咸師は
「曼荼羅が虚空会の儀式を写したものとすると、仏在世の事実から見て、お題目の演題が張り出されて居ったのでは無い、
宝塔の中には釈迦多宝の二仏が並坐されて居っただけで、妙法蓮華経は釈尊の御口から宣示顕説され教説として顕れている説法である。故に音顕であるのを、日蓮聖人は文字としてお書きになったのである。また、諸法実相の理体を中央の南無妙法蓮華経で顕したと云うことで、生仏一如十界互具の理論を曼荼羅の形で示されたと解釈ができる。この両面の意義を兼ね具えて居る所に曼荼羅の特徴がある」(顕本法華宗宗義講習録・104頁)
と講義しています。
虚空会を想像し、中央の題目が音顕の面があると考えれば、大きく書かれたことが、うなずかれます。音顕とは、虚空会にて説かれている(音)末法の要法を顕したもの、との意味のようです。

579一字三礼:2003/03/21(金) 21:07

問答迷人さん:

本当にお久しぶりです。

>>この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。
>何を根拠として、このように判断されたのでしょうか。

根拠は「南無」の表現する、意味からです。
細かい宗義見解は横に置いて、「南無妙法蓮華経」の文字の意味は、「妙法蓮華経」に「南無」する、帰命するという意味です。ここで「南無」するという行為の主体はだれになるのでしょうか。

この「南無妙法蓮華経」の意味が「妙法蓮華経」が何某かの存在に「南無」する、帰命する、という理解は出来ないと思うのです。

たとえば、2つの表現があるとします。

①南無釈迦牟尼仏(文字)
②合掌印の釈迦牟尼仏像(絵像・木像)

①と②とは、同じ状態を表現していることにはなりません。

①南無釈迦牟尼仏(文字)=釈迦牟尼仏に帰命する
②合掌印の釈迦牟尼仏像(絵像・木像)=釈迦牟尼仏が帰命している

①の場合は、釈迦牟尼仏に帰命しているのは、信仰心を持ってその文字を拝している人と言う事になるでしょう。
②の場合は、釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している、と言う事になるでしょう。

日蓮聖人の文字曼荼羅は、「文字」の持つ特性によってのみ表現し得るものなのではないでしょうか。
ちなみに私は幼少の頃、なんで曼荼羅の中尊にも「南無」がついているのかが疑問でした。
唱題するこちらが「南無妙法蓮華経」と帰命の意思をいうのだから、帰命を受ける側の本尊は「妙法蓮華経」で良いのではないか、と考えていたのです。

580顕正居士:2003/03/22(土) 00:48
楊枝御本尊

>何を表そうとされたのか

首題と不動愛染しかありません。首題とは宝塔すなわち、釈迦多宝並坐だから、
これだけでもよいのでしょう。以後、首題と不動愛染の種子は大きく書かれます。
「何を表そうとされたのか」? 「これだけでもよい」という意味でしょう。

>密教の曼陀羅と法華の曼陀羅が融合されているのではないか

法華曼荼羅は元来、不空三蔵がはじめたものとおもいます。

○わが国の天台法華宗は中国とちがって円・密・禅・戒四宗兼学です。日蓮は
山門(天台宗比叡山流)の僧であって、彼の云う天台法華はわが国のことです。
日蓮は少時に虚空蔵菩薩を見神し、菩薩のアイテムである宝珠(チンタマニ)を
感得した。これを得て八宗の章疏がよく理解できたというから、一念三千のこと
である。「一念三千ヲ識ラザル者ニハ佛大慈悲ヲ起シ、五字ノ内ニ此ノ珠ヲ裏ミ、
末代幼稚ノ頚ニ懸ケサシメタマフ」。そして立宗後、日蓮は不動愛染を感見した。
首題は具体では宝塔、すなわち釈迦多宝並坐であるが、抽象では「一念三千」
である。虚空蔵、不動愛染、両箇の見神体験の表現が日蓮の曼荼羅であろう。

581川蝉:2003/03/22(土) 11:40
579 : 一字三礼さんへ。
今日は。横から失礼します。

合掌は、敬う、帰依する形でありますが、また、合掌印といって、合掌は実相印である云う考えがあります。
「真言見聞」に
「法華経には、為説実相印と説いて合掌の印あり」
(学会版146頁)
とあります。
宗門上古には曼荼羅を木造にする場合は、すべて合掌印であると云う相伝があるそうです。

>②の場合は、釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している、と
>言う事になるでしょう

合掌の釈尊像は「釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している」と云うのでなく、実相を説いている事を象徴する実相印の姿と拝すればよいのでしょう。

>唱題するこちらが「南無妙法蓮華経」と帰命の意思をいうのだか
>ら、帰命を受ける側の本尊は「妙法蓮華経」で良いのではない
>か、と考えていたのです。

顕本法華宗のように、中央の題目を音顕とし、「法華経の肝心・末法の要法であるから、南無妙法蓮華経と受持信唱しなさい」と云う説法を表しているのだと受け取れば、中央の題目は南無妙法蓮華経で良いと云う事になりますね。

582いちりん:2003/03/22(土) 13:02

いちめんでは、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)を拝するのが、南無妙法蓮華経ということなんでしょうね。

ところが、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)とはなにか、と。
それは、いわゆる言葉でいえば、諸法実相。天台流でいえば、一念三千。

で、日蓮さんは、南無妙法蓮華経と。
すなわち、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)とは、じつは「南無妙法蓮華経」であると。そういうことなんでしょうね。

まあ、お釈迦さまも、びっくりですね。
わしは、そんなお経を説いたこともないし、「南無妙法蓮華経」が真理だなんて、聞いたこともないぞ。いったい、それはなんの呪文じゃ、と。
それを唱えて、願いが叶うなどというのは、まるで、バラモンの呪文とおんなじじゃないか、と。

583いちりん:2003/03/22(土) 14:29

それで、日蓮主義に立つと、

お釈迦さん、なにをいうてるのですか。
あなたは、仮の仏さんで、ホンモノじゃありません。
ホンモノの仏さんは、久遠仏といって、ずっとずっと昔から、仏さんなのですよ。
それが『法華経』を説いているのです。
で、あらゆる仏さんは、『法華経』によって成仏したのですよ。
あなただって、じつは『法華経』によって成仏したのですよ。

……という理屈になるんでしょうかね。

584いちりん:2003/03/22(土) 14:31

また、ちがう文脈で言いますと、
南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経は、とても似ていますよね。

南無妙法蓮華経というのは、阿弥陀仏に南無することですよね。
阿弥陀さんにおまかせして生きること。

で、南無妙法蓮華経というのも、妙法蓮華経に南無すること。
妙法蓮華経の教えに、南無すること。

さらには、南無妙法蓮華経というのは、お経の名前じゃなくて、仏さまの名前。
いわば妙法蓮華経仏、妙法蓮華経如来という仏さま。それが久遠仏。
その仏さまに、南無する。
その久遠仏におまかせして生きる。

日蓮本仏主義に立つと、南無妙法蓮華経如来と。
そうして、それがそのまま日蓮さんであり、それが板曼荼羅と。
そういうものすごい理屈になりますよね。

まあしかし、そういうのは所詮は、理屈で、
自分というはからいを捨てて、大いなる仏さまにおまかせしていきる。
それが、南無妙法蓮華経。
そういう意味では、仏さまの名前が違うだけで、南無阿弥陀仏と同じでありますね。

さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。
大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。

585問答迷人:2003/03/23(日) 09:27

顕正居士さん

>虚空蔵、不動愛染、両箇の見神体験の表現が日蓮の曼荼羅であろう。

なるほど。ずっと疑問に思っていたことの謎解きを初めてしていただいた気持ちです。誠に有り難うございました。

「虚空蔵菩薩から大明珠を授かった」事の意味が、一念三千、南無妙法蓮華経の会得であったと捉えると、曼陀羅中尊の南無妙法蓮華経の意味が鮮明です。また、さらに、愛染・不動の梵字(種子)が、日蓮聖人の実際の感見体験に基づいて、曼陀羅の中尊の南無妙法蓮華経の左右に認められたことにより、大日如来を中尊とし左右に愛染明王・不動明王を脇士として配した、真言密教と軌を一にした本尊が形作られている事に気付きます。

結局、日蓮聖人の教えは、真言密教そのもの、と捉えた方が、より正確に理解できるのではないかと思いました。

586問答迷人:2003/03/23(日) 09:30

139078 ゲットしました。

587問答迷人:2003/03/23(日) 17:01

一字三礼さん

>「南無妙法蓮華経」の文字の意味は、「妙法蓮華経」に「南無」する、帰命するという意味です。ここで「南無」するという行為の主体はだれになるのでしょうか。

一字三礼さんのお考えに異を唱えるものではありませんが、この件に関しては、僕は少し違ったニュアンスで捉えていますので、少し披露させていただきたいと存じます。

ごく単純に考えますと、歴史的事実として、日蓮聖人自体が、南無妙法蓮華経と口唱され、さらに、同じく南無妙法蓮華経と口唱するように人々に勧めたわけですから、その場合は、当然、その行為の主体は、日蓮聖人及び、弟子檀那と言うことになります。この段階では、日蓮聖人と弟子檀那とは、横並びであり、対面関係ではありません。曼陀羅の図顕においても、この横並びの関係は引き継がれていると考えるのが、ごく自然ではないでしょうか。つまり、曼陀羅は、「日蓮聖人の己心中所行法門をそのまま、弟子檀那に対して説示したもの」であり、その曼陀羅説示によって、初めて、弟子檀那が正しく日蓮聖人の修行をそのまま引き継ぐ事が可能となったのだと思います。

つまり、首題、及び諸尊に南無を冠したのは、根本的には、『日蓮聖人の、諸尊に対する帰命の意思表現』であり、曼陀羅図顕に当たって、「日蓮と同じく諸尊に帰命すべし」と弟子・檀那に説示されたものだと思うのです。

まぁ、「なんだ、そう大差ないではないか」と言うこととになるかも知れませんが・・・

588問答迷人:2003/03/23(日) 18:46

川蝉さん

重ねて、ご質問致します。

>妙○経と左右の釈迦牟尼仏・多宝仏は宝塔の中身・内容と云えますね。

となると、結局、宝塔=妙○経と釈迦・多宝、と言うことでしょうか。

>虚空会を想像し、中央の題目が音顕の面があると考えれば、大きく書かれたことが、うなずかれます。

確かに、そのように捉えることは可能だとは思いますが、法華経では、虚空に宝塔が浮かんでいます。曼陀羅から逆に考えると、宝塔も、実は、釈尊の説法、音顕と言うことになるのでしょうか。この辺りの整合性がもう一つスッキリしないように思いますが、如何考えれば良いのでしょうか。

589問答迷人:2003/03/23(日) 19:50

いちりんさん

>「南無妙法蓮華経」が真理だなんて、聞いたこともないぞ。いったい、それはなんの呪文じゃ、

歴史上の釈尊が、『南無妙法蓮華経』の題目の声を聞いたら、やはり、びっくりされるでしょうね。2000年の間に、自分の教えが、世界の果ての国で、そのような、一見似ても似つかぬ教えとなっていることに。

>そういう意味では、仏さまの名前が違うだけで、南無阿弥陀仏と同じでありますね。

また、その同じ国で、同じ様な『南無阿弥陀仏』の念仏の声も聞こえてくるわけです。ますますびっくりされるのではないでしょうか。

>さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。

歴史上の釈尊は、「自灯明」と説いたわけですから、「○○さまにおまかせして生きる」というのは、一見、歴史上の釈尊の教えとは、対局の生き方を指し示しているように見えますね。なぜ、このような乖離が生じているのでしょう。或いは、表面は乖離しているように見えるけれど、それは、見た目だけで、実際には、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も、いずれも歴史上の釈尊の教えに基づいていることになるのでしょうか?

590いちりん:2003/03/23(日) 22:56
問答迷人さん

>>さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。
>歴史上の釈尊は、「自灯明」と説いたわけですから、「○○さまにおまかせして生きる」というのは、一見、歴史上の釈尊の教えとは、対局の生き方を指し示しているように見えますね。なぜ、このような乖離が生じているのでしょう。

わたしは、あらゆる宗教が、、ということで「おまかせ」と書きました。

でもって、じつは仏教は、本来は(つまりゴータマ・ブッダの教えは)、あらゆる宗教の「おまかせ」的なものとは、根本的に違うんじゃないかと思います。

「他力」的なところ、「依存するところ」「信仰するところ」……そういうものは、ブッダにおいては、なかったのではないかと思います。

そうして、大乗仏教は、「他力」的なところ、「依存するところ」「信仰するところ」があるわけですから、ブッダの教えとは、ずいぶんと異なるあり方じゃないかと思います。

原始仏教を実践してるテーラヴァーダの人たちからしたら、大乗仏教のもつ信仰のあり方は、これはもう随分と違うんじゃないでしょうかね。

まあ、ある意味で、大乗仏教のあり方は「信仰」、原始仏教のあり方は「気づき」(アウェアネス、マインドフルネス)と、わたしは思っています。

>或いは、表面は乖離しているように見えるけれど、それは、見た目だけで、実際には、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も、いずれも歴史上の釈尊の教えに基づいていることになるのでしょうか?

源泉は、お釈迦さまなんでしょうね。
お釈迦さまは、比丘たちに対する教えと、在家に対する教えでは、いくぶん、違うのだと思いますから。みんながみんな出家しなさい、解脱しなさいとは、説かなかったんじゃないでしょうか。

ちゃんとした生活をして、いいことをして、来世は天に生まれるよ、というような教えもありますよね(生天論)。あるいは、「六方礼経」のように、六方を父や、母や、先輩や……として、拝みなさいというような教えもありますし。

だから、在家向けの教えが種になって、それが土深く埋められていて、やがて数百年して、芽が出た。それが大乗仏教なのかなあとも思いますし。

しかしまあ、密教ともなると、これはもうバラモン教みたいですよね。まるで。仏教が10%、ヒンドゥーが90%。

591川蝉:2003/03/24(月) 09:37
588 : 問答迷人 さんへ。
今日は。
>宝塔=妙○経と釈迦・多宝、と言うことでしょうか。

観心本尊抄の説明に依れば、中に、妙○経を中にして釈迦・多宝とが座しているのが宝塔と云うことですね。

音顕とは物体のように形有るものでない虚空会の本門の説法の音声を(要法の五字)を顕していると云うことですので、宝塔は音顕でないですね。経文上では、宝塔は形有るものとして涌出しておりますね。

592taitsu&trade;</b><font color=#FF0000>(qZdgqRP2)</font><b>:2003/03/24(月) 10:37
問答迷人さん
はじめまして。

>・・・曼陀羅は、「日蓮聖人の己心中所行法門をそのまま、弟子檀那に対して説示したもの」であり、
>その曼陀羅説示によって、初めて、弟子檀那が正しく日蓮聖人の修行をそのまま引き継ぐ事が
>可能となったのだと思います。

上記の部分、特に同意です。
人法一箇の本来の説明になるのでは無いでしょうか。
コピペでは一瞬ですが、人に説明となるとこれが中々容易ならざる・・・w

*自分ごと*
私は脱会をせずに、そのまま内部でいます。
しがらみが面倒なので・・w 彼女も内部ですし
結婚も考え(られ)ています。で、
法理に対する自分の姿勢だけは既に学会員ではないと。w
まぁ、偏差値の低い人も入れる学校のイメージです。
バカにしてるんじゃないですよ。佛縁の恩は大いに有るわけですし。
これまでも、特に内部で居る事に不満はあまり無かったですし、
環境的に恵まれていたのでしょうね。良い人ばかりです。
でも、教学面では自分の要求には耐えられなかったようです。
で、今は異端者と冗談で名乗っています。w

うまく書きたい事が纏まらないので、今回はこの辺で・・・w

593仲村 英彰:2003/03/26(水) 18:24
略 初めまして 、、。 大変にご参考になります、、。早々

594仲村 英彰:2003/03/26(水) 19:11
略 諸先輩方々の論戦には「とても参考」になります、。 因みに「小生は20数年間の池田独裁操作にヤット気づいたのは貴HP」のおかげです、。大謝、。
 しかる後「正信会」にも「ウマクダマサレ」ました、。 もう「宗教はコリゴリ」という心境、、。 しかし「ホンマに成仏可能」ならば考えましょう、、。
 早々、。 大阪市: 虎次郎 拝、。

598問答迷人:2003/04/26(土) 12:41

144000ゲットしました。

599ジャージルーカス:2003/04/26(土) 21:43
メールで依頼されましたので、宣伝します。
私が尊敬する方の主催する掲示板です。
是非ともロム下さい。

http://6119.teacup.com/nekotazemi/bbs

600問答迷人:2003/05/03(土) 09:16

145019ゲットしました。

601通りすがり:2003/05/04(日) 11:29
犀角独歩さんの本が出版されると聞いたんですが本当ですか。誰か教えてください。

602問答迷人:2003/05/06(火) 08:38

145511 ゲットしました。

603豊穣:2003/05/06(火) 14:58
>601
この話、ぼくらの中ではもっぱらの評判ですよ。(ぼくの所属はハンドルか類推どうぞ)
既に日蓮宗の有志は大量購入を決め、創価学会の一部大幹部も大量購入を決めているって噂です。
内容は完全な大石寺批判。反論不可能な完全版だっていうからすごそう。
大石寺に教義と本尊にあやかる顕正会、妙観講を批判するテキストにもなるんだそうですよ。
出版社なんかは、まだ情報不足ですが、またなんかわかったら投稿します。
それとこれは余計なことかもしれませんが、ここの書き込みって一挙に内容が低下してしまいましたね。

604さかなこ:2003/05/07(水) 00:01
>>603

ええ??そうなんですか。。。知らなかったです(T_T)

読む用、保存用、人にあげる用で最低3冊は買わないと。。。(T_T)(T_T)
一般人にも手に入るかしら。。どきどき。どこで情報をし入れれば
よいのかしら。。。

605問答迷人:2003/05/09(金) 09:56

146053 ゲットしました。

606通りすがり:2003/05/09(金) 12:35
豊穣さん

情報ありがとうございます。
ところで、豊穣さんは、ホウジョウ…の関係ということですか。
とすれば、例の集まりの流れの方ですか
もし、情報源など教えていただけるのであれば、お願いします。

607豊穣:2003/05/11(日) 22:14
>606
どういたしまして。
たぶん、通りすがりさんが創造している一員ですよ、ぼくは。
情報源は、内緒です(笑)

608問答迷人:2003/05/12(月) 08:17

豊穣さん

独歩さんが出版する予定だと言うことは、聞きましたが、内容は、当掲示板の内容とは別のことだそうですよ。

609通りすがり:2003/05/16(金) 15:00
僕はこの情報を出版依頼者側の情報として聞きました。
著作権では当掲示板とは関係ないでしょう。独歩さんの書下ろしらしいから。
でも、大石寺のことに触れるわけですから、内容は、ここで記されたこととダブるところはあるんじゃないですか。

豊穣さんて、「■●談▲庵」の聴講者ですか?

610事実イノチ:2003/05/18(日) 14:13
■●談▲庵=「一乗談義庵」でしょうねぇ。
大田区にある日蓮祖書論考グループ。
ここの掲示板資料をかなり使用しています。

611豊穣:2003/05/19(月) 12:52
↑ゲッ

612問答迷人:2003/05/31(土) 13:17

掲示板御参加の皆さん、思うところがあって、問答迷人が主宰する、pundarika というメンバー制の掲示板を開設しました。

http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/

一度覗いてみて下さい。

613問答迷人:2003/06/01(日) 10:18

150091ゲットしました。

614みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/06/02(月) 13:57
>>612 問答さん。
問答さんは新掲示板について次のように言っています。

> この掲示板は、これらの諸団体が開祖と標榜している日蓮聖人の教えについて、真
> 跡遺文および史実に基づいて、その教えの真実を論究する事を目的とします。

> 掲示板御参加各位の論究の結果、日蓮聖人の教えの真実が明らかにされることに
> よって、諸団体がその日蓮聖人の教えの下に再統合されることを願って掲示板を立ち
> 上げます。

後半の願望があって、そのために前半の目的があるのでしょうが、後半の願望は、前半の目的遂行への妨げになるだろうと思いました。

問答さんのご発言を見て思ったのは、日蓮なり仏教なりに正しさがあるという期待、その正しさへの信頼があるのだなということです。そしてそういう期待・信頼に基づいて「日蓮聖人の教えの真実」を追求しようとする営みはある種の偏向をしがちであるし、危険であろうと言うことです。そういう期待は、正確な日蓮理解、正確な日蓮思想理解への妨げになると思います。

価値としての正しさ(正義)と正確さは違うのですが、信仰者が学問をする場合、その二つを混同する傾向にあると思います。学者が文献研究・歴史研究をする場合、価値としての正しさ(正義)は普通問題にしません。(する場合もありますが、それは学問と、自分個人の思想信条を混同している人の場合です)

信仰者にとって、正確にある対象(たとえば日蓮なり法華経なり釈迦なり)を理解しようとする動機は、対象の正しさを証明するためということになります。もしその正しい理解によって、対象の正しさが逆に証明できない場合は、それを捨て去るか保留するかして、その一つ前のものに正しいと思う対象を移すことになります。

たとえば、日蓮正宗が正しくないと思えば、日興門流、あるいは日蓮思想一般に正しいと思う対象を移す。同じように日興門流がダメなら日蓮、日蓮がダメなら天台、天台がダメなら漢訳法華経、漢訳法華経がダメなら梵文法華経、梵文法華経がダメなら釈迦本人、という風にさかのぼっていくわけです。私はこれを「撤退戦」と呼びますが、益の少ない営みです。

(もちろん撤退戦に行かないで、ある時点で留まる人の方が、はるかに多いのですが)

問答さんが新掲示板開設に際して、富士門流の統合から、日蓮門下一般の統合に関心を移動させたのは、撤退戦をいとなんでいるのではないかと危惧します。

信仰者は、そもそもの、正しい仏教がある、仏教は正しい、釈迦は正しい、経は正しい、という前提を疑えば良いのに、と私は思うのですが、どういう訳かそこは疑わないようです。

615みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/06/02(月) 13:58
正しい唯一真正の仏教などないですし、釈迦が生きる上での正しさの源泉・根拠でもありません。そう理解しても生きていくのにまったく支障はないわけですが、信仰者にとってはどこかに正しさの根拠、正しさを保証してくれる権威がないと、生きることに支障が出てくるわけです。もちろんその支障は自分自身が仮につくり出しているに過ぎないものですが。

学問的な意味での思想研究における重点は、もちろん、研究対象の価値としての正しさ(正義)を証明することではありません。研究対象を正確に理解するということです。その際、研究対象が価値として正しいかどうかは普通、問題になりません。研究対象を価値評価することが、思想研究に於いてないわけではありませんが、その場合価値づけする根拠は、研究対象の思想が、この現実世界のより正確な記述・理解になっているかどうか(あるいは、世界を正確に記述できることが不可能であることを明らかにしているかどうか)です。信仰の対象・価値の根拠・権威として「正しい」と言うことを問題にするわけではありません。

そういう意味で、正統派仏教(と研究者本人が思うもの)を基準として、それから外れているからこれは仏教ではない、あるいは仏教として堕落していると批判する研究は、学問研究としてはある面で失格です。それは研究者の信仰告白でしかないから。正統派仏教から本覚思想を批判する研究や、正統派日蓮教学から日寛教学を批判する言説を見かけますが、そういったものは信仰上の営みでしかありません。

本覚思想研究をするなら、それと伝統仏教教説や正統派天台宗教学を較べて価値判断するものであってはいけないと思います。本覚思想それ自体の内在的構造を明らかにするものでなければなりません。その上で、その構造が世界理解として妥当かどうかを問題にすると言うことはあり得ます。

同じように、日寛の思想が正統派仏教と違うから、あるいは日蓮本人の思想と違うから、日寛の思想は間違っているという言説は、あまり意味がありません。日寛本人の思想の内在的な研究になっていないからです。たとえば、日寛が日蓮本仏論にたつのは、釈迦本仏である正統派仏教教説、あるいは日蓮の思想と異なるから「間違っている」というのは意味がありません。(異なるということを指摘することまではある程度意味があります。しかしそれ故間違っているというのには信仰者に取ってしか意味がありません)。釈迦を本仏と呼ぼうが、日蓮を本仏と呼ぼうが、それはいずれも、実際に生存した人間としての実在した釈迦なり日蓮なりとは関わりがないわけです。別のものです。本仏・報身仏への名付けとして仮に、釈迦なり日蓮なりという名前を付けたに過ぎません。それを釈迦本仏だから正義で、日蓮本仏だから誤りであると言うのは信仰者に取ってしか意味がありません。本仏を日蓮と理解するひとがいても何ら問題はないわけです。それは世界理解の一つのあり方でしかありません。その世界理解が世界の記述として正確であるかどうか(あるいは世界理解の限界を明らかにしているかどうか)はまた別に解明しないといけない問題です。

もちろん以上のことは、日寛の思想が価値上の意味で正しい(正義である)ということを意味しているわけではありませんし、日蓮正宗教学が正しい(正義である)ということを意味しているわけでもありません。単に日寛の思想が、自立した思想体系として、日蓮の思想や、伝統仏教の思想とは別のものであるということを言っているに過ぎません。

616問答迷人:2003/06/02(月) 15:29

みかんさん

思想とは何でしょうか。

617通りすがり:2003/06/02(月) 16:49
>日寛の思想が正統派仏教と違うから、あるいは日蓮本人の思想と違うから、日寛の思想は間違っているという言説は、あまり意味がありません
これは学問で考えている人間には意味がなくても、日寛上人の教学こそ、日蓮大聖人の教学を完璧に論じたものであると思っている人間にとっては大問題。
日寛上人こそ、正当であるという信仰者は日蓮大聖人とは別の思想として日寛教学を見ていません。
だから、信仰者にとって、日寛教学が日蓮教学と違っていたら、その点を論じられるのは非常に意味を持ちます。
学問の話じゃなくて、信仰者としての話をしているわけでしょう。

618通りすがり:2003/06/02(月) 16:56
>日寛の思想が、自立した思想体系
こんなふうに思って日寛上人を尊敬している富士門信徒は新人類。
日寛上人こそ、もっとも日蓮大聖人の教えを完璧に記述したからすばらしいと思うのが、富士門信徒。
もし、日寛教学が自立した思想体系ならば、これはもはや日蓮正宗ではなくて、日寛正宗になってしまいます。
こんな理解の仕方を富士門信徒はしているわけじゃありません。
信者ではない学問側の勝手な考えです。

619通りすがり:2003/06/02(月) 17:01
富士門信徒というのは変ですね。
大石寺信徒にと言ったほうが誤解がない。

620五月雨:2003/06/02(月) 17:40

通りすがりさん

>こんな理解の仕方を富士門信徒はしているわけじゃありません。
信者ではない学問側の勝手な考えです。

みかんさんは、問答さんの新しい掲示板の趣旨について「日蓮聖人のその教えの真実を論究する事を目的」とされながら、「日蓮門下の統合」と言われている点についての危惧を、いつも客観的に日蓮聖人を論じられる視点で問われているのだと思います。
真実の論究には信仰者のものごとの見方ではそこに行き着かないのではと私もそう思います。
富士門信徒の信仰というフィルターを外した時に、そこに真実が見えてくるのではないでしょうか。
客観的、史実的に日蓮聖人を考えていくというのはある意味で学問の範囲内のようにも思うのです。

どうしても真実を見たくないと仰るのであればそれはそれで自由でありましょう。信教の自由があります。

私は信仰というフィルターを外して真実を見たいと思います。そしてこのことを踏まえた真摯な議論を心待ちにしております。

621成仏境涯 体感希望者:2003/06/02(月) 19:30
新スレッドのご主旨には「大賛成」です、、。 「信仰=信念=何へのか、??」を「解明」するためにも「信仰?と言うフイルターをはずしての真摯な御議論」を御期待する者です、、。

622成仏境涯 体感希望者:2003/06/02(月) 19:31
新スレッドのご主旨には「大賛成」です、、。 「信仰=信念=何へのか、??」を「解明」するためにも「信仰?と言うフイルターをはずしての真摯な御議論」を御期待する者です、、。

623豊穣:2003/06/02(月) 19:35
この上の五月雨さんの書き込みからすると、問答迷人さんてフィルターかかって真実を見たくない人だ読めちゃうなあ。
ひどいこというよね。
だいたい、日寛上人だって、大聖人だって、学と信を別に論じてないじゃん。
当時、考えられる最高の学で信を選んだのであって、今の時代の学問と信仰を分けてみるなんていう学風とは無縁だね。
それをごっちゃごっちゃにいうとわけわからなくなっちゃうんだよね。
学問から見れば、それぞれの宗教の相違を言って勝劣をいわない宗教学みたいにね。
でも、こういう掲示板では信仰としての学を見ているんだから、上のみかんさんみたいなことを言ったって、それこそ意味ないしょ。
これが独歩さんになると現在の学問に耐えない信仰が信仰として意味があるのかと突っ込むから、これはみかんさんとまたぜんぜん違う。
>真実の論究には信仰者のものごとの見方ではそこに行き着かない
だったら、信を強調するすべての信仰者は大聖人も含めて、真実にいたらず、信仰のない学問だけが真実にいたる??
そんなバカな。学問だけでは到達できない信の境地ってもんだってあるでしょう。
何で、それが極端に真実を見たくないとまで言わなきゃいけないのかな。
信仰のフィルターをはずして見られる真実は学問の真実であって、信仰の真実とは別だが、みかんさんの言っていることじゃないの?
僕は通りがかりさんに賛成!

624問答迷人:2003/06/02(月) 19:54

凄い。賛否両論。

ただ、僕は、思想という視点からだけで、仏教を捉えることが正しいのかどうか、疑問なんですよ。

625豊穣:2003/06/02(月) 19:58
>思想という視点からだけで、仏教を捉えることが正しいのか
学問は客観的な分析だから、信を分析できない。
でも、信仰者は信を追求しているから学問だけでは真実にいたれないじゃん。
問答迷人さんにも賛成!

626問答迷人:2003/06/02(月) 20:10

みかんさん

みかんさんが使われるところの、「思想」という言葉の概念規定は、どんな内容なのでしょうか。大辞林には次のように三つの説明が書かれていますが、(2)の概念規定と考えてよろしいのでしょうか?

(1)人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。

(2)〔哲〕〔thought〕単なる直観の内容に論理的な反省を施して得られた、まとまった体系的な思考内容。

(3)考えること。考えつくこと。

627みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/06/02(月) 20:35
>>625
信仰者は、そのままでは信に至れません。
信仰と信がまったく違ったものだからです。
どう違うかはすでに論じたので、改めて書きません。

>>623
ほんとうのこと、というのは大抵ひどいことに見えます。
ほんとうのこと、というのは大抵残酷です。

628成仏境涯 体感希望者:2003/06/02(月) 21:05
627の(3)=考えること、考えつくこと、とは、、?? 一般庶民のワシらが「獲得したい”仏の境涯”とは、??」=「久遠の釈尊の遺言=寿量品16の”速成就仏身”とは、??」を求めると言うことは「一個人が体得・感得・体現」したい「と言う考えも=一思想、?」に対しても「お答えは絶望、?」と言うことでしょうか、?? ワシは「なけなしの預金の目減り対策」のため「株式投資=ギャンブル」に余念がない「欲望の制御」出来ない「ドス黒い一人、」では御座います、、。トホホ、、。
 でも、生活上万全な方々の「安全地帯と思われる方向からの御議論も御参考には」なります、、。 どうか「暇人の屁理屈と揶揄されることおをも恐れず、有意義な御議論・論争を」御期待いたします、、。ゴメン、。

629無徳:2003/06/02(月) 21:11
皆さん今晩は:

みかんさんの意見は、仏教(宗教)を信ずると言う人間にとっての本質的な課題を
理解する上で大変重要な問題提起と言えると思います。

ただ、仏教が人間にとって何を提起し何をもたらすかという、価値観を前提にする
場合は学問的(客観分析)な研究方法で果たして何処まで解明が可能なのであろう
かと言うラジカルな疑問を持ちますが、仏教をひとつの真理観として理解する場合
には、やはり科学的方法や解釈との整合性は避けて通れないとも思います。

もちろん、パラダイムの違いを無視して短絡的に非科学的であるから仏教は間違っ
ていると言った批判や、逆に科学的真理と仏教をダイレクトに結びつけて仏教思想
の正当性を主張するような理解に組する者ではありませんが、科学的真理観を全く
無視したような仏教理解にも否定的にならざるを得ません。

たとえば、一神教的世界観の上に立つとされるキリスト教的真理観を、学問的方法
で何処まで解明できるのでしょう。いわゆる”天地創造”を”ビックバン”と結び
つけて理解しようとする人すらいるようですが、私にはこじ付けとしか思えません。

しかし、バチカンでは年に一度は世界的な科学者を招聘して、現代科学の到達点と
キリスト教的真理観とのすりあわせを行っていると聞いたことがあります。(本当
か嘘かは知りません)

もしも、一神教としてのキリスト教が全ての原因を神に還元して理解しようとする
考え方が、現代科学における全ての現象を要素還元論的に理解しようとする考え方
とパラレルであるとするならば、現代科学はキリスト教の“落とし子”とすら言え
るのかも知れません。

しかし、仏教ではあらゆる現象をキリスト教のように“神”という不変であり絶対
的な存在に原因を求めることをせず、“縁起”や“空”と言う概念に代表される相互
依存的関係性に全ての原因を見るわけですが、やはり仏教も宗教であるとするなら
信仰者としては何らかの絶対的存在なり不変不滅の“法”や“本尊”のようなもの
を求めざるを得ないと言う、アンビバレントな心的有り方を否定することもまた困
難と言えましょう。

そのことが日蓮仏法を奉ずる人間にとってはインド応誕の釈尊でなく、世界の辺境
の地ともされる日本の安房に生を受けた日蓮御坊を本仏と仰ぎ信ずる所以とも考え
る者です。そして、そのことが松本佐一郎氏をして『富士門徒の沿革と教義』の中
で、日蓮仏法を信じる富士門徒は一神教的であるとも言わせたもかもしれません。

ちょっと論点がずれたかも知れませんが、日頃考えていたことを述べてみました。

630愚鈍凡夫:2003/06/02(月) 21:39
信仰者の立場から成道の法としての仏法に迫っていきたい人、哲学として仏法の哲理を解明したい人、歴史の流れの中で思想史的な観点から仏法を捉えたい人、等々
アプローチの仕方は様々だと思います。
それぞれの立場での思索・研鑽の結果を持ち寄ることで相互理解が進み、新たな可能性が見えてくるならば、意義のあることじゃないでしょうか。
ただ、日蓮聖人の考えはどうだったかという規範を取り去ると、何を基準にして真理・真実を探究していくのか分かりませんが・・・・・。
釈迦牟尼から出発するということなのでしょうか?それとも、釈迦牟尼に還るということなのでしょうか?

631成仏境涯 体感希望者:2003/06/02(月) 22:16
615様: の如く「何ら無信仰でも生きてゆけます、、」「ただ、それだけでは??」から「教主釈尊、、」の「意義、、??」がご発生かと。。??

632sunya:2003/06/03(火) 01:15
 > 614 みかんさん

 “問答さんが新掲示板開設に際して、富士門流の統合から、日蓮門下一般の統合に関心
を移動させた”とのご指摘、“ややや”と..刮目して見てしまいました。
 さては、“ぼぉ〜っ”と見ていたので気が付かなかったのかと思って、問答さんの言葉
をもう一度 見直してみました。

 問答さんの“言いよう”において、そうとも取れる余地はあるのでしょうが、どちらか
と云えば“これらの諸団体”として問答さんが名を挙げているのは“代表格とも言うべき
創価学会”であり“カルト宗教として物議を醸してる顕正会”であって、わたしには「日
蓮門下一般の統合」という<意図>がそこに強く出ている、とまでは思えませんでした。
 そのあたりは、問答さんご自身にちゃんと語っていただくほか、はありませんが。(^^;

 > 612 問答さん

 むしろそうであれば、当掲示板の管理者の一人であり、また「本門戒壇の大御本尊への
帰一という大目標を掲げる富士門信徒同士が、法華講・正信会・創価学会・顕正会という
組織の壁を乗り越え、精神的結束力を高めて、異体同心の戦いを誓い合う場」として「富
士門ネット」を主催される問答さんが、何ゆえに“pundarika”をさらに開設されたのか。
 そして、その“思うところ”とはどういうことなのか、もうすこし当「富士門ネット」
の参加メンバーに対し、しかるべく・ご説明があってもよい、のではないでしょうか。

 もしや問答さんにとって、「本門戒壇の大御本尊への帰一という大目標」がすでに、意
味のないことになり果てているのでしょうか、どうもわたしには“そう見え”てしまうの
ですが。
 この「富士門流信徒の掲示板」を勝手に仕切った挙げく、そして勝手に去っていった人
を、“pundarika”に鄭重に招待するという問答さんの今回の振舞は、当ネット・掲示板の
参加メンバーをして、ずいぶんとないがしろにすることに当たらないだろうか。
 すくなくともわたしがそう感じてしまうのは、“ひねくれ”て“ねじ曲がった”こころ
の為す業なのでしょうね。

 ほんのつい最近、問答さんに浅草でお会いする機会があったのに、そうした問答さんの
真意・説明にまったく接近できなかったということは、単に“時間が無かった”というこ
とだけ、ではないのでしょう。

                    /sunya

633問答迷人:2003/06/03(火) 10:57

僕の言動が、この掲示板を混乱させてしまい、申し訳なく思います。箇条書きで釈明させていただきます。

まず、この掲示板の運営について。

一、当掲示板の主宰は、富士門ネットですが、主宰と言っても、特にこれと言った事をしているわけではありません。設定されたルールに従って掲示板が機能するように管理しているに過ぎません。あくまでも、この掲示板の主体者は、この掲示板の趣旨に賛同されて、御参加されている皆様一人一人です。

二、皆様の中で、時々に、どなたかがリーダーシップを取って議論を進められることに対しては、管理者は基本的に歓迎しています。ただ、特定のどなたかにその役目をお願いしたことはありませんし、今後もありません。

三、当掲示板は、ルールに違反しない限り、どなたも参加御自由です。また、当然の事ながら、参加を止められることも自由です。

四、管理者は、今後も、この掲示板の趣旨に従って、この掲示板が活用されることを願っていますし、この掲示板を閉鎖することは考えておりません。

五、管理者は、現在は、不肖、問答迷人が務めさせていただいたておりますが、今後、別な方が管理者になられる事はあり得ます。それは、主宰する富士門ネットが決めることです。なお、富士門ネットは新規約を現在検討中です。新しい規約が出来上がりましたら、掲示板にて、ご案内させていただきます。

634問答迷人:2003/06/03(火) 11:13

次に、僕の言動について

一、pundarika掲示板は、僕の現在の個人的な関心から開設した掲示板です。

二、ですから、富士門ネット掲示板とは、関連はしていますが、直接の関係は有りません。また、富士門ネットとpundarika掲示板も無関係です。

三、pundarika掲示板は、僕の考えている個人的関心の内容からして、富士門掲示板のような、内容的にも開かれた、参加自由な掲示板ではなく、同じ関心を持った方と限定された議論をする場所として設定しています。

四、そのため、参加自由な富士門掲示板とは異なり、メンバー制を取っています。

五、『もしや問答さんにとって、「本門戒壇の大御本尊への帰一という大目標」がすでに、意味のないことになり果てているのでしょうか、どうもわたしには“そう見え”てしまうのですが。』とのご指摘、的を得ていると思います。ただ、だからといって、富士門掲示板をないがしろにしているつもりはありませんが、管理者としては、適任者では無くなってしまったと言えるかも知れません。なぜなら、僕は、今日にいたって、大石寺戒壇板本尊が、後世の偽作であると考えるようになっているからです。

635ガンコ:2003/06/03(火) 17:29

あら〜、sunyaさん、お久しぶり〜

636sunya:2003/06/04(水) 01:43

 > 問答さん

 両掲示板の位置づけについての丁寧な“ご説明”、有難うございました。委細、了解
致しました。
 失礼の段、ご寛恕ください。m(..)m

637sunya:2003/06/04(水) 02:27

 > ガンコさん

 いつも、当掲示板でのガンコさんの“ご発言”は、しっかり拝見をしております。よく
勉強を、されていらっしゃいますね。(^^;

638みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/06/04(水) 03:32
>問答さん

 思想というのは外来語(thought Gedanke)の翻訳語だと思いますが、philosopy(哲学)とは対立して使われるという含意があります。哲学が懐疑という行為であり実存的・主体的であり動的なものであるのに対して、思想(thought)とはある種の観念体系であり対象化されたものである程度固定的なものだという含意があります。ですが、現在の日本語では、思想という言葉で、行為も観念体系も両方を包摂して使用されるのが普通です。

 思想には個人的思想と集団的思想の二種類があり、この二つは区別して考えられるべきだと思いますが、言語使用では普通は区別しません。

 たとえば、日蓮思想とか日寛思想とか言った場合の思想は個人的・人格的なものです。その人がその人の人生を生きる上で形成された、思考の枠組み、観念の体系を指します。それはその人の言動や著作を通じて、外部から推し量ることしかできません。ここで注意しないといけないのは、個人の思想というものはきわめてパーソナル(個人的、人格的)なもので、属人的です。他人と共有することもできなければ、他人に伝えることもできません。

 たとえば、日蓮思想がそのまま日蓮門下の宗教の教義であるべきだ。日蓮思想を正しく受け継いだのが日興思想だ。あるいは、日寛思想がそのまま大石寺門流の教義になった。と考えがちですが、それは無理です。個人の思想とは属人的なもので、伝えることができないからです。個人の思想は必ず伝搬されるときに誤解されます。誤解されることによって、多数の人間に通用する一般性を持ってくるとも言えます。

 これに対して、ある人間集団の思考の共通した型を思想と呼ぶこともあります。たとえば、仏教思想、インド思想、天台本覚思想といったような言葉が指しているものが人間集団の思想です。あるグループに共通してみられる思考の型を思想と呼びます。たとえば、宗教団体の教義・思考パターンも集団の思想と呼んで良いと思います。ですが、教義書に書かれている教義がそのままその集団の思想である訳ではありません。たとえば、日蓮正宗の教義書や、聖典に書かれていることが、そのまま日蓮正宗の思想ではありません。日蓮正宗に所属したものに共通する明文化されない思考パターン、行動パターン、口コミレベルで広まっている言説を含めて「日蓮正宗の思想」と呼ばれるわけです。もちろんそれが時代により、場所により違うことはあり得ます。また、その集団に所属する個々人の思想とは違ったものです。

 つまりAさんとBさんの思想は必ず違う。またAさんと、Aさんを信奉するC集団の思想は必ず違うと言うわけです。


 以上が私の思想に関する理解です。それを踏まえて言えば、日蓮本人が考えていたこと(=日蓮の思想)をできるだけ正確に理解しようとすることは、それ自体独立した意義のあることだと思います。しかしその成果をもって、日蓮門下共通の教義とするのは無理だと思います。ある個人の思想をできるだけ正確に理解することと、それを人間集団に適応することは違ったことだからです。

 また人間というのは自分の理解したいように対象を理解する傾向にあるものなので、日蓮信者の大多数にとっては、できるだけ正確な理解は関心がないことでしょうし、それが提唱されてもそれに従う気もないと思います。

 ですので、「日蓮聖人の教えの真実」を理解すること自体には意義があるが、それをする際には「諸団体がその日蓮聖人の教えの下に再統合されることを願って」ということは前提にしないほうがいいのではないかと、私は思います。

639問答迷人:2003/06/04(水) 09:43

みかんさん

懇切なご教示、誠に有り難うございます。

>日蓮聖人の教えの下に再統合されることを願って」ということは前提にしないほうがいいのではないか

とのご指摘、誠に尤もであると理解いたしました。早速、当該掲示板の挨拶文を書き改めさせていただきました。また、そのような目的観を捨てることにしました。今後ともよろしくお願いいたします。有り難うございました。

640問答迷人:2003/06/07(土) 19:42

151500ゲットしました。

642問答迷人:2003/06/10(火) 08:42

152013ゲットしました。

643アネモネ:2003/06/15(日) 16:02
今日の午後9時からの、NHKスペシャルで、文明の道③「ガンダーラ仏教変革の地」というのが放送されるようです。
今回は、いかにして大乗仏教が発生したのかという内容のものです。
私は前回の第2集から見ていますが、とても興味深くて、今夜もとても楽しみにしてます。
NHKの宣伝マンではありませんが、個人的に面白かったのでご参考までに。

http://www.nhk.or.jp/bunmei/
http://www.nhk.or.jp/bunmei/gaiyo.html
http://www.nhk.or.jp/bunmei/preview/index.html

644孤独な迷子:2003/06/15(日) 23:34
アネモネさん、久しぶりです。

番組見ました。仏教も時代とともに変わってきているんですね。あらためて確認できました。

645うっちゃん:2003/06/15(日) 23:50

あの“ 大量虐殺 ”をモーゼ(はヘブライ人でイスラエル人=ユダヤ人
を指す)がやり、正当化したことがユダヤ教徒の不幸の始まりだった。

これこそユダヤ教徒の旧約(旧契約の意)聖書巻頭の5書の2番目、
すなわち出エジプト記でモーゼが海を割りユダヤ民族を通した後、
海を閉じて追っ手を“大量虐殺”するという残虐行為を発想し行い、
正当化したユダヤ人指導者=ユダヤの神モーゼの自業自得である。

これらユダヤ教徒の旧約(旧契約の意)聖書の記述が、
キリスト教徒を反ユダヤ主義へとあおりたて、
ヨーロッパのみならず中東においてもユダヤ民族が迫害され、
放浪の民、ユダヤ民族へと落ちていったのだ。

その最大の悲劇が、ヒトラーのユダヤ民族“大量虐殺”だった!!

ユダヤ人モーゼがやったことは自然にはあり得ない“人工的大量虐殺だ!”
この思考こそがユダヤ教徒=ユダヤ民族に延々と引き継がれて、
ユダヤ人アインシュタイン(何とドイツで生まれて育った)などによる、
核兵器・生物科学兵器の開発など、大量殺戮兵器使用へと繋がっている。

我々は、古い宗教が正しいなどとしてはならない。
宗教には“ 新化 ”が絶対に必要である。
“ 新化 ”のない社会、民族、種は急速に衰退していく。

ただ一つの神しか信じないあるいは“個人崇拝”の宗教とか、
例えば聖書・コーランのように教典が変えようがないものとすれば、
そこには民族新化が停止した、原始社会への退化の道しかない。

だが、地球上の全ての宗教がそうではなかった。
世界三大宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)の中でただ一つ、
延々とその“ 新 化 ”を遂げてきたのが「 仏 教 」だ。

“人の理想偶像 ”を崇拝するが故に“ 新化が可能 ”だったのだ。

仏陀から始まり、我が日本では道元・栄西・弘法大師空海・日蓮などなど、
その教えを説く教典は、道元の「正法眼蔵」95巻という史上空前の大著など、
時代の変化とともに“ 新 化 ”を遂げてきた。

逆を言えば新化のない宗教に翻弄される社会は衰退し滅びるのです。
宗教が社会に影響が大きいほど宗教教典は時代の変化とともに、
“ 新 化 ”させなければならない。
大宗教ほど“ 新 化 する 宗 教 ”であるべきなのです。

646アネモネ:2003/06/15(日) 23:55
孤独な迷子さん

お久しぶりです。
ご覧になられましたか。私も観ましたよ。

他民族が行き交うシルクロードの要所の地ガンダーラで、インドへの憧憬とお釈迦様への恋慕から、今日私たちが親しむ大乗仏教が発生したという内容のものでした。
キーワードは六波羅蜜とクシャン人でした。

もしもお見逃しになった方は、17日の深夜に再放送があると思います。

私は、この番組の始まりの映像と音楽がとっても好きです。

647三学無縁:2003/06/17(火) 11:55
アネモネさん、お元気でしたか?
先日、某氏に会ったら、ぼやいていましたので、
「ボクはアネモネさんに全面的に同意する」
といっておきました。
また、3人でお茶けでものみましょう。

648アネモネ:2003/06/18(水) 02:24
三学無縁さん

ご無沙汰しております。
レスありがとうございました。
なんとか元気にしておりました。
お茶け…いいですねえ。

649問答迷人:2003/06/22(日) 21:26

155055ゲットしました。

650ジャージルーカス:2003/06/24(火) 11:19
現在放映中の「大奥」と言う時代劇で、菅野美穂演じる「篤子(篤姫)」は日蓮正宗信徒であったことは法華講では、余り知られてないようです。

富士年表には
「1862年文久2年壬戌(孝明天皇・徳川家茂将軍)滅後 581年 日霑上人6.15 日英島津斉彬娘篤姫の帰依により大石寺塔中遠信坊再々興を図り、本尊を書写す(本尊脇書)」
とあります。

余談ですがつぶやきました。

651アネモネ:2003/06/24(火) 20:37
ジャージルーカスさん
はじめまして。

>650
そうでしたか。

あれ?
島津斉彬が法華講だったことはどこかで聞いたことがありましたけれど、その娘ということは、放映されている「大奥」の時代はかなり幕末なのでしょうか。

652ジャージルーカス:2003/06/25(水) 13:57
アネモネさん
その通りです。放映されている大奥という番組の時代背景は幕末です。
最終的に「大奥が終わる(幕府倒壊)」所までをドラマ化したようです。

さて、その後の篤姫は維新後も生き続け、後に貴族院議長になる16代徳川
家達の養育に徹します(しかし、旧政権の血統が新政権の三権の長になると
ころが、日本という国の大らかなところですが)。

653アネモネ:2003/06/25(水) 19:32
ジャージルーカスさん

ご丁寧なレス、ありがとうございます。そうだったのですか。
菅野美穂さんのお姫様姿が可愛いかったので、番組として気にはかけていたのですが、てっきり三代将軍家光の時代なのかと思っていました。
幕末の大奥、面白そう。

654問答迷人:2003/06/30(月) 20:10

156840 ゲットしました。

655ガンコ:2003/07/22(火) 16:40

文底読みには無理がある? (前編)

むかしむかしのお話です。わたくしが入信して間もない頃のことですが、その頃は教学試験が盛んでした。何しろ全種目やってましたから。
わたくしのすぐの先輩は二級を受けるということでした。その先輩、わたくしをからかったのでしょう、こんなことを言いました。
「この本おもしろいわよ〜、ガンコちゃんもお読みになって。」
ようするに二級試験受験者が勉強する「観心本尊抄略拝」を読めというのです。

けっこう面白かったです。
「・・・以上のごとき深意は、不相伝の輩のとうていうかがい知るところではない。」
「諸門流の輩はこの無始の本仏を知らないから、この御文を解釈することができないのである。」
「ゆえに不相伝家の輩は御正意を誤り、」
「文底を知らぬ他門流では、」
「古来より多くの学者によってさまざまな謬解がなされてきた。なぜ彼らが誤るかといえば、・・・この二文の会通が、文底を知らざる不相伝家の輩には付かないのである。」等々。
しかし、これらの引用はおそらく無意味な言葉の羅列に過ぎないのでしょう、特にこの掲示板の人々にとっては。
なぜわざわざ書いたのかといえば、ようやくそのことに気がついた、ということを申し上げたかったのです。

さて、入信早々に観心本尊抄の講義録を読んですべて理解できるほど頭はよくないので、じっさいにはわからないことだらけだったのですが、とりわけ一ヶ所どうにもこうにも理解できないところがありました。
「う〜ん、これはおかしい。説明になっていない。矛盾している。というか飛躍がある。これで説明したつもりになっているとすれば、書いた人は相当バカである。」
もはや除名に相当する暴言ですが時効ということで・・・なんて書くと“仏法の賞罰に時効はない”とか言われそうですが・・・
ともかく入信してそれほど経ってなかった時期ですから、日蓮大聖人に対する尊崇だとか浅井先生に対する畏敬の念だとかまだ芽ばえていなかった、ですからけっこう正直な感想だったと振り返って思うのです。言い方を変えれば、まだ顕正会に毒される以前の常識的な読み方・・・あらら、これも除名になりそう。

656ワラシナ:2003/07/24(木) 21:44
h15年度夏期講習会 第八期 体験記 1

0、「団参的な、、」
 今年も行ってきた。だが、行ってきた、行ってきたという既成事実感だけが残ったような「団参的」講習会体験だった、ともいえない。確かに外側から見れば「団参」以外の何者でもなかったが。

1、まず、11(金)午前11時着山で12(土)12時下山の予定はきつかった。途中30分休憩が一回もなかったから土産物店に行けなかった。ところが、これが夏期講習会の常識とのことだった、

2「ワッペンケース又忘れ」
あれほど自分に言い聞かせていたワッペンケースを持ってくるのをつい忘れてしまった。それに気がついたのも、宿坊に着いて責任者から内拝券など配布された時だった。ボケの始まりともいえる。

3、着山直後の昼食は自前で用意してこなければならないからみんな途中のインターチェンジ、駅のキオスク、あるいは自宅で、おにぎりサンドイッチを用意してくるのだ。昼食の後はすぐ御内拝だ。

4、「再会 1」
 さて、御内拝を終えて奉安堂をでて客殿に向かう人列の中には、ひょっとして過っての学会同志が来ているかもしれない、と予感した私は、キョロキョロ左右を物色していた。ところがこちらが必死に探している時には会えないくせに、すっかりあきらめかけた時に、今度は「出会い」の方が向うからやってくるものなのだ。御影堂西脇から、奉安堂西側便所に戻りかけた時、向こうの方から呼び止められた。
 二十数年前同じく学会組織でご一緒した男子部先輩の奥さんだった。ご主人は、既に先週の講習会に出た、とのこと。

5、「かつかう」
 客殿では、講師が、「かつかうをはたとくい切りて(上野殿母御前御返事)」で有名な「かつかう」という薬草の現物の鉢植えを見せてくれた。これは有難かった。

6、南条殿御講義の後は宿坊に戻って、夕勤行、夕食、唱題会だった。私は前から宿坊での一時間唱題を楽しみにしていた。それが終われば(8pm)就寝準備ベッドメイキング。男子の就寝場所は本堂なので人数分の寝具を敷き並べた。
 幸い自分には、不寝番役が回ってこなかった。そして自分の寝場所を決めた頃には、心の中は丑寅勤行の事で一杯だった。
とにかく早く寝なければ、と思ったが、体の汗だけはぬぐいたかったから、便所でぬれタオルで全身拭いた。本山の水道の冷たさが気持ちよい事この上なかった。肌着を換えパジャマに着替え、9pmにはタオル目隠しして寝た。

7、寝入る前には、様々な思いが熱く渦巻くものである。特に今夜だけはいくら気持ちよくても朝まで寝るわけには行かないのだ、真夜中には一旦起きて丑寅勤行に参加するのだ、という緊張感があるから興奮して寝られるものではない。

8、こういう時には他人の動きが気になってくるもので、周囲の布団をみれば、9:45頃寝ていたのは4分の一しかいない、みんなどこにいたのであろうか、などと変な疑問を持ったものだ。

9、そして目覚ましをセットした。とにかく少しでも寝ておこう、と思った。ところがそう思う程意識が先鋭化して物音が気になってくる。その内に足元のほうではいびきが聞こえて来た。頭の先の方からは、「ピチャ、プクプク、キュルルル、、、ピチャ、プクプク、キュルルル、、、」と小さな水音が絶え間なく聞こえてくる。それは宿坊の門前を流れる疏水が雨季を迎えて勢いを増して弾け飛んだ時の音だった。
(1、終わり2ヘ続く)

657ワラシナ:2003/07/24(木) 21:46
h15年度夏期講習会 第八期 体験記 2

10、少しでも寝られた、と判ったのは、「丑寅勤行に参加される人は時間になりましたよ起きて下さい」という不寝番の人の声が聞こえた時だった。この時起き上がるのはつらかったが我慢して起きた。早速塔中参道に出てみたら、客殿に向かう人並みがぞろぞろ続いていて、みんなやる気満々に見えた。それを見て自分もいささか鼓舞された。
だが、頑張れたのは最初だけで丑寅勤行の最中は後半分位は意識朦朧となってしまった。

11、「再会 2」
 翌朝は、勤行、掃除を終えた後、客殿で猊下の御講義を拝聴した。
 申し訳なかったが途中足が痛くてたまらず何度も組み換えてやっとしのいだ。さて、終わって、下足のところで靴を探していた時、不意に呼び止められた。予期していない友との再会であった。神谷バーのお好きな人だった。このほんの少し前、客殿に向かう途中、妙泉坊の裏側を左手に見やった辺りで、瞬間思ったのだった。「そうそう、ここ、ここ、このあたりだった、ちょうど一年前同じ頃あの人と偶然会ったんだっけな、、、だけどまさか今日は来ていないよな、」等と勝手に決め付けていただけに呼び止められた瞬間は、驚きのあまり茫然自失状態だった。「来てたのか!」。

12、その人の後姿を見て感じ入ったことがある。氏は一年前も友人と連れ添って歩いていた、今回も信心の友と連れ添って歩いていた。その「いつも二人して歩んでいる姿」に教化の本質が自然なオーラのように体質化しているように感じられたのである。自分もあーなりたいものだと思った。
 あるいは教化云々を抜きにしても、人間は元々対話的にしか生きられないから、(一人は結構だが)、生きる姿をより美しくあらしめる為には身近な他人がいつも必要なように感じたのである。(私も今回は一人ではなく友と一緒に歩くようにしていたけれども)

13、「下山」

13−0、今回幾分さわやかな気分で下山を迎えられたのは、参加中「歌いたくない気分で居るとき歌歌いを強要されなかった」からであった。はじめからプログラムの中に合唱が無かったことが嬉しかった。

13−1、朝食後に同時に支給されるランチボックスの中身についてはいつも考えさせられる。そしていろいろのアイデアが浮かんでは消え、している。いっそ「箱」を止めておにぎりだけにすれば、紙箱ゴミが少なくなるのでは、、とか。

13−2、冒頭の「団参」とは、昔、題目たすき掛けの日蓮系某団体がバスに乗って本部参詣に行く光景が浮かんで出てきた単語であった。しばらく前まで私はそれを嫌悪していたのであった。「どーして日蓮系ってあんな「題目ファッション」したがるのか、あーはなりたくないね」。自分のやっている日蓮正宗信仰には、彼らには及びもつかない先進的清新さがある、と自負していたからであった。
 だが、最近「題目たすき掛け」の一点をはずしたら彼らと何ほどの差があるのか、と感じ出した。先進的清新さ、といったところで、部外者的に見れば「題目あげて何をした」の基準で見られてしまうから「題目あげて」までは同じになる。その後の「何をした、してきたか」の部分でも程度の差しか感じられないのだろう。
 ところが、自分が最初に感じた正宗信仰の「先進的清新さ」とは、「題目あげて」の前提をなしているものに対してのもののようだった。
巧みには言い得ないが、その題目自体が違うんだというような優越感だったように思う。

13−3、それと上の「嫌悪」に関連して「露骨な蔑視感情にまといつくわな」に気がついた。「蔑視」する感情に元々ある「蔑視対象に直接するべトつく性質、絡みつく性質」によって、蔑視対象に汚染されてしまう」弊害である。
 相手を蔑視すればするほど相手の悪い部分に似てきてしまう傾向があると思う。

13−4、最後に、総括的な感想ですが。

 とって付けたような地道な社会貢献は自己の本分で無いとするなら信仰の卓越性を他の形ではっきり世の人々に分からせることが必要となる。世人にとっては立正安国でさえ具体的イメージがわかないのであるから。
 そこに実社会の動きと全く無関係な世界でのみ有効な信仰の卓越性であったら、、、と危惧するのである。
 その為に私は、一人が一人の人を心底理解する為に時間をかけた丁寧な対話の積み重ねが求められているのではないか、と感ずるのである。(偉そうな書き方になってすみませんが)
 
13−5、今回も山内では輸送整理班の青年部の方々にお世話になりました。有難うございました。(h15/7/24)

658妙薬:2003/07/25(金) 11:48
 ワラシナさん、久し振りです。夏期講習会への参加、ご苦労様でした。私も19,20日の一泊二日で参加してきました。東名高速道路の混雑は予想以下でしたが、それでも帰宅した時にはグッタリ。思わず「お疲れ様でした!」と自分を誉めてしまいました。以下、感想。
 
1,昨年まで「テキストの棒読み」と悪評高かった講義方法が幾分改善されたのはよかったが、講師の個性や体験を生かしたアドリブがポンポン飛び出す自由闊達な講義も聴きたい。でも、講師のご僧侶には無理なのかも。その中で、石毛副委員長が用意したという「かつかう」の鉢には私も評価。

2,ゲイカは14日にニューヨークに出発し、16日同時テロの現場で追悼法要。即座に帰国して第9期講習会の安国論講義。あの年齢でこの頑張り。講義にも力がこもっていたのは流石。

3,私の寺院からの参加者は10人ほど。宿坊の総2坊では都内の大寺院と一緒になり、当番の割り当ては一切なく楽をさせてもらった。ただ、夜中のイビキと寝言も大寺院信徒らしく元気なのには、正直まいった。日頃の疲れもあって丑寅勤行はパス。

4,単細胞の私は、ワラシナさんのような感想を持つことなく、粛々と年一回のイベントを楽しんだ。初日夜の講義がなくなり、その分、各坊で唱題1時間というのには評価の声も。食事の内容には満足。紙箱ゴミ問題には賛成。

 それにしても神谷バーが大好きなご仁に会われるとは。やはりご縁があるようですね。

659神谷バー大好き人間:2003/07/25(金) 15:13
こんにちは。
そうなんですよ。私もまさかワラシナさんに会うとは全く予期してなかった(笑)。
昨年は妙泉坊側(塔中裏出口側)でワラシナさんの方から声をかけられたのですが、今年はこちらから声をおかけしました。
夏期講習は10回あり、しかも約束した訳でも無いのに出会えるとは、私も妙な機縁を感じました。
2度有ることは3度有るかな。

なお、猊下の講義はともかく、初日の講師陣はかなり、御坊さんによって違ったようです。
私の友人の1人は「ユーモアを交えてかなり上手だった」と言う感想でして、もう1人は「ただの棒読みだった」でした。
担当講師によって、高低があるのは仕方有りませんね。

660ガンコ:2003/07/26(土) 19:52

文底読みには無理がある? (後編)

わたくしがどうしても理解できなかった(1,2週間考え続けた記憶がある)部分がどこかというと、申し訳ございません、すみません、ごめんなさい、ゆるしてください、・・・じつは、すっかり忘れてしまったのです。今読み返してみても思い出せない、あれほど考えたのにそれがどの部分だったか思い当たらない。
文底読みにすっかりなじんでしまったものだなあ、というのが今の感想です。

では文底読みをすっかりマスターしたのかといえば、そうではありません。
「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給ふ。」 <ここでいう釈迦仏とは本因妙の釈迦仏、すなわち日蓮大聖人の事>
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。」 <これは日蓮大聖人を本尊とすべし、という意味である>
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。」 <日蓮大聖人に同意し奉る者は地涌の菩薩であり、久遠元初以来日蓮大聖人の弟子であったことは疑いない>

だいたい顕正会ではこんな風に教わっているのですが、「なんで釈迦仏ないし釈尊が日蓮大聖人なのか、おまえちゃんと説明してみろよ」といわれれば、はっきり言って自信ありません。(とくにこの掲示板では)
なんとも情けない話です。
もっともこれはわたくしだけの話ではなく、おそらくは今の大半の顕正会員がそうなのでありましょう。

文底読みというのは名人芸のようなもので、そう簡単にはマネのできるものではない。そして顕正会員は名人芸の継承者ではなく、単なるお客さんになってしまっている。わたくしをふくめて顕正会員はこのことに気づかなければならない。このような感慨に至っています。

そして顕正会員はもっと御法門を学ばなければならない。学ぶということは自分の脳みそで考えるということです。

661ガンコ:2003/07/26(土) 19:54

文底読みには無理がある? (あとがき)

じつは上の文章は、本年一月頃に起草し、四月にはほぼ完成していたのですが、なんとなく気取っている感じもあるし、また危険な意味もあったので、投稿するのを躊躇していたのでした。
それでなぜに今になって発表したかというと、どうもわたくしに対する評価として、じぶんないしじぶんの組織に甘いと思われているフシがあるので、それは心外なのでなんとか払拭したいと考えたのでした。
じっさい、現役の顕正会員としてこれほどまでに言いたい放題書きたい放題のものは他にいないのではないか。
しかし、それはネットの匿名性を利用しているからできるのであって面と向かってできるはずもないし、また、わたくしの幼稚な文章はある意味での愛情表現とも読み取られかねないし、そうであれば結局はじぶんないしじぶんの組織に対して甘いと言われても致し方のないことなのかもしれません。
また、より本源的には、この掲示板においてほぼ結論が出ているとされる「戒壇本尊」ならびに「日蓮本仏」にいつまでも固執しているわたくしの態度が、おそらくは“甘い”という印象につながっているものと考えられます。
しかし、そうは言っても、これは相当の難題であってすぐに答えの出せるものではないと思っています。
もし、じぶんでよく確かめもせず結論部分だけをすくい取るようなことをすれば、それこそこの掲示板でいましめられてきた“鵜呑み”であるとか“思考停止”にあたるだろうと思うのです。
いま思うことは、御法門というのはじつに奥が深くて、学べども学べどもなかなか結論に達しないということです。
まだほんの入り口に差し掛かったところというのが本当のところかもしれません。

662共に考察期待者。:2003/07/26(土) 22:20
< 文底の読みには無理が、、>
 同感です。 そもそも「法華経自体が釈尊滅後の”創作”の文物」ですから、いかように読まれても「所詮は=我見??」でしょうか? 「インド地域生誕の釈尊様でさえ、現今のカースト最下層の方々への済度が無視されている現況」には「無力を禁じ得ない」でしょう、。 何故でしょうか、、?

663MILD SEVEN:2003/07/27(日) 19:08
創価の内部革命は進んでいるかな?

明日は子連れ狼がある。
楽しみだな〜

池田柳生・・・なんてね!
池田狂親衛隊はどう出てくるかな〜

          ・・・・・・・・・・

創価は、内部粛正するべきだ!

http://www3.ezbbs.net/14/g9okm/

664MILD SEVEN:2003/07/29(火) 03:17
<子連れ狼 28・7>

俗世の縁を捨て、冥府魔道を行く我らは常人に非ず・・・。

一方、柳生は・・・いかなる罠を仕掛けてでも・・・卑怯と罵られ、嘲笑されようが、柳生は勝たねばならぬ・・・。

             ・・・・・・・

なんとも・・・。

・・・水戸黄門との2本立てだった。

                           風林火山
http://www3.ezbbs.net/14/g9okm/

665ジャージルーカス:2003/07/29(火) 10:46
子連れ狼の柳生烈堂
史実の柳生烈堂について申します。
柳生烈堂は本名を柳生義仙と申します。烈堂は出家してからの法名であります。
母は柳生宗矩の側室で絶世の美女と言われたお藤さん。
正室からは柳生十兵衛と柳生宗冬が生まれ、側室お藤からは柳生左門と義仙がそれぞれ2人ずつ生まれております。
さてこのお藤さんに、柳生宗矩は柳生の里の井戸の前で出会い、一瞬で雷撃の恋に陥ったと記録は記しております。その出会いの井戸は今でも「お藤井戸」として柳生の里に残っており、観光名所となっております。
そしてこのお藤から生まれた最初の子である左門ですが、家光が一目惚れ(所謂同性愛ですね)して16万石(一説には4万石)のお墨付きまで頂きます。左門も義仙も絶世の美女お藤さんの子供ですから、美男子だったようです。
ところが当時の諸大名からは「祖先からの命がけの槍働きも、尻一つに勝てぬ」等と陰口を叩かれ、当時、惣目付(後の大目付)で、大名の取り締まりにあたっていた柳生宗矩は窮地に立たされます。
そして、その後、日をおかずに病死していることから、柳生宗矩が息子の左門を暗殺させたと言う説があります。そして、その撃手が、十兵衛三厳だと・・・。
そして、その同母弟の義仙には剣を伝授せず、出家させて烈堂と号させ、柳生家菩提寺として建立した「芳徳禅寺」の住持として一生をおくらせました。おしまい。

と言うことで、子連れ狼の烈堂とは似ても似つかない方だったようです。
しかし、その反面、左門は兄十兵衛が最も恐れたとされるほどの天才だったという伝説もあり、だとすると裂堂もそれなりの天才剣士だったかも・・・そして住持という表向きの顔が裏柳生総帥の隠れ蓑だったと考えた、原作者も大したものですが。

PS・その後、徳川家光は恋しい左門を殺したであろう柳生家を恨み、宗矩が手に入れた大名の地位(1万石以上は大名)を宗矩の死後、十兵衛三厳、又十郎宗冬に分割することで旗本の地位に下げてしまいます。そして幕閣の要職は全て剥奪し、柳生家は後に大名に復しますが、二度と幕閣要職にはつけませんでした。

666MILD SEVEN:2003/07/30(水) 00:51
ご丁寧な説明。ありがとうございます。

667愚鈍凡夫:2003/07/30(水) 20:02
>>665:

ワーイ!ワーイ!
ジャージルーカスさんの「日本昔話」だ。
アイスキャンデー食べながら読もう(オッサンがやるなって!!) (^▽^;)

失礼しました。 <m(__)m>

668MILD SEVEN:2003/07/31(木) 02:24
インド大使館のホームページを訪問してみました。

http://www.embassy-avenue.jp/india/index-j.html

669愚鈍凡夫:2003/09/08(月) 23:51

原始仏典の現代語訳が下記のHPで読めますよ。

「原始仏典」
http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm

それでは、もう寝ます。お休みなさい。

670MILD SEVEN:2003/09/09(火) 01:29

ありがとう!
参考にします。
http://mildseven.55street.net/index.html

671問答迷人:2003/09/13(土) 07:56
171700ゲットしました

672問答迷人:2003/09/17(水) 11:27

172513 ゲットしました。

673MILD SEVEN:2003/09/19(金) 12:56
<つぶやき・・。>

警察も右翼も優しい・・・。
それはそれ、これはこれ・・・。
私はキリスト者。
何も変わりません。
自然体のまま。

創価には、馬鹿梅と言われ、さんざんモルモットにされた人生。
今では、失うものはありません。

今日は休日です。
私は職人です。
両親はカナダへ移民して、今はカナダ人です。
私は、1997に創価に追われるようにカナダに避難?し、2001、「おろち」を倒しに帰国しました・・・まんざら冗談ではありません。

獣・666は比喩。
おろち も比喩。
以前、記入した立正安国論でも・・・。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/

674MILD SEVEN:2003/09/19(金) 22:01
<つぶやき・・2。>

創価は僧侶を認めない・侮辱する存在。
普通の仏教界も知っている。

(立正安国論にて)
・・・「国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る。・・・。
歴史は繰り返す。
・・・・・・自界叛逆の難・・・・・・・。
上記は何だろう? 単純に考えれば、宗門・僧侶への反逆行為!?
やはり、池田創価だろう!
しかも、他宗を裏切った者達による、元の宗門への反逆活動・策略は言わずと知れた事。

僕は「池田創価」は「おろち」と判断します。
冗談だと思いますか?
聖職者・僧侶を否定する創価学会の常識。

創価が開き直るなら・・・それもよし!
創価が内部革命するなら・・・それもよし!
創価が謝罪するなら・・・それもよし!

大局的には、時代は進歩する。
真理を求めてやまぬ者は進歩する。

前進して行きましょう!
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/page013.html

675MILD SEVEN:2003/09/20(土) 02:32
私の身に何かあれば、もちろん犯人は創価学会員です。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/page013.html

676MILD SEVEN:2003/09/22(月) 03:33
私は2段階の覚醒とも言うべき成長をしました。
1991 ドイツ・ドュッセルドルフ。
1995 千葉・柏。

という訳で、これ以上は、個人的な事は封印します。
それでは。

677桃太郎:2003/09/23(火) 12:01
毎日毎日忙しいな〜
敵にも味方にも苦しめられるとは・・・。
因果な?商売だな〜
どうしたものか・・・。
このままでは、体がもたない・・・。

何処かへ・・・?

678ガンコ:2003/09/23(火) 13:10
あっ、名前が変わってる!

679愚鈍凡夫:2003/09/23(火) 16:16

うんっ・・・・。別人28号かと・・・・・。

失礼しました。 m(_ _;)m

680Crazy Seven:2003/09/29(月) 19:08
 You の 「根性」には日頃から「敬服」しております、。キリスト者もかなり「ガンコ者、?」(失礼)のようですネ。 でも「パレスチナとユダヤ間のゴタゴタ」を見るとき、「どっちモドッチ、、」と言わざるを得ませんでしょうか、、?

681MILD SEVEN:2003/09/30(火) 01:43
偏見や無理解は困ります。
私の過去のレス等なども、よくよく検証されたし。

<<<現代の聖戦は教育です。「敵を愛す」>>>

<創価学会員への提案>

自分達の組織に疑問を感じたら、少し距離をおいて冷静に判断してみる事です。
自分は何を信仰していているのか?
自由に提案してみて、それが組織の改善になるなら、そのまま様子を見てみるのもいい。
馴れ合いよりも前進でしょう。
厳しい道かも知れませんが、楽しい労苦です・・・きっと。

自分の良心で疑問を感じた時点で、既に可能性はあります。
組織の改善の。

             ・・・・・・・・・

<上手な仕事>

これは難しい。
成し遂げた者はいないでしょう。
素直に切り開いて行くのみでしょう。

私としては、仏教界とも、紳士的に競い合える世を!と考えています。
日本国内で理想的な高め合いの環境が出来れば・・・半永久的に世界をリード出来る・日出る国が完成すると思われますが・・・。

マトモな宗教は、素直な意見を馬鹿にしたりしません。
消化・吸収・教育してくれます。
マトモな良識ある国は成長します。
正論だと思います。

創価には、仏教界・特に本山との和解が必要とも思われますが・・・。
創価が、仏教界の中であくまでも異端の立場をとり、和解出来なければ、創価抜きで話は進みます。
もう、進んでいると思います。
時間との戦いです。
創価には悔い改めと改善が必要です。
私は外部からさんざん助言して参りました・・・。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/page013.html

682Slowly Walker:2003/10/01(水) 21:26
横からゴメン、、。 S団体は「他の意見を聞く耳は存在」??でしょうか、、??
 隣の暴力的な=???様の御国の如く「ナカナカ最低限の我々の話さえも聞いてもらえない」という現実も存在しております。
 とかく「一人の強権者が居る国や社会には、普通の常識が無理」でしょうか、、??
、、「ガンコ者?」を説得するには???でしょうか、、?? 御教え下さいませ、、!!。

683イエスの証しを保つ者:2003/10/03(金) 02:59
(世界の見解 聖戦へ)

創価は獣・666と契約した。
世界の情報戦は過去の大戦前夜と重ねて研究している。
同種の霊だ。

死の力をコントロール出来はしない。
取り込まれるのみ。
創価バンパイア。

悔い改めは必要です。

684MILD SEVEN:2003/10/03(金) 13:12

<ピリピ人への手紙 3章 13〜14節>

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る為に、目標を目ざして一心に走っているのです。

             ・・・・・・・

ここでの布教目的ありません。
自分の気持ちと一致するものですから・・・。

685MILD SEVEN:2003/10/06(月) 23:08
私は、よく馬鹿と言われます。そう言うのは、いわゆる・そういう人達ですが・・・。
民主主義社会で、底辺に押し込められる。
でも、いい人を増やすべくがんばります。
それは私の幸せにもなるから。
それしかない・・・。

社会の良心の麻痺の回復の為の十字架を背負っていると考えればいい。
それで平等。
笑いたい方はご自由に。
投げやりは良くないか?
そうだ。
頑張ろう。

一日も早く、日本人の手で、キリスト教の国連機能をもつ組織を構築したいものです。
法律うんぬんでは無く、世界の良識ある心ある人々の良心で世が正されますように。
我々キリスト者は、法律を作れる位以上の良心のレベル保ち・向上して行きたいものです。
良識ある仕事は誰がするのか?
楽しい競い合いの世を!

参考までに。
私の受洗した国・ドイツにはキリスト教の政党があります。

こんな言い方は蒸し返しになるかと心配ですが、創価の器は小さい。
仏教界の中の一部のカルトにすぎない。
たった一人の、さんざん馬鹿とバカにした私よりも・・・。
確かに私はLDを自覚していますが・・・。
でも、キリストは育ててくれます。

なんだかこの国で頑張るのが本当にバカらしくなる時があります。
アメリカ等に、そんな人が集まるのが分かります・・・この頃。
私の実家はカナダですが・・・。
移民した親とは違う人生は選択出来ないのか?
まだ、この国を見捨てたくない・・・。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/

686MILD SEVEN:2003/10/06(月) 23:14
もちろん つぶやき です。

個人の運命もさることながら、日出国。
がんばりましょう。
それだけです。

687MILD SEVEN:2003/10/08(水) 12:08

私の考えは下記の通りです。

私としては、敵を愛す戦いをしなければなりません。
これが、キリスト者の御国「法治国家」のルールと思います。
ですから、教育です・・・(カルト・創価学会)
慈悲を大切に考える普通の仏教界との連携と共に。

我らの教義では、愛は全ての背きの罪を覆う。とあります。
私は、善き隣人となり得る方々との前向きな連携は、今後の秩序ある競い合いの為の布石と考えます。
日出る国の完成の為に。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/

688MILD SEVEN:2003/10/08(水) 12:11

つぶやきです。つぶやき。

創価問題については、別スレがありますので、今後はそちらに記入します。

689$♪??者:2003/10/12(日) 21:59
 ツブヤキは「人間の魂からの御たけび」のようですか、、?

690愚鈍凡夫:2003/10/28(火) 20:49

「プロ野球日本シリーズも終わったしな〜、酒を飲む理由でも考えよう。」
「あっ、そうだそうだ、バレーボールがあったのでは・・・・・。」

p(*^-^*)q がんばっ♪
※o(▽ ̄*)ノフレー※\(* ̄▽ ̄*)/※フレーヽ(* ̄▽)o※

691心者雖念不直相鴨:2003/10/29(水) 03:28
日曜日に本屋さんで立ち読みをしていたら、「白文で読む大智度論」(正確な書名は忘れました)といった内容の書物がありました。
それにしても、白文の大智度論というのは一体どこにあるのかな?と、思っていたら見つけました。
http://www.jhoo.com/cgi-bin//ei.cgi?r2=t25/1509_000&amp;tp=1&amp;ft=0&amp;xh=0
20年ほど前に、万福寺を観光したときに大蔵経の版木を見て感嘆いたしましたが、今ではネットからダウンロードまでできると知って本当に驚きました。
http://www.buddhist-canon.com/PLAIN/index.html
等々、最近までこうした世界があることすら知らなかったわたしには感激でした。

692MILD SEVEN:2003/10/29(水) 06:16
今度の職場でも創価の策略が待っているのかな〜?
うんざりだ。
創価の私刑はいつまで?
まったく、訳わからん・・・。

力の差を理解出来ないカルト体質・創価。
そうやって自分達の首を絞めればいい。
いやいや、なんとも・・・。
私には幸せになる権利は無いのか?????????????

確かに、創価は証しの為の餌だが・・・。
今後の展開をどうするか?

祈ろう。

693MILD SEVEN:2003/10/29(水) 06:18
今の気持ちは微妙かな・・・。

694三学無縁:2003/10/31(金) 22:46
先日、日蓮宗のお坊さんに、チョーパン(頭突きです)3発と、
両掌によるカメハメ波打撃、その他をもらってしまいました(苦笑)。
小さなタンコブはそれほど痛くなかったですが、心は暫く痛みました。

695愚鈍凡夫:2003/10/31(金) 23:33

>>694:三学無縁さんへ

少林寺のお坊さんでなくて不幸中の幸いでしたね。(-。-;)
きっと、お坊さんの地雷を踏んでしまったんでしょうね。\(◎o◎)/!
お心お大事に。

696三学無縁:2003/10/31(金) 23:38
愚鈍凡夫さん

ありがとうございます。
じつは完全な誤爆テロ、だったのです(泣)。

697Leo:2003/11/02(日) 22:01
(つぶやき)
福沢諭吉は砲声が鳴り響く中、経済学の講義を続けた...
創宗戦争の飛び火が来ようとも研鑚を続けたい、続けねば...

698Leo:2003/11/02(日) 22:13
創宗戦争、あるいは創戦争

699Leo:2003/11/03(月) 01:15
(つぶやき)
戦争にたとえて。一人一人の兵隊はよい人間だったりするのです。
一人一人の兵隊がよい人間だからといって、戦争は肯定できない。

700Leo:2003/11/03(月) 01:36
(つぶやき)
#(こちらのスレでは研鑚から離れてつぶやかせて頂きたいと思います...)

ある掲示板でこのような投稿があった。なるほどと思った。

-----ここから-----
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1057634332/511

幸福製造機の機構 昔と今

1 朝に勤行をしなければならないから早起きをする。
2 夜に勤行をしなければならないから飲酒を控える。
3 会合に行かなければならないから引きこもらない。
4 折伏をしなければならないから交際を活発にする。
5 指導をしなければならないから話術が向上する。
6 教学をしなければならないから漢字をおぼえる。

高度成長期には景気はいつもよく産業も簡単だったので上の効果が生じると
たいがい経済的に豊かになれた。今は景気はいつも悪く、プログラマーなどの
不規則な勤務が多く、情報は引きこもっていても得られる。ひとびとの趣味も
さまざまだから簡単に話があわない。漢字をおぼえたていどではジョブが向上
しない。幸福製造機が稼動していないから折伏もできない、指導に行っても塩
をまかれる。会合もお通夜になる。もう製造機が稼動しないことを認めないから
悪人のせいにして退治をご祈念する。

701管理者:2003/11/05(水) 23:17

沖浦克治さん

このスレッドは議論禁止のスレッドです。

702心者雖念不直相鴨:2003/11/07(金) 01:29
[今日の宗教は教会や教団を必要としない、教会や教団は葬式の他は、カルトの発生源に次第になる。なぜ今日の宗教は教会や教団を必要としないか、宗教に魅力があったのは経済のレベルが低い頃には、科学者と芸能家が教会や教団で生活していたからである。科学者も芸能家も独立し、現代の宗教に貢献するのは企業である。大衆芸能が現代の「経」であり、科学書が現代の「論」である。教会や教団の「宗教」は「反-宗教」であり、「マルチ商法」の仲間であることを、はまっていない人なら知っている。](顕正居士)

「うーん、すごい」過去ログを読んでいて、思わずうなってしまいました。

703ワラシナ:2003/11/07(金) 07:49
「ガス給湯器の種火消し忘れとガスメーターの赤点滅の関係」について。

ガス会社の人の説明で初めて知った事。種火消し忘れが一ヶ月以上続くとメーターが自動的にガス漏れと判断して警告点滅を始めてしまうから、一ヶ月に一回は必ずガスを消す(その間一時間ほど)必要がある、との事。
給湯器を使い終わったらそのつど種火消しをするまじめな人ばかりではない。うちに帰ったらすぐシャワーしたい人、風呂好きな人は、面倒だからつけっぱなし状態にしてしまうのだそうです。このトラブル件数が多くて苦慮してるみたいです。
 ガス会社の係りの人に電話すると「必ず種火消しを確認してから復旧ボタンを押してくれ」を強調されます。そうすれば、この場合には本当のガス漏れではないのだからメーターの赤点滅は消え、正常になる筈、ということだそうです。

704犀角独歩:2003/11/07(金) 09:46

> 702

たしかに。
すばらしい慧眼であると思います。

705犀角独歩:2003/11/08(土) 12:32

> 703

あ、ワラシナさん。投稿されていらっしゃったのですか。
お久しぶりです。

706みかん:2003/11/10(月) 19:15
今年5月に出た『日本仏教34の鍵』(春秋社)というキーワード集形式の日本仏教思想史の入門書で、花野充道先生(早稲田大学感性文化研究所客員研究員 日蓮正宗僧侶 兵庫県・浄福寺住職)が、「日蓮とその門流」を担当しています。
http://www.shunjusha.co.jp/book/13/13508.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393135083/

田村芳朗先生の本覚文献形成時期の説を否定し、花野先生は本覚思想文献の成立をもっと早めに見積もって、本覚思想の見られる日蓮遺文の肯定、四重興廃、無作三身説の肯定、また国家諫暁を積極的に行った日興門流が日蓮から直接戒壇についての見解を聞いているはずだとして、三大秘法抄の肯定をしようとしているように読めます。

また、日蓮門下の流れについても言及されています。

なお花野先生については当掲示板で過去に以下のような議論がありました。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1016869045/186-

707みかん:2003/11/10(月) 19:21
議論になりそうな箇所を一部引用します。

136頁
> (前略)田村氏は、天台本覚思想の基本的な考え方が出揃った『三十四箇事書』の成立を鎌倉中期の静明のころと見て、それを基準に時代設定をされている(日本思想大系『天台本覚論』 岩波書店、一九七三)。田村氏の時代設定によれぱ、天台本覚思想文献の成立年代が全体的にさがるので、日蓮の叡山遊学当時、未だ『修禅寺決』『漢光類聚』『一帖抄』などの書は成立しておらず、従ってそれらの書に説かれる思想、たとえば四重興廃思想などが見える日蓮遺文は疑わしいということになる。
> (略)しかし、『三十四箇事書』は書誌学的に見て院政期の皇覚撰として間違いないものであり、田村氏の時代設定は全体的にさげすぎである(拙稿「三十四箇事書の研究」「道心」二〇号所収、二〇〇〇)。天台本覚思想文献の成立年代があがれば、日蓮遺文に四重興廃思想や無作三身思想が見えても何ら不思議ではなく、日蓮遺文の真偽論も新たな視点から考え直す必要が出てくる。

138-139
> 三大秘法のなかでも、本門の戒壇についての詳しい説明は、『三大秘法稟承事』にしか説かれておらず、もしこの書が偽書であるならば、日蓮の本門戒壇論は名前のみあって、その内容が全くわからないことになる。日蓮が佐渡配流以後、はっきりと自身の弘通する仏法は三大秘法であると言っているにもかかわらず、その本門戒壇について弟子達に何も語らなかったということは到底考えられない。佐渡にあって、日蓮に常随給仕した日興の門流が、早くから国家諌暁による戒壇建立を悲願としていたことは、口興が日蓮から直接聞いたからであると推測され、それは『三大秘法稟承事』の内容とも一致する。

708問答迷人:2003/11/11(火) 00:57

民意は、絶妙だと思いました。自民党は議席を減らし、民意は、憲法改正、そして徴兵制へと、突っ走ろうとしていた小泉政権に水を差しました。しかし、連立与党には、絶対安定多数を与えて、政権の安定を計りました。これは、政治の混乱は誰も望んでいないことを表しているのでしょう。しかも、第二党の民主党には、政権にもう少しで届く距離を提供し、自民党に、『舵取りを誤れば、直ちに政権与党から転落するぞ』という厳しい現実を突き付けたものだと思います。

宗教においても、やはり同じことではないのか。嘘で塗り固めた教義は、いつかは化けの皮が剥がれ落ち、見向きもされなくなるでしょう。最終的には、人を人たらしめる教えのみが光を放つのだと思います。それを決めるのは、やはり民意なのではないでしょうか、そんな気がします。

そして、蓮師に列なる者の一人としては、蓮師の教えが、最終的に光を放つ教えで有ってほしいと願い、教団によって脚色されたものでない、蓮師の有りのままの教えを知りたいと願います。

709犀角独歩:2003/11/11(火) 01:16

わたしは花野さんの板漫荼羅と日蓮本仏の説明を一番、聞きたいですね。
ついでに石山の坊さんとしてというより、学者として、御肉牙を科学的な立場からどう思っているか。
丁重なご説明を期待いたしております。

710みかん:2003/11/11(火) 05:53
> 丁重なご説明を期待いたしております。

そんなことしたら失業しちゃうから、なさらないのではないでしょうか。
生活は大事ですからねぇ……。

711ガンコ:2003/11/11(火) 05:54

沖浦さん、ノーギヤ化について、教えてくださらない? (シロウトにもわかるように)

712犀角独歩:2003/11/11(火) 11:34

みかんさん:

> 失業しちゃうから、なさらない

たしかに(笑)
石山から世間が認める学者が輩出された点のほうを評価すべきかも知れません。
ご紹介いただいたような花野さんの見識が僧学から脱却できるか、見ていこうと思います。

713犀角独歩:2003/11/11(火) 16:26

みかんさん:

> 日興の門流が、早くから国家諌暁による戒壇建立を悲願と
> …口興が日蓮から直接聞いたからであると推測され、
> …『三大秘法稟承事』の内容とも一致する。

ここで「国家諌暁=戒壇建立」が至極当然のことのように語られていますが、こんな事、実際にあり得るでしょうか。

そもそも当時の天奏は、既に封建二勢力に認められている既成教団と同様に、自分たちも認めてほしいという、今で言えば宗教法人の許認可を求めることに主眼があったと考えられます(おかしいでしょうか)。蓮師は度重なる罪状を課せられて島流しに遭った今で言えば前科者というのが世間一般の理解であったと思うわけです。この状況のなかで、いまだに許認可も受けていない教団が、いきなり叡山に代わる国主戒壇之建立悲願を具体化していたと考えることはできるわけがないと思えるわけです。天奏に成功したとしても、教団として認められ・寺院を寄進されるところまでしか考えようもなかったのではないかと思えます。しかし、それすら“島帰り”の身上にある蓮師にすれば、夢のまた夢であったのではないでしょうか。

また、蓮師の戒壇建立悲願を、興師が直接聞いたなどと言うことはまったくくの憶測に過ぎず、何ら証拠もありません。そのまったくの憶測から疑義のある『三大秘法抄』の真筆説までこじつけるなどというのは、論理があまりに飛躍していて、学者の発言と言うより作家の小説のような感じを受けますが、如何でしょうか。この論理展開は想像を未決書で補うという学説にあるまじき振る舞いとわたしに思えます。なぜならば、そこには何ら事実の積み重ねが見られないからです。

わたしは学界にあるわけではありませんので、このような飛躍ともとれる論理展開を仏教学界というのは許すところであるかどうか、ご教示いただけませんか。

714犀角独歩:2003/11/11(火) 16:36

―713からつづく―

> 日蓮が佐渡配流以後、はっきりと自身の弘通する仏法は三大秘法であると言っている

としていますが、真跡で見る限り蓮師は「三大秘法」とは言っておらず、「三つの法門」というのに留まっています。それを「三大秘法であると言っている」と断定するのは実にいい加減な記述です。

> その本門戒壇について弟子達に何も語らなかったということは到底考えられない

これもただの憶測に過ぎませんよね。
蓮師が志半ば、あるいは教義を整足以前に没することは起きえたことであると思います。

なんだか、勝手な決めつけが目立つ文章ですね。

715ガンコ:2003/11/11(火) 19:08

お・き・う・ら・さ〜ん。なんか悲しい・・・

716沖浦克治:2003/11/11(火) 20:03
 がんこさん

 私がこの掲示板に書き込むことははばかられます。
 http://8414.teacup.com/rescue/bbs
 ここは私の掲示板です。
 音楽・アルペンレース・パワーリフティングについて話す場ですが、それ以外のことでも結構ですので、こちらにおいで下さいませ。

717一正宗信者:2003/11/12(水) 05:30
結局仏教の目的とはなんでしょうか。
功徳とは受けるものではなく積むものだという意見も聞きましたが、
とりあえず私は四弘誓願、六波羅蜜を生活のなかで実践すること、
ぐらいに理解しています。

718みかん:2003/11/12(水) 08:28
仏教の目的は、滅苦です。
苦を滅するために、開悟(=成仏)することが、仏教の手段です。
四聖諦を見れば分かります。

719五月雨:2003/11/12(水) 14:11
本来のつぶやきすれっどに戻していいですか。

久しぶりにちょっと独り言・・・・・

こないだ、信心の濃い町、信濃町に行って来ました。とっても良い所でした。
駅から近いのに静かで落ち着いた雰囲気の町ですね。
学会本部は見学出来ないとのことで、接遇センターを見学しましたが、ここは学会本部詣出に来た学会員の為の建物だそうです。
女子部・男子部の職員の方が、明るい笑顔で迎えて下さり、私もつい「ご苦労様」と返してしまったですw。(つい言ってしまう、このクセは身に染み付いているみたいやわ。はー、タメ息…。

一階には、貢物を差し出す?手続きをするホールがありました。貢物手続き用紙みたいなものに記入して差し出すらしく、まるで役所のように記述する台が沢山あったのが印象的でした。

エレベーターで三階に上がると、唱題する声が聞こえてきました。お寺でいうなら本堂みたいな部屋でご本尊が安置されていました。椅子席だったので楽で良かった。
唱題の声が合わないのはご愛嬌かな、やっぱ太鼓がなければ、合いませんねw 
だけど、ここでびっくりしたのは、曼荼羅の前に置かれた鶴丸徳利です。
学会系の仏壇屋では八葉徳利しか売っているのを見たことがなかったので、あれは謗法じゃないのかと思いました。
鶴丸は正宗の紋ですよね、学会はなにゆえに外さないのか、それをみるガカーインには何の抵抗もないのかと不思議な思いで唱題するガカーインをしばし眺めていました。

二階には、ガカーインが寛ぐスペースがあって、お茶の設備もあり、部屋の一番日当たりの良い場所は指導のスペースになっていて、幹部が指導中でした。中身は衆院選のF取りの話に苦笑い。
その方は30年ぶりだかに、知り合いに電話をしたそうですが、電話を貰った知り合いは嫌だったでしょうねー。30年ぶりの電話が投票依頼。ガカーインのデリカシーの無さを感じたお話でした。

接遇センターを出て、名誉さんの自宅と思われる家と、表向き名誉さんの自宅を見に行きました。
自宅と思われる家は本当に立派で、やっぱ名誉さんにはこんな家に住んでて貰わないとね、と思いました。一時期でも人生の師匠だと信じていた人ですもの。あー、良かったという感じです。

聖教新聞社は外から見ただけですが、配達員歴6年の私には一番感動だったと思います。
ここの新聞をある使命感を持って配っていたというのは、認めたくなくてもそれは事実だったんだと、
社屋を見ながら、それを自分でやっと受け入れられた気がしました。

今回信濃町に行って、駅前には三色旗を掲げたり、三色いろを派手に使ったお店には、ちっと度肝を抜かれましたが、とってもいい雰囲気の町だったと思いました。監視はたしかに町のあちらこちらに居ましたが、まーこれは学会のスタンダード。元学会員の私にはなんの抵抗感もありませんでした。

地方の学会員には、信濃町の学会本部は遠い遠い憧れの地でした。行ってみて「そーだったのか」と
とっても納得出来ました。
私の貢いだお金が、もしかしたらこの建物のコンクリートの一片になっているかもしれない。
そんな建物に集まるガカーインの幸せそうな笑顔に、騙されてはいてもそれで幸福なんだったら、
それもいいんじゃないのかなと思いました。
騙されるのも、騙されないのも、結局自分の責任なんですものね。

行って良かった信濃町、また機会があれば行きたい
(法華講に所属していると分かったらボコボコにされるだろーかw

今度は奉安堂に逝ってきまーつ。

いつの間にか2ちゃんねらー語に染まってしまった五月雨でした、お邪魔しました。

720ガンコ:2003/11/12(水) 15:21

あら、まあ、五月雨さんではありませんか。

721五月雨:2003/11/12(水) 15:34

ガンコさん、おひさ!

沖浦さんが書き込み禁止になって、ガンコさんも寂しいね。

沖浦さんは大体ここら辺りを根城になさっているご様子。
遊びに行ってあげてくださいw。

http://bbs4.otd.co.jp/401307/bbs_thread

722ガンコ:2003/11/12(水) 17:25

正信掲示板はどういうわけか学会員が多くいますでしょう。いじめられそうなので、行かないんです。

723一正宗信者:2003/11/12(水) 18:29
みかんさん、レスありがとうございます。

<仏教の目的は、滅苦です。
<苦を滅するために、開悟(=成仏)することが、仏教の手段です。
<四聖諦を見れば分かります。

しからば、どうすれば開悟できるでしょうか、ということが私の今の疑問です。

724日真名氏飛び出す:2003/11/14(金) 00:36
18800ゲットしました。

725日真名氏飛び出す:2003/11/14(金) 00:37
18800ゲットしました。

726ワラシナ:2003/11/14(金) 07:32
「初めから秋に開花するように出来ている桜、お会式桜」

0、初めて先日近くに寄ったので「日蓮大聖人御入滅之霊場」たる大坊本行寺境内を見学して、お会式桜をみた。
桃色っ気が薄れて白っぽい花びらが寂しそうに開いていた。「時ならぬ」と書いてある本があったが、秋に咲くべき時を決めている品種があったのを始めて知った。

727ワラシナ:2003/11/20(木) 07:25
「40年ほど昔のブラジルにとっての創価学会とは、、、」

体制転覆されかねないほど危険な思想結社と思われていて当局は警戒を強めていたんだそうです。トップがブラジルに来た時にも集会場が妨害されたとか。
(ブラジル国風俗研究家某氏談)

728孤独な迷子:2003/11/20(木) 16:18
五月雨さん

久しぶりの投稿ですね。お元気そうで良かった。

729ワラシナ:2003/11/30(日) 22:31
羽毛田丈史さんの「文明の道」のテーマ曲 

アネモネさんが前にも言ってたけど、、、

丸で、無数の人々が、立ち止まり息絶えた時の最後の足音と息遣いと想いとが大きな渦巻きになって迫って来る、それを叡知的態度で内観した時に自然と聞こえてきそうな音楽、聞いた瞬間、不意に引きずり込まれそうになる程魅了されてしまった。nhkのホームページで飽きる程繰り返し聞いた。

(でも、曲そのものに既に物語りめいた主張性が感じられるので背景に使う時には控えめに使う方が確かに効果的と思う。)

730アネモネ:2003/12/02(火) 12:50
ワラシナさん

nhkのホームページで聴けるとは知りませんでした。

>でも、曲そのものに既に物語りめいた主張性が感じられるので背景に使う時には控えめに使う方が確かに効果的と思う。

確かにそうですよね。そのくらいあの曲はなんといいますか、昂揚感をかもし出すとでもいいますか、そんなインパクトの強い曲ですね。それと映像もよかった。

731犀角独歩:2003/12/06(土) 03:03

上杉清文師作『独々逸イデオロギー』
泉鏡花 生誕130年記念/長谷川伸 生誕120周年記念
を見ました。2003「発見の会講演」、実に面白いものでした。


上杉師は日蓮宗富士吉原本国寺住職、『福神』主催者
「時代設定は昭和8年10月昭和11年2月までの期間である。
 登場人物…西田幾多郎/西田琴/鈴木大拙/泉鏡花/長谷川伸/辻潤/北すず子/大川周明/九鬼周三/三木清/中井正一/戸坂潤/西田税/大杉栄/伊藤野枝/天鈿目/市村雪之丞」

12月7日まで
於 中野光座(中野区中央4-61-10)
(電話予約/問合 080-3201-1248)
開場午後6時30分/開演午後7時

732犀角独歩:2003/12/06(土) 08:09

上記、なにを公演しているのかわかりづらいですね。
演劇舞台です。

電話予約 3000円、当日券 3400円

733妙薬:2003/12/06(土) 11:08
独歩さん、ご無沙汰しています。
 
 私も初日に行ってきました。メチャ面白かった。きっと、ああした演劇を作れるのが、上杉さんのセンスでありキャラなんでしょうね。久し振りに大笑いをしてきました。
 哲学的で難解で、それでいて理屈抜きにストーンと胸に落ちる説得力を感じました。さすが、有馬則純さんと瓜生良介先生の演出。インディース系演劇でトップを走る「発見の会」らしい作品でした。

 中野の光座は、私にとって懐かしの場所。40数年前に近く住んでいたこともあり、何度も観に行ったものです。その後、ポルト路線の場末の映画館となったようですが、(弁解調に)その頃は引っ越していました。

 とくに笑わせてもらったのは、劇中に登場した泉鏡花と長谷川伸の名作シーン。これは実にわかりやすかった。難解な「ドイッチェ・イデオロギー」と誰もが知る名作のコントラスト。これが最高でしたね。
 近々、上杉さんら日蓮宗僧侶編集による仏教総合誌「福神」が太田出版から刊行されるそうです。そちらも楽しみです。

734犀角独歩:2003/12/06(土) 11:35

妙薬さん:

ご無沙汰しています。
1日違いですね。お会いできずに残念でした。

昨晩は光座の場所がわからず、中野五差路でしばし立ち尽くしていました。
見るとはなしに、目の前の崩れかけた建物の壁を見ると「光座」の文字。公演ビラが貼り付けてあって「あ、ここか」と、そこから吃驚がはじまりました。あの場所に妙薬さんの青春の一幕があったとお聞きし、さらに吃驚に深みが増しました。

本当に面白い公演でしたね。わたしも最前列で熱演・熱弁の役者さんの唾がかかる距離で観劇しながら、久方に腹を抱えて大笑いさせてもらいました。マルクス三兄弟。「アウフヘーベン」とラップ調で歌うシーンでネズミの耳尻尾をつけた“ミッキー”マウスが三木清。鳥の鶏冠(とさか)をつけたのが戸坂潤とわかり、吹き出しました。

> 仏教総合誌「福神」

この次は大木道恵さん、松戸行雄さんが載るのでしたっけ?
発刊が楽しみです。

735庶民112:2003/12/07(日) 22:01
NHK特番のスペイン特集はいろいろ??でした、、。 今全盛のキリスト教と700年間も制圧した「イスラム教」の「攻防、、??」の現実が放映されて居ました、、。
 イスラムでは=アッラーこそ命!!!!   キリスト教=処女マリヤ〜息子===命、、、」と互いに主張してます、。 今後の「展望、、??」を考察するためにも「そこそこは御参考には、、??」かと??

736犀角独歩:2003/12/08(月) 10:19

昨晩、NHK教育/新日曜美術館『ナチスに抵抗した現代絵画の巨匠ディックス/従軍の体験を基に戦争の真の姿を描いた祭壇画』を見ました。

ナチスが奨励した一見すると爽やか、健康、平和を描く“美術”に対して、ディックスは従軍経験から戦争の現実、その悲惨な実態を描くために病院の解剖室で遺体とその内臓のデッサンを繰り返したと言います。描かれた絵はナチスの奨励する絵とは対照的に、暗く、そして、悲惨さに充ち満ちています。祭壇画の様式をもって描かれた作品は、戦争に傷つき、死した兵士が描かれ、中央、十字架に係るイエス・キリストが描かれる場所に遺体が損壊し死し、棘の冠の代わりに鉄条網が絡みつく戦死者が据えられています。下部にはしばしの仮眠を取る兵士、その上には臨戦する兵士、そして、傷病兵、戦死者…、その“祭壇画”のなかでは永遠に終わることのない戦争を、いまも訴え続けています。

一見すると平和健康人間美を描く絵画をナチスが奨励し、戦争の真実を描くディックスの絵画は退廃芸術の烙印を押され封印され、弾圧を受けていきます。わたしはこの対比に表現の真実を見た思いがしました。

最後に司会者が語った一言「私たちが『どんなに忘れやすいか』を忘れないようにしたい」、名言でした。

737アネモネ:2003/12/08(月) 12:35
犀角独歩さん

私も、放映時間の最後のわずか15分ほどですが、たまたま観ることができました。
ご紹介の祭壇画、すごかったです。

>中央、十字架に係るイエス・キリストが描かれる場所に遺体が損壊し死し、棘の冠の代わりに鉄条網が絡みつく戦死者が据えられています。

強いメッセージ性を感じました。
銃を持った兵士たちは、兵器の一部のようにとても無機質に描かれていましたね。
また、右端でしたでしょうか、戦場から子供を抱えて(?)逃げ延びようとする人も描かれており、それはディックス自身の「心の亡命」を表していると解説されていましたね。
お名前を忘れましたが、解説をしてくださっていたゲストの方が、「国家権力の美辞麗句に対する逆撫で精神」と表現されていました。
国家権力を権威や権力の象徴と捉えれば、そこに描かれたメッセージには、多くの示唆を与えてくれていると思います。
そこに描かれていた人々のどれもが、自分自身であり、つまり自分自身の心の呪縛と捉えることもできるかもしれません。
その絵が当時の社会体制からどのような評価を受けていたものかも含めて、時代を越えた、今の自分に置き換えられてしまう、ものすごい絵でした。

しかし、最初から観たかったです…残念。

738犀角独歩:2003/12/08(月) 13:37

アネモネさん:

> 子供を抱えて…ディックス自身の「心の亡命」

この人物の顔はディックスその人と見えました。

> 最初から観たかった…残念

わたしも実は途中からでした。
しかし、見始めて直ぐに涙が止まらなくなりました。
ゲストの方のお名前はチェックできなかったのですが、日本語を流暢に話される韓国人の方であったことは聞けました。90年前のあの絵が、現代の悲惨な戦争もしっかりと批判しているとするコメントも印象に残りました。

> 「国家権力の美辞麗句に対する逆撫で精神」

励まされた言葉でした。
わたしも、与えられた解釈、根拠のない確信、宣伝だけの世界平和、そんな学会を含む石山系集団の嘘を、これからも逆撫でしていこうと思いました。

739MILD SEVEN:2003/12/10(水) 05:10

<組織って怖いですね!>

人間が造ったものは、そもそも不完全。
時代が進んでも・・トップダウン、合議制・・いろいろあっても、結局、封建社会とあまり変わらない。
洗練されたトリックです。

宗教は?
心優しい宗教はあります。
変な宗教もあります。

また、組織にも属さず、心のよりどころも無い人間も・・陰で何をするかわからない!?
孤高の人間はいるのか?
哲学のみでは、さびしいもの・・・。
それでは、どうすればいいのでしょう?

もちろん答えは分かってる・・・。
真・哲学? 真理学?
単なる学問じゃないでしょう。
信仰と行ないは大切な事。

偽善者では無く、ありのままに! 自然体で!

宗教法人は学校法人に勝る!?
しかし、カルトではダメなのです!!
http://8022.teacup.com/momo7/bbs

740心者雖念不直相鴨:2003/12/11(木) 02:26
宗教心とは....

雨の音がきこえる
  雨がふっているのだ
  あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
  雨があがるようにしずかに死んでゆかう

八木重吉

741:2003/12/12(金) 11:21
信仰心が強くても、組織、その所属会員の振る舞いの粗末なことに
私は納得できません。
「あなたは人ばかり見てる」と言われ続けていますが、「人を見て
何故悪いの?」と言い、信仰の話になると気まずくなる親子関係が
二十年以上続いています。昔、「学会の家に生まれたのはあなたの宿命」
とか言われたときには、家出しようかと考えました。

母に本当の宗教心はあるのか? この頃思います。
戦争体験者なのに、支持政党のあり方には無関心?の様子。

「お母さんは創価学会のことおかしいと思わないの?」と聞くと
「思わないではないけど、私は自分対御本尊様だと信じているから
 学会のことは気にしないようにしている。」と答えます。

自分対ご本尊ってどういう意味でしょうね? 多分どんな場合にでも信心の
結果がきっちり出ると思い込んでいるから、こういう表現になるのだと思い
ます。 母の心には、功徳と罰論のみがしっかり根付いているようです。

742犀角独歩:2003/12/12(金) 11:46

741 路さん:

はじめまして(…でしたっけ?)

> 信仰心が強くても、組織、その所属会員の振る舞いの粗末なことに
> 私は納得できません。

わたしもそう思います。
差詰め、創価学会の信仰的価値観に立って、この点を難ずるのであれば、以下の御書がありますね。

「不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(崇峻天皇御書)

743アネモネ:2003/12/12(金) 13:03
路さん
犀角独歩さん

>昔、「学会の家に生まれたのはあなたの宿命」
とか言われたときには、家出しようかと考えました。

とても痛々しい言葉ですね。
かつて、統一教会の合同結婚式がマスコミで大きく取り沙汰された頃、そこで結婚した夫婦に生まれてくる子供は、生まれながらに統一教会員として生まれ、否応なしにその人材教育がなされていく。生まれてくる子供にはまるで人権がない…そんな指摘がありました。
これは、統一教会に始まったことではないということが、ここのところのレスから、本当に痛々しい苦悩の声としてうかがうところです。
顕正会で、子供の人権という観点から、高校生の入信について問題視されてきているわけですが、生まれながらの入信ということも深刻ですね。
生まれながらの入信とは、子供の意思ではない、親の意思による入信ですね。またその親の意思が「宿命」という言葉に置き換えられているところが、深刻な問題なのでしょうね。
学会に限ったことではなく、日本の社会においては特に、親子関係の過度の密着や依存が根底にあって、子供の人権意識は見落とされてきたといってもいいかもしれません。
子供の人権意識とは、つまり子供をひとりの人格として考えるということですが、ほとんど子供の人格は親の人格に同化されて考えられてきているかと思われますね。そしてそのために、自我のない幼児期からでも、入信させてしまうことに何の抵抗も違和感もないわけです。
しかし、それは明らかに子供の人権侵害だといえるかと思います。また、それを宿命と言わせてしまう教義解釈にも問題があるのでしょう。
組織を信じる親は、子供の幸福のためと思ってのことですから、親心としての善意であり、誰も責められるものではありません。だからこそ根深い。しかし、それがいかに子供の人権を無視したものであるか、目を向けていかなければならないところではないかと思います。深刻な問題だと思います。
独歩さんがよく提示される、アビューズということでとらえるならば、乳幼児期の入信というのもその範疇として考えていかなければならないことかもしれませんね。

二世の方々、また子供を入信させていまっている方々への、言葉の配慮が足りないところがあったかもしれませんが、その点は、どうかお含み頂きたいと思います。

744犀角独歩:2003/12/12(金) 13:50

743 アネモネさん:

> アビューズ…乳幼児期の入信

これはまったくそのとおりだと思います。

敢えて横道に逸れます。

わたしが児童虐待に関して、その親に会うとき、いつも訊ねることがあります。
「あなたは、自分のお子さんの人権がいつからあると思いますか?」
すると、たいがい
「……、成人してから?、いや、18才になったら??…」
などという答えが返ってきます。そこでわたしが
「違いますよ。お子さんの人権は生まれたその瞬間から親とは別個に有するんです」。
そういうと、びっくりして、息の呑む親は多いのです。
親子未分離。この傾向は母親に特に強く、かつては母原病という言葉を生んだほどでした。

あと、一点。アネモネさんの投稿を拝読しながら、気づいたことがあります。
わたしは顕正会がもっとも問題なのは、その勧誘年齢を16才(高校1年生)に引き下げたことです。

概ね予想で申し上げれば、カルトを含む新興宗教(新宗教、新々宗教なども含めて)の被勧誘者年齢は18才から22才(大学生)がその8割乃至9割を占めると思われます。この年齢での入会決定もまた問題を多く孕みます。ましてや、16才での決定はもはや深刻と言うしかありません。

さらに問題であると思ったのは、石山僧の得度年齢です。小学校6年で試験され中学1年・12才から、親元から石山に隔離されて教育(洗脳といってよい)が施されるわけです。これが人格形成に大きな支障を来してはいないかと危惧を懐きます。

またさらに創価学園では幼稚園・小学校という低年齢から学界・池田さんの絶対性教育がなされていくわけです。

そして、実に深刻なことはアネモネさんが指摘されたとおり、入会は親が当然のように決めてしまう人権侵害、アビューズにあるわけです。

石山語で言えば、これを「法統相続」などと言って肯定化されていくわけです。福子(ふくし)などというもこの類です。

人は生まれた時点から親から独立した基本的人権を有している、信教の自由はその人権に関わることであるという大原則が、ここでは完全に踏みにじられているわけです。

それも、子供可愛さという親心の表れが、実は人権侵害、アビューズになっているという点が実に悲しく、問題をさらに深刻にしているわけです。

改善されなければならない点であると、わたしは自分の“親から受けた被害”経験から、そのように記さなければなりません。

重いつぶやきですが。

745犀角独歩:2003/12/12(金) 15:35

【744の訂正】

誤)わたしは顕正会がもっとも問題なのは、その勧誘年齢を16才(高校1年生)に引き下げたことです。
正)顕正会がもっとも問題なのは、その勧誘年齢を16才(高校1年生)に引き下げたことです。

誤)学界・池田さん
正)学会・池田さん

(これまた、余談ですが、「学会」が創価学会を意味するのは、各種学会に関わる学者先生方の顰蹙を買っています)

746:2003/12/12(金) 19:19
こんばんは。
犀角独歩さん、アネモネさん、心のこもったレスありがとうございます。
正宗、創価学会を知らない人は、「いやならしなければいい」と簡単に
言われますが、この宗教は入った人にしかわからない複雑な組織、人間関係
がありますので、理解してもらえることはとても嬉しいです。

私の友人は、結婚の条件が「入信」だったため、創価学会に入ったのですが
夫より強信の親に悩まされています。

顕正会の存在は、こちらの掲示板で始めて知ったのですが、いずれにしても
日蓮正宗系は、勝劣意識が強いですね。

747ワラシナ:2003/12/12(金) 22:42
「役に立つ体験とは」

0、組織に入って磨かれるのは組織的センス、だからカルト教団に入って磨かれるのはカルトセンス。知性も教養も個人的センス。組織的センスではない。

1、以前どなたかの述懐で「顕正会で学んだ事など社会では何の役にも立たず」というのが有った。それ0が上1の結論の理由と思う。

2、教団で学んだ事など一般世間で何の役にも立たない事が判った時、思い付くのが、「カルト教団で学んだノウハウがそのまま生かせる道=再び繰り返す=一味違ったベンチャーカルト目指して独立起業する道」

3、だが、今の殆どの人の傾向として、今以上に自分の可能性と才能が開かれる様な可能性を持った団体、会社、人々との出会いに過敏になっている。個人としての自分の人生を豊かにしてくれない団体組織が廃れていくのは道理。

4、かっていたKはどうだったか。惜しみなく他の人々に「精神的に大事なもの」を与える風であったかどうか省みるに周囲からそれらを惜しみなく奪い取る風であったと感じられたのである。

5、何でも体験かもしれないが、すればするほど自分がダメになっていくような体験重ねてどうする、、と今なら余裕ぶって言えますが当時は真っ暗闇の中に居て何もできなかった。

6、振り返れば、自分の場合、救いの光はいつも外部からやって来た。

748犀角独歩:2003/12/14(日) 12:00

746 路さん:

> 結婚の条件が「入信」

これは創価学会に対する被害の際だった特徴ですね。
ご存じだと思いますが、恋学は、特にこの点を闡明にしたサイトでした。

http://www.koi-gaku.net/

749ワラシナ:2003/12/14(日) 22:34
「日蓮正宗帝王付属会のホームページ」を見た感想

0、やっと念願だったこの会のHPを見ることができた。
1、もし本当に顕正会に関係ある人の製作だったとすれば「御遺命守護徹底完結に固執する厳格派集団」の主張、と理解したい。

750思考321:2003/12/15(月) 01:09
皆様方、、御機嫌は麗しゅうかと存じ申しあげます、、。 さて、、イラクでは「悪名高いサダム・フセインが拘束された」ようです、、。 彼は「恐怖と残虐に依る圧政をした、、」、、。 これは「歴史の正論に反対する行為、、」でありました、、。 「世の概ねの正論にさえ、支持をも得られぬ団体や政党などは、、、、いずれ反感を買い、、、、支持を失うでしょうか、、、??」
 現今「頂点のS会団体様におかれましても、この現実(イラク独裁)を真摯に直視」される事を期待、、??

751アネモネ:2003/12/18(木) 22:25
自衛隊のイラク派遣に続いて政府は、武器輸出三原則の見直しを検討課題にのせる見通しが報道されましたね。
日本が武器を輸出するとするアメリカは、単なる威嚇のための武装に留まらず、現実にその武器を使用して攻撃をし、人の命が犠牲になっていくわけですから、日本のべいこくへの武器輸出は、不殺生戒を犯していると解釈できるかもしれません。

どんどん日本は、軍事政策を強めていっているのでしょうか。
このままでは、憲法9条が改変されるのも時間の問題かもしれません。
私は戦後生まれですが、この流れはもしかして、戦前の日本が歩んだ軍事路線の歩みと似ているのではないのでしょうか。

752MILD SEVEN:2003/12/19(金) 05:13

<公明党・神崎、イラク入り>

池田狂信者は、やはり、神を愛する者に・・・馬鹿馬鹿と言うのか!?
テロリストが来たら・・・創価学会のせいだな!

この国の警察も学習してもらいたいものです。
その為にも、活動しています。

創価は「馬鹿」などと・・・簡単に差別用語を使う無神経なカルト集団です。
その霊的な罪は聖霊侮辱罪。
赦されないでしょう。
哀れな・・・。

http://tokyo.cool.ne.jp/mild_seven_xx/page013.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/page013.html
http://mildseven.55street.net/page013.html

http://8022.teacup.com/momo7/bbs

753愚鈍凡夫:2003/12/19(金) 21:18

マスコミはこぞってテロと言っていますが、今のイラクは嘗ての南ベトナムのベトコン同様、レジスタンスが広がりつつあるように思います。
テロリストのテロ活動とレジスタンスが混在している、というのが現状じゃないでしょうか。
アフガニスタンをめちゃくちゃにしておいて、その戦後処理が終わらぬうちにイラク戦争ですから、アメリカの蛮行には嫌悪を感じます。
南北戦争以来、自国を戦場としていない国ですから、突然自国を焼土にされ、無理矢理難民にされる民衆の痛みを感じないんでしょうね。

テロが世界中に広がった原因の一端は、アメリカやイギリスなど先進国の身勝手な国益優先政策があるわけですから、それを改めるのが先だと思うのですが、アメリカのように軍事産業やライフル協会が大統領選挙の舵を握って離さない現状では無理でしょうか。
また、イラク戦争の戦後処理は、アメリカの利益のお零れを頂戴しようとする各国の思惑が見え見えだし、番長のご機嫌を損なうと後で何をされるか分からないといった、無言の脅しも十分に効いているみたいです。 ボカッ(*▼▼)ノ゛☆(*△☆)イタッ

今度、公明党の神崎代表がイラクに行くそうですが、ノーベル平和賞狙いの池田さんも一緒に行けばいいのにと思います。 (-。-;)

754愚鈍凡夫:2003/12/19(金) 22:30
>>753:の続き

アメリカの場合、企業が軍需に留まらず、軍事に関わっているように思います。ひょっとしたら、軍事そのものがビジネス化しているのではないでしょうか。
イラク戦争は大量破壊兵器の保有といった言い掛かりから始まった戦争ですが、大量破壊兵器ということでは国連常任理事国の核兵器のほうが絶望的な破壊力を持っているし、ABC兵器の質量共に国連非常任理事国を圧倒しています。
そのことは言わない約束にしておいて、テロ支援国家であるという理由で軍事制裁に踏み切る大国の驕慢な態度に同調する国連も情けないですね。どうやら国連は、常任理事国に「錦の御旗」を授ける機関に成り下がったようです(元々そうだったのですが、最近特に目立つようです)。
国家間の相互不信がこのような状況を作り上げたように思いますが、中東紛争が世界大戦に拡大しないのは、先進国同士の軍事同盟という精神安定剤と、核戦争の恐怖が抑止力になっているに過ぎません。返って相互不信による緊張感は年々増しているのではないでしょうか。
この相互不信を相互信頼に転換する転換軸は何でしょうか。宗教にその任を負わせるのは酷なのでしょうか。
現実的な回答を見いだせない昨今です。

755MILD SEVEN:2003/12/20(土) 05:10

敵だけど友達。
命がけのバランス感覚は、現世ご利益教の創価等には理解出来ないでしょう。
ましてや会得は不可能。
しかし、これが国際社会の・・・。
http://8022.teacup.com/momo7/bbs

756ガンコ:2003/12/21(日) 11:42

ぬ、ぬわんと、つい今の今まで気がつかなかったのであるが、大石寺の平成新編日蓮大聖人御書には「四十九院申状」が載っておらんではないか!
いったい、どういうこっちゃ。
まったく、その説明が書かれていない。
例言には、収録(宗内既刊御書との対比)とか書いてあって、事細かに収録不収録について説明されているのに、どうなってんじゃ、おい、こら。

せ、責任者、でてこい。

(いつものキャラクターを大幅に逸脱してしまいました。ごめんなさいませ。)

757沈思001:2003/12/21(日) 21:18
 皆様 ゴキゲンサンでございます、。「時にバブルとは、?」でしょうか、、??
 「北国の春、」で有名な「千昌夫サンはバブルの男No.1といわれて居ます」「絶頂期はハワイ〜香港までの不動産投資でウッシシ」でした、、。 しかし、たった数年で転落〜崩壊です、、。 「まさしく諸行無常、、??」かと、、??
 バブルの欲望に荷担した方々は「結局は、、その、、バブルに翻弄されて騙されて、、」しまいました様です、、。 「世の中の出来事は、、?? 何かしら五分五分の均衡が左右しているようです、、??」 したがいまして「某S会様が現今絶好調な時、、?、、でありましても、バブルが消滅した様に”、、いずれは下降線”に向かう時が」、、「必至というのが歴史の本命、、??」かと、、??

758宗教心配者99:2003/12/21(日) 21:31
 、、757サンに一応は賛同、、。 「今の状況はマサシク宗教バブル、、??の様、、」でしょうか、、、??? ちなみに「日刊ゲンダイ、週刊新潮、週刊ポスト、、」方々には「S会の弾圧にもメゲズには、最大限の敬意を、」表現致したく存じます、、、、。

759愚鈍凡夫:2003/12/22(月) 05:47
皆さん、お早うございます。

>>756:ガンコさん、「四十九院申状」は下記を参照して下さい。

責任者に成り代わりまして。 m(_ _;)m ゴメン!!
「ゴラーッ! ワレ、一体なにもんじゃ!!」(by 責任者) (▼▼メ)
「こっ、怖そう〜」 ( ̄ー ̄; ヒヤリ

「四十九院申状」
http://nakanihon.net/nb/gosyo/sijuukuinnmousijou.htm

「日蓮聖人年譜」に、
「弘安元戌寅、此の訴状三月に鎌倉の奉行平左衛門入道の許に上がる。その状日興伝に出たり」(富要5-P134)
とあって、「此の訴状三月に鎌倉の奉行平左衛門入道の許に上がる」が「四十九院申状」であるというのが従来の石山説ですよね。そして、この「四十九院申状」が「家中抄」の「日興伝」に載せてあるというのがこの文の主旨ですよね。しかし、平成版の御書に載せてないというのは、石山もさすがに偽書と認めたと言うことではないでしょうか。
「なかったことにしたかったりして・・・・・」(独り言) (^▽^;)

関連資料です。
「熱原の法難」
http://gappo.cool.ne.jp/yowa/5911/5911.htm

760ガンコ:2003/12/23(火) 11:58

おやおや、愚鈍さん。わざわざすみませんです。

わたくし、じつはいわゆる学会版の御書全集も持っておりまして、なにしろ比較的入手しやすいものですから、もう十年以上まえに購入しておりました。あんまり勉強しなかったですけどね。
しかし、全集といいながら、未収録の御書がたくさんあることを知りまして、そうした御書も拝読したいと思いまして、本年初頭に、ひそかに平成新編を手に入れたわけでした。
それ以降は、御宗門に敬意を表する意味で、平成新編の表記にしたがって御文を引用させていただいている・・・つまり、わたくしが御書を引用するばあいは、かならず平成新編をひもといて、じかに打ち込ませていただいているわけです。
そうしたことから、今回、いつものごとく駄文を投稿しようとくわだて、四十九院申状を引用したかったのですが、どうしたわけか、どこにも載っていないのでした。

さて、現在はどういうことになっているのでしょうね? 大聖人の御書ではない。日興上人の御筆記でもない。
じゃあ、なんなのよ?
責任をもって答えていただきたいところですよね。

ちなみに、わたくしが欲していた御文は以下のとおりです。

「・・・第三の秘法今に残す所なり、是偏に末法闘諍の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時・国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり」(学会版P849)

このところイラク問題とか、けっこう議論になってますけど、それに関連するだろうと思ってたんですけど、意外なところでつまづいてしまいました。

761犀角独歩:2003/12/23(火) 12:36

ガンコさん:

「末法闘諍の始」とは後五百歳しか通用しない言葉ですよ。
ですから、現在にそれを当て嵌めることはできません。蓮師教説からして、その効力があるのは蓮師の在世、長く見積もっても滅後200年まででしょう。

だいたい、引用される箇所は、前文に「異国の来難果して以て符合し畢んぬ」と蒙古襲来について言っているわけですから、700年も経ったいまのイラク問題に当て嵌まるわけもないでしょう。

まあ、偽作なら、なおさら話になりませんが。

762ガンコ:2003/12/23(火) 14:09

ううぅ。

763犀角独歩:2003/12/23(火) 19:47

762 ガンコさん:

珍しく3文字レスですか(笑)

蓮師遺文・文献資料に関しては、以下のサイトがお薦めです。

日蓮宗 現代宗教研究所
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

764愚鈍凡夫:2003/12/23(火) 20:28
アレレ、ガンコさん食中りですか。お大事に。 「ナ〜ム」(^∧^) 合掌

「コラコラ、拝むな〜っ! 息しとるわい!!」(by ガンコ)

ガンコさんにエール。
※o(▽ ̄*)ノフレー※\(* ̄▽ ̄*)/※フレーヽ(* ̄▽)o※
失礼しました。 m(_ _)m

「なんじゃ、この無意味なレスは」(by 管理人) (-"-;A ...アセアセ

765ガンコ:2003/12/23(火) 21:05

>現実的な回答を見いだせない昨今です。

と、愚鈍さんおっしゃってますけど、ちょうどみなさんにお聞きしようと思っていたことがあるのです。

大聖人の時代の蒙古襲来は、まさに為政者にとっては現実的回答を迫られた大事件だったわけで、大聖人の国家に対するアプローチもここに照準が合わされていたと思えます。

で、わたくしがお聞きしたいのは、大聖人の解決策は純粋に宗教的なものだったのか、あるいは何か政治的な秘策を御用意であられたのか、この点こそ大聖人の仏法を現代にリンクさせるための重要な課題ではなかろうかと。

みなさん、いかがでしょうか?

766犀角独歩:2003/12/24(水) 13:12

> …何か政治的な秘策を御用意であられた

なかったと思えます。

> 大聖人の仏法を現代にリンクさせる

政治的な部分があったとして、それを仏法にリンクさせてしまえば、政教一致になります。国教化という視点では是でしょうが、このリンク甚だ不可でしょう。

767心者雖念不直相鴨:2003/12/24(水) 15:04
冬至祭おめでとう! もしくは、メリークリスマス!

クリスマスは、かまわずお祝いしています。
NSCにいたとき、「クリスマスは、普通にお祝いしていいんだよ。(ウイリアムズ(でしたっけ?)だって、クリスマス・ミィーティングのときは「メリークリスマス! って、でてくるんだぜ。だって、ほらニホンだって、ニューイアーのお祭りをするんだろ。ニューイアーのプレゼントを子供にやるんだろ。カナダだっておんなじさ。それに、ニホンだって、ニューイアーズ・トゥリーをエントランスに立てて、ドアーにニューイアーズ・リースを飾るって聞いてるぜ。」と、こんな風にはげまされ?て、すっかり安心して、同調することにしました。
帰国後もかまわず飾っていたら、(謗法チックなので)さすがに、白い目で見られましたが、この話をして知らん顔をしていました。
22日はゆず湯とかぼちゃ、昨日は天皇誕生日、本日はクリスマス。
もともと、冬至を祝う行事は洋の東西を問わず、イエス・キリストの誕生前からあったということですし、冬至のお祝いという名目でお祝いしましょう!
聖誕節やクリスマスという言葉も季語になって数十年。すっかり定着しています。迷わず、ためらわず、すなおにお祝いしませんか?

768心者雖念不直相鴨:2003/12/24(水) 15:06
>767

正誤訂正 誤:クリスマス
     正:クリスマス イヴ

769探訪者112:2003/12/24(水) 20:15
御免下さいませ、、、。 現今は再認識されても良い「小誌」==「Forum 21」様の事で御座います、、。 ナカナカご健闘されているようかと存じますが、、。 ちなみに小生「三部ほど約一年間購読中、、」です、、。 「とても勉強になりました、、が、、」、、。

770?????:2003/12/24(水) 20:29
探訪者112さま

[Forum 21]を検索すると1500万件もヒットします。
どの、「Forum 21」でしょうか?

771ワラシナ:2003/12/24(水) 21:22
「逸見正孝さんの思い出」

今日はフジテレビアナウンサーだった逸見正孝さんが亡くなって10年目だったそうな。

一度だけ逸見さんをお見かけしたことがある。昭和58年頃だったか、イギリス大使館裏の坂道に停まっていたロッキード事件取材スタッフの車の後部座席で一人新書版に読みふけっていた姿だった。

772みかん:2003/12/25(木) 02:53
>>770
http://www.forum21.jp/

773犀角独歩:2003/12/25(木) 11:42

「富士門流信徒」の掲示板がクリスマス・ネタで盛り上がるのを微笑みながら、閲覧していました。

12月25日はイエスの誕生日ではなく、キリストの誕生日でした。
もう少し正確に言えば、救主の原型であるミトラの誕生祭が12月25日でした。
そんなことがアネモネさんが紹介されていたサイトの冒頭から記されていましたね。
イエスが救世主(キリスト)と目されるようになったのち、それまでミトラ誕生祭が習合していったのでしょうか。

シンクレティズムは、やはり、宗教の主要素なのだと思ったイブでした。

774BND:2003/12/25(木) 15:55
独歩さん.ごぶさた.数日前に日本に帰ってきました.すぐまた経ちます.
お元気そうですが,ずいぶんやさしい文章になったじゃないすか.妥協を許さないカミソリがなまったね.変なとこでやさしくするよな中途半端はだめだと叱ったのは独歩さんだよ.日本は宗教で意見が違っても殺されない平和な国.議論に負けて歯軋り噛んで悪口言うやつなんざものの数にはいんないしょ.こわがってんすか?
しかし,ここの最近の投稿,ざっと見たけど,日蓮本仏・戒壇本尊なりひそめたね.でも,おわった訳じゃない.もぐったんしょ.
うわさじゃ,ウラで独歩さんの悪口言いふらしてんのがいるそうすよ.メールまわしたり,オフ会なんかでね.
けど,屁でもないか,そんなこと <笑> でもさあ,イノチおとさない程度の穏便路線.にあわねえな <爆>

775犀角独歩:2003/12/25(木) 16:58

BNDさん……、ん? この悪たれ具合は××(敢えて伏せ字)だな!

こちらからコンタクトの仕様がない状態にあるのだから、帰国したならば電話ぐらいして来いよ。あと、必ず親御さんに連絡しなさいよ。まあ、こんなことを公開の場で書くのは変なのだけれども、連絡の着けようがないから唯一のツールとしてここで言うしかない。彼女も元気なのか。

「穏便路線」か。まあ、うまいことを言うな(笑)「軟弱路線」と言われないだけましとしよう。ここ半年、種々思うところはあった。ただし、妥協も何もしていない。方法論の改善と理解してもらえればと思うが、言い訳はしないさ。

「ウラで…悪口言いふらし」か。正面切って、何も言わず、裏でコソコソやれば、それだけで自らの無様さと姑息さをアピールするだけだろう。「屁でもない」というより、敗残者の哀れを感じるだけ。もっとも「勝った・負けた」は基より興味がない。議論の末、一歩で進歩があり・真実がはっきりし、迷妄が晴れればそれでよい。しかし、集団悪には、もちろん、何ら妥協はしない。

ともかく、これを読んだら、電話でも何でも連絡して来いよ。心配をかけなさんな。

776BND:2003/12/25(木) 21:34
ひさしぶりに独歩さんの怒気にふれて気分が晴れた.今回はまだ自分の仕上がりに不満.連絡は次の機会にさせてもらいます.じつは昨晩I庵の連中と会ったすよ.やつらもびびってた <笑>
ではまた出直します.良いお年を!

777探訪者112:2003/12/26(金) 20:14
770様、、。 失礼致しました。 http://www.forum21.jp/ の様でした。 とても参考になります「小誌」でしたが、、。 ドーゾ御観察を御期待申しあげます。

778ガンコ:2003/12/27(土) 18:17

独歩さん、ご教示ありがとうございました。

簡潔に申しますと、大聖人の御法門で純粋に宗教的な部分はすべて、「万年の外未来までもながるべし」に摂せられるべきだと、わたくしは思っております。

しかし、そうであっても、実際問題として考えるばあい、具体的に何をどこまで含めるか? 純粋に宗教的な部分とそうでない部分をどうやってわけるか? ・・・こういうことになってくると、各宗各派まちまちであって、いっこうにまとまらないんでしょうね。

仮に、日蓮系すべてが共通の結論に至ったとしても・・・まあ、そんなことはなかなか実現しそうもないですけど・・・仮にそうなったとしても、現代において、種々の深刻なる諸問題について現実的な解答を求めている人々にとって、宗教的解答はあんまり魅力がないのかもしれない・・・な〜んて思うことがあります。

これって、けっこうアブナイ発言かも。

779直筆固執者39:2003/12/28(日) 18:39
 今般某図書館で「2003/11/21付けの読売夕刊紙==日蓮の指紋?、、」なる記事が御座いました、、。 直筆の真偽に多少とも心入れする小生にとりまして「、、ナカナカ興味深い、、」と存じました。因みに「当該寺院は沼津市の妙海寺で九代日有が参考??にした直筆本尊所有寺、、」のようです。

780みかん:2003/12/28(日) 21:55
>>779
12/10付けの日蓮宗新聞に大きくカラー写真入りで記事が載ってます。

781心者雖念不直相鴨:2003/12/30(火) 20:32
管理人様:

いつも、お世話になります。来年も一層のご健勝とご多幸をお祈りいたします。

独歩さん、アネモネさん:

30年間にわたる「謗法」の呪縛から解放していただき、本当にありがとうございました。

顕正居士さん、凡夫さん、みかんさん、がんこさん、MILD SEVENさんほかおおぜいのみなさん:

今年一年本当にありがとうございました。どうか、よい年をお迎えください。

782愚鈍凡夫:2003/12/31(水) 06:54
皆さん、お早うございます。
本年もいよいよ最後の日となりました。

本年はいろいろと御教示下さり、有り難うございました。
皆様の御教示を教学研鑽の糧とさせて頂くことができました。有り難うございます。
明年が皆様に幸多き年でありますよう、心からお祈り申し上げます。
(^∧^) 合掌

783管理者:2003/12/31(水) 19:02

御参加の皆さん

今年、本当にたくさんの方々に御参加戴き、嬉しい限りです。有難うございました。多々、管理者として至らない点があり、ご迷惑をお掛け致しましたこと、謹んでお詫び致します。また、皆様が御参加下さることを楽しみにお待ち致しております。

心者雖念不直相鴨さん

貴重な投稿、いつも楽しみにして読ませて戴いております。来年も、参加者を愕かせるような、新鮮な投稿を楽しみにさせて頂きます。宜しくお願い致します。

784アネモネ:2003/12/31(水) 21:22
帰省しておりまして、なんだかすっかり、のんびりしておりました。
年末年始の帰省の度に思うことですが、一年が過ぎるのは、本当に早いものです。
この掲示板も、丸三年が経ち、そして四度目のお正月を迎えようとしているわけですね。
今年も、たくさんのことを学ばせて頂きました。ありがとうございます。
皆さま、どうぞ良い年をお迎えください。
また来年もよろしくお願い申し上げます。


心者雖念不直相鴨さん

お声掛け、ありがとうございます。
示唆に富んだレスをいくつか頂きながら、ご返信が年を越してしますが、どうぞ来年もよろしくお願いいたします。

785孤独な迷子:2003/12/31(水) 21:24
管理人さんをはじめ、ご参加の皆様にはこの一年お世話になったことを心よりお礼申し上げます。

来る2004年が皆様にとってより良い年になりますように。

786直筆固執者99:2004/01/04(日) 18:55
 沼津=妙海寺での一月八日の早朝五時より一般参加もOK?の「八日法要、、」に参加予定です、。 今まで「真筆〜直筆本尊を見たことも無い私」ですので「この眼でホンマモンとは???、、、???」、何たる??かを「この眼で確認したい気持ちです、、」、、。

787MILD SEVEN:2004/01/04(日) 19:24
正月休みも今日で終わり。
あ〜あ〜

788ワラシナ:2004/01/06(火) 22:32
「地震見物に来るな」の貼り紙(1)
---阪神大震災発生三50日後の現地訪問記--

0、あれから8年経過した今頃になって、被災者でもなかった自分が「阪神大震災発生三ヵ月後の印象記」をここに記す事になったのは胸につかえていた事が中々吹っ切れなかったからだった。それが、タイトルの「復興に頑張っているから地震見物に来るな」の文句との出会いであった。それは、激震による建物被害の象徴としてマスコミ報道写真に多く登場していた三宮駅前周辺にあった電柱の貼り紙にあった。

その文句を見た時は、一瞬冷水を浴びせかけられた様に感じた。軽率で大変まずい事をやってしまったような気がした。とっさに反発しかけたが、心の中で別な自分が「自分はそうじゃないようぅ」と小声で呟くのが精一杯だった。

私は地震発生50日後の現地に行ったのである。地震見物といわれて大変心苦しいのだけれども。

あの日の午前10時頃三宮駅前に降立った事は自分の関西旅行の目的が紛れもない地震見物であった事を物語って入るだろうし、三宮駅に赴いた目的も激震被害の有様を見に行く見学、だった事も否定しないし、それだけに終わって激震被災者の心的衝撃の酷さに自分の貧しい想像力が及ばなかったからこそ「冷水を浴びせられたように感じた」事も認めるものである。

が、「地震見物に来るな」と言われても行かざるを得なかったこちらの心の移り行きの自然の流れというものもあったのである。

又、ひらき直って言ってしまえば、少なくとも外部の私、それも現地に知人を持たない私にとっては、マスコミ報道以上の真実を求めようとした場合にはまずもって、(言葉は悪いが、)「地震被害見物に行く」他無い様に思われたからであった。

尤もそれを以って「地震見物に来るな」との御非難に抗し得る訳には行かないと思う。「見に行きたかったから行ってきた」風のこちら側の一方的な一分の道理だけで行動する事の無神経さに旅行後追々気がついてきたからであった。「来るな」と言われて「行く側の一分の道理」も認めてもらえなかった悔しさも憶えたが、被災者の方々が味わったものはそれとは比べ物にならない程のやりきれなさに苛まれていた筈なのであろうから、である。その悲痛な叫びとして「来るな」が発せられた、と思っている。

このように、あれから八年経った今頃になって、あの当時の自分の至らなさに段々感じ始めて来たのである。そして、その頃の自分の思いと振る舞いを丁寧に反芻して見る気持ちの余裕が出てきたのである。やはりあの旅行時は自分も夢中になる余り聊か被災者に対する精神面での配慮が欠けていた、と思う。それは「被害共感の欠如」と言えるかもしれない。

それは、帰京して旅行中の興奮が解けた後から被災者が心の内側で感じていたものに近づいて行ったように感じて来たからであった。

789ワラシナ:2004/01/06(火) 22:39
「地震見物に来るな」の貼り紙(1)の誤記訂正

「物語って入るだろうし」は「物語っているだろうし」の間違い。

790MILD SEVEN:2004/01/10(土) 01:00
さて、中盤戦開始・・・と。

791MILD SEVEN:2004/01/10(土) 03:14
こんな所を紹介。

マインドコントロール研究所
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/mc/

心理学リンク集
福祉・医療・宗教リンク集
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/link/index.html

792直筆固執者99:2004/01/15(木) 20:34
 皆様、御機嫌は麗しゅう事と存じ申しあげます、。 さて小生「一月八日に沼津:妙海寺(知人の仲介有り)に参詣しました、。」、、。 「生まれて初めての”日蓮サンの直に書いた本尊を50〜70センチの直近でご拝見致しました、、」、、。 その感想は「、、数百年の経年的な紙質変化なのか”全体が黒ずんで居りましたが”マサシク==ホンマモンの様でした
、、」、。 しかし「300〜800年後には”紙質変化と劣化”により、マックロケの視界不良が懸念される」ようですか、、?? ただ「日蓮座像の真っ黒の本尊には違和感を覚えましたが、、昔の文字をも知らない大衆には”木像”も致し方ないカナ、、と存じました、、。 今後には「深い疑問、、?」の一日でした、、。

793MILD NINE:2004/01/18(日) 19:14
792 サマ、宜しかったら「深い疑問、、??」とは、をおききしたいものですが、、。

794MILD SEVEN:2004/01/19(月) 02:57

自衛隊のイラク派兵問題について

私としては、自衛隊は<自由共和>の理念を理解した<国際救助隊>であってもらいたいと思います。

アメリカの指揮下(事実上)に入るのでは無く、アメリカをも教育する位の気概をもって、良きパートナーとして活躍してもらいたいものです。

イラクの真の自由の為に。

http://tokyo.cool.ne.jp/mild_seven_xx/
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/
http://mildseven.55street.net/

http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html

795通りすがり:2004/01/19(月) 19:39
充実した掲示板からいえば、富士門ネットの主旨説明をそろそろ変改してもいいのでは?

796愚鈍凡夫:2004/01/21(水) 04:23
皆さん、お早うございます。

「むむっ・・・・・。誰もいない」
オチャドーゾ(*'-')_旦~・・・ヾ( ̄ー ̄*)おおきに。おおきに。

下記のHPで、ウダーナ(自説経)の現代語訳が読めます。
失礼しました。 m(-_-)m

「玄喜の翻訳経典:インデックス」
http://www.tok2.com/home/gengi/sutra/index.html

797MILD NINE:2004/01/21(水) 19:17
795様、、 現今にはご不満のようですが、、 時の流れにもよりまするが、「、、あらゆる情報に付いても、あらゆる方々が知ると言う権利が重要視されつつあります、」、。今から〜今後の数百年におかれましては「、、あらゆる情報の公開(非公開=秘匿=自己利益摂取、)に関しましては、、」もう、時の流れの様です、、。 これこそ「歴史の批判に耐えうるか、どうか?、、」の分岐点のようですかネ、?

798Hope 221:2004/01/21(水) 20:22
 皆様、お元気でしょうか? 時に「情報の秘密的な非公開からは、何が??でしょうか、、?」、、究極の所は「偉そうに出来る、力と権威の所持者のみが甘い汁を吸うことの出来る様です、、?、、」。 その甘い「ウマミをガッチリと確保した方々が”、下々のものども控え居ろう、、!!”と威張り散らせば、、??」でしょうか、、?? 泣かされるのは一体誰でしょうか、、? 「宗教の権威・権力化で誰が苦しむのでしょうか、?」 ??

799時の流れ者:2004/01/22(木) 20:46
、、洋の東西〜古今の流れ、、から拝見しますと、有る人物〜有る団体などが「実力以上に見せかけて、他人から何らかの寄金や収奪を目論むときは、必ず行う行為が」有るようです、。 それは「第一には”頭上周辺装飾”、、」のようです、。 頭のあたりに、飾り物を施すようです、、。 宗教でも「頭周辺に飾り」をするような宗教は、、「信徒をダマスための第一信号、、」と判定可能のようです、、。 宗教こそが「人々を騙すアノ手この手ででのダマシのテクニックの達人」の様でした、、。

800直筆尊敬者:2004/01/23(金) 20:54
、、さらに考察できますのは、、胴体周辺も含めての「はでな、色鮮やかな極彩色の衣や袈裟などを着飾る宗教は成仏不可能のインチキ」と判断されましょうか、、。?。

801欲望制御不可能者:2004/01/25(日) 22:17
今夕NHKの「平均寿命地図、、の特集番組、」はトテモ参考に成りました。 特に西バージニア州での”子供〜大人までの肥満危機”にはウーンでした、、。 人間とは「、いかに自己の食欲には制御不能という無能力サ、、?」を証明して居りました、、。 日蓮サンは「、、各人の自己の各欲望を、いかにして制御して”成仏境涯”まで到達する方法ほ命ガケで実体験、実実行」をなされたようです、、?か、、?

802成仏希望者111:2004/01/26(月) 19:45
 ウーンですネ、、。 成仏===「あらゆる欲望も制御可能な心境とも、?」言えるかとぞんじます、、? 各自の「心境のレベルアップが出来れば、」「低次元での難問題は自然崩壊も、、??」有るかも
、、?

803提案88:2004/01/28(水) 18:35
800さん、インチキ宗教氾濫には同意します、、。 一度「観心本尊抄を語る」(茂田井 教亨著、大東出版社)の御拝読を推薦致します、、。 なかなか御参考にはなります、、。 御免下さい。

804既読者123:2004/01/29(木) 19:38
803さん、一応読了しました、、。 スッゲーでしたヨ、、。 あの、恐れ多い「本尊様、、に関連して、」「、、よけいなご託は不必要なり、、=四士と一尊(ふくむ客仏)だけで十分、、?」との御意見にはビックリ、、、でした、、。 この書には「日蓮サンの魂のような???かを啓蒙している様、、」で御座います、、。 「因果の論理こそ日蓮さんの本音、、・」でしょうか、、??

805感銘者001:2004/01/31(土) 23:24
804さんドーモです、、。 某書386頁「三千常住と本門の肝心、、」には「種々の思考の深さ、、」を実感致します、、。 この書にて「日蓮とは、、??」に関して05%位は理解できたようです、、。

806無徳:2004/02/02(月) 21:41
人間にとって「信」とは何かについてちょっと考えてみたいと思います。

この拙文は自分のHp(http://sakumayk.net)の掲示板に投稿したもののコピー
です。


吉本隆明氏はその著書である『信の構造』の序において、

「〈信〉は形而上的にだけいえば、事物と事物とのあいだの差異の同一化であり、
意志による世界の被覆だといえよう。ただこの被覆は、自然が精練されうるもので
あり、この自然の精練が人間化ということをも包括しているという概念のうえに思
い描かれている。被覆によって人間を自然にさしもどすことと、人間を自然の原因
あるいは起源とすること。このふたつの極端が〈信〉の構造に輪郭をつけている。
ところで人間を自然の原因あるいは起源とするということは、「生誕したことがな
い人間」という概念を思い描くのとおなじ意味をもっている。生誕した人間は、つ
まり何かの結果として生誕したのだから、それ自体で自然の原因や起源となること
はできないからだ、これは<信>がいつも擬人的な至上者を比喩としてもたざるを
えない理由みたいに思える。またこういう擬人的な至上者は所在ということ(場所
ということ)の始源に住んでいなければならない。そうでなければ結果としての始
源という云い方をしても、ほぼおなじことを意味している。」

と述べています。
はたして、<信>によって事物と事物とのあいだの差異を同一化するとは如何なる
意味であろうか?
その後に来る<意志による世界の被覆>と同義であるすれば、それは人間が意志に
よって世界を解釈し理解することをもって<信>の内実とするということなのであ
ろう。

では、なぜそれが事物と事物の差異を同一化することになるのであろう?おそらく
その後に来る<ただこの被覆は、自然が精練されうるものであり、この自然の精練
が人間化ということをも包括しているという概念のうえに思い描かれている>とい
うこととも繋がっているのであろう。

それは、人間による自然の精練つまり自然の人間化と同時に、人間の意志による世
界の被覆を通じて人間を自然の起源と位置づけ、人間を自然にさしもどすことが差
異の同一化というほどの意味なのでありましょう。

しかし現実的には人間はその意志によって世界を完全被覆することはでき得ないし、
自然を精練することも叶わないでありましょう。

したがって、私の解釈としては人間は<信>を通じてのみ世界を被覆できると幻想
し、精練できると幻想するのでありましょう。それが宗教の起源といえるのではあ
りますまいか?

807ガンコ:2004/02/04(水) 17:13

ニュースでやってたけど、みなとみらい線というのができて、渋谷からまっすぐ横浜の中華街だとか元町に行けるんですってね。

みなとみらいって、ずいぶん変な名前だなあと思ってたら、もうかなり前から、そういう町名があるって言うんですから、横浜もおしゃれなのか、それともセンス悪いのか、びみょうなところですね。
だって、五十年とか百年たってから考えると、やっぱり変ですもの。

それにくらべて大聖人の仏法って、言葉の選び方がすごくうまいと思う。
久遠とか末法とか、無始の古仏とかって、いつまでたっても色あせませんからね。
「源遠ければ流れながしというこれなり」って、大聖人さまがおおせですけど、ああ、なるほどなあ、ずうっとなんだなあ・・・

808無徳:2004/02/06(金) 00:32
私が現在一番関心を抱いている問題は、人間が何ものか(特に宗教的なもの)を信
ずるという「心的な構造」は如何なるものか?ということです。

そのことについて竹田青嗣氏は『はじめての現象学』のなかの第六章の2において
次のように述べています。

<さて、わたしがここで試みてきたことは、ひとことで言って、人間にとって「ほ
んとう」ということの「根拠」があるのか否かという問題にひとつの決着をつける
ことでした。いまはっきりしたのはつぎのようなことです。
これまで哲学者たちは、「ほんとう」とは何かという問題をめぐって、それをもっ
ぱら「認識の構造」として捉えようとしてきました。しかし、わたしたちが見てき
たのは、それはいわば「信の構造」(確信の構造)として捉えられるべきだという
ことです。
「ほんとう」とは人間にとって、原理的にひとつの「信の構造」として存在すると
言えます。この「信」とは、単に「思い込むこと」や「信じ込むこと」を意味する
のではありません。それは「確かめ」と「確信」の構造として存在するのです>

つまり、人間にとって「ほんとう」とは、「意味」や「価値」として立ち現れる現
象のなかから「正しいと確信」し得るもの、つまり「信の構造」の中にあるという
ことになります。

このことは、私にとっては全く驚くべき考え方であると共に、なるほどと肯ける考
え方でも有ります。

しかし、この竹田氏の「信」に対する現象学的理解を、仏教上における「信の確立」
に当てはめるならば、どのように解釈できるのでありましょう。

それぞれの仏教宗派が「信」の対象とする事柄に至上の価値を置き、そこに生きる
意味をみいだしそれを「正しいと確信」できるならば、そのことは「信の構造」と
して「ほんとうのこと」の根拠となり得るのであろうか?

おそらく、フッサールによって立てられた「厳密な学」としての「現象学」であれ
ば、そう単純とも思える解釈ではありますまい、仏教においても「信」ずべき教義
に対し「厳密な学」に相当する「教相判釈」を通じて「信の確立」を目指したこと
は間違いないでしょう。

ただ、「現象学」の提唱者でもあるフッサールも最初頃は数学をやり、後に心理学
を中心に人間の心的領域の解明を目指したとされているように、「人間の心」とい
う不可思議な存在に魅せられたことでしょう。

仏教においてもこの「人間の心」の解明こそメインテーマであることは間違いあり
ません。

809無徳:2004/02/06(金) 23:29
阿部正雄氏は『仏教における信の問題』(日本仏教学会編)の中で、

「仏教は自我を絶対に否定した無我を原理とし、一切の分別を絶した無分別智の立
場を根本とする。仏教においては 常一主宰の我を立てこれに執着することを我見我
執としてきびしく否定し、一切は無自性にして空なる所以を説き、「無我」を真実
の立場とする。したがってまた仏教は「我」の立場よりする一切の分別は虚妄分別
であるとし、これを離れ越えた「無分別智」にめざめるべきことを説く。そこでは
自我も分別も、本来積極的な意味をもつものとは解 されておらず、共に絶対的に否
定されなければならぬものとされている」

と述べているが、この見解は仏教理解としては最も一般的なものといえましょう。
しかし、吉本隆明氏は上記の意味を『最後の親鸞』の中で、

「知識にとっての課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことで
はない。その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに
〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の知
にとっても最後の課題である。
この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的
に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親繍は、この「そ
のまま」というのをやってのけているようにおもわれる」

と、転じ(読み替え)ているように思われます。
つまり<知の頂を極め非知に向かって寂かに着地する>とは、<一切の分別を離れ
無分別智によって無自性空の位相に立つ>ことでありましょう。

810無徳:2004/02/06(金) 23:32
訂正__(誤)親繍___(正)親鸞

811ブッダの見識再考者:2004/02/07(土) 18:30
805さん、小生も「観心本尊抄を語る」を拝見しまして「387頁の45文字の法体?」、「406頁の釈尊との一体?」、「380頁の2500年前とは言え科学的見識?」の訴えには「、、一創作品、?」とは思えない言言を感じました、。 もっと「深い?かが存在、?」のようです、?

812無徳:2004/02/07(土) 22:47
中村雄二郎氏はその著『知の変貌』の中で、

<ミッシェル・フーコーが
「自分は思考の方法を誰よりもフッサール、サルトル、メルロ=ポンティなどの
現象学的=実存主義的なあり方によって決定的な影響を受けた世代の一人である。
だが、実存王義や人間学的マルクス主義は、人間の自立をつよく説きながら、実際
には人間の名においてかえって神を温存したのではなかったか。およそ意識や自由
の主体としての人間とは、実は神に依存したもの、一種の似姿にほかならない。

かつてニーチェは決然として神の死を宣告した。そのとき彼は、同時に、神化され
た人間と人間の神学化をも告発したのであった。ニーチェが到来を待望し告知した
超人とは、およそ、人間よりも神にいっそうよく似ている人間、つまり実存主義者
や人間学的マルクス主義者がいう人間のことではなく、神とはいかなる関係をも持
たなくなった人間のことである」
また
「哲学は、ヘーゲルからサルトルに至るまで、本質的には意識によって人間経験を
全体化することにあったが、いまではもうこれ以上進めない道、行き止まりではな
いかと」

と述べ、

すなわち、実存主義や人間学的マルクス主義が自己展開し徹底化していくうちに無
自覚に含むことになった盲点や弱点とは、構造主義の観点からすれば、理論的な厳
密さを欠いたままに価値の根源とされた人間中心主義(とくに近代西欧的人間主義)
と、それに結びつく一種の歴史主義である。そして、それらの背後には共通して,
意識(コキト)を依然として絶対化しつづけている考え方があるとされた。>

としている

このことは、日本における仏教宗派のあり方を批判する上においても、大変示唆的
であるいえます。特に日蓮正宗系およびそれに纏わる教団において、自らの宗派的
教義の絶対性を鼓吹するあまり、無自覚に含む盲点や弱点に気づかず宗派的な共同
幻想の頸木から逃れられないでいる現状を見るにつけ、まことに残念に思わざるを
得ません。

813妙法:2004/02/09(月) 13:40
五字七字の題目は、私達の仏性(久遠実成釈迦牟尼世尊)が文字として顕れ、
声として私達の口から出ずるもの。

曼荼羅は私達の仏性(久遠実成釈迦牟尼世尊)を、形として顕れたもの。
また、顕したもの。

814仏境涯体現希望者:2004/02/10(火) 18:03
813さん、はじめまして、。 貴殿のお言葉では”日蓮は単なる仲介者か第一発見者”のように軽視の様ですが、。 釈尊尊重のあまり”日蓮が強調した法華折伏、他宗では成仏不可能”に関して晩年はくどい様に主張なさったのは、?でしょうか、? 日蓮は単なる””メッセンジャーボーイ”だったんでしょうか、?

815成仏 到達思索者:2004/02/12(木) 19:33
814様。 マーお熱く成らず、、。 それにしましても、久遠実成とは何?ですかネ? 久遠の昔に「実際に仏の境涯を体得した事??、 または事実的に本当に仏を体現到達した、、」事なのかは一体どうなんでしょうか、、? 歴史的事実のお釈迦さんの法華教は弟子方らに依って伝えられたが「その継続性のカギは日蓮さんの存在意義が??」でしょうか、、? 日蓮が居なかったならば???でしょうか、、?? 日蓮は単なる「使い走りの番頭では無いかと、、??」 、「久遠の釈尊様と一心同体とも言える大貢献者、、??」ではないでしょうか、、??

816久遠 本果 探究者:2004/02/12(木) 21:02
814様と815様は。 別人なのでしょうか、、。 まったく同じ人のようにみえますが?どうなんでしょうか、、?

817成仏 到達思索者:2004/02/14(土) 21:43
816さま、ご無礼いたしました、、。 以後反省いたします、、。

818Hard 99:2004/02/21(土) 17:37
御免下さいませ、、。 マーイロイロお有りかとぞんじます、、。 そこそこヨロシー件もあり、不可もあり、、、でしょうか
、、?   、、ワシらは単純かと、、?? 思います、、。 ヤサシイ甘い言現は「心当たり」はナゴミまするが、、、そのツケ、、、??が恐ろしゅう御座いますル、、。

819犀角独歩:2004/02/27(金) 17:02

本日はオウム裁判を日中見続けていました。

しかし、マスコミの報道の焦点は「死刑判決」一本なんでしょうかね。
こういった偏った報道しかできないマスコミにも一つの責任があることを認識すべきなんだという思いが憤慨にまで膨らみました。

820一字三礼:2004/02/27(金) 21:58

私もオウム裁判報道を見てのつぶやき。

オウム被害に遭った方やそのご遺族の方々から「死刑判決」を望む声があがるのは心情的には理解できます。中でも「死刑判決が確定したところで通過点にしか過ぎない・・」と話していた後遺症に悩むご家族を持つ方の言葉は重みがありました。
しかし、マスコミの意見や街頭インタビューでも全て「死刑」しか出てこないのは昔のマカロニウェスタン映画の中のつるし首を街中の人々は喜ぶシーンを思い出します。それだけでいいのか皆・・・。

宗教団体の絡む犯罪が多すぎます、それも内容的にはとても稚拙な。難しいことですが、やはり幼少から幅広い宗教・道徳教育が必要なのではないか、と考えてしまいます。現在のように国旗・国家を押し付ける事は、役人の政治的な思惑ばかりチラついて、子供の情操教育の役には立ちません。

821愚鈍凡夫:2004/02/28(土) 21:15
今日の読売新聞朝刊の1面にこんな記事がありました。

**************************************************
(前略)
 判決をきいてやりきれない思いがするのは、オウム事件が突きつけた問いかけに、私たちがいまだに回答を用意できていないことにも原因がある。
 1つは、宗教カルトに向かう若者の心をどう引き戻すかという問題だ。アーレフと改称したオウムには、今も、一度逮捕され刑期を終えるなどで戻ってきた約100人を含め約1650人もの信者がいる。豊かな心をはぐくむ教育を、家庭、学校、地域で考えなければならない。
 もう1つはテロヘの備えだ。オウムはいきなり暴走したわけではない。その芽を摘む機会を警察が何度も逃し、空前のテロにつながった。緻密な情報収集、迅速な摘発ができる態勢は不十分だ。緊急事態対応を一元的に指揮する機関の検討も急務だろう。
 「きょうもオウムが天井に数人いる」。オウム事件を担当した元司法関係者の夫人から、親しくしていただいている社会部の記者に、つい最近もそんな電話があった。数年前から「外出についてくる」「ビデオで監視している」などと訴えが続いている。痛ましいことだが、夫人の心にオウムが住みついたらしい。
 底知れない恐怖、漠然とした不安は、オウム事件後、この社会に取りついて離れない。その意味では、オウムは、多かれ少ながれ私たちすべての心に住みついている。松本被告によるその呪縛をどう解いていくか。一審判決は長い道のりの始まりに過ぎない。

社会部長(東京) 楢崎 憲二 2004(平成16)年2月28日 読売新聞朝刊
**************************************************

「松本被告によるその呪縛をどう解いていくか。」
このことは池田さん、浅井さんにも言えることですね。
元信者のマインドコントロールからの解放、被害者のPTSDの治療。深刻な問題が山積みですが、根本には「信教の自由」を悪用したカルト宗教の狡猾さ、マスコミの宗教アレルギー、法の番人としての検察・警察の機能不全という深刻な問題が横たわっていると思います。
しかし、「優しさとは何か」「他人を顧みるとは何か」を問いかける家庭教育、学校教育が改善されれば、もっと住みやすい社会になると思うのですが・・・・・・。

822犀角独歩:2004/03/02(火) 14:40

昨日、久方に松本佐一郎著『富士門徒の沿革と教義』をざっと目を通しました。
しかし、ひどい内容ですね、これは。蓮師遺文の真跡/真偽未決/偽書の整理すらせず、平然と記述試論を展開しています。
それにしても、板漫荼羅に関する記述で、これほど、お粗末なものも珍しい。
著者歴によれば、帝国大学大学院を出ているそうですが、なんだか信じがたい気分になりました。
まあ、人格攻撃をする気は毛頭ありません。近影を見ても好感を持てなくはないのですが、内容はいただけませんね。

823MILD SEVEN:2004/03/06(土) 07:01

<<<最近のイラク情勢について>>>

ここは自由にさせてもらっていますので、情報も提供させていただきま〜す。

誤解無きよう。
私は裏表無き性格です。
ただ・・・同時・多方面的思考ありです。

顔がいっぱいありますので。
これは冗談。

  /////////////////////////////////////////

イラク基本法・・・。
中東新時代のバランスは、主の導きあってこそ。

不自然な人間主体の強行は考えもの。
もはや、旧時代に逆戻りしてはならないでしょう。

自由は、主にある自由への第一ステップ。

旧時代の律法は、法無き時代の養育係の役を終えたのです。
中東は、次なる過程・時代へと進みましょう。
大人の時代へ。

   //////////////////////////////////////

上記は、聖書全体をバランス良く学べば、すぐに解る事です。

http://hidebbs.net/bbs/momo721?sw=7&amp;m=10

普通の、慈悲ある仏教界・・・。
私としては、このイラク問題に関しては個人的には協力を呼びかけたいのですが・・・。
同じ日本人としても・・・。
私にも葛藤はそれなりにあります。
慈悲は、尊敬に値するものです。
キリスト者は、ある意味、愛の奴隷ですから・・・これは、誤解されては困りますが。

まあ、他国に干渉するなら、少なくとも、カルト体質無き国家ではなくてはなりませんから・・・。
国内戦線?でも私は奮闘?しております。
http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html

824犀角独歩:2004/03/07(日) 19:54

昨日は旧暦の2月16日。突然、思い立って身延から富士方面に行ってきました。
まず身延山に。わたしは宗廟と草庵跡の佇まいが好きです。
いつしか蓮師の墓参気分になっていました。
次いで石山に向かって山門から奉安堂裏手から一周。
そのまま北山に。こちらでは興師の墓参。もう桜が咲き出していました。

当たり前のことですが、蓮師がいらした身延には蓮師のお墓、興師がいらした北山に興師のお墓。それなのに、実質、目師に始まる石山にはその墓がないわけです。これはかなり異常なことであるとわたしには思えます。

825北海 熊一郎:2004/03/08(月) 20:07
 そうなんですか、、? 小生昭和36〜42年の十数度の登山参詣の折りは「蓮祖〜日興〜日目〜以下65代までの御立派?な墓所が存在していましたが、? 何かが在り? 何かが?存在したのでしょうか、、?
 まー二箇相乗を偽作するような団体様で在るようですので「、、ムベなる哉、、?」とぞんじます、、。 ゴメン。

826犀角独歩:2004/03/09(火) 14:43

> 蓮祖〜日興〜日目〜以下65代までの御立派?な墓所

この歴代墓地はいまでもありますね。
また三師塔もあります。しかし、ここに遺骨は納まっていませんでしょう。
わたしが申し上げたのは正墓です。実際に遺骨が納まってる墓所のことです。

827七師外道:2004/03/09(火) 20:29
目師の正墓所は郷師が鳥辺山に御建てになられた。
郷師は石山に戻られたが、石山が目師のお骨引渡しを求めた記録はない。
また道師時に目師の正墓を石山に建てた記録もない。
猶、鳥辺山の正墓を石山が守ったとか、道師が墓参したという記録も全くない。
つまり石山には蓮興目御三方の御骨は存在しない。
目師が道師を後継にしたという事実も真偽未決の目師譲り状しかない。
初期の郷門は蓮目郷という系譜を自任しており、尊門もそれを否定してはいない。
この郷門の主張はつまるところ目師時の石山の考えでもあろうとの推測も可能である。

828MILD SEVEN:2004/03/14(日) 08:00
なんか、昨日は忙しかった・・・。
困るんだよな〜
また、暇な地方?に逃げるかな〜
客に苦しめられない所に・・・。
因果な商売だな〜

829犀角独歩:2004/03/15(月) 17:26

蓮師入滅の地・東京大田区池上の近くに洗足池があります。池上邸へ向かう途中、蓮師はここに立ち寄り、この池で足を洗ったことからその名の由来があるといいます。
その際に袈裟を掛けた松の3代目という樹が残り、「袈裟掛けの松」という名所になっていますが、この傍らに石塔が建っています。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/koan3nen9gatu1hi_manadara.jpg

本日、散歩がてら訪れてみたのですが、一見して弘安3年様の漫荼羅形式。日付を見ると「弘安三年・九月一日」(干支は読み取れませんでした)となっていました。
帰宅して本尊集を当たると該当の漫荼羅はありませんでした。

この建立地は現在寺院になっていますので、そのうち、石塔建立の縁由でも尋ねてみようと思っています。

この場所、石塔の裏手が洗足池でなかなか好い場所です。
池上本門寺観光の折は寄り道をお薦めしたいスポットです。

さらに余談ですが、袈裟掛けの松の隣地は洗足軒と勝海舟自ら名付けた別邸跡地です。南州と戦った官軍はこの池上本門寺に陣地を置いており、そこから洗足池を通った勝海舟はこの地の風光明媚たるに惹かれ別邸を置くのみならず、日蓮が渡った多摩川を越え富士を仰げるこの地の埋葬を望み、いまも墓がひっそりと建っています。墓石前に小さな鳥居が建っているちょっと珍しい様式の墓所です。

830富士桜:2004/03/17(水) 18:36
:犀角独歩さん
>「袈裟掛けの松」という名所になっています

袈裟掛けの松と言えば、一昨年伊東方面に旅行した折、法華宗http://www.hokkeshu.com/「蓮着寺」の近くに宿泊しました。
伊豆配流で置き去りにされた「俎岩(まないたいわ)」が見える 日蓮岬があるところ、そこでも「袈裟掛けの松」がありました。
地形的にまな板岩も、袈裟掛けの松も「そのもの」とは思えませんが、その場所のロケーション、寺院の由来、日蓮岬と言う響きと言い綺麗な場所でした。

来週、池上本門寺に見学に行かせて頂こうと思っています。
また、宗派、門流関係なく、どこか蓮祖有縁の場所がありましたら教えてください。
もちろん「洗足池」も見学してこようと思います。

831MILD SEVEN:2004/03/17(水) 22:38

3年前に見た桜は格別に綺麗でした。

母から引き継いだ本は確かな証しをしています。
約100年前の、信仰の先輩の書いた物。
私にとって、聖書の副読本と言ってもいい物です。
生きたキリスト者の言葉。

/////////////////////////////////////////////////

「・・・一度、この、仕事に没頭するという本当の勤勉を知れば、ひとの精神は、働き続けてやまないものである。
そして、しばしば、このような(あまり長すぎない)休息ののちに、知らぬ間に仕事がはかどっているのをみるのは、まったく不思議である。
すべてのものが、まるでひとりでのように明瞭になってきて、多くの難点は突然解決されたように見えてくる。
最初頭にたくわえておいた思想はおのずから増大して、立体的なすがたをとり、表現力を得てきている。
そして、新たに始める仕事は、今度はまるで、その休息の間にわれわれの力を借りず自然に成熟したものを、骨折りなしに刈り入れるかのように思われる事さえ珍しくない。
これが、すなわち、仕事の報酬なのである。・・・。

/////////////////////////////////////////////////

832犀角独歩:2004/03/17(水) 22:40

富士桜さん:

池上本門寺近くで蓮師に係る史跡は、あと矢口渡でしょうか。
東急池上線にその地名が残ります。
しかし、ここは見るほどの場所ではありません。

それにしても、伊豆にも袈裟掛けの松があったのには少なからず驚きました。
観光名所というのは案外、同じようなネタを使っているのでしょうか(笑)

本門寺では、境内地に目を奪われず、麓の本行寺大坊がお薦めです。
お寄り掛かりの柱で有名な蓮師入滅の場所であると言われています。
尤も目玉の柱は嘘っぱちだといまは創価学会から離脱した竜氏がここに喧嘩を売った話は古い『人間革命』にも記述があったはずです。関係ありませんが、竜氏の子息はわたしの友人です。まあ、こう書いてもご本人が読んでも、「独歩、だれ?」となるかもしれませんが(笑)

大坊から境内に向かう坂の途中に荼毘所跡があります。いまは仏塔みたいなものが建っていますが、ここら辺のロケーション、案外、合っているのではないのかと個人的には思っています。

富士桜さん、来週は池上にお出でですか。19日には小規模の勉強会を開催していますが、来週はたぶん神奈川から新潟に相談会から後援会で旅に出ています。

日にちが合えば、お会いしたかったですね。いっときは戒厳令下で人と会うことも憚っていましたが、いまは案外、自由にお会いしています。また、機会がありましたら、是非お声を掛けてください。

833犀角独歩:2004/03/17(水) 22:43

…間違えました(汗)

誤)東急池上線…矢口渡
正)東急多摩川線…矢口渡

834愚鈍凡夫:2004/03/17(水) 22:48

パソコンの調子が悪く、しばし"ロム専"でしたが、ようやく使える状態に戻りました。
\(;゚∇゚)/ヒヤアセモン☆ ヽ(゜▽゜*)乂(*゜▽゜)ノ バンザーイ♪

スレ違いですが、三学無縁さんレス有り難うございました。

835nirho:2004/03/18(木) 11:48
はじめて書き込みします。
私は、実質無信仰者(とりあえず浄土真宗)なのですが、学会員の友人の影響で、
日蓮上人の生涯について興味を持ち、鎌倉の日蓮ゆかりの場所などを歩いてみました。
鎌倉にも「袈裟掛けの松」があったという跡?(石碑)がありますが、洗足にもある
ということを聞き、もしかしたら他にもあるのではないか?と思い、以前、ネットで
検索してみたことがありました。 
その結果・・・

1.鎌倉 稲村ガ崎
2.洗足池公園 妙福寺(大田区南千束)
3.蓮着寺(伊豆・伊東市)
4.実相寺(佐渡郡佐和田町市野沢)
5.本光寺(佐渡郡畑野町)

の5ヶ所に、日蓮上人の「袈裟掛けの松」(伝説?)がある(あった)ようです。
日蓮上人以外では、蓮如上人の「袈裟掛けの松」、弘法大師の「袈裟掛けの松」
というのがありました。弘法大師の「袈裟掛けの松」は、近年、虫害で枯れてしまい、
年輪を調べたところ樹齢約270年だったそうです。
昨年、洗足の「袈裟掛けの松」を見に行った時のこと、 妙福寺の境内に入り
”松”を捜していたら、しめ縄の付いた松の傍に警備員が立っておりました。
一瞬、松を見張っているのかと思いましたが、池の方を見ると、丁度、ドラマ
のロケが行われていて盗撮防止のためだったようです。
警備員の目を気にしながら、バッグからカメラを取り出して、松の写真を撮りまし
たが、この警備員から見たら、「盗撮しに来た奴が、警備員の俺を見て、松の写真を
撮って帰った(笑)」だったのかもしれません。

836犀角独歩:2004/03/18(木) 18:33

nirhoさん、はじめまして。

こんなにありましたか、袈裟掛けの松。驚きました。
また蓮如師、弘法師などにも見られるのですね。
洗足池の足洗い伝説も弘法師説もあったように記憶します。

…そういえば、洗足池では石塔に目を奪われて、袈裟掛け松、気にもとめずに帰ってきてしまいました(笑)

837愚鈍凡夫:2004/03/18(木) 19:56

何気なしに、ネットで検索していたら、こんなんヒットしました。 (;^_^A アセアセ…
尚、写真をクリックすると大きめの写真が見られます。
「まあ・・・・・、何といいますか・・・・・」(独り言) (-_-;)

「日蓮上人ゆかりの地」
http://popup7.tok2.com/home2/izu/MEISHO/ITO/nitiren/

838犀角独歩:2004/03/18(木) 21:39

愚鈍凡夫さん:

シビアな板漫荼羅の追及をやっているときに、各地に伝わるおっとりとした伝承話、なんかほんわかした気分になります。

石山の歯肉が生きている話とか、板漫荼羅が日蓮さまだというのも、こんな範疇にあれば、もったり笑って終わりだったんですけれどね。

839愚鈍凡夫:2004/03/18(木) 22:34

犀角独歩さん、仰るとおりですね。
戸田さんさえ大騒ぎしなかったら・・・・・、なんてね。 (^◇^;)
たまには、お茶(オチャケ?)でも飲みながら、こんなお話はどうでしょうか。

「ジャータカ物語」
http://www.j-theravada.net/jataka/

840一字三礼:2004/03/20(土) 08:45
そういえば、佐渡の日蓮宗寺院にもお肉牙がお宝とされているところがありましたね。名前はわすれましたが。
池上の霊寶殿が出来たての頃、日蓮聖人御真筆の「下山御消息」が展示されていたのにはびっくりしました。

841犀角独歩:2004/03/20(土) 09:44

以前にも紹介したことがあるかも知れませんが、昭師『遺跡之事』に

「一、聖人御歯二粒ハ者 御存生之時 親リ聖人御手自リ賜フ所也 夙夜向顔之思ヲ成ス可シ…文保十七(1317)年十一月十六日」

とあります。尤もこちらは肉が付いているとは言っていません。
その分、信憑性はあります。また、これが事実ならば、石山の「御肉牙」はこれをモチーフに創られた話なのではないのかと思っています。

あと、まったく余談ですが、石山の御会式は興師だけが「日蓮聖人の弟子」として『申状』を出し、他の五老方は「天台沙門」と名乗ったと非難していますが、悪玉の代表のように言われる向師も「日蓮聖人遺弟日向申」とし記した『申状』が日宗全に載り、高師も「日蓮聖人遺弟日高謹申」となっています。その他は詳しく調べたわけではありませんが、この二つの例を見ても『富士一跡門徒存知事』の「一、五人一同に云はく…天台沙門云云」の批判はどうも直ちに信用できないところがあります。

さらに脱線して身延離山について朗師『身延離出書』に

「久遠寺ノ大檀那波木井殿ニ三ツ謗法之有ル依テ 日昭 日朗 日興 日頂 日持ノ五人ハ同心ニ彼ノ山ヲ出ヅル事一定也…彼ノ日向ハ日蓮ノ御弘通ノ本意ヲ背キ大謗法…」

とあり、重須の五一相対(五老 vs 興師)はいささか趣を異にしています。
この文に見られる五老 vs 向師の五一相対は、以前、たしか三学無縁さんが指摘されたことがあったと記憶します。

この所伝が事実ならば、石山の身延離山史のみならず、昭朗門もかなりアナウンスが違っていることになり、なかなか興味深い文献だと思えます。

842Radio Press:2004/03/21(日) 12:24
http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/B00006497C/qid=1079839396/

これ欲しい。
レビューが全員、最低評価w。
ジャケットは例の日寛師のお曼荼羅です。

843ワラシナ:2004/03/23(火) 22:33
正本堂そっくりにみえる大田体育館!

844犀角独歩:2004/03/24(水) 11:08

おぉ、久方のワラシナさんのご登場。

大田体育館…、昭和46年8月4日、池田さんが来て大がかりな祈念撮影会が行われた会場です。当時、そこには壮婦男女四役から選出された多くの人々が集い、日付に因み、4684グループと命名されました。取り分け小学校1年から高校3年までは「池田先生を父と仰ぐ」意義から太田兄弟会と命名され、全員がこの日には世界中のどこにいても戻り集うと誓い散じていきました。

そんな意味で大田体育館は当地創価学会には歴史に残る建物なのです。
しかし、正本堂に似ていますか。

両方とも捨ててきた、自分には心の片隅がほんのり痛むご投稿でした。
まあ、独り言ですが。

845犀角独歩:2004/03/24(水) 11:10

打ち間違えました。訂正するほどではありませんが、

誤)祈念撮影会
正)記念撮影会

でした。

846ワラシナ:2004/03/26(金) 08:00
寿司和食ご宴会の「がんこ」という名前の関西系の店が沢山あったんですね。

847富士桜:2004/03/26(金) 13:01
先日池上本門寺に見学に行こうかと思ってたのですが。。。青山斎場で執り行われたいかりや長介さんのお焼香に行ってきました。
子供の頃、親の目を盗んで「8時だよ全員集合!」を見ていたドリフターズ。「おいっす!」「だめだこりゃ!」など学校でよく真似していました。
葬儀にはファンのためにわざわざ花祭壇を作ってくれた関係者の方々に感動しました。
それよりも、もっとびっくりしたのが一般参列してるファン層の幅の広さにびっくりしました。またどれほどたくさんの方に笑いを届けたのか痛感させられました。
とある日蓮宗(池上方面の寺院)のお題目の流れる中、冷たい雨の中訪れた方々皆深い悲しみに暮れていました。
なんだか淋しくて思わずお焼香に行き、久しぶりに涙が出ました。
ここの掲示板には全く関係ないのですが、いかりや長介さんの御冥福を心よりお祈りいたします。
来週の休みは池上本門寺見学したいと思います。桜が綺麗なんでしょうね。

848犀角独歩:2004/03/26(金) 13:51

富士桜さん:

いかりやさんの葬儀に参列されたのですか。

池上本門寺は桜もきれいですが、池上梅園があり、梅の名所でのほうが有名なんですよ。
大田区では桜は洗足池も有名です。あと、多摩川台公園の桜、多摩川縁の堤の通りも二子玉川まで延々と桜並木が続く名所です。
世田谷の深沢から桜新町の川沿いも見事です。

849ワラシナ:2004/03/28(日) 20:26
池上会館の小学校側の三本は咲いていたが、山側の一本はまだだった。あと久遠林の中の一本が咲いていた。
本門寺の山の上はどうなっていたかは上ってないのでわからない。呑川沿いで咲いているところでは花見が行われている。

850犀角独歩:2004/03/29(月) 10:35

昨日、上越新幹線で東京から長岡まで行ったのですが、手前、補佐ではまだ一面の雪景色で驚きました。本日、東京に戻ると、やはり少し暖かく、桜も見事に花咲いて、2時間ばかりの移動でずいぶんと違うものだと感慨がありました。

長岡、蕎麦がうまかったですね。蕎麦と言っても寛師を思い出さなくなったこのごろです。

851一字三礼:2004/03/29(月) 22:32
27日から1泊2日で身延へ行ってきました。
桜はまだ5分咲きでしたが、満開よりも風情を観じました。
まあ、目的が御草庵跡をじっくり観てくることにありましたので、もとより花見は二の次だったのですが。
総門から三門までの各所で講単位での団体客を見かけましたが、御廟所・御草庵跡はほとんど人も居なくて静かでしたので「新尼御前御返事」を思い出しながらしばし感慨に耽ることが出来ました。

翌朝、他の団体さんは本堂での朝勤に参ずる為でしょうか、旅館からワゴン車で上って行きました。私は久遠寺自体にさほどの興味が無かったので、本堂での朝勤には参加しませんでした。(その日はあまり好きではない陀羅尼品でしたし)
私は1人で5時過ぎに起き出し、再び御草庵跡に出向き、一品二半を誦し、心ゆくまで題目を唱えました。

6時近くになると、ご僧侶が1人御廟所前で朝勤を始めました。私はその後方でしばし合掌して拝聴しました。
その時の感想ですが。読経・唱題が短かった割に、どの宗派でも使う開経偈や、勧請やら回向文・四誓がやたら長いのですね。
石山のように何も無いのも寂しい気がしますが、出典不明や法華経と無縁の文言をやたらと並べるのもどんなものでしょうか。

しかし、ご草庵跡にも参拝出来たので、全体的にはとても満足しました。

852ワラシナ:2004/03/29(月) 22:51
南馬込の桜並木通りは二三割咲いてました。

853三学無縁:2004/04/02(金) 20:37
215000ゲットしました。

854犀角独歩:2004/04/09(金) 20:26

 少し変な投稿ですが…

「以下のサイトは、あなたですか」という問い合わせが来ました。

「折しも昨年の今ごろは、年若な人を相手に何とか響かせようとして散々骨を折っていた頃だ。
 今となっては彼もこれも去り、唯々犀角独歩を気取るくらいしか振る舞いようが無いけれども…」
http://home.att.ne.jp/yellow/tortoise/at22.html

…この方とこの文章は、わたしとは全く関係がありませんので、いちおう念のため。

855MILD SEVEN:2004/04/23(金) 02:02
最近、宿題が多くて・・・。

新メニューを、味を想像しつつ、組み立てる作業は・・・。
明日・・・もう今日か!試作するかな〜

856れん:2004/04/24(土) 17:35
大石寺九世日有師の弟子の一人である左京阿闍梨日教師は穆作抄に「信とは法華一部を信ずるか又釈尊の遺像を信ずるか大曼陀羅を信ずるかさやうにては空しかる可きなり所信の法躰大事なり秘すべし秘すべし」と述べていることを考えると、石山上代においても現代のごとき偏狭な板曼陀羅偏重の信仰はなかったと、ふと思う今日この頃です。m(__)m

857愚鈍凡夫:2004/04/26(月) 03:39

早いもので今年もゴールデンウィークの季節になりましたね。
先々日に母が永眠しました。正直言って、この母には幼少の頃より苦しめられてきました。だから、今でも心の奥では母を許していません。
でも、こういう問題は時が解決すると思っていますので、今の気持ちを素直に受け止めようと思います。
矛盾しますが、小生の中には母を慕う幼な子がいます。だから涙が止まりません。この気持ちも素直に受け止めようと思っています。
独り言です、お許し下さい。 m(_ _;)m ゴメン!!

858地名:2004/04/26(月) 05:28

857 愚鈍凡夫さん

心よりご冥福をお祈りいたします。
私も2年前に母を亡くし悲しかったです。
しかしその悲しみも時が解決してくれました。
良い思い出になります。
誰でも通る道ですから。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

859地名:2004/04/26(月) 06:26
愚鈍凡夫様
既にご承知の事と存じますが、上原専録氏の「死者・生者」に「忘持経事」を解説したものを読んだとき深く感銘致しました。
御本尊様にご冥福をお祈り申し上げました。お釈迦様のゴータミーに対する教えに感動しました。「…女よ、からし種をもらってきたかい。いいえお釈迦様、わたしにはもうからし種は要りません。この児をこのまま安らかに眠らせてやります。」と。

「忘持経事
【建治二年三月、富木常忍、聖寿、真筆−完存】 
忘れ給ふ所の御持経、追て修行者に持たせ之を遣はす。
魯の哀公云く、人好く忘る者有り。移宅に乃ち其の妻を忘れたり云云。
孔子云く、又好く忘るること此れより甚しき者有り。桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり等云云。
夫れ槃特尊者は名を忘る。此れ閻浮第一の好く忘るる者なり。今常忍上人は持経を忘る。日本第一の好く忘るるの仁か。
大通結縁の輩は衣珠を忘れ、三千塵劫を経て貧路に蜘■し、久遠下種の人は良薬を忘れ、五百塵点を送て三途の嶮地に顛倒せり。
今真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀の本意を忘失し、未来無数劫を経歴して阿鼻の火坑に沈淪せん。
此れより第一の好く忘るる者あり。所謂今の世の天台宗の学者等と持経者等との、日蓮を誹謗し念仏者等を扶助する是れなり。親に背て敵に付き、刀を持て自を破る。此等は且く之を置く。
夫れ常啼菩薩は東に向て般若を求め、善財童子は南に向て華厳を得る。雪山の小児は半偈に身を投げ、楽法梵志は一偈に皮を剥ぐ。此等は皆上聖大人なり。
其の迹を検ふるに、地住に居し、其の本を尋ぬれば等妙なるのみ。
身は八熱に入て火坑三昧を得、心は八寒に入て清涼三昧を証し、身心共に苦無し。譬へば矢を放て虚空を射、石を握て水に投ずるが如し。
今常忍貴辺は末代の愚者にして、見思未断の凡夫なり。身は俗に非ず道に非ず、禿居士。心は善に非ず悪に非ず、羝羊のみ。
然りと雖も一人の悲母堂に有り。朝に出で主君に詣で、夕に入て私宅に返り、営む所は悲母の為め、存する所は孝心のみ。
而るに去月下旬の比、生死の理を示さんが為に黄泉の道に趣く。
此に貴辺と歎て云く、齢既に九旬に及び、子を留めて親の去ること次第たりと雖も、倩事の心を案ずるに、去て後来るべからず、何れの月日をか期せん。二母国に無し、今より後誰をか拝すべき。
離別忍び難きの間、舎利を頚に懸け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。
国国皆飢饉し、山野に盗賊充満し、宿宿粮米乏少なり。我身羸弱(るいじゃく)、所従亡きが若く、牛馬合期せず。
峨峨たる大山重重として、漫漫たる大河多多なり。高山に登れば頭を天に■ち、幽谷に下れば足雲を踏む。
鳥に非れば渡り難く、鹿に非れば越え難し。眼眩き足冷ゆ、羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。
然る後、深洞に尋ね入て一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞ゆ。
案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。
我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば種子と菓子と、身と影との如し。
教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目■尊者は同時の成仏なり。
是の如く観ずる時、無始の業障忽ちに消え、心性の妙蓮忽ちに開き給ふか。
然して後に随分仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐恐謹言。
富木入道殿

860犀角独歩:2004/04/26(月) 07:55

愚鈍凡夫さん:

故母堂様のご冥福をお祈りします。

861問答迷人:2004/04/26(月) 08:16

愚鈍凡夫さん

いつも貴重な投稿、誠に有難うございます。

御母堂様のご冥福をお祈りします。

僕は14歳の時に、突然母を亡くしました。何十年経っても、母は、僕の中で、そのまま生き続けています。母親とは、そういう存在なんだと思います。

862心者雖念不直相鴨:2004/04/26(月) 10:53
愚鈍凡夫さん:

ご母堂様のご逝去、まことにご愁傷様です。

私も、信仰に関しては40年近くの間、母とは意見をことにしてきました。
そして、ついに相容れぬ思いのままこの世を去っていきました。
しかし、母の批判が私を鍛え、成長させてくれたのかと
今では心の奥深いところで感謝しています。


あらためて、衷心よりご冥福をお祈りいたします。

863れん:2004/04/26(月) 13:44
愚鈍凡夫さん。御母堂様御他界とのこと、ここに謹んで愚鈍凡夫さんの御母堂様の御冥福をお祈り申し上げます。

864空き缶:2004/04/26(月) 23:10

愚鈍凡夫さん、お母様の御冥福謹んでお祈り申し上げます。

 複雑なお気持ちの中、私なんどのお相手をいただいていたんですね。誠に恐縮です。

865MILD SEVEN:2004/04/27(火) 02:04

<自由共和国>

私は、頭が悪く・虚弱体質。
それなりに無理して頑張って来ました。
「怠け者」・・・これは、自己叱咤の意味もあります。
母から引き継いだホルモン異常体質が影響して、何とか生きています?
ホルモン切れになったら死ぬのかな?
これは余談です。

キリスト教会のみが、私を育ててくれました。
やっと、<人生迷わず>この境涯になりました。

・・・創価学会の体質環境では、私の様な者は馬鹿にされ・潰されていたでしょう。
今は、どこでも・どの国でも平気です。
創価本部にに乗り込むのは何時にしましょうか?・・・なんてね。

私の生きがい・・・それは言わずと知れた事。
それしかない。
何時死んでも、悔いを残さないよう・・・コツコツ天に貯金しています。
それだけの事。

いっそ、池田狂信者が、あっさり殺してくれれば楽なのに。
・・・これは、ホントニ怠け者的発想。
いかんいかん。

いざ行かん。
と金の人生。
所詮 歩だ。
悔い無く歩もう!

http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html

866MILD SEVEN:2004/04/29(木) 01:51

誤解無きよう。

私は、いつも、主にあって救われたのと体質とのダブルで、能天気で元気で〜す

867愚鈍凡夫:2004/05/01(土) 03:17

揺れる心を記してしまい、皆様にご心配掛けました。 m(_ _;)m ゴメン!!
まだ後始末がゴタゴタしていて「復活!!」とまではいきませんが、小生は元気です。
皆様、有り難うございました。ご報告まで。 m(_ _)m

868地名:2004/05/01(土) 06:17


867 愚鈍凡夫さん

よかったですね。
お元気でなによりです。

869MILD SEVEN:2004/05/02(日) 03:23

深夜の帰宅電車では・・・酔っ払い客はウルサイな。
実に迷惑千万。
モラルの低い連中。
鉄槌を下すべきか?

870サムエル:2004/05/02(日) 08:26
マイルドセブン。お前は放置プレー。つまりここに合わない独り言には迷惑だと気付かぬお前がモラルを語る筋合いはない。酔いどれの愚痴などを語る場所ではない事をいい加減に悟れ。消えろ。

871MILD SEVEN:2004/05/02(日) 08:49

忌まわしいものだ。偽善の創価学会・公明党。
あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせないのです。
私は、あなたがたに話す事がまだ沢山ありますが、あなたがたには、それに耐える力がありません。
実に、天に入るのにも力がいるのです。
魔界の力は、我ら証し人には通用しません。
我らは、聖徒を守ります。
仕事ですから。
http://www3.ezbbs.net/15/momo7/

872サムエル:2004/05/02(日) 14:32
ほう。私が創価公明とどこに根拠が?そう言うお前が批判を創価に転換し創価に捕われて偽称被害に遇われている査証であろう。よく回りの議論を考慮し板を選び書き込め。再度申す。くだらん書き込みをやめろ。

873MILD SEVEN:2004/05/03(月) 00:39
下らぬ傲慢な者は救われてない。
人に教える資格・資質は無い。

874犀角独歩:2004/05/04(火) 15:03

昨日、三学無縁さんとゆっくりと懇談。
資料文献の扱いについて、やや言及。
学会を含む大石寺圏が正本というところ、正信会が正本というところ、日蓮門下一般が正本というところ、仏教学会が正本というところ…。さて、どの点のものであれば叙用に耐えるか、やや話し合いました。

三学無縁さんと、正本を発表しておらず、また非売本でしか文を公表しないもの、写しを載せないもの、その学的研究がなされていないものを正本と扱わないことでほぼ意見が一致しました。

この判断では、実際は正本でありながら、研究がされていないために除外することになる危険性を背負うことになります。しかし、正本であるという手前味噌の虚偽を払拭するリスクとどちらが確実かとすれば、やはり、後者でしょう。
もちろん、正本として叙用するのに十分に確証があれば、この限りではありません。

以上の点、皆さんのご意見をお聞かせいただければ幸甚です。

875れん:2004/05/04(火) 19:29
犀角独歩さん、正本未発表…非売本でしか文を公表しないのもの…写しを載せないもの…その学的研究がなされていないものについては正本として扱わない…。真実を学的に探求し明らかにする手段としてしごく当然ですね。まぁそうなると石山系文献は殆ど使えなくなりますね(笑)。もっとも石山系の教学が学的批判に耐え得ないいい加減な文献に基づいて構築されている以上仕方ありませんが。私は、犀角独歩さん・三学無縁さん御両人が懇談の結果・一致した上記のご意見に深く賛同いたします。

876無徳:2004/05/04(火) 21:42
れんさん今晩は:

>まぁそうなると石山系文献は殆ど使えなくなりますね(笑)。もっとも石山
>系の教学が学的批判に耐え得ないいい加減な文献に基づいて構築されている
>以上仕方ありませんが。

石山系の教学がいい加減な文献に基づいて構築されているとするなら、日蓮宗
系は確かな文献に基づいた立派な教学となりますのでしょうか?

れんさんは日蓮宗系教学をどのように評価なさいますでしょうか?
更にれんさん自身は日蓮宗を信仰を対象と出来得ますでしょうか?

れんさんは創価学会を脱会なされるとのことですが、日蓮仏法(御本尊)に
対する信仰そのものはいかがなさるのでしょか?

ぶしつけな質問ばかりで失礼ですがお答え願えれば幸いです。

877無徳:2004/05/04(火) 21:46
訂正 (誤)日蓮宗を信仰を対象
   (正)日蓮宗を信仰の対象

878れん:2004/05/04(火) 22:26
無徳さん、今晩は。ご質問の件。私の日蓮宗系教学の評価は、大崎学報等を見る限り旧態依然とした石山系教学よりは学的批判に耐え得るものと思います。日蓮宗を信仰の対象と出来るかについては、蓮師についてはどんなヒトだったのか興味がありますが、教団を信仰する気はありません。もっとも私の場合、日蓮仏法・宗教・信仰から足を洗うことになるでしょう。しかしながら廿年も石山教学を信仰してきたのですから、一朝一夕で脱洗脳できる訳でもない。ですから今は碩学の皆さんとの議論を通じて真実を認識し、少しずつ勉強させて戴いている訳です。

879無徳:2004/05/04(火) 22:34
れんさん早速のご返事ありがとうございました。

>もっとも私の場合、日蓮仏法・宗教・信仰から足を洗うことになるでしょう。

との事でしたら私からは何も申し上げることはありません。

880犀角独歩:2004/05/05(水) 11:33

875 れんさん:

ご賛同、有り難うございます。
常識からいえば、まず参考にする資料の証憑性を学的・科学的見地から徹底的に検証し、信頼性が確立した点で使用する。一般の学問ではそのような次第ですから、富士門の資料もかくあるべきものと勝手に思い込んだ結果、とんでもない嘘を信じる羽目になってきた自分史があります。興門下の各資料と言わず、蓮門全般もまだまだ、この基礎研究にお座なりにし過ぎていますね。

そんなかで興風壇所など一部僧侶は頑張っているとは思うわけです。でもまだまだ御教性完全払拭ができていない。なにより弥四郎漫荼羅に関する言及になると途端に腰が引けてしまう。石山に復帰しようとするケチな根性が残っているのか?とがっかりさせられるわけです。
「どこで手を抜くか」で自分の信仰を護るという情けない姿勢が罷り通るのが富士門、そして、石山・学会・顕正会、蓮門全般のみならず、日本仏教界ということになりましょうか。

学的・科学的検証に耐えないことを信じるのが信仰であるというのであれば、まあ言葉は悪いですが「鰯の頭を信じる」のと何も変わらないわけですよね。その意味も踏まえて、878に披露されたお考えに改めて敬意を表するものです。

881無徳:2004/05/05(水) 15:28
独歩さん今日は:

学的・科学的検証に耐え得る信仰とは如何なものを指すのでありましょうか?

882犀角独歩:2004/05/05(水) 16:08

881 無徳さん:

ここはつぶやきすれっどです。1に
「独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
 本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう」
とありますので、殊更、議論をいたす場所ではないのでその範囲で応じます。

ご質問については、現在進行形でわたしも考えているところですが、少なくとも嘘や、確証もないことを信じるような信仰ではないとお答えするに留めることにします。

しかし、一ついえることはあります。学術研究の成果、科学的検証の結果を証憑することは、それ自体が成果検証結果を信じ仰ぐことであるということです。

883無徳:2004/05/05(水) 16:36
独歩さん882は了解しました。

それでは管理人さんへのお願いですが、「科学と宗教」と言ったテーマでの
スレッドはありましたでしょうか?

もし有りませんでしたら、それらしきテーマのスレッドを立ち上げていただき
たいと存じますが、よろしくお願い致します。

884MILD SEVEN:2004/05/07(金) 00:59

私の職場は極端にモラルが低く、犯罪の域に達している。
私は、耐えがたきを耐えている。
池田教学が産み出したマムシの子らに、日本を管理する能力は無い。
改善派は何をしている!?

http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html

http://hidebbs.net/bbs/momo7?sw=7&amp;m=10

885MILD SEVEN:2004/05/07(金) 11:09

悪の道に引き込もうとする狂学は、まさしくカルト教学。

しかし、私には聖書があります。

<ヤコブの手紙1章14〜16>

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

886空き缶:2004/05/08(土) 23:10

 今某掲示板にて、創価学会員と思われる方2名とカキコのやり取りをしていますが、本当に疲れてきます。

 れんさんのような方はきっと珍しいのでしょう。

 とにかく創価学会系の出版物以外は目にもせず、その一方的な情報で判断と批判を展開します。

 そして意見の合わないものの発言には否定あるのみで、言葉に詰まると「現証が・・・」「ここまで広まったのは学会だけ」とすりかえる。
 しまいには、より理論的な意見を「頭でっかち」などと批判するありさまです。

 これでは思わず独り言もいいたくなってしまいますね。

887風来坊:2004/05/09(日) 19:01
独歩様、問答名人様
お久しぶりです、というよりも、もう覚えていらっしゃらないかと思いますが、
その昔(日誠)という名前で参加をさせて頂いておりましたものです。

その当時は生意気にも独歩様と話をさせて頂いていて、今一週間以上かけて
過去ログを拝しておりまして、自分の未熟さと増上慢ぶりを反省しているところでございます。
過去の私の忌まわしい書き込みを謝罪します。

自己紹介スレッドにもレスしましたが、また一から学び始めたいと、ここに参加させて
頂ければ存じております。

転勤先では、出会った女性が真如苑の会員だったり、帰ってきてみたら
中学生だった甥っ子がどこかのカルト教団に入信してしまったようで、
姉に「助けて」と泣かれたりと、自分は宗教に縁が深いのかなあと感じて
いるところであります。

今後、時間がありましたら、昔の反省を思い参加させていただきたく思っておりまので
何卒ご教示の程、よろしくお願い致します。

888問答迷人:2004/05/09(日) 20:02

風来坊さん

今後ともよろしくお願いいたします。又、有意義な議論が出来ますれば、幸いに存じます。

889犀角独歩:2004/05/09(日) 21:24

風来坊さん:

お久しぶりです。よくお戻りになりました。
何一つ、お詫びいただくことなどございません。
有意義な時間を過ごさせていただいたと思っているばかりです。
また、議論いただけることを楽しみにしております。

よろしくお願い申し上げます。

890エージェント:2004/05/12(水) 02:26

創価の女はキモイ。

891犀角独歩:2004/05/13(木) 11:18

管理人さん:

昨晩、三学無縁さんとも話したのですが、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』において、名無し@ピンキーさん、Happy Birthday!!さん、また、空き缶さんが興味を示されてお出でであった山中師『御本尊集目録』未載でありながら、御筆漫荼羅(真筆)と伝えられる漫荼羅は興味深いものがあります。また併せて、真偽未決御書、また、各文献の著者の実否などを議論するスレッドがあればよいと考えます。

以上、三学無縁さんと連名で提案させていただくものです。

892三学無縁:2004/05/14(金) 13:27
テストです。

893犀角独歩:2004/05/31(月) 15:58

「何を今さら」と嗤われる方もおいでかもしれません。
・熊田葦城は元新聞社社員で、明治28年には『報知新聞』編集長だったのですね。
その著『日蓮上人』が報知社から出版されたのは、そんな事情があってのことだったわけです。

最近、こちらの常連さんがお使いになる国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『明治畸人伝』で見出したことでした。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40016673&amp;VOL_NUM=00000&amp;KOMA=74&amp;ITYPE=0

894通りすがり:2004/06/01(火) 01:43
某所で日蓮正宗についてこう書き散らしたが、
間違ってないんだろうか?

近年は法主への個人崇拝、日本の仏教、キリスト教等の伝統宗教や、
(複数の団体)等の新宗教で信者や団体指導者が大人しい宗教団体を邪教と称し、
自己中心的な批判攻撃の対象にするが、
武力闘争(要約:中東の人は怖い)や法廷闘争(要約:キリスト教異端もやる事がえげつない)を厭わない宗教団体にたいしては、
信者の脱会工作や名指し批判を殆ど行なわない、
他の宗教を信じると仏罰あたるや本門戒壇の大御本尊を見なければ成佛できないと言った勧誘、
現地政府が法律で極端な(教義の曲解や個人への誹謗中傷等の)破折誹謗が禁止されている場合はそれを守るが、
法律で禁止規定が無い行為は何をやっても良いとする指導する等、
カルト宗教化が進んでいる。

895顕正居士:2004/06/02(水) 09:01
ウィキぺディアの日蓮正宗の項目の今の記事は内容がまだ不正確で不十分です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/��ヨ�勖③絎�
この項目を新たに編集される場合、次の不正確な記事は修正するべきでしょう。

1 「法主への個人崇拝」 阿部日顕師個人への崇拝が進んでいるようには見えません。
今、大石寺で行われているのは管長地位の権威と権限の強化であるようみえます。
2 「黒住教、金光教、天理教等の〜」
日蓮正宗は自教団以外の一切の宗教、宗派、教団を邪宗、謗法と称しており、近年にはじまった
ことではありません。本門宗を脱退し単立し、宗旨と教団が重なってしまった時点(1900年)に
までは少なくともさかのぼる傾向でしょう。しかし現実には他の宗教、宗派、教団に関心はなく
他宗に「法論」をしかけたり、一般人に「勧誘」をすることは普通はありません。「黒住教、
金光教、天理教等の〜」は昔の創価学会が行った「折伏大行進」ですし、「本門戒壇の大御本尊
を見なければ成佛できないと言った勧誘」は「日蓮大聖人を信じないと国が滅ぶという勧誘」の
顕正会でしょう。ただし今の信者の大多数は元創価学会員であり、みかけは創価学会の地域活動
に類似し、それら「法華講」(寺院単位の組織である)の中には顕正会と一般の方々には区別が
つかないだろうのもあって勢力を有しています。しかし日蓮正宗においても代々の檀徒は日本の
仏教の他宗、他派の檀徒と生活上、信仰上のありかたに大差はありません。
3 「カルト宗教化が進んでいる」 はあたっていますが、「法華講」は寺院単位の組織ですから、
おしなべてカルト化の傾向に進んでいるかいちがいにはいえません。宗旨と教団が重なることを
「カルト化」というなら、これは「カルト」の第一の特色で、今にはじまったことでありません。
現実に重なっていても宗旨と教団の区別がされていればカルトとはいいません(「時宗」など)。
4 「現地政府が法律で極端な〜」はどういう事件をさすのかがわかりません。具体性をまったく
欠く表現は記事の全体への信憑性を低下させます。
5 「開創当初より「日蓮宗」を名乗る」 これは新説ですから、根拠を示すか削除するべきです。

896雖念:2004/06/30(水) 06:51
(つぶやきです)
 多肢選択問題によく、(a) どれも正しい とか、 (e) どれも誤っている
とか、あります。自分自身の過去の選択について、後々反省すると(e) どれも誤っている だったことが多いのですが、選択や決断に関しては個人の(日常生活の)レベルでは情報不足だったり、選択肢がすくなかったりで
理想的な選択ができない場合がよくありますね。
 わたしも、当掲示板に参加したころは、いずれが正しいのか? の正答を強迫的に求めるような姿勢がありましたが、(e) どれも誤っている の可能性を教えていただいて、目からうろこが落ちる思いがしました。

897犀角独歩:2004/07/07(水) 00:01

当板に書き込みをするのでであれば、過去ログを充分に読み込んだのちに、真摯な投稿をしていただきたいものです。
石山やら、末寺やら、はたまた在家集団から刷り込まれた稚拙なおままごと屁理屈を真実だと頭から信じ込んだ上で、人法一箇だ、日蓮本仏だ、戒壇本尊は真筆だ、はたまた歯肉は生きているだというおまじないを真顔で書き込まれては笑うに笑えません。
ともかく、「過去ログをよく読んでください」と言うしかありません。

898愚鈍凡夫:2004/07/08(木) 19:34

梅雨明けはまだなのに、今日も真夏の日差しが厳しかったですね。

このサイト、例の「社長会メモ」を見たことがない人、必見です。 (^_^)v

池田大作氏のホンネ
http://gappo.cool.ne.jp/shinjithu-2/syatyoukai/44nen/44-moku.htm

このサイト、何処まで真剣なのか分かりませんが、結構笑えます。 (^O^)
暇つぶしにどうぞ。

仙薬データベースTOP ◆八千草堂の鹿角霊芝◆
http://www-ku.magma.ne.jp/~ark/yachigusado/senyakudata/index.htm

899愚鈍凡夫:2004/07/08(木) 19:37

すみません。ここから入ってください。 m(_ _)m

池田大作氏のホンネ
http://gappo.cool.ne.jp/shinjithu-2/syatyoukai/nendo.htm

900テスト:2004/07/11(日) 23:44
テスト

901ワラシナ:2004/07/19(月) 11:40
曽我さん一家が昨晩(h16/7/18)入ったという「都内の病院」とやらの前で野次馬してきた。

0、昨日の昼のワイドショーでは、羽田到着後の曽我さん一家が直ちに向かった、という病院がどこかは、最後まで明かされなかった。だから追跡ルート放映にのめり込んでいた4チャンと8チャンを見ているほか手がかりはつかめそうもなかった。そして6pm近くになってその病院前の光景とその所在区がでたのだが、到着した病院玄関前の光景を画面で見ながらも、どの病院だったのか迄特定できなかった事が私には大変悔しかった。

1、そして、今日の(h16/7/19)朝刊記事でやっと特定できそうになった。「都営住宅前の大病院」という条件から言えば、候補は三つほど有ったが、その他の条件を加味すれば一つに絞られた為行ってみたところ正解だった。昨日一瞬見たテレビ放映の画像そっくりだった。一瞬見ただけではわからなかったのは、その病棟そのものが最近新築された建物だったからで、普段散歩でもしていなければその変化には気づく筈もなかった。

2、既に病院前バス通りから、警察官が広場に立っていたから、ここだろう、と思っていたがあたっていた。表通りから左へ曲がって下っていったのも、テレビ放映で、曽我さんを乗せたバスが右折して下っていったのを見ていたからだった。

3、玄関前には既に29人の報道陣が玄関正面での新光景キャッチを待ち受けていた。ワイドショーでおなじみのキャスターが喋っていた。(録画かリハーサル?)休館日なので病院側からの目立った動きはなかった。

4、「やはりここの病院だったのか、、、」という目的の場所にたどり着けた充実感に私は浸っていたところ、後ろの方で御近所らしき人の興味深い話が聞こえてきた。私同様、曽我さんジェンキンスさんを乗せたバスがどの病院へ向かっていたのか知りたがっていた人が沢山いたようで、その中にはこの病院と近所に有るもう一つの候補地病院間をピストン往復して、一体どっちの病院に着くのか、必死だった人が居たとか。そして目の前の都営住宅の住人の方は夕刻のテレビ放映で自分の団地が映っていたのをみて、この病院に来るんだ!と思ったのだそうである。

5、いずれにしてもジェンキンスさんの体調回復まで、ここしばらくは曽我さんジェンキンスさん御一家報道の中心がジャカルタからこの「都内の病院」とやらに移った事は確かなようである。

902愚鈍凡夫:2004/07/19(月) 13:05

これからマスコミ主導の「大きなお世話隊」が、あの家族の鼻先を傍若無人に飛び回るんでしょうね。
それがもとで拉致被害者全体の早期帰国が実現すれば良いのですが、曽我さん一家にだけスポットが当たって、他の深刻な問題がうやむやにならないかと危惧するものです。
政府は何故、北朝鮮の国家的犯罪をもっと糾弾しないのでしょうか。小泉さんは、日朝国交回復を成し遂げた首相として、歴史に名を残そうと思っているんでしょうかね(まるで田中角栄の二番煎じですね)。ひょっとして、ノーベル平和賞狙いがホンネだったりして(何処かにも似たような人がいたなぁ・・・・・)。
食糧と金を貢いで、結局、いいように振り回されるだけのような気がしますが・・・・・。

903犀角独歩:2004/07/19(月) 13:23

> 902

こんな愚鈍凡夫さんの視点にわたしも同意します。
しばらく前のことですが小泉さんがハンセン病患者訴訟の取り下げが大々的に報道されたことがありました。あのとき、お株はぐんと上がったわけで、わたし自身、「いいことするなぁ」とテレビを観ていました。
そんな話を尊敬する社会活動家の一人に話すと「わたしはまだ水俣病裁判ののうはさっぱりです」と、浮かない顔をされました。

特別扱いされる拉致被害者には何の咎もありませんが、優遇される人をよそに奈辺で取り上げられることもなく、苦しむ無数の人々がいることをわすれられません。表や、人気、勲章、名誉につながることにだけ熱心なパフォーマンスは、わたしも頷けません。

904愚鈍凡夫:2004/07/19(月) 15:03

>>903:
犀角独歩さん、ご賛同いただき有り難うございます。

池田さんと小泉さんは「何ゆうてんのか分からん者同士」で、話し合うと以外に気が合うのかもしれませんね。でも、パフォーマンス合戦なら池田さんの方が一枚も二枚も上だったりして。

905ワラシナ:2004/07/21(水) 22:28
「都内の病院」前より 水曜日の朝、午前8時 

0、報道陣は9人、カメラも地面に置いたままだった。昨日の暑さからか、オレンジ色のビーチパラソルがセットしてあった。

1、18(日)夕刻車椅子のジェンキンスさんが中に入って行った時の映像は、隣の公園にセットしたカメラから撮られたもののようだった。

906藤川一郎 </b><font color=#FF0000>(/RnWNeIY)</font><b>:2004/07/24(土) 00:36
病院と言えば、某講中のビデオに「後生の大事」というものがあった。
この中で成仏の相と称し、幹部のお母さんの亡くなった姿を写してあった。
ここまでは、多少疑問はあるが良しとしよう。

しかしながら、どこかの病院の死体安置所を盗撮し、邪宗の者の死体の相と称し写してあったのには驚愕した。
ありゃ、非道かった。

907犀角独歩:2004/07/24(土) 23:13

本夕、蓮師が最期、池上を訪れる際に通り、足を洗ったという洗足池を散歩しました。
蝉の幼虫が何匹も地面から這い出して歩いていました。あるものは、既に樹皮に爪を掛けていました。どれほどの時間、眺めていたか。羽化し、透き通るような真っ白な体が徐々に茶色くなっていきました。真っ白な体に真っ黒なつぶらな蝉の瞳を時の過ぎるのを忘れて見入っていました。

明日は請いを応じて、長岡に行きます。一泊して、明後日の午前中は時間が自由です。
お会いできる方があれば、ご一報ください。明朝までにメールをいただければ、お会いしたいと思います。一期一会、羽化した蝉の目を見つめて想起する言葉ではないのかも知れませんが、底知れず、感動した夜でした。

908ワラシナ:2004/07/24(土) 23:13
「曽我さんあやかり心理」

0、ジャカルタ空港での家族との再開(7/9)の光景は、曽我さんが妻として母としての「愛の蓄電池」だったことを教えてくれた。 二年近くに及んだ家族との別離の間に曽我さんが味わった苦悩の一端は、自分が急に居なくなってしまったことで、夫や娘達が味ったつらさと同じものだったのだろう。

夫へは唇を通して、娘達には抱擁を通して注入された愛情は電流のように相手を浸した。抜け殻のようになっていた夫と娘達はそれで蘇った。

1、7/9ジャカルタ空港での再会の光景で忘れられないのは、数段タラップを降りかけた時早くも階下の母を目敏く見つけた美加さんが泣き出した瞬間だった。「泣き虫美加さん」通りハンカチを目に当てて。
 母不在の二年間がどれほど心細く寂しかったか偲ばれた。

2、各人各人それぞれが数奇な人生だが、曽我さん御一家が特に「典型的」なそれだけに望みが叶えられた事が大きな激励になっている、と思う。ここに一般大衆の中にもこの件にあやからずにはおれない心情というものが働いたと思う。

3、 だが、一般大衆は勝手だ。今までは「かわいそ、曽我さん、かわいそ」だったが、「幸せゲットゲットハッピー曽我さん」に変わった様にみなして嫉妬しだす人もいるからである。

909 通りすがり:2004/07/31(土) 17:27
wikiの[[日蓮正宗]]は書き散らした事の証拠つけた後、
法華講員が不足分を足していったが、
親鸞会は、親鸞会は……もうシラン会って言いたい。(露骨なマッチポンプなので)

910愚鈍凡夫:2004/08/02(月) 21:55

あっ、誰もいない。静やな〜っ。この隙に、

オチャドーゾ(*'-')_旦〜・・・ヾ( ̄ー ̄*)おおきに、おおきに

「オイオイ、またこのネタか」(by 管理人)

911三学無縁:2004/08/05(木) 21:39
犀角独歩さんの本、PC不調のために遅れているようですが、たのしみです。
石山版のデイ・アフター・トゥモローです。
尚、ネット上にパクリ屋さんがいるようなので、目次などの公開は控えたほうがいいのでは、と考えます。
しかし、たんなるあら捜しではなく、信仰四十数年の重みは、パクレるわけはありません。
おそらく、今後の「板本尊」論議は、独歩さんの著著が基準となるでしょう。
もちろん、独歩さんの著作はオリジナルですが、その機縁となったのは富士門掲示板での多くのひとたちとの論議があったなればこそですね。
つまり、当富士門掲示板こそが、これからの石山論議の基準であり、当掲示板を無視して、論議を進めることはできないでしょう。
また、パクリ屋さんが当掲示板の内容を剽窃して著書をものしたとしても、それは恥をさらすだけですね。

これからも参加されている皆さんにいろいろと教えていただきたいと思います。

912犀角独歩:2004/08/06(金) 08:49

三学無縁さん:

お陰様をもちまして、一切の準備は完了しています。「PCの」というより、某寺と出版社の問題を残すだけとなりました。三学無縁さんを筆頭に、こちらで共に議論をしてくださった皆さんのおかげです。

さすがに目次立てはネットでは発表しません、図版を含めて、掲載用全資料まで網羅していますから。
当初、図版のみで「図解必携」とやろうと思ったのですが、結果的に文献資料もおさらいをすることになりました。しかし、批判書と言うより、資料集という体裁です。判断はどうぞ、読者がという運びです。

パクリ屋さんの話が出ていますが、この動きは確かにすさまじいものがありますね。でも、パクって本を出すのであれば、まずわたしが何を書くかを見てからにしなければ恥をかくのは本人でしょう。ボジョレヌーボじゃあるまいし「誰がいちばん最初か」と功を焦れば、まずい味わいで物笑いになるのは当人でしょうからね。

公開で書き残してきたことには日付が刻印されています。もし、パクり本が出れば、その一々の手口を微に入り細に入り分析して種明かしをしてみせるのみです。

いずれにしても、本は書き手の魂がいのちです。盗用、出し抜き等という小賢しい性根で書かれたものは真実を暴く正義を帯びることはできません。その意味でわたしは悠々と構えています。

913ワラシナ:2004/08/17(火) 21:03
参ったね日曜日になにを見てからほとんど安眠できない、気になって寝られないのだ。

914犀角独歩:2004/08/18(水) 01:57

僭越ながら、今回のわたしの出版をもちまして、所謂「本門戒壇之大御本尊」真偽問題は、ここに終息すると自負しております。

915愚鈍凡夫:2004/08/18(水) 22:28

小生も五色の知恵の輪みたいな旗の基に行われる運動会を見始めてから、毎夜眠れません。
結果は、新聞やテレビの再放送でも分かるんですが、「やっぱり感動はライヴやでぇ!!」なんて、おっさんらしくない台詞を吐きながら、睡魔と闘っています。
ネ、ネムイ... (*¨)(*・・)(*..)o(*__)o。。oO

916愚鈍凡夫:2004/09/01(水) 20:43

あまり関係ないかも知れませんが、

「Windows XP Service Pack 2の日本語版が今夜0時にいよいよ登場」ということらしいです。

Windows XP Service Pack 2の日本語版が今夜0時にいよいよ登場
http://www.forest.impress.co.jp/article/2004/09/01/winxpsp2.html

917菱村正敏:2004/09/02(木) 06:32
 最近は、自分の特技を活かして自閉症やヒキコモリそれに統合失調症の
方々と遊んで生活の糧を得ています。かれらのマイナスイオンは強烈で
はじめのころは数時間遊ぶと2日間くらい疲れてしまい寝込むようなあり
様でした。

 成人しているヒキコモリの方が、自分のバイブル・経典のようにしている
本(自分を探すアリス)。下記から引っ張り出してきたようです。
http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/subindex.html
精神世界やらチャネリングやら瞑想やら波動やらと、頭が痛くなる
内容でした。かれはこの作者が主張する永遠の魂・永遠の存在を信じて
います。そのかれに「働くことがイヤな人のための本」新潮文庫を
読ませてみようかと思い、かれと読み合わせをしました。ところが、
最初からつまずいてしまいました。よく読むとこの本は人生はいちど
きり、あなたもいちどきりなんてことが前提で論を進めています。
ここで、かれは読めなくなりました。永遠を信じる者には永遠を
信じない者の論は頭に入らないようです。

918平和創価:2004/09/02(木) 20:45
高野悦子さんの『二十歳の原点序章』と『二十歳の原点』新潮文庫 を読みました。
彼女は1949年1月2日生まれ。1969年6月24日未明、鉄道自殺。享年20歳
とのことでした。今生きていれば55歳ですね。
彼女は可愛い女優にもなれる顔立ちでした。2冊の本の巻頭にある写真を見まして、私
が私よりずっとずっと年上の女性を可愛いと思う気持ちと、何故に鉄道自殺したのか、
不可解な気持ちになりました。京都の立命館大学の学生で、学生紛争の最中に自殺したの
でした。彼女は死の直前、かなり睡眠薬と酒を服用していたことが日記から分かりました。
実を言うと私の大学生の時の友達の女子大生と彼女がよく似ているのですよ。私の友達は
あたら20代で血液のガンで死亡しました。でも高野悦子さんは何故死に急いだのか?彼女
はサルトルの実存主義死生観の犠牲者ではないかとも思います。もし彼女が仏法を知ってい
たら鉄道自殺などしなかったと思います。
今私は生命論の証明をなんとかして実現しなくてはと思っています。
高野悦子さんはもし現代の20歳の学生だったならば、心理治療で自殺などしなかったので
はないかと思われて残念です。

919平和創価:2004/09/02(木) 21:17
犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、ワラシナさんお久しぶりです。今私は菱村正敏さんの
カキコを見て私が先日感じたことをカキコしました。シェスタさんも科学的な分野で
頑張っているようですね。

生はこの一回で終わりであるなら、いっそ生まれてこなかった方がいいではないか。
死ぬことは無に帰ることだからいっそのこと死んでしまおう。

この考えは大変危険だと思います。私は自殺した生徒2名と教師1名を知っています。
生命論は論議ではなく科学で解明しなくてはならないと私は考えています。愚鈍凡夫
さんから紹介されたカレントメイトやシェスタさんから紹介されたソフトを今も愛用
しています。私は私の受験勉強があるので富士門流だけの勉強はできません。日本史
の中の専門分野としての研究にはなりますね。

みなさんのご研究の前進と富士門流その他の人たちを含む人々の、和合とを求めて止
みません。

920雖念:2004/09/02(木) 21:34
「二十歳の原点」は、当時確かに目を通したはずなのに、内容がほとんどよみがえってきません。しかし、同じころベストセラーになっていた?「青春の墓標(奥浩平著)」は、なぜか何度も読み返した記憶があります。
友人が「誤爆」(注1)されたり、知人が中核に「殲滅」(注2)されたり、奥に感情移入しやすかったためかもしれません。
やはり同じころ「邪宗門」(高橋和巳著)を読んで、宗教者の政治、労働運動へのかかわりという点に関して、自分たち(創価学会学生部)のやっていることには、かなり深刻なずれがあるのでは? と、感じていました。

注1: 過激派同士のゲバルトで、間違った相手を攻撃すること
注2: 対立するセクトの構成員を殺害すること

921平和創価:2004/09/02(木) 22:05
ああ雖念さん、お久しぶりです。雖念さんの名前を落としましてすみません。
あの本はまだあると思います。2冊ですね。序章と本章ですか。

高野悦子さんの文章に生命の連続性とか西欧キリスト教死生観に対する疑念が
見られないのは残念だと思います。

「死」と「生」に関して雖念さんはどうお思いですか。時間があれば犀角独歩
さんや、愚鈍凡夫さんのご意見も伺いたいと思っています。このことは必ず私
達が直面する重大な課題だと思います。

922雖念:2004/09/02(木) 23:09
平和創価さん:
生命の連続性について、池田さんは当時「仏法と科学」のなかで、「エネルギーの場」のようなことを書いていたような気がします。ちょうど、そのころ熱力学の勉強をしていたので、わかったような、わからないような、なんとなくあいまいに納得していました。
この掲示板に参加してから、多くの碩学知識の方々から「仏教固有の思想」、「石山の考え」、「創価学会の独創」がそれぞれに違うことを教えていただき、「永遠の生命」なる考えが、「大正生命主義思想」の影響を強く受けていたことなどを学びました。「生命主義、生命論について 」http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/364/1067405428/l100
のスレッドをご参照ください。

さて、私は現在では、生と死については、こんな風に考えています。
まずもって、弥勒仏が出現するといわれている、56億7千万年後には、太陽は赤色巨星となって地球が飲み込まれているとのことです。 人類どころか、地球がなくなってしまうというのに、あまり永遠の生命にこだわるのもどうかと思います。
それと、死に先立つ苦痛に対する恐怖は予測できますが、死そのものに対する恐れは、ふしぎなほどありません。

さて、生命の未来に関して、科学関係の掲示板に「ハンザキさん」というかたが、含蓄にとんだ発言をなさっています。おもしろいので、前後も含めて少しお読みください。

**************************  引用開始   ********************
現在の太陽系は過去、今の太陽系からほど近い場所にあった巨大な恒星が
寿命を終えたことに端を発し、現在に至るのですが、
その「太陽の母」の寿命がつきたのが50〜60億年前だそうです。

これを「仏の入滅」と考え、そこから太陽系の誕生、地球の誕生、
生命の誕生までを正法の時代、
生命誕生から知性(人類)の誕生までを像法の時代、
人類史の全てを末法の時代と見立てると、だいたい現代が56億7千万年
ほどとなり、人類史の終演を持って弥勒の登場とする、というような
見方もできます。

この見方だとかの頭足類猿人などは救済後の豊かな時代に生きているとも
考えられますね。
http://sf.dot.thebbs.jp/1074012035.html
*******************************  引用終了 ********************

923愚鈍凡夫:2004/09/03(金) 00:32

平和創価さん、今晩は。
高野悦子さんの「二十歳の原点」、十代の頃に読んだような覚えがあります。
確か、黒いカバーで、表紙に一輪の赤いバラの絵が描かれていたのではなかったでしょうか(記憶違いだったらごめんなさい)。内容については、ほとんど覚えていませんが・・・・。 (;^_^A アセアセ…

これは個人的な意見ですが、人は「生きる権利」と同時に「死ぬ権利」を併せ持っていると思います。
今年、母の死と向かい合うこになったのですが、母は、日に日に衰弱していく中で、主治医に医療機器によって生かされるのは耐えられないので止めてほしいと言っていたそうです。母の、この医療機器に囲まれて生きるのならば、人間らしい尊厳死を選びたいという願望が理解できます。小生も同じ立場になったとき、同じことを願うでしょう。

人生は長さではなく、何を成したかが重要なのだと思います。そして、自分の命をどう使ったのかが充実した人生であったかどうかの分かれ道になるのではないでしょうか。
勿論、死に急ぐことはありません。生きなければ何も成し得ないし、まだまだやり残したことがあるのに、未練を引きずりながら死ぬのはあまりにも無念です。

重い鬱病や、PTSDに苦しむ人たちを知っています。
同苦とはいきませんが、生きていく糧を見つける手伝いをしたりしています。自分に自信を持ってほしい。自分の力を信じてほしい。そう願って接しています。それは、揺るぎない自信を持ちえたとき、人は心の底から穏やかになれるのだと思うからです。

月並みですが、小生としては、これで自分の役目も終わった。そう思えるような人生の終焉を迎えたいと思っています。

924菱村正敏:2004/09/03(金) 03:56
 わたしは、永遠のものはいっさい信じておりませんので・・・。
この世は一回こっきりだと堅く信じております。だからこそ
ありがたいし、他のかたとの出会いも月並みですが一期一会で
大切な一瞬であります。それがたった数分・数十分でもです。

 最近は、歯医者に通うために強い頓服薬を出してもらいました。
歯医者に行く30分まえに服用します。効き目はフラフラになり
ながら歯医者にたどり着くほどの作用をもたらす薬です。脱力感
疲労感で、その日は自転車で移動する気持ちになれませんね。

 精神的な疾患をもっている人。いっけん体力ない人もいますが、
ひょっとしたら、そういうかれは薬の影響からきていることもある
のかもしれません。自分が強いのを処方されて、その辺の目が
少し開きました。

 ちと、つぶやきモードですので、読み流してほしいのですが、
精神病の人に自信をもってほしいと願うのは、日蓮にセックスを
してほしいと願うような無理難題です。健常な人は、見てたら
良いのです。わたしはあなたの味方であり保護者でありという
態度で接してください。けっしてかれらのパンドラの箱を開け
てはいけないと思います。

 わたしは、同病の人間をサポートするのだから、健常者が
サポートするより「より良いのではないか?」と通院している
医者に同意を求めましたが、「そういう考えは不純」と一蹴され
てしまいました。どういう意味だかは未だに分かっていませんが、
慢心することなく、出過ぎず、一歩ひいたかたちでサポートして
おります。

925平和そうか:2004/09/03(金) 19:08
菱村正敏さんの生命観は、一回性死生観ですか。私は違います。「人は死んだらどうなるんだ」
という他のサイトの質問がありましたので、私なりの回答をしておきました。ここです。この中の
206が私の答えです。参考にしていただければ思います。
            ↓
http://science3.2ch.net/test/read.cgi/rikei/1088439040/l50

926雖念:2004/09/03(金) 19:43
>平和創価さん:

まず、平和創価さんがと死の問題を自分の言葉できちんと考えられたことに、敬意を表します。われわれは、(当然私自身も)つい、その辺に書いてある答えを探し出して安心してしまいがちですから。私自身、30年ほど前に「人間革命」やら「仏法と科学」やら聖教新聞の科学欄に書いてあったような生死感から一向に進歩してないような気がします。
つまり、無機物がエネルギーの場に触発されて、アミノ酸となるという話です。「空」の概念で生命の発生を説明していたので理解しやすく、いかにも仏教的であると感心しました。
ところで、平和創価さんの表現には少し厳密さを欠いているところがあると思います。

> 精子と卵子の結合前には無だったあなたは、胎児の神経節ができる頃に有となったのだ。

精子と卵子の結合前には、「精子と卵子だったあなたは」、受精により「胚」になったのだ。
と、しないと誤解を生じる恐れがあります。

話は変わりますが、たとえば顕正会には機関紙で語られるような、こうした公式の「生死感」のようなものはあるのでしょうか?
ご存知のかたは教えてください。 
 具体的な課題や、目の前の矛盾に関して教義を展開することが重要だと思います。

927平和そうか:2004/09/03(金) 19:54
愚鈍凡夫さん。今カキコした文章が変換ミスで全部消えてしまいました。

却って良かったと思います。

犀角独歩さんの優しさと、愚鈍凡夫さんの優しさを詳しく書いたのですが、全部
飛んでしまいました。

928平和そうか:2004/09/03(金) 20:06
雖念さん
私はまだ理学部を受験する前ですので、厳密には言えませんでした。すみません。
顕正会に対しては私は無関係です。雖念さんは私と同じように創価学会学生部員
だったそうですので、お話は真剣に進められると思います。

今私は「平和創価」を「平和そうか」としましたが創価学会員であることには変わ
りありません。信仰未熟なためひらがなにしました次第です。

929雖念:2004/09/04(土) 10:13
平和そうかさん:

大学受験がんばってくださいね。
合格されるように心から祈っています。

930卞氏:2004/09/04(土) 11:02
下記のような書き込みがあったようだが、追い出されたので返答は控える。
あくまでも、つぶやき。

>あなたこそ、この文面をよく読んで下さい。
>「もちろん日蓮正宗の寺院は、御授戒、葬儀、法事という重要な儀式を中心とした場であり」
>と、池田さんは言っています。
>ならば、「追善法要」は日蓮正宗の寺院に任せたらよいのですよ。「重要な儀式」を自前でやることはありません。自前でやることは、「第9回教学部大会」で池田さんが言っていることと明らかに矛盾します。

学会員がお寺ではやりたくないと言ったら、学会でやってあげるしかないではないか。それをやるなというのは無慈悲というものだ。
いまは法華構でさえ、その儀式のための供養をせびる坊主を嫌い、脱構している人が居る。
会員も、構員も、そういうのがイヤなのだ。

>見方を変えれば、宗門を資金難に追い込んで、創価学会の支配下に置こうとしていた目論見が見えてきますが・・・・・。

学会は宗門に寺まで寄進している。正本堂建立の供養も多額にわたる。
その学会に、儀式まで自分達で囲いこんで収入まで求めようとしていたというのか?
その儀式程度の収入がなくなったぐらいで、資金源が枯渇すると思っているのほうもおかしい。
学会を破門したから収入が無くなったんだ。坊主が嫌われているから、人が減るのだ。
その法主の愚かさに気づくべきだ。

むしろ、一般家庭における儀式による高額な支出は、構員、会員の経済状況を逼迫させることになってしまう。
そこのところをよく考えてみよ。無用な儀式、無用な戒名、無用な塔婆。それが時代の流れだ。

>一般に、ある特定宗教の信徒団体は、その宗教の信徒の集まりです。
>創価学会が日蓮正宗の信徒団体であるということは、
>日蓮正宗の信徒の集まりなのですから、
>日蓮正宗の教義に従うのは当然のことです。
元々別法人として登録している。そのことに宗門は異論は無かったはずだ。
一宗派の教義に全て従うことに、当然視するほうがおかしい。
学界が宗門を尊重していたのは外護の精神があるからだ。
それが理解できなければ当時の学会の発言の真意は到底理解できない。

>卞氏さんの主張に従えば、学会は宗門と違う教義を信奉していた訳で、
>それは二枚舌であり、本来、日蓮正宗の信徒団体なんかではなく、
>便宜上、日蓮正宗の本尊、教義を借りていただけで、
>本当は、独自教義を持つた宗教団体だつた、という事ですね。

ご本尊は日蓮正宗の独占物などではない。
ご本尊は日蓮大聖人が全ての人に与えられたものだ。
大聖人の仏法。日興上人への系譜。
そして日寛上人の顕すところの教義において、教義において全く宗門と一致していたではないか。
学会はそれをいまでも捨てたわけではない。
邪義を排し、不要な化義は使わなくなっただけだ。
当時の外護の精神において、宗門の化義を尊重するとまで言っているのだ。

我々が信じ奉っているのは、化義ではない。唯一ご本尊のみである。受持即戒である。
教義を比較したいのならば、そこを先ず理解しなければ、ほんとうのことは何にも分からない。意味もない。

931卞氏:2004/09/04(土) 12:27
教義比較のところでも参考になるものがあったが、追い出されたからなぁ。理解できるかどうかも不安だ。
こんなものはいくらでもあるが、タイムリーなのでコピペで引用させていただく。

 ***
 
日達上人の説法「学会の教学に学べ」

【ここにまた学会においては沢山、書きもの、書物が出ています。我々は御書を中心とし、御書を心肝に染めていくということは、僧侶として当然です。しかし我々の御書講義は、先師の講義をいでないのであり、逸脱するということはよくないのである。ある程度進歩的になってもいいけれども、進歩して説明していかなければいけないけれども、それ以上に逸脱するということは、いつか宗祖の教えを間違ってしまう根本になるのであります。】

と、逸脱の危険性を踏まえた上で、続く。

【この点は学会においては御書は十分に、世間的にこれを咀嚼(そしゃく)し、解釈し、自由自在に解釈しております。まことにその点は立派だと思います。どうしても、我々の御書研鑽はどちらかというと訓詁の学、訓詁の学ということは昔、批難されておりますが、訓詁の学になりやすい。ところが学会の人は新しい知識で、世間の新しい考えを持って御書を縦横に解釈しております。大いに学ぶべきであり、学会の本をどんどん読んでいいのである。それは読むなというと、ますます我々が、僧侶がクルミのごとく固く小さくなってしまうにすぎない。大いに学会の本は広布のために出したものであるから、参考にすることができましょう。そして、大聖人の教えを咀嚼(そしゃく)していくということがもっとも大事であると私は常にそう思っておるのです。だから学会の本は大いに読みなさい。】

(「蓮華」48年9月号)・(昭和48年8月30日・第22回教師講習会開講式・総本山・大講堂)

いかに前師が学会を大切にされていたか、窺えるところだ。

教義が違うのではなくて、それぞれ組織としての文化が違うんだ。

932:2004/09/04(土) 12:31
卞氏さんへ(はじめまして)  こちらの皆様が散々語り尽くされていることですが、現役学会員の方がおいでですので質問させて頂きます。
>我々が信じ奉っているのは、化義ではない。唯一ご本尊のみである。
その信じ奉っている本尊とは、どの本尊のことですか?寛師の八界具足曼荼羅ではないですよね?

933鎌龍:2004/09/04(土) 12:40
ちなみに、私は昨日学会の方と話す機会がありましたが、その方は、家にある寛師のマンダラを、蓮師の書かれたものだと思ってました。もっと言うと、弘安二年カイダン板本尊だと思っていました。落ち込んでしまって目もあてられない状態になってしまいました。私も、まだこんな方がいるのだなあと驚きました。

934愚鈍凡夫:2004/09/04(土) 13:33

下氏さん、誰もあなたを追い出したりしていませんよ。
犀角独歩さんは、言い尽くされた事を蒸し返すのが嫌なだけです。創価学会員とは過去ログで散々やり合ってますからね。それに管理人さんは、あなたのレスに不適当な表現があったから削除しただけでしょう。

> いまは法華構でさえ、その儀式のための供養をせびる坊主を嫌い、脱構している人が居る。
> 会員も、構員も、そういうのがイヤなのだ。

逆もまた真なりで、創価学会から法華講に移っていく信者も少なくないと聞きますが。それと、日蓮正宗に僧籍のない坊さんが創価学会の葬式で導師をしている事実がありますが。

> 学会は宗門に寺まで寄進している。正本堂建立の供養も多額にわたる。

創価学会が宗門に寄進した寺は、土地付き3億というのが相場ではなかったですか。しかも、最初から設計図が何通りかできていて、そこから選ばせたのではなかったですか。
だから、創価学会が寄進した寺は、交通の不便な場所にわざと建てられていると聞きますが。それに比べて創価学会の会館は、地方の会館でも3億以上の金を掛けているように見えますけどね。
まあっ、寺院寄進は、創価学会員から金を集める謳い文句としてはうまいやり方ですね。
正本堂だって目録をもらっただけで、実際は現物支給でしょう。多額の金は創価学会に入って、そこから支払ったんじゃなかったですか。


> その儀式程度の収入がなくなったぐらいで、資金源が枯渇すると思っているのほうもおかしい。
> 学会を破門したから収入が無くなったんだ。坊主が嫌われているから、人が減るのだ。
> その法主の愚かさに気づくべきだ。

創価学会が宗門を金銭面で支配しようとしていたのは事実ではないですか?

> むしろ、一般家庭における儀式による高額な支出は、構員、会員の経済状況を逼迫させることになってしまう。

それは同感ですね。今ではさすがになくなったようですが、生活保護家庭からも広布基金と称する財務(寄付金?)を搾り取っていた創価学会ですからね。
小生の地元でも、組織内の世間体と見栄だけで財務をしている会員が大勢いますよ。何十年経っても生活水準は変わらないのに、功徳だ功徳だと大騒ぎしていますけどね。

> 無用な儀式、無用な戒名、無用な塔婆。それが時代の流れだ。

それで、創価学会では有用な友人葬、追善法要を執り行っているというわけですか。言い訳にもなっていないと思いますが。

935愚鈍凡夫:2004/09/04(土) 14:11

本来のつぶやきスレッドとは関係ない議論が進んでますが・・・・・。 (-"-;A ...アセアセ
平和そうかさん、こんなソフト見つけましたよ。

古天文ソフト
http://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/cal/soft.htm

研鑽の補助資料になるかと思います。

936平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/04(土) 15:41
>>935
愚鈍凡夫さん、ご親切に有難うございます。

ちなみに931さんは「卞氏」(べんし)さんと読みます。「卞」は「へん、ベン」
と読み、意味は騒がしい、いらだたしい、せっかち、短気です。「せっかちな人」と
いう意味のハンドル名でしょう。

卞氏さんとは「創価仏法研鑽板」でお会いしたことがありますが、今は私は管理人さん
からアクセス禁止を受けてカキコできなくなっています。私は向こうを追放されたわけ
です。卞氏さんと逆ですね。感情に走った論争にならないようにしましょう。端から見
ていると喧嘩が始まりそうに見えますから。(;´Д`)コワイ!

それでは私は数学や理科の勉強がありますので今日はここで失礼します。

937愚鈍凡夫:2004/09/04(土) 16:21

あっ、
平和そうかさん、有り難うございます(気づきませんでした)。
卞氏さん、HNを間違えてしまいました。済みません。 m(_ _;)m ゴメン!!

938管理者:2004/09/04(土) 17:50

卞氏さん

>追い出されたからなぁ。

当掲示板は、卞氏さんを追い出してはいません。誤解の無いように申し上げておきます。


ご参加の皆様へ

つぶやきスレッドは議論禁止のスレッドです。議論は、内容にふさわしいスレッドを選んで書き込んで頂けると幸いです。

939菱村正敏:2004/09/04(土) 22:20
 わたしは、一回ですね。と言うより、形而上のことでお遊戯する
能力もありません。永遠に存在したいと願うことやそれを説く宗教を
批判するつもりはありません。それはそれで「イワシの頭も信心から」
ということで結構だなと思うだけです。

 ただ、知的障害の方でも、生命や存在について固執して習う方が
いましたので、単に医療関係者や学校教師や介護職員いがいでも
宗教者の側面からの意見やアプローチも必要なばあいがあるのでは
などと思っています。

940大宮:2004/09/05(日) 00:03
なんで去った奴が書いてんだ(呟)

941平和そうか:2004/09/05(日) 17:21
>>935
愚鈍凡夫さん。「古天文ソフト」の紹介本当に有難う御座いました。今日私は628年
から20世紀に渡る近畿から関東の過去の日食の記録と対比してみました。今まで日食
の日時や現象を再現するソフトはあったのですが、その日食現象の開始場所を終了場所、
及びその日食現象が起きる場所を示す帯が出るソフトが無くて困っていたのです。4日
に紹介して頂いたソフトはそれが出るものでした。しかし残念ながら飛び飛びにその現
象を示す段階に留まっている状態でした。例えば628年4月10日の日食は表示され
ますが、637年4月1日の日食は表示されませんでした。重大な問題たる1252年
3月12日、建長4年2月1日の日食のラインと帯は表示されず、日時を指定するとい
きなり1401年3月15日の日食に飛んでしまいます。また近代の日食のラインや帯
も出ないことがあり、例えば1918年6月9日の日食のラインも帯も出ませんでした。
まあこれはまだソフト開発がまだ発展途上であることを意味するものと思います。でも
愚鈍凡夫さんからは貴重な資料をたくさん紹介されて大変感謝しております。

先程「創価学会の教義は日蓮正宗と何処がどう違うか (Res:230)」の犀角独歩さんと卞氏
さんの議論を読ませて頂きました。愚鈍凡夫さんの御意見も拝見しました。犀角独歩さんは
純粋な研究者としての立場、卞氏さんは純粋な創価学会員としての立場から発言していたと
思います。愚鈍凡夫さんは冷静でご自分の意見を述べられていました。

卞氏さんは自分が追放されたものと考えて怒ったのでしょう。独歩さんは卞氏さんの発言が
非礼、無礼に当たると考えて200の削除を管理者に申請したのでしょう。でもあれははっ
きり言ってもう喧嘩ですよ。恐らく卞氏さんはもうここには来ないでしょう。卞氏さんは温
厚な方の人だと思っていましたが、信仰の問題となると違うんですね。

あのスレに私も入ろうとしましたけれども、私は塔婆や戒名など何も知らない者なので入ら
ないことにしました。私は純粋に人文科学自然科学とも科学的な考察によって宗教を考えて
いこうと思っています。ですからここの掲示板が好きなのです。

なお犀角独歩さんが書かれた本が出版されたら直ぐにでも読もうと思っています。

942愚鈍凡夫:2004/09/05(日) 18:09

平和そうかさん、レス有り難うございます。
EMAPの件ですが、日蝕データをデフォルト提供されているデータ(フォルダ内のデータ)を、HPで提供されている日蝕データに書き換えてみて下さい。帯が出ると思います。
小生は、このソフトを使ってみて、「むむっ、お主できるな」というのが正直な感想でした。

943仙台坂:2004/09/05(日) 18:47
平和そうかさん、けんかじゃないでしょ。あんなの当たり前ですよ。証拠の提示を求めたのに対して、無礼な言葉で返したんだから、その段階で議論は成り立たないじゃないですか。
下らない言い合いになるのを未然に防いだわけでしょう。議論をする相手を選ぶ権利はあります。

944仙台坂:2004/09/05(日) 18:57
そうか、ここはつぶやきなんだ。じゃあつぶやこう。自分で去ると言って、じゃあ去れと言われて、追放されたと怒るの変だよ。
止めてもらいたかったわけ。キモいな。自分の言葉には責任もたなきゃネ。

945卞氏:2004/09/06(月) 10:15
怒ってないですよ。この掲示板から追い出されたつもりもない。

彼の受け止め方を知るために、私との対話を拒むつもりならそのスレッドを去ると明言しておいた。
イヤなんだろうな。自分の過去と違う過去を持っている人と話しをするのが。気持ちはわかるけどね。
彼は、「戒名が不可欠」だと教わっていた。私の場合はそうではなかった。それだけの違いが分かれば、十分ですよ。

私が、あそこに何かを書き込めば、混乱するだろう事が予想される。
なぜなら、レスの削除を「管理人による不適当書き込みとの判断」ではなく「管理人からの処罰」であるかのように、受け止めていなかったからだ。
そして、相手に反省を求める姿勢がみられた。謝罪の言葉も無視されたようであった。
私はそういった所に、彼の他人や組織に対する「もたれかかり」を感じた。本人もその自覚のもと、あのようなハンドルをつけていらっしゃるのでしょう。
そして、学会のとある幹部が「戒名は成仏に不可欠」と言ったことを、それが元々本来の冨士派における化義であるかと決まっていたかのような発言も見られた。
そこに疑問の方向が向かないのか、不思議でならない。

そして、彼も対話を拒んだ。
だからあれ以上の書き込みは無理だとおもってやめた。
有る程度で尽くしたことであるなら、なおのこと。事実認識の再構築には時間と本人の「発見」が無ければならないからだ。
それだけのことです。

 ***

あ、そうそう、学会は葬儀をしても、びた一文受け取りません。
宗門の資金枯渇ねらいなどという、せせこましい考えは微塵もありません。
坊主にとってはそれが辛いことなのかもしれませんが、いわゆる葬式仏教は大聖人の本義にあらず。
そのことを忘れての議論に意義は見出せません。

946愚鈍凡夫:2004/09/06(月) 13:56

あっ、ここはつぶやきスレッドだった。(物・物・物・・・・・) ( ̄。 ̄;)ブツブツ

こんなのはどうですか。(独り言です・・・・・。耄碌したかな・・・・・?)

日蓮正宗と創価学会対立の真相 力ずくで宗門抑圧にかかった学会
http://the49.hp.infoseek.co.jp/emyo_t/em1403a2.htm

947卞氏:2004/09/06(月) 16:44
さんくす。
所感を述べる。

謗法の坊主への糾弾による事件をとりあげて、
学会が宗門軽視の姿勢だということに直接結びつけ、批判するのもどうかと思うけどね。所詮批判目的の記事だ。

謗法厳戒のはずだろ?冨士門流は。
謗法まみれの坊主が法主になるとどうなるか。
まさに今、宗門はそのことを思い知らされているのではないかな。

949菱村正敏:2004/09/06(月) 17:34
947

 謗法まみれの坊主が法主になった。ところで、その事実を
創価学会幹部、池田大作たちが知ったのはいつだったと思います?

950空き缶:2004/09/06(月) 17:42

横レスです。

この掲示板は「創価学会の正義を証明」する場では無いと思いますよ。

たとえ葬儀の際に供養を取らなくても、そろそろ「広布部員会」がはじまって、財務を沢山やると功徳が出る話しが巷ではにぎわうのでは?

所詮、一銭もとらないでは発展は無いでしょう。方法は違えどもお金を取ることに変わりはありません。とられる人が一番納得のいく徴収方法であれば、たとえ葬儀の場であろうと塔婆であろうとかまいませんよね。

ここでは聖教新聞や創価新報での情報は殆ど役に立たないでしょう。

951平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/06(月) 17:48
卞氏さん。ちょっと暫くでしたね。「創価仏法研鑽板」で一度お話ししましたよね。
でも私はあの後管理人からアク禁にされてしまいました。もうあそこには行けなくな
ってしまいました。小野さんは「俺は君よりも150回以上幹部から怒鳴りつけられ
ている。甘やかす幹部は君の成長を阻む敵と思え。厳しく叱ってくれる幹部は君を成
長させてくれる味方だと思え」とか先日カキコしていました。それは勿論ですよ。池
田先生の信条ですし私も同じ信条を持っています。でも時と場合に依っては大変なこ
とになってしまうこともあるのですよ。学生部の会合で部長が言ったちょっとした言
葉が1人の部員を激怒させ、退転寸前にまでさせてしまったことがありました。部長
は創価1世で部員は創価2世だったと思います。

でもあの掲示板は研鑽の場にはなってはいないと思います。内容から見ればこの掲示板
の方がずっと濃いし、深く広いと思います。私は創価学会ってこんなに狭隘で排他的な
団体だったのかと思い、深く悩みました。小野不一さんは私に何にも教えてくれません
でした。でも犀角独歩さんや愚鈍凡夫さんはいろいろなことを私に教えてくれました。

卞氏さん。あの犀角独歩さんと論争した掲示板で愚鈍凡夫さんと議論してくれませんか。
ここは「つぶやきスレッド」なので。待ってます!愚鈍凡夫さんは私に理科学に関する
貴重な資料を教えてくれましたし、犀角独歩さんは日蓮正宗の歴史に関する資料を教えて
くれました。でも小野不一さんは何の資料も教えてくれず、ちょっとカキコしただけでア
ク禁とは酷いじゃないですか?

管理人さん。947の削除をお願いします。トリップを入れる時に手が滑って二重投稿に
なりましたので。

952愚鈍凡夫:2004/09/06(月) 17:51

ああ〜っ、今日も暑かった。冷蔵庫に恋をしてしまいそう。

謗法まみれの守銭奴が指導者になるとどうなるか、これが創価学会の姿ってところですかね。
金と数にモノを言わせて、強引に押し切る体質は今も昔も変わらないと言うことでしょうか。

それにしても最近、独り言が多くなったな・・・・・。気を付けよう。

953平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/06(月) 17:54
管理人さん。失礼。948の削除でした。

>>949
菱村正敏さん。
私は全然知りません。いつですか?

954平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/06(月) 18:17
>>952
愚鈍凡夫さん。今晩は。いろいろ資料を教えて頂いて有難う御座います。
あの「古天文ソフト」は機種に依って難しい問題がまだあるそうです。でも
あれを開発した人、2名は相当な努力家ですね。
私はまだ1951年以前の日食現象資料を入れることができないんですよ。
あの1252年に蓮祖が御覧になったかも知れない日食のラインと帯を早く
再現したいですね。あのカレントメイトでも私は悪戦苦闘していましたからね。
パソコンの勉強と受験勉強は並行は無理ですね。(;´Д`)ムネン

ああそうだ。愚鈍凡夫さん。犀角独歩さんとバトンタッチして、卞氏さんとあの
板で議論して頂けますか。

955愚鈍凡夫:2004/09/06(月) 18:58

平和そうかさん、レス有り難うございます。
つぶやきスレッドでレスを返すと管理人さんに叱られそうですが・・・・・・。
EMAPの能力を引き出せるようになるといいですね(ソフトが古い分、OSによっては相性が悪い場合もあるかも知れません。解凍して、データを上書きすればOKのはずですよ)。

尚、卞氏さんとの件は、卞氏さん次第です。

956平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/06(月) 22:55
愚鈍凡夫さん。今晩は。本当にお世話になっています。なお卞氏さんはここにいます。
私も先日までここにいましたが、追放されてしまいました。他宗の人も入室可とのこと
ですので、一度管理人の小野不一さんと議論されてはどうかと思います。小野さんは4
1歳と言っていました。卞氏さんもここにいます。
             ↓
http://jbbs.livedoor.com/study/3764/

959愚鈍凡夫:2004/09/06(月) 23:37

平和そうかさん、ひょっとして何か企んでますか。 ( ̄〜 ̄;) ウーン
ご紹介の掲示板は、以前鬱病で悩む人がレスしていたので二度ほどレスした記憶があります。
それ以来、興味がないので覗いていませんが。
あまり評判は良くないようですね。IPを無断で流しているとか、カキコするとスパイウェアを送られるとか、余所の掲示板にレスがあったと思います(真偽のほどは分かりませんが)。

960犀角独歩:2004/09/07(火) 02:59

誤解があるようなので、記しておきます。
わたしは戒名の必要を論じたことなど、ただの一度もありません。「戒名が不可欠」であると石山にいた時代に習ったのは事実であるが、いまはそれを肯定する立場にありません。
中世、禅宗の影響によって成立し、日本仏教全般に使われるようになったものだという認識です。

そもそも、わたしはここで投稿することを富士の、なかんずく石山化儀と異轍があると批判されるのであって、わたしはそれをを肯定していません。人の過去のログも読まず、決めつけて見当はずれの論評することは非礼を恥じない以上に無礼千万です。

わたしが言っていることはそんなことではなく、化儀改変をした創価学会の現在の戒名不用論・僧侶導師廃止は普遍性がなく、不誠実であると言ったまでです。
それに対して、戸田さんは昔から戒名不用を言っていたと。ならば、その証拠を挙げろと言うにつけ、それに挙証もせず、哀れ・信心が浅いなどという暴言を吐くに至ったので、このような礼節を弁えず、証拠も挙げない人間とは語る無駄な時間を労さない、自らの言葉に随って、この場を去るべしと促したわけです。それにも拘わらず、自己の前言を翻し、相も変わらず、投稿をしているのには呆れるばかりです。

だいたい、2004/09/04(土) 12:27に「追い出されたからなぁ」(931)と記しておきながら、それからわずか2日後、2004/09/06(月) 10:15に「追い出されたつもりもない」と、これまた言葉を翻しています。このような一貫性のなさでは、およそ議論など不可能です。

「二言無し」と潔くあられたい。945の如く、わたしをサカナに的はずれのご託を記すことはやめていただきたい。ここに忠告しておきます。まるで見当はずれの憶測で実際と異なる悪宣伝は人権侵害です。度重なれば、わたしはまた投稿削除を求めます。

961愚鈍凡夫:2004/09/07(火) 09:22

今日も朝から地震。明日は台風がきそうだし、
「どないなっとんじゃ〜ッ」とつぶやいてみる。
「オイオイ、つぶやきかい」(by 外野席) (▼▼メ)

962卞氏:2004/09/07(火) 09:26
平和そうかさん宛のメッセージゆえ、反論を禁ず。

>あの犀角独歩さんと論争した掲示板で愚鈍凡夫さんと議論してくれませんか。
私は論争も議論も望んでません。
ただ、自分が受けた不誠実を学会がそうであったかのように言っていたので、話をして確認をしたかっただけです。
その方が話をしたくないと言ったのですから、こちらとしては追い出されたようなものですよ。

>ここは「つぶやきスレッド」なので。待ってます!愚鈍凡夫さんは私に理科学に関する
貴重な資料を教えてくれましたし、犀角独歩さんは日蓮正宗の歴史に関する資料を教えて
くれました。
そうですか。別にココじゃなくても、資料は得られますよ。

>でも小野不一さんは何の資料も教えてくれず、ちょっとカキコしただけでア
ク禁とは酷いじゃないですか?
あそこは、オフライン重視型の板ですからねー。純粋な討論の場というわけじゃないので、場違いだったということじゃないですかね。

963卞氏:2004/09/07(火) 09:49
彼には謝罪したが、謝罪の言葉は聞き入れられなかったようだ。
戸田先生が戒名不要と言っていたことについても、知っているのか知らないのかというレベルにおいて、
資料を求めるくらいなのだから、よほどの議論好きなのだろう。

 ***

師弟がない。分からない人が多い。
師弟関係になにか奇異に感じている人が多いのが実情だ。
昔からの文化にしろ、なんにしろ伝統というものは、この師弟という関係によってのみ受け継がれている。

 ***

ココは創価の正義をなんたらって、コメントがあったな。
何の話だろう?

964卞氏:2004/09/07(火) 09:55
>>934について
管理人様。
冒頭はともかく、
以後の内容は、スレとして不適当とおもうのですが。如何ですか。
このスレの趣旨を再確認しとうございます。

965空き缶:2004/09/07(火) 10:20
広布部員会の件は、よほどきいたみたいですね。

966愚鈍凡夫:2004/09/07(火) 11:02

戸田さんのジョークを真に受ける分にはかわいげがありますね。
でも、戸田さんも立派な戒名を貰ってますから、ご家族はさぞお喜びだと思います。
内容のないカキコの羅列だから、つぶやきでいいんじゃないですか。

967管理者:2004/09/07(火) 11:27



卞氏さん

>930 下記のような書き込みがあったようだが、追い出されたので返答は控える。
あくまでも、つぶやき。

として、つぶやきの形で所感を述べられたことに対して、934レスもやはりつぶやきとして掛かれたものであると解釈して、いずれも管理者は黙認し、そのかわり、

938に、管理者として、

「参加の皆様へ つぶやきスレッドは議論禁止のスレッドです。議論は、内容にふさわしいスレッドを選んで書き込んで頂けると幸いです。」

と、ご注意とお願いを申し上げました。

出来れば、元々のスレッドにて議論していただきたいと言うのが管理者の意向です。ただ、流れもありますので、ある程度のことは黙認するしかないかな、と思っています。

968管理者:2004/09/07(火) 11:29

訂正です。

× つぶやきとして掛かれた
○ つぶやきとして書かれた

970犀角独歩:2004/09/08(水) 10:31

ほかに投稿をしては脈絡が解らなくなるので、致し方なく、こちらで呟く形を採ります。

誤解があるようなので、記しておきます。
わたしは戒名の必要を論じたことなど、ただの一度もありません。「戒名が不可欠」であると石山にいた時代に習ったのは事実であるが、いまはそれを肯定する立場にありません。
中世、禅宗の影響によって成立し、日本仏教全般に使われるようになったものだという認識です。

そもそも、わたしはここで投稿することを富士の、なかんずく石山化儀と異轍があると批判されるのであって、わたしはそれをを肯定していません。人の過去のログも読まず、決めつけて見当はずれの論評することは非礼を恥じない以上に無礼千万です。

わたしが言っていることはそんなことではなく、化儀改変をした創価学会の現在の戒名不用論・僧侶導師廃止は普遍性がなく、不誠実であると言ったまでです。
それに対して、戸田さんは昔から戒名不用を言っていたと。ならば、その証拠を挙げろと言うにつけ、それに挙証もせず、哀れ・信心が浅いなどという暴言を吐くに至ったので、このような礼節を弁えず、証拠も挙げない人間とは語る無駄な時間を労さない、自らの言葉に随って、この場を去るべしと促したわけです。それにも拘わらず、自己の前言を翻し、相も変わらず、投稿をしているのには呆れるばかりです。

だいたい、2004/09/04(土) 12:27に「追い出されたからなぁ」(931)と記しておきながら、それからわずか2日後、2004/09/06(月) 10:15に「追い出されたつもりもない」と、これまた言葉を翻しています。このような一貫性のなさでは、およそ議論など不可能です。

「二言無し」と潔くあられたい。945の如く、わたしをサカナに的はずれのご託を記すことはやめていただきたい。ここに忠告しておきます。まるで見当はずれの憶測で実際と異なる悪宣伝は人権侵害です。度重なれば、わたしはまた投稿削除を求めます。

971卞氏:2004/09/08(水) 10:55
管理人様。
了解いたしました。
掲示板の趣旨について、管理人さんの意向を尊重いたします。
もし、行き過ぎたようでしたら、何なりとおっしゃって下さい。

972卞氏:2004/09/08(水) 11:32
過去の書き込みの訂正です。

なぜなら、レスの削除を「管理人による不適当書き込みとの判断」ではなく
「管理人からの処罰」であるかのように、受け止めていたからだ。

ですね。訂正します。

 ***

タイミングによるのでしょうけれど、さして何気なく書いた記事について、
自分のことを言われつづけているかのように思ってしまうものですが、
特定の人をさしての話ではないことを断っておく。

さて、

レスの削除を「管理人による不適当書き込みとの判断」ではなく
「管理人からの処罰」であるかのように、受け止めていたからだ。

わたしは、こういう所にいわゆる「もたれかかり」を感じてしまう。
これは、ちょっと以前には気がつかなかったことだが、
体制のもとに自分の権利が庇護されているという勘違いがあるのかもしれない。

 ***

つぎは、ひまな人向けの問題提起です。この意味を理解し答えられる人が居たら、つぶやいてみてください。

【自分は論じていないといいつつ、やっぱり論じているじゃないか。それは二言といわないのか?】

973平和そうか:2004/09/08(水) 14:57
昨日はこの掲示板が真っ白で全然読むことができませんでしたが、どうしたんでしょうね?
マハーバイロさんも言っていましたよ。パソコンの故障かなと思ってしまいました。

974卞氏:2004/09/08(水) 15:06
根拠なしの発言についてはどうしたものかな。
おまいさん、見てきたのか?自分で当事者に聞いてきたのか?といいたくなるものがある。
知らない人が見たら、本当かと思うだろうよ。自分の論評に自信があるなら尚のこと、訂正するべきところは責任もって訂正すべし。

「文証」をだせ、といえば、出せるのだろうな。記事になったものだし。
その記事自体になんの根拠も無いということに気づいて欲しいものだ。

975卞氏:2004/09/08(水) 15:17
塔婆商法、戒名商法など、もはや宗教ではない。

戒名など、付けたければ自分で付ければよいじゃないか。元手は要らないからね。
塔婆だって、故人を荘厳する意味であれば寺に決めてもらう必要などはない。
寺の坊主などよりも生前の故人のことは、私が良く知っている。

そうそう、法華構の方々も、ミニ塔婆に人気があるそうで、
坊主の高額な塔婆は要らないということらしい。まあ、時代の流れだね。

976平和そうか:2004/09/08(水) 16:45
戒名なんて要りませんよね。僧侶に拝んでもらわなければ成仏しないとか、卒塔婆を立てなければ
亡くなった人が良い境涯にならないなんてことも聞いたこともありませんしね。

人の来世はその人の死の瞬間に決まるのです。死の瞬間の生命の状態で来世が決
まるのであって、死んだ後に拝んで貰って来世が決まるのではないのですよ。

977犀角独歩:2004/09/08(水) 17:51

> 974

こんな自己反省はなかなかけっこうなことです。

978犀角独歩:2004/09/08(水) 17:56

平和そうかさん、ここはつぶやきなので、議論ではないのですが、わたしもかつて、「人の来世はその人の死の瞬間に決まるのです。死の瞬間の生命の状態で来世が決まる」、こんなふうに信じていました。しかし、本当にそうなんでしょうかね。

979平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/08(水) 18:15
『草木成仏口決』御書1338〜1339頁「妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情
の成仏なり、有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏
の事なり、其の故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木
成仏なり」

この御文を以て塔婆を立てないと成仏しないとする解釈は拡大解釈ですね。

犀角独歩さん。お久しぶりです。独歩さんと卞氏さんの議論?を興味深く読ませて
頂きました。戒名も塔婆も江戸時代以前の旧来のしきたりに依って存在していたん
ですね。創価学会は日蓮正宗の信徒団体であったため、そのしきたりに従っていた
んですね。でもこのことは形式的なことで仏法の本質とはまるで関係がないことで
すよね。でも犀角独歩さんも怒ると怖いですね(笑)。

卞氏さん。愚鈍凡夫さんと他のスレで議論してはどうですか?イヤですか。

980犀角独歩:2004/09/08(水) 18:30

平和そうかさん、戒名が形式というのはいまの創価学会のアナウンスでしょう。わたしがいた寺院は、かつて参詣者の99%は学会員でした。その寺院の年間の塔婆数は数万体もありました。それら学会員による塔婆建立をわたしは形式であったと思いません。道念からであったのでしょう。いまは変わってしまったと言うだけのことです。変わったあとの思いを、変わる前に当て嵌めると読み違えることになります。

わたしも多く塔婆を建てました。けれど、形式であったと当時、思っていませんでした。故人を思い、追善供養の思いからです。しかし、いまはそんな法式を採ろうと思いませんが、塔婆を建てる心情を形式だと唾棄する気にはなれません。それぞれの思いが籠もっているからです。

それと、議論は各人の自由に属することでしょう。
また、愚鈍凡夫さんの議論の在り方は、挙証に対して、挙証で答えるという誠実な方法です。挙証義務を励行できない人間にはできない相談です。

981平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/08(水) 18:58
犀角独歩さん。私は2ちゃんねると言うサイトでそのことについて詳しく書いて来ました。
2ちゃんねるの理系全般という板の「死を本気で考える」というスレの206で私の死生観
を書いておきました。犀角独歩さんも創価学会中等部、高等部、学生部員であられたそうで
すのでそのような指導を受けられたと思います。私は人の生と死の問題は動物も含めて、科
学で解明すべき課題であると思っています。私なりの持論ですが、人の生命は現世1回では
なく連続すると思います。また人は人に犬は犬に、鳥は鳥に、魚は魚に、蜘蛛は蜘蛛に再生
すると思っています。

それは生まれたばかりの渡り鳥が自分の故郷に返っていく不思議、産卵後の親鮭の死と産卵
に際して鮭が自分が生まれた川に帰っていく不思議、蜘蛛が親から教えられないのに、親と
同じように糸を張る不思議などから、推測されると思います。彼らは生まれた時に既に前世
の記憶を持っているのではないか。だからそうすることができるのではないかと私は思って
います。人間の子供にも前世の記憶はあるが2、3歳ぐらいで消滅してしまうというアメリ
カの学者もいます。アメリカのバージニア大学医学部教授のイアン・スティーブンソン博士
の『前世を記憶する子どもたち』日本教文社 を読むと深く考えさせられます。

私が2ちゃんねるで書いた文章を今引っ張ってきますので、もう暫くお待ち下さい。

982犀角独歩:2004/09/08(水) 19:03

981 平和そうかさん

この件に関しては、お知りおきかどうか存じませんが、わたしは問答さんがお作りになった他のページで、やや議論を始めていたものでした。
いまは止まってしまって残念に思っています。

pundarika
http://jbbs.livedoor.com/study/3050/


いずれにしても、ここは‘つぶやき’です。
この話題は他のスレッドに移動するか、あるいは pundarika でお話ができればと希望します。

983平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/08(水) 19:07
犀角独歩さん。
これです。これが私の生命観です。私はこの一生を賭けてもこの謎を解明したいと思っています。
          ↓
206 :Nanashi_et_al. :04/09/03 15:57
>>1
>死んだらどうなるだろうか?

無になる。しかし永久に無の状態が続くのではない。我々は無から現在の有の状態
になったのだ。精子と卵子という微少細胞だったあなたは、受精卵の胚ができた時
に有となったのだ。死は生まれる前の無に戻ることだ。あなたが無になってもあ
なたを生み出した人類という種は断絶していない。川に浮かぶ泡ができて消えても、
川が存在する限りまた泡を生み出す可能性は残されているのだ。

死は一個体の消滅であるが、その個体を生み出した人類という種が存続している限り、
再生の可能性は残されているのだ。

宇宙もビッグバン以前は無であったが、時間も空間もない真空の無の中にエネルギー
が生じ、ビッグバンを引き起こしたのだ。宇宙はいずれ無に戻る。それはビッグバン
以前の状態に戻ることなのだ。無から有が生じたのならば、再び無から有が生じる可
能性は残されているのだ。

だから自殺したら永久の無意識の安楽が自分に来ると考えるのは早計である。

なお文章の一部は雖念さんの御指摘があったために書き変えてあります。

984愚鈍凡夫:2004/09/08(水) 19:15

平和そうかさん。
ここの掲示板なら、「生命主義、生命論について」のスレなんかどうですか。
顕正居士さんたちも参加下さるかも知れませんよ。

985平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/08(水) 19:17
今直ちに行きます!

986空き缶:2004/09/09(木) 02:22

立派な塔婆に価値を感ずる人もまだまだ多いようです。

人それぞれですから自由なことです。金だけ取るより塔婆でも戒名でもあったほうがまだましですから。

受け付けに封筒よりも、賽銭箱のほうが庶民的だし。

一口一万円、目指せミケタ(100万以上の財務のこと)ではね。塔婆や戒名よりもたちが悪いかも。

これが「嘘」だとか言う人はニセ学会員です。

ミケタの体験、ミケタの決意が巷で聞かれはじめるころ、特にご婦人の間では。

987卞氏:2004/09/09(木) 13:54
坊主は坊の主の意味であるから、第三者としての呼称は「坊主」でいいんだよ。
坊主様、坊主殿、御坊主、坊主先生。などと敬称をつけるのは誤った表記です。

988卞氏:2004/09/09(木) 14:35
「塔婆供養の原理についていえば、人が死ぬと宇宙の生命に溶けこみます。
『色心の二法であるゆえに』、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、
聞いた題目が生命に感じて業が薄くなり、苦悩を少なくし『うる』のです」

戸田先生の言は生命論を根底にしていることがうかがえますね。
まあ、この指導から、「塔婆は成仏に不可欠」という義は見出せません。
そして立てたのだから故人が成仏するとも言っていないんですね。遺族が信心を全うすることこそが鍵なのだ。
前後をよく読んでおくように。(そこに文献学者の陥る落し穴がある。)

「しうる」だから、塔婆を供養する儀を行うことによって、その業を軽くする可能性を言ったものですね。
塔婆自体に功力があるのではなく、塔婆をを立てた人の心が主体になっている。ここが大事だ。

もちろん「塔婆はなくともよい」ということと対立するものでもない。もともと「塔婆があってはならない」ということでもない。
遺族の信心の回向が、塔婆供養という形態で行われればそれで良いのだ。

『年に一回やらなければ成仏しない。』『月に一回やら無ければ成仏しない。』は邪義・邪説の類。形骸化は宗教の死滅。
塔婆に原価以上の対価を求め、成仏の度合いをはかろうなどというのは、霊感商法の類。

 ***

最近は、葬儀の形態も様々で、必ずしも坊主を必要としない葬儀もあるようだ。
坊主は如説修行をしてこそ、尊敬される。
自分の所属寺の坊主が、金に汚い人間かどうか、ちゃんと見極めよう。言いなりにならぬよう。

 ***

平和そうかさん。

良いところ見つけたみたいですね。

989卞氏:2004/09/09(木) 15:30
チョッとした事で侮辱されたなどとすぐ怒るくせに、他人様の批判はしゃーしゃーとやってのける、こんな阿呆がいる。
結構頭がいいヤツなんだけどな。そのわりに周りから敬遠されている。やたら正義ぶるところもあるが、
そうやって自尊心を異常に高くしているから、どこかに壁をつくっているからかもしれない。
自尊心は大事だが、見栄にはしるとちょっと浮いているようにみえる。

舎利佛の過去世としての身子菩薩。
行を立てしに乞眼の婆羅門・・云々。
布施修行をしていて、その短気がたたって退転したという説話は、
みな知っているだろう。舎利佛とは二乗の代表である。頭がいいのである。
でも退転するのである。バラモンに罵られたことで、その仏道を閉ざしてしまうのである。

自分が賢い、間違っていない、貴方などと自分とは違う。などと思っている人は要注意だ。

990管理者:2004/09/09(木) 18:16

皆さん、都合により、しばらくの間、当つぶやきスレッドは閉鎖いたします。

991管理者:2004/09/22(水) 10:50

皆さん、当スレッドを再開いたしました。ご利用下さい。

992samidare:2004/09/22(水) 13:40
―再開を祝して、ひと言つぶやかせて戴きます。

日蓮・組織信仰者で「敬虔な信仰者」を一度も見たことないなぁ ・・・(-。-)ボソッ

993問答迷人:2004/09/22(水) 14:00

samidareさん 

ご無沙汰してます。ご迷惑掛けました。ごめんなさい。

994犀角独歩:2004/09/22(水) 15:02

samidareさん、お久しぶりです。
わたしも同様に思います。さらに言えば、他者批判で吐く言葉が、発言者本人の自己反省としか採れないことがしばしばあるのは何故なんだろうと不思議に思っています。

995孤独な迷子:2004/09/23(木) 17:39
samidareさん

お帰りなさい、五月雨さん。
お元気そうで何よりです。

尻切れトンボになってしまった、迷子より。

996卞氏:2004/09/24(金) 16:34
本音を表現するのに、「日顕」ではダメなんだと。
では、「日顕君」にでもしようか。「日顕ちゃん」ううむ、悩む。
「日顕と名乗る人」というのはどうだろうか。法主も詐称した経緯があるから、法主とも呼び辛い。
しかし愛着の湧かない呼び方だなー。

「阿部のヤロー!」というのはやめておこう。これはさすがに管理人に怒られるから。

現法主日顕さん。はやく退座してください。信者のためです。

997管理者:2004/09/24(金) 18:01

阿部管長、阿部日顕管長、日顕管長、阿部氏、阿部日顕氏、日顕氏。まぁ、こんな所だったら、差し障りが無いのではないか、と思います。僕だったら、一番しっくりくるのは、阿部管長かな。

1000藤川一郎:2004/09/25(土) 00:33
>現法主日顕さん。はやく退座してください。信者のためです。

横レスですが、気になったので一言。
私の記憶が確かならば、卞氏さんは創価学会の方だったと思いますが、日顕上人は日蓮正宗の法主であり、創価学会の法主ではありませんよ。
もしかして、創価学会に同名の方がおいでになるのでしょうか。
もし大石寺の法主の事でしたら、人の宗派の人事に口を挟むのは越権行為では無いでしょうか。
常識的におかしいですよ。

1003雖念:2004/09/26(日) 16:48
管理人様:

素朴な疑問が1686以下が表示されません。
以下は、素朴な疑問に投稿予定であった文書です。

教えてください。

(国)文学史では、通常上古は「大化の改新ごろまでの古代」、中古は平安時代を意味します。

当掲示板(日蓮宗?日蓮正宗?)での上古・中古の用法は、明らかに国文学史のそれとは違うようですが、それぞれどの時代(どの事件を区切りとするのか)を指すのか教えてください。

1004犀角独歩:2004/09/26(日) 19:06

> 1003

横レス恐縮ですが、この件につきましては、既にみかんさんが疑問が呈され、僭越ながらわたしがお答えしたことがありますので、ご紹介いたします。

以下に質疑応答がありました。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/707-709

1005藤川一郎:2004/09/26(日) 19:09
雖念さん
私は表示されていますよ。
いま、したらばの掲示板にはサーバー上ときおり問題が生じることがあるようですが、様子を見れば戻りますよ。

PS、したらばを管理する今をときめく「ライブドアの社長」に苦情言いましょうか(笑)。

1006雖念:2004/09/26(日) 21:13
独歩さん:

ご教示ありがとうございました。
すると、「中古天台口伝法門」「中古天台本覚思想」「中古天台教学」の「中古」は、平安時代でいいわけですね。
 中古のほうが、上古よりも古いわけですが当スレッドで見る限り、「中古天台」という用例しかないので、混乱の恐れなしということで、よろしいのでしょうか。

藤川一郎さん:

ご教示ありがとうございました。しかし、この掲示板があのライブドアに運営されていたのにはおどろきました。

1007犀角独歩:2004/09/26(日) 23:27

雖念さん:

中古天台を平安期から置くか、ということは他の碩学の方のご意見を窺いたいと思います。
その語意が示す期間は、かなり幅があるように思えます。

いちおう、わたしのサイトには以下の文章を置かせていただいております。

執行海秀著『中古天台教學より日蓮聖人の教學、ヘの思想的展開(1)』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_005.html

相承略系譜
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/honkakukeihu.html

1008卞氏:2004/09/27(月) 11:29
>もし大石寺の法主の事でしたら、人の宗派の人事に口を挟むのは越権行為では無いでしょうか。
>常識的におかしいですよ。

基本的にはレスは無視しますが、勘違いされているようなので。

 ここは、人事に異議を申し立てるスレではないはずですよ。

やめて欲しいと願っているだけです。

1009藤川一郎:2004/09/27(月) 13:31
卞氏さん
貴殿も勘違いしているようですから一言
「自分と無関係の他宗の法主(代表者)」に「やめてほしいと願う」ことが越権(僭越)だと申し上げたのです。
それ以外の他意は全くありません。

※例として申し上げますと
「三井住友銀行の社員が、東京三菱銀行の頭取に辞めて欲しいと願うこと」
「楽天の社員がライブドアの社長に辞めて欲しいと願うこと」
以上が常識的に僭越だということはお分かりでしょう。

1010犀角独歩:2004/09/27(月) 13:48

では、わたしが僭越に一言。

池田さんにはやめてほしい、創価学会は解体してほしい、公明党は解散してほしい。

三言になってしまいました(大笑)

1011藤川一郎:2004/09/27(月) 15:19
そういえば、今日も親戚が聖教新聞の啓蒙にやってきた。
料金を全額出すから、6ヶ月とって欲しいそうである。
彼が近所の婦人部のおばちゃんがうるさいから何とかしてくれと頼むので、名前だけ貸してやった。
これも創価学会の勢力拡大の手伝いになるのかな(つぶやき)。

1012卞氏:2004/09/27(月) 16:47
自分と無関係じゃあないです。おなじ、大聖人の仏法を修する者同士。
なんの遠慮がありましょうか。それとも他人行儀でもよいから放っておけばよい
とでもいうのでしょうか?

そして、苦しめられた人間として、辞めて欲しいと願うのは、それは当事者だからですよ。
そしてまた、苦しめられている人へと共感を寄せるから、辞めて欲しいと願うのです。
人の幸せを願うことが越権なのか?他意がないなら、レスとしての書き込みは控えてもらいたいものだ。

 ***

さて、越権行為という言葉に準じてつぶやく。

宗門では信徒が僧侶に「物申す」ことが出来ない決まりごとがあるようですね。
それは越権行為だからなのでしょうか。
宗門に言わせれば、自分のところの構にさえ越権だというのだから、破門した学会などもまさに越権なのでしょうね。

1013問答迷人:2004/09/27(月) 16:56

宗門にどんな決まりごとがあるか知りませんが、ある支部の講頭が、「クロウ裁判の控訴審は勝ち目が無いから、取り下げてはどうか」と阿部管長に手紙を出したら、講頭罷免を所属寺院の住職から言い渡された。巨人のナベツネさんより酷いよね!発想は「信者如きが何を言うか」なんだと思います。

1014西武池袋線:2004/09/28(火) 21:28
はじめましてm(__)m問答迷人さん、唐突で申し訳ありませんが、御法主日顕上人がそんな一講頭にそのような処分を下された根拠はおありなのでしょうか?当方には全く情報がありませんので何とも言えないのですが、公開出来る範囲で教えては頂けないでしょうか。

1015togosi:2004/09/28(火) 22:51
日顕さんだって、池田さんだって、浅井さんだって、み〜んな一緒
そろってやめなさい。みんなそれぞれ思っていますよ。それを自分のところだけ正しいって、ほかの暖帯のこと書くから、自分のことが見えない「アホ」と笑われるわけですよ。
問答さんみたいに自分の所属していた団体を書くなら、まだしも、所属している団体以外のこと書くから「アホ」なやつと笑われるんだね。
ぼくは創価学会、池田さん、さらに言えば、戸田さんなんて大っきらいですね。
つぶやきだから、なに書いてもいいんだよね。

1016問答迷人:2004/09/28(火) 23:08

>西武池袋線さん

お疑いでしょうね。だけど事実です。僕は、その講頭がゲイカに出した文書を持っています。まぁ、これ以上書くと、その支部講頭が誰なのか、ばれてしまいますから、ご勘弁下さい。

1017西武池袋線:2004/09/29(水) 17:49
問答迷人さんに再度お伺い致しますが、本当にその方は御法主上人から、講頭罷免と言う処分が通達されたのですか?御本人様の文面をお持ちだと言う事ですが、それがかくたる証拠に当たるのですか?どこの支部かは見当も付きませんが、宗門側がまるで信徒に権威を降りかざす問答迷人さんの先にの内容は疑念もたざるを得ません。そのお話が噂話や作り話ではないのならば今一度、その経緯を御説明して下さい。

1018問答迷人:2004/09/29(水) 18:11

西武池袋線さん

まぁ、止めておきましよう。ここは、つぶやきスレッドです。正面切って言いたくないから、つぶやきスレッドに書いたまでです。これ以上書くと、差しさわりが大きすぎます。ご容赦願います。

重ねて言いますが、これは全くの事実です。そういうことが有ったか無かったか、宗務院庶務部副部長の阿部信彰師に聞いて見られれば良い。この件、師が担当しておられます。

1019西武池袋線:2004/09/29(水) 23:37
問答迷人さん、私自身で本山大石寺内事部、所属寺院の御尊師、また講頭さんへこの件について問い合わせをいたしました。しかし、どの方々にお聞きしても答えは同じ「そう言った事はないし聞いた事もない」と仰せでした。と、言う事は、私は騙されてる訳なのでしょうか。阿部信彰御尊師に聞けば良い、とおっしゃり切り捨てておりますが、そんなひどい事をされたのなら堂々と面と向かってお話下さってもよろしいのではないですか?納得はいきませんね。スレッドが違うならば、移動しても結構ですから指定してください。

1020問答迷人:2004/09/29(水) 23:55

西武池袋線さん

個人のプライバシーに深く関わる事です。公開は差し控えさせてください。御理解賜りたく存じます。ごめんなさい。

1021西武池袋線:2004/09/30(木) 00:40
問答迷人さん、でしたら1013でおっしゃられてる貴殿の説は御自身が管理者ならば削除または訂正をされた方がよろしいのでは?そんなに深く個人のプライバシーに関わる事にしては随分お気楽な内容に見えます。またその信徒さん(現在は知りませんが)のプライバシーを守るならば、お名前を出された御尊師のプライバシーもあるのではないでしょうか。私もそちらの御尊師が住職されてるお寺が近いですからこのページをプリントアウトしましたので持参し近々お話させていただきます。

1022問答迷人:2004/09/30(木) 06:44

西武池袋線さん

>1013でおっしゃられてる貴殿の説は御自身が管理者ならば削除または訂正をされた方がよろしいのでは?

当掲示板では、個人情報の取り扱いについて、以下のようになっています。

2 他人の個人情報(実名、住所、年齢、電話番号、メールアドレス、家族構成、勤務先情報、等)を、掲示板で公開してはならない(ペンネーム、ハンドルネームと実名を特定させるような書き込みを含みます)。但し、以下の一から五については、この限りではない
  
  五、本人の依頼による場合。

1013の書き込みは、その方からの依頼によるものです。

>お名前を出された御尊師のプライバシーもあるのではないでしょうか

信徒の役職を罷免すると言うのは、宗務院庶務部としての措置であり、その担当者名を公開する事は、何らその方のプライバシーには関係しません。誤解なきように願います。

>私もそちらの御尊師が住職されてるお寺が近いですからこのページをプリントアウトしましたので持参し近々お話させていただきます。

了解です。真実が明らかになる事ですので、喜ばしい事だと存じます。また、その面談の結果を当掲示板にて、皆さんに公開して頂けると幸いです。期待してお待ち申し上げます。

1023犀角独歩:2004/09/30(木) 06:57

これは楽しみですね。「正義感」に溢れ、「破邪顕正」の精神を守る「日蓮正宗のご僧侶」は当掲示板をご覧になれば、当然、投稿してその「非」を糺してくれるでしょう。
近々信彰さんの投稿を見られると言うことですね。
早いところ、ご本人に当掲示板と、該当の管理人さんの投稿を見せて、この場に事の実否を告げる投稿をして貰いたいものです。

1024問答迷人:2004/09/30(木) 07:07

ご本人より、以下の辞表と、辞任にいたる経過を書き込んで欲しい、との依頼がありましたので、書き込みます。なお、寺院名、氏名は伏せてありますが、宗務院が事実を認めなかった場合は、実名を公開して貰っても良い、との依頼を受けております。

辞  表
○○寺信徒 ○○○○  

右の者、左記の理由により、法華講○○寺支部副講頭の任を本日付を以って辞めさせて頂きます。

理由 
日顕上人猊下様に、クロウ裁判の控訴を取り下げられた方がよろしいのではないか、との意見を七月十七日付けにて、書面にて申し上げましたところ、八月十八日、御住職より、「宗門の方針と意見の異なる者が副講頭、並びに講頭代理の任にあることは、好ましくないので、辞任してもらいたい。」との宗務院の御意向が伝えられ、御住職からも、辞表の提出を求められたため。

○○寺御住職 ○○○○ 御尊師
平成十三年八月二十日

なお、正確には、上記の通り、副講頭で講頭代理だそうです。謹んで訂正いたします。また、この辞表は、猊下様に提出したお手紙と共に支部役員会にて配布し、なぜ辞任するのかという理由説明を行い、支部役員より了承されたものです。さらに、その次のお講のあと、御住職より、「講頭を罷免する」と発表されたものです。

1025西武池袋線:2004/09/30(木) 07:52
犀角独歩さん、その御尊師がこちらへ投稿されるかは私からは何も言えませんので、過度の御期待は御遠慮下さい。しかし犀角独歩さんのHN、お名前や実態は一部御僧侶方も把握されておりました。聞かされて思い出したのですが私も以前、もう随分前になりますか、直接はお話しませんでしたが、あなた様にお目にかかった事はありました。ここを少々閲覧させていただきましたが、まぁ月日が経つと人も随分変わって行くのですね。お互い(笑)いずれ私の身分は明かします。とりあえずお元気でなによりでした。

1026西武池袋線:2004/09/30(木) 08:17
問答迷人さん、何か内容的に変わってませんか?御法主上人または宗門直々に処分を下し、宗門側から一方的に罷免されたかのような内容でしたよね。内容はどうあれ辞表を提出したのではないですか。書面をご自身で起こされて罷免された、と。ただ単に引責辞任ではないですか。

1027犀角独歩:2004/09/30(木) 08:20

西武池袋線さん、あなたはわたしがご存じの方だと言うことですか。
では、もったいぶらずに本日にでもメールでもお寄せください。
電話番号も、すぐにお知らせいたしますよ。お話いたしましょう。

しかし、「実態」とは穏やかな表現ではありませんね。
メールではその石山僧が語るところをご通知いただけませんでしょうか。事実と食い違うことがあれば、ご本人に直接、メールなり、文書を以てご通知申し上げることといたしたいと思います。さらに10月中に『必携 図解 大石寺本尊の鑑別』を上梓する予定です。
これは顕師にも贈呈するつもりでおりますが、わたしのことを語ったという石山僧にも贈呈したいと思いますので、どなたであるか、ご連絡をいただけませんか。

西武池袋線さんにおかせられては、以下のわたしのサイトもご覧いただいておりますか。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

ここ冨士門流信徒の掲示板は Google Page Rank で3になっています。上記のわたしのサイトも2、弥四郎漫荼羅真偽のページは3です。既にそれなりの認知を得ています。石山僧もそろそろ投稿をして「正法正義」なるものをここに披瀝する時期に来ているのではないでしょうか。そんな投稿を楽しみにしております。
石山僧、また西武池袋線さんにも積極的に議論にご参加いただき、真実が何であるか、ともに考えてまいることを希望します。

1028西武池袋線:2004/09/30(木) 08:25
その手の講頭辞任の事例は結構ありますね。宗門の意向に反するのでしたら、そんな辞表など書かなくてもよろしい。軟禁されて書かされたのでしたら別ですがね。

1029問答迷人:2004/09/30(木) 08:33

西武池袋線さん

>内容はどうあれ辞表を提出したのではないですか

内容が大事ですね。この方は、猊下に手紙を出す前に、当該住職に「このように思うので、ご住職より、猊下或いは、宗務院の裁判担当者に伝えて欲しい」と頼んでいるのです。そうしたら、「私からはそんな事は言えないので、直接宗務院に手紙を出しなさい」と言われ、「そんな事をしても、宗制宗規に触れませんか、大丈夫なんでしょうね」と念をおし、「『宗制宗規』を確認させてください。」と頼んで、自分の目で確かめて、大丈夫と確認の上、手紙を出しています。しかも、出す前に、当該住職に「内容を確認してください。こんな内容で問題ないでしょうか」と内容確認を求めたところ、「確認するまでも無い。構わないから出しなさい」と言われた訳です。どこに、「引責辞任」する理由が有るのでしょうか。また、それなら、住職が講員に対して「講頭を罷免する」との発表はどうなるのでしょう。さらに言えば、こうした経過は兎も角、猊下に進言することが、「引責辞任」に相当すると言うのは、一般世間では全く通用しない理屈です。もし、引責辞任なら、それこそ、もっと問題ではないですか。

1030犀角独歩:2004/09/30(木) 09:57

けっして西武池袋線さんのことを申し上げているわけではありませんが、好い機会なので申し上げておきます。

こうして、HNなり、実名なりをネット世界に露出していますと、必ず「私はあいつを知っている」などと言い出す人間が現れます。また、「あいつを知る人がこんなことを言った」と尾ひれも付きます。粋がった連中になると「やつに俺はこう言ってやった」とか手柄話まで騙り出します。そのうち、偽物まで出る始末で、さらに話は捏造されていきます。本人すれば冗談では済まされないわけです。

風聞・噂話がお聞きになった折は、是非ともわたしに直接メールでご確認ください。必要があれば、メールでばかりではなく、お電話でも、お会いしてでもお話をします。逃げも隠れもしません。

犀角独歩 saikakudoppo@rio.odn.ne.jp
仏教再考
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1031卞氏:2004/09/30(木) 14:13
>阿部管長、阿部日顕管長、日顕管長、阿部氏、阿部日顕氏、日顕氏。

>まぁ、こんな所だったら、差し障りが無いのではないか、と思います。

そうだなぁ。使い分けしますね。記事や第3者としての評なりを書くなら、「氏」
をつければ一般的でしょうから。

対面して話すなら、「日顕さん」かな。相手への「さん」付けは、これは、私の定番です。
書面で相手に書くなら「日顕殿」
若し、日顕を師匠と仰ぐなら、「日顕先生」となるが、それはありえないので悪しからず(>日顕さん)。

「法主」と呼ぶ場合は、読み手に誰のことか限定させやすいようにするときだけ。
「現法主」とか。詐称疑惑があり、裁判でも法主としての資格を証明できなかったのだから、
この名を呼ぶことには自分はためらう。あくまでも、読み手に対する配慮。

こんなところでしょうね。

 ***

ところで、淫行坊主が話題になっているなぁ。
皆さんのところの御住職は、その点は大丈夫ですか?

1032愚鈍凡夫:2004/09/30(木) 21:43

ところで、淫行幹部が密かに話題になっているなぁ。皆さんのところの学会幹部は、その点は大丈夫ですか?

まあっ、都合のいいところでは「和合僧」といい、都合が悪くなると「在家」と言い張る組織ですから、無理もないことでしょうかね。 (`ヘ´) フンダ!!!

1033平和創価:2004/10/01(金) 07:03
>>1032
愚鈍凡夫さん。ご無沙汰しています。パソコンの具合が悪かったそうですね。愚鈍
凡夫さんからはいろいろな資料を提供して頂いてお世話になっております。
実は私のパソコンもおかしくなりましてね、いくらスイッチを押しても電源が切れ
なくなってしまったのですよ。以前このパソコンをプラグを抜いて故障させたこと
がありまして酷い目に遭いました。
今朝私は真剣に題目をこころの中であげて御本尊に祈ったところ、ノートパソコン
の本体側のプラグを抜いたところ、正常に戻りました。いずれにしても信心第一に
生きることが大切だということを今朝改めて実感しました。

愚鈍凡夫さんのパソコンはノートパソコンですか?ノートパソコンは故障が多いで
すね。もう私もこのノートパソコンには泣かされてきましたよ。大切な資料はCD−
RWに焼いておいた方がいいですね。

1034愚鈍凡夫:2004/10/01(金) 10:00

平和創価さん、どうも(漢字に戻したのですね)。

小生は、長らくOSに98SEを搭載したノートパソコンを使っておりましたが、今はノートパソコンは使っておりません(FDDが壊れたため)。
現在はOSにXP Proを搭載したデスクトップを使っております。今回の場合はスパイウェア検知ソフトで誤って動作に必要なファイルまで削除してしまったことが原因だと思われます(スパイウェアやらスパムメールが多いもので)。
OSを修復しながら、だましだまし使っていたのですが、いろいろトラぶったあげく、最終的にPS2からの入力を受け付けなくなってしまって、OSそのものを入れ直すことができなくなってしまいました(キーボードはMicrosoftのPS2入力のWirelessを使っています)。
その間、CD-RWにバックアップしていた資料を使ってノートパソコンを使っていました。
考えに考えあぐねたあげく、USBからの入力なら受け付けるのではないかとの結論に達し、近くのパソコンショップに行って\980のUSB使用のキーボードを買ってきてつなぐと、ななっ何と、入力できたではありませんか。C-Diskをフォーマットし(当然ソフトはすべて壊れました)、OSを入れ直して、現在正常に動作しております(\980の救世主は、箱に入れて大事にしまっております)。 (^∧^)合掌
時間を見つけてソフトを入れ直しているのですが、それぞれのソフトをカスタマイズしまっくっている関係上、作業が捗りません。(^^ゞ
ともかく、ハードディスクの資料が無傷だったのは不幸中の幸いです。

1035卞氏:2004/10/01(金) 10:11
話題どころか、事件になって新聞に載ってるよ。ひどいものだ。

1036犀角独歩:2004/10/01(金) 10:38

愚鈍凡夫さんも信心第一、チチンプイプイ、題目を唱えたら、摩訶不思議、直るはずのないコンピュータが動いたのでしょうか。それとも「御仏意」が沸いたのでしょうか(笑)
まあ、そんなおかしなことを言い出さず、賢明な愚鈍凡夫さんのこと、アルゴリズムに則って、論理的に修復の可能性を考えられ、それがマッチしたのでしょうね。

わたしは富士門での書き込みに比例して、ウイルスメールが増加する実態に悩まされています。まあ、これは科学的統計、あるいは調査で何かが明らかになってくれれば有り難いと思う毎日です。何せ、過去2年で3回もHDを駄目にされましたから。

1037犀角独歩:2004/10/01(金) 10:44

あ、そうそう、わたしは過去3回の教訓から、データは、外付けハードディスクに保管するようにしています。(こまめに外し、複数のコンピュータを使う環境でも共有しない)
USBで簡単につなげますし、容量も他のハードに比べて格段に大きく何十ギガレベル。ポケットサイズで持ち歩け、XPであれば、何らインストールもなしにそのまま使えます。価格も手頃です。お薦めです。

1038愚鈍凡夫:2004/10/01(金) 11:17

犀角独歩さん、どうも。
どこかの教団が独占販売している「日寛仕様」の\5000と\3000の救世主は何もしてくれそうにないのでいりませんが、税込み\980のUSB仕様の救世主には助けられました(感謝感謝です)。 (^_^)v
つくづく、「ない知恵も 絞ってみれば ピンポ〜ンかも」と思いました。

しかし、インターネット人口が増えていくのは喜ばしいことだと思いますが、それに反比例してモラルが低下していくのは困ったものですね。自己防衛しか対策法がないのが現状のようですね。その昔、この国には「水と安全はタダ」といった神話があったのですが・・・・・。

1039愚鈍凡夫:2004/10/01(金) 11:27

犀角独歩さん、アドバイスありがとうございます。 m(_ _)m

現在デスクトップに搭載しているHDDがSATAの200GBですので、XP環境で使う場合は、DVD-RWで資料のバックアップを取り、98SEと共有する場合は、CD-RWで資料のバックアップをとるようにしています。
いずれの方法を採るにせよ、マメにバックアップするのが安全第一の秘訣のようですね。

1040愚鈍凡夫:2004/10/01(金) 11:42

追伸(しつこいちゅうねん)。
小生が時々使う手ですが、一時的に資料を逃がすのであれば、「宅ふぁいる便」が便利ですよ。
メールアドレスさえ指定してやればインターネットに接続できる環境ならばどこででも受け取れますし、何といっても40MBまでなら無料というのが魅力です。 (^^ゞ

宅ふぁいる便
http://www.filesend.to/

1041犀角独歩:2004/10/01(金) 11:52

愚鈍凡夫さん、有り難うございます。
いま見てみましたが、これは便利ですね。

1042さかなこ:2004/10/01(金) 15:12
>>宅ふぁいる便

昨日、画像圧縮ファイルを編集さんに送りたくて鯖にあっぷろーどしようと
したらエラってできなくて編集さんにそのサービスを教えてもらって
初めて知りました(;´瓜`)
おとといあたりに愚鈍さんが紹介してくれてれば良かったのに…w遅いよ…w

鯖にあっぷろーどできなくて1時間近く夜中にうろたえてしまいました。
寝不足だぴ。しかしいつもは郵送してた原稿が瞬時に送れるなんて凄いですねえ。

1043犀角独歩:2004/10/01(金) 16:00

さかなこさん、ネットのお陰で原稿が瞬時に遅れるようになったので、昔通用した「書き上がっていますから、これから郵送します」という言い訳が通用しなくなったという執筆関係者の嘆きは多いんですよ(笑)

1044犀角独歩:2004/10/01(金) 16:01

また間違えました。「遅れる」は「送れる」です。

1045愚鈍凡夫:2004/10/01(金) 16:11

さかなこさん、大変でしたね。
有名なサービスだから、皆さんご存じだと勝手に思いこんでいました。
大企業だから出来る、こういった優良なサービスが増えてくれたらいいのにと思います。
ごめん隊<(_ _)><(_ _)><(_ _)>参上

あると便利な小さなソフトとか、便利な優良サービスなんかを紹介するスレがあってもいいかもしれませんけど、板の主旨と合わないような気もします。

1046さかなこ:2004/10/01(金) 18:05
>>1043独歩さん
それはありますねw。私もその手を使おうと思ったらネットで送ってくれと
言われましたw。そのせいで夜中までやるはめになりました…(;´瓜`)
この間まで郵送でOKだったんだけどなーなー。PC処理で原稿やる人が
増えたのだなーなー、

>>1045愚鈍さん
愚鈍さんみたいに色々なサイトを周ってる方だとこういう優良なサイトの
情報とかも沢山、入ってくるのでしょうね〜。私なんて特定のとこしか
いかないからなー。そういうスレッドがここであると私としては便利
かも…。ごめん隊かわいい…。

1047平和創価:2004/10/01(金) 19:08
僕のお父さんだったら、犀角独歩さんじゃなくて愚鈍凡夫さんを選ぶな。愚鈍凡夫
さんは滅多なことでは怒らないですから。

僕の理想的なお父さん:なんて番組をNHKでやったらいいんじゃないですか?

犀角独歩さんは頑固親父です。。。でも愚鈍凡夫さんはそうではないのか?

1048愚鈍凡夫:2004/10/01(金) 19:20

さかなこさん、どうも。
普段は資料を探すためにインターネットを活用していますから、優良サービスを提供してくれるサイトはあまり知らないんですよ(実は、小生が教えてほしいのです)。

ごめん隊はIMEに組み込んで使うタイプの辞書で変換したものです。いろんなサイトから掻き集めて作った仏教用語辞書なんかと同じようにファンクションキーに登録して、必要な時にだけ使えるようにしています。
下記のHPは小生が時々、BGMがわりに使わせてもらっていますが、小説を読むのが邪魔くさいときに重宝しますよ(このずぼら者が!!)。

音訳文庫 声の図書館
http://www20.tok2.com/home/voicelibrary/index.html

1049愚鈍凡夫:2004/10/02(土) 07:07

平和創価さん、褒めていただいている(?)、のは有り難いですが、犀角独歩さんに失礼なので、>>1047のような言い回しは止めませんか(小生も人のこと、言えないような気もするが・・・・・。まぁいいか)。

「笑ってごまかせ、自分の失敗。みんなで責めよう他人の失敗」なんちゃって。 (^◇^;)

犀角独歩さんは、たまに切れますが、常に真摯な姿勢で、相手を思いやるレスを心掛けていらっしゃるようにお見受けしますよ。

1050平和創価:2004/10/02(土) 14:03
>>1049
愚鈍凡夫さん。そうですね。独歩さんの真剣さは凄いですからね。私は気が弛んで
しまう時が多いので反省しました。人生瞬間瞬間が試験なんですね。一瞬の隙も許
されないのですね。1点の違いが合否に関係してくるように、一瞬の油断がパソコ
ンを壊してしまうように、一瞬の気の弛みが人間関係を壊してしまうように、一瞬
の隙も許されないということを昨日また改めて実感しました。

1051愚鈍凡夫:2004/10/02(土) 17:00

平和創価さん、どうも。
まぁっ、小生のように池の鯉みたいにボ〜ッとしている奴もいますけどね。 (^^ゞ

いきなり話は変わりますが、以前紹介した古天文ソフトはこちらでしたかね。

Windows版 古天文ソフト
http://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/cal/emapwin_jpn.htm

こちらはWindows版ですから、素直に動いてくれると思うのですが、
ひょっとして、下記を紹介したのじゃないかと何の脈絡もなく思ってしまいました。

古天文ソフト
http://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/cal/soft.htm

こちらも動かないことはないですが、何せ16bit時代のソフトですから。 (;^_^A アセアセ…

1052平和創価:2004/10/02(土) 19:39
愚鈍凡夫さん。
以前紹介して頂いた古天文ソフトは下の古いソフトでした。上の新しいソフトは文字が
文字化けしていて読めませんね。詳しい資料はアメリカのソフトをダウンロードする必
要があるそうです。人生もパソコンも直ぐには巧くはいかないものですね。(;´д`)

今度はデスクトップのパソコンが故障しましたよ。今リカバリーをかけています。
本当に資料は手まめにCD−RWに焼いておく必要がありますね。

1053犀角独歩:2004/10/02(土) 19:57

つぶやきであることを好いことに「頑固親父」「たまに切れる」とか雑談のようにわたしを肴にしてますね。
まあ、いいですが(笑)

1054愚鈍凡夫:2004/10/02(土) 20:23

平和創価さん、ごめんなさい。
アドレスが似ていたので、間違って古い方を教えてしまいました。メイン・ページのアドレスを書き込んだ方が良かったですね。申し訳ないです。
しかし、文字化けするというのが気になりますね(今、圧縮ファイルを調べてみたのですが、ウイルスは混入されていませんでした)。
小生のパソコンでは、98SE環境でも、XP-Pro環境でも文字化けしていません。ただ、XP-SP1からSP2に移行した時、ソフトの作動が全体的におかしかったです(シテスム系のファイルが壊れていたせいかも知れませんが)。
ハードディスクをフォーマットし直して、OSをXP-SP1からXP-SP2にバージョンアップした後にソフトを全部入れ直してからは今のところ不都合はありません(但し、以前から使っていたお気に入りのファイアーウォール・ソフトは使えませんが)。

1055愚鈍凡夫:2004/10/02(土) 20:37

うっ・・・・・。 (..;)
>>1053:
「祟りがありませんように」 (^∧^) 「ナ〜ム」

1056大勇者:2004/10/03(日) 00:11
犀角独歩さん
勤行についてのスレでの正題の仕方のご返事ありがとうございました。
目から鱗でした。

つぶやき。
ひさしぶりに大百蓮華(10月号)読みました。
教学入門の中に「日顕宗を破す」との項目が入っていました。
え?初級教学試験範囲なの?驚きでした。

1057平和創価:2004/10/03(日) 00:21
大勇者さん。今晩は。
ところで字が違っていますよ。「正題」ではなくて「唱題」であり、「大百蓮華」では
なくて「大白蓮華」ですよ。
私はもう2ちゃんねるの創価・公明板には行きません。頭が悩乱するばかりですから。
こちらの掲示板で教学を勉強すると相当な力が付きますね。蓮祖の御書は勿論、法華経
や仏教全般の勉強になりますね。

1058犀角独歩:2004/10/03(日) 13:03

大勇者さん

> 教学入門…日顕宗を破す

まあ、この点は石山も似たり寄ったりで、『創価学会のための折伏教本』『諸宗破折ガイド』といった内容がまるでありません。本の束とは裏腹に中身の薄っぺらで対外的な嘲笑誘うばかりのものですね。

ここに参加される皆さんのように、本当に真面目に研鑽される方から見れば、「ガキの喧嘩」「目くそ鼻くそを笑う」類としか映じません。

1059大勇者:2004/10/03(日) 20:41
平和創価さん
本当ですね。ありがとう。
誤字脱字気をつけます。じゃ〜また!

1060愚鈍凡夫:2004/10/04(月) 08:23

以前、「不動・愛染感見記」が話題になったとき、正月1日の日蝕が話題になったことがありましたが、その後、少しずつ調べていたのですが、じつは、蓮祖在世に一度だけ正月1日の日蝕があったようなのです。"よう"というのは、その日はあいにく昨晩から雨模様で、鎌倉では日蝕は見えなかったようなのです(蓮祖はこの頃、安房にいたと思われますが)。
そして、それは1254(建長6)年1月1日のことではなく、1265(文永2)年1月1日のことで、「不動・愛染感見記」が著されたとされる11年も後のことなんですよ。 ( ̄ヘ ̄)ウーン
まぁっ、ちなみにこの日の吾妻鑑を引用すると、

正月1日 辛未
 日蝕なり。然れども去る夜より雨降り、蝕見えず。仍って御所を裹むに及ばず。椀飯(左典厩御沙汰)を行わる。但し御簾を垂れ出御無し(土御門大納言催すに依って、構え参らるると雖も、用意ばかりなり)。御劔役人は越後の守實時、御調度は越前の前司時廣、御行騰沓は秋田城の介泰盛。
   一の御馬 陸奥の十郎忠時     工藤次郎左衛門の尉
   二の御馬 越後の四郎顕時     武藤三郎兵衛の尉
   三の御馬 城六郎兵衛の尉顕盛   同九郎長景
   四の御馬 筑前四郎左衛門の尉行佐 同五郎左衛門の尉行重
   五の御馬 相模の七郎宗頼     工藤三郎左衛門の尉

やはり、「不動・愛染感見記」は偽書であると判断せざる終えないのでしょうね。

1061犀角独歩:2004/10/04(月) 08:43

『平成新修日蓮聖人遺文集』では日蝕ではなく「日[虫*虫](にっこん)」となっていますね。
そして、「日蓮新仏に授く」と訓読されています。
当時、蓮師が新仏(弟子)に施した真言灌頂(授戒)の証書という体裁と読めます。
それなのに、太歳干支・花押なし、たしかに真筆といえるかどうか疑問は残りますね。

1062卞氏:2004/10/04(月) 10:05
あぁあ、聖教新聞にまでとうとう載ってしまったよ。淫行坊主。
やはり日顕宗だったのか。

1063愚鈍凡夫:2004/10/04(月) 10:09

確かに下記の文は、

済みません、つぶやきに相応しくない話題で。

大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承
建長六年六月二十五日
日蓮授新仏

1254(建長6)年6月25日に相承を授けた(または受けた)との意味でしょうが、下記の文は、

生身愛染明王拝見
正月一日日蝕之時

文字通り、正月一日の「出来事」の折りに「生身の愛染明王」を見たとの意味だと思うのです。
ただ、正月と6月といった日にちの隔たりがありますから、必ずしもこの二つのことは同じ年のこととは限らないのではないかと思ったわけです。
それで、調べ始めた次第です。

1064平和創価:2004/10/04(月) 14:13
1265年文永2年1月1日の日食は午前9時32分最大、鎌倉で蝕分68%だった
そうですから、朝の空がやや暗くなるのは分かったはずですね。

あと「勤行について」の所でも私はカキコしていたのですが、蓮祖の十界曼陀羅の原
型は平安時代の准胝観音像等の曼陀羅ではないかと思いました。蓮祖はそのような曼
陀羅を若い時に拝して、その記憶を基に十界曼陀羅を文字に変えて御図顕したのでは
ないかと思いました。あの髭題目の跳ねは准胝観音の多くの腕と手が基になっている
ような気がします。また四隅に四天王が配置されているのも、十界曼陀羅と同じです。

次の国立博物館のHPのフィルム検索欄の作品名に「准胝観音像」、時代欄に「平安
時代」、フィルム番号のCの後に3594と記入し、現れたページの2番目の「准胝
観音像」をクリックし、拡大して見るとよく分かります。フィルム検索はここです。
           ↓                         
http://www.tnm.go.jp/jp/gallery/material/film/index.html

1065平和創価:2004/10/04(月) 14:19
愚鈍凡夫さん。
あのWindows古天文ソフトは、98と95では文字化けしませんでした。
また新しい分野を開拓して参りましょう。

1066平和創価:2004/10/04(月) 14:38
>>1062
卞氏さん。
あの僧侶は少年時代に同世代の少女と交際した経験がなかったのではないですかね。

1067犀角独歩:2004/10/04(月) 14:54

東大寺戒壇院は四方に四大天王、中央宝塔、塔中に釈迦・多宝の二仏並座。
九界衆生はないにせよ、この奉安様式を蓮師はご覧になっておられるのではないかと、訪問した折、思った次第です。

1068愚鈍凡夫:2004/10/04(月) 15:37

平和創価さん、どうも。

蓮祖と日蝕の関係について、
蓮祖は生涯に3度の皆既日食を実見した可能性があります。本当は4度ですが、最初の皆既日食は2歳(満1歳)だったので、記憶になかったと思います。

ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿
1223(貞応2)年09月26日----10月03日--------09月01日----02
1243(寛元1)年03月22日----03月29日--------03月01日----22
1275(建治1)年06月25日----07月02日--------06月01日----54
1277(建治3)年10月28日----11月04日--------10月01日----56

1243(寛元1)年は天台僧として比叡山で修行中だったはずです。それと、「四信五品抄」「下山御消息」は1277(建治3)年の皆既日食の前ですから、皆既日蝕に触発された可能性があるのは1275(建治1)年の「撰時抄」ですかね。

ちなみに部分日蝕を入れると、15回ほど起きているはずです。

1069平和創価:2004/10/04(月) 16:45
犀角独歩さん。
そうですねいろいろな原型が考えられますね。有り難う御座います。

愚鈍凡夫さん。
以前鎌倉時代の日食を全て調べました。その結果を今「素朴な疑問」のスレに移して
お答えします。

1070犀角独歩:2004/10/04(月) 18:27

あれ、随分と素直で、礼儀正しい態度。
なかなかよろしいですね。

1071通りすがり:2004/10/07(木) 10:43
>犀角独歩氏
仏教再考の方ですけど、TOPページが真っ白になってます。
後ジオですけど、年内に新ジオへの移行手続きしないと駄目らしいです。

1072もう一人の通りすがり:2004/10/07(木) 15:59
そうそう。たしかに独歩さんのページ、真っ白ですよ。

1073卞氏:2004/10/07(木) 16:14
1066>>
独り言なんすけど・・まいいか。

僧侶なんてのは大体、そういうもんじゃないのですかね。
でも、それくらいで犯罪までしますかね。何のための僧籍なんだろうね。
女性がらみの報道も多いし、坊主が妻帯したりしてるし。よくわからんな。

それに追従する人間も。

1074もう一人の通りすがり:2004/10/07(木) 16:37
坊さんなんか何も期待してないからどうでもいいけどね。
ここの掲示板、自称学会現役という人間は坊さんの悪口ばっか。学会脱会という人は、実に真面目な投稿。
天地雲泥の差。学会の振りして、学会の評価を下げようという魂胆?
というぼくも学会員です! なんだか恥ずかしい気分だな。
だいたい、誰もここで大石寺の坊さんなんか相手にしてないよね。

1075犀角独歩:2004/10/08(金) 04:18

通りすがりさん:
もう一人の通りすがりさん:

ご親切に有り難うございます。
そうなんです。HPの件、実に困っております。

1076卞氏:2004/10/08(金) 08:57
誰もここで大石寺の坊さんなんか相手にしてないよね。

相手にされない日蓮正宗の坊主か。信徒は少ないだろうな。この掲示板。

信徒の中には、本気であの男を偉い坊さんだと思っている人も居るらしい。

1077卞氏:2004/10/08(金) 09:55
>>1074
まじめに話しているといっても、歴史とか信仰とはあまり関係の無い話です。
そういうことに興味があるならよいですが、宗教学をするのが信仰者じゃないです。
主に信仰という側面から語られている板がありますので、ご紹介しておきます。

ところでココは教学的な話題が盛り上がらないですね。
あなたは、今回教学試験は受けないのでしょうか?

http://jbbs.livedoor.jp/study/3764/
http://hpmboard3.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=VYC14456

どうしても正宗というのなら、ココでしょうか。信仰としてまじめさがあります。
宗門教学の欺まん性が見抜けず、法主は間違いないみたいなこともいってますが。
ttp://8327.teacup.com/woman/bbs

1078愚鈍凡夫:2004/10/08(金) 11:58

マインドコントロールと信仰心がゴチャ混ぜになった、小生の悲しい時代を思い出しました。
秋が日に日に深まっていきますね。池田さんの好きな葉っぱをお札に換える季節が近づいてきました。口座解約の準備は出来ましたか?

「広宣流布には金がいる」(by 何処かの古狸)

御利益を金で買っている割には、ご近所の創価学会員さんは生活が楽になりません。
ここにも、悲しい現実がありました。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1079犀角独歩:2004/10/08(金) 12:18

あ、そうですか。学会の金集めの時期ですか。
年末ボーナス時期に合わせてあったんでしたっけ?
組織は選挙区と同じという政教分離でしたよね。
そういえば、まだ『公明新聞』は『聖教新聞』の販売店が取り扱う政教一致は続いているのでしょうか。集金も一緒ですか?
今年の池田さんの年収はどれくらいになったんでしょうか。7億円よりは減ったんでしょうかね。秋谷さんは相変わらず1億円台ですか。まあ、金集め次第なんでしょうね、池田さんも、秋谷さんも各地域担当の副会長なんかボーナスも。なんだかせちがらいですね。

1080卞氏:2004/10/08(金) 13:08
もう一人の通りすがりさん。

まじめって言っても、こんな程度ですよ。

1081愚鈍凡夫:2004/10/08(金) 13:17

もう一人の通りすがりさん。

学会員って言っても、やっぱりこんな程度でした。

1082犀角独歩:2004/10/09(土) 10:47

1079に記すことは学会の実態を知るうえで、実にまじめに考えてみなければならない点です。
政教分離といいながら、組織割りを選挙区と同じにして好いのか
政教分離といいながら、何故政治と宗教の新聞が同じところで扱われているのか
所得税支払いから計算される名誉会長、会長、副会長の常軌を逸した高給は清貧を言った蓮師とかけ離れていないのか
真心の御供養を、なぜ世間一般のボーナス時期にしているのか、これでは金儲けと思われないのか
少なくても世間一般の人々は以上のような点で創価学会に疑問を持っているとすれば、この点を真面目に考える必要はないのか
ということです。

1083愚鈍凡夫:2004/10/09(土) 12:45

もともと、「学会活動」は「選挙運動」と直結しているというのが実態だと思います。
信者勧誘(創価学会では折伏と呼ぶ)、新聞啓蒙、地域友好活動、これらは公明党支援者作りだし、広布基金などは、政治・経済・法曹・マスコミの各界に実弾(現金)を乱射して外敵を潰すための実弾作り。ということで、山崎正友さんじゃないですが、創価学会が目指す広宣流布とは政治・経済主導の日本支配ではないですか(無理だとは思いますが)。
池田さんは、臆面もなく自分のことを傑出した指導者だと思っているようですから(予想屋としてはコケまくってますが)、ホンネでは独裁主義ではないですか。
税制的に優遇されていなければ、とっくに宗教団体の看板をはずしているのではないかと思います。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1084愚鈍凡夫:2004/10/09(土) 18:33

「力こそ正義」、これが創価学会が「大阪事件」と呼ぶ、たかが選挙違反事件で拘束された留置所内で池田さんが悟ったことなのでしょう。これ以来、「仏法は勝負」というのが池田さんの座右の銘に成り下がったようですから(創価学会には、その後に続く文は関係ないのでしょう)。そして「金こそ力」、これが正本堂建立名目で掻き集めた泡銭から学んだことなのでしょう。舌先三寸で葉っぱを札に換える遣り口、純真な信仰心を踏みにじる許し難い行為だと思います。
その後、どれほどの悲劇が生まれたか、池田さんには与り知らぬことなのでしょうか・・・・・。
まぁっ、面の皮が野球のグローブ以上に分厚い人ですから。是非も無し。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1085犀角独歩:2004/10/10(日) 12:59

1082に記す如き慨嘆を禁じ得ないのは、学会版御書にも載る以下の一節とあまりにも隔たりがあるからです。

「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり」

1086平和創価:2004/10/11(月) 00:49
今「勤行について」の犀角独歩さんと問答迷人さんの議論を拝見させて頂きました。
もう私の出る幕ではないと思い、ただROMしていました。まるで高段者の囲碁の対
局を傍観するようでした。

こんなにまで教学が深いものとは思ってはいませんでした。私も見ていて頭が混乱す
る程でした。(;´Д`)アセアセ

1087犀角独歩:2004/10/11(月) 02:26

平和創価さん、こんな程度のことは、まだほんの触りですよ。

1088問答迷人:2004/10/11(月) 07:12

平和創価さん

このテーマは、以前から独歩さんと議論してきた事なんです。今回、少しは色々と進展が有ったと思っています。まぁ、独歩さんが仰る通り、入り口付近での議論なんですよ。奥はどこまで深いか・・・。このテーマ一は、僕にとっては、まだまだ判らない事だらけなんです、高段者なんてトンでもない。

1089犀角独歩:2004/10/11(月) 10:45

問答さん、本当に入口ですね。
ここ数年、この場にお邪魔し、問答さんにお会いでき、種々、考えを整理することができました、まだ先は長そうですが。
それにしても、問答さんは迷人どころか問答の名人であるとつくづく敬服します。
今回など、名人の域をさらに超え、達人の域に達していると感慨を新たにしました。

1090問答迷人:2004/10/11(月) 11:41

犀角独歩さん

>ここ数年、この場にお邪魔し、問答さんにお会いでき、種々、考えを整理することができました、まだ先は長そうですが。

この掲示板にご参加の皆様、ロムの皆様にとって、犀角独歩さんは強力なリーダーなんですよ。その強さを嫌って離れてゆく人、逆に独歩さんがいる故に、この掲示板から離れない人、多種多様な論客が集い、多角的な議論が展開されてきた事、本当に有り難く、本当に嬉しい限りです。

今回は、図らずも、僕にとって数年来の課題であった本尊義を独歩さん愚鈍凡夫さんと議論出来て、頭の中が少しずつクリアーになってゆくのを感じています。独歩さんからは、過分のお褒めのお言葉を頂戴いたしましたが、どこまで行っても、所詮は「問答迷人」ですので、懲りずに、お付き合いの程、よろしくお願い申しあげます。

1091ジャンプ@通名:通りすがり </b><font color=#FF0000>(r4Mobius)</font><b>:2004/10/11(月) 23:20
>犀角独歩
1071の通りすがりです。
今回からスレッド式BBS界隈で昔から使ってるHNで…………

ジオの移転ですが、
yahoo!のアカウント(=新ジオのアカウント)を取ってから、
古いファイルを新しいアカウントに移動、
その後ファイルをアップロード(旧ジオのファイルは同時更新)と言う手順が一番楽みたいです。

1092犀角独歩:2004/10/12(火) 09:44

ジャンプ@通名:通りすがりさん:

ご親切に有り難うございます。
やってみます。

1093常ロム者です:2004/10/12(火) 23:31
最近五月雨さんやアネモネさんをお見かけしませんがお元気なのでしょうか。
アネモネさんの真摯な御発言はわたしの周辺でも感銘を受けたというひとや勉強になったというひとたちがずいぶんいました。
パソコンを持っていないひとにはプリントアウトして渡したりしました。
過去ログの出版の予定はないのでしょうか、もしも出版されるようならぜひ購入したいと思っています。

1094雖念:2004/10/13(水) 05:13
常ロム者さんへ:

はじめまして、雖念ともうします。
出版云々のお話は、大変魅力的ですね。小生は、書籍の出版、流通に関してはまったくの素人ですが、採算ベースに乗せるためには最低でも3000部程度の予定購入者が必要で、しかも価格が一万円程度になると聞いたことがあります。
それよりも、投稿内容をそのままCD−ROMに記録してそのまま希望者に頒布すれば数十円で済みます。
内容を整理して、注釈をつけたりして読みやすいように編集なさるということであれば、及ばずながらお手伝いいたします。(もっとも、小生ができるのは原稿の入力と整理作業ぐらいですが…)
ご存知のように、ホームページは無料で借りられるものもありますので、原著作者(?)の了解を得たうえで、整理した内容をそこにアップしておけばいいのでは?
あるいは、ネット版の辞書やテキストの編集にならって参加者が共同で執筆するような形もいいのかもしれません。
最近の「勤行について」も、小生のごときものはほとんど内容が理解できないので、いろいろな意味で少しもったいないなと、思っています。

1095雖念:2004/10/13(水) 05:27
自己レスです。

> 最近の「勤行について」も、小生のごときものはほとんど内容が理解できないので、いろいろな意味で少しもったいないなと、思っています。

つまり、既成の教団(創価学会、日蓮正宗等々)に属している方たちにとってはアンタッチャブルな議論がここでなされているわけですから、市販のテキストによってこの議論内容を理解しようとしても難しい。
過去ログを最初から丹念に読むしかないわけですが、実にしんどいですね。
しかし、学問というものはたいていそんなもので、何を読めばいいかがわかれば問題は半分解決したようなものですから、そこからの苦労を惜しんではいけませんね。
(自戒の言葉です)

1096犀角独歩:2004/10/13(水) 06:28

雖念さん:

『勤行について』の議論、実はそんなに難しいことを話し合っているわけではありません。簡潔に申し上げれば、『本尊抄』に何が書かれているのか、ただそれだけのことです。また、これは学問ではなく、まさに蓮師の信仰そのものに係る議論なんです。蓮師が命を掛けて、わたしどもに遺そうとしたこと、そのことについての議論です。

ご不明な点があれば、お尋ねください。いくらでもお応えします。

1097雖念:2004/10/13(水) 19:09
犀角独歩さん:

お心遣いありがとうございます。
質問できるレベルになれるよう、すこし勉強させていただきます。

1098犀角独歩:2004/10/13(水) 19:30

>1093

いままで、ご投稿に気付きませんでした。
なるほど、たしかに。賛同いたします。

1099平和創価:2004/10/13(水) 23:58
ここの方とも独歩さん。対話しませんか。いい人がいますよ。
       ↓↓
http://jbbs.livedoor.jp/study/3764/

井の中の蛙ではだめですよ。小野不一先生と対話してください。

1100愚鈍凡夫:2004/10/14(木) 00:15

う〜ん。 ( ̄ヘ ̄)ウーン

「何を企んでるのだ君は」

いろいろご教示下さる目上の方にそういう言い方は失礼ですよ。

1101犀角独歩:2004/10/14(木) 01:39

平和創価さん、お断りします。

1102犀角独歩:2004/10/14(木) 01:43

あ、そうか、もう少し親切に記しましょうか。
その人をこっちに招待したらどうでしょうか。
平和創価さん、自分の能力では駄目で人頼み、他力本願ですか(笑)
まったく、(大笑)

1103犀角独歩:2004/10/14(木) 09:38

しかし、学会員というのは、なんで人を非難するとき、それを口にする本人にぴたりとマッチする悪口を書くのでしょうか。これは一貫した一種の法則ですね。ねえ、平和創価さん、井の中の蛙というのは、あなたとあなたが推薦するサイトのように自分と同じ信念体系以外は認めない狭量な姿を言うのですよ。まあ、天に唾吐いて自分の顔を汚すより勉強しなさい。わたしはここで子供のおもりやっているわけではないですよ(笑)

1104犀角独歩:2004/10/15(金) 00:39

まあ、しかし、平和創価さんや、あと1人、2人の印象で「学会員というのは」と記しては他の現役会員に失礼ですね。
1103の記述は撤回し、平和創価さんのこととします。

1105三学無縁:2004/10/15(金) 16:43
久しぶりの書き込みです。みなさんお元気でしょうか。

さてさて、独歩さんから近刊書籍の初校を読ませて頂いちゃいました。
きわめてストレートに弥四郎漫荼羅について述べられており、固茹で玉子な論考でした。
これまで当掲示板で開陳されたお考え以外にも独自の説を述べられ、まったくの独創による論考でした。
ただ初校では、古来からのさまざまな偽作論などの概説部分はありませんでしたので、あるていどの知識を持っている人向けという印象でした。

ここ数日、風邪気味で熱があるのですが、本日、初校を読ませて頂いて、熱が上がりました。ホントの話です。
今夜は、眠れそうにありません。

独歩さんに心から敬意を表したいと思います。
また、当掲示板を作られた問答さんにも心から感謝申し上げます。
ありがとうございます。


余談ですが、十月二十二日と二十三日に、東京池上の日蓮宗宗務院で「日蓮宗教学研究発表大会」があるそうです。
二十二日には、正信会の坂井法曄師が発表されるとのこと。
二十三日は、、、日蓮系教団の歴史が変わることになるかもしれません。
詳しくは、日蓮宗宗務院、身延山大学、立正大学仏教学会などにお問い合わせを。

1106れん:2004/10/15(金) 19:39
京都要法寺中興広蔵院日辰師の「造仏論議」の中に引かれる大石寺顕応房(左京阿日教師)が会津実成寺の住僧泉養房に贈った書に「三箇の秘法とは仏と土と教法と也、此の事は寿量品の文底に秘沈し給へり、其の中の御本尊は第一の大事也」とあります。このことから考えますと室町期日有師の頃の石山では本門三法門の中の本門本尊の定義は曼陀羅ではなく‘仏’だったようです。さらに左京日教師の穆作抄を読みますと「閻浮第一の御本尊も真実は用なり」とか「信とは法華一部を信ずるか又釈尊の遺像を信ずるか大曼陀羅を信ずるかさやうにては空しかる可きなり所信の法躰大事なり秘すべし秘すべし」とかの文言もあり、当時の石山では曼陀羅は現在程絶対視されてはいなかったようですね。
三学無縁さん、お久しぶりです。犀角独歩さんの近刊書籍の初校本を拝読されたとのこと。固茹で卵ですか、早く読んでみたいので独歩さんの該書籍の出版を一日千秋の思いで待っております。又正信会の坂井師が「日蓮宗教学研究発表大会」で発表されるとのこと、こちらも興味深いのでご紹介の機関に問い合わせてみようと思います。

1107犀角独歩:2004/10/16(土) 02:07

三学無縁さん:

掲示板ではお久しぶり、ということになりますか(笑)
なんと、さっそく投稿をくださったとは吃驚でした。
しかも「固茹で卵」(笑)

10月25日にも現宗研で、この件については講演を指せていただくことになっております。ふんだんに60枚ほどの画像(予定)を使ってしっかりと話させていただこうと。
とうぜん三学無縁さんのご臨席も仰げると嬉しく存じます。

はあ、しかし、わたしもかつてこの彫刻の信者だったんです。
「しっかり、やられました」という気分です。


れんさん、お気を掛けてくださりまして、本当に有り難き次第です。
取り敢えず、今回の発表を以て、公開と言うことにしたいと思っております。
その後は、こちらでもその内容を開示してまいる所存です。
なお、発表を終えた月末に三学無縁さんが、開陳オフ会をと提案くださっているので、こちらでは小冊子でも用意し、懇親も兼ねて、皆さんのご叱正をいただければなどと思っていますが、さて、どうなることか。

一つ質問をさせてください。文底秘沈、教師にこの用語が見られたのですね。
この段階で既に三重秘伝の意義付けはあったのでしょうか。ご教示を賜れれば有り難く存じます。

1108れん:2004/10/16(土) 18:46
犀角独歩さん、たしかに左京日教師に文底秘沈の語が見られますが、有師・教師の文献を見るかぎり、師弟受持を前提とした名字即成義や素朴な蓮師(御影)本尊義・曼陀羅本尊義・不造像不読誦の思想等が見られるものの、三重秘伝に類する法義は見当たりません。このことから、この段階では江戸期の寛師の如き三重秘伝の明確な意義付けはなかったのではないかと思います(石山歴代の著書では寛師の先代日宥師の「日蓮ノ二字沙汰」の末尾に「三重ノ口決云々」とあります。これが初出ではないでしょうか)。

1109犀角独歩:2004/10/16(土) 19:16

れんさん、ご教示、有難うございました。
やはり、そうでしたか。しかし、成句としてここまで遡れるといまさら気付く自身の浅学を恥じました。
今後ともご教示の程、宜しくお願い申し上げます。

1110平和創価:2004/10/19(火) 22:32
独歩さん
ここの人を招いています。しかし来ないのはおかしいですね。
       ↓
http://jbbs.livedoor.jp/study/3764/

1111平和創価:2004/10/19(火) 22:40
>>1109
やはり創価学会の不勉強なのですか?独歩さんも元学会員。何で脱会したんですか?

1112犀角独歩:2004/10/21(木) 02:19

れんさん、仰るところの「三重ノ沙汰」とは、寛師雑々の「迹門にして九界の権法を開して諸法実相の理の三千妙法を顕し、本門に至つて迹門十界の理具の三千を破廃して本門久遠の事具の三千を顕すなり、さて本迹事理三千を廃して事行の南無妙法蓮華経を顕し給ふ」はそれを承けたものでしょうか。

「但」が法華経・寿量・文底秘沈と三重に掛かるアイディアは寛師のものと考えられますか。これは教師の「秘沈」とは、その内容を異にすると思えるのですが。

1113犀角独歩:2004/10/21(木) 02:22

おっと失礼。教師との相違は1108に既にご教示くださっておりました。
この「秘沈」というのは、どれほど、遡れそうでしょうか。
たしか達師は「古来より“秘し”」を足して読んでいたと説法していたと記憶があります。

1114れん:2004/10/21(木) 19:44
犀角独歩さん、延山日乾師の開目抄写本(延山曽存蓮師真蹟開目抄と対照)には「寿量品ノ文ノ底にしつめたり」とあり延山曽存の開目抄には‘秘して’の語句は無かった様です。但し、記憶では開目抄古写本の内、存師本(祖滅後135年)か奥師本(祖滅後320年)には‘秘して’が記されているということを何かの本で見た記憶があります。興風談所の山上師の論文では延山曽存本は草案で、流布本が清書本とする説もあり、この説から推定すると、もしかしたら、清書本には‘秘して’の語句が有った可能性もあるかもしれません。清書本に秘沈の句があったなら、文底秘沈の語句は蓮師に由来することになりますが、真筆が不現存の今では、あくまで推定の域を出ません。管見に入った確かな興門の文献では文底‘秘沈’の語句は室町期の左京阿日教師の文献が初見です。それ以前には今のところ遡れない様です。

1115れん:2004/10/22(金) 18:47
有師の聞書を読みましたら下野阿闍梨聞書に「開目抄に云く、一念三千の法門は本門寿量品の文底に秘してしつめたり云々」(歴代法主全書第一巻395ページ)とありました。ということは、左京阿日教師より少し先の大石寺九世日有師の代まで遡れるということですね。達師の指南では古来より‘秘し’を足して読んでいたとのことですが、それは石山九世日有師の代まで遡れる様です。ただこれに関連して気になるのは石山九世日有師は「興上は如来秘密神通之力の文底にしつめ御座と被遊て候」(典拠不明)と述べられているのに、江戸期の同山二十四世日永師の「口決」や同二十六世日寛師の著作では「我本行菩薩道」の文底としています。この違いは何なんでしょう?

1116犀角独歩:2004/10/23(土) 08:23

れんさん、種々ご教示、有難うございます。
法華経寿量品文底秘沈が三重が解されていく仮定は興味が惹かれるテーマですね。
蓮師は法華経の文底に一念三千と言いながら、一方、妙法蓮華経の五字に裏むとも言います。
この会通がどうなるのか、まずあり、のちにご呈示の如き、「如来秘密神通之力」「我本行菩薩道」の相違も生じる変遷もまた興味が惹かれますね。

1117紺碧:2004/10/24(日) 10:10
突然の無礼で申し訳ありません。

>>1110
平和創価クン、何をウロチョロしてるのだか知らないけど、少なくともこのような書き込みがおよそ人を「招いている」態度とは言えないのだが。

>281 名前:平和創価 ??? 投稿日:04/10/19(火) 21:49:56 ID:???
>小野。何とかいえよ!俺はお前の言動で「富士門流信徒の掲示板」に移った
>訳だ。お前が創価学会の正義を主張するなら、この掲示板でやって見ろ!

>お前がこの犀角独歩に勝てるのか!お前は教学では犀角独歩に勝てないのだろう!
>俺は犀角独歩にめちゃくちゃにやられた。お前が掲示板を立てているんだから、
>あの独歩に挑戦しろよ。教学的にも。それができないんじゃ小野お前の負けだな!

どこまでも他力本願な姿勢を正さない限り、君はどんな場所に行こうが誰にもまともには相手にされないことだけは言っておく。

1118犀角独歩:2004/10/24(日) 23:03

>1117

どうやら、わたしのことが話題になっているようですが…。

1119卞氏:2004/10/26(火) 16:36
>それを口にする本人にぴたりとマッチする悪口を書くのでしょうか。
これ、以前良く私も経験しました。「おめーのことじゃないか。」ってね。

でも、それって自分のことだったんですね。それに気づいた者勝ちです。きずかないほうは永遠に同じことを経験し続けるでしょう。

それは言われたほうの人の命も、びんびんに感応するからでしょう。
相手のあら探しをしているからでしょうか。悪いところは目につきます。どっちもどっちなんですね。
その自分に気づかないから、不思議におもうだけなんですよね。

学会員の姿に自分の姿を見るべきですね。

1120チャレビンスク70:2004/11/01(月) 00:12
犀角独歩ファンとして正直なこと言えば、
小野不一氏と犀角独歩さんの論戦は見たい。
端から勝負にもならないと思いますけど。

ただ、犀の角の如く独り歩む独歩さんが、
単なる宗教イデオローグを相手しても、
詰らぬものを斬ってしまった事にしか
ならないでしょう。

あ、申し遅れましたがここのROM者です。

1121犀角独歩:2004/11/01(月) 12:38

チャレビンスク70さん、はじめまして。
まったく仰せのとおりです。わたしからすれば、ただ事実を突き止めることだけを問題にしているのに、「勝った負けた」と訳の解らない論法にすり替えられるのはただ迷惑なだけです。

また、自分の信じるものに尊敬の念を払わなければ、悪人扱いし、卑下することが差別であり・人権侵害であると気付けぬ信仰者の無礼にわたしは甘んじません。今後、そのような人々の煽動に応じないつもりでおります。

いまわたしは、大石寺信仰圏の人々の夢想を根こそぎ打ち砕く作業を行っています。組織代理と独り善がりの下らぬ感情論に付き合う暇はありません。

1122チャレビンスク70:2004/11/02(火) 01:26
こちらこそ初めまして、犀角独歩さん。

独り真実を追い求め、事実に対し真摯且つ虚偽には峻烈である者と、
耳当りの良い言葉を吐く取巻を侍らせ、閉塞した空間で妄想逞しくする者との
違いは、不信心な私にも判ります。徒党を組んで事を為すのは、元々仏教の本義に
反してもいるのでしょう。

特定の団体でしか得られぬ真実など高が知れている。いやそれは殆どの場合、
虚偽と傲慢と無知の産物でしかないと私は思います。犀の角の如く独り歩めと、
スッタニパータの冒頭にありますが、言われるまでも無い、そうする事でしか
真実に近づけないのだから。教団の指定する教義に嬉々として身を任せ、
精神的盲目の代償に得た優越感を貪る者に、世にある物事の一体何が見通せると
言うのか。

一生覚れなくとも構いませんが、せめてそういう卑しい心の在り方からは
無縁で生き、また死んでいきたいものです。

1124通りすがり.:2004/11/02(火) 10:22
つぶやき五郎さん。どうして、あなたがそのことを知っているのですか?

1125犀角独歩:2004/11/02(火) 10:56

> 1123

この投稿は以下2点に就き違反しているので削除すべきであると、管理人さんに進言申し上げます。

まず1点。当掲示板のルールで「「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止」という点に抵触しています。また、「他人の個人情報(実名、住所、年齢、電話番号、メールアドレス、家族構成、勤務先情報、等)を、掲示板で公開してはならない」とあります。日教研発表者とここに呈示された名前等の実否は別として、この点に該当するからです。

もう1点。ここで記される「詐取」が事実であれば、刑事事件として被害者は訴え、警察当局が逮捕、処罰されて然るべき事件として扱われるはずです。ところがその犯罪者であるという人が公然と研究発表の場に臨むとすれば、そのような立件はされていないことを意味します。ならば、1123の投稿は立件されない流言・噂話を以て斯かる人を誹謗する寧ろ名誉毀損に該当する投稿であると判断するからです。

1126管理者:2004/11/02(火) 11:18

つぶやき五郎さん

あなたの1123レスは、当掲示板の禁止事項に該当していますので、削除いたします。

2 他人の個人情報(実名、住所、年齢、電話番号、メールアドレス、家族構成、勤務先情報、等)を、掲示板で公開してはならない(ペンネーム、ハンドルネームと実名を特定させるような書き込みを含みます)。

1128管理者:2004/11/02(火) 11:30

通りすがりさん

犀角独歩さん

ありがとうございます。誠に、仰る通りであろうかと存じます。

この掲示板を、個人攻撃に使われた事は、管理者として、誠に心外です。

書き込まれた内容の実否に拘わらず、当掲示板は、そのような書き込みをする場所として設定しているわけでは有りませんので、もし、それが事実なら、警察に情報提供されるべきでしょう。

管理者はこのような書き込みに対して、断固として対処してまいります。

1129流石 桜子:2004/11/02(火) 19:31
、、直近は某S会系の謀略的な投稿も目立ち始めましようですネ、。 マ、当然の予想の一環でしょう。 時には、乗ったフリをしまして言い分を聞くのも、論理の展開などでは、一応の余裕も必要で御ざいましょうか??

1130愚鈍凡夫:2004/11/05(金) 11:07

サブ・コンピューターが老衰で逝ってしまったので、サブ・コンピューターを購入しようと日夜頑張っております。 (^▽^;)

「池田さん、葉っぱをお札に替える錬金術おせえて。と、ほざいてみる今日この頃であった。銀杏でも売ろうかなぁ・・・・・。パソコン買えるかなぁ・・・・・」(by 独り言)
(^0^;)

1131平和創価:2004/11/05(金) 13:36
今日は!愚鈍凡夫さん。
お元気ですか!

最近のニュースを見ていると恐ろしくなりますね。イラクで日本人男性が殺害された
ことは嫌なことでしたね。「創価学会の功罪について」の板が閉鎖されているのでこ
こに投稿しました。

報復は報復を生む。怒りを抑えその悪循環を抑えることがいかに大変なことかという
ことを、今回の日本人人質殺害事件で感じました。喧嘩した相手に謝らせようと言う
ことは簡単でも、自分が謝ることがいかに難しいかということが分かりました。

創価学会と日蓮正宗の対立は、その典型かも知れませんね。私は平和解決を望む者です。
HNもそうでしょうに。でも一度喧嘩すると仲直りは大変ですね。(;´Д`)ハアハア

1132愚鈍凡夫:2004/11/05(金) 20:26

平和創価さんどうも。
イラクで打ち首にされた彼は、気の毒だと思いますし、あんな事があってはならないと思いますが、彼は何故、みんなの制止を無視して危険地帯に入っていったのでしょうか。
あれじゃぁ、まるで自殺しに行くようなものですよね。アメリカ帝国主義のポチに甘んじる国からヒッピーのバッタもんのような青年が丸腰でノコノコやってくるわけですから、餌食にならないのが不思議なくらいです。イラク人ですらアメリカ寄りの人物は命が危ないわけですから、外国人なら尚更です。

アメリカは、多大な犠牲を払って敗北した、ベトナムの教訓を忘れてしまったように思います。と言うよりも、ベトナムの「トラウマ」から逃れようと足掻いているのかも知れませんが・・・・・。
日本で成功したからといって、他の国では必ずしも成功しないといった事が未だに飲み込めないようですね。日本には数千年来のカリスマである「天皇」がいるが、ベトナムやイラクには「天皇」はいないんですよ、米大統領さん!!
巨万の富をドブに捨てた湾岸戦争とイラク戦争。その費用の千分の一でもいいから有意義に使えば、飢餓や伝染病で命を落とさなくてすむ人々が沢山いるのです。
「トマホーク」一発で、パンがいくつ買えるんだろうか。そんなことを考えてしまいます。

1133夜の街:2004/11/06(土) 03:40
平和創価さん、はじめまして。ひとつお伺いしますが、宗門との平和的解決とは、いったいどのような方向なのでしょうか。ちなみに私は無理だと感じていますが。(-。-;)そろそろ池田先生御直筆の大御本尊が必要になる時期に来てますよね。

1134平和創価:2004/11/06(土) 06:07
>>1132 愚鈍凡夫さん
あの香田さん斬首の動画は4日に東京都から差し止めになったため、もう見ることは
できませんが、あれは打ち首ではなく江戸時代の鋸引きですよ。あの動画を見た後気
分が悪くなって精神科に駆け込んだ人もいたそうです。

まあ死人にむち打つようですが、香田証生さんは思慮に欠けていたと言えますね。イ
スラム圏に行く時には英語だけではなく、アラビア語も勉強してその会話も練習して
おかなければいけないのですよ。受験勉強を殆どしないで東大を受験したようなもの
ですね。

ブッシュ大統領は資産家の息子で元カウボーイだったそうですが、大した大學を出て
はいません。あまり頭のいい人ではないようです。大量破壊兵器も見つからず、イラ
ク戦争開戦の理由がなくなってしまい、さらに10万人以上ものイラク人と1100
人以上の米兵が死んだことに対して謝罪もせず、さらにテロとの戦いアメリカ人の子
供を守るための戦争であるなどど言って戦争を鼓吹していますね。アメリカは1812〜
1814年の米英戦争やベトナム戦争の失敗をまたやらかすのかも知れません。大統領を
選出する国民が頭が悪ければ頭の悪い大統領を選出するわけです。民主主義が必ずし
も良いというわけではありませんね。日本も然りですね。選挙権は選考試験を行い、
危険思想を持たず、一定のレベルに達した人間だけに与える制限選挙にした方がいい
ような気がします。人から頼まれて特定の政党に投票するなんておかしいとは思いま
せんか?自分自身の意志で、十分熟慮して投票はするものですよね。

>>1133
夜の街さん。初めまして。
創価学会の教義は日蓮正宗の教義と殆ど同じです。御本仏を蓮祖とすることを否定し、
池田先生を御本仏とする方向に行ったとしたら、創価学会は今までの教義を全て否定
することになり、近未来には崩壊の方向に進んでしまうような気がします。

しかし将来、富士門流信徒が一致団結して、創価学会、宗門、法華講、顕正会、妙観講
の俊英達が富士門流の教義を再研究し直して、科学的な検証を行っていけば統一される
可能性は遠未来にはあると思います。全く不可能とは思いません。あれだけ大戦争を行
った日本とアメリカが同盟国になったのですから、双方が相手の立場を十分知り合えば
和解は可能であると思います。私は日本やアメリカの報道以外のイスラム系の報道やそ
の歴史を知ることに因って、アルカイダの気持も理解できるようになりました。彼らは
イスラエル人やアメリカ人に因って殺された、多くの子供達を含むパレスチナ人やイラ
ク人に同情し、シオニストを含むアメリカやその同盟国に対して猛烈な憎悪を抱いてい
るのです。私達はそうであったはいけないと思います。互いに他の立場の人のことを理
解し合うべきだと思います。いずれにしても対立する立場にある人の不幸を喜ぶことは
あってはならないことであると思います。

1135雖念:2004/11/06(土) 06:47
平和創価さん:

お久しぶりです。
ちょっと横レスさせてください。

<しかし将来、富士門流信徒が一致団結して、創価学会、宗門、法華講、顕正会、妙観講
の俊英達が富士門流の教義を再研究し直して、科学的な検証を行っていけば統一される
可能性は遠未来にはあると思います。

上部構造(精神)は下部構造(経済)に規定されるのであり、富士門流が統一されるとしたら、教義の違いに目をつぶって、利権のために統一されることしか可能性はないと思います。宗教で「食っている」プロ宗教家が、「めしの種」を簡単に手放すはずがありません。
私のような、組織に所属しないものが自由に発言できるのは、まさにこの宗教的利権から自由であるという理由によっていることを認識すべきです。

1136愚鈍凡夫:2004/11/06(土) 09:21

でも、何ですね。ブッシュ大統領は今後4年間はフリーハンドで怖いもんなしですから、色気づいて何やらかすか分かりませんね。
「強いアメリカ=横暴なアメリカ」が先鋭化されるのではないかと危惧するものです。
小泉さん・ブレアさんと手に手を取ってノーベル平和賞狙いなんてことは、眼中にないでしょうね。

サマワのイラク人雇用問題だけでも解決しなければ、事態は益々深刻化していくように思いますよ、小泉さん。マスコミ報道を見る限り、彼らは物乞いをしているのではなく、仕事を欲しているように思います。

1137平和創価:2004/11/06(土) 12:25
>>1135
雖念さん。本当にお久しぶりです。
以前生命論の死と再生の私のカキコの緩いところを訂正して頂きまして有難うございます。

>上部構造(精神)は下部構造(経済)に規定されるのであり、富士門流が統一されるとした
>ら、教義の違いに目をつぶって、利権のために統一されることしか可能性はないと思います。
>宗教で「食っている」プロ宗教家が、「めしの種」を簡単に手放すはずがありません。

富士門流の宗教家達が本当の信仰者達ならば、利権を無視して統一される可能性はあると思い
ます。しかし残念ながらそれを疑う事実ばかりが出てきていることも確かですね。

>>1136
愚鈍凡夫さん。
イラクはもうどうしようもない状態ですね。もしアメリカでまた大規模なテロが起
きた場合、ブッシュ大統領はイラクに核兵器を使用しかねないのではないかとまで
懸念します。

1138平和創価:2004/11/06(土) 12:55
以前2ちゃんねるで、外部の人と対話したのですがかなり酷いことを言われましたよ。
「創価学会の功罪を考える」という掲示板が昨日閉鎖が解除されましたので、紳士淑女
としてお互いに話し合いたいと思います。また卞氏さんも戻って来るでしょう。この富
士門流信徒の掲示板は紳士淑女の対話の場ですからね。

アメリカはもう「デモクラシーの帝國」になってしまったのですよ。ローマ帝国に似て
いると言われていますね。歴史は繰り返すのですね。世界の宗教が仏教だけになれば戦
争はなくなるかも知れませんね。諸悪の根源は旧約聖書と新約聖書にあるのですよ。人
間が有情の動物の生命を奪い食物としたり支配利用している限り、世界平和は実現しま
せん。仏法の不殺生戒を世界に広めなければならないのです。

1140管理者:2004/11/06(土) 22:18

とおりすがりさん

貴殿の1139レスは、当掲示板の禁止事項

1「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。なお、管理者の制止を無視して、侮辱表現、侮辱発言を続けられた場合は、以後の投稿をお断りする事になりますので、予め、御承知置き下さい。」

に該当しますので、削除いたします。よろしくお願いいたします

1141平和創価:2004/11/06(土) 22:25
>>1139
いわゆる独善というものですね。日蓮正宗は現在の67世の顕師に至るまで、いろいろ
な貫首が交替しながら現在に至っています。私達は蓮祖の時代に戻って蓮祖の思想その
ものに戻り、富士門流の原点から研究し直すべきだと思いますね。
キリスト教原理主義のアメリカも、イスラム原理主義のアルカイダも自分だけが正しい
という考えを持っているために、あのような惨事が起こるのですよね。これは人間の持
つ根源的弱さからきているようです。

犀角独歩さんはあくまでも富士門流の歴史や教義を客観的に研究、分析されています。
そうした冷静な態度で創価学会も宗門も、法華講も真実を究明して欲しいものですね。
自分達だけが正しいというのではなくてですね。

1142平和創価:2004/11/07(日) 08:39
「富士門流信徒の掲示板」が最近検索しにくくなりました。アドレスを知らないと
ここに辿りつけなくなりました。お気に入りに入れていないと分からなくなってし
まいますね。前は「富士門流信徒の掲示板」をクリックするとすぐにここに来れた
のですが。

1143平和創価:2004/11/07(日) 09:49
>愚鈍凡夫さん。

香田さんが何故イラクに行ったのか真相が分かりましたよ。彼こそ本当の菩薩ですよ。

「香田さん、誰にでも優しかった」友人ら語る

http://www2.asahi.com/special/jieitai/hostage/TKY200411010043.html

1144平和創価:2004/11/07(日) 16:09
犀角独歩さんは凄いですね。凄い努力家です。私もロムしましたけれども、教学では
もう太刀打ちできませんでした。

私は別の勉強があるので教学に目を通すことができません。申し訳ありませんが富士
門流の歴史や蓮祖から顕師までのことを全て研究する時間も余裕もありません。

でも富士門流の人達の利害を越えた信仰心に因って、再び法華経と蓮祖の生命尊厳の
思想が世界に広宣流布される時を願って止みません!

1145愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 20:34
>>1143:

イラク戦争のことは知っていたとのことですから、イラクの人質問題を知らなかったとは思えません。まして現場にいれば、言葉は分からなくとも、現場独特の雰囲気で不吉なものを感じるものです。
記事を読んでみると、見識を広めるために海外に渡ったように思いますが、そのことと、「本当の菩薩」という表現が結びつきません。
それに、この記事を読んでみても、彼がイラクに行った理由は書かれていませんね。ボランティアに積極的な好青年であったのは分かりましたが、未だ戦時下のイラクに単身乗り込んで、何をするつもりだったのかは分かりません。

1146平和創価:2004/11/10(水) 11:37
今日の聖教新聞の『新・人間革命』羽ばたき二十七には「出席した日達法主は、冒頭の
あいさつで、正本堂の意義に言及した。「正本堂についていちばん重大な問題は、どの
御本尊を安置申し上げるかということでございます。過日来いろいろなところで質問さ
れ、またこちらにも問い合わせがきておりますが、それに対して、私ははっきりした答
えをせず、ばくぜんとしておいたのであります」とありました。明日の『新・人間革命』
に答えは出るでしょう。

達師は大御本尊を蓮祖の御真筆と信じていたか、それともそうでなかったと言うことです。
また元御宝蔵に御安置されていた本門の戒壇の大御本尊が蓮祖の御真筆かどうかということ
が明日の聖教新聞で分かるのでしょうか。顕師は大御本尊を偽作であると言ったということ
を創価新報で読んだことがあります。でも今日の聖教新聞からは、達師は元御宝蔵に御安置
されていた御本尊を蓮祖の御真筆と信じていなかったような感じがします。

1147風見鶏 110:2004/11/10(水) 18:37
、、一言を送呈します。 創価とは一応は商標登録された、その名前を名乗る以上は、当然に当該団体の正式か、あるいは何らかの暗黙の了解をすべて取得を完了、、と御判断をいたします。 早急に現会長から広報責任者などに、事の真偽を確認する必要性が発生したようです。 もし全く個人的な投稿ならば、団体名を名乗るのは極めて軽率のきわみ、かと存じますが。ヨーク考えましょう。

1148夜の街:2004/11/10(水) 21:02
平和創価くん、君の妙なプラス思考は見ていて笑えるが、独歩氏にやれあいつと対論しろだとか、よそでガタガタここをネタに騒いだケジメは付けたん?君のカキコミは空回りしているだけじゃなく、見ている者を不快にさせる創価独特のウザいうんちくが多いね。ま、こんな事言っても聞きやしないだろうけどねー(-。-;)大創価学会の仏法繁栄の為に、小野氏の元へ帰りなさい。

1149単己:2004/11/11(木) 05:34
>1146
>明日の『新・人間革命』に答えは出るでしょう。

なに言ってるんでしょうか?『新・人間革命』なんてフィクションですよ。作り話。おとぎ話。でっち上げ。ファンタジー。

それに、細井さんのこの発言は有名ですよ(昭和四十年二月十六日第一回正本堂建設委員会)。答えも何も今更です。

この辺の文章は阿部さんや宗門に対する憎悪から、いかに正本堂が宗祖の遺志に添った意義のある建物であるかをクドクドと述べようとしてるところではないですか。

過去ログもう少し読んでから書き込みして欲しいですね。そうすれば、こんな自己満足のためだけの書き込みなど必要なくなりますよ。ムダな上に不快です。

1150一談家:2004/11/11(木) 07:41

平和創価さん

みなさん

今日の聖教新聞見ました。新小説人間革命には、「戒壇本尊」という言葉で日達上人の言葉として書かれていましたが、この「戒壇本尊」とは、新小説人間革命の著者は、何を指していると考えているのでしょう。ここの掲示板で問題になっている「弥四郎曼荼羅」=「大石寺戒壇板本尊」のことなのでしょうか。

1151nam:2004/11/11(木) 20:58
ぼくは個人的には池田センセイが当時、本物と信じていたかどうか
いま信じているかどうかのほうが興味あるね

1152へいわそうか:2004/11/12(金) 04:32
>>1151
私も同感です。達師も当時「弥四郎曼陀羅」を蓮祖の御真筆であると信じていたのかどう
かということや、一談家さんが仰っているいるように「弥四郎曼荼羅」=「大石寺戒壇板
本尊」と考えていたのかどうかということも、重大な問題ですね。
顕師は「川辺書簡」で明らかになったように、「大御本尊は偽作である」と言ったそうで
すが、そうなると達師も本当はその疑いもあると心の隅では思っていた可能性もあります
ね。しかし莫大な費用を投じて正本堂が完成された当時、もし「大御本尊が偽作である」
などということになったら大変なことになったでしょう。

namさんが仰っている通り、私もその点については大変興味があります。

1153卞氏:2004/11/22(月) 09:36
正本堂。
ご供養されていた方々全員の名簿が奉納されていた。
それは、今どうなったのだろうか・・・。

1154ナナシ:2004/11/22(月) 23:51
はじめまして
正本堂って、本堂とは違うのですか・・・

1155夜の街:2004/11/23(火) 00:00
当時式典着用の達師の袈裟衣、池田大作のモーニング上下、御供養名簿は千年持つと言われた(笑)立派な建物の地下室に雨水と地下水で泥まみれで何がなんだかわからなかったそうな。どこが歴史的な建物だったんだか(大爆笑)あんなパルテノン宮殿のなんちゃっては破壊して正解。

1156夜の街:2004/11/23(火) 00:23
当時の正本堂御供養名簿は、三色のタイムカプセルに入れられて、ドライブイン「もちや」子ども広場の地下深く埋まっています。(ウソ)

1157卞氏:2004/11/24(水) 10:17
>正本堂って、本堂とは違うのですか・

違いますよ。おそらく、多くの法華講の方のご両親ぐらいの年代なら
ご存知のはず。また、ご供養も頑張ったことでしょう。
そういう方は名簿に載っているはずです。

>>1156
どうも有り難う、そういうふうに別に保管している可能性としては有りますね。

>>1155
壊して正解なんてことは無いですよ。壊すためにも莫大な費用が懸かっているのですから。
法華講員にとっては、知らん振りもできない問題でしょう。

1158犀角独歩:2004/11/25(木) 00:45

> 1157

この意見にはわたしはまったく賛同します。

1159ロット:2004/11/28(日) 12:22
管理人様、独歩様、お言葉をくれた皆様。
こん・・わ。覚えてくださっているとうれしいです。”元”顕正会員のロッドです。ご無沙汰しちゃっています。その後家族ごと引っ越しをしまして一度一時は一緒にいたんですが、はずかしさもたんまりあって友達の家とかテンテンとしてました。実は今は某国海外にいます。日本から遠く離れた地です。今そちらは何時なんでしょうか。逃亡ではないですよ(笑)顕正会に私が入ってしまったせいで不通になってしまっていた友達もこっちにきてるっていうのもあって、いろんな世界を見てみたいのもあって。
ちょびっと治安が悪いのが心配ですが(>_<)その後はすっかり会のほうともすんなり終わって気持ちはスッキリしてます。そのかわり日本にいるとき町中で友達といるとき勧誘されました。そういう運命ですかね(*^_^*)会の名前は言われませんでしたが多分顕正会の人でした。 分かってしまう自分が怖い(^^;)でも本当に皆様のお陰様で本当にスッキリ爽快です。あとは家族との仲が昔に戻れれば最高なんですが、なかなかお互い難しいです。恥ずかしさもありますし。観光ビザしかとれなかったんで長居はできませんが、こっからアメリカとハワイに行って友達に会ってきたいと思ってます。顕正会に入ってから全く音信不通になってしまっていたんで、大親友だったのに私のせいでチリヂリになってしまって謝りに行ってきます。ようするに謝罪行脚ってやつですね(>_<)外語系の学校だったんで、みんな遠いよー(>_<)どうぞ皆様もお元気で。私も元気いっぱいに生きていきます(^o^)友達はすっごく喜んでくれました!涙まで流してくれて、私も(T_T)

1160犀角独歩:2004/11/29(月) 12:10

ロッドさん、お元気そうで、何よりです。

1161犀角独歩:2004/11/29(月) 12:11

失礼、「ロット」さんでしたね。

1162卞氏:2004/12/09(木) 15:54
台湾・・・こんな奴からは早く遠ざかるべきです。
http://news.google.com.tw/news?hl=zh-TW&amp;ned=tw&amp;ie=UTF-8&amp;q=%E6%97%A5%E9%A1%AF&amp;btnG=%E6%90%9C%E5%B0%8B%E6%96%B0%E8%81%9E

1163犀角独歩:2004/12/10(金) 00:33

極端な個人崇拝も、極端な個人批判も、同じように滑稽ですね。

1164卞氏:2004/12/10(金) 17:49
ん?
それは台湾のメディアが、滑稽だということかな?

1165犀角独歩:2004/12/10(金) 21:38

いえ、文字通り、極端な個人崇拝と個人批判が
しかし、特定の個人にいつも興味を集中していることにはしばし感心

1166卞氏:2004/12/11(土) 10:43
その個人の行動を観るに、信仰するしないに関わらず、不幸をもたらす元凶ですから。

ものすごい「善知識」になるんですがね。

1167平和創価:2004/12/11(土) 16:46
>>1166
卞氏 さん
お久しぶりです。私も創価学会の池田先生個人崇拝試行には、不満や疑念を抱かずには
いられませんでした。
座談会、会合での個人崇拝の行きすぎ。  このことは私も幹部に言っています。

創価学会は池田教ではない!あれは師弟不二を現すものであって個人崇拝ではない!

1168犀角独歩:2004/12/11(土) 21:51

わたしが個人崇拝云々を書いたのは阿部さんについて何ですが、いつの間にか池田さんの話になってしまいました(笑)

1169卞氏:2004/12/15(水) 10:30
>座談会、会合での個人崇拝の行きすぎ

たとえ師に「随従」することはできなくとも、「同じ目標」に起って人生を歩むことが、「師弟共戦」です。

現法主と同じ目標に起ったらひどいことになります。
どうも、法華講員の信仰は、そこはどうでも良く、
「法主」を高いところに崇め、そのイメージに従うという感じです。
信仰としてはそういう形態もありですが、それは「師弟」とは言いません。
それは「法主崇拝」というほうが近いです。
学会を引き合いに出して池田教などといって罵り、法主誹謗を極端に制限すれば、
その「法主崇拝の状態」を続けるための隠蓑にすることができましょう。

1170犀角独歩:2004/12/15(水) 23:06

自分が独立した個人として尊厳を考えるとき、自分が特定の集団、個人から影響を受けたことを露わに覚られるような恥ずかしい言動を避ける、これが一つの良識であるとわたしは考えます。

1171卞氏:2004/12/16(木) 10:19
法主に盲目であれば、法華講員も良識ある信仰者でいられる。そんなんなら、一人でもできるだろう。
法主に従順ならばその悪には気が付かない。何しろ宗教だから。

主体者として団体に参画する。ここがポイント。

1172一談家:2004/12/16(木) 10:39

日蓮正宗には、「唯授一人の血脈相承」というシステムがあります。このシステムが機能している限り、信徒は法主に従順にならざるを得ない、そういうシステムがあるわけです。一体、誰が考えたのでしょうか。日蓮大聖人が、そのような馬鹿げたシステムを考えられるはずが無いと私は考えます。天台の腐敗堕落の様相を目の当たりにされた聖人が、同じ轍を踏まれるとは、どうしても考えられないのです。

六老僧を選定されて、「不次第」とされた聖人が、別途に「唯授一人の血脈相承」をされたとしたら、『聖人は、臨終を間近にして、頭がおかしくなってしまわれた』と宣伝しているようなものです。

まず、この虚構のシステムを捨てる事だと思います。そこからしか、日蓮正宗の再生は無いと思います。はたして、それが出来るかどうか、まず無理かな・・・

一檀家の呟きでした。

1173平和そうか:2004/12/17(金) 03:30
法主本仏論などどいうことを顕師自身が言ったとしたら、大変な誤謬であると思います。
蓮祖御自身さえ自分が御本仏であるとは御書のどこにも書いてはいません。

宗門は創価学会を破門し正本堂を解体することによって、将来創価学会員が宗門側に漸次
付いてくると読んでいるようですが、宗門である日蓮正宗自体の矛盾やその歴史の不透明
性、さらに大御本尊が偽作であるということを法主自身が言ったことが明らかになり、ネ
ットを通して大御本尊の真実が明らかにされてきている現在、創価学会員はたとえ脱会し
たとしても、宗門側には付く確率は少ないと思います。全く無宗教になる人がほとんどだ
と思います。

1174平和そうか:2004/12/17(金) 03:45
将来的には創価学会も、宗門も真実を隠して信者を率いていくことはできないように
なっていくと思います。新聞もテレビも雑誌も報道できないことを瞬時に全世界の人
たちに知らしめることができるインターネットという報道手段が生まれ、一般人に普
及しつつあるからです。現在は小学生でさえもインターネットをやっています。

私が知る範囲ではインターネットをやっている年齢層の主流は、10代から30代の
人のようです。携帯電話でもネットを見たりメールの送受信ができる機種ができてき
ていますし、インターネット常時接続の携帯電話さえあるくらいですから。空いた電
車の中で携帯電話をいじくっている人たちを見ると、あああの人もネットを見ている
なと思います。

1175卞氏:2004/12/20(月) 09:39
年末ゆえ、あわただしい。油断なく無事故でお過ごしくださいませ。

1176???:2004/12/24(金) 06:45
>1173

>> 全く無宗教になる人がほとんどだと思います。

そうは、思わないけど。ご本尊は「象徴」であって、それに何か特別な力が備わってると勘違いしてるから、そんな発想が生まれるんじゃないの?
「幸福製造機」だと信じてるから、「幸福製造力」がないものにはついていけないと...

でも、今朝のグラフSGIの見出し「同苦する心」笑っちゃうね。「孤楽」してるくせに...

1177一般人:2004/12/24(金) 07:39
>>1174
真実を隠して信者を率いていくことはできないように
なっていくと思います。新聞もテレビも雑誌も報道できないことを瞬時に全世界の人
たちに知らしめることができるインターネットという報道手段が生まれ、一般人に普
及しつつあるからです。>>1174創価の裏情報あるの?隠し事あるの?

1178さんた くろうす:2004/12/25(土) 02:46
 。 ○  o    ○  γ⌒ヽ     ○  o    ○
        o      (:::::::::::::::)⌒ヽめぐみさんもうすぐ行くよー♪ o
    o         (^▽^ )__ )  プレゼントは何が欲しいかな?
  ○   。  ○  /○  ○) /|,. o       O  o
。  o    o   ∠∠______∠_/ /     ○
      o    .|/     |_/  ○   。  o  O 。
 o  O     / ̄ ̄ ̄/ ̄   o    。
      。  ノ      /    o         O
 o  o  ∧∧__ノ) ∧∧__ノ)    。   o      ○
  o   (゚-゚= )  (゚-゚= ) つ  o   °      o   。
 。  o ∪-∪'"~ ∪-∪'"~  。  。 o   °o 。

1179サテ:2004/12/27(月) 02:51
天文学上では過去未来とも何年の何月何日に日食があったか、またはあるかは、全て判明してるそうです。古代ですら二千年前にも「サロスの周期表」という完全な日食周期表が既に作成されていました。引用されてはいませんがそういった視点から「不動愛染〜」を検証するのは画期的と思えます。書かれていた日食が架空の出来事だとするならば、竜の口のひかりもの以上にアウトですね。天体現象として事実が断定出来ますから。偽作者もさすがにそこまではいたらなかったのでしょうね。

1180名無し@富士門流:2004/12/27(月) 16:13

やっぱ「不動愛染〜」の考証は、学会の北林氏のものよりも、日教研の小松師・都守師や興風談所の坂井師・菅原師などの教示を得て書かれた以下の小論の方が参考になるのでは?

http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents11.html

1181サテ:2004/12/27(月) 17:50
日食以外の現象であるとの仮定が無いと成り立たないし、その現象が何であったかも追求せずに、真筆であることだけを断定しているあたり文系・宗教系学者の陥りやすい盲点にはまっている感じですね。真偽不明あたりに抑えておくべきな気がしますよ。そもそも真筆であるという根拠が明示されていませんし、写本・引用の最古が16世紀位では怪しい富士門の相伝書の写本よりも後になる話ですしね。(そういえば、この書が伝わった寺院も富士門。)他の研究資料で筆跡が何故か晩年のに似てるというのもますます怪しい。謎が多いのは面白いですけどね。

1182名無し@富士門流:2004/12/27(月) 18:10

日蝕ではなく「日『虫虫』」なので、「日昏」(夕暮れ)のことではないかとするのが、興風談所の見解のようですね。

詳しくは「御書システム」の不動・愛染〜の「御書資料」をご参照ください。

北林氏のお考えよりは、説得力があると思いますよ。

1183サテ:2004/12/27(月) 20:46
先ほどのリンク先にしっかりと皆既日食の際に見られるコロナのようなものが克明に描写されてる、と書いてありましたが…。それに夕日ではコロナは見えません。新仏という人に関してもあれこれと推測されているだけで根拠も明示されてませんね。他も仮定と推測をひたすら積み重ねているに過ぎませんので残念ですが説得力は感じませんでした。黒点なら肉眼で見える場合がありますからそれを愛染に見えた可能性ならありそうですが、コロナは日食以外肉眼では見られません。真筆という先入観が邪魔をしているような考察でしたね。

1184あわわ:2004/12/27(月) 21:30
北林の最蓮房日興説なぞ状況証拠と推理の積み重ね、遺文曲解と断定の最たるものだろう。山崎や河辺ともつながってるような謀略畑な人間だが?

1185サテ:2004/12/27(月) 22:03
悪いけどその説の部分には興味無いです。北林氏が誰とどうこうも(知識としては色々聞いてますよ。)北林氏がなんだか謀略的な人物だとするならば、「不動愛染」のウサンくささに感づいたのは当然?同類相哀れむの本能かと思いますね。文章とかはいくらでも偽造出来る(自分がやってたから)ので他の分野の資料を引用したんでしょうか?自分はあの書が真筆でも偽書でも構いませんが、客観的事件とあいいれないのに、大の大人がそこには触れずに真偽論争してるのがアホらしいと思ってます。挨拶無しの横レスもね。

1186名無し@富士門流:2004/12/27(月) 23:40

というか、「不動愛染〜」の胡散臭さは、写真公開したその時から常に漂っていたのでしょうね。
いまさら創価学会員より指摘されるまでもなくネ。
写真公開しているだけ潔いと思っていただければ、それだけで幸かも。

保田妙本寺の霊宝類の本格的な鑑定は、まだ始まったばかりといっても過言ではありません。
現在は興風談所や立正大学などの専門家が入っていますが、「日蓮正宗」時代は当然出来なかったことですから。

私は北林氏の真偽論争は、基本的に信憑性を感じられません。
なぜなら自分達に都合のよい「御義口伝」や「本因妙抄」などは、一切真偽の考証はせずにいて、自分達にとって都合の悪いものだけ真偽にこだわっているからです。

ま〜これも自己正当化(所属組織正当化)のための、謀略論文であるというなら何も言いませんけど。

1187犀角独歩:2004/12/28(火) 00:09

名無し@富士門流さん、謀略文書なんて、上等なもんじゃないでしょう。
近年、最低の、こんな下らないもの、ありません。
不動愛染がニセものだどうのより、自分の身の埃考えれば、大笑いしたい最低の文章です。
わたしは公然と、この文章を批判します。

1188犀角独歩:2004/12/28(火) 00:15

しかし、まさかと思いますが、こんなものが創価学会で、まことしやかに読まれているんでしょうか。
さむいですね、これはほんとに。

1189名無し@富士門流:2004/12/28(火) 01:11

犀角度歩さん、今晩は。返レス恐縮です。

他所で得た情報によりますと、北林氏の所論は、同じ創価学会員の某大学教授の所論に対して書かれたもののようです。
その意味では、どうも学会員同士の論争のようです。

1190サテ:2004/12/28(火) 08:32
北林氏や多くの学会員は素人ですから文献をどう考えようと自由だと思いますが、生業にしている学者さん達が根拠も示せずに持論を展開している方がドキュンな点は上でしょう。素朴に思ったのは、過去の天体現象等の科学的事件と反する決定的な事実すら曲げて解釈しても真筆と疑わない専門家の宗教家さんや学者さん達の神経がどうも…。定説とされていることでも、コト宗教に関しては他分野の視点で見ると結構アレ?だったりするんですよね。自分の分野に閉じ篭りがちなのかなあ…?

1191犀角独歩:2004/12/28(火) 10:22

1189 名無し@富士門流さん:

情報、有り難うございます。
この人物は、RT氏の勉強会に参加していた人だといいますね。
学会員同士の争いですか。なるほど。

創価学会は昭和45年、52年、そして、平成になって数箇度と、時々に進路変更をしてきたわけで、その時々の指導の影響を受けたかなり多くのジェネレーションタイプが混在しているわけですね。まあ、最終的には脱漫荼羅、脱題目までいきたいのでしょうが、おいしい宗教法人特権を捨てるわけはない、このバランスとジェネレーションギャップの調整をしながら、方向性を睨んでいるのでしょうね。こんななかで、いまだに、真偽分別も出来ず、旧態依然とした中世以降の石山教学を上古をとらえるというまことに定規違反の頭で判断して、本までまとめるアナクロニズムが横行しているのは哂うに笑えません。
世界に通用する創価仏法は追及は結構なことであると思いますが、妄想まがいの荒唐無稽な話で会員のみならず、世間を誑かすのはやめてもらいたいものです。

1192名無し@富士門流:2004/12/28(火) 12:08

>1190
>北林氏や多くの学会員は素人ですから

このように常に逃げ道をつくっているところは、正統なやり方とはいえませんね。
はっきりいえば卑怯そのもでしょう。

北林氏は「日蓮大聖人と最蓮房」の「まえがき」の中で

「この「学説」を著者が破せば、著者の述べるところは真実の学説となる。これはもはや、宗派間の論争の域を超えるものであると言える。」

とまで書いているのです。
それが低劣な文章と批判されると「北林氏や多くの学会員は素人ですから」と言い逃れするなら、最初から噛み付かないことでしょうね。

1193サテ:2004/12/28(火) 19:36
は?別に北林氏の説を支持してるわけではありませんが…。過去レスをちゃんと読んで下さいね。
中学生並の理科知識すら持ち合わせてないのに、飯を喰っている宗教家さんや学者さんの説ってなんだかなぁって。したり顔でそれに共感する人が他者を批判してる方がなんだか…。自論に都合のいい説にべったりしてる点では皆さん五十歩百歩では?
夕日でコロナは見えませんよ。

1194あわわ:2004/12/28(火) 20:06
北林は素人がイキがっているようなものだ。奴の妄想は根拠がなさすぎる。日食の件だけは素人ならではの手柄としてやりたいが、指摘ずみではな。プロ学者の情けなさは日本の学界全体に共通な事だろう。特に宗教界程内弁慶な世界はあるまい。宗教系は疑うよりも信じる方が先に来るという、人が良すぎるという部分もあるが。

1195サテ:2004/12/28(火) 20:27
指摘ずみならなおさらドキュンでしょう。一宗派に属する人間ならまだ信条として解ります。でも生業とする専門家学者のドキュン状態が放置されていて素人の見解が云々されている状態は客観的に異常ですよ。第一、創価学会を池田大作率いるナンミョウの凄い団体とは認知しても日蓮史の専門家だなどと世間で誰も認知してませんよ。その点プロ学者の方が罪は重いと思います。

1197管理者:2004/12/28(火) 20:58

>1196

当掲示板の書き込みルールに違反しています。削除いたしました。ルールをお守りになって投稿してくださるようお願いいたします。

1198あわわ:2004/12/28(火) 21:17
プロ学者の甘さは日本の学界全てに言える事だが、君の指摘はあたらない。専門学者の新発見とかで宗教・哲学・思想が劇的に変わった事実もないだろう。他分野云々を言うのなら君も勉強したまえ。

1199サテ:2004/12/28(火) 21:25
残念ながら見ましたよ、削除以前の文。管理人さんも大変ですね。新発見で変わらないって、永遠にドキュンのまんまですか?バカにも解るように説明してくださいよ。このバカは僕のことですから、管理人さん心配しないで下さいね。

1200名無し@富士門流:2004/12/28(火) 22:24

私が示したリンクは日蝕云々というよりも、北林氏の論考?よりも、内容的にずっとましですよという意味で紹介したまでで、誤解をまねいてしまったようで恐縮です。

建長六年正月元旦に日蝕がなかったことなどとっくにわかりきっていることで、興風談所の御書システムでも、そのことをあげた上で「日『虫虫』」は「日昏(ニチコン)」のことで、夕暮れのことではないかとしています。

しかし今時わかりきった日蝕問題で得意になって、「御義口伝」や「本因妙抄」等を堂々と引用する北林氏の論考?は、ある意味滑稽でもあります。

1201名無し@富士門流:2004/12/28(火) 22:36

>中学生並の理科知識すら持ち合わせてないのに、飯を喰っている宗教家さんや学者さんの説ってなんだかなぁって

当然ながら創価学会員よりも、立正大学や日教研、興風談所の研究者の方が、知識も見識も優れています。


>自論に都合のいい説にべったりしてる点では皆さん五十歩百歩では?

全然「五十歩百歩」ではないですよ。
所詮、創価学会員とは土俵が違います。
立正大学や日教研、興風談所の研究者は、少なくとも石とダイヤは一緒にしません。
創価学会は石とダイヤをゴッチャにして、自分達の都合の良いものだけを切り文でつなぎ合わせているだけです。

つまり自己正当化のために、自分達の主張に都合の良い切り文で、パズル遊びしているだけです。

1202犀角独歩:2004/12/28(火) 22:45

名無し@富士門流さん:

わたしもかつて書いてしまったのですが愛染感見を「日蝕」と読むのは、いまとなっては古典に属するごとくですね。
手元にある『平成新修日蓮聖人遺文集』(日蓮宗連紹寺不軽庵/平成6年10月13日初版第1刷)でも「日[虫*虫](にっこん)」となっていました。

要は最蓮房日興説というのは、それまで多分に使ってしまった最蓮房系御書を真書だという勢い余ってのことのような感じを受けます、まあ、これは感想ですが。
しかし、仰るようにまじめな真偽考証をなんらなさず、ただ、己義と違う学者と学説を悪し様にする体質こそ、全編を通じた本質なのであろうと思った次第です。
御書全集記載であれば、真筆であると思っている人は騙せても、良識ある真面目に遺文に取り組んでいる方は看過できることであるはずはありません。

1203サテ:2004/12/28(火) 23:50
は?では既にアウトではないですか?まさしく北林氏以前ですよ。
残念ですが、力説するほど、夕日にコロナを見る宗教専門家のドキュンぶりを浮き彫りにするだけです。
何を勘違いしているのか知りませんが、学会員がど素人の馬鹿以下でも全然構いませんよ。

1204名無し@富士門流:2004/12/28(火) 23:56

立正大学や日教研、興風談所の研究者が優れており、これらの方々によってすでに出尽くしている内容であるということですよ。

「は?」とか「ドキュン」とか、訳のわからない書き込みをする前に、これらの優れた学者陣の論考に学ぶことが最初ではないでしょうか。

1205犀角独歩:2004/12/29(水) 00:35

え、サテさん、わたしの反論なんですか(大笑)
で、あなたはどんな程度で、どんなたちばなのでしょうか。

1206サテ:2004/12/29(水) 00:47
は?天体現象ひとつに無知な学者先生がたが立派な優れた論考ですか?庇えば庇うほど底が知れますね。提示してきた問題以外の他の件に関しては興味ないのでご免なさいとしか言えません。無知の土台の上に成り立った学説なんて閉ざされた世界の滑稽な遊戯にしか過ぎませんよ。小学生の論文の方がよっぽど心をうちますね。

1207あわわ:2004/12/29(水) 01:37
学者専門家の他分野に対する無知は今に始まったことではない。医者なぞもっと酷い。昨今の医療ミスなぞ最早己の職業基盤すら土台が出来ていない証明だ。

1208名無し@富士門流:2004/12/29(水) 02:02

サテさんは批判のための批判ですね。

お相手しても何ら得るものはなさそうですね。

1209サテ:2004/12/29(水) 02:08
別に医者には興味ないです。科学は好きですね。色々検索してたら件の文書に出会っただけです。知り合いの日蓮オタクの影響もありますが…。予言書とか胡散臭い古文書の類とか大好きですね。欧米では偽書贋作でも件の書のように露骨な嘘の天体事件は例が無いんですよ。あちらはBC600年には日食表が出来ていたし、古代ギリシャでは地球が太陽の周りを回っている事は数学から判明してましたからね。件の書画には贋作者の悪戯心を感じます。宗教的野心ではなく、ひかりもの日蓮に仮託した架空の天体ショーの講談のはしりのような痛快さが好きですね。

1210サテ:2004/12/29(水) 02:16
学者先生達の意外なドキュンさを知っただけでも得る物はあったのではないですか?それとも信じているものを失いましたか?

1211名無し@富士門流:2004/12/29(水) 03:12

>学者先生達の意外なドキュンさを知っただけでも得る物はあったのではないですか?

いいえ、全く。


>それとも信じているものを失いましたか?

いいえ、全く。

サテさんのおっしゃることは、こちらとしても当に認識していたことですので。
何も得るものはありませんでした。

それからですね、北林氏を知っているということは、それなりの創価学会員かそれなりに学会関係の研究をしている人でしょう。
いまさら「色々検索してたら件の文書に出会っただけです。知り合いの日蓮オタクの影響もありますが…。」なんていう貴方のほうが、最も胡散臭いですよ。

1212サテ:2004/12/29(水) 10:03
ヤフー検索で「日蓮 偽書」を検索してみてください。231件の中に4件目に既に北林氏のページが出て来ます。「不動愛染感見記」を検索すると、たった21件ヒットの中にそちらのリンクした先と北林氏のページは一発目に出て来ます。ついでに「北林芳典」で検索したら71件。少ない中にもなかなかニギヤカなネタが豊富に出て来ます。学会研究なら知り合いの日蓮オタクは詳しいですね。巨大掲示板からリンクを巡ってこちらも含めて、まともなのから怪しいのまで色んなHP知ってますよ。どちらかと言うと日蓮から否定出来るネタを集めてるみたいです。

1215犀角独歩:2004/12/29(水) 22:47

名無し@富士門流さん:

どこで問いかけてよいかわからないのでご投稿なさっている、このスレッドをお借りします。

本日、保田妙本寺が石山分離直後のお経本を手に取る機会がありました。
二座ですか、「人本尊・僧宝」とあったのですが、この人本尊とは日蓮聖人を指すと思えますが、日蓮本仏ではなく、単に本尊に留まるのでしょうか。また、この本尊とは四依の大士、未断惑の凡夫師の範疇に留まるものでしょうか。
保田の現教学がよくわからないので、ご教示いただきたくお願い申し上げます。

1216名無し@富士門流:2004/12/30(木) 11:40

犀角独歩さん、今日は。

保田の現教学は、日蓮本仏論です。

さらに客観的に申上げますと、「宗祖『人』本尊」というよりも「宗祖『御影』本尊」・・・人本尊ではなく人形本尊論です。

その意味では、袈裟姿の宗祖が本仏・本尊な訳ですから「未断惑の凡夫」であると思います。

保田の宗祖本仏論は、保田きっての情報収集家であった日要師にはじまり、中興日我師によって大成されたと伝承します。

しかし、日我師の論考も両巻血脈抄を背景にしていますので、今後見直されていくかもしれません。
大石寺の日寛師が、観心本尊抄文段の中で「唯房州の日我のみ独りその大要を得たり。」といわれているのが、日我師の宗祖本仏思想のことだと思います。

ところで、日寛師が「日我抄」と呼んでいるものは何なんでしょうね。
日寛師は、日我師の著作をよく引かれていますから、「六巻抄」や「御書文段集」には日我師のことが良くも悪くも多く出てきますね。

1217犀角独歩:2004/12/30(木) 12:14

名無し@富士門流さん:

ご教示、有り難うございました。

> 「宗祖『御影』本尊」・・・人本尊ではなく人形本尊論

なるほど。この点は、たぶん、有師『化儀抄』もそうなのではないのかとわたしは考えています。「当宗…本尊…日蓮聖人に限」という件です。

要師は、我師『申状見聞』が伝える目師最誕伝説の、その人でしたね。

血脉両抄は要山で、中興の祖も要師、なにか関連を感じますが、これは深読みのし過ぎでしょうか。

『日我抄』の特定はわたし自身は出来ていません。恐縮です。

1218名無し@富士門流:2004/12/31(金) 02:49

犀角独歩さん、私も日要師や日有師をはじめとするその年代の各山諸師達が、宗祖本仏思想の「仕掛け人」ではないかと考えています。

そこに行き着く過程には、日大直兼問答、日什派開宗・八品派開宗などが関連していると考えます。

富士門教学への中古天台法門の影響、新学派の脅威と六老門徒元祖本門派としてのプライドなどがあったのではないでしょうか。

全ては憶測の域を出ないものですが。

1219犀角独歩:2004/12/31(金) 16:13

1218 名無し@富士門流さん:

ここら辺のところになると、やはり、『日蓮宗教学史』執行海秀師著(平楽寺書店)は避けては通れませんね。また、この書は、基本的な教科書ですから、派祖教学教学について語る人で、この本を読んでない人はいないとは思いますが。この1冊をもってしても、わたしは執行師に敬意を表します。

1220雖念:2004/12/31(金) 19:43
大つごもりもあとわづか

管理者さま:

今年も、大変お世話になりました。

犀角独歩さん、顕正居士さん、問答迷人さんはじめ碩学諸兄姉の皆様:

数々のご教導を戴き本当にありがとうございました。

そして、すべての参加者の皆様に:

往く「災」の年を送り、家持ではありませんが、降る雪を見ながら、
来年こそは「いや重け 吉事(よごと)」と心から祈りたいと存じます。

みなさま、どうかよいお年をお迎えください。

1221名無し@富士門流:2005/01/01(土) 00:04

管理人さん、また犀角独歩さんはじめ掲示板参加者・閲覧者の皆様、本年も大変にお世話になりました。
どうぞ良いお年をおむかえくださいませ。

ちょっと前までプライドをみてました。
私は明日から新年の初仕事です。

明年も仕事の合間をみて、研鑚と実踏に少ない小遣いを注いでいこうと思います。
どうぞ皆様、明年も懲りずに御教示の程お願い申上げます。

1222問答迷人:2005/01/01(土) 09:16

皆様、明けましておめでとうございます。当掲示板の管理者を勤めさせていただいております問答迷人です。本年も又、活発且つ貴重な議論が展開されます事を楽しみに致しております。御参加の皆様方、どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年の当掲示板のTOPニュースはなんといっても、犀角独歩さんの大石寺戒壇板本尊に対する鑑別と、その出版。富士門関係者にとって、一つの時代が終わり、新しい時代の開幕を告げる出来事で有ったと思います。

タイからのメールによれば、元旦の今日も、犠牲者の遺体が道路に累々と並べられ、30度の暑さの中、耐え難い腐臭を放っている様子が生々しく伝えられています。立正安国論の「牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ、骸骨(がいこつ)路(みち)に充(み)てり。死を招くの輩(ともがら)既に大半に超(こ)え、之(これ)を悲しまざるの族(やから)敢(あ)へて一人も無し。」に匹敵するか、或いは超える事態であると思います。

新春早々、胸が押しつぶされるような惨状をお伝えするべきかどうか、躊躇しましたが、何事も事実を直視するところからしか始まらないと思いますので転載させていただきました。

1224犀角独歩:2005/01/01(土) 12:55

管理者さんをはじめ、雖念さん、名無し@富士門流さん、ほか皆さん。
新年のご挨拶を申し上げます。
旧年は、日本におきましては新潟中越地震で、また世界に目を向ければ、スマトラ沖地震で多くの方々が罹災され、本当に胸が痛みました。なくなられた方々のご冥福をお祈り申し上げると共に、その家族には哀悼の意を表するものです。さらに被害に遇われた皆様には衷心よりお見舞い申し上げるものです。
このようなときこそ、自らの無力を思い知らされるときはありません。
単に「罰だ。謗法だ」と無責任な言説を吐く人々には、自らの浅はかさを顧みることも勧めるものです。

さてまた、問答名人さんには過分なお言葉を頂戴し、恐縮いたしました。
種々、ご教示を賜りましたこと、ご厚情を賜っていますことを改めて御礼申し上げるものです。

『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』は近く増補改訂版をお届け申し上げる所存です。
プレリリース版の段階で概ねご批正を賜った点につきましては、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について 』のスレッドに投稿させていただきました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1012

1225愚鈍凡夫:2005/01/01(土) 13:09

皆様、明けましておめでとうございます。 m(_ _)m

天災が荒れ狂う昨年の締めくくりが、インド洋地震による大津波でした。
たまたま地球の周期と国際情勢が重なった結果かも知れませんが、せめて、今年こそは人災による大量殺戮が終わってほしいと思います。

今年も当掲示板に参加させて頂こうと思いますので、皆様、宜しくお願いいたします。

1226れん:2005/01/01(土) 20:27
遅れ馳せながら、皆様新年明けましてお目出度うございます。本年も、碩学の皆様方のご投稿を通じて「真実」を学ばさせて戴きたく存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。

1227犀角独歩:2005/01/01(土) 21:15

個人的には、ずいぶんと古い記憶に属しますが、古代インド社会で、バラモンがなぜ支配を可能にしたのかを論理的に説明した名文に出会ったことがありました。誰の文章であったのか・なんと言う題名であったのかいまでは失念しましたが、その内容を覚えています。

古代インド社会では、もしバラモンが祈りをやめれば太陽も昇らなくなる・雨も降らなくなる、天災が起こり・国が滅ぶ、死んだときに祈ってもらわなければ地獄に堕ちる・先祖を供養してもらわなければ悪道から遁れられないと頑なに信じられていたので、その支配が可能であったというものでした。

いわば、人間の行為とはまったく関係のない自然現象を、あたかも自分の力によって左右でき、かつ予言して見せ、事実として受け入れられるようにさえすれば、個人のみならず社会全体を支配できるということです。

今回のような天災が起きるとき、悪しき宗教団体は、その自然現象を自分たちの教義が正しく守られていないからだと関連付けた挙句、あたかもその不幸から遁れる方途は自分たち、なかんずくその指導者しか有していないという“虚構のリアリティを構築”して人身の支配を可能にします。

このようば非科学的、文明開闢以前の愚論を信じしてしまう側は、やはり、かなり心理・精神の発達が幼稚なせいであろうと考えがちです。ところが実際には高学歴を有する人であっても容易に、この幼稚な手口に引っかかってしまいます。この点に、わたしは大きな疑問を抱いてきました。

先ごろ、とある精神科医と話したとき、この疑問を解く鍵を与えてもらえました。それは一過的心理・精神退行現象であるというのです。
一般的にとても信じがたいことを信者であるといとも当然のことのように受け入れ・決定してしまう、このときその人の判断に関する知的脳の動作はきわめて幼児的依存退行状態にあるといいます。R・チャルディーニはこのような心理現象を『影響力の武器』で説明し、また、その心理的状態の特徴が「無責任」であることを解析したのはS・ミルグラムでした。退行化の心理はきわめて依存的であると共に、暴力衝動をはらんでいるのであろうとも想像できます。実際、自分たちの教義を強要する様は、とても知的とは言えず、暴力的であることは、不快な勧誘に遭遇した経験のある人であれば誰しも知っていることです。

日蓮圏にいるわたしは、天災、その他の不幸が起き、悲嘆に暮れている人がいるなかで、その感情を悪用し、布教、自己肯定、指導者崇拝の具に処する野蛮に断固、抗議します。また、途方に暮れる人々が、その逆境を乗り越え、回復、復帰を向かうために、力を注ぎ・併せる実際の行動には深い敬意を表するものです。

1228雖念:2005/01/03(月) 09:01
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、寒い寒い朝にコタツの中から顔だけ出して、ディスプレイにむかって、つぶやいています。

一過的心理・精神退行現象であるというのです。
 一般的にとても信じがたいことを信者であるといとも当然のことのように受け入れ・決定してしまう、このときその人の判断に関する知的脳の動作はきわめて幼児的依存退行状態にあるといいます。(中略)退行化の心理はきわめて依存的であると共に、暴力衝動をはらんでいるのであろうとも想像できます

危機的な状況におかれると、私が今コタツにもぐりこんでいるように、生物は身体的にも精神的にも小さく縮こまるという特徴があります。団子虫やアルマジロがそうですね。
 
一個体の存続に関して言うと、たとえば哺乳類などの恒温動物は急激な寒冷にさらされると、末梢の血流を犠牲にすることで中心臓器の血流の確保を試みます。雪山での遭難者が手足を凍傷し、切断の憂き目に遭いながらも肝臓や腎臓の機能がきちんと保持されているのがその好例です。

「退行」という表現自体が否定的な概念であると感じられますが、とりあえず精神を犠牲にしても、個体の存続を図ることが種の存続に有利に働いてきたということなのでしょうか? 考えることに多くのエネルギーを費やすことは、個体の危急存亡に際しては、非効率として切り捨てざるを得ないわけです。

依存的であると共に、暴力的であるのは、こうしたエネルギー節約の過程から生じてくる性向かと存じます。

こうした過程に対して、「退行」というネガティブな表現を用いる精神医学のありかたにちょっとした違和感を感じました。治療者は確かに健常者として、それを退行と捉える高みに身をおく必要がありますが、危機と奮闘している当人にとっては、必要不可欠な防衛機制であり、生命の維持・発展といったより高い目的のためには有利に働いている機制を「退行」と呼ぶのは、???といった気持ちです。

ただ、こうしたスキをついて人々を利用しようとする勢力から無防備になるという点においては、確かに「退行」なのかもしれません。(ぶつぶつぶつ……………..)

1229犀角独歩:2005/01/03(月) 10:33

雖念さん、新年のご挨拶申し上げます。

> …「退行」というネガティブな表現を用いる精神医学

いや、表現を用いるのではなく、医科学的な分析でしょう。

> 「退行」という表現自体が否定的な概念

否定的な概念ではなく、状態を示したものでしょう。
おかしな言葉狩りのように感じますね。

> 退行と捉える高みに身をおく必要

別にこんな差別意識からの発言ではないでしょう。
風邪をひいている人に医師がそれを告げると「健常者の高みから」とならないのと一緒でしょう。

> 生命の維持・発展といったより高い目的のためには有利に働いている機制を「退行」

これはまるで意味を取り違えていらっしゃいますね。
たとえば歯にくっ付いている肉が生きているなんてことを信じることは生命維持発展という高い目的ではないでしょう(笑)
また、「○○先生を信じないと国が亡ぶ」などという場合、国家安泰を試行錯誤することは高い目的であるにせよ、それを御本仏に懺悔し国立戒壇を建てるのが唯一の方途などということは少しも高い目的とはなっていません。それをそのような短絡的な思い込みで済ませてしまう浅慮はまさに退行性を物語っているという話です。

なんだかとずいぶんと穿ったとらえ方しかされないものだとがっかりしました。

1230愚鈍凡夫:2005/01/03(月) 21:14

雖念さん、明けましておめでとうございます。

> とりあえず精神を犠牲にしても、個体の存続を図ることが種の存続に有利に働いてきたということなのでしょうか?

う〜ん。
人間って、個体の存続よりも精神の存続を希求するものではないでしょうか。小生はそのように感じます。
精神性にこそ人間の人間たる由縁が存在すると言うことではないかと思いますが、いかがなものでしょうか。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1231雖念:2005/01/04(火) 18:11
独歩さん、愚鈍凡夫さん あけましておめでとうございます。

個体が処理できないような大きなストレスにさらされると、防御反応としてアドレナリン、ノルアドレナリン、抗利尿ホルモンや内因性のステロイドホルモン、そしてエンドルフィンなど多くのホルモンが急激に放出されてストレスに対抗するわけですが、「退行」もそのような、ホルモンによる反応のひとつと理解されます。

かつては、ストレスが脳や神経系に及ぼす影響に関する情報が乏しかったために、ストレスに対する身体的な反応と、精神的な反応との関連がよく理解されていなかったということだろうと思います。

ショックに関する循環の中心化(centralization)は、大きな身体的なストレスに対する身体的な防御機制として有名ですが、強い精神的なストレスに関しても、同様の機制が働いているのではないのでしょうか。適当な総説の心当たりはありませんが、将来的には、「退行」の神経化学的な基礎が明らかにされ、「退行」の位置づけも明確になってくると思います。
http://www.insight-counseling.com/kizu/shousai/shousai_02_2.html

とりあえず、重要な機能に資源を集中させてということで、個体の存続に成功した上で「精神の永続性」を図ろうということで解決できるのではないでしょうか?

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ  (拝借御免)

1232犀角独歩:2005/01/08(土) 12:43

雖念さん、どうも、わたしの文章の主意がご理解いただけないようなのですが、たとえば退行を心神耗弱状態といった犯罪実行時の状態の分析に適用できるのではないのかという考えがわたしにはあります。その場合、犯罪を犯すそのときの心の状態ということですが、「個体の存続に成功」の‘成功’などというポジティブな言説で説明される点にわたしは納得がいかないわけです。

また、退行下での決断・実行はその判断能力を大きな低下を伴いますから、これが「成功」などということはとてもいえないであろうと思います。

1233雖念:2005/01/10(月) 03:50
犀角独歩さん(その1):

つぶやきスレッドは、議論の応酬はなしということで、1228もいったん書き直してから投稿したのですが、どうも私が議論の原因を作ってしまったようで申し訳ありません。
さて、とりあえず行き違いになった原因(私が考えるところの)について整理してみたいと思います。
まず、冗長になりますが退行の定義について引用してみます。

耐え難い欲求不満に直面して、それから身を守るためにリビドー生活の初期の段階に立ちもどりそこに幻想的な満足を見出すために固着する患者のリビドーの組織化の過程。
ある段階からもうひとつの段階への過程が耐え難い激変として体験されたときに、過去のある発達段階へと一時的に回帰することを記述するための概念。しかし、注目すべきことは、この用語は生物学的理論のモデルに基づいて作られた発達論的概念と密接な関係があることである。この用語の中に、幼児の生活のごく早期のシニフィアンの回帰だけを見るのなら別だが、治療の効果を記述するのにこの用語を使うのは適切でない。
(チャールズ、ライクロフト:精神分析学事典,pp211、河出書房新社、1992)

発達または進化の上で、前の状態、前の時期にかえること。文明人のおとなが、コドモや未開人や動物に見られるような態度をとること。脳の障害などに見られ、感情的ショックなどによる原始反応特にヒステリー反応などに見られる。精神分析では、人間の性欲生活は、コドモ時代から存在し,口唇に快感を感ずる時期、肛門―尿道の時期を経て性器期にいたると考えるが、大人になって後に欲求不満(フラストレーション)のために前の段階に用いた欲求満足の方法を再現すること、たとえば口腔性交のような異常性欲を示すことを退行という。また、ユングでは、リビドーが意識→無意識の方向をとる現象を言う。また、生活上の困難から逃れることを意味するのに用い、社会的・倫理的意味で、スポーツに熱中して仕事を怠るような場合も、発達した人間にとって原始的だというので(退行)ということもあるが、これは適当でない。
(宮城音弥編:心理学小事典、152-153、岩波書房、1979)

(続く)

1234雖念:2005/01/10(月) 03:51
犀角独歩さん:(続き)

私が1228で「『退行』というネガティブな表現を用いる精神医学のありかたにちょっとした違和感を感じました」と、書いたのは「生物学的理論のモデルに基づいて作られた発達論的概念」の生物学的理論のモデルを適用したことに対する違和感の表現であり、独歩さんの意見に対して異論や反論があったわけではありません。

また、1228で「ところが実際には高学歴を有する人であっても容易に、この幼稚な手口に引っかかってしまいます。」にたいして、「とある精神科医と話したとき、この疑問を解く鍵を与えてもらえました。それは一過的心理・精神退行現象であるというのです。」とのコメントを紹介されましたが、これは上記の「生活上の困難から逃れることを意味するのに用い、社会的・倫理的意味で、スポーツに熱中して仕事を怠るような場合も、発達した人間にとって原始的だというので(退行)ということもあるが、これは適当でない。」と、されています。一般的には「脳の障害などに見られ、感情的ショックなどによる原始反応特にヒステリー反応などに見られる。」と、いうことで高次の精神機能に関して用いられることはありません。
心理学の用語は、日常卑近に用いられるうちに意味が拡散して、双方が同じ言葉を使いながらまったく別のイメージについて語っているという厄介なことがしばしばおきがちです。
「個体の存続に成功」という表現の背後には、「仮設住宅生活の中で心不全で死亡しなかった」とか、車上生活を余儀なくされたが「血栓症での死亡を免れた」。あるいは、(強い精神的ショックにあい、免疫能が大幅に低下したが)「マラリアやコレラで死亡することはない」といった、意味内容があります。

ところで、独歩さんが1227,1232で提起された、いわゆる社会的「退行」と宗教活動や犯罪との接点の問題は、大変意義深い問題だと思います。

1232の「犯罪実行時」とは、たとえば「麻原の宗教性を信じきっていた当時の私には、私の大切なオウムが、つまり「仏、宝、僧」の三宝の存続がかかっているということだったのです。」(林郁夫:オウムと私、pp399、文芸春秋社、1998)のような、心的状態についてでしょうか?

1235犀角独歩:2005/01/10(月) 10:37

雖念さん:

わたしが書いた「退行」と犯罪に関する説明を支える脚をちゃんと示してくださっていますよ。

「耐え難い欲求不満に直面して、それから身を守るためにリビドー生活の初期の段階に立ちもどりそこに幻想的な満足を見出すために固着する患者のリビドーの組織化の過程」

ですから、このことを言っているわけです。人格障害犯罪などに見られる実行時の心的(脳内的と言ってもよいかもしれませんが)上述の説明の如きにあるのではないのかということです。

また、「死ぬのが怖い」「幸せになりたい」「人より勝りたい」…、宗教入信の動機というのはさまざまであると思いますが、結局のところ、現状に対する「耐え難い欲求不満」にあるとは考えられませんか? また、「センセイと一緒にいる限り地獄に堕ちない」「この組織にいれば幸せになれる」「成長できる」なんていう組織・指導者への依存は、まさに「幻想的な満足」であり、それに「固着」することを信仰上では「強盛な信心」とか言いませんか。

> 1232の「犯罪実行時」…麻原の宗教性を信じきっていた当時の私…のような、心的状態についてでしょうか?

ええ、そういうことでもあります。

1236犀角独歩:2005/01/12(水) 01:13

今日は1日、電車で都内を歩き回っていました。
有楽町で、昼にお会いした方から最新の『AERA』('05.1.7号)を頂戴しました。
先の6回連載の創価学会特集もよかったのですが、今回もなかなかよくまとまっていました。取り分け、『過去の性癖と邪悪な行動』もよくまとまった文章で、それと関連させて世界のニュースとして『英米の実験と実績・常習者の足首にGPS』のリレー記事は興味深かいものがありました。

さらに、わたしが感激した記事は『ヨハネパウロ2世』、「即位以来、法王は認め、謝り、許しまくっている」という一節でした。ガリレオの名誉を360年ぶりに回復、進化論を認め、十字軍を謝罪、さらに自分に弾丸を2発撃ち込んだ狙撃犯を許したといい、パーキンソンでほとんど動かない指を上げ、「若者たち、覚えておきなさい」「わたしは第二次大戦を経験し、神のおかげで生き延びた世代に属する者だ。あなたたち若者にこう訴える義務がある。2度と、戦争を、してはいけない」、政治発言、絶対平和を訴えてきた10億人の信者の頂点からの言葉でした。

その記事に涙しそのあとに、国際フォーラムで開催されている『人体の不思議展』を見ました。わたしはプラストミックされているとはいえ、献体された人体にパフォーマンスのポーズをつけるこの製作と展示に、なかば怒りを感じました。殊に3箇月から10箇月時の胎児の全身体を展示箱の冷たい床に並べる展示には違和感を覚えました。
寒々しい気持ちで見入っていると、横で若い女の子たちが、「これ、赤ん坊じゃん。すごい!」と奇声を上げていました。その直後、小学生上級学年ぐらいの女の子が、「赤ちゃん、かわいそう…」、そう呟いたのです。それまでの喧騒はぴたりとやみ、水を打ったように静かになりました。…3箇月児と4箇月、4倍ほどの胎児の大きさの違いにわたしは息を呑みました。

会場を出ると三学無縁さんから電話。五反田でお会いしました。
「はい」と手渡されたのは『寺運興隆』に載る島田裕己師の『今にして創価学会とは何か』連載15『日蓮に背くと創価学会を謗る教団の急進』、内容は学会記事であるのにもかかわらず顕正会ネタでした。考えさせらる文章でした。

…… 左利きのわたしは、鉄道の自動改札が大の苦手です。いつになっても慣れません。ダーツの矢を、右手で的に向かって投げるように、真剣に狙いを定めるように、切符を差し込みます。その繰り返しで、神経をすり減らし、帰途に着きました。

有楽町の展示のおかげで、今日は肉を食する気になれませんでした。
プラストミックされた献体された方の肉は、冒涜を恐れながら、敢えて記せば…、一番に通っているのはビーフジャーキーのようでした。
…ご冥福をお祈りいたします。

1237犀角独歩:2005/01/13(木) 14:39

昨日から開催が始まった『唐招提寺展』に、取るものもとらず、駆けつけました。
1200年の風雪に耐えた脱活乾漆造の盧舎那坐像、そして、鑑真和上坐像ともに国宝にふさわしい素晴らしいものでした。3メートルを越すあの大きな仏像が、漆を沁み込ませた麻布でできた張子とはとても思えない重量感があります。そして、まるで生きて在わすごとき鑑真和上、その御影を置く御堂を荘厳するために画かれた絹本屏風図、東山魁夷が「日本の春の海の色」といった群青が見事に生える絶品でした。しばし呆然、感動に立ちすくむひと時を過ごしました。

唐招提寺金堂は平成大改修ということで2000年から2009年まで解体修理がなされており、それに併せて、本尊・盧舎那坐像が1200年にしてはじめて、寺の外に出たということでした。解説によれば今後2度と出ることはない、たった一度の展示がいま開催されているとのことでした。

この一連の経過を見て、鑑別・鑑識、さらにその修繕、公開、保全の有様が、石山彫刻本尊の扱いと天地雲泥の相違であることに、改めて慨嘆の念を禁じえません。

唐招提寺の大改修と、仏像修繕の次第を見れば、石山の言い分なぞ、もう取るに足りないものであることは実感としてわかります。「仏像を見に」と勧めるわけではありませんが、真贋とはどういうことか・そのグローバルスタンダードとはいかなるものか実感するために彫刻本尊信奉者は特に行って見るとよいと思った次第です。

しかし、それとは別に、わたしは複雑な思いに駆られています。
それはその前日に見たプラトミックされた献体と鑑真和上像の対比ということです。
続けざまに観たためにその思いは膨らんだのかもしれません。
けれど、献体されたとはいえ、ほしいままに切り裂かれポーズをつけられたかつて生きていた方々の肉体。まるでセルロイドのように見える質感は生態からはたしかにかけ離れてはいます。しかし、たしかにかつて生きた方々の肉体そのものなのでしょう。
それに対して、鑑真和上像は、まるで生きて静かに結跏趺坐し長い瞑想に耽っているように見えます。しかし、麻布を漆で糊塗し彩色した、いわば張りぼてです。
それなのに、後者のほうが国宝として丁重に扱われ、人間以上に大切にされてきたわけです。それが悪いということではなく、人間というものの本質と、それが生み出した宗教のメカニズムが、この二つの展示の対比から垣間見えるような気がした2日間でした。

人体の不思議展
http://www.jintai.co.jp/main.html
唐招提寺展
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&amp;processId=02&amp;event_id=1024

『おすすめ』スレッドに記すべきであったかもしれませんが、ほとんとつぶやきなので、こちらに投稿させていただきました。

1238犀角独歩:2005/01/17(月) 08:58

本日は、阪神淡路大震災から10年目に当たるのですね。
被災し亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

1239犀角独歩:2005/01/18(火) 00:36

敗北を感じるということは実は大切な経験です。
身の程がわかります。
強敵を伏してはじめて力士を知るということです。

1240松本:2005/01/18(火) 01:39
まるでアジ討論やね。勝った負けたは関係ないんちゃうんかいな。落ちにもならへんやんけ(-。-;)独り言独り言ブツブツ

1241松本:2005/01/18(火) 02:16
いきなり出て来てなんですけどちなみにウチは犀角独歩ファンですわ。毎度臭い曲者に切り返すんやけど結局最後に善導しますやん。独歩さんは。そのやり取りが好きなんやけど今回のはひどいわ。学会の肩は間違っても持たへんけどええ気味やと思われへん奴ちゃうやん。こう言うのもなんやけど、こう言う連中を救っていかないけない論が先違います?あんまり意味ないと違います?

1242松本:2005/01/18(火) 02:21
犀角独歩さん、勝敗なんか口にしたらあかんで。誰が見てもわかりますわ。ムキになる相手違いますわ。

1243犀角独歩:2005/01/18(火) 07:56

松本さん、はじめまして。

わたしは勝敗を言っているのではないですよ。
また、むきにもなっていませんよ。
勉強しなさいといっているのです。
勉強して出直してきなさいと言っているのです。

仏教は厳愛の二法を言うのです。
ただやさしく善導するばかり能ではありません。
この程度でへこたれて戻ってこなければ、真実は見えません。
叩かれても這い上がる。怨念とするのではなく、自身の不甲斐なさを嘆き、力をつける、まじめに真剣に学ぶ。戸田さんはいいことを言いました。教学は剣豪の修行だと。
自尊心が能力に見合わないとき、自尊心が蓋になって上に伸びなくなります。
そのとき、自分が以下に能力がないかを思い知り、ただプライドだけが肥大している「増上慢」になっていることを思い知るためには、敗北を味わってみることだという意味で書いたのです。

赤子の手を捻ることは容易いでしょう。しかし、それで勝ったという大人はいません。
捻られて大人の力を子供は知ります。大人なんかに負けないと思い上がっていた子供はそこで「身の程」を知るのです。その認知が必要だということです。

なお、わたしはここに、人の受け狙いで投稿しているわけではありません。
中世以降、石山で騙られてきた日蓮本仏、いつしか造られた彫刻本尊、その煽動にはまって人生を棒に振った多くの人々の過ちを繰り返さないために、徹底して真実をここに追究することだけを目的にしています。
宗教教団・指導者信仰と器物崇拝、ファンダメンタリズム、カリスマ信仰という悪しき習気から目を覚まさせることを目的にしているのです。
優しく揺さぶって目を覚まさなければ、時には厳しく起こすこともあります。
そのようなことです。ですから、感情が高ぶっているわけでもなく、怒っているわけでもありません。

1244大勇者:2005/01/18(火) 10:22
犀の生角は水を退ける。
法華経の題目を犀角に、我等の悪業を水に譬える。

厳愛二法に感謝します。

1245犀角独歩:2005/01/18(火) 11:09

大勇者さん、繰り返します。
ご健闘とご精進をお祈り申し上げます。

1246吉祥仙人:2005/01/22(土) 09:04
 過去の書き込みを大まかにしか読まないままツブヤクことをお許しくださ
い。
 多くの創価学会員は、荘厳された富士大石寺しか知らず、その戒壇の御本
尊が日蓮大聖人の出生の本懐であると信じきっています。それを後世の作と
言われれば、阿部管長から破門された現在でも激怒するでしょう。
 「当世の習い損ないの学者め」と
 私もいままでそうでした。
 上野村の大石寺にある板曼荼羅を含めて検証されている皆様の博識と真摯
な姿勢には、ただただ頭の下がる思いです。

1247卞氏:2005/01/25(火) 15:04
戒壇の件は、歴史認識を改めるだけに留まるよ。
中には激怒する人もいるかもしれないな。でも、そうでなくとも、確信を掴んでいるのが学会員だから、
ふうん、なんだ違うのか〜。くらいで終わりだと思いますよ。そのための研鑚は重ねている。
座談会や研修などで、御書に書かれている解釈について、何度も何度も「今までの教えは仮」というものを経験し、覚醒している。
学会員にとって見れば、単にこの経験の延長です。
「大石寺に詣でなければ成仏は叶わない」なんていうことなど明確に切棄てていますから、十分でしょう。
もうすでに宗門の時代は終わったのだな。

そうそう、日興上人が、えっちらおっちら背負って下山した、っていうのも、
寓話説話の世界のものなんですね。「大聖人のお心を携えて下山した日興上人」ということを
擬態的に表現したものと、よい方に解釈しておきますよ。ファンタジーの世界ね。
騙すつもりが無くてそう教えていた人は、そんなに責められるべきではないでしょうし。

ところで「人生を棒に振った多くの人々」って誰のことだろう?

1248一談家:2005/01/25(火) 16:27

>1247 「今までの教えは仮」というものを経験し、覚醒している。

やはり、池田さんは、戒壇本尊のからくりを知って、軌道修正してきたということですね。よきかな、と思います。それに比べて、日顕さんは、同じく戒壇本尊のからくりを知ったのに、何も手を打たずに、まだそれを利用して金儲けを企んでいるようです。情けない。

1249一談家:2005/01/25(火) 17:38

>1247 人生を棒に振った多くの人々

私もその一員です。学会活動を最優先にして、学業、仕事を第二、第三にして、青春を過ごしました。確かに指導は、仕事第一、と言われてましたが、役職を持って、責任をずっしりと感じると、活動第一になってしまいました。私が弱かったからなんでしょうが、私の周りの青年も、やはり活動第一で深夜まで活動してましたから、遅刻の常習犯でした。

本来ならば、もっと社会的にも活躍出来たかもしれないのに、という悔恨が今は有りますね。私のような人のことを、独歩さんは「 人生を棒に振った多くの人々」と書いたのだと思います。勿論、独歩さんご自身が、その「人生を棒に振った」なんだと。

1250一談家:2005/01/25(火) 17:39

訂正です

× その「人生を棒に振った」なんだと。

○ その「人生を棒に振った人」なんだと。

1251彰往考来:2005/01/25(火) 17:59
>1243
>「人生を棒に振った多くの人々」って誰のことだろう?

私です! 

by 彰往考来

1252真実 探求者:2005/01/25(火) 19:31:48
失礼します。「希望に満ちあふれているであろう、、人生、が、」、「、それに投資、? したような総ての努力が、水のアワの様に、」なれば「,棒に振る、」という事でしょうか、? と、すれば、それは、小生、です、、。 心底から悔しいです! 情けない、です、。 他方、庶民と「同苦、」と言いつつ、一人だけ、「、孤的な楽天、」を享受の方が独裁的に君臨する某団体様が存在のようです。 何とか、言論の力で「硬い壁」に向かいたいものです、、。

1253吉祥仙人:2005/01/25(火) 21:13:45
 真実 探求者様
 浅学なのでご教授ください
 「弧的な楽天」を享受するとは、どのようなことなのでしょうか

1254卞氏:2005/01/26(水) 09:38:25
>確かに指導は、仕事第一、と言われてましたが、

栄華を求めるのは創価の指導とは違う生き方だよ。
私が実感しているのは、

>責任をずっしりと感じると、活動第一

学会の活動でなんら成果がでなければ、
社会においても中途半端に終わるということ。
その生まれた責任感というものを学会だけでなく、社会にも向ければ、
それは仕事第一でもあるということにもなる。社会的地位として低いとしても、
人生を棒に振るなんてこととは違います。活動が社会に生かされてきます。
両立に悩んで乗り越えることが自身の勝利でもあります。
要は、組織活動をいかに有効に行えるか。その点がポイントと思います。

1255一談家:2005/01/26(水) 10:20:54

>学会の活動でなんら成果がでなければ、社会においても中途半端に終わるということ。

私も含めて、私の知っている大部分の学会員が、そのような姿で有ったと思います。それは、果たして個人の責任に帰する事なんでしょうか。

法華講に於いては、もう少し緩やかでしたが、所詮学会組織の焼き直しの組織ですから、事情は同じでしたね。役職を持つて、一生懸命に頑張った人は、私の知っている限りでは、生活が破綻してますね。お題目を一生懸命唱えていた人は、豊かな生活を楽しんでいますね。これが私は昔からの疑問なんですよ。卞氏さんの周りには、そんな姿は無いのでしょうか、不思議です。

1256愚鈍凡夫:2005/01/26(水) 11:03:07

> 栄華を求めるのは創価の指導とは違う生き方だよ。

う〜ん、信濃町を我が物顔に闊歩する宗教貴族達たちにぴったりのコトバかも。

> 両立に悩んで乗り越えることが自身の勝利でもあります。

小生の周りには、学会活動で成果を上げているにもかかわらず、いつまでたっても経済状態が好転しない学会員さん、また、家庭不和に悩む学会員さんが少なくないですよ(表向きは一家和楽を装っているようですが)。
必死になって題目をあげ、必死になって学会活動に励んでも現状が好転しない場合、不思議なことに、よりストイックな信仰へと突き進むものです。ここにマインドコントロールの恐ろしさの本質があるのでしょう。

1257卞氏:2005/01/27(木) 10:01:52
>私も含めて、私の知っている大部分の学会員が、そのような姿で有ったと思います。それは、果たして個人の責任に帰する事なんでしょうか。

仏法的に見れば、すべて個人の責任です。
なぜなら、自分で学会活動に責任を見出して、社会的地位を棄てたのであれば、
それは個人の選択であり、そう誓ったのも個人です。
あとになって、「あの時学会活動を程ほどにして、仕事優先にしていれば」などと
悔やむのは、惨めですし、悔やむくらいなら初めから学会活動などしなければ良い。
心のどこかに栄華を求めているという残っているのではないでしょうか。
「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです。

ただ、貴方の疑問は、組織からの立場として、そこのリーダーの責任とするものであるとおもいます。

学会活動を優先させ、仕事をおろそかにする。
これはいけないことだと、学会草創のころからの指導です。
仕事をおろそかにして会合に来て、戸田先生よりしかられたという話しも人間革命にありました。
こういったことが徹底されていないのではなかったのでしょうか。
「学会活動は一人前でよい。仕事は三人前やれ」が戸田第二代会長の指導でした。
その意味は人それぞれにあったでしょうが、疑問が生じたらすぐ幹部に相談しすっきりするまで指導を受けてくる、
そうしなさいといわれてきました。指導の意味を自分なりに咀嚼し、どういう信仰に起てばよいのか、
その都度軌道修正しながら鍛え、成長するようにせよと。
本来の組織とはそのために有ります。指導主義で学会はやってきました。
が、それに漏れている人も居るのでしょう。組織丸ごとそうなるケースもあるかもしれません。
もし、貴方の組織がそれを徹底するのであったなら、
そんなふうに苦しんでいる人はいなかったろうと思います。

>お題目を一生懸命唱えていた人は、豊かな生活を楽しんでいますね。
当たり前のことです。自分ひとりが幸福になるのは容易いことです。
お題目で幸せになります。ならなければお題目がウソになります。

人を救おうという立場になって、はじめて、その苦労と喜びがわかるというものですから。
私からしてみれば、不思議でもなんでもないです。
貧乏が不幸なのではなくて、貧乏に負けて押しつぶされて、希望の持てない情況になるのが不幸なのです。
外見ではそのひとが不幸なのか幸福なのかは分かりずらいかもしれません。

家庭不和は解決に向け、本人がそのことをいのらなければ治りません。
「一家和楽の信心」を<指針>としていた理由です。
和楽でない家庭が和楽になるために「信心」をしましょう。
それも指導ですから、家庭不和の原因というものを、本人にどうやって自覚させるか。
それに悩むのが組織のリーダーです。

1258一談家:2005/01/27(木) 12:57:23

>「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです。

信心すれば幸せになれるよ、と言われて信心した。

学会活動しなければ、自分だけの信心では功徳はもらえないよ、と言われて学会活動に参加した。

活動するようになつたら、嫌だ嫌だと言うのを説得されて、仕方なく班長という役職を受けた。

役職を受けたら、組織目標が無理やり割り当てられた。

目標は達成しなさいよ、と言われて、部員を説得して会合に連れ出すようになつた。

役職を受けたら、「後継者を育てなさい」と言われて、嫌がる部員を無理やり説得して班長にして、組織を分割した。

そうこうしていたら、グループ長に成れる様に、折伏をしなさい、と言われた。

懇意にしていた友達を誘ったら、入会すると言う。

それで、勤行とか教えて、御本尊を持たせて、折伏ができた。

暫くしたら、グループ長の面接を受けた。折伏一世帯では、足らないけれど、今回は大目に見て通すけど、しっかり折伏をしなさい、と言われてグループ長になつた。

暫くしたら、統監の仕事を任された。一杯、幽霊部員がいる事を知った。

まぁ、こんな風にして、私の大学生活は学会活動で塗りつぶされて経過して行った。最初から、「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです、って厳命されたいたら、学会活動にこんな風にのめりこんでゆく事は無かったと思います。ズルズルと引き釣り込まれて行った、というのが真相でしたよ。私は金輪際、もう、こういう宗教組織には入らない。

1259愚鈍凡夫:2005/01/27(木) 12:57:57

> 貧乏が不幸なのではなくて、貧乏に負けて押しつぶされて、希望の持てない情況になるのが不幸なのです。

幸不幸は勝ち負けの問題ではなく、感じ方の問題でしょう。言葉を換えれば、心が満ち足りているかどうかの問題とも言えるのではないでしょうか。
学会の理想論と現実の学会活動とのギャップ。組織というコミュニティの中だけの閉鎖的な活動と、そこから派生する馴れ合いの体質。一般社会との意識のずれが生じるのも無理からぬ事です。

もし、その人が貧乏から抜け出したいと思って入信したとしたら、状況が変わらないのはやはり不幸です。体が健康で、心がピュアで満ち足りていればそれでいいというのであれば、別なんですけどね。
わざわざ外敵を作って、阿修羅の如く口汚い罵声を浴びせる姿は、まるで不幸を絵に描いたようなものです。

> 外見ではそのひとが不幸なのか幸福なのかは分かりずらいかもしれません。

初めて意見が合いましたね。小生もその通りだと思います。
しかし、創価学会員であるが故に一家和楽の振りをして、外見を取り繕う姿を学会員時代から何家族も見てきました。本当に、人の家庭は外からは分からないものですよね。

1260:2005/01/27(木) 14:17:59
創価学会の組織に就いて、言われるとおりに、無疑曰信で学会活動に
励んでも、普通の無信仰の人たちとなんら変わらず、年老いて重い病気
になったり、歩けない生活を送っている会員の多いこと。

これは、信心のやり方がまずくて、宿命転換ができなかったからでしょうか?

幸せは見た目ではわからないといいますが、病気でも貧しくても、
『信仰があるから私は幸せ』と言う心に余裕のある創価学会員が巷に
あふれているとは思えません。

1261卞氏:2005/01/27(木) 15:29:00
>最初から、「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです、って厳命されたいたら

戸田先生、池田先生に縁していませんね。指導を学ぶ中で、そういう生き方を見せ付けられるのです。
悔いのない生き方ができれば、そのひとの勝利です。本当に幸せです。
悔いが残るようなことをしたら、もう一度やり直してもよいではないですか。
目標が高ければ高いほど、苦しい目にあうのが当然のことだとおもいませんか。

貴方の場合、組織という「形態」を作るのが目的になってしまったかのように見受けます。
そうではなく、「会員を護り育てる組織作り」を考えなくてはなりません。
それは閉鎖的な活動ではありません。つねに外に目を向けていなければできないことです。
愚鈍さんが閉鎖性を感じさせると思われるのもそういった視点が欠けている文章であるためでしょう。

大きな目標を立てたときは、命令されたことをこなすのではなく、常に、「何のためにそれをするのか」を
考えなければならないでしょう。
命令されたことだけやるのでしたら、会社などでも下っ端かバイト扱いで終わります。
どんな組織に行っても、下で与えられた命令だけをやるようになってしまいます。
何処に行っても社会で活躍するなどということはできません。
そういう人は、そういったことを転換することをしなければ、社会での活躍はできないのです。
一体何処にあなたの目標をどこに置いているのか、そういった出発点というのは非常に大事です。

>創価学会員であるが故に一家和楽の振りをして、外見を取り繕う姿
もしかしたら、和楽の振りをしているように見えるだけかもしれませんよ。
そのときは満ち足りていて、また時々喧嘩して、反省したりもして・・・
家庭の事情はほんとにわかりません。

>幸せは見た目ではわからないといいますが、病気でも貧しくても、
>『信仰があるから私は幸せ』と言う心に余裕のある創価学会員が巷に
>あふれているとは思えません。

学会員は、『信仰があるから私は幸せ』のような考え方はしませんよ。
自らの使命を自覚できて、その使命を果たす自分がいて、なんともいえず幸福なのです。
で、余裕などありません。今でもどこかで苦しんでいる人がいたら、励ましに奔走します。
余裕も何もあったものじゃありません。
そういうふうになれたのは「信仰の力」というものですから、それは勝利です。
ただ、お金があってそこそこ健康で、幸せと感じていても、何のために生きているのか分からないのでは空虚です。

1262一談家:2005/01/27(木) 16:01:24

>戸田先生、池田先生に縁していませんね。指導を学ぶ中で、そういう生き方を見せ付けられるのです。

一方的に決め付けられる辺り、いかにも創価学会員らしいなぁ、と思いました。事実は違っています。

私は、某大学会一期結成時の代表幹事です。その大学会結成時の池田さんの指導は、言論問題収集の言い訳に終始していました。あの時、あのような池田さんの肉声に触れていなければ、もう少し創価学会に居たかも知れません。国会への証人喚問に怯えた池田さんの言い訳話は、私には全く説得力は無く、却って池田さんという人物に対する疑問を抱かせるものでした。

1263一談家:2005/01/27(木) 16:03:05

訂正です。

× 言論問題収集

○ 言論問題収拾

1264卞氏:2005/01/27(木) 16:51:01
>戸田先生、池田先生に縁していませんね。指導を学ぶ中で、そういう生き方を見せ付けられるのです。

>一方的に決め付けられる辺り、いかにも創価学会員らしいなぁ、と思いました。
>事実は違っています。

違ってないとおもいます。
さきほど、ご自分で、<悔い無き生き方>を持つことができなかった話しをされていましたから。
というのは、「国会への証人喚問に怯えた池田さんの言い訳話は、私には全く説得力は無く、」
とおっしゃるのは、あなたと池田名誉会長との関係でいえば、
<説得する側、される側。>でしかありません。
戸田先生、池田先生、両者を並べたのは、<師匠と弟子>という関係の意味です。
ここは舌足らずですみませんでした。

あなたは代表幹事という役職をやっていたのですか?
それとも先生という師匠を護って先生と一緒に戦っていたのですか?

あなたの言い分は常に、「前者」で多分に心において師匠とは距離をおいていたなわけでしょう?
学会は、師弟共戦ですよ。その時点で既に生き方が違っているのです。縁していないのです

1265一談家:2005/01/27(木) 16:57:48

>師弟共戦ですよ。その時点で既に生き方が違っているのです。縁していないのです

なるほど。

それにしても、「師弟共戦」ですか。良い言葉ですね。

1268愚鈍凡夫:2005/01/27(木) 21:52:42

「師弟共戦」「師弟不二」、誠に従える身にとっては都合のいい言葉ですね。弟子が必死になって師匠を守っても、果たして師匠は弟子を守ってくれるでしょうか?
義侠心旺盛のように見えて、実は池田さんのロボットに過ぎないように思います。

両親が家庭に必要な時、夜遅くまで学会活動に走り回っていたら、孤独な少年少女が非行に走るのは無理からぬ事です。新聞やテレビで報道された大阪市東淀川区の女子中学生のような子は、氷山の一角でしかないのじゃありませんか。

卞氏さんはどうやら「人間革命」という小説を現実の事として捉えてらっしゃるようですね。小生は、結果的に池田さんは、戸田さんや牧口さんを立身出世のために利用したのだと思います。

自らを「王者」と呼び、皇帝気取りの池田さんが何を言おうと、ノーベル平和賞の対象にはならないでしょう。メッセージというなら、ヨハネ・パウロ2世は、イラク戦争開始時から出し続けていますよ。ブッシュ大統領とも直接逢って説得されています。宗教指導者とはそういうものでしょう。

1269一字三礼:2005/01/28(金) 00:04:12
つぶやきです。
創価の方の書き込みが始まると、途端に掲示板から仏教色が無くなってしまう為、ロムしていてつまらなくなってしまいますね。
知ってて当然のように使われている「宿命転換」、「師弟不二」ってそもそも何用語なのでしょうね。法華経にもご遺文にも出てはこない言葉のようですが。
また、「論」の体裁をなしている蓮祖本仏の主張も未だに読んだ事ないし。

1270卞氏:2005/01/28(金) 09:16:19
ですから、証人喚問の件は、人権闘争として闘うことが肝要だったわけです。
詳細は省きますが、罪のない民間人を、一部の扇動により証人喚問するという
事態を、避けなければならない情況です。前例をつくることがいかに危険か。ということでした。

池田大作という一人の人物を護ることが、一般の人の人権を護ることに通じるのです。
それが目的です。誰を護るのかという点で、池田名誉会長と心をおなじにすれば,
<国会への証人喚問に怯えた池田さんの言い訳>に聞こることはなく、
人権闘争としての戦いを共にする同士からの叱咤として捉えられるはずです。
ほんのすこしの、心のありようの違いです。

1271一談家:2005/01/28(金) 09:59:12

>罪のない民間人を、一部の扇動により証人喚問するという事態を、避けなければならない情況です。前例をつくることがいかに危険か。ということでした。

それでは、蓮祖は、竜ノ口や佐渡流罪という前例を作ってしまったから、人権闘争に失敗したわけですね。

それにしても、あの証人喚問は、確か、国立戒壇が憲法違反かどうかを問うものだったと記憶しています。なぜ、堂々と述べる事ができなかったのでしょうか、不可解です。

1272通りすがり:2005/01/28(金) 10:41:12
>蓮祖は、竜ノ口や佐渡流罪という前例を作ってしまったから 
作ったのは鎌倉幕府ですよ、念のため。

1273一談家:2005/01/28(金) 11:06:00

>作ったのは鎌倉幕府

あっ、すみません、そうですね。訂正します。

訂正

× 竜ノ口や佐渡流罪という前例を作ってしまったから、

○ 竜ノ口や佐渡流罪という前例を作らせてしまったから、

1274犀角独歩:2005/01/28(金) 11:32:36

証人喚問があれば、出ればよい。
ただ、それだけのことです。

1275卞氏:2005/01/28(金) 12:02:04


下記は別スレの、スレチガイより。
>なにが恥をかくのですか。

まあ、恥と思わないなら、構いませんが、
さっそく分量も知らずに、載せるべきとの発言をする。
sgi提言など、せいぜいコラム欄2回ぐらいだろうと思っていた。そんなところですね。
なんも考えなしに、載せろ載せろと意見を述べていた。

次に、ネットで検索すればこんなにでてくると今度は言い出した。
内容について話されるならともかく、それと同じようなものだろうと
断じてよいものでしょうかね。スレの無駄になるので、そういうことのないよう、
読む前には意見するべきではないと今一度申し上げておきます。

ともかく、分量が多く内容が多枝に渡っていますので、いろいろと参考になること間違いなしです。

1276犀角独歩:2005/01/28(金) 12:15:16

平和提言を言う人間のこんなレスは、まったく平和提言などという内容が生かされていないですね。

先にわたしは、御書全集、富士年表、富士宗学要集という大量の資料をデータ化した例を挙げているのです。それに比べれば、平和提言の分量など微々たるものでしょう。

何度も繰り返しますが、提言ではなく、実際行動は何かを問うているのですよ。

自分に反対するものであれば、こうやって軽蔑的な現時を繰り返す卞氏さん、あなたは平和提言を推薦しながら、やっていることは言葉の戦争、暴力、そして、精神は差別・侮辱に満ち満ちている、平和提言とは裏腹だといっているのですよ。

わかりませんかね。世界平和というだけなら、ヒットラーだっていったでしょう。
池田さんの平和提言の是非については、それに見合う実際行動はどのようなものかと、その具体性を問い、それを推薦するあなたの心の中の他社蔑視という戦争が平和提言推薦と矛盾していると言っているのです。

1277犀角独歩:2005/01/28(金) 12:18:07

なお、平和提言を、ここに投稿するには分量が多すぎるという考えにとらわれているようですが、HPでも何でも作って、そこにアップし、ジャンプ先として示せば、それで事足りるでしょう。

単に打ち込むのが面倒なのか、出来ないのか、そんな程度で平和提言推薦もあったものではないでしょう。

1278犀角独歩:2005/01/28(金) 12:20:28

打ち間違えました。
判読は期待できませんので、訂正します。

> 1276

誤)現時
正)言辞

誤)他社蔑視
正)他者蔑視

1279愚鈍凡夫:2005/01/28(金) 13:31:44

>>1270:卞氏さん

> 池田大作という一人の人物を護ることが、一般の人の人権を護ることに通じるのです。

違うでしょう。逆に一般の人の人権を守ることが、池田さんを守ることにでもなるというんですか?
創価学会は人権闘争なんかしていないでしょう。自分たちの主張を通すために他人の人権を踏みにじっているだけです。
池田さんにほんの少しの勇気があれば、証人喚問なんか屁のカッパじゃなかったでしょうか。
証人喚問に出て、池田さん得意の「獅子吼」を全国に轟かせればよかったと思いますよ。

1280大勇者:2005/01/28(金) 13:51:40
つぶやきです。

>ほんのすこしの、心のありようの違いです

まさに信仰にとっての根源的な重要部分である考える。

信仰と人生が直結であるならば、価値が大なのか小なのか?
それが一番の問題だ・・・

1281犀角独歩:2005/01/28(金) 14:21:21

しかし「話し合いの力で」という提言を、手に取って、読まない人間は発言するな、恥をかくだけ…、こんなことを平気で書いて、どこが平和提言、どこが話し合いの力だというのでしょうか。

「雖讃法華経 還死法華心」という釈がありますが、まあ、言い換えれば「雖讃平和提言 還死平和提言心」と言ったところでしょう。

1282一談家:2005/01/28(金) 15:04:36

>1218

それは違うのではないでしょうか?

創価学会は師弟共戦ですから、当掲示板に御参加の創価学会員さん、なかんずく、自ら池田さんとの師弟共戦を声高らかに述べておられる卞氏さんの様な、熱心な学会員さんの有り様に、この池田さんの平和提言の心を読み取るべきであると存じます。「書は意を尽くさず」という事がありますから。

1283一談家:2005/01/28(金) 15:05:41

訂正です。

× >1218

○ >1281

1284祝8郎:2005/01/28(金) 15:56:54
池田さんであろうが庭野さんであろうが久保さんであろうが阿部さんであろうが、特定教団指導者の発言を考えることは良いことだと思います。
ただ、当該教団の所属しているひとが「うちのトップの発言は素晴らしいんだもんね」的に紹介するというのは、特定教団の宣伝とスレスレですから、注意が必要ですね。
池田さんや創価学会の公式発言、つまり聖教や大白などの機関誌紙・書籍で活字になっているものでもどんどん改変されてます。
これは、日蓮正宗や顕正会でも同様ですね。
その、改変について当該教団のひとは、「改訂」「進歩」「進展」などとというのですが、ほとんどの場合、なぜ「改訂」がなされたかの理由については明らかにされません。
御都合主義による「変更」は「改訂」とは言わず、「改変」「改竄」「変質」と言うべきです。
それがトップのものでなくても、当該教団の機関紙誌や書籍出版物に掲載されたものであれば、それは当該教団が認知許容によるものですから、その時点における当該教団の立場と差異が無いものということになります。
池田さんのいわゆる「提言」類は、けっして悪いものではないと思いますが、具体的な行動はこれまでほとんど見られませんね。
むかし「言うだけ番長」といわれたプロレスラーがいましたが、同轍でないことを願います。
ところで池田さんは、各国から叙勲・表彰・顕彰などされているそうですが、他の宗教者や宗教教団から評価されたことはあったのでしょうか。
宗教界から相手にされていないという事実を、創価学会のひとたちはよく考えるべきでしょう。
たんに、他宗教の「嫉妬」「偏見」「無理解」などといったレッテル貼りですますのではなく、事実はどうなのか。
ほんとうに、他宗教の「嫉妬」「偏見」「無理解」などなのか、もしそうであるならば、なぜそうなるのか。
原因をまず自分たちのなかに探って考えてみることから始めてはいがなものかと思うものです。

1285卞氏:2005/01/28(金) 16:41:08
>読まない人間は発言するな、恥をかくだけ…、

まだ言ってる。

そうじゃないでしょ。私の言っていることは。

1286犀角独歩:2005/01/28(金) 16:46:51

一談家さん:

ちょっと、仰っている意味がわからないのですが、もう少し、かみ砕いて書いていただけませんでしょうか。

わたしは「話し合いの力で平和を」という提言である、まあ、ガイダンスから仄聞したわけですが、その平和提言を進める熱心さは、読まないくせに、恥をかくだけ、といった類の、およそ、話し合いの力で平和の力とはかけ離れた対応であるというのが正直な印象です。全然、話し合いの余地などないつまり、「話し合いの力で平和を」という提言を讃めているのに、かえって、その精神は少しもくみ取れない、むしろ、殺してしまっているではないかというのが1281のわたしの投稿の趣旨です。

なにが、一檀家さんは、違うと仰っているわけですか。

1287犀角独歩:2005/01/28(金) 16:48:36

1285 卞氏さん、では、あなたはいったい、なにを言っているのですか。

1288一談家:2005/01/28(金) 17:05:54

犀角独歩さん

この提言をご紹介くださった卞氏は、提言の主、池田さんと師弟共戦の方ですから、卞氏さんは、師匠である池田さんの心を戴して当掲示板でも論戦を張っておられると私は思っています。
ですから、「話し合いの力で平和を」という池田さんの提言の心を、お弟子さん達のお姿に即して拝すれば、それが単なる美辞麗句に過ぎず、もともと、「平和提言の心」なるものは無く、無いものは殺す事すら出来ない。そう思うという意味です。

1289一談家:2005/01/28(金) 17:15:09

訂正です。敬称を抜かしてしまいました。謹んでお詫び申し上げます。

× この提言をご紹介くださった卞氏は、

○ この提言をご紹介くださった卞氏さんは、

1290犀角独歩:2005/01/28(金) 17:32:18

一談家さん、了解しました。
なかなかシニカルなご意見であると。

ただ、卞氏さんが尖らなければ、こちら側としては話し合う余地はあると思っています。
師弟共戦(話し合い? 平和? で戦?)というのであれば、その話し合いという在り方を積極的にここに開陳してくれれば、それでよいわけです。
まあ、それができないのであれば、まさに一檀家さんの仰るとおり、わたしがまた、絵に画いたもち餅といったところになります。

客観的には、学会員をここにエキジビションしている効果になっているわけで、自ら創価学会員というスタンスをコミットメントしている人は、わたしから見れば、社会に対して、というより、創価学会に対して、池田さんに対して、責任を負っているわけですから、いまのようなエクスポーズで、ほんとにいいんですか? と聞きたいというのも正直な本音です。まあ、わたしが心配するようなことでもないでしょうが。

1291通りすがり:2005/01/28(金) 20:27:56
龍の口と佐渡流罪のハメにさせたのは蓮祖ではなく良観では?

1292一談家:2005/01/28(金) 20:35:40

>龍の口と佐渡流罪のハメにさせたのは蓮祖ではなく良観では?

そういうことですね。そして、それを蓮祖は待ち望んでいた。流罪、死罪に及ぶ事によってしか、法華色読は有り得ないと考えておられたから。云わば、蓮祖の布教活動は、その中に流罪、死罪を予定していたわけです。

1293通りすがり:2005/01/28(金) 20:48:21
そんな予定調和的な読みは後世の発想ですね。あらかじめそんなことを蓮祖が読んでいた文書があるのでしたら教えてください。いずれ自分は流罪死罪に及ぶだろうという文書は聞いた事がありません。

1294無責・任:2005/01/28(金) 21:12:07
池田さんの証人喚問て確か二度話しありましたね?もし二度とも実現してたら、法華経を広めている人で世間の二度晒しものになったわけだから、日蓮に次ぐ受難?他に二度も罷免されたりしてるし。下半身スキャンダルも釈迦と同じく二度。あまつさえ破門されたり。
その都度以前よりパワフルに復活してますなー。何度致命傷受けてんでしょ。

1295通りすがり:2005/01/28(金) 21:38:31
なるほど一談家さんの発想なら証人喚問まで実現していたらそれこそ池田顕本になってしまいそうですね。

1296一談家:2005/01/28(金) 23:43:04

通りすがりさん

>あらかじめそんなことを蓮祖が読んでいた文書があるのでしたら教えてください。いずれ自分は流罪死罪に及ぶだろうという文書は聞いた事がありません。

それはそれは。有りますよ、開目抄に。引用してみますね。

「此に日蓮案じて云はく、世すでに末代に入って二百余年、辺土に生をうく。其の上下賤、其の上、貧道(びんどう)の身なり。輪回六趣(りんねろくしゅ)の間には人天の大王と生まれて、万民をなびかす事、大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず。大小乗経の外凡(げぼん)内凡の大菩薩と修しあがり、一劫二劫無量劫を経て菩薩の行を立て、すでに不退に入りぬべかりし時も、強盛の悪縁におとされて仏にもならず。しらず大通結縁(けちえん)の第三類の在世をもれたるか、久遠(くおん)五百の退転して今に来たるか。法華経を行ぜし程に、世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に、権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽(どうしゃく)・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者、法華経をつよくほめあげ、機をあなが(強)ちに下し、理深解微(りじんげみ)と立て、未有一人得者(みういちにんとくしゃ)千中無一等とすかしゝものに、無量生が間、恒河沙(ごうがしゃ)の度(たび)すかされて権経に堕ちぬ。権経より小乗経に堕ちぬ。外道外典に堕ちぬ。結句(けっく)は悪道に堕ちけりと深く此をしれり。日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟(しゆい)するに、法華経・涅槃(ねはん)経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競(きそ)ひ起こるべしとし(知)りぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は、退転すべくば一度に思ひ止むべしと且(しばら)くやす(休)らいし程に、宝塔品の六難九易(い)これなり。我等程の小力の者、須弥山(しゅみせん)はな(投)ぐとも、我等程の無通の者、乾草(かれくさ)を負ふて劫火(ごうか)にはやけずとも、我等程の無智の者、恒沙(ごうじゃ)の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと、とかるゝはこれなるべし。今度、強盛の菩提心(ぼだいしん)ををこして退転せじと願じぬ。」

1297卞氏:2005/01/29(土) 10:27:09
今の時代日本に住んでいて、聖教新聞が入手困難な人って一体どんな人しょう?

1298愚鈍凡夫:2005/01/29(土) 10:35:27

昔、とある学会員と話した時、彼は
「池田先生は偉大な指導者として世界的に認められている。その証拠が沢山の勲章だ」
と、ぬかしました。

小生が、
「池田はんは、偉大な指導者として認められてるんとちゃう。認められてるんは池田はんの金や。池田はんの出す金が世界的に認められてるんや。綺麗な金も、汚い金も、世間に出回ったら金自体の価値に差はないからな」
とほざいたら、彼は黙って帰ってしまいました。

おそらく帰り道、彼の心中では藁人形に五寸釘が打たれていたのではないでしょうか。
(((( ;゚д゚)))アワワワワ

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1299犀角独歩:2005/01/29(土) 10:37:07

一般人は、早朝から仕事に出かけ、夜遅く返ります。
その往復で『聖教新聞』なんか、手に入るわけはありません。
キヨスク、駅の書店、公共図書館で入らないような出版物は「入手困難」というのは、当然のご意見です。
だいたい、知り合いに学会員がいても、そんな人に「『聖教新聞』を…」などと声をかけて、妙な期待や、誤解をされるリスキーなことを敢えて避けるのも、一般人。

1300一談家:2005/01/29(土) 10:40:56

>1297 今の時代日本に住んでいて、聖教新聞が入手困難な人って一体どんな人しょう?

答えは簡単です。聖教新聞は創価学会の機関紙で、コンビ二や駅の売店では売っていませんから、「聖教新聞の定期購読者以外の全ての人」が、入手困難な人だと思います。

1301通りすがり:2005/01/29(土) 11:42:18
開目抄は流罪中の文書ですね。つまり後から言っている訳ですね。
龍の口(直前を除く)以前の文書に流罪死罪を予測した文書の存在をお聞きしているのですが…。

1302卞氏:2005/01/29(土) 12:10:46
リスキー。
手に入れようと思えば、容易いことですよ。当人がリスクを避けようとしているだけであって、
入手困難な情況とはいえない。記事が見たいだけの旨を伝えればよいんだ。

コンビニや。
こちらは情況としてはそうかもしれないが、では資料としてコンビニや駅の売店に売っていないものは
全て入手困難と結論できるのだろうか?
販売店に言えば、残部もらえるとおもいますよ。

>一般人は、早朝から仕事に出かけ、夜遅く返ります。
>その往復で『聖教新聞』なんか、手に入るわけはありません。
休日が無く、コンビニや売店ぐらいしかよるところが無く、毎日仕事と寝るだけの人が、
この掲示板をたまたま見て、資料として聖教を手に入れたいと思うかどうか。
そういう人なら、困難と思えるかもしれないですね。
そういうひとは相談してくださいね。色々考えてさしあげましょう。


そうそう、談家さん。先生にはそこで直接行っとくべきだったね。
「何故言い訳なんかばかりするのですか!?みっともないじゃないですか!」ってね。
歴史に若しは無いけれど、そうすれば、今ごろは貴方が学会の中心で時代をリードしていたかもしれない。

1303卞氏:2005/01/29(土) 12:29:31
あちらでは、議論形式が身についている人ばかりなせいか、普通に質問ができそうもないので、こちらでつぶやきがてら、
問いかけをしておきましょう。答えられる人で構いません。談家さんは如何でしょう?
「対話をすることが大事」との観点から中東問題に絞ったお話です。どちらでもよいです。

『宗教団体の長が、イラクやイランの要人と会見する場合、
どのような点に留意したらよいと思いますか?』

『宗教団体の長が、イラクやイランの要人と会見する場合、
どういった方法で会見を実現するとよいと思いますか?』

どこが、下らない質問なのか良く分かりませんが、決して世界に目を向けようという
スレの趣旨を逸脱した質問じゃない。「貴方はどう思うのか?」という単純な質問ですし、
中東情勢などに詳しい人がいらっしゃったら、お願いしたいですね。
また別の観点から、こちらに来られている仏法者の方々のご意見も拝聴したいですね。

1304卞氏:2005/01/29(土) 12:31:18
あ、それから、全文の転載を検討していましたが、当面保留します。

なんだかルール違反の疑義が懸かっているようなので。

1305愚鈍凡夫:2005/01/29(土) 15:05:18

実弾(札束)抱えて訪問すれば、中東の要人も喜んで逢ってくれるでしょう。
それから、神崎さんのように防弾チョッキに身を包みイギリス軍の護衛の下、サマワは戦闘地域ではなかったなんて言うと、学会員には受けるかも・・・・・。 (-。-;)

1306一談家:2005/01/29(土) 15:54:05

>1301 通りすがりさん

勿論ありますよ

『金吾殿御返事』   文永六年一一月二八日  四八歳
 大師講(だいしこう)に鵞目(がもく)五連給(た)び候ひ了(おわ)んぬ。此の大師講三・四年に始めて候が、今年は第一にて候ひつるに候。
 抑(そもそも)此の法門の事、勘文の有無に依りて弘まるべきか、弘まらざるか。去年方々に申して候ひしかども、いなせ(否応)の返事候はず候。今年十一月の比(ころ)、方々へ申して候へば、少々返事あるかたも候。をほかた(大方)人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候。又上のげざん(見参)にも入りて候やらむ。これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流死の二罪の内は一定と存ぜしが、いまゝでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼ(覚)へ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)の経文も値(あ)ふべきにて候やらむ。山門なんどもいにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給はり候。それならず子細ども候やらん。震旦(しんだん)・高麗(こうらい)すでに禅門・念仏になりて、守護の善神の去るかの間、彼の蒙古に従(したが)ひ候ひぬ。我が朝又此の邪法弘まりて、天台法華宗を忽諸(こつしょ)のゆへに山門安穏ならず、師檀違叛の国と成り候ひぬれば、十が八・九はいかんがとみへ候。
 人身すでにうけぬ。邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪に及びぬ。今死罪に行なはれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来し候へかしとこそはげみ候ひて、方々に強言(ごうげん)をかきて挙げを(置)き候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。
 いたずらに曠野(こうや)にすてん身を、同じくは一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をお(追)ひ、仙予(せんよ)・有徳(うとく)の名を後代に留めて、法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願ふところなり。南無妙法蓮華経。
十一月二十八日               日蓮花押
御返事

1307吉祥仙人:2005/01/29(土) 16:42:48
 誰に言うでもないツブヤキ 根性無しの壮年部の独り言

 私も過去に何度も陥りかけましたが、

 創価学会員は「学会正義が傷つけられた」と思うと、感情的に議論する傾向があります。
それが多くの方から「独善的」と受け取られるのでしょう。
 「学会正義の旗を高く掲げ」の心意気は信心をつらぬく上で必要です。しかし自己の
正義のみ声高に主張しても「顰蹙」を買うでしょう。
 
 「顔貌(かおばえ)に色を調えて閑(しずか)に言上すべし」と言う御書があった
ように思います。

 「われらは柔らかに法華経をひろむべし」と逃げては、大聖人からお叱りを受ける
ことになりますが。

 この辺がムズカシイですね

1308通りすがり:2005/01/29(土) 17:00:18
干支と年号が無いですね。

1309あわわ:2005/01/29(土) 17:26:37
通りすがり君。今度は偽書扱いか?負け惜しみは見苦しいぞ。

1310単己:2005/01/29(土) 17:28:01
>1303

『宗教団体の長が、イラクやイランの要人と会見する場合、
どのような点に留意したらよいと思いますか?』

『宗教団体の長が、イラクやイランの要人と会見する場合、
どういった方法で会見を実現するとよいと思いますか?』

こういう質問が出るという事は、中東情勢に対して学会ではなんら行動もせず、会見を実現する方法も分からないということですね。つまり、提言だとか対話とか言っても今まで何も実行してこなかったということですね。

1311あわわ:2005/01/29(土) 17:50:16
揚げ足とりっぽいな。

1312一談家:2005/01/29(土) 17:58:02

>1308 干支と年号が無いですね。

そうですね。それが何か?

この書は中山法華経寺に真蹟が現存するそうですから、お疑いなら、筆跡鑑定されたら如何でしょうか?

蓮祖の消息文は、干支・年号が省かれているものが多いですね。

1313あわわ:2005/01/29(土) 18:14:32
そういうことだそうだ。一談家さんの勝ち。もう来るなよ、知ったか坊や。

1314無責・任:2005/01/29(土) 18:45:43
何だか皆さん相手や他人の批判ばかりで仏教者とは程遠い感じがしますね。
それに鎌倉時代と現代の事情を同列に議論している様子を見てると不毛な感じもしますね。少なくとも私は知人や自分の大事な人がいわれもなく晒しものになるのを「堂々と晒されろ」と言える神経は理解できませんね。正直池田さんには逆に見ものかな?と期待しない部分も無い訳ではありませんが、人のそういう光景を望むのって我ながら浅ましいかな?というふうに思います。
仏様って人が晒される事を望む方なのでしょうか?

1315一談家:2005/01/29(土) 18:52:13

無責・任さん

どうも、私が混ぜっ返してしまったようで、申し訳ありません。お呼びが掛かったとき以外は暫く謹慎いたします。見苦しいやりとり、申し訳ありませんでした。

1316れん:2005/01/29(土) 18:54:56
通りすがりさん、金吾殿御返事は蓮師の御真蹟が千葉県法華経寺に現存し、日蓮聖人真蹟集成第二巻に御筆写真が収録されています。但し、現存するのは第五紙までですが、欠文の第六紙と追伸文は、重須本門寺に現存する興師弟子の寂仙房日澄師写本を忠実に書写した南北朝時代の信伝師写本により補うことが出来ます。また、信伝師写本には本書に「法華捨身念願抄」の題号を付しており、当時の富士門においては、本書は‘金吾殿御返事’ではなく‘法華捨身念願抄’と呼ばれていたことが分かりますね。

1317あわわ:2005/01/29(土) 19:17:32
小生は仏様ではないので。地獄に近い愚か者と自覚している。
むしろ正義が嫌いな悪人である。
だから貴方に何と言われようと構わない。
逆に貴方には偽善を感じると申し上げよう。
他の方に関しては知らない。

1318通りすがり:2005/01/29(土) 20:05:08
れんさん。文面的にはどの辺からでしょうか?
あわわさんは泡食っててくださいな。
無責・任さんは悪いけどここには向かないと思います。
一談家さんの博学には脱帽しますが、予測してはいないですね。

1319一談家:2005/01/29(土) 20:22:35

通りすがりさん

>予測してはいないですね。

蓮師の「これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流死の二罪の内は一定と存ぜしが、いまゝでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼ(覚)へ候。」との表現からすれば、覚悟し、且つ、そうなる事を願っておられた、と言う事になると思います。通りすがりさんが仰る通り、予測とはニュアンスが違いますね。

1320れん:2005/01/29(土) 20:44:51
1318 通りすがりさん、金吾殿御返事の御真蹟現存部分は本文冒頭の‘大師講’から‘余命いくばくならず’までです。‘いたづらに’から‘御返事’までと、追伸文にあたる‘止観の五’から‘多く本入るべきに申し候’は残念ながら不現存ですが、先程も書きました通り、澄師写本を忠実に書写した信伝師写本(御筆写真が日蓮聖人の世界展制作委員会が編集した「図録 日蓮聖人の世界」107ページに掲載されています)により欠失した部分を補うことが出来ます。以上ご参考まで。

1321真実 探求者:2005/01/29(土) 21:05:01
ドーモします、、、。 先日某記事に「江戸時代の識字率10%位、」かと、在りました。 ぎょっ!! です。 そうならば、日蓮さん時代の鎌倉時代は、、、???  まちがいなく、、10%,、以下でしょう、、? ですから、坐像本尊、?も流れて居るのでしょうか、? でも、小生には、あの達筆な日蓮さんの草書体の真蹟文の99.99%は残念ながら読解不能です、、、、。 この点は日蓮さんは不親切〜余裕不足、、かと、ぞんじますが、、?  識字率アップしたのは明治維新以降の文明開化以後でしょうか、、? 確かに鎌倉時代と同次元での考察は、、???が伴う、かも知れません、、?、、。 問題提起はおおいに歓迎したいです、、が、、。 早々。

1322ペイオフ解禁:2005/01/31(月) 00:28:42
会津坂下町の妙福寺地蔵堂(寺)
小説人間革命に福島の田舎寺に地蔵を安置し、それが発端で檀家が離檀したという
寺がある、妙福寺である
当時の久保川法章師が住職で、人間革命に詳細が描かれているが、その地蔵は今も
妙福寺の境内地に祀られており、地蔵には堀上人の着用の衣が着せられていて、数
珠が首に捲かれていたのが印象的だった。
偶々、町の文化財に地蔵が指定されていた。
http://www.town.aizubange.fukushima.jp/welcome/syoukai/bunkazai25.html
妙福寺の開基は太夫阿日尊上人で、現在の住職は会津若松市の実成寺住職の影山広道
師である、正宗寺院に地蔵像、非常に興味を引く件だと私は考える。
意見を聞かせて下さい。

1323ペイオフ解禁:2005/01/31(月) 10:41:51
 人間革命の何巻にあったかな ?
 お分かりの方いますか

1324彰往考来:2005/01/31(月) 12:31:38

>1323
ペイオフさん、始めまして。

私の記憶では5巻だったと思いますが、今日に夜にでも調べて
正式にお答えいたします。

彰往考来

1325彰往考来:2005/01/31(月) 13:02:08
>1324

失礼しました。ペイオフ解禁さんでした。

併せて

誤:今日に夜に
正:今日の夜に

謹んで訂正いたします。

彰往考来 拝

1326彰往考来:2005/01/31(月) 19:52:27
>1323

池田大作著『人間革命 第七巻』(昭和47年、聖教新聞社)の42〜69頁に記載があります。第五巻と1324で申し上げたのは記憶違いでした。なお、『人間革命 第七巻』では久保川法章師は“久川源章”という仮名で登場しています。

1327ペイオフ解禁:2005/01/31(月) 22:16:44
彰往考来さん
有難うございます。白衣を着用している姿は、宗祖御影像を彷彿させる姿
には興味を惹かれます。
当時の問題は長年の時間が流れ、当時者だった久保川法章師・池田大作氏
も今では蚊帳の外、兼務住職の実成寺住職影山広道師からは沈黙をして
語られる事はありませんでした。
日蓮正宗の古刹寺院には、墓地に地蔵がある寺院が何箇所かありますが
信仰の対象ではないみたいですね。

1328名無し@富士門流:2005/02/05(土) 00:17:44

れんさん、彰往考来さん、さては興風第16号を読み入ってますね。

1329れん:2005/02/05(土) 05:23:20
名無し@富士門流さん。
やっぱり、バレてましたか(笑)。私に関してはお察しの通りです。

1330彰往考来:2005/02/05(土) 13:14:56
>1330
名無し@富士門流さん、

4日、5日と東北地方へ出張してまして、ただ今戻りました。
よって、これから読むところであります。

1331れん:2005/02/05(土) 19:14:18
名無し@富士門流さん、興風第十六号掲載の菅野憲道師の論文「河東一乱と富士門徒」はなかなか参考になります。師は時師が応永九年頃から書写曼陀羅の脇書に「大石寺衆〇〇」等と記して門流の旗幟を鮮明にしたこと等から、「時師を中心とする寺家衆が実質的かつ安定的に大石寺の寺域を支配しつつあったことを物語っていよう」と指摘され、この時期に現在の宗門体制の原型・大石寺門流が形成され門家意識が確立したものと示されています。私も菅野師の論考に賛同します。私の考えとしては、時師は‘三師伝’を作成し、三大秘法や本尊について述べた‘四帖聖教’(現在の石山の唯授一人血脈相承極秘の大事と称する金口の相承やら三口一徹の相承の類の原型が記されていたのではないかと考えます)を著述してますから、教義的にも時師の代に石山門流の基礎が築かれたのではないかと愚考しております。

1332れん:2005/02/05(土) 19:22:27
訂正
誤、(現在の石山の
正、(不現存ゆえ内容はふめいながら有師の聞書にのべられていることから推して現在の石山の

1333名無し@富士門流:2005/02/06(日) 17:08:16

>1330
彰往考来さん、

出張お疲れ様でした。

>1329
>1331
れんさん、

ようやく私の手元にも届きましたので、皆様のアドバイスを参考に拝読させていただこうと思います。

1334名無し@富士門流:2005/02/06(日) 18:36:52

御伝土代の考察については、反論もあるようですね。

http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/archives/13695562.html

興門教学研究者のブログです。

以前、別項の内容を愚鈍凡夫さんも引用されていましたね。

1335愚鈍凡夫:2005/02/06(日) 19:03:58

名無し@富士門流さん紹介のHPを読んでみた感想ですが、

> それら書写本尊と池田氏が検証材料とした東大史料編纂所蔵の『御伝土代』影写本を対比してみるとその筆体は根本的に相違しており、まったくの異筆であることが諒解される。

この文章が気になりました。
う〜ん・・・・・。書写漫荼羅と写本を比較して異筆と即断するのはいかがなものでしょうか。「同時期の日時師の筆体と対比」との考えには賛成ですが、対比するのであれば、同時期の書同士で対比するべきだと思います。漫荼羅の場合は独特の筆法があるようですし、書を認める時とは比較にならないほどの緊張感があるのではないでしょうか。
筆跡は精神状態にも大きく左右されるものですから、対比の対象とするのには無理があるのではないのでしょうか。
ふと、そんなことを感じました。
失礼しました。 m(_ _)m

1336名無し@富士門流:2005/02/07(月) 00:04:54

愚鈍凡夫さん、今晩は。

こちらは既にお読みなられましたでしょうか?

http://www.nichiren.com/ronbun.html

学会僧の論文です。

「残〜念!!」といった感想です。

*************************************
現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義
――三大秘法義の理論的公開過程に関する考察を踏まえて――

                                 青年僧侶改革同盟 松岡雄茂            

『東洋哲学研究所紀要』第二〇号(二〇〇四年十二月発刊)掲載。
************************************

1337卞氏:2005/02/07(月) 11:54:01
希望者なしなら、アップは見送りだな。

1338デルトロ:2005/02/08(火) 05:38:12
眠れなくなってしまったのでちょっとつぶやきます。

「21g」という映画があるのですがとてもオススメです。
私のHNであるデルトロはここからいただきました。

デルトロは少年時代から手のつけられない不良で
どうしょもなかったのですが信仰に目覚め、今では
街の不良少年たちにも教えを説いていきます。
だが少年たちは刹那的でデルトロを馬鹿にしています。
そんな時、デルトロはいつもこう話します。
「見ろあの車を。おれは信仰のおかげであの車をくじで当てることが
できたんだ。おまえも真面目に信仰すればきっと神が見ててくださるぞ。
馬鹿馬鹿しい不良の真似事はやめるんだ」
と現世利益を説きます。しかし少年は怪訝な顔をするだけです。
「宗教かぶれが」
そんな表情にもとれます。

デルトロには神のお導きで車が手に入ったことが自慢のようです。
「神はおれに与えてくださった。真面目な信仰のおかげだ」と。
家庭も平和であるし、今よりももっと好条件の仕事も決まっています。
すべてにおいてバラ色。神に感謝します。
ますます信仰心を募らせることでしょう。ああ、神を信じてよかった。
信じれば救われるんだ。

1339デルトロ:2005/02/08(火) 05:39:00
しかしデルトロはひょんなことからその車である家族を
轢き殺してしまいます。
ここから恐ろしいほどの葛藤が始まります。
刑務所に入ることになるのですが、普段見下していたはずの
刑務所仲間が彼に対し、「また戻ってきたか。当然だな」
といった態度で接してきます。
「おまえは信仰ごっこをして少しは立派になったつもりの
ようだが、何も変わっちゃいねえ」そんな態度です。

デルトロは改心して立派に信仰についていたのにも
関わらず、たまたま事故を起こしてしまったため、
信仰心の厚さまでもが否定されるように扱われます。
デルトロは次第にアイディンティティを失っていきます。
「おれに車を与えてくださった神が何故こんなひどい仕打ちを
今までずっと真面目に信仰していたのに」
出所してからも決まるはずだった新しい仕事の口も当然失い。
家族からは距離をおくようになり、自分から破壊するような
行動に出ます。
家で出て、ひどい暮らしがはじまります。
そして…

この映画は他にもみっつの話が入り組んで構成されており、時間軸も
バラバラなので、ちょっと最初はとっつきにくいかもしれません。
しかし、デルトロの話だけでもフィクションとは思えないほど
宗教における葛藤のリアリティを感じました。なんというか、行間に圧倒的
ボリュームがあるのです。
以前見た映画なので内容は正確ではないかもしれません。
しかし、信仰を持つ人間には響いてくる何かを感じました。
未見の人にはオススメです。
ヘビーな気持ちにはなるかもしれませんが、もしこれを
自業自得だというような信仰者がいるのであれば、ちょっと恐怖です

1340名無し@富士門流:2005/02/09(水) 19:54:37

顕正会の櫻川氏も研究書の出版をされるようですね。



http://sanity.at.infoseek.co.jp/

1341吉祥仙人:2005/02/10(木) 09:36:49

 福沢諭吉いわく『この世で一番惨めなことは、教養がないことである』

 教学がないため、かかなくていい恥をかいてしまいました。

 しばらく、おとなしく、していようと思います。

1342真実 探求者:2005/02/10(木) 17:50:26
、、御免下さい、、。 お気持ちはご理解いたしかねますが、、 いろいろと問題提起されましたことは、スッゲー、と存じますが、、。 ドーゾ、こらからも、御遠慮ありませんように、、。 早々。

1343吉祥仙人:2005/02/11(金) 16:46:50
 
 訂正

 しばらく、おとなしく、していようと思います。(誤)

 教学を試されるような書き込みには、しばらく、おとなしく、
していようと思います。(正)

 だって私、昨日のような昔のことは覚えていませんから。残念

(掲示板の品格を落としてすいません。)

 ついでに
 SGIコミュニティーと言う掲示板で(私は厳選創価リンクからアクセスしています。)
 『指導の部屋』があり。千葉の「MY聖教」という聖教新聞の無償配布に対し、かなり
自由な書き込みがされています。

1344愚鈍凡夫:2005/02/17(木) 12:16:27

新聞・書籍・ビデオ、民音チケット・・・・etc。

ノルマ化された「信心」って何なんだろうか? ( ̄ヘ ̄)ウーン
そんなことを思う、今日この頃であった。 

やれやれ、パソコンの虫退治終了。(独り言)

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1345犀角独歩:2005/02/18(金) 00:07:12

愚鈍凡夫さん、やられましたか。
わたしのところも、こちらの書き込み内容に、相反比例して、たくさんのウイルスメールがどっと来ます。
こういうことをやる連中のまめさ、とあほらしさにいつもウイルスメールの数の増減と因果関係を考えているわたしです。

1346愚鈍凡夫:2005/02/18(金) 09:15:05

犀角独歩さん、どうもです。
今回は、小物のアクセサリー系のソフトをいくつかダウンロードして試していたんですが、どうやらその内のどれかに紛れ込んでいたものと思われます。
それにしても、毎日毎日、ウイルスメールが送られてきますが、マメというか、しつこいというか、他のことにそのエネルギーを向けられないものかと思いますね。
もともと、インターネット自体が米軍が軍事用の通信手段として考え出されたものですから、仲間内で使うものとして、基本的に「性善説」で出来上がってますよね。
だから、その基本的な部分の弱点が、いつまで経っても鼬ごっこの元凶なんでしょうね。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1347パンナコッタ:2005/02/18(金) 12:13:44
映画「カナリア」について、主観が入るのでこっちに移動。
3月12日から公開ですね。予定に入れておきます。
ただ『ニルヴァーナ』って名前、自分ぐらいの世代からするとカート・コバーンの
イメージが強すぎて、最後の伏線なのかなと穿ってみてしまいますが。

1348真実 探求者:2005/02/19(土) 18:06:53
春がそこまでひたひたと近づいています、。 一人ツブヤク御無礼をお許し願います。
 時間の散歩がてらネット散策しました。 一応、示唆に富むようなスレッドにも出会いました。 ご紹介します。
http://www.yahoo.co.jp のアドレスに移動して、検索用の書き込み枠内に、近代仏教学、と入力、検索ボタンを左クリック、、。一覧項目が表示されます。
51番目の「、、カミと日本人」、50番目の「書評」、37番目の「ほら貝:文字コード」、26番目「Springer Science」、25番目の「教判論の意味再考」などの細部項目(スレッド)などが、一応参考になりました、、。 失礼します、、。

1349真実 探求者:2005/02/19(土) 18:26:37
失礼しました。 「教判論の意味再考」はなぜか削除でした。こちらの24番目で閲覧可能です、。
http://www.msn.co.jp/home.armx こちらでした。

1350愚鈍凡夫:2005/02/19(土) 19:33:48

横レス失礼します。
真実 探求者さんが仰ってるのは下記のHPですか?
ご紹介有り難うございました。

教判論の意味再考
http://www.1134.com/matsuoka/kyouhan.html

ウイルスデータベースが壊れてしまいました。 (‐_‐)
「修復しなくっちゃ!!」(独り言) (-"-;A ...アセアセ

1351吉祥仙人:2005/02/20(日) 11:15:24
 犀角独歩さんがよく引用されるハッサン師の「マインドコントロールの恐怖」を図書館で見つけ
読んでるうちに、とり残されたようです。まだ読み終わりません。3回読むのに何日かかるやら・・・

1352犀角独歩:2005/02/20(日) 19:54:38

吉祥仙人さん:

『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)、この書は前編を暗記するぐらい読んでも損はない一書です。わたしもかなり頭に入っています。

あと、西田公昭師著『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)、S・ミルグラム師著『服従の心理』』(河出書房新社)、R・チャルディーニ師著『影響力の武器』(誠信書房)はぜったにお読みになったほうがいいですよ。

さらにお薦めすれば、E・フロム師著『自由からの逃走』(東京創元社)、D・J・ブーアスティン『幻想(イメジ)の時代』(東京創元社)などは社会科学としては、お薦めです。

あと、高橋紳吾師著『超能力と霊能者』(岩波書店)は秀作です。
もちろん、わたしの大好きな岩本裕師の各著述(仏教学圏には頗る評判が悪いですがわたしが影響を受けています)

さらにもちろんのこと執行海秀師著『興門教学の研究』(海秀舎)は絶対の筆読書、さらに、ここで議論されている教学変遷について、まさか同師の『日蓮宗史研究』(平楽寺書店)を読まず、語っている人はいないでしょう。

その他、推薦した異本はたくさん、ありますが、いまはやめておきます。
しかし、本を読んで、本に呑まれないこと、自分の感性を信じること(ただし、自分がいま、何でこのように考えているかという分析が畢っていればですが)です。

1353犀角独歩:2005/02/20(日) 19:56:02

うち間違えました。

筆読書は、もちろん、必読書です。

1354犀角独歩:2005/02/20(日) 19:56:47

もう一カ所。

推薦した異本は、推薦したい本は、です。

1355犀角独歩:2005/02/21(月) 08:57:55

一泊ですが、ちょっと、いまから旅に出てきます。
レスは明晩以降ということで。

皆さんの活発な議論は、明日まとめて読ませていただきます。

1356真実 探求者:2005/02/21(月) 18:42:25
1350 愚鈍 凡夫 さんお手数お掛けしました、。 ドーモです、、。 疑問的なツブヤキ御免下さい、、。
 実は、あの近代ドイツの偉大な哲学者ヘーゲル(1770-1831)時代、当地の仏教文献はパーリー語主体で、梵語の大乗教はいまだ未到着とか、、??
 その後K、ヤスパース(1883-1969、戦争の罪を問う、橋本訳、平凡社)が梵語の大乗仏典読了後「、、竜樹は東洋のヘーゲルだ、、!!、、」と言った、とか、、??
http://www.kosaiji.org/bodhi/log/bodhi_3.htm  (中段の00021/12/28,,,RE:00018)より、、早々、。

1357愚鈍凡夫:2005/02/21(月) 20:27:15


真実 探求者さん、どうもです。
何処に龍樹とヘーゲルとの類似性を感じたんでしょうね。
世親や龍樹は、いわば、大乗教の実質的教祖のような存在ですから、西洋哲学からのアプローチは面白いですね。一度、「空」って何だと思いますかって聞いてみたいですね。
「何ものでもありません。時空の在り方そのものです」なんて言われたりして。

1358吉祥仙人:2005/02/22(火) 21:24:10
 パンドラの箱

 悪しきものが全部出た後に、最後に希望が残っていたとか。

 ギリシャ人も、後世によき結果が生まれると信じたかったのか。

 以上 叱られた子供の言い訳

1359彰往考来:2005/02/23(水) 07:24:47
>1358吉祥仙人さん

たまにはいいこといいますね。
これに懲りず自由に発言していただきたいと思います。

なお、私の心の中のパンドラの箱は開くべくして開いた
のでしょう。決して貴殿のせいではありません。

彰往考来

1360犀角独歩:2005/02/23(水) 09:44:30

骨休めに、伊豆温泉郷に。
驚いたこと。川端康成『伊豆の踊り子』の舞台になった辺りに河津桜と言われる、早咲の種が植樹されていて、もう七分咲きでした。色は染井吉野などより、さらに濃く、しかも八重桜のように葉も一緒に萌え出ていました。梅と桜を同時に観るのはなかなか壮観。

すこし、足を延ばし、ワニとカメの、それぞれの専門動物園に。
両種とも、食餌以外の時は、ゆったりとした動き。檻に捕らわれているのは可哀相と思いながら、興味深く観察もし、和みもしました。

余談ながら、かつて、日本にもワニがいたそうで、その化石が展示されてありました。体長8メートル。人類は誕生以降で、さて、そのころ、先祖たちは日本に来ていたのか? どんな風景であったのか、伊豆の火山弾・溶岩も多い岩場の海岸で澄んだ水に手を浸しながら、そんな物思いに耽ったり。

短いながら、楽しい2日間でした。
個人的な話で失礼しました。つぶやきということでご勘弁を。

1361彰往考来:2005/02/23(水) 12:26:47
>1360

ここ2日ほど静かだなあと思っていたら(失礼!)伊豆でしたか。

福島県に三春町というところがあります。

http://www.town.miharu.fukushima.jp/

「三春」の地名は、桜・桃・梅が同時に咲く場所ということから由来
しているそうです。三つの春が一度に来るという意味です。
いいですねえ、こういう名前は。

1362犀角独歩:2005/02/24(木) 00:45:57

本日は、菅田正昭師の『伊豆諸島における富士派異端(三鳥派、堅樹派…等々)の点と点―伊豆諸島流人志の視点から―』と言う講義を拝聴しました。実に学ぶところ、大でした。

また、終了後、sunyaさん、三学無縁さんと、有意義な語らいが出来ました。
お二人のご賢察を拝聴し、これまた、実に学ぶところ大でした。

1363犀角独歩:2005/02/25(金) 12:20:53

自己レスです。

1360で、紹介した早咲きの河津桜です。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kawaduzakura050222

1364犀角独歩:2005/02/25(金) 12:22:46

ジャンプ咲を間違えました。

河津桜
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kawaduzakura050222.JPG

1365犀角独歩:2005/02/25(金) 12:28:02

ワクの無駄遣い、恐縮です。
1364のジャンプ‘咲’、クリックしても表示されないようです。
アドレスバーにコピペしてください。

1366真実 探求者:2005/02/26(土) 19:11:07
御免下さい、つぶやかせて下さい。 今日16:05よりNHKの特番「地球と進化」に関するドキュメンタリーを観ました。
 地球の年齢が約46億年を一年とした時、人類といえる生き物が登場したのは12月31日の大晦日との言葉には、改めて驚愕した。 まさしく「新参者、、!!!」、、。
 この新参者が困ったことに「大昔の300倍以上/年、ものCO2ガスを生活上での排出・消費中、、」により、一人勝ちの人類の横暴、?にて、他の生き物が「死滅〜絶滅の危機に瀕している、、」という番組には、人間の宗教の役得、が環境破壊との関連を無視不可能な現実を知らされました、、。 こんごは「少欲・知足」という「欲望と環境問題、、」と並行しての難題、? に、、耐えうるか、、?のようでしょうか、?

1367真実 探求者:2005/02/26(土) 19:54:32
御免下さい。現実的には「耐え得るのか、、??」では御座いません、。 「末法〜万年〜尽未来際まで、、?」という観点からも、何らかの「希望的観測、?」が、どこかに御座いましょうか、、?? それが今後も、皆無なら、「日蓮様のご信用は激減」でしょうか、、?

1368真実 探求者:2005/02/26(土) 20:42:28
ドーモです、。 一言追言、。 「他の動物死滅==環境悪化」ですので、、「当然、わが人類も生存は不可能、!」でしょうか、?  絶滅した「恐竜と同じような運命」だけは、何とか避けてほしいが、、??

1369犀角独歩:2005/02/26(土) 23:20:03

真実 探求者さんの、杞憂、大いに賛同します。

立花隆師は、20世紀は「爆発」と評しました。
スピルバーグの『AI』も、あながち単なるSFとも思えません。
人類が永遠、それが幻想に過ぎず、本当にそうしたいなら、それなりの努力が必要でしょう。
さて、地球史上、最大の害虫、その駆除を、考える、神の見えざる手は如何。

ちょっと、真実探求さんの語法を真似てみました。
あまり、似ませんでした。

1371真実 探求者:2005/02/28(月) 18:37:19
ドーモです、、。 恐竜は、他方からの隕石か? 未確認物体のような大きな衝突による、粉塵〜煤塵などの浮遊による太陽光遮断〜減光などに依るという外部的な要因が大きい、と言われています、?。 地球46億年の中、発生した幾多の生き物のほとんどは死滅〜崩壊した、との事です、。 人類の発生も、まさしく先代から
申し送りの奇跡的な発生のようです、、??、、。
 先日某TVで、ある動物の生態を見ました、。 それは、、「面前にオイシーものが、放置された時、なぜか、、強いものが一人占めしようと、必要以上に先を争って確保していました、、」、、まるで「、、コラー!アホンダラー、そこ、ノケー!!」、、「 これは、ワシのモンジャー、、!!」、、」、 「ボケー、、! それもワイのモンジャ、、!!」、、、という怒号の中を連想しました、、。 動物界の獲得戦争を、 わが人類が、回避可能でしょうか、、? 、「、単なる、、少欲・知足、、」の悟り、? だけで、「一人占めしたい、という欲望を、!!、」、、「克服、、??」が可能なものでしょうか、、。 ただハッキリしているのは「今後の人類の行く末は、、??」、、今、現実に生存する我々が手にしている「バトン、、?」を、「激動の中の欲望に自滅するのか、、??」、、「、、今後の燭光的な希望は在るのか、?」、? 在るとすれば、、?? いかにして次の世代に申し送るのか、が、、問われて居るようです、、?

1372パンナコッタ:2005/02/28(月) 23:02:11
つぶやきスレなんで、一寸引用させてもらいます。

 オカルト系の人たちはよく「宇宙の意思と一体化」というようなことを唱える。しかし、
宇宙の意思が個人の願望と一致するなどと考えるのは、ひどい思い上がりではなかろうか。
もし宇宙に普遍的に存在する「○○パワー」なるものが実在したとしても、それが大宇宙の
片隅の地球という星の上に存在するちっぽけな人間という生物に都合よく働くと考えるのは、
あまりにも虫が良すぎる。
 食べ物にカビが生えるのも、動物が果樹園の果物を食い荒らすのも、人間にとっては迷惑な
行為かもしれないが、自然界の側からみればごく正常な現象である。「タキオンパワーでカビ
が防げる」などと唱える人は、地球の生態系を歪めている張本人は自分たちであり、カビの方
が自然な存在であるという事実を、コロッと忘れているのではないだろうか。
 人間は地球の寄生虫に過ぎない―それを認めるのが後ろめたいものだから、
「宇宙の意思」などというものを持ち出して、自分たちの目的が崇高だと思い込もうとしている
のではないだろうか。
   トンデモ本の逆襲 タキオン&オカルト通販生活カタログ  山本弘より引用  

なんだかこの手の怪しいグッズと自分のやっている信仰がさして変わりがないものと考え始めた
きっかけの一つでした。

1373一刀両断:2005/03/01(火) 00:50:33
久しぶりの寄り道レスで一言だけ。
宇宙から見れば、いかにも宇宙の主人公的な考えを持っている地球人など、糞のようなものなんでしょうね。
きっと人類は滅ぶのだと思います。それも近い将来。(これは身勝手な思い込みですが)
次の支配者がその遺跡・史跡を手繰っていくうちに違う未来を見い出す原因にしかなり得ない存在でしかないのかもしれない、今はそんな風に思っています。

1374いつも見てるだけの男:2005/03/01(火) 01:21:42
宇宙と自分との一体化というと確かにオカルトっぽいですが、どうにもこうにも行き詰まって、なお逃げられない時、極端な話「環境に負けては駄目だ。俺が宇宙を動かす」くらいの気合いでかからないとやっていけない(笑)…というか、その位の気持ちでかかった事が案外突破口になったり、例えその場の結果はズダボロでも、後々プラスに転じたり、自分のこやしになることは男の人生って結構ありませんか?特に意地っ張りな奴。今は女の方がそんな手強い手合いが多くて困るやら頼もしいやら。
仏法に通じるかどうかは解りませんが。

1375吉祥仙人:2005/03/01(火) 09:15:00
 オカルト好きな人多いですね

 以上単なる感想をつぶやきました。

1376犀角独歩:2005/03/01(火) 12:08:06

学会を含む大石寺信仰圏では「オカルト」というハードルがずいぶんと低いのでしょうね。

石山のお肉は完璧なオカルトは当然のこと。
精神医学では、ユングですら、オカルト扱いでしょう。

わたしはけっこう面白く読んだ『21世紀の対話』で登場する、「宇宙の背後にある究極の精神的な実在」なども、まあ、オカルトと言わないまでも、首を傾げられるところでしょうね。これは「will」などとも表現されるのでしょうか。

尚更のこと、「宇宙の生命」「宇宙の妙法」もオカルトと取られるでしょうし、輪廻転生、因果応報、「祈願成就」なんかも、その類と取られるでしょうね。

さて、そうなってくると、ここで、信仰とは何かというテーマに戻ることになるのでしょうか。では、信仰とオカルト、そして、カルト、どこで線を引くのでしょうか。

自分の使っているお湯は熱く感じない、自分を点検してみるのには、異文化、異信仰からの視点を学んで客観性を身につけるほかないでしょう。しかし、そこで捨て去るものが多いと、信仰者は後ずさりしてしまうわけです。後ずさりするならまだしも、茹だっていることすら気付かないのが信仰者の実像であるのでしょうね。

1377犀角独歩:2005/03/01(火) 21:59:50

1376、打ち間違えていました。

誤)自分の使っているお湯
正)自分の浸かっているお湯

1378真実 探求者:2005/03/02(水) 17:56:50
、、各諸氏方の貴重なご意見、、ご投稿、、とても勉強になりました、、。  有難う御座います、、。

1379真実 探求者:2005/03/04(金) 18:51:45
、略、、。 例の(教判論の意味再考)、「、仏教は”悟り”の宗教、ゆえに自らも”教主釈尊”と同じ”悟り”を獲得し体感しようとする者、、」は、今の自分の分分の”悟り”が一体・全体どのあたりに到達しているのか、、?? を知りたい欲望は許されるならば、なんとしても認識したいものです、。 人生イロイロ、、悟りもイロイロでしょうが、? ただ、 一地球人として、、ともに生きる一員として悩み、、、大、、です、、。

1380パンナコッタ:2005/03/07(月) 13:14:27
信仰は役に立つか、の続きですが大きく主題からはずれるのでこちらに。

〉146 加熱する嫌煙運動の流れから比べて排ガスは、と言う意味なら自分が
勘違いしてましたね。これはすいません。
 自分の周りでは十年前のNOx規制法でそれまで乗っていた小型トラックが
ダメになり、首都県条例とPM法でディーゼルの貨物車がまたダメになった
のをうけて、大手はともかく小規模の所はかなり痛手を被ったので、それに対する
変なルサンチマン(国の規制・メーカーのハードル)が自分にはあるんですね。
気をつけなければ、いけない点だな。

1381つぶやきしろ:2005/03/07(月) 14:01:03
時間が掛かりましたが過去スレ全部読ませていただきました。
少々気になるので書き込みします。
総論的ですが、皆さんの議論からはなんらかの結論を見いだすことはありません。すべからく憶測に基ずき内輪でこねくり回してるに過ぎないからでしょう。特に特定の宗教の本尊なり教義なりを否定もしくは擬難するのならどちらかの土俵に立つべきでしょう
公式に申し込めば受けて立つ所もあるのでは?
申し遅れましたが私はごく普通の法華講員です
皆さんのスタンスもいまひとつ曖昧で、窮すればすぐに逃げれる所で吠えているように見受けられます。
独歩さんでしたか、気を悪くされるかもしれませんが、正直思ったことを述べさせていただきます貴方の様な方を何人も見てきました
貴方の書き込みから伺えるのは【怨嫉】です
そこから不信に陥り挙げ句の果ては仏法破壊に走る。経文通りの事をしているのです
おそらく法華講員だった頃、何かお寺であったのでしょうね
その根拠は、まだ何も結論ずいてないうちからつぎつぎと論を進めて仏教破壊、宗教否定へと回りを巻き込もうとしてるからです
仕舞には良いとこ取りの独歩教が出来ますよ
すべてを否定しつくす事はできません
それと気になるのは貴方日蓮正宗の御本尊はまだお持ちですか?
今一度拝して慢のはたほこをたおし一佛乗に帰すことを願っております
貴方程の方がこんな処で燻ってはもったいないですよ
すべての疑難を教学部にでも乗り込んで晴らしてもらいたいと(本も持って)思っております
勝手なことをたれまくりました事をここにお詫び申し上げますm(__)m前の

1382犀角独歩:2005/03/07(月) 14:23:40

1381 つぶやきしろさん、わたしが【怨嫉】ですか(爆笑)

わたしは日蓮正宗大石寺、ならび法華講に何の徒も、怨も、嫉妬もありませんよ。
何故ならば、もっともなりたくないのが、石山の坊さんであり、法華講だからです。

それから、わたしは教学部長や、教学部のことはよく知っておりますよ。
犀角独歩という名は石山、殊に教学部はよく知るところでしょう。

以下のわたしのサイトはご覧いただきましたか。

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

まあ、あなたのように、威勢ばかりいいが、なんら根拠も示せず、言いたいことを言う御仁こそ、よくいる人々でしょう。

> 仏教破壊、宗教否定

そうではなく、あなたが信じているものは仏教でも、宗教でもない「のようなもの」、換言すれば偽物でまがい物であるということです。偽物を偽というのは、破壊でも、否定でもなく、真実の論究です。

愚にもつかない教訓を垂れる前に、わたしがどこがどのように違うかを一々に証拠を挙げて説明してご覧なさい。そんなことができない遠吠えは傾聴に値せずです。

「慢のはたほこ」は、あなたこそ、倒すべきでしょう。
真実の前に平伏して前非を悔いることです。

それともまさか、あなたは、700年前に抜けた歯にくっついている御肉が生きている言って憚らないオカルトを真実だとも言うのでしょうか。一笑に付すのみです。

1383愚鈍凡夫:2005/03/07(月) 17:05:24

ここは「つぶやきスレッド」ですので、呟きます。
自分の所属する組織の日蓮観が最も真実に近いと思うのであれば、文証を引用しながらそれを証明すればいいのだと思います。
創価学会・法華講・顕正会がどう考えたかではなく、蓮祖はどう考えたかが日蓮仏法ではないかと思います。また、そこへ立ち返るのが日蓮教学ではないでしょうか。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1384大勇者:2005/03/07(月) 18:10:08
この「つぶやきスレッド2」の内容は素晴しいですね。心打たれます。
是非「1」を読みたい・・・・・過去ログ倉庫にも無いのですが・・・
誰か教えて下さい。

1385管理者:2005/03/07(月) 19:41:47

大勇者さん こんにちは

>是非「1」を読みたい

こちらで御覧になれますよ

http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/tubuyaki.htm

1386犀角独歩:2005/03/08(火) 00:42:19

まあ、どうでもいいような批判ですが、取り敢えず、何点か、1382を補足します。

「日蓮正宗の本尊」とかいうのは、信者に配っている阿部さんの印刷ですか。
わたしの家には、細井さんのものが2枚ありますが、御筆漫荼羅には遠く及ばない代物です。まあ、30年以上も所持してきたものです。大切にしていますが、それを本尊であるとは思っておりません。その理由は、この掲示板の全掲載文書を読んだ(俄には信じがたいですが、なにより、読んだだけで何も理解できていないようですが)とすれば、今さら、ここに再掲する必要もないでしょう。

> 疑難を教学部にでも乗り込んで晴らしてもらいたい

この件ですが、わたしは昨年10月23日に日蓮宗務院で研究発表をしました。
そこには高橋粛道さんと、あとは若い富士学林を名乗る石山の坊さんが来ていました。
わたしが発表を終えると、手を上げて、次々と質問をしました。
発表時間は限られていましたから、終わって残って下さい、写真その他を持っていると促したわけです。ところが、皆、さっさと帰ってしまった。逃げ帰ったとわたしは見ましたし、他の参加者も同意見でしたよ。何で、残って堂々と議論をしないのでしょうか。卑怯な連中であるとわたしは思いました。特に最後に質問した無礼千万の若い坊やは、長々と阿部さんの文章を読み上げて、口も効き方も知らない人間でした。石山は若い者の教育がなっていないと呆れました。まあ、それは高橋さんもそうで、司会者から名前を言うように言われても、なかなか言わなかった。質問の態度も実にふてぶてしい。「こういう態度が石山なんだ」と、いそいそと帰ってしまったあとで、日蓮宗の坊さん方は笑っていました。
日蓮宗宗務院は大田区池上。教学部長・大村さんが住職を勤める宝浄寺からは車で5分、10分の距離ですよ。

いいですか。石山は、ここの掲示板で、問題にしたことに対して、全部、回答する義務があります。

かつて800万人から500億円近い金を受け取った、正本堂を寄進された、それを壊すのもどうかしているが、何より、その供養を受け取る段階でも、また、今回奉安堂を立て直す段階でも供養を受け取るのに、その堂に入れる本尊を本物であると偽った。わたしは、この本尊は日禅授与漫荼羅を原図にした彫刻であることを論証したのです。

わたしは図形を持って鑑別したのですから、それに図形、すなわち鮮明な彫刻本尊の写真と日全授与漫荼羅の写真を呈示し、比較し、わたしの鑑別の是非を説明する義務が石山にはあるでしょう。何でやらないのでしょうか。


なお、「教学部長や、教学部のことはよく知って」というのは、わたしが一方的に知っているというのではなく、向こうもよく知っていると言うことです。

また、わたしが法華講の前役職を辞退したのは、いまから10年前のオウム真理教事件を見聞し、そのころ読んだスティーヴン・ハッサン師『マインド・コントロールの恐怖』を通じて、石山はカルト信仰であると思えたからです。しかし、いまは違います。石山信仰は、先にも記したとおり、700年前に生体から分離した肉が生きていると騙って憚らないオカルト信仰であると思っています。

「皆さんのスタンスもいまひとつ曖昧」というのは、どこかに所属して、その虎の威を借りなければ何も自分で主張できない集団信仰者の強迫観念の域です。

わたしは犀角独歩であり、わたしの主張はわたしの主張です。どこの所属でもない、わたしはわたしです。

あなたの、殊にオカルト集団に所属して恥じるわけでもなく、それだけで人に優れたなどと思う勘違いを大いに嗤います。

1387犀角独歩:2005/03/08(火) 00:44:20

訂正します。

誤)日全授与漫荼羅
正)日禅授与漫荼羅

1388愚鈍凡夫:2005/03/08(火) 01:28:55

ここの掲示板で発言されている方々の多くは、組織信仰を離れ、個人として宗教や信仰を模索されている人たちだと思います。そういった人たちが、立場を超えて意見を交換するこのような場が存在することは素晴らしいことだと思います。これは、ゴータマ・ブッダが唱える理想的な仏教の形だとはいえないでしょうか。

「皆さんのスタンスもいまひとつ曖昧」ではないんですね。

組織に属する人たちにとっては寄らば大樹の陰かもしれませんが、その代償に、ささやかな疑問さえも封殺されるエセ教学に、ここに集う方々はうんざりしているんですよ。
与えられてきた教科書が正しいのか、嘘偽りは微塵もないのか、この疑問が真相への第一歩なんじゃないでしょうか。敢えて言えば、組織から与えられるものが真実だと思う感性こそが、心の貧困であると知るべきでしょう。

まず、蓮祖はどう考えたか。それから、それについて自分はどう考えるか。結局、これが教学ではないでしょうか。

1389犀角独歩:2005/03/08(火) 01:51:08

わたしは、一昨日、ある上人の開催する会に参加しました。

その上人は言いました。「わたしは仏教僧です。そして、出家ですから、姓は申し上げません」

師は「沙門釈子」であることを標榜しているのだと即座に理解できました。

そこに集った方々は、僧侶の方が一人、その他、ジャーナリスト、特派員、ミュージシャンから、一般の方まで、幅広く参集していました。

そこで、ヨガを組み、題目が唱えられ、さらに般若心経が唱えられ、ヒンドゥーのマントラも唱えられました。そして、ロウソクばかりが灯る暗がりの中で、スマトラ沖津波被害者30万人に長い黙祷を捧げられました。何の違和感もありませんでした。わたしは題目以外、覚えていませんから、ただ、半結跏趺坐し、音楽のような皆の声を聞き入っていました。

その沙門は、本日また、インドに慰霊と救済の旅立っていきました。
尊い姿であると思った次第です。

1390大石寺信徒:2005/03/08(火) 03:15:45
日蓮正宗教学部に犀角独歩の名が轟いているとは全く存じ上げませんですね。何を根拠にこのような事をおっしゃるのでしょうか。実に迷惑な話で。実名を言われれば「ああ、そのような人も居ましたね。」程度でしょう。その程度の認識でしかない事をここに付し失笑を買いましょう。しかしまたなぜあなたは実名で出版されなかったのでしょう。御前様へ本は贈呈されたのですか?このようなインターネットで何を言おうが何の責任も無ければ義務もない。日蓮関係肯定批判サイトで一体いくつのあるやら。その中のほんの一部での内輪話でしかない事と良く理解された方がいいでしょう。責任を問うなら裁判を起こすなり、説明を問うなら御自身で世に解るよう実名で堂々と教学部にアポイントをとればよろしい。そうしない限りはあなたの言葉を借りれば世から見れば失笑をかうばかりと申しておきましょう。

1391犀角独歩:2005/03/08(火) 08:59:04

1390 大石寺信徒さん:

「御前様」(笑)
それは大奥の在勤僧が使う言葉でしょう。
そんな地位にあなたはあるのでしょうか。信徒をハンドルネームにして不相応な言葉遣いですね。それとも大奥在勤ですか。

また、実名を人に促すのであれば、自称大石寺信徒というハンドルネームを何故使いますか。
わたしはメールアドレスを公開しています。自分の言葉に従い実名でメールアドレスも公開して投稿されたら如何ですか。

阿部さんは、大坊が購入して、拙書は購読されたと聞きます。

自分のできないことを人に求める態度こそ、失笑を買うというものです。
また、わたしに難儀を付けるのであれば、まず、わたしが挙げた疑問に答えてからにしていただきたい。

あなたも、御肉が生きているのを信じているクチですか。まず、この点から回答して下さい。

1392犀角独歩:2005/03/08(火) 09:00:33

自称大石寺信徒というのは、難癖ばかり付けて、投げかけられた疑問には何一つ答えない。
実に不誠実な態度です。

1393犀角独歩:2005/03/08(火) 09:27:13

大石寺への疑問、阿部さんへの疑問を問うのに、実名で裁判でなければいけないのでしょうか。このようなサイトで皆で考え、また、出版で問うことが「世間の失笑を買うこと」でしょうか。」

違いますよね。このような在り方こそ、わたしはあるべき言論運動の一つの選択肢であると主張します。

降りかかった火の粉は、わたし自身で払わなければなりません。しかし、当「つぶやき」スレッドでは、「応酬」は元来禁止されています。また、つぶやきですから反論して投げかけた質問にも答えようともしません。どうにも、自称石山法華講は卑怯な手口を使います。

以前も自称学会でおりましたが、ここ「つぶやき」というスレッドの特性を悪用し、議論するわけでもなく、答えるわけでもなく、単に個人を悪し様に書くことをつぶやきに載せてすることは、「応酬禁止」を逆手に取った、実に不誠実、悪質な態度であると思います。このような投稿は、禁止事項に抵触するとわたしは考えます。また、多重ハンドルは特に禁止事項に抵触しませんが、一連の投稿は同一人物に拠るようにも思います。IPによる調査もお願いしたく希望します。

管理人さん、如何でしょうか。

1394管理者:2005/03/08(火) 10:09:40

犀角独歩さん

>このような投稿は、禁止事項に抵触するとわたしは考えます。

禁止事項に抵触するかどうかの判断は、現段階では難しいです。ただ、当スレッドでの議論の応酬は禁じられていますので、黙って見過ごす事の出来ない内容を書き込むことは、当スレッドのルールに違反すると判断いたしております。

>また、多重ハンドルは特に禁止事項に抵触しませんが、一連の投稿は同一人物に拠るようにも思います。IPによる調査もお願いしたく希望します。

IPは同じでは無い事のみ、とりあえずご報告させていただきます。

大石寺信徒さん

当スレッドは議論禁止のスレッドです。「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」或いは「現在の日蓮正宗の教義について」等にて議論の続行をお願い致します。今後、当トレッドにおいて、今までと同様のレスを続けられた場合は、「意図的な悪意があるものと判断し全面削除、投稿禁止」とさせていただきますので、ご承知おきください。

1395管理者:2005/03/08(火) 10:11:19

訂正です。

× 当トレッドにおいて

○ 当スレッドにおいて

1396犀角独歩:2005/03/08(火) 10:13:36

管理人さん、ご回答、有り難うございました。
ご判断に従います。

1397犀角独歩:2005/03/08(火) 11:16:15

つぶやきしろさん:
大石寺信徒さんさん:

では、管理人さんのお導きのスレッドとは違いますが、以下でお待ちします。

「『おにくげ』について教えてください」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015567021/l100

まずは、こちらでお願いします。
オカルト信仰の代表、御肉牙に関する法華講員、大石寺信徒として、この実否を投稿してください。

1398犀角独歩:2005/03/08(火) 11:27:24

実名と言うことで、ひとこと、つぶやきます。

もし、実名でなければ行けないと言うのであれば、阿部さんは、「日顕」と名乗るのでしょうか。それも受けた「日慈」を変えてのことでしょう。「日顕」は実名ですか。実名を名乗らない阿部さんは「実名で堂々」としていないことになりますが、この点はどう考えるんでしょうかね。

坊さん、「御前様」ならよくて、在家一般人は駄目という根拠は何でしょうか。そんなのは特定信念体系にある勝手な言い分でしょう。

実名で本を出すのも、ペンネームで本を出すのも、このようなBBSで、ハンドルネームを使うのも、そんなことは各人の自由に委ねられていることです。実名でなければ堂々ではないのであれば、大石寺信徒、法華講員の人々はよろしく阿部さんほか、坊さん全員に「堂々とするよう」に進言したらどうでしょうか。

1399藤川一郎:2005/03/08(火) 11:55:04
犀角独歩さん
まずは批判投稿では無いのでご容赦ください。
「御前様」と言う言葉は「大坊付僧侶」はもちろん使用しますが、塔中の在家信徒も使用します(末寺の代々檀家でもお使いになるかたもおりますが)。
塔中の代々檀家の方なんかは結構「御前様」と使用します。
また、御当代の日号はもちろん末寺のほとんどの御僧侶が家庭裁判所への手続きを経て戸籍上の変更をしていると聞いております。
ですから、本名(実名)だと思われますが・・・。
またそもそも日蓮正宗では内規で「戸籍を法名に変える手続きをしなければならない」そうです

余談ですが、日蓮正宗に限らず、お坊さんの戸籍訂正は結構簡易に認められるそうです。
名前の変更が認められるのは「合理的な理由」が必要なのですが、本山等から法名を証明する書面が提出されれば短い期間で認められるそうです。

追伸
私はネット上で実名を明かすのは余り推奨しません。
またそれを自身がなしたからといって他人にも強要するのも推奨しません。
ネットは危険な領域です。皆様も挑発されても決して個人情報を明かさないように御進言もうしあげます。

1400犀角独歩:2005/03/08(火) 12:39:55

「藤川一郎」さんに応じられると弱いですね(笑)

まず、「御前様」語使用については、わたしも内事部・教学部から仕事を請け負っていたわけですし、末寺と雖も役員、連合会の仕事もしていたわけですから、わかっています。ただ、わたしの所属寺院住職(誰だかご存じですね)はうるさかったですよ。「そんな言葉を使って自分を大きく見せるな」と言った感じで「御前様」呼ばわりをした信徒を窘めるのが常でした。

まあ、もっとも身内で、どう言おうと勝手です。たとえば、藤川さんがわたしとの会話で、「御前様」とある方を指して仰ったって、違和感はありません。(何せ、○○寺ですからね)

しかし、こんな公開の掲示板で、「御前様」と言うのはどうかということです。

たとえば、懇意にしている目上の人がいて、「オヤジ」と呼んでいたとしますね。事情を知っている身内ばかりで話すときは、これは通用します。しかし、公式(公開)の場で「うちのオヤジが」と言ったら、実子であると誤解を招きますから、こんな表現は使わないでしょう。

ですから、本山勤務、厳密に言えば、大奥で「猊下」に直接、仕えていない人間が、そんな呼称を、公開の場で使えば僭越だろうということが、わたしの言いたかったことです。

また、呼び名については石山、公式ではありませんが、尾林日至監修・市川康輝著『法華講随感』には

「弟子分である御僧侶が、こうお呼びする場合がある。特に本山等で塔中の御住職、御所化さん、御小僧さん方がこのように言われるようです」(平成4年9月12日第3版 P87)

なお、わたしは、上述の件は、何も石山という総本山「猊下」に限らず、本山格を有する寺院であれば、慣例的な呼称ですね。

あと、石山の坊さんは、戸籍を変更しているのは知りませんでした。
しかし、そうなると還俗しても、坊さん名のままですか(笑)
また、最初の道号は、能化になれば日号公称が許可されるわけですが、その時点でまた、変更するのでしょうか。そんな度々、変更が許可されるものでしょうか。

余談ですが、当時、SGという悪僧がいて、わたしの担当でした。
わたしがやめたあと、富士宮で事件を起こし、石山内で逮捕され、テレビ、新聞で報道されました。この人間、いまでもではGということになるのでしょうか。

> ネット上で実名を明かす…推奨しません。
> …他人にも強要するのも推奨しません
> …挑発されても決して個人情報を明かさないように

ええ、このご意見に賛同します。
まったく仰るとおりであろうかと存じます。

ついでながら、次回の研究発表オフ会もお待ちしております。
なんか発表していただけませんか。

1401犀角独歩:2005/03/08(火) 12:42:25

また、打ち間違えました。西川さんに突っ込まれそうです。

誤)なお、わたしは、上述の件は、何も石山という総本山「猊下」に限らず、本山格を有する寺院であれば、慣例的な呼称ですね。

正)なお、わたしは、上述の件は、何も石山という総本山「猊下」に限らず、本山格を有する寺院であれば、慣例的な呼称であることも承知しています。

1402犀角独歩:2005/03/08(火) 12:54:15

もう一カ所間違っていました。訂す程でもないですが、批判が沸いている矢先なのでコマの無駄遣い、ご勘弁ください。

誤)この人間、いまでもではGということになるのでしょうか。
正)この人間、いまでもではSということになるのでしょうか。

1403藤川一郎:2005/03/08(火) 13:30:04
> また、最初の道号は、能化になれば日号公称が許可されるわけですが、その時点でまた、変更するのでしょうか。そんな度々、変更が許可されるものでしょうか。

一応、お答えしておきますが、何度でも許されております。
実際にあるご住職は「在家としての俗名も含めて、3度目の名前だよ」等と冗談で言っておりました。
石山ではその程度ですが、他宗のお坊さんは法名が6度変わって、そのたびに変更したそうです。
なお、そのたびに宗教法人登記簿も変えるのですが、宗教法人登記は登録免許税(印紙代金)が非課税ですから、無料なんですよ。
会社でこんなに変更してたらそのたびに3万円または1万円の登録免許税がかかって大変ですが!

さて、またまた余談ですが、在家は結構難しいんですよね。
戸田さんの名前は何度も変更していますが、1度までは戸籍訂正をしたようですが、さすがに2度目以降は通称だったんじゃ無いかな?
不確かですから、違ってても、つっこまないでくださいね。

なお、独歩さんの仰せのご質問ですが、石山僧をクビになっても戸籍の変更義務はありませんから、俗名も一生その名前になるんだと思います。
かの有名な、妙信講と運命を共にしたM本日J元能化も戸籍は変更しなかったと思われます(後の裁判資料が全てM本日仁となってます)。

1404犀角独歩:2005/03/08(火) 13:56:35

> 1403

藤川さん、レクチャー有り難うございます。
そうですか、坊さんはけっこう緩いんですね。

勉強になりました。では、この点については、前言を取り消すことにいたします。

しかし、坊さんやめたあとも、日号のままは、なかなか紛らわしいですね。

ちょっと、ついでに質問させていただいてよろしいですか。

M師は、いつまで坊さんだったわけですか。
この意味は、石山から切られたあと、自称坊さん?、それとも還俗してしまったかどうか。わたしは勝手に死ぬまで坊さんだったと思っていたわけです、この辺の実際のところはどうなのでしょうか。

あと、この人から妙信講に供給された本尊は、大きくは7体、残りの印刷本尊は多数あるようですが、日号が着くクラスの坊さんになると、そんな本尊を所有しているものなのですか。

1405犀角独歩:2005/03/08(火) 17:32:08

「つぶやき」で質疑応答を始めてしまいました。

藤川さん、1404、もしお応えいただけるのであれば、『顕正会の実態を検証する』でお願いします。

顕正会の実態を検証する
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1041207951/l100

1406真実 探求者:2005/03/08(火) 22:24:49
、、1404 様 御参考になりました、、。 民間では一度、退職しますと、かなりの縁故以外は再就職不可能、、が現実です、、。  それがエエカゲン、、、???のような石山関連の事実、、?、、とは、、?? 驚愕、、!!! です、、!! ソンナ・エエカゲンな団体、、??? でしたか、、??

1409吉祥仙人:2005/03/10(木) 22:45:22
 つぶやき近況報告

 現在、志茂田景樹著「折伏鬼」(昭和55年文藝春秋社)を読んでます。

 書き込み諸先輩方の時代がよくわかります。

1410犀角独歩:2005/03/10(木) 23:30:23

> 1409

おお、おもしろい本を読んでいますね。よく書けた本です。

わたしは、ここのところ、三学無縁さんからお借りした『小樽問答誌』と、その折伏鬼のモデルとなった戸田さんの『日蓮正宗 方便品寿量品精解』を読みました。

…… つかれました(笑)

1411吉祥仙人:2005/03/11(金) 19:13:39
 またまたつぶやき

 私がリンクに使っていた「富士宮ボーイ」のリンク先から当掲示板が消えました

 まさか私の投稿が原因では、と思うのは誇大妄想でしょうか

1412訪聞者ー003:2005/03/11(金) 19:27:31
1411 さん、イロイロ御座いましょうが、。 当該者は、これ以上「一般の人が知られては、?」、困るナー、?と思う団体だったのでは、? 未だにイヤラシー「知らせずベカラズ、依らしむベシ、?」という、時代錯誤が原因か、何かが因しておるでしょう、、か、?

1413愚鈍凡夫:2005/03/11(金) 23:04:40

富士宮ボーイのリンク集というのが下記であれば、「富士門流信徒の掲示板」は載っていますよ。

無断でリンク集
http://fujinomiyaboy.fc2web.com/Links.htm

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1414あわわ:2005/03/12(土) 00:32:47
池田名誉会長の弁護をするつもりではないが、かつて会長を辞めた後、色々正宗側が行動の統制をしていた際に「日蓮正宗の信者なんだから勤行はいいだろう。」と、ほとぼりも冷めぬうちに各地をまわり末端信者達と勤行をしていた事には反骨精神を感じる。それをあこぎととるのは自由だが、退転さんなんかのカキコを見ると、宗教的善イコール不変とは思えないので、対石山に関しての池田氏のルール違反は戸田氏の罰の件も含めてアリかな?とも思う。あくまでシロート考えだが。

1416吉祥仙人:2005/03/12(土) 10:19:20
あわわつぶやきがえし

後半の三行は何を言ってるのか、解読できない

1417犀角独歩:2005/03/12(土) 17:03:02

さてと、創価学会の今後については、管見記しましたが、では、石山はどうか。
お宝信仰をやめて、成果主義をやめ、坊さん中心の100年前に廃れた封建体制をやめること。

折伏は坊さんがやって、ひたすら在家の安寧と成仏を助ける。うちには研鑽に励み、700年、曲がるに曲がった、世間一般、どこにも通用しない教学を棄て、蓮興二祖の祖学をまず考えること。何より、自分たちがいちばん正しいなどと言う天地がひっくり返るような見当違いはさっさと改めること。

坊さんは自分のやるべき仕事を信者に任せないこと。「袈裟を脱いだら一般の人と同じ」などという下らぬ言い訳をやめること。いままでお宝であると言って来たものを、一切、学術・科学調査し、その結果を忠実に受け入れ、体勢を立て直すこと。
信者は、坊さんの奴隷をやめて、坊さんの真似事はやめること。

…まあ、数え上げればきりがありませんが、ともかく、次は60万登山だなどという、信者を苦しめることはまずやめることでしょう。

さらに顕正会は、彫刻本尊がいかなるものか、御肉牙いかなるものかという事実を真摯に受け止めて、路線を早く変更すること。まあ、ここがいちばん、難しいのかもしれませんね。かつて1000万人の目標達成年度であった平成25年はいまや300万人に。何度も、予言も目標も外れて今に至ったわけです。もうやめるべきでしょう、会員を振り回すのは。会長崇拝と、目標重視をやめれば、案外、信者は純朴でいい人たちが多いわけですから。

学術的に真面目な坊さんを有する正信会は、彫刻本尊に正式な見解をしっかりと示し、飯のために在家向けのごまかしはやめること。坊さんや、在家信徒は甘めに見てくれますが、社会一般が決してそんな見方はしてくれません。もうその事実に気付くべきでしょう。

まあ、わたしが言うべきことか、どうか。しかし、「正直な信心」という言葉を、表に立てて、本音と建て前、内部と外部、そんな使い分けはそれぞれやめるべきです。本人たちは気付かれていないつもりでも、はっきり言って、見え見えの訳ですから。

いずれにしても、どの学会を含む石山圏の人々も、他の日蓮門下と同様、唱題のありがたさで人生を切り開いてきたのでしょう。その体験を否定する必要はありません。また、友を思い、眷属を思う気持ちも、強いのでしょう。しかし、わたしは大乗仏教といわず、宗教の真骨頂は「不信の救済」にあると断言する独りです。信じる者しか救わない仏教を小乗と言いましょう。不信の救済こそ、真の大乗であるという新大乗主義を、わたしは主張したい。そこから、考える目標の設定は、必ずや、人々に感銘を与えるはずです。

わたしは、当面、ともかくも禅師授与漫荼羅を臨模・作為の原本とした彫刻本尊の正体を明らかにすること、そして、議論ある団体問題に取り組みながら、学会を含む石山難民の人々と、今後を考えていく従来通りの道を歩む所存です。棒に振った人生40年、その後の10年で、しかし、整理が着きました。また、問答さんほか、素晴らしい方々にお会いでき、それまでの苦労も報われました。

上述、挙げた問題点を知るために、ここ問答名人さんが運営されるここ富士門流信徒の掲示板は指標となり、サンガとなると、わたしは思います。

本年、3月20日、今回の研究発表大会と決めたその日、オウム真理教地下鉄サリン事件から10年の節目を迎えます。この10年で過去40年の人生の整理は着きました。わたしも五十にして立ちます。

…何故か、所感と決意を開陳したい気分になりましたので、つぶやきということで。

問答名人さん、改めて、御礼申し上げる者です。

1418れん:2005/03/12(土) 18:31:51
犀角独歩さん、地球環境板の53・54、当板の1417の御投稿を読みまして、全く仰る通りであると思いました。独歩さんの上記の御投稿に深く賛意を表します。

1419問答迷人:2005/03/12(土) 20:13:41

犀角独歩さん

>しかし、整理が着きました。

最近の独歩さんを拝見していると、何か吹っ切れた、という印象、そして、新しい地平で、「不信の救済」という、とてつもない課題に取り組まれている姿が神々しいです。

僕は『唱題成仏』という蓮祖の教えと格闘し、もがいています。今日に、万人のものとして唱題成仏を甦らせたい、そういうとてつもない格闘です。万人のもの、と言う事は、不信の救済という独歩さんのお考えに通じる所があるかもしれません。

1420孤独な迷子:2005/03/13(日) 00:11:00
犀角独歩さん、問答迷人さん

時々ロムさせて頂いております。難しいご議論なのでなかなか入れませんが。

ここに来て新しい展開が開けてきたようですね。

今後もロム中心になると思いますが、よろしくお願いします。

1422管理者:2005/03/13(日) 10:57:12

無解有信派さん

>1421 これは明らかに犀角独歩さんに対する中傷に当たると判断します。つぶやきスレッドだから何を書いても良いとは管理者は判断いたしません。禁止事項に該当しますので削除致します。

1423犀角独歩:2005/03/13(日) 11:05:32

「博学で真理をわきまえ高邁・明敏」の皆さんから、僭越な管見にレスを賜り、有り難く存じます。


>1418 れんさん、「賛意」を賜りましたこと、嬉しく存じます。
れんさんにも、学恩に、深く御礼申し上げます。


> 1419 問答名人さん、『唱題成仏』、これまた、難解な命題と存じます。
わたしが御義口伝を用いるのは何ですが、成仏は「仏を成(ひら)」との意とのこと。では、仏とは何かという命題の解題がまず第一義となりますね。原意としては、「目覚めた者」「気付き」などということになるのでしょうが、しかし、唱題という行は、しかし、有効な側面をもっていると、わたしも経験からそれを知っています。
「唱題成仏を甦らせたい」との崇高なテーマを解きほぐされんことをお祈り申し上げます。


> 1420 孤独な迷子さん、お久しぶりです。よろしければ、研究オフ会にご参加ください。事前にわたしのほうへ、ご連絡をいただければ、特にご本人情報をご連絡いただかなくても、ご参加いただけるように手配いたします。


> 1421 読まない内に削除となりました(笑)

1424大勇者:2005/03/13(日) 11:15:49
>1417 犀角独歩さん
>真の大乗であるという新大乗主義を、わたしは主張したい。

感動。。感銘、感応しました。。。
「所属団体を超えたネットワークが出きれば素晴しいな〜」と一人感慨。。。
愚生も是非学ばせて戴きたい。期待。

1425犀角独歩:2005/03/13(日) 12:00:45

1424 大勇者さん、ご賛同いただいたことを嬉しく存じます。

> 所属団体を超えたネットワークが出きれば素晴しい

既にここに、問答名人さんが作ってくださっていますよ。
当掲示板を「現代のサンガ」と尊称する所以です。

1426犀角独歩:2005/03/13(日) 12:21:03

―1425からつづく―

しかし、掲示板上でのつきあいだけでは、ネットワークとは言えないと仰る方もいるかもしれません。もちろん、ここでは終われば、そうなるでしょう。また、自己信念体系に執着し、その事実を憎んでいるうちは、まさにそのとおりです。

しかし、ここで所属を超えて話し合える人々は、また、その平和のネットワークを他に結んでいるでしょう。今日現在、わたしの尊敬する沙門は、遠くインドにスマトラ沖津波罹災者のために、30万にも及ぶ慰霊のために赴いています。また、ある方は、オウム真理教地下鉄サリン事件被害のための10周年記念集会の準備に追われています。また、ある人は、カルト被害に居住から遠く離れ、日本の列島の半分にも及ぶ距離を移動しています。そして、そのようになさっている方々にも、多くのネットワークがあります。

ここ掲示板の和は、表面的には議論の和であるかもしれません。しかし、その方々お一人おひとりが外に繋いでいる手は、たしかに地球全土の平和への希求と実践の方々と繋がっています。

わたしたちは、ここで「21世紀の日蓮」を考え、従来の悪弊であるファンダメンタリズムを超克し、虚偽と差別を廃し、それを融和、共生、平和に再考し直すことができる方々は、皆、この無数の平和のネットワークの、一本の繋ぎ手となっているとわたしには思えます。

ともかくも、狭隘な、浅薄な、わずか数万、数十万、数百万の井の中でしか通用しないお伽噺から脱却する勇気を持つこと、それがここ富士門流信徒の掲示板で学べる第一歩でしょう。

1427犀角独歩:2005/03/13(日) 17:52:15

三学無縁さんからお借りした『小樽問答』の録音(CD)全編2時間余を一挙に聴聞。
大半はヤジで、まあ、公開討論というのは、国会ではないがヤジも勝負の内、ということでしょうか。しかし、学会のヤジは本当にすさまじいものがありました。


印象的には熱気と数で創価学会が圧倒。いつも少数派、独り受けて立つのが当たり前になっている自分にとって数で押すやり方は納得がいかないところがあります。しかし、『小樽問答誌』(創価学会教学部編)石田氏の言を読むと

「…行ってみたらすでに正宗悪罵のビラを全市にまきながら、学会てごわしと見るや2日も法論を逃げまわり、最後に会場へゴロ新聞記者を入れて開会前から大声で攪乱工作をさせたり…」(P173)

とあり、これが事実であれば数で圧した学会に文句の言える筋ではない思えました。まあ、こんなことも、勝負の内でしょうか。正攻法を旨とする自分からすれば、事実ならば納得できないものです。

また、身延代表が顕本法華の長谷川義一氏というのはいかにも不可解で、おまけに、開口一番行ったのが新聞の投稿欄の記事。法論を神聖といえば、これほど、冒涜した始め方はないと不快に感じました。また、その終わりも身延側司会者が、法論内容とは何ら脈絡もなく、「九箇年の間心安く法華経を読誦し奉り候山なれば、墓をば身延山に立させ給へ。未来際までも心は身延山に住む可く候」という『波木井殿御書』(写本遺文・録外)を引用し、一方的閉会宣言をしたのも作戦の内とは言え、下らないことをやるものだと呆れました。

「作戦、戦法で勝利を」ということでしょうか。ここ掲示板で落ち着いた議論になれるわたしにとって、双方のこの在り方は、どうにも、馴染めないものでした。

1428無解有信派:2005/03/14(月) 07:00:19
>> 1421 読まない内に削除となりました(笑)

管理人様、初の書き込みなのにご挨拶もせず大変失礼いたしました。

突進する動物の習性を書きましたが、削除になりました。

犀角さんが誹謗と怒られるか、警鐘と受け止められるかの度量を拝してみたいと試みたのですが

門前払い 

独歩さんに一刀両断される事を期待しておりましたが  残念 

 どうぞ、無礼をご勘弁ください。

1429管理者:2005/03/14(月) 07:23:23

無解有信派さん

当掲示板のルール(管理者からのお願いスレッド)の該当部分を再掲します。宜しくお願い致します。

【禁止事項】

1「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。

1430犀角独歩:2005/03/14(月) 11:21:27

無解有信派さん、残念ながら、わたしは読みませんでした。

しかし、1428からかすかに伝わるところによれば、わたしを動物に譬え、警鐘を鳴らしくださったとか。わたしという個人に進言くださったと言うことなのでしょう。しかしながら、度量を計るとは、人を食った話ですね(笑)

当掲示板は、その個人評論を目的にしていません。書き手が主ではなく、書かれたことが主です。ですから、人物論評ではなく、その投稿内容に就き、挙証資料を添えて、議論をするというのが在り方です。

まあ、わたし個人など、吹けば飛び、死し消えていく存在です。
しかし、書いた文章は残っていきます。また、事実を明らかにした皆さんと議論した道筋も残るでしょう。文は人よりも長生きです。また、仮にわたしが断筆をしても、記した事実と、その事実を開墾した労苦は、必ず、事実を白日の下に晒す実と育つでしょう。

つまらぬわたし個人のことではなく、ここで議論する多くの人と、歴史を動かした虚構の実態が何であったのか、日蓮門下、就中、学会を含む石山圏・信念体系の人々がどこへ歩いていけばよいのかを議論しませんか。

当掲示板にも、議論にも、一定のルールがあります。
その範囲で大いに議論をしたいと思います。

また、わたし個人に向ける忠告、進言であれば、なにも投稿に及びません。わたし個人にメールをお寄せください。充分に対応もしましょう。

saikakudoppo@rio.odn.ne.jp
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1431真実 渇仰:2005/03/14(月) 17:39:01
、、一言失礼。 先般、、久しぶりに民間ラジオ放送を聴いたが、、「、、so---ka---ga--kkai--]という、女性のCMが突然入った。 ギクリ、、!! トウトウ、ここまで来たか、、?  ただ、なぜか?? と疑問に感じた、、。 一般の経済〜商法活動を実施可能な最低限の資格、? それは、 人並みに「税金、!!」を完納した者や団体、、だけが許容される筈だが、、? しかし 宗教法人法の厚い「非課税、!!」に保護された団体が、、?? なぜ、シャーシャーと一般商業社会のCM に 割り込んで、平気の平左、、??なのでしょうか、? とても不公平な感じを実感しましたが、、。 やはり「何らかの厳しい法律で規制、、」、、する事もしなければ、、横暴者の防止は、、?? でしょうか、、? ホントニ 困難な時代のようですか、、。

1432犀角独歩:2005/03/14(月) 23:39:24

> 1431

創価学会が、ラジオといわず、テレビでも宣伝を流すのは、いま始まったことではありません。地方局では、既に行われてきたことです。

かつて、宗教のテレビ宣伝といえば、霊波の光と言ったところですが、いまでは、むしろ、創価学会のほうがその代表となっているのではないでしょうか。

1433吉祥仙人:2005/03/15(火) 05:40:56
 志茂田景樹著「折伏鬼」3部作を読み終わりました。

 第3部「会長の野望」のラスト(エレベーターの中で牙城会に睨まれた・・・)
ところで終わっているのは、どういう意図か分かりません。
 オウムのように拉致され云々でもあったと言いたいのでしょうか?
 でも、実際そんなことは無かったので、名誉毀損を恐れて小説でも書くことを
はばかったのでしょうか。
 なんにせよ、昭和55年に出版された古い学会批判と思えば、歴史上の価値は
あると思います。

1434犀角独歩:2005/03/15(火) 09:55:29

志茂田景樹さんの強烈なファッションは、学会からの攻撃を避けるカモフラージュなんていう意見もありますね。実否はどうでしょうか。

1435大勇者:2005/03/15(火) 09:56:09
真実 渇仰さんは、以前、中東出張中で海外から投稿してると仰ってたような・・・
>1431は海外のラジオ放送のことなんでしょうか?とつぶやき・・・です

1436犀角独歩:2005/03/15(火) 20:23:56

わたしは批判精神に基づいて、富士門流信徒の、就中、蓮師の、法華経の、漢訳仏教の、所謂大乗仏教の、その僧俗の、問題を論及してきました。

しかし、では、少しも良いところはないのでしょうか。また、信仰に意義ありと思う方々は、それを証明する術も、主張もないのでしょうか。

実に不思議に思います。

1437真実 渇仰者:2005/03/17(木) 17:40:02
一言を御免、、。次記のHPアドレスを見て、ある、、?示唆を得ました。
http://www.kosaiji.org/pilgrim/china/
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~phase817/MRT/010721.html  でした、、。

1438ワラシナ:2005/03/19(土) 22:22:42
「必須栄養素としてのカネ」

0、金ほど大事なものはない、命より大事だとおもう。カネがないのだったらいっその事命なんか無い方がマシと思える。生きていく上で大事な水や空気以上の価値があると思う。カネはカネという必須の栄養素だと思う。特に現代人は生存の為にこの栄養素を多量に必要としていると言える。不思議な事に他の栄養素は取り過ぎると体に害があるのにこれは違う、取り過ぎて体に悪いことが起きない。逆である。

1、今日この栄養素が不足している事が原因で心身の不調を訴える人が多くなっていると思う。いや国中のほとんどの病気の原因がここにあるとすら思えるのである。正確に言えば、この栄養素が極端に不足している事が原因なのである。健康で文化的な生活を維持していく為にはかなりの量が必要だからである。中途半端なお金では効き目がないのである。であるから、国民の真の健康生活を保障する為に、試みに国民一人あたり五千万ほど注入していく事が必要と考えるものである。注入量が少ないと効かないと思う。この多量注入法によってこの栄養素が不足している人を一瞬でも「笑いが止まらない状態」にすることがまず肝要と思う。そうすると殆どの病気が治ると予想される。

1439吉祥仙人:2005/03/21(月) 06:47:59
 オフ会に行きたし、金はなし。5.3あたりにやってもらえませんでしょうか

1440犀角独歩:2005/03/21(月) 10:12:00

1439 吉祥仙人さん:

> オフ会に行きたし、金はなし。5.3あたり

「金はなし」という点については当方では如何ともし難い(笑)のですが、5・3開催については、もしその日がご都合がよろしければ、可能ですよ。

1441大勇者:2005/03/21(月) 12:55:13
小樽問答の「録音を聞く会」  興味津々です
これに「酔っ払いレコード」が付けば・・・・

1442吐玉:2005/03/21(月) 15:50:48
オフ会 お疲れ様でした。
彼岸が絡んでは時間が取れませんでした。
小樽問答は ぜひ聞いてみたいものです。

1443犀角独歩:2005/03/21(月) 15:54:53

大勇者さん、なかなか面白い録音ですよ。

吐玉さん、しばしお久しぶりです。
時間のご都合がつきましたら、是非、この次はお運びください。

1444ROM専:2005/03/24(木) 15:53:26
>言い放つだけ言い放ち、議論には応じないと言うのは、実に不誠実な態度であると批判せざるを得ません
六巻抄スレ>>203からの引用。
この「言い放つだけ言い放ち、議論には応じない」というスタンス乃至傾向は、
カルトな教義にどっぷり漬かっている者ほど顕著に見られるような気がする
んですが。。。私の気のせいでしょうか・・・?

単なるROMのつぶやきです。スレ汚し失礼しました。
独歩様、以前は私の拙い疑問点に、丁寧にお答え頂きありがとうございました。
お礼が遅くなった事、お詫び申し上げます。

1445福神の:2005/03/24(木) 17:27:45
定例公開講座 「日蓮聖人御遺文」を読む
三月は明日、二五日に行なわれます。
講師は、立正大学の小松邦彰教授
時間は午後二時から六時
会費は二〇〇〇円
基本テキストは「平成新修日蓮聖人遺文集」(米田淳雄・編)
会場は新宿駅から徒歩約5分の、日蓮宗常圓寺、祖師堂三階
真蹟遺文を系年順に読解
今回は「薬王品得意抄」で、「法華題目抄」に入るかもしれません。
二次会は近所の居酒屋でワリカンですが、五〇〇〇円くらいは覚悟したほうがよいかも、です。

1446犀角独歩:2005/03/24(木) 17:47:25

> 1445

そうでしたか。これは申込は必要なかったのでしたっけ?
講義には、『平成新修日蓮聖人遺文集』(発願編者・米田淳雄/発行所・連紹寺不軽庵)を皆さんは持参しています。
坊さんを中心にした勉強会ですが、その他の人々も参加していますね。

1447犀角独歩:2005/03/24(木) 17:50:21

1444 ROM専さん、いつの、どの応答への仰せか、ややピンときておりませんが、御丁寧に有り難うございます。どうぞ、いつでも、お気軽に問いかけてください。

1448福神の:2005/03/24(木) 18:16:50
公開講座は参加自由です。
ただ、「富士門流信徒の掲示板を見て」ということは受付でおっしゃってください。
富士門掲示板の参加者のかたたちも何名か参加されています。

ほかに、松山俊太郎さんによる「法華経講義」も月一回行なわれています。こちらは
基本テキストに岩波文庫版「法華経」を使用していますが、サンスクリット・パーリ・
漢訳各文献と比較による講義です。三月までは第一金曜日でしたが、四月からは変更が
あるようです。
会場は同じく、新宿の常圓寺。
時間は午後三時から六時。
会費は三〇〇〇円です。こちらも二次会ありです。

1449真実 渇仰者:2005/03/24(木) 19:42:38
1444 サン、、ゴモットモで御座います、。  小生も鈍才の低脳の、、?? のため、、深く、、反省、、をば、、致す所存で、、御座います、、。ゴメン下さい、、。 早々。

1450真実 渇仰者:2005/03/24(木) 19:53:12
、、続き、、です、、。 人生、、イロイロ、、悟り(、、分分の行に因じて、、分分、、の人徳〜〜才徳、、??)のような、、??、、などが体得・体感など、、は、、可能でしょうか、、?? しかるに、、小生は、、「、、才、、も、、人徳、、も、、皆無、、」、、で御座います、、トホホ、、。 、、ご議論、、に、、お答え、、?、、出来ない、、ような
、、==、、才徳、、の不足、、==、、役者、、不釣合い、、など、、など、、。 、、悪しからず、、、、。 早々、、。

1451ファリオン:2005/04/01(金) 14:50:48
初めまして。自然崇拝派のファリオンと申します。

皆様の深遠なる知識と真摯な態度に、深く敬意を表します。
一昨年来、東京の友人(私は岩手です)から、折伏らしきものを受けております。
まあ、大抵のことは私が論破してしまいましたが、相手のことも理解しないと話が通じないと思い、
肯定・否定の両方から勉強しております。
その過程で、ここの存在を知り、ROMさせて頂いております。(レベルが高いので苦労しております)

ちょこっと、つぶやきをば……

信仰の名の下に盲信する方たちは、心の拠り所を探しあぐねて、茅屋を御殿と思ってしまったのかもしれませんね。
それで、その錯覚が何処から来るかといえば、メッキの金看板を掲げる宗教(?)団体だと思うのですが。
宗教団体は、本当の姿を取り戻して、心の救済たりえる真の宗教となってもらいたいものです。

なぜか、創価学会(それ以外も)や学会員の行動が、マルチ商法と酷似しているのが目に付きます。
マルチ商法が日本に来たのが、昭和40年代前半。(スワイプ……)
やりかたを真似た訳では無いでしょうが、創価学会の組織図や会員の行動を見ると、かなり心配です。

*****
議論出来るほどの知識も体験もないので、またROMに戻りますが、今後とも宜しくお願い致します。

1452犀角独歩:2005/04/02(土) 00:02:33

ファリオンさん、はじめまして。

> 議論出来るほどの知識も体験

まあ、ご謙遜と思いますが、無ければ無いなりのやり取りはあろうかと存じます。
ご遠慮なさらず、議論にご参加ください。杓子定規を意識する必要はありません。
思ったとおり、感じたとおりでよろしいかと存じます。

1453ファリオン:2005/04/02(土) 00:32:40
犀角独歩さん(本当は様と付けたいです)

有難う御座います。
謙遜でも何でもなく、やっと創価学会を初めとする日蓮正宗の問題の外観を捉えた程度です。
東京の友人から御書(学会版昭和50年97刷)を譲り受け、勉強を始めたばかりです。
お言葉に甘え、議論の足を引っ張らない程度に、素人の視点で参加させて頂きます。
ご指導のほど、宜しくお願い致します。

1454吉祥仙人:2005/04/02(土) 06:01:06
 下衆のつぶやき
(そう思うんなら、書くな・・・てか)

 ファリオンさんは、キリスト教徒から自然崇拝へ進まれた、清く正しく美しい
女性のような気がします。

1455吉祥仙人:2005/04/02(土) 06:06:51
 ファリオンさん。自己紹介を読まず。失礼しました。

1456ファリオン:2005/04/02(土) 09:41:15
吉祥仙人さん

いえいえ、お気になさらずに。スレッドが違うと、よく起こる事ですから。
どうぞ、宜しくお願いします。

1457犀角独歩:2005/04/02(土) 11:10:21

ファリオンさん:

> 東京の友人から御書(学会版昭和50年97刷)を譲り受け、勉強を始めた

日蓮遺文の半分は、真偽未決(疑書)、さらに偽書です。
しかし、半分は真筆(真跡 (しんせき))です。この対比を注視して学ばれることをお薦めします。また、編年で読み進めないと、日蓮の思想変遷はわかりません。以上のことから、学会御書は、やや不適当ということになります。その意味で、この書を使われるのであれば、巻頭の目録から、年代の若い順番から、正筆所在を確認される労を厭わないことです。

日蓮門下一般で、現在、薦められるのは『平成新修日蓮聖人遺文』(発願編者・米田淳雄、発行所・日蓮宗連紹寺不軽庵)です。確実な日蓮文書のみが編年掲載されています。

ただし、学会教学(というか石山・日寛教学と言うことになりますが)を知るためには、疑書・偽書、宗派文書(相伝文等)を読まなければなりませんが、それを日蓮の言説であると思うのは信仰の範疇であって、学的な態度とは言えません。このような点から、日蓮教学、就中、石山教学、それをモチーフにして説明原理にする学会教学を考えませんと、正確な批判とはなり得ません。

ご参考に資していただければと存じます。

1458大勇者:2005/04/02(土) 13:45:29
ファリオンさん

はじめまして、宜しくお願いします。

私はキリスト教から学会へ鞍替した口です。
仏教入門へのキッカケになったとの意味では後悔していませんが、、、、

当時、プロテスタントの私にとって宗教を判断する基準の一番大きく占めるところは、「偶像主義」か「偶像否定」か?二極論でした。
「文字曼荼羅」にはそのどちらでもない「深義」に魅力を感じたのですけど、、、未だ?です。
学会は偶像主義に近いかも、などと考えてる昨今です。

1459ファリオン:2005/04/02(土) 18:54:58
皆さん有難う御座います。

>>1457
犀角独歩さん

御指摘、有難う御座います。
ここの各スレッドを見続けておりますので、重々承知しているつもりですが、
忘れないよう、肝に銘じます。

>>1458
大勇者さん

初めまして。宜しくお願い致します。
偶像か否か、人によっては難しい問題かと存じます。

私見ですが、信仰において偶像が重要か否かは、信仰の形骸化につながるのでは。
そのように考えています。
「御本尊」にしても、その意義はともかく、顰蹙覚悟で申せば、単なる物体にすぎないと思います。

生意気かもしれませんが、その「物」を通して、背後に潜む深遠なる教えを感得するのが、
信仰の根本かと、勝手ながら解釈しております。

1460犀角独歩:2005/04/02(土) 22:32:36

ファリオンさん、わかりきったことを記したようです。ご無礼いたしました。

1459に、大勇者さんに記されるところ、わたしは大いに賛同します。

キリスト者であったお二方にお尋ねしたいのですが、森山諭著『創価学会のまちがいをただす』は、お読みになりましたか。もし、お読みになってお出ででしたら、キリスト者と日蓮信仰を跨ぎ知る方からのご意見として、お聞かせいただければと存じます。

1461ファリオン:2005/04/03(日) 02:30:51
犀角独歩さん

>1459に、大勇者さんに記されるところ、わたしは大いに賛同します。
素直に、嬉しいです。

キリスト教に関しては、多少聖書に親しんだ程度で、残念ながら「キリスト者」と呼べるものではありません。
ご提示された本については、書名のみ知っていましたが、読むまでには至っていません。
少し調べて見ましたが、割りと古い本ですね。私が生まれる前です。(^_^;)
「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」「日蓮聖人と真言密教」の各スレッドで、独歩さんが引用されていますね。
宜しかったら、関連のスレッドで討論出来ればと思います。

1462犀角独歩:2005/04/03(日) 11:48:02

> 関連のスレッドで討論

ファリオンさん、大いに議論に花を咲かせましょう。

1463大勇者:2005/04/03(日) 18:09:12
「創価学会のまちがいをただす」は読んでおりません。是非入手致しましたならば読みたいと思います。
森山諭氏もプロテスタントの方と思いました。昔から「カルト宗教」問題について活動されている先生ですよね。
私は幼少の頃にドイツ改革派教会(会派などはあまり意識、問題にされることは殆ありません)に通い、その後10代の頃に鈴木弼美や内村鑑三などに興味を持った程度ですが、幼少の頃から受けた基督教的影響は簡単には払拭出来るものではありません。それはそれで良いかとも思っていますが。
20代の頃に無教会主義の先生と創価学会について相談した時に「新宗教の創価学会が悪いとは言わない。だが功徳、功徳と求める心に信仰はない。」との答えでした。
そんな分けで森山諭氏への感想は書けませんが、無教会主義の内村鑑三の「代表的日本人」での日蓮の紹介の記述には私としては非常に共感が持てます。現代にも通ずるものがあると思います。
よく引用される内村鑑三について、印象に残る箇所を3点紹介したいと思います。
***************
だれそれは「無宗教」の人であるという話はたびたび聞かれます。しかしそれは、その人たちが、特定の教義を奉じているわけでなく、導かれる教団もなく、神として、木や金属でできたりまたは心に浮かべた像を崇拝していない、というだけの話にすぎません。
***************
日蓮は教典崇拝者でありましたが、偶像崇拝者ではなかったのであります。
****************
闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教者であります
****************
PS、こころのなかの偶像を消し去ることは意外と難しいですね。以前、独歩さんに唱題の時に何を観ずれば良いのかを尋ねたのもそんな理由もあっての事でした。恐々

1464犀角独歩:2005/04/03(日) 18:39:35

大勇者さん:

森山諭著『創価学会のまちがいをただす』は、師が生前いらした荻窪栄光教会にお尋ねしたら、「まだ残部が少し残っている」ということでした。
仰るとおり、こちらは、森山師の遺志を継いでカルト問題にも積極的に関わっています。師はしかし、病気癒しでも有名なことを先頃、ネットで知って吃驚しました。
もし、お読みになる機械がありましたら、ぜひ感想をお聞かせください。

荻窪栄光教会
http://www.eiko-church.com/

> 内村鑑三

これは三学無縁さんのご指摘ですが、戸田さんは当初、キリスト者で、特に内村鑑三の影響を受けているとのことでした。となれば、大勇者さんの思想遍歴は、戸田さんと同じ道を辿ったことになりますね。

「偶像崇拝」ということですが、わたしは個人的には、もので作ったものばかりが偶像ではないと考えています。心のなかに浮かべる虚構もまた偶像でしょう。いもしない神を一所懸命に心に思い浮かべるのは、形こそないにせよ、偶像に過ぎません。その意味で、いまのキリスト教の言う偶像批判は不徹底であると思います。

ヘブライ語で書かれた「神」に該当する語は、今では何と読むのかわからなくなった。妄りに神の名を口にしてはならないということがその原因でしたか。しかし、このような宗教的な姿勢は、神は実在する、偶像崇拝は間違いだなどという短絡思考よりは共感を抱けますね。

まあ、当掲示板的な教理面から言えば、「南無妙法蓮華経は宇宙・生命の真理」なんていう思念もまた、偶像崇拝の類と映じます。そんな言葉で表すより、天台の如く「言語道・断、心行処・滅」の境地と、ぎりぎりまで迫る行き方に核心を見ますね。

スレ違いですが、4月16日はお出でになれそうですか。

1465ファリオン:2005/04/03(日) 18:51:57
>>1462
犀角独歩さん

はい。宜しくお願いします。
ただ、適当なスレッドが思い浮かばないので、どのスレッドが良いか、提示して頂けないでしょうか。

1466犀角独歩:2005/04/03(日) 19:04:15

> 1465

どちらでも、それぞれのテーマにあった内容で、複数で、同時しんこうでもかまいません。
どんなテーマからやりますか。

1467パンナコッタ:2005/04/03(日) 19:25:24

キリスト教系の方からのカキコがあったからではありませんが、ローマ法王がお亡くなりに
なりました(ご帰天って言うのかな)。新教系との事なので直接は関係ないかもしれませんが、
世界的に影響力を持つ宗教者の死を、みなさんはどのように感じて捉えているでしょうか。
何はともあれ、お悔やみを申し上げます。

1468ファリオン:2005/04/03(日) 20:18:48
>>1466
犀角独歩さん

偶像の肯定・否定の話から始まりましたので、宗門他の御本尊にも関わるかと存じます。
相応しいかと問われると自信は無いのですが、「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」スレで、
偶像崇拝の観点から論じるのは如何でしょうか。

>>1467
パンナコッタさん
初めまして。

旧弊を覆した行動力は、尊敬に値するものと思っています。
これから選ばれる、新法王が気になります。バチカンがどの方向へ進むのか、注目しています。

1469犀角独歩:2005/04/03(日) 21:19:42

ファリオンさん:

> 偶像の肯定・否定…宗門他の御本尊にも関わる…「本門戒壇の大御本尊様の偽作説」

了解です。では、そちらでお願いいたします。

1470ファリオン:2005/04/03(日) 21:38:00
犀角独歩さん

はい。
どうぞ、お手柔らかに。^^;

1471パンナコッタ:2005/04/03(日) 22:35:59

ファリオンさん、はじめまして。
バチカンの旧弊はまだまだ問題がありますよね(堕胎についてなど)。しかしこれからの
成り行きはどうなるのかは、見守りたい所です。

 いずれ近い内に、宗門も学会も同じ様な場面に直面するのですから、どのような対応を
するのかが気になる所です。信徒のみなさんは「この罰当たりめが」となるのでしょうけど、
自分自身が現実を逃避しているだけだと思いますよ。

犀角独歩さん、その節はお世話になりました。
色々探していたら「日蓮正宗創価学会 批判を破す」なんてのが出てきて読んでみました。
いやぁ〜、シビレました。40年も前にこんな本が書かれていたなんてステキ過ぎます。
今、この本を読んで大爆笑出来る知識が、この板で身に付いたことに感謝します。

1472犀角独歩:2005/04/03(日) 22:56:02

パンナコッタさん、どうも。
そうなんですよね、なんだか、ここら辺の文章を読んでいると、本当に大笑いできますね。

1473吉祥仙人:2005/04/04(月) 04:56:20
 ぶつぶつ

 40年前から今日まで、創価学会も池田名誉会長も内面的に成長してきている。とは
思っていただけないのかな〜

 関西で、第4回世界平和文化祭が開かれたころ、池田名誉会長は重病で入院され、
その後、大きく変わられたと思っているのは私だけだろうか。

1474犀角独歩:2005/04/04(月) 12:41:13

世界平和文化祭ですか。
わたしも西武球場で開催されたのに参加しました。

5万名規模であったと記憶します。参加者の衣装・その他、ざっと概算してみたのですが、1億円近い利益が出るだろうと予想できました。
一人の出勤の平均が仮に5000円であったとしても2億5000万円、実際はもっと個人負担はあったでしょう。

「なぁんだ、これも商売のうちか」とわかって、白けたものでした。

1475:2005/04/04(月) 14:56:57
今日は風がとても冷たいですね。

創価学会が成長しているとは特に思えないですね。
創価学会を知らないひともいる時代になりました。

親や知人が言っていましたが、
末端では、選挙活動と聖教新聞の購読拡張運動中心の
マンネリ化した座談会を嫌がって、会合に積極的に参加する
活動家といわれる会員が減少しているそうです。

内心に強い信仰心を持つけれど、学会活動には励まない会員が
増えている?

ちょっとつぶやいてみました

1476丸損 丸五朗:2005/04/04(月) 20:16:46
1475 の方、、 なかなかの意味となかなかの示唆を含蓄されました御提言は、、ヨクゾ、、申されました、、。 この一言の、、重みは、、?、、 現場での直接にかかわって居られる方のみが、実際に、、体感〜〜体得されました、、?==人徳、、?==才徳、?、==、、悟り、?、のような、、貴重なご意見と自覚しました、。  謝謝、、です。

1477愚鈍凡夫:2005/04/04(月) 21:39:39

下記のHPを読んでいて、アレレっとおもったのですが、戸田さんは本名「甚一」のままだったんですね。色々と改名を重ねた挙げ句、最終的に「城聖」に改名したとばかり思っていました。
それから、1958(昭和33)年4月2日午後6時半東京駿河台の日大病院で心臓衰弱のため死去。享年58歳。葬儀は同月8日正午から豊島区雑司が谷5-685常在寺。同月28日青山葬儀所創価学会葬。
と、HP掲載の新聞の切り抜きにありました。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

誰か昭和を想わざる 創価学会の昭和史
http://www.geocities.jp/showahistory/history2/33a.html

1478ファリオン:2005/04/04(月) 23:24:36
愚鈍凡夫さん、宜しくお願いします。
ユーモア溢れるレス、楽しく拝見しております。

このページ、最近見ました。
学会の歴史を勉強しようと思って、検索したら出て来ました。
公式サイトの「略」年表とは、えらい違いだな、驚きました。

1479愚鈍凡夫:2005/04/05(火) 00:41:15

ファリオンさん、初めまして。宜しくお願いします。 m(_ _)m

創価学会ならずとも、自分の公式サイトに自虐的な年表は載せないでしょうね。

第2代会長の戸田さん亡きあと、当分の間は集団指導体制でいくと決まっていた創価学会が、青年部クーデターにより、押し切る形で池田大作第3代会長就任が決まりました。これは、戸田さんが第3代会長の椅子を牧口門下生には渡さんと言っていたことを遺言として盾に取り、強引に会長の座を奪い取ったというのが真実のようです。
たとえそうであっても、池田さんでなくては短期間にあれだけの組織拡大は為し得なかったと思います。そういう意味で、池田さんは適任者であったと言えるのではないでしょうか。
でも、その陰には多くの被害者が生まれました。これも紛れもない真実です。そして、それは今も続いています。考えてみれば、これほど宗教の本質からかけ離れ事はないでしょう。

池田さん亡き後、集団指導体制でいくと、創価学会の方針は決まっているようですが、何時またクーデターによる独裁者誕生の一幕があるやも知れません。
創価学会に限っては、柳の下に泥鰌が何匹もいそうですから。 ( ̄Д ̄;;

1480ファリオン:2005/04/05(火) 01:35:00
愚鈍凡夫さん

>創価学会ならずとも、自分の公式サイトに自虐的な年表は載せないでしょうね。
「大本営発表」と言うより「臭いものにフタ」です。なにしろ、第4代会長逝去の項目すら削っていますからね。
宗門のも見ましたが、徹底攻撃だけで、ミソを付けた部分は削除。
う〜む。こうやって歴史は捻じ曲がって行くんだ。

池田氏の後継問題。
いろいろ有りそうですから、クーデターは勿論、分裂も考えられると思います。
歴史に残るお家騒動になったりして……

>柳の下に泥鰌……
やはり、おいしい商売なのでしょうか。

1481羅臼 昆布太郎:2005/04/06(水) 20:06:37
1480、、フアリオンさん、、。 
>やはり、おいしい商売、、
 さすが、、核心、、かと存知ます、、。 このセチガライ、、われのみ生きん、、という、、醜い、、? 欲望の渦巻く現今、、では、、「、、何でも、、在り、、」、、== まるで、K1 並みの、、すさまじい、、、弱肉は強食に負ける、ような、、犬。猫の世界に堕して、、いるようです、、?、、。どうすれば、、 今後の希望は、、在るの、、でしょうか、、? 。

1482パンナコッタ:2005/04/06(水) 23:10:06

先日、ウチの方の地方公明党委員会があり、その内容は公明新聞の啓蒙拡大でした。
(-_-)zzz

1483犀角独歩:2005/04/06(水) 23:37:45

> 公明新聞の啓蒙

この表現笑えます。読み下すと「公明新聞の蒙を啓く」

けいもう 0 【啓蒙】
(名)スル
人々に新しい知識を与え、教え導くこと
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

さらに「啓蒙」の語意から読めば、

「公明新聞に新しい知識を与え、導くこと」となります(笑)

1484ワラシナ:2005/04/10(日) 22:24:36
花見駆け足 1

0,今日4/9(土)歯医者の帰りに発作的に花見を思い立って、新宿駅から総武線途中下車を繰り返すやり方で

1,四谷上智大土手、2,市谷飯田橋、3,千鳥淵、4,隅田川吾妻橋を4時間位で回ってきた。

1 千駄ヶ谷駅から新宿御苑の桜の下に人が座っているのがみえた。今日あたりかなり暑かったろうに。

隣の学会国際会館入り口の桜も見事だった。真っ白の花びらがぎっしり詰め込まれた花の塊は、そのものが太い桜の幹のように見えてしまった程である。


2, 四谷駅周辺も変わってしまった。雙葉学園も改装したかのように見えた。目の前の建物が昔の主婦会館とも思えなかった。第一、聖イグナチオ教会も改築されているし。変わらないのは土手の桜と新宿方交差点向かい側の来来軒であった。

上智大学校舎を左に眺めながら、弁慶橋方向に土手を行く。予定ではホテルニューオータニで引き返したら、今度は上智大校舎を右に見て、左側の土手の桜を見上げる景観を味わいつつ駅に戻るつもりであった。

どの桜も太い幹と枝の他は全て真っ白な花々に埋もれていた。真向かいの迎賓館側の土手に見える桜木は分厚く雪化粧したかのようだ。その見事な、迫真の真っ白な咲きっぷり、土手の新緑を背景にくっきり浮き上がった薄桃色のかたまりが並ぶ美しさには形容の言葉がない。

とにかく真っ白によく咲いてくれたものだ、年に一回しかできない見事な「手品」的美しさを今年も成功させてくれて、本当に桜さん有り難う、という気持ちがして来た。

どの桜の枝も左右に下る土手の斜面に素直に従って垂れ下がるように伸ばしている。桜は丈が高くないところがうれしい。手が届きそうなところで咲いてくれるのがありがたいのだ。
観賞する人間が親しめる、ほどよい近さで開花してくれるのが桜の有難いところだ。

それに、花びら一つ一つの美しさを間近で楽しめるだけではない、後で葉っぱになってしまうところ全てが花びらに変ってしまっているのだから一本の木そのものが遠くから見たときには集合体としての一輪の別種の花のようにみえてくる。

だから、近くで見ても好し、遠くから見ても好し、で二重に楽しめるところがすばらしいと思う。ちょっと変な譬だが霜降り肉のような綺麗さなのだ。

そんなことを思いながら進んでいくと、目の前のひたいの位置当たりに真横に伸びた太い桜の幹が近づいているのに気がついた。勿論、衝突事故防止用の注意喚起のテープが巻いてあった。

歩きながら土手からの景観そのものに利点があることに気づいた。土手を並木で配置した景観デザインとも言える。視界が水平方向だけではなく下界方向に伸びる桜も楽しめるからだ。まず並木にしたことで水平方向に見える遠くの桜は朧になって溶け込んで、酔う様な感じが出ている。それが幾重にも棚引いて近づいてくるにつれて、花びらが徐々に輪郭を持って視野に入ってくる、複雑な美しさになっている。

また、平地だけでは飽きてくる。古人が土手や坂道に桜を植えた審美眼に感じ入った。自然に眼下の光景が入ってくるようになっている。右下は水無しお堀で上智大学専用の?運動部のグラウンドになって、この暑い中練習していた。

進むにつれ三メーター先ぐらいから途切れ途切れではあるがかすかに散り始めているのが見えた。どの幹の真ん中あたりにも既に二三本新緑の枝が「V」字状に生え始めていた。

足元を見たら、ブルーシートが延々と先のほうまで点々と続いていた。
場所取りの人が、宴会の下準備をしている。無人のシートにも占有予定者の「関係者以外立ち入り禁止」などと書いた張り紙があった。
ここからの迎賓館方向の眺望の美しさは格別であった。

土手下を駅に向かう帰りのコースでは、上智大学の創立時代の校舎内部の醸す不思議な魅力について触れたかった。信仰の厳粛さに沈潜させられていくような気配と共に学問的思索に誘う知的昂揚感が同時に湧いてくるような不思議な空間について、であるが、先を急ぐ。

h17/4/9

1485ワラシナ:2005/04/10(日) 22:29:12
花見駆け足 2

2 四谷駅から飯田橋へむかう車中から、左手の外堀通り沿いを見た途端目に飛び込んできた。枝全てが濃厚な牛乳に浸かったような真っ白の桜が枝を水面近くまで伸ばせて立ち並んでいる光景が、である。

その鮮やかさは見事というほかない。飯田橋から見たお堀の左右に咲いている桜の薄桃色の連なり(もっとも法政大学側はそこからはあまり見えないのだが)も素晴しかった。


3、飯田橋を下りて九段高校(この校名廃止を悲しむOB多し)を過ぎ、靖国神社前を見たら既に凄い花見客の群れだった。殆どが千鳥が淵目当ての人々であった。歩道橋から見ると九段下から続々と上ってきている。テレビが連日千鳥が淵を映して煽るものだから自分もつられてその気になってしまったのだったから他人のことは言えなかった。

一体どこの場所から見るのが最絶景なのか、やはり客が一杯群がってるところが一番素敵な場所なのだとわかった。テレビはおそらくここから映していたんだろうと思いながら、まず、武道館入り口あたりから左右の御堀下に向かって這うように垂れ下がっている桜をながめた。周りではデジカメ撮影している人で一杯である。

桜の美しさの急所は何といっても並木として植えたことによる、近くの桜と遠くの桜が何層にも奥に向かって連なる「重なりの見え方」にある。その重なりの中にいて人は、桜に包み込まれる幸福を味わうことができる。人を包み込む程の大きさの花はなかなか見当たらないと思う。
その下で花見をしたがる人の気持ちも頷ける。

私も歩きながらビールでも飲みたくなったが、誰もしていないのでやめた。もっとも目の前を歩いている人との距離はわずか50センチしかなかったから飲まないでよかった。

先の上智大土手と同じく絶えずかすかに散り始めているが前を歩く人の肩にかかる程ではない。

皆さん御行儀よく粛々と観賞しながら歩いている。時折嘆声が聞こえた。客の多くがここ千鳥が淵の花見を例年の儀式にしてしまっているように見受けられた。

武道館入り口から、左に折れて首都高速方向を目指して左下のお堀を見れば、どの桜も腕を垂れ下げたように枝枝を白一色にまぶして斜面に沿って伸びている。水面を見ればボート遊びをしている人が多くて目障りな程である。ボート乗り場では順番待ちの長蛇の列。

並木を進む人列は凄い数で朝の通勤時間帯の駅の構内のような混雑振りであり、交通誘導の警官が出動していた。帰りは歩行者通路確保のため一部交通規制して車道を歩かされた。数少ないベンチは,手弁当を広げていた人々で占領されていた。神奈川県から繰り出してきた人々もいたようだ。また、武道館ではちょうど理科大学入学式だったから人も多かった。

ボート乗り場で引き返し靖国神社に向かって帰りながら気がついたことだが、往きとは反対に右下に御堀を見る帰り道の光景のほうが桜の重なりが増して艶やかに見えた。

九段下へ向かう途中の道端ではヤクルトの制服とmsnのチラシがみえた。販売とマーケティングの大事を教えられた感じだ。


4,このあと浅草へ行って隅田川沿いを見たのだが、桜より水上バスのUターンの光景のほうが面白かった。

h17・4・9

1486藤川一郎:2005/04/18(月) 18:00:08
最近中国のデモが盛んであります。日本の歴史認識についての事が原因だそうです。
しかしながら中国が中華主義を捨てねば、日本は引くべきではありません。
中華思想とは何か?
中華思想とは簡単に言えば、漢民族の国家が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、 漢民族以外の異民族を、「化外の民」として見下す思想のことを言います。別名華夷思想ともいいます。さて、その中で漢民族以外の国は「東夷、西戎、北狄、南蛮」と差別の別称で称されます。ちなみに日本国(倭国)は東夷であります。
さてその中華思想の体制化におきましては、全ての国の王は漢民族の皇帝(天子)に貢物を贈り臣下の礼をつくして、代わりに「○○国の王に任ず」として王に任じてもらいます。
これを冊封体制と言います。この冊封体制に最初に異議を差し挟んだのが、聖徳太子であります。太子は遣隋使の国書において、天皇をして漢民族にしか認められていない「天子」の称号を名乗らせます。すなわち「日出る国の天子、日没する国の天子へ国書を送る。恙無きや。」であります。これは中華思想史上許されない無礼な国書です。中華思想上、中国の皇帝しか名乗れない天子を名乗り、しかも礼を尽くさずに「恙無きや」であります。この言葉を現代語訳すれば「元気か?」位のものです。これをあえて聖徳太子が行ったのは、日本国の自主独立を宣言するためであろうと考えられます。
本来なら討伐されても文句は言えません。日本は四面を海で囲まれ、当時の兵員輸送は困難だった事から、たまたま征伐されなかったに過ぎません(聖徳太子がこれを計算に入れたという説もあります)。
それに対して、朝鮮は陸続きです。同じ事をすればすぐに討伐されてしまいます。
中国から見て、海の向こうの日本が、比較的大らかに国運を切り開いたのに対し、朝鮮は陸続きですので、近代まで、中華の属国(植民地)でありつづけたのです。これが独立したのは日清戦争の結果であります。その下関条約第一条にて「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」とうたわれ、その結果「李王朝鮮国」は「大韓帝国」として生まれ変わり、李王は李皇帝として生まれ変わりました。これは韓国史上画期的な事でした。(つづく)

1487藤川一郎:2005/04/18(月) 18:00:44
(つづき)
されはさておき、中華思想は中国4千年の膨張(侵略)の歴史です。
中華思想の皇帝は自らの国を統一すると即座に辺境地域の討伐に乗り出します。
その影響は今でも払拭されておりません。
中国とは本来、あんなに広大な領土を有しておりません。満州(大連)すらも本来漢民族の領土ではなく、女真族の領土です。ちなみの女真族が「文殊菩薩」を信仰していた事が「モンジュ」転じて「マンシュ」となり、満州となったと言われております。
それが清国の領土となったのは単に、満州の覇者「愛親覚羅ヌルハチ」の子、「ホンタイジ」が明国を征服し、清国を興し皇帝となったからに過ぎません。その後、宣統帝(溥儀)の時代に辛亥革命で、清朝が倒れたとは言え、満州を中国の領土とする根拠は皆無です。
関東軍の満州国建国も溥儀の、王政復古の夢が叶ったという一面もあるのです。
今でも中国の膨張主義は変わっておりません。満州もチベットも全て中国が侵略して手に入れました。そのためにダライラマは未だに亡命の身に甘んじております。
何故に中華思想で膨張する侵略主義の中国に、未だに日本は「侵略戦争云々」を言われねばならないのでしょうか?それは中華思想の「自分らのみが正当で、辺境は蛮族という考え」が未だに残っている現れでは無いでしょうか?

1488問答迷人:2005/04/18(月) 18:42:45

円借款

「2004年11月28日、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓3カ国の首脳会議出席のため、ビエンチャン入りした小泉首相は、中国へのODAについて「中国は目覚ましい経済発展を遂げている。もうODA卒業の時期を迎えているのではないか」と記者団に述べ、打ち切りの可能性を示唆した。これに対して、外交部報道官は「ODAは中日関係の発展促進につながる重要な要素であり、日本企業にとってもプラス」であり、「継続を希望する」とコメント。その後も日本で相次ぐ打ち切り論に関して、「中国がODAを受け取ることは、A級戦犯への日本の指導者の靖国参拝行動を黙認することではない」(新華社)と、日本政府や自民党の打ち切り論を「無責任な発言」と批判している。ODAの問題は政治的に微妙で、「この問題がこじれれば、日中関係は雪上加霜(災いが重なる)になる」と、温家宝首相は小泉首相の卒業論に警告を発している。」

http://www.panda.hello-net.info/keyword/a/oda.htm  (現代中国ライブラリー)

恐らく、これが彼らの理屈の中核でしょうね。円借款をやめるなら、日本企業は中国から追い出すぞ、という恫喝だろうと思います。こんな恫喝に屈しては、日本企業も日本も、中国に身包み脱がされてしまうのではなかろうか、と危惧しています。

1489パンナコッタ:2005/04/18(月) 18:54:31
反日感情がエスカレートして、玄奘の骨を返せとまで言い出しましたね。 (-_-;)

1490小心者:2005/04/18(月) 19:49:06
、、横からですが、、。 Yahooのサイトですが、その、掲示板、、「、、反日に思う、、」、、はなかなか、、趣も、、??御座います、、ようです、、。

1491小心者:2005/04/18(月) 20:34:48
,,「、中国の反日デモ、!!、」、、=Yahooの「掲示板、、」に訂正、、致します、、。 皆様が、、燃えておられる、??ようです、、。

1492藤川一郎:2005/04/18(月) 22:45:39
>>1488
横レスですが、
昭和27年5月1日付、法務総裁が発した(法務府注意総発第52号)
「連合国の軍事裁判により刑に処せられた者の国内法上の取り扱いについて」
以上の通牒は、これらの方々の名誉を完全に回復したことを表明しております。
つまり国内法上、すでに日本国にはA級戦犯は存在しません。

1493愚鈍凡夫:2005/04/18(月) 23:27:39

今回の中国での反日デモ騒ぎ。後ろで糸を引いているのは中国政府だったりして。 (^_^;)
急速な経済発展による共産主義と資本主義の狭間で矛盾を抱える中国政府が、民衆の不満を日本に向けることによって、ガス抜きしようとしているようにも見えますね。
ホンネは靖国問題とか尖閣諸島問題なんかどうでもいいんじゃないでしょうか。アジアの主導権を握っているのは中国であると、世界に見せつけているように思えます。
ただ、無償援助を受けていてイニシアチブもないと思いますが。 (○`ε´○)

1494パンナコッタ:2005/04/19(火) 00:48:00
>>1492
東京裁判で起訴された松岡洋右、永野修身は既に死亡。大川周明は病気のため刑を免除されていますね。

この板には直接関係はないのですが、4月29日知県幡豆町三ヶ根山スカイラインで
殉国七士墓前祭がとりおこなわれます。

1495吉祥仙人:2005/04/19(火) 05:32:02
 ツブヤキです。

 藤川一郎さんの書き込みを拝見し、右翼主義と覇権主義が違うことを学ばせて
いただきました。
 いわゆる左翼は知的で、右翼は暴力的という認識を改めさせていただきます。

 実際、辛亥革命に活動した中国の多くの志士が、右翼の方々の支援を
受けていたのは歴史上の事実と思います。

1496藤川一郎:2005/04/19(火) 10:43:49
>>1495
いわゆる左翼は知的で、右翼は暴力的という認識を改めさせていただきます。

仰るとおりですが、別に気にすることもありませんよ。
なぜなら、結構一般的なイメージだと思いますから!
しかしながら、20世紀史上戦争での死者数よりも左翼革命での死者数の方が多いと言われています。
悪の暴力よりも正義の暴力の方が厄介であります。
もちろん、左翼=正義とはしませんが、彼らの意識は正義の暴力なのでしょう。
顕正会の暴力体質も、学会等の謀略体質も自分こそ唯一の正義という思いこみから出ているとも思われますし!

1497犀角独歩:2005/04/19(火) 11:24:15

> 悪の暴力よりも正義の暴力の方が厄介

もっともしかりですね。滝本太郎弁護士は「悪意の殺人は際限があるが、善意の殺人には際限がない」と言いました。前者は刑事事件になる殺人、後者は正義の闘いというやつです。

1499犀角独歩:2005/04/19(火) 15:36:45

今回の反日デモのコメントを、日中平和の架け橋で中国の教科書にも載る「池田名誉会長」と創価学会からお聞きしたいものですね。

1500パンナコッタ:2005/04/19(火) 17:35:26
北側国土交通大臣は、中国人観光客へのビザ発給拡大について、 「方針に変更はない」
と 述べました。  この時期に・・・・。 大丈夫なのかな (-_-#)

1501通りすがりですが:2005/04/19(火) 18:30:26
創価学会は中国、日本の団体と共同でアピールを出していたはずです。
何日か前の聖教新聞に出ていたと思いますが。

経済的にも地政的にも中国韓国との友好という流れは、とめてはならないと
思います。

ビザの問題を憂慮する前に、中国に進出した企業の権益やそこで働く邦人の
安全のことも考えずに放言している経済産業相の政治家としての資質の方を
僕は憂慮します。

1502犀角独歩:2005/04/19(火) 18:48:00

> 創価学会は中国、日本の団体と共同でアピール

これはどんなアピールですか。
どこに載っていますか。教えてください。

1503往きつ戻りつの通りすがりですが:2005/04/19(火) 19:25:10
日中共同 「平和と善隣友好に関するアピール」

オフィシャルに出ているのかは分かりませんが、
学会員の方のブログにでていました。
ttp://jiyunobosatu.org/blog-turedure/archives/2005/04/post_82.html

4月13日の聖教新聞に掲載されたようです。

1504犀角独歩:2005/04/19(火) 20:30:12

通りすがりさん:

有り難うございました。これは知りませんでした。
創価学会と立正佼成会が名前を連ねているのですね。
時代の変化を感じました。

1505犀角独歩:2005/04/20(水) 11:22:30

直ぐに見られなくなると思いますが、なかなか興味深い論評なので、紹介します。

中国こそ恣意的に歴史を解釈…反日デモで米紙論評
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20050419i206.htm

1506パンナコッタ:2005/04/20(水) 12:41:52
第二次天安門事件以降、中共政府の愛国・反日教育の結果がこの騒ぎですね。
大躍進以外にも、国共内戦、文化大革命と都合の悪いことは隠蔽。
南京事件を利用し偽書の田中上奏文を根拠にして憎悪を煽り、チベット侵攻を
解放としたり、統治したことのない台湾を虎視眈々と狙っていたりする。
どこぞの教団のプロパガンダとまったく同じ構図ですね。

1508犀角独歩:2005/04/20(水) 13:18:34

今回の反日デモを見て、いちばんわたしが思ったことは、これに抗するデモや暴動で、日本人が中国大使館その他を攻めないこと。若年層の無関心と言えばそれまでですが、これは大変にけっこうなことであると思います。

集団化すると、暴徒となるという集団心理は、反対集団に対する憎悪が、個人でより、集団でのほうが爆発しやすい点が注視されます。
組織内で言われたことをに鵜呑みにして、直ぐその気になる人は、今回の暴動参加者と同じ心理操作に基づくのだろうと観察しました。が、パンナコッタさんの1506のご投稿を拝読して、プラス情報コントロールの永続、つまり、教育という名の操作は、どこでも実に功を奏するものであると思いました。教育を押さえるということは、よほど、恐ろしいことであると思いました。

1509パンナコッタ:2005/04/20(水) 16:31:09
新ローマ法王がドイツ人のべネディクト16世になりましたが、元ヒトラーユーゲント
だったスキャンダルがはやくも出ましたね。

ヒトラーユーゲントといえば、17歳の時初めてヒトラーに握手してもらい感激した
という指導者バルドゥーマ・シラーハはこんな詩を残しています。
 ドイツの未来 アドルフヒトラーに捧ぐ
 
 われらはあなたを魂の底から信じて疑わない。
 その信頼を、誰が奪うことが出来よう。
 あなたこそ、ただあなたこそ、ドイツの未来

かなりイッてますが、ヒトラーの変わりに宗教指導者を当てはめれば似たような
事を言っている人は、今でも数多くいますね。又こういう人物を作り上げるような
教団の指導があると思われます。

1510三学無縁:2005/04/20(水) 17:04:30
そういえば、ヨハネ・パウロ2世の葬儀に先進国といわれる国の首相が参列しなかったのは日本だけでしたね。
国際政治におけるローマ教皇の位置を理解していたら国内にどのような事情があろうとも欠席などできるはずがありません。
また、弔問外交の機会でもあったわけで、日中・日韓問題について各国の首脳と話すこともできたはずでした。
小泉首相、官邸、外務省の政治音痴と外交音痴を全世界に露呈したわけです。
これだけでも国会議員から首相への不信任案が出てこないものまた、議員の無知のおかげなんでしょうね。
ローマ教皇はカトリックのトップであるだけでなく、バチカン市国の国主でもあり、その葬儀に参列しないということは、日本の首相や天皇が亡くなっても諸外国の首脳はこなくてもいい、と言っているに等しいわけです。
ま、国辱ものの醜態でした。

1511通りすがりです:2005/04/20(水) 19:00:17
>>1508の犀角独歩さんの視点は大切だと思います。

弾丸の薬莢を送りつけたり、火炎瓶をなげたりと、人数の少ない日本の方が
暴力としては先鋭的かもしれませんね。
愛国カルトと言うのでしょうか?

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  ■02■ANN世論調査結果報告
       「韓国/中国反日運動問題について」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 テレビ朝日では韓国/中国反日運動問題に関する電話世論調査を行いました。

  -------------------------------------------------------
    ◇調査日:4月16日(土)、17日(日)
    ◇調査方法:層化二段無作為抽出(全国125地点)
    ◇対象:1000人
    ◇有効回答率 57・2%
  -------------------------------------------------------

   1.町村外務大臣は、デモ隊が日本大使館の施設を破壊したことなどに
    ついて、中国政府に謝罪を求めましたが、中国政府は「責任は中国
    側にない」と反論しました。この反論に納得しますか。

     納得する …5%
     納得しない …89%
     わからない …6%

   2.中国の温家宝首相は、日本政府に中国を侵略した過去の歴史を
     直視するよう求めていますが、この主張をどう思いますか。

     その通りだと思う …7%
     一部はそうだと思う …54%
     まったく納得できない …35%
     わからない …4%

   3.日本政府が、今後も韓国や中国を侵略した事実を認め、反省と
    謝罪の気持ちを示す必要があると思いますか。

     必要があると思う …51%
     必要があると思わない …36%
     わからない …13%

   4.すべての歴史教科書で、従軍慰安婦の記述がなくなり、朝鮮人を
   労働者として強制連行した記述も減ることになりました。
   この記述が減ったことついてよいと思いますか。

     よいと思う …27%
     よいと思わない …55%
     わからない …18%

     <年代別>
     「よいと思う」
     20代…15% 30代…19% 40代…17% 50代…33% 60代…33%
     「よいと思わない」
     20代…83% 30代…71% 40代…73% 50代…54% 60代…37%

適当なハンドルを考えなければならないかもしれませんね。

1512犀角独歩:2005/04/21(木) 05:29:51

1511 通りすがりです さん

ご賛同、有り難うございます。
アジア問題は前向きに考えなければいけないことですね。
しかし、暴力という形で訴えれば、今後は逆の遺恨となっていきますね。「目には目を」という論理は、もはや、過去の遺物であることに気付かなければならないのに、そうなりません。実はここに重点があるとわたしは思います。

> 適当なハンドル

ええ、是非、そうなさってください。「逗留」なさるのも一考かと存じます。

1513愚鈍凡夫:2005/04/21(木) 11:53:33

今回の中国の反日デモは、経済的に恵まれた青年層が中心と聞きます。中国国民の大多数を占める貧困層はデモに参加していないとか。米大統領選でもありましたが、ニューヨークがアメリカの世論を代表しているわけではない。といったところでしょうか。

今回の騒動の背景に反日教育が存在するとすれば、諸外国が自国に何をしたかを教えるのは当然として、反面、当時の自国政府の不甲斐なさを教訓とすることも忘れてはならないと思います。何が原因で他国の侵略を許したのか。そういった分析こそ必要ではないでしょうか。

物・物・物・・・( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1514吉祥仙人:2005/04/22(金) 06:11:20
 今日、オフ会のスレを読みました。

 重ね重ね深くお詫び申し上げます。

 正直言って新幹線代が片道1万円以上しますので、無理なのです。

 以上、言い訳のツブヤキでした。

1515犀角独歩:2005/04/22(金) 10:26:11

1514 吉祥仙人さん

あなたの謝罪は根本的な部分で謝罪になっていません。

> 新幹線代…無理

人にはそれぞれ事情があります。ですから、経済的な理由というのは当然、あってもよいでしょう。
しかし、これはここでいうのはどうか。あなたは自分で5月3日を希望したわけです。経済的な理由があれば、そんな希望をしなければよい。これがまず1つ。
また、自分が言い出しておいて、いざ実現の段階になったら、「本部に行くから行けない」とは何事だと言っているのです。
経済的な理由があれば、本部にも行けないのではないでしょうか。ところがそっちは自分の言ったことを無責任にも放りだしたうえで、その理由として挙げる。この常軌を逸したというか、非常識な態度を指摘しているわけです。これもう一つです。

今回のことを通じて、あなたは、一人前の男として、まともに会話のできるような人ではないという印象を、わたしのみならず、オフ会開催に関わる全員が懐いたことをお伝えします。実に残念です。
もっと、常識とは何かを真摯に学ぶべきでしょう。

ここは「つぶやき」ですから、応酬禁止、「オフ会」スレではなく、ここに書いて、非難をかわそうとするようなやり方にも、わたしは納得ができません。

1516彰往考来:2005/04/22(金) 12:25:45

1514吉祥仙人さん

今回はオフ会に出席されないようで残念です。
いつかお会いましょう。

彰往考来

1517小心者:2005/04/22(金) 21:42:32
1514 様 不参加は誠に、、、残念で御座います、、。 ご都合の良き時には、、是非、、是非、、ご参加を、、。

1518犀角独歩:2005/04/23(土) 01:32:53

517 小心者さん:

人のことはともかく、どうぞ、ご本人、ご参加を歓迎します。

1519愚鈍凡夫:2005/04/24(日) 00:06:10

早いもので、母が逝って4月24日で1年になります。1年ぐらいでは親子の確執は取れないものですね。まぁ、このことは、自分の気持ちに嘘はつけないですから、心の流れに任せようと思います。頭では理解できても、気持ちが許さないといった処もありますから。

今、ビールを飲みながらふと思ったのですが、大乗仏教は小生に大乗仏教自体が矛盾に満ちていることを教えてくれたような気がします。しかし、その矛盾が、大乗仏教を作り上げていった名もない人々の葛藤と、民衆救済の想いと、仏教を後生に伝えようとする情熱を物語っているようにも思いました。
まぁ、矛盾があるからといって、大乗仏教を捨てようとは思いませんけどね。 (^^ゞ
何故なら、やっぱり釈迦牟尼が好きだし、蓮祖も好きですから。
勿論、ゴータマブッダも好きですけどね。 ぴぃす((^へ^)v

この1年、振り返ってみれば生きているのが不思議なぐらいだったですが、小生にはやらなければならないことがあるんだと思いました。
これからもボケをかましまくると思いますが、皆様宜しくお願いします。 m(_ _)m

物・物・物・・・( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1520犀角独歩:2005/04/24(日) 01:15:49

愚鈍凡夫さん、故御母堂様のご冥福を心からお祈り申し上げます。
そうですか。1年、経たれましたか。御逝去のことを、投稿なさったのがついこの間のことのように感じます。

1521愚鈍凡夫:2005/04/24(日) 06:28:07

犀角独歩さん、お気遣い頂き、ありがとうございます。 m(_ _)m
小生、昨日は相当酔っていました。おかげで二日酔い気味です・・・・・。
ヨッパライヽ( ̄_ ̄*)……(|||__ __)/オエー

管理者さん、勝手にプライベートなことを書き込んでしまって済みませんでした。
ごめん隊<(_ _)><(_ _)><(_ _)>参上

物・物・物・・・( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

「ダミダ〜、こりゃ」(by 外野席)

1522尾池:2005/04/25(月) 02:53:05
新刊紹介
讃岐本山本門寺に関する史料集が三野町史より刊行されました。
1 三野町文化史1

三野町の文化財 1,000円 三野町に所在する国・県・町指定の文化財は元より、今まで知られていなかった未指定の文化財も数多く掲載。文化財を時代順に配列して、文化財から三野町の歴史をたどることができる。約100頁。写真図版全カラー。
2 三野町文化史2

三野町の民俗 1,000円 衣食住から生産生業、年中行事や人生儀礼、祭りや芸能、口承文芸など我々の生き様を現代から過去にさかのぼって直接聞取り調査したものを写真や図表でわかりやすく解説した新しい時代の生活の古典である。約150頁
3 三野町文化史3

三野町の中世文書 1,000円 町内には、本門寺と弥谷寺の2ヵ寺に中世の古文書(こもんじょ)が残されている。本書ではそれらを翻刻(ほんこく)するだけでなく、1点ごとに解説を加え、古文書に接しやすくした。また、中世の地名や寺院の概説等も同時に収録し、読者の便宜に供することに努めた。町域の中世の概観を復元してみて欲しい。約130頁
4 三野町文化史4

三野町の近世文書 1,000円 江戸時代を中心に町内外30の家から提供された古文書の標題を目録化した。各家毎の解題に主要史料の写真を添え、当時の庶民生活に直結する重要な文章には、翻刻(文書全体の写真、解読、読下し文、解説)などを施している。約130頁
5 三野町文化史5

三野町の近世寺社文書 1,000円 この報告には、本門寺・弥谷寺・吉祥寺の各寺院と津嶋神社・正八幡神社・八幡神社・伊予神社・八柱神社の近世文書と棟札を納めた。各寺院の近世の動きや、建物の由来を読み取ることができる。約100頁
6 三野町文化史6

三野町の聖教類 1,000円 イヤダニマイリと四国霊場71番札所で知られる弥谷寺や大坊市の賑わいで有名な本門寺などには、古くからの貴重な仏教関係の書物や什宝類が伝えられている。本書は、弥谷寺の真言密教の秘法などを伝える聖教類と本門寺の本尊曼荼羅などについて、それらの概要や伝存の背景について紹介している。約90頁
*全6冊お買い上げの方には収納ケース付*  

三野町のホームページで申込が可能です。

本門寺の寺史ともいえる貴重な書籍ではないでしょうか

1523犀角独歩:2005/04/25(月) 22:15:46

尾池さん、はじめまして。
先頃、とある日蓮宗のお坊さんの話したときも、このことが話題になっていました。しかし、ここまで詳しくありませんでした。
参考になりました。

1524尾池:2005/04/26(火) 10:00:57
讃岐本門寺参詣記
本門寺は予讃線みの駅から徒歩3分の所にあり、駅前には日蓮正宗本山本門寺と
鶴丸の紋が入っていた柱が印象に残った。
山門前の菓子屋さんには、大坊まんじゅうが売られていて、出来たてを注文して
寺に届けてもらうことに、山門を抜けて正面に開山堂(町文化財)があり、中を
外から見る事が出来た、開山日仙上人の木像が正面の宮殿厨子に安置されていて
後方には日興上人筆の板御本尊が確認できた。
境内は学校帰りの子供達がサッカーをしていて、田舎のお寺で正宗寺院とは思え
ない静かさが漂っていた、中門から塔中に泉要坊で休憩させてもらい、住職さん
より境内を案内してもらった。大坊にて夕勤に参加させてもらい、菓子屋さんが
大坊まんじゅうを届けてくれた。
とても1日楽しい日でいた。

1525犀角独歩:2005/04/26(火) 10:56:11

広宣流布の暁には本門寺と名前を変える、これが石山の言うところでした。ところが既に本門寺を名乗っている「日蓮正宗本山」があるというのは、何かおかしな話です。

ここの寺院はわたしも700年遠忌の頃、参詣しました。副住職三好智浄師がご存命の頃でした。気さくに本堂を案内してくれて住職室、要は阿部さんの部屋を見せてくれました。驚いたのは、興師筆の漫荼羅中央が「南無妙法蓮華経 日蓮聖人」となっていたこと。この話題で、れんさん、空き缶さんと話が盛り上がったことがありました。「日蓮在御判」と書くのが蓮師から興師を経た相伝という石山の、その本山に相伝と違った漫荼羅があるのもおかしな話です。

種々、石山常識を覆してくれる讃岐大坊、いや、讃岐本門寺というところでしょうか。しかし、古刹寺院はどこを歩いても、こんな「杓子定規」から外れた規格外の発見があり、なんだか言われていること、富要に書かれていることと違うと思うことはしばしばあります。

1526尾池:2005/04/27(水) 00:58:03
犀角さん、今晩は
たしかに、客殿の日興上人の御本尊は日蓮聖人と書写されていて、横田住職
の説明では大変に珍しい御本尊様で、もとは宝光坊什宝御本尊で紙幅は宝蔵
に厳護されているそうです。
今でも、朝勤は御影堂・精霊殿・開山堂・客殿と座を変えて行うそうです。
日達上人も総本山に参詣出来ない方は本門寺に参詣しなさいと言われた程
日蓮正宗の屈指の名刹寺院であります。

1527犀角独歩:2005/04/27(水) 11:14:48

尾池さん、わたしは石山には40年間おりましたから、讃岐大坊がどんなふうに受け止められてきたのかは知っているつもりです。けれど、わたしにとって、「名刹」云々は、あまり興味がありません。それはかつて、杉本苑子さんが『西国巡拝記』(中公文庫)に

「坊さんのすべてが、もう一度、出家しなおしたら、どんなにすばらしいことかと思う。皮肉などで決してない。実感である。
三十三カ所霊場とは限らない。日本の寺々にはともすると、草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。かたちはでんとかまえているが、ひっくり返してみたら下のほうが腐りかけていた南瓜……。そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである」

と、記したことを岩本裕師が引用していました。わたしは、この言葉を永らく噛みしめてきました。

また、わたしが先に記したことは、讃岐大坊が本門寺を僭称してよいのかということ、また、それを何故、石山は黙認するのか、それでは伝・興師已来の石山義に自己矛盾を来すだろうと言うことです。
すなわち、『二箇相承』には「富士山に本門寺の戒壇」といい、『富士一跡門徒存知事』では「日興云く、…駿河国・富士山…本門寺を建立すべき」といいます。(重須義)それを奪い、かつ要山義も交えて、寛師は、『文底秘沈抄』に「本門寺根源…本山と仰がざらんや…本門弘通の日蓮宗、寧ろ日蓮山を以って本山…此の山に於いて本門寺を建立」といいます。
となれば、石山以外において、本門寺と呼称することを斥けるところなのに、その点を達師が等閑にすれば、先師に背いていることになるではないのかという疑義を立てているわけです。

また、『御本尊七箇相承』には「日蓮在御判…嫡嫡代代と書くべし」ということを石山の漫荼羅本尊書写相伝としています。それに反する漫荼羅があることは「大変に珍しい」という範疇ではなく、石山が好きな「不相伝」「謗法」の本尊と言うことになり、これを安置することを看過することは自己矛盾を来していると申し上げているわけです。

もっとも「嫡嫡代代」と石山漫荼羅本尊は書かれませんから、一切が不相伝という矛盾は全般に亘るのでしょう。

さて、このような「本門寺」「本尊」を認めることは、かつて讃岐大坊は石山と袂を分かち、いまは合同しているために生じた齟齬であるのに、その点を解消もせずにいることを、わたしが「謗法厳戒」を言って憚らない石山門として、矛盾していないのということです。

もちろん、資料のご紹介については、たいへんに有り難い情報提供であったことを感謝する点は動きません。

1528吉祥仙人:2005/04/27(水) 18:51:13
 ラキさんへ

 自己紹介に無いので質問しますが、ラキとは3人の運命の女神ラキシスから
きているのでしょうか?
 もしかして「五つの星の物語」の読者ですか?

1529ラキ:2005/04/27(水) 20:18:44
皆様。こんばんは。

吉祥仙人さんへ。
>もしかして「五つの星の物語」の読者ですか?
ハイ。読者です。(^^;
FSSを知ってる方が居るとは...A;゚∇゚)/アセアセ☆

1530彰往考来:2005/04/28(木) 07:38:53

>1525, 1526, 1527 犀角独歩さん、尾池さん

“日蓮聖人”とある興師御本尊は、『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)で図版が明らかな興師御本尊161幅中で下記3幅しかありません。

(1)正応3(1290)年10月8日、讃岐本門寺蔵
(2)正応5(1292)年10月13日、宮城上行寺蔵
(3)正応□年□月8□、山梨正法寺蔵

すべて興師初期の御本尊であり、“日蓮聖人”とある興師御本尊は、非常に珍しいといえます。
『御本尊七箇相承』(『富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部』(昭和52年第3刷(初版昭和49年)、創価学会、32頁)には「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」とあります。『御本尊七箇相承』は一種のマニュアルであり、初期の御本尊に日蓮聖人”とあってマニュアルに準拠してないものがあることは、『御本尊七箇相承』が後世に作成されたものと示唆されます。併せて「日蓮在御判」ではなく「日蓮御判」とある興師御本尊が多いことからも後世に作成されたものであるといえるはずです。

また『奉蔵於奥法寶』(平成12年覆刻版、目師奉賛会)と『日蓮聖人門下歴代 大曼荼羅本尊集成』(昭和61年、大塚工藝社)を調べてみますと、“日蓮聖人”とある他の人師の御本尊は、目師、郷師、時師(石山6世)、影師(石山8世)、妙師(北山2世)、蔵師(北山4世)にみられます。
面白いことに石山では有師(9世)、北山では昌師(北山5世)以後で“日蓮聖人”とある御本尊はみられません。有師、昌師とも“日蓮在御判”となっていることから、『御本尊七箇相承』は有師の時代に作成された可能性があります。もちろん“日蓮在御判”とある興師御本尊は多数ありますので、“日蓮在御判”の初出が有師であるということではありません。

なお来る5月3日のオフ会で、「『飛び漫荼羅』に関する一考察」についてお話させていただく予定ですが、その中で正応5(1292)年10月13日の宮城上行寺蔵興師御本尊について詳細に説明いたします。

彰往考来(しょうおうこうらい)

1531犀角独歩:2005/04/28(木) 08:12:32

1530 彰往考来さん

「在御判」相伝に関するご賢察のご披露、有り難うございました。
この件は、たしか、過去にれんさん、空き缶さん等と行ったことがあったと記憶します。
相伝が後世の成立、「当然だろう」という思いは、わたしにはあります。ですから、1527ほかに記すことは、石山の言い分は二重の科になっているということです。

つまり、蓮興二祖に由来しないものを由来しているといい(彰往考来さんが指摘される点)さらに、その相伝を自習独自のものといいながら遵守されていないこと、さらにそのような例外に対して、何ら整合性の説明もしようとしないこと(できないでしょうが)、これら欺瞞性は素描されてしかるべきであるというのが、わたしの言いたいところです。

以上、ともかく5月3日のご発表を楽しみにしております。

1532愚鈍凡夫:2005/04/28(木) 09:52:29

彰往考来さん、どうもです。少し気になったので、質問させてください。

「日蓮在御判」とある興師漫荼羅と、「日蓮御判」とある興師漫荼羅とは、書写時期が分かれるのでしょうか。それとも、双方混在しているのでしょうか。
また、「在御判」と「御判」。日興師はどのような想いで書き分けられていたと思われますか。
お時間のあるときで結構ですから、ご教示願えれば有り難いです。 m(_ _)m

1533愚鈍凡夫:2005/04/28(木) 09:54:55

しっ、しまった。ここはつぶやきスレッドだった。 (-"-;A ...アセアセ

物・物・物・・・( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1534彰往考来(しょうおうこうらい):2005/04/28(木) 12:24:16

>1532 愚鈍凡夫さん

 そうなんです。ここはつぶやきスレッドなんですね。
でも考えてみると、連租の著作、曼荼羅についてはスレッドが
ありますが、連租以降の人師についいては適当な場所がないで
すね。
 
 お問い合わせの件は、今手元に資料がないので、追って連絡
します。書写時期は混在していたと記憶しています。
なお、このあたりは先の“日蓮聖人”とある御本尊との対比を
まとめて、一度整理しようと思っています。オフ会ででも披露
したいですね。

1535彰往考来(しょうおうこうらい):2005/04/28(木) 12:25:28
>1534

誤記訂正

 連租 → 蓮租

謹んで訂正いたします。

1536三学無縁:2005/04/28(木) 13:31:41
「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」スレッドでも良いのでは?
興門の本尊書写については「三度相伝」や「七箇相承」など、「伝・従日蓮日興相伝」ということになっていますから。
もしくは、新しく「蓮祖及び門下の漫荼羅について」というようなスレッドを立てて頂いたほうが良いかもしれませんね。

5月3日も彰往考来さんの発表を楽しみにしています。

1537彰往考来(しょうおうこうらい):2005/04/28(木) 15:03:08

>1532
>「日蓮在御判」とある興師漫荼羅と、「日蓮御判」とある興師漫荼羅とは、書写時期が分かれるのでしょうか。それとも、双方混在しているのでしょうか。

これは全く混載しています。まるで無作為化されたデータ(randomized data)を見ているようです。興師の初期から最後まで同じように続いています。興師の御本尊は1紙のものと3紙のものに大別できるのですが、それぞれの中でも傾向は同じです。従って、時期、形式などで傾向を見ることは不可能です。

>また、「在御判」と「御判」。日興師はどのような想いで書き分けられていたと思われますか。

どうでしょうか。上記のような状況ですから、むしろ使い分けはなかったのかも知れませんね。もう少し解析してみないとわかりませんが、スペース的な問題で詰まってまったときは“在”を省略したりして。“菩薩”の略字(法義的に何かあるときは傾向があるものなんですけどね。
料紙枚数も蓮租御本尊はマチマチですが、興師御本尊では一部の大紙を除き、1紙か3紙と決まっています。興師御本尊の場合、かなり規則性を有した書き方で、かなり性格的にも厳しい方であったように思われます。そのときの気分で変えたとはとても思えません。

※ここはつぶやきスレッドなので、これで最後にします。必要なら三学無縁さんのお勧めの新しいスレッドを立ち上げましょう。

1538彰往考来(しょうおうこうらい):2005/04/28(木) 15:06:58

>1537

訂正

誤:“菩薩”の略字(

正:“菩薩”の略字(草冠にサ)ではスペース的要因と思われる例があります。

1539パンナコッタ:2005/04/28(木) 19:59:42
尼崎の列車事故の死者が100名を超えてしまいました。謹んでご冥福を祈りたいと思います。
又、怪我をされた方の1日も早く回復されるように願います。

1540パンナコッタ:2005/04/28(木) 20:33:21
列車事故ですっかり隠れてしまった事ですが、公明党の足立区議があっせん収賄の罪で逮捕されました。
続報によればこの人物、かなり前から高額の金銭を要求していたとのこと。このような腑の腐った人間を
”人物本位”というタテマエのもと、区議会に送り込んだ有権者は何を思っているのでしょうか。
ただ組織の上から流される事だけを実行するだけで自分では考える事が出来ない(出来なくなってる)
人たちにも原因があるように思えますが、みなさん如何でしょうか?

1541愚鈍凡夫:2005/04/28(木) 23:00:26

尼崎の脱線事故は、私鉄のとの熾烈な競合が招いた人災のような気がします。あの路線は、JR・阪急・阪神が併走しています。運賃は私鉄の方が安いので、JRとしてはスピードの速さと正確さを売りに、顧客を獲得するしかなかったのだと思います。それにあそこは、東海道線・福知山線・東西線といった三つの路線とつながっていますから、自然と過密ダイヤになってしまいます。時間の正確さを必要以上に要求しすぎた結果ですね。

今回の事故(人災ですから事件だと思いますが)で、JR西日本の虐め体質が明らかになりましたが、自殺者を出すほどの虐め体質が背景にあるとは・・・・・。阪神沿線に住む者の一人として、恥ずかしい限りです。
今回のことは、JR西日本による大量殺人だと思います。

1542ラキ:2005/04/29(金) 17:59:24
真実とは何か?・・・凡夫の私には一生掛かってもわからないかもしれないけど、
真実を知りたい気持ちは、負けないつもりでいます。

素朴な疑問で「顕正会新聞の浅井氏の発言を載せていただきました。」
その事について聞いたら「新聞を持ってる人が見当たらないので」と、回答をもらい、
「縮小版や過去の掲載記事を閲覧できる方法は?」と、聞いてもそれもない。
当時からの人に聞いたら「浅井氏は御書は作るとは、明言してないと思う」と、あいまいな回答。
理論・もんしょうを提示して説明して、回答を求めても、「歓喜や喜びがない勤行・折伏を実践できない人に、顕正会の
正しき信心がわからない」と言われ、対話拒絶状態になり、堂々巡り。
信・行(折伏)が大事で学は後から付いてくる物といわれて、御書拝読は大事ではないのかと思います。
石山系では「信・行・学」の実践を言われてきたのに、それを否定してるようは、発言は、
大聖人のお心にかなうものか?との疑いしか生まれません。
五座・三座の勤行が受け継がれているにもかかわらず、顕正会では1座のみの勤行は、
おかしくないのですかの問いもやはりうやむや。
66世日顕氏が血脈を受けてないにしろ、65世までの作法は「妙信講」時代は実践してきてるのに、
それをも否定するような、行いは納得できないです。
顕正会で発行してる「折伏理論解説書」がありますが、何を言いたいのか?
折伏をするための理論の解説書なのに、学会・正宗批判文書が目立つのは気のせいか?
御書の金言も載せてますが、短文のみで前後の金言の内容が書かれてないのは、
都合のいい部分の抜粋ではと感じております。
顕正会「ご本尊」も偽疑惑がありますし、また、破門された身ならお返しするのが
筋ではないでしょうか?
正論を述べても通じぬとはこのことだと実感しました。
顕正会発行の書籍から、質問、疑問を投げかけても、ちゃんとした回答を出来る人が
存在するのか?疑問です。
教学研鑽を怠っているのですから、幹部又は先輩からの、刷り込み理論しかないので
それ以外の事は到底、答えることができないて悲しいと思います。
疑問を疑問に思って追及して行くのが、日蓮仏法の姿ではないのかなって思っていました。
どこの書籍でも日蓮大聖人は、仏法の正しさを疑問に思ったので、研鑽の旅に出られて
経文を読み漁り、そして、「南無妙法蓮華教」の五字七字をあらわされた?
究明する姿があるのに、信・行のみの言葉でゴマカスのてズルイ!と思うのです。

愚痴・愚痴・愚痴〜魔に負けてる証拠かな?・・・
はぁ〜愚痴書いてる私て・・・自己嫌悪に落ちそう。。。。

1543犀角独歩:2005/04/29(金) 18:59:26

ラキさん、1542にお書きになっていること、愚痴でもなんでもないでしょう。至極当然の疑問です。

以前も引きましたが、日本のカルト研究の第一人者・西田公昭師は『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)のなかで

「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ」(P227)

と記しています。

1544ラキ:2005/04/29(金) 20:07:49
犀角独歩さん。
>ラキさん、1542にお書きになっていること、愚痴でもなんでもないでしょう。至極当然の疑問です
この言葉で、気持ちが軽くなりました。
私自信が見て思った疑問を追及しても、一般的また、仏法の面から見てもおかしくないことですよね。

「諸法実相抄」に。

行学の二道を励み候うべし。
行学絶えなば佛法はあるべからず。
我れもいたし人をも教化候え。
行学は信心より起るべく候。

とあります。
信は弱いかもしれませんが、信が強いと仮定して、
信があるならば、行・学も怠ってはいけないと考えております。
行は、勤行・小題、折伏の行動だと思っています。
学は、御書研鑽をして学ぶ事。
御金言にあるように、信・行・学の三つがあって初めて、信心なのではないかと感じております。
いま、色々なHPを見て周り、3証の言葉が出ていて、ふと大切な事を忘れていたと感じました。
現証ばかりを言う顕正会は「理証・もん証」を持って、答えることができない。
3証を持って説明できなければ、偽りの姿なのではと、考えてしまいましたが、
私のこの考えが間違いなら、ご指摘お願いします。
近日中に会うので「現証」ばかりを、真実と言い張る矛盾?を聞いてみたいと思っています。
功徳云々ばかり言っているなら「学会・正宗」信徒がみんな、功徳はある。
体験してる。の言葉に当てはめると、顕正会の正しい信心でなければ、
功徳はないと言い張るのも、矛盾に当たるのではと感じます。
相手の事を思うと、現証=功徳ばかりに目が行き、3証をもって真実と思う事が大事なのだと、
伝えたいです。
若輩者の私が説得できる力のなさ。
信心のなさが悔しいです。(><)
涙が出てこんなに悲しい思いは、辛いです。

1545ラキ:2005/04/29(金) 21:24:22
泣きながら勤行・小題をしていたらメールがきました。
部分抜粋ですが、
「大聖人様の御心に叶う信心で正しく実践した方法でなければ功徳はありません」
それに対して私の返信は。
「功徳=現証のみを語るのではなく、三証(現証・理証・もん証)を持って、語るべき
だと思っています。功徳のみを語るなら、学会・法華講でも功徳体験談は聞いていま
す。初心の功徳なら体験しています。だから真実を知りたいのです。仏法は普遍で
す。だから、指導も普遍であるべきが、毎回違う矛盾を言う場合、何が真実かと迷う
まかりです。諸法実相抄には「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて
あひかまへて信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ
候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心
よりをこるべく候、 力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし、南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経」これは、信・行・学の大切さを大聖人さまが金言として述べられて
いるものだと思います。」
大聖人のお心って考えましたが、思い浮かぶのがこれしかない、学のなさ(><)
お心は御書の中に語られているとわたしは思っています。
お題目がたりないのか?信が弱いのか?仏知が沸いてこない私にまたまた、
自己嫌悪(><)
迷ってばかりいるのは、魔に負けてる証拠なのかな?・・・TT

1546問答迷人:2005/04/29(金) 21:55:51

ラキさん はじめまして。

>大聖人様の御心に叶う信心で正しく実践した方法でなければ功徳はありません

僕は、顕正会を、大石寺門流の原理主義集団として、評価していた時期がありました。だけど、こんなことを平気で言いながら、その反面、質問にまともに答えることが出来ない様は、不甲斐ないと思います。もう少し真面目に日蓮聖人の教えを学ぶべきだと思います。真面目に勉強していない者が、こんなことを言ったら、まるで与太話。

>大聖人のお心って考えましたが、思い浮かぶのがこれしかない

日蓮聖人のお心に反しているとは思いませんが、諸法実相抄は、真蹟の存在しない、出処不明の遺文です。偽書の疑いすら掛けられています。念のために申し添えておきます。

1547愚鈍凡夫:2005/04/29(金) 22:49:10

ラキさんどうもです。今日は夏かと勘違いするぐらいの陽気でしたね。 ε-(´o`;A アチィ
創価学会や顕正会は、会員が深い教学力を身につける事を極端に嫌がる傾向があります。それは、自分たちの間違いが白日の下に晒されるからです。
彼らは、自分たちの教える教学を額面通りに受け取って欲しいのです。だから、これからも、自分の頭で考えることを阻止しようとしてきますよ。
(;`O´)oア〜デモネェ!コ〜デモネェ!

迷っているのは、進むべき方向性を模索していることです。中途半端な答えで満足するのではなく、力の及ぶ限り、突き詰めていって欲しいと思います。そのために、ここの掲示板の方々が力を貸してくださると思います。
ここの掲示板には、力強い先輩が沢山いますよ。考えて分からないことは、質問することです。
それと、「大聖人様の御心に叶う信心」との問いの回答を模索しているのなら、蓮祖真跡遺文を年代順に追ってみることをお勧めします。必ず、蓮祖の想いの一端に触れることができると思います。 ぴぃす((^へ^)v

1548パンナコッタ:2005/04/29(金) 23:13:28
>真実とは何か?
自分は言語学的に正確ではないでしょうけど、事実と真実を使い分けています。
事実とは実際に起こったことで、真実とは実際に起こっていなくてもそう思える、あるいは
そう思っている事と区別しています。

例えば、虚空会の儀式。あった事かもしれないし、今ある事かもしれない。そう思えるなら
真実と言えるでしょう。しかし、実際に起こった出来事ではありませんので事実ではありませんし、
この話を信じていない人は、アホなSFとして一蹴する事でしょう。
ですから”真実の追究”というのは余り意味がないと自分は思えるのですが・・・。

ここの板はみなさん文証や膨大な資料を検証して『事実』を知る、或いは『より事実に近づいていく』
スタンスだと私は思っています。だから都合の良い物も悪い物も事実は受け入れなくてはなりませんが、
永遠に解明など出来るものではない一教団の主張する真実などに振り回されてはいけません。

1549ラキ:2005/04/29(金) 23:42:07
問答迷人さん。はじめまして。
>顕正会を、大石寺門流の原理主義集団
凄く判りやすい、イメージがもてました。
>質問にまともに答えることが出来ない様は、不甲斐ないと思います。
先輩に聞いても回答できず、本部に質問してと言う結論になりました。

諸法実相抄の偽書疑惑は知っております。
ただ、御書の御文を引用したかったので、思い浮かんだのが諸法実相抄であり、
この御書なら、普通に読んでも相手に伝わるかな?と思いを込めて送りました。
結果は上記のように、御書講義だけ受けてればいい。
そのような研鑽する体質の場所ではないのだな、と悲しい思いです。

>愚鈍凡夫さん
学会では教学は力を入れていたと思います。
ただ、書籍販売をしたいが為とも取れますが?
過去になりますが、学会版御書は拝読しました。
他の書籍では、人間革命全巻。教学に関する本(発刊されていた物、誰かが持っていたもの全て読みました。)
その他、池田氏の著書を数冊。
感想というか、疑問に感じた事を良く質問していて、あまりいい顔はされた覚えがないです。
気になるのは気になって仕方がないので、直ぐに聞いてしまい、
質問も衣をかぶせるのではなく、ダイレクトにするので、小難しい事を言われ
最後は「信心が足りなくて魔の仕業」と、落ちが決まっていました。

>迷っているのは、進むべき方向性を模索していることです。
中途半端な答えで満足するのではなく、力の及ぶ限り、突き詰めていって欲しいと思います

はい(o^∇^o)ノ!私が納得できるまで、質問は続けて行きたいと思います。
仏法は道理ですから、必ず答えはあると確信しています。
周りで納得のできる回答をしてくれる人は皆無に感じます。
組織のマニュアルぽい、上から聞いたままの回答ばかりだからです。
それでも、「予同罪」(顕正会の本で最近知りました。(^^;)とあるように、
身近な人に聞く事が、正宗系で言う「正邪」を知り正す意味もあるから、
辛く悲しい思いをしても、ここに居る皆様が居ると思えば、心強いです。
「現代の法華経の行者は、法華経の行者の責め苦にあう」こんな事、言ったら怒られてしまいそうなので、
独り言という事で...A;゚∇゚)/アセアセ☆

正宗版御書を購入してきてもらえる事になりました。
そうしたら、ネットで真跡遺文を調べて、年代順に拝読したいと思います。

追伸。
スレット違いではありますが、悩み苦しんでる私に、優しく教えてくださり
感謝の言葉もありません。
本当にありがとうございました。m(__)m
連休中は、私にとっての戦いになります。
質問・愚痴等だらけと思いますが、一言でも言葉をかけてくだされば助かります。
ここに来ると、不思議と心のモヤモヤが晴れてきます。
早く私の進む道を見つけて、福運を頂、幸せになりたい思いでいっぱいです。

1550ラキ:2005/04/30(土) 00:08:43
パンナコッタさん。
真実と事実。今まで気が付きませんでした。(^^:
事実の追求が的確な表現になると思いました。
周りに影響されてしまった感じです。
上手く表現できませんが、教団の言う真実は事実ではない、
教団の都合の良い真実にみんな、変えられてしまう。
事実を求める為に、もっと研鑽を積みたいと思います。

1551問答迷人:2005/04/30(土) 07:28:40

パンナコッタさん
ラキさん

>真実と事実

昔、創価学会に所属していたとき、聖教新聞の通信員をしていました。そのとき、取材して書いた記事の書き直しを命じられ、その時、記者から言われたことは、「聖教は真実を報道する新聞なんだ。事実をいくら報道しても、読んだ人が信心に奮い立たなければ駄目なんだ。」

もっと平たく言うと、その体験談が事実とは違っていても、読者が信心に奮い立てば、その体験談を話してくれた人も功徳を受けることになる。それが『真実を報道する』ということだ・・・・。

この記者の話を聞いて、僕は凄く合点が行きました。その団体の意向に沿う内容は大きく、そして、そうでないものは小さく報道される意味が。この原理は国家レベルでも当てはまるように思います。政府の意向に沿う事件は大きく、政府の意向に反する事件は小さく・・・・。

結局、それ以来僕は、「『真実』とはその団体にとっての『真実』であり、情報操作を含む」と捉えて置いた方が良さそうだと僕は考えるようになりました。

1552パンナコッタ:2005/04/30(土) 11:37:58
ラキさん。悪文なのにニュアンスが伝わって良かったです。(^^)

問答迷人さんの考えを踏まえると、団体や教団の数だけ”真実”がある事になり、
それぞれが真実なのでしょう。 しかし、それは誤解や誤認(意図する・しない)を
含んだものであるという『事実』を見極めていかなければいけませんね。

1553ラキ:2005/04/30(土) 16:20:38
いま凄く悲しいです。
顕正会本部に電話して疑問を質問しました。
1.勤行について。
遥拝勤行なので1座は、ご本尊がないので省略。(しなくてもいい)
2座以降は、方便品。じがけの略式でいいとのこと。
長行できるなら長行でもかまわない。
5座3座したければ、するのはかまわない。
正宗歴代の作法に則っての勤行は「妙信講」時代は実践されていたのではといいましたが、
浅井氏の考えなので、明確には回答されませんでした。

2.御書発刊についての顕正会新聞の記事について。
何故、御書発刊が20近く経ってるのにされていないのか?
「浅井氏の激務のため、一字一句、濁点などの間違いがないようにするために
時間が掛かる」御書編纂なら、学会版であるのは、宗門が認めた正式版でそれを、
元に編纂すれば、問題はないのかとの問いに「御書編纂を出来るのは、浅井氏しかいない」
御書講義をつけるのが出来るのは、なら、わかるのですが。
「H7年度の発表では、2年に1巻の発行で、3巻まで御書講義をつけて発刊する」
このようになっているのに、いまだ10年過ぎても発刊されないのは何故?との問いに。
「御書が発刊されなくて、何か問題がありますか?信心に影響されますか?」
仏法は道理。有言実行ではないのですか?延期の理由を明確に伝えるべきではないのですか?の問いに
「浅井氏が御書講義をされている。それで充分ではないのですか?信心がないから浅井氏を信じられない、
のです。」て、話の本質をごまかそうとしていると指摘しても、「ごまかそうとしてるのは、あなたの方です。」
て話をすり替え、ごまかしに持っていく。不甲斐ないやり取りなので中略。
「浅井氏だけが御書のままに大聖人の仏法を実践している、ただ一人」と言う、
浅井氏が血脈相伝でもしてるような言い方は、狂信的な言葉は、浅井宗と同罪!
「折伏理論解説書を読みましたか?」の問いに「発刊されている書籍は、全部読みました」と応えたら、
「それでも浅井氏の心がわからないのか!」て・・・
半ページ以上が、学会批判。そして、顕正会の歩み。(一方的な内容なので、真偽は不明ですけど)
残り数ページが、三証。五綱判。十会論。等少しだけ、掲載。
信心歴長い人が読む本で、初心者向きではないと、言っていますが、
学会の初心者教学の本以下の、悪書と言い切ります。
どこが「折伏理論解説書」なのか?「じさしさん」の部分が多い書籍であって、
肝心な、理論の解説が低俗すぎだと感じます。
これが、浅井氏の著書なら学のなさを広めてる気がするのは私だけでしょうか?
学会教学部編纂、池田氏監修の書籍のほうは、数倍まともと感じてしまいます。
最後に「誹謗を言うのか」との問いに「誹謗な暴言を吐いたのはそちらでは?」
というと、言葉につまり「誹謗されて何故よろこばないのか?法華経の行者は」といい
「龍ノ口法難でも、うれしかな、うれしかな」との言葉があるではないかといったら
「罪障消滅できます。」と捨て台詞を残し、電話を切るありさま!
大聖人の慈悲の心の問いもしましたが、話にならないほどの狼狽ぶり。
いい事を言ってるようで、中身がない信心だと思いさせられました。
求道心。疑問心。研鑽する心が皆無な人しか無理な組織だと思いました。
何故今まで残ってるかと思うに、浅井氏の力ではなく、どこの組織も相手にしてない。
これが事実なのではとの、私なりの答えです。

1554パンナコッタ:2005/04/30(土) 19:01:27
ラキさん。そこまでしたのならもうスッパリと顕正会との縁を切るべきじゃないでしょうか。
求めている物が得られなければやる意味は全くありませんし、今のあなたにはもう合わない
信仰体系なのでこれ以上心力を注ぐ事は無意味ですし、自分を傷つけるだけです。

これを機に顕正会と決別したほうが良いと思われます。

1555問答迷人:2005/04/30(土) 19:39:19

ラキさん

1545で、「大石寺門流の原理主義集団」と書きましたが、僕は今でも、そのように理解しています。しかしながら、僕は、大石寺門流が日蓮聖人の原理主義集団とはとても思えません。ですから、顕正会も日蓮聖人の教えからは、遠くかけ離れた集団になってしまっていると思います。少なくとも、江戸時代以降、特に日寛上人以降の大石寺門流が日蓮聖人の教えとかけ離れているのが明らかだと僕は思います。いくら顕正会が『日蓮聖人の教えのままに実践している』と強弁してみても空しいことだと思っています。

1556ラキ:2005/04/30(土) 21:52:19
問答迷人さん。
>特に日寛上人以降の大石寺門流が日蓮聖人の教えとかけ離れているのが明らかだと僕は思います。
日寛上人の前と後の正宗の歴史を調べれば、変化が判りやすいと、思ってよいのでしょうか?
答えの破片でも見つけられればとの思いです。

立正安国論の部分だけで言えば「国立戒壇」は確かに正しいと思います。
ただ、天皇が帰依して広宣流布達成で戒壇建立だから「国立戒壇」と、現代語に直しているのみで、
言葉の表現「国立戒壇」にばかり囚われていて、それ以外の物は、道理にかなわなく
二転、三転の発言のいい加減さ。
信心強情なら確信を持って発言してるはずなのに、矛盾極まりないと思っています。
本部職員が明確な回答が出来ないのは、信心強情というより、浅井氏崇拝の意識が強いと感じてなりません。
御書の本当の意味を理解できるのは、浅井氏のみておかしいですし。
浅井氏の言葉が大聖人の言葉みたい内容の発言も、あきれるばかり。
信・行が強情と言い張っておりますが、行自体半端だと私は感じております。
学をおろそかにしていいものではないと思っていますし、行も「行学」と思い、
行って学ぶ、行になるのでは?との思いがあるからです。
信・行・学が弱い私を相手に、破斫・論破もできない、本部職員の姿は、
顕正会の事実の姿だと思い知りました。

つぶやき、愚痴ついでに・・・
正宗寺院に参詣に行って来たのですが、たまたま居た、法華講の年配のご婦人がお題目を唱えておりました。
入った瞬間!我が目、我が耳を疑うような思いで、一瞬身体が固まりそうなぐらい、
衝撃な思いをしました。
お数珠、モミモミ念仏でも唱えてる姿・・・
途中でつぶやいてる、請願の言葉が・・・
「創価学会が滅ぶように」「日蓮大聖人様」「大ご本尊様」「お願いします」
この言葉が聞こえてきて、怖い〜と恐怖心が起こったしだいです。
他の言葉は、わからなかったですけど、鬼気迫る念仏を唱えてるがごとくの姿て、
あれほど怖いとは思いませんでした。
TVの時代劇とかで見てる姿の方が、怖さなんて感じないほど、恐怖体験にも勝るとも劣らないと、
今日は、気持ちが悪い1日でした。
つぶやき・愚痴・・・日記になってきてる感じが(^^;
今日は1日、御書〜御書〜御書が読みたい!て気持ちで一杯なラキでした。^^

1557犀角独歩:2005/04/30(土) 22:22:26

ラキさん:

立正安国論からして国立戒壇は導き出されませんよ。
導き出されるのは、浄土・念仏の信仰をやめて法華経に帰依することだけです。もっと言えば、漫荼羅本尊崇拝はおろか、唱題行すら、同論からは導き出せません。

また、わたしからすれば、大石寺と顕正会、どっちがひどいかと言えば、大した差はないと思います。ただ、言えることは浅井さんはまったく仏教学その他の基礎がなく、日寛教学が最高の教学であるという浅はかさで物を推し量っているところに過ちがあります。いわば、いまだに太陽が地球の周りを回っているという科学開闢以前の100年以上遅れのアナクロニズムでしょう。

それに対して、石山阿部さんは、偽物だと知っていながら、平然と演技を続けているということでしょう。本人の「説法」で聞いたことですが、この御仁はしかし、「大乗非仏説、そんなことはないと思うんだ」ということでした。しかし、本気で言っているとは思えませんが、変に神秘主義的な側面がありますから、もしかしたら本気かもしれません。しかし、彫刻本尊が本物であるとはよもや思っているはずはありません。

創価学会は既に正本堂建立以降、事実に気が付いたけれど、その集成の未だ途上にある。会員は、池田さんのそんな合理主義に頭が追いつかず、池田礼賛は日寛顕彰であると勘違いしているといったところでしょう。しかし、池田さんが目指しているのは、そんな辺境の神話ではなく、世界に通用する脱皮でしょう。それなのに、カネさんやら、息子やらを一所懸命に聖教新聞辺りに登場させて、世襲制を露わにする辺り、案外、俗物だったとわたしはがっかりしています。

まあ、それぞれ、結局のところ、ドングリの背比べ。そんななかでどっちが上だ下だを言ってもはじまりません。そんな些細なことに留まらず、まずは蓮師の教えの輪郭を掴み、その過ちは過ちとして受け入れ、天台教学の無謬神話など捨て、さらに漢訳仏典の瑕疵に気付き、さらに経典は後世の創作という事実も受け入れ、さて、そのうえでどうするかを考えるという全日本の仏教界に突きつけられた、最低限の課題であるスタートラインに立って、、自分の信仰を考え直すところに来ている。これが今現在でいう真摯に仏道を考えることであるとわたしは思っています。

ただし、捨てるか・採るか、善いか・悪いかなどという二者択一の二極論ではなく、精神、体験、功利性として善いところは大いに褒め、採用すれば善し、しかし、自分たちが最高、他は駄目だ等言うファンダメンタリズム、さらに深刻なアナクロニズム、不勉強は「先生」だ「猊下」だというサル集団のボスを頂点にする哺乳類の本能から、一歩進んで考える余裕ぐらいは持ちたいものです。

ラキさんはいったい、浅井さんあたりに何を期待し、また、石山法華講に何を期待しているのでしょうか。学会にしても然りです。ただ、すべきことは実像をしっかり見据えること。それだけです。

1558ラキ:2005/05/01(日) 00:23:20
犀角独歩さん。
ご丁寧な解説ありがとうございます。m(__)m
私にも良く理解できました。
私が組織に期待してるのは、大聖人の仏法を正しく教えてくれる場所なのです。
独学では理解できませんし、教えを請う。判りやすいように、教えてくれる場所。
先生か師匠。先輩みたいなのを、組織に求めています。

私は、学会の縁で日蓮仏法を知りました。
日蓮関係の歴史の書籍も読んだりして、惹かれるものがあり、教学の基礎は、
学会関係と石山関係の書籍を読んで学びました。
勉強すればするほど、疑問も出てきたのです。
正宗と学会の問題で何が事実。真実なの?大聖人の仏法は功徳があるの?
謗法を犯してる方に、現罰が出て現証・実証が出ないのは何故?と疑問ばかり起こり、
信心から離れていました。
離れていても学会の人間は関係なく、身近に居るので話すきかいが多く、
PCを購入して、自力で調べる事が出来る環境になって、なおさら、わからなく迷いが出ました。
エホバの証人の人達とも出会う縁がありまして、勉強会などにも参加して見ました。
個別勉強会で、質問には聖書を通して、説明を納得が出来るまでしてくれました。
聖書も新訳・旧約と全部読みましたが、やはり神の存在は?と疑問に思い、
聖書という、世界最古の書籍の勉強程度に今は思っています。
物語として読めば、それなりに面白いと思ったので。
話がずれましたが、信仰に求めるものはやはり「幸せになりたい」これが本音です。
ただ、幸せの価値観は人それぞれだと思います。
私は物欲的思いが強いです(^^:
別な考えで言いますと「心の幸せ」これは、私自身、何をもって幸せ?と言い切れるか
判っておりません。
ただ、悲しい出来事がなく、普通に暮らしていける事かもしれません。
欲を言えば、嬉しい事がたくさんあればいいな〜とこの程度の思いです。

>捨てるか・採るか、善いか・悪いかなどという二者択一の二極論ではなく、
精神、体験、功利性として善いところは大いに褒め、採用すれば善し

このお言葉が一番今の私には、心に染み渡る言葉です。^^

>すべきことは実像をしっかり見据えること。それだけです。

改めて実像を見て、色々学んで行きたいと思います。

1559犀角独歩:2005/05/01(日) 06:49:30

ラキさん

> 組織に期待…大聖人の仏法を正しく教えてくれる場所

このようなことを組織に期待すると、違う方向に歩いてしまいます。

> 独学では理解できません…教えを請う…判りやすい…教え…先生か師匠。先輩…組織

蓮師の教えは、難信何解、随自意といいますから、そのような欲求は、そもそも無意味であるとわたしには思えます。
「判りやすい」ということは、結局、判りやすいという範囲だけのことでその先がいつになって見えない。あたかも教学が簡単なことであると即断して、その先に進むのをやめてしまう、そんな効果以上のものはないでしょう。

> …教学の基礎…学会関係と石山関係の書籍

では、いったん、その「基礎」をすべて捨て去る、もしくは、根底から徹底して疑ってかかるところからやり直すことです。

釈尊の遺訓は、自灯明・法灯明ですから、自分自身により、ただ法と向かい合ってみることです。自分は師匠先輩と言える人に比べれば劣っている、だから、判ることが知れている。そうかもしれません。しかし、それがいまの自分が理解できる精一杯のこと、いわば、自分が許容できる範囲ということでしょう。法といわれても、そもそもそれがなんであるかわからない。そのとおりで、法がなんであるか、書籍で読んだり、組織先輩が教えてくれたり、そんなことで簡単に判ることではない。そうやって教えられてきたは全部、嘘かも知れません。それを知るために一生を費やすかも知れません。そんな大問題です。かんたんには手に入らないものです。

幸福を目指すのであれば、日蓮、法華経はおやめになったほうがよろしい。艱難辛苦を乗り越えいくこと、身を粉にして法華経に捧げることを教えるものであり、幸福の追求を目的としていないからです。もっとも『御義口伝』(後世のの成立)では「妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べき」ということですので、安楽を幸福と解釈すれば、艱難辛苦を受けることこそ、最高の幸福というのが蓮師門下、取り分け、御義口伝を重視する派の結論であるからです。

幸福を追求するのであれば、さっさとこんな教えから足を洗って、ワーカーホリークなるほど、高収入、好条件の仕事を探すこと、また、そのような収益につながる資格、勉強をして、金儲けのうまい人に師事すること、もしくは玉の輿(逆玉)を求めることのほうがよろしい。もっともその前に、では、自分にとって「幸福」とは何かをもう一度、考えてみることです。

ラキさんにとって、幸福とは何でしょうか。そのしっかりとしたビジョンがありますか。

1560犀角独歩:2005/05/01(日) 08:34:48

【1559の訂正】

誤)難信何解
正)難信難解

1563犀角独歩:2005/05/01(日) 12:01:13
少しついでに書き足せば、「法」ということは、たとえば「宇宙に編曼する妙法」であるとか、「森羅三千を貫く真理」であるというが、これは果たしてどうでしょうか。結局のところ、シャキャムニといい、蓮師といっても人間です。また、仏法2500年の歴史を培ってきたのも人でした。そこで確かに法と言えるものは教えであろうと考えています。「如何に生きるべきか。修行するべきか」という範疇です。それが宇宙とは何か、生命とか何かとはじまれば、それは結局、想像の産物から一歩もでない。
それを恰も何でもわかっているように豪語するところに嘘があるのだとこの際、はっきりと記しておきたいと思います。

スティーヴン・ハッサン師は次のように記しました。

「『特殊用語』の詰め込みとは、特殊用語がそのとおりの意味を持ってくること、そして言葉やイメージが神になることである。非常に単純化された言語というものは、月並みに見えるかもしれないが、まさにその単純さのゆえに、途方もない魅力と心理的威力を発揮できる。しかもそれは、それなりにつじつまがあっているので、当人は真理を体験したと主張するし、事実そう感じるのである。答えはすぐ手に入る。ライオネル・トリリングは、これを『無思想の言語』と呼んだ」(恒友出版 P376)

確信を持って語られることが事実・真実であると限りません。確信を持って語れると言うことは、単なる強い妄想、思いこみ、詐欺紛いの話術ではないのか、信じることで完結してしまうこと、簡単に手に入る答、簡潔に言語で表現されるもの、それが本当に法であるかどうか、「妙法蓮華経」は、そんな‘特殊用語’化された言葉ではないのか。この言葉を信者に追及して問うても、大した答えは返ってきません。彼らにとって、この言語は信じることで完結し、何ら思想性を有しない特殊用語として機能しているように映じます。反論があれば、百万言を費やしてほしいと希望します。これらの点を、わたしたちは、もっとまじめに考えてみる必要があると思います。

言えること、「法」とは何か、そんなことは、ちょっとやそっと、考えてわかることではなく、もっと言えば、シャキャムニ、日蓮を含めて、結局のところ誰もわかってはいないことだったと言うこと、ただし、それがわからなくても、どのように生きるべきか、どうあるべきかはわかったということ、それが教えとしては意味を持ってきたということだけです。
換言すれば、「法」とは何かを明確に説明できる人は実は一人もいない。しかし、それをさも覚ったかのように確信を持って語り、人を誑かす連中によって、煽動されてきたということです。

わたしは南無妙法蓮華経というとき、それは宇宙真理などではなく、法華経に説かれた精神に基づいて、自分は命懸けで生きますと言う誓い、教えの範疇である考えます。

1564問答迷人:2005/05/01(日) 12:18:44

犀角独歩さん

>法華経に説かれた精神に基づいて、自分は命懸けで生きますと言う誓い、教えの範疇である考えます。

ほとんど同じですが、僕は「法華経の教えに基づいて、自分は命懸けで生きます」という誓いの言葉だと捉えています。

そしてさらに、声を出して「南無妙法蓮華経と唱える」ということ実践自体が、すでに『法華経の教えの根幹』を実践している事なのだという事を、蓮祖は教えたかったのだと思っています。

1565問答迷人:2005/05/01(日) 12:24:45

もちろん蓮祖は、「南無妙法蓮華経」が「宇宙に編曼する妙法」であるとか、「森羅三千を貫く真理」であるとか、そんなレベルの議論とは無縁で在られた。真蹟遺文で拝する限りでは、むしろ、宇宙とは何か、生命とか何か、と言った事については、釈尊と同じく「無記」として、語ろうとはされなかった事柄であると思います。

1566犀角独歩:2005/05/01(日) 13:26:48

問答名人さん

> 「法華経の教えに基づいて、自分は命懸けで生きます」

わたしが法華経の精神としたところを「法華経の教え」と仰る違いですね。
法華経とはサダルマ・プンダリーカ・スートラで、正しい法・白蓮華・教え(=経)ということだとおもうのです。ですから、「経の教え」というと教えの教えという二重定義になってしまうので、敢えて精神としてみました。しかし、仰るところに特に異存はありません。

> 声を出して「南無妙法蓮華経と唱える」…蓮祖は教え…

これが法華経自体の趣旨とは違う蓮師の独走ですね。

1567ラキ:2005/05/01(日) 18:51:33
皆様。こんばんは。
>釈尊の遺訓は、自灯明・法灯明ですから、自分自身により、ただ法と向かい合ってみることです。
>ラキさんにとって、幸福とは何でしょうか。そのしっかりとしたビジョンがありますか。

昨日から考えましたが、今言えることは、やはり学びたい思いがあります。
一から学びなおして考えて行きたいと思います。
答えが一生出ないかもしれませんが、それでも考え学んで行きたいと思います。
幸せのビジョンも明確にはないです。
これも考えていかなければいけない、私自身の課題だと感じました。
日蓮仏法を学び実践していく事で「功徳・幸せの境涯・福運を積んで来世でも幸せになれる」
この言葉は、魅力的な言葉でした。
今は、これしか言葉が出ません。
色々教えていただき、ありがとうございました。

1568吉祥仙人:2005/05/01(日) 19:43:14
 ラキさんへ

 一つ提案なのですが、ここは「つぶやきスレッド」なので、貴方が一番
話題にしたいことを新スレッドとして立ち上げていただくよう、管理人さん
へお願いしてはいかがでしょうか?そうすれば私も参加しやすくなるのですが
・・・・・

1569問答迷人:2005/05/01(日) 23:18:32

犀角独歩さん

>法華経自体の趣旨とは違う蓮師の独走

独創、或いは独走。いずれにしても、ここに蓮師の教えの主眼点が有ることは、誰も否定しない事実であると思います。そして、この観点に立って、蓮師の曼荼羅を拝するとき、特に、中央の「南無妙法蓮華経」の七文字は、妙法蓮華経に南無する、という信仰の表明に留まらず、音声としてのお題目の声をも表しているのだと思います。そう考えると、普通の文字では無く、ヒゲ文字で表した蓮師の意図が分かる様に思います。一字一字ゆっくりと、十方世界に響けとばかりに唱える引き題目のイメージがそこにはあるからです。

1570ラキ:2005/05/02(月) 04:55:09
皆様。おはようございます。

吉祥仙人さん。
ご提案ありがとうございます。
しばらくは、気になるスレッドを読み、学んで行きたいと思っておりますので、
それでも話題にしたいのがあれば、新スレッドを提案したく思います。

以下つぶやきです。
勤行についてのスレッド全文拝見しました。
勤行についてから話題が難しくなって6時間近く読んでいて・・・
代表的な和紙の原料は「草」
和紙に書き表す墨の原料は「木」
これで「草木」かな?て・・・
ごめんなさい(><)つぶやきです。

1571犀角独歩:2005/05/02(月) 05:12:30

問答名人さん

> 独創、或いは独走

そうですね。わたしはここに「独走」と記すのはもちろん、批判的に言うのではなく、問答さんが仰るような受容的な意味で記しました。
「五字七字」の文字として表す、そして、言語音声(おんじょう)を以て唱えることに意義を置いたのが蓮師だったわけですね。

釈迦仏像開眼でも法華経をその御前に置くことを強調されました。音声を以て、その経の題名を唱えることを行として確立したわけですね。
やや、漫荼羅本尊論者からは離れますが、蓮師は釈迦一体像を随身し、また、弟子檀那も釈迦仏像造立していたわけです。そこで開眼には仏像御前に法華経典という義も書き遺されています。そして、問答さんが仰るように唱題行の独創。となると、釈迦仏・法華経典安置の宝前に向かって唱題という、いわば三点セットであったと想像できますね。ただし、蓮師は、仏像・経典に向かうときばかりではなく、時には日月に、時には衆生に向かっても題目を唱えていたのでしょうか。またでは、ここで漫荼羅は、どのような用途であったのか、という先の議論が、やはり、思い起こされます。

1572愚鈍凡夫:2005/05/02(月) 08:35:01

もし、読経の御利益を法華経に求めるとしたら、下記の文でしょうかね。

「若説法之人。獨在空閑處。寂莫無人聲。讀誦此經典。我爾時為現。清淨光明身。(若し説法の人、独空閑の処に在って寂莫として人の声なからんに、此の経典を読誦せば我爾の時に為に清浄光明の身を現ぜん」(妙法蓮華經法師品第十)

物・物・物・・・( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1573taitsu&trade; </b><font color=#FF0000>(qZdgqRP2)</font><b>:2005/05/03(火) 20:10:06
みなさん始めまして
お話の途中の様では御座いますが
初登場(2回目かも)記念つぶやきさせていただきます

私は最近、スッタニパータを依経として読んでいるのですが
もし日蓮さんがスッタニパータを読まれたら何と言われるんだろうか?
やはり、爾前釈門、小乗教也と言われるだろうか?
涙を流されながら読まれる気がする、今日この頃です。

因みに私は嘗てはバリ、今は籍だけ学会員で、嘗ての同志は私を脳乱者と言ってました。
日蓮さんの教えや、仏教の本義を深く追求するのは二乗なんだそうです。

そんな教団なんかこっちから願い下げだ!
と、離れてから既に約5年…

偶にしか書き込みできませんが、今後とも皆様宜しくお願い致します。。

1574ラキ:2005/05/03(火) 21:32:30
ここは落ち着けるただ一つの場所。
蓮師の仏法を研鑽し求められる場所。
事実を事実と受け止めて、追求してる書き込みを読んでるだけで、
気持ちが落ち着いてくる私がいます。
正宗系団体の人達と話すと、悲しい気持ちがこみ上げてきます。

1575愚鈍凡夫:2005/05/05(木) 04:30:11

う〜ん、これって悪世末法ってやつですか。

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脱線知りながらボウリング大会 飲酒も JR西の天王寺車掌区

 JR西日本は4日、兵庫県尼崎市のJR福知山線で快速電車の脱線事故が起きた4月25日、同社天王寺車掌区の区長(53)ら43人が親睦(しんぼく)のためのボウリング大会を開いていたことを明らかにした。区長は事故の発生を知りながら参加し、うち22人は大会後、同車掌区近くの居酒屋で飲酒していたという。同社は中止すべきだったとして、区長らの処分を検討している。
 同社によると、ボウリング大会は事故発生約3時間後の25日午後0時半ごろ、大阪市東住吉区のボウリング場に集合し、同2時ごろまで続いた。区長ら43人は休暇を取って参加した。
 区長は大会前、車掌区に立ち寄り、同社総合指令所からの一斉放送で事故発生を聞いていた。
 またボウリング中、天王寺車掌区の副区長は区長の携帯電話に何度も連絡したが、区長はプレー中で携帯電話を身に付けておらず通じなかった。
 終了後、携帯電話の着信に気付いた区長は同車掌区に連絡。職員3人とともに職場に戻った。
 区長は同社の事情聴取に「事故が大惨事に発展したとは知らなかった。軽率で認識が甘かった」と話したという。
 同車掌区のボウリング大会は職員120人が3グループに分かれ、25-27日の3日間予定されていたが、26日、27両日は中止された。
 天王寺車掌区は管内で事故が起きた大阪支社にあり、脱線した快速電車の高見隆二郎運転士(23)=死亡=が車掌時代の2001年8月から03年12月まで所属していた。

 「大変情けなく残念な気持ちでございます」-頭を下げる社長。「これ以上隠していることはないというたやないか」と声を荒らげる報道陣。脱線事故発生当日の4月25日、車掌区長が部下とボウリングに興じるという新たな不祥事が4日発覚、JR西日本の記者会見は大荒れになった。
 4日夕からJR西大阪本社で断続的に開かれた記者会見。あらかた質問が出尽くした午後10時ごろ、ある記者からの質問をきっかけに、村上恒美・安全推進部長が不祥事を明らかにした。
 「これはもう漫画や」。3日に事故を起こした電車に乗り合わせた社員が負傷者を救助せず出勤していたことが、明らかになったばかり。あきれた記者から質問に交じり罵声(ばせい)が飛ぶ。
 日付が変わって5日午前零時25分ごろ、垣内剛社長がようやく姿を現した。遺族への謝罪の日々が続く上、新たな不祥事にショックを受けているのか、表情は青ざめている。
 社長はボウリングの事実を3日夜、部下から知らされ「考えられない。なぜこんなことが起こるのか」と絶句したという。
 しかし会見では謝罪を繰り返しながらも、「おわびとお見舞いに全力を挙げる。生まれ変わったJRをつくる」と陣頭指揮をとり続ける決意を示した。
(共同)

Sankei.Web (05/05 01:58)より
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物・物・物・・・( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

脱線知りながらボウリング大会 飲酒も JR西の天王寺車掌区
http://www.sankei.co.jp/news/050505/sha001.htm

1576三学無縁:2005/05/06(金) 14:36:41
島の研究家で民俗宗教、古神道研究家でもある、菅田正昭さんが「仏教タイムス」4月28日号に「牧口常三郎と禊流の古神道」という記事を書いています。
キャッチコピーに「正宗入信後も禊に参加」とありますが、御本人から送っていただいたコピーでは「正宗入信後も禊を行う」と訂正されていました。
牧口が正宗入信前に禊会に十数年参加していたことは全集に記述がありますが、これは一般的な「禊を行なう会」ということではなく、固有名詞としての「禊会」を指すということです。
菅田さんによれば、
「牧口が十数年間も通ったという禊会というのは、川面凡児が再興した禊流の古神道のことである。正しくは明治39年4月、東京・谷中で旗揚げされた「大日本世界教稜威会本部」の講習会が、牧口がいうところの「禊会」である。」
ということです。
牧口は「十数年間、夏冬の何れかに大概参加し」と記していますが、創価(教育)学会の「伝統の夏期講習会」のルーツは禊会にあったわけです。

菅田さんには、そのうち「とか研」で講演をお願いしたいと思っています。

1577犀角独歩:2005/05/06(金) 23:49:56

三学無縁さん、菅田さんの記事のファックス、有り難うございました。
拝読しました。なかなか面白い記事でした。

先には、新宿の勉強会で、石山、菅田さんの石山異流儀の研究を聞き、あのときも実に勉強になりましたが、徐々に近代に近づき、緊迫感があります。‘とか研’に期待です。

1578ラキ:2005/05/07(土) 22:16:28
皆さんヾ(〃⌒ー⌒)ノ こんばんは♪
>「牧口常三郎と禊流の古神道」
興味をそそられるタイトルです。
神道→学会→顕正会。
真似してる部分が・・・興味深々。。。

顕正新聞、平成17年4月25日号に報恩抄の講義が掲載されていて、
「日本乃至〜万年の外未来までもながるべし」
中身が・・・薄い・・・予言・予言の言葉が目に付くのは、会長自信予言がお好きだからか?と・・・


「蓮祖の、著作・曼陀羅の真偽について」のスレッドを拝見しましたが、
驚きや知らされてない”事実”の発見があり、とてもためになりますた。

追伸。
「蓮師ゆかりの地」でみなさんのお勧めがありましたら、参考までにお聞かせください。
鎌倉周辺で周って見たいと思っているので、よろしくお願い致します。

1579問答迷人:2005/05/07(土) 23:52:00

先日来、犀角独歩さんと曼荼羅と本尊について議論してきました。僕にとっては、実に記念すべき議論になりました。

曼荼羅の南無妙法蓮華経と大書きされたお題目が何を意味するのか、永年の、日蓮正宗に入信以来の疑問でした。

曼荼羅が本門の題目だと犀角独歩さんは言う。僕は中央の南無妙法蓮華経は『南無妙法蓮華経と唱える音声』以外に考えられないとは思っていました。だから、曼荼羅が南無妙法蓮華経の題目を中尊とする本尊であると考えていました。ただ、問題が有りました。南無妙法蓮華経が中尊ならば、南無妙法蓮華経=本門教主釈尊でなければならない。ところが、ストーレートにそのように書かれた真蹟遺文は無いわけです。そうとも読める、という真蹟遺文は有る訳ですが、どうも決め手に欠く、という感じでした。

曼荼羅が本門の題目を表したもので有れば、問題は一挙に解決に近づきます。南無妙法蓮華経は本門の教主釈尊である必要は無いからです。

勿論、南無妙法蓮華経と唱えると一念三千が成就するわけですから、本門の題目を唱えるその刹那には本門の教主釈尊が立ち現われる訳で、唱える人は、本門の教主釈尊=本門の本尊を観る事になるわけです。

これは、法華経に「一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 具出霊鷲山」と説かれる所に該当するのだと思います。

蓮師が、本門の題目として、多数の曼荼羅を弟子檀那に授与したのなら、そして、本門の本尊については、時を待つべきのみ、で作られなかったのなら、大石寺の「本門戒壇板曼荼羅」は蓮師が作ったものでない事は明らかであると言わざるを得ません。

兎も角も、ややこしい議論を犀角独歩さんと戦わせた事は、僕にとって、大いなる結実を見たと言うべきです。独歩さん、有難うございました。僕のややこしい議論にお付き合い頂いて、有難うございました。久しぶりに議論らしい議論が出来て爽快というべきです。

1580犀角独歩:2005/05/08(日) 00:06:49

問答さん、こちらこそ、本当に有り難うございます。

このような議論に徹底してお付き合いくださるのは問答‘名人’さんならではのこと、深く御礼申し上げる者です。

1581単なるつぶやきですが、、、:2005/05/08(日) 01:07:51
>>1580 問答迷人さん

正宗・学会では、もともと「本門の本尊』と「本門の釈尊』は別ですよね。
創価学会の戸田氏による本尊抄講義には以下のように書かれていますよ。
「他宗派にあっては『地涌千界出現して本門の釈尊の脇士となる』と言い、或は本門の釈尊とは中央の妙法なりとというが、これは本尊抄一巻の大旨・前来の諸文からみて大なる謬りである。この謬りから本尊の混乱を来して大衆を誤らせているのであって恐るべきことである。又一閻浮提第一と仰せある以上、宗々異なりと雖も皆仏を以って本尊と為すからは当抄の此の本門の釈迦・多宝を脇士と為す妙法五字の本尊を仏と仰ぐべきである。」

1582問答迷人:2005/05/08(日) 07:10:20

>正宗・学会では、もともと「本門の本尊』と「本門の釈尊』は別ですよね。

僕も単なるつぶやきです。そもそも、正宗教学の根本的な間違いはこのように考えることだったなぁ、と思います。

報恩抄の『答て云く 三あり。末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云く 其形貌如何。答て云く 一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。此事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声もをしまず唱ふるなり。』

ここに、明確に『本門の教主釈尊を本尊とすべし』とあるわけです。これは正宗教学にとって、大変都合の悪い遺文なので、そのまま素直に読まずに、先ず結論有りき、の勝手な解釈を施し、お茶を濁してきたのが真相。もし、本格的な議論をお望みなら、「本尊と曼荼羅」スレッドでやりたいです。

1583これまた単なるつぶやきですが、、、:2005/05/08(日) 09:02:02
おはようございます。当方は、今日も五月晴れの良い天気です。
これまでの論議を読ませていただきましたので、この件では特段議論すべきこともないかと思います。

議論あるとすれば、本尊抄、報恩抄とも本門の本尊の説明が同じであるか非常に近いということでしょう。
「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。」
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし。」
外せないのは、両抄とも釈迦、多宝という二仏に言及されていることですね。これは、本門の本尊には、二仏の表現が不可欠であることを示しているのではないでしょうか。

1584犀角独歩:2005/05/08(日) 09:26:40

「つぶやき」スレで、他のスレの話題をつぶやくことは、わたしは感心しません。
他に該当のスレがあるのですから、そこに投稿すべきでしょう。

1585パンナコッタ:2005/05/09(月) 12:03:51
みずほ銀行国分寺支店を舞台にした14億円の融資詐欺事件のニュースが出ました。
非常に、きな臭い事件で、容疑者は元学会員とのことですが果たしてどうでしょうかねぇ。
少なくともシロウトが出来るものではないし、銀行側にも何かあるのでしょうね。


冬柴幹事長は「奈良県があるが、“ハンナラ”からの“ナラ”である。日本の遺跡地には
韓国の影響力を確認することができる」などとリップサービスとは言えこんなトンデモ理論を
口にするような人物を推していて大丈夫なんでしょうかねぇ?

1586ラキ:2005/05/09(月) 13:15:07
各機関紙。会合等の動向が気になります。
学会側の言い訳掲載かスルー掲載か注目したいと思ってます。

1587愚鈍凡夫:2005/05/10(火) 20:10:29

下記のニュースのことですね。
**************************************************
架空の建設計画で銀行から融資詐取、7人グループを逮捕

 「創価学会が迎賓館を建設する」と持ちかけ、みずほ銀行から融資をだまし取ったとして、警視庁捜査二課は9日までに、元同学会員で健康食品販売業、川村克彦容疑者(53)=東京都国立市=ら7人のグループを詐欺と偽造有印公文書行使の疑いで逮捕した。同課はグループが総額約15億円を詐取したとみて追及している。
 ほかに逮捕されたのは、東京都中央区の食品販売会社社長、関根伸六容疑者(63)=東京都世田谷区=ら6人。調べに対し、川村容疑者は「銀行をだましたつもりはない」などと容疑を否認しているという。
 調べによると、川村容疑者らは創価学会が迎賓館を建設するという架空の話で不正に融資を受けることを計画。03年11月、みずほ銀行国分寺支店の支店長らに対し、「迎賓館の建設計画は創価学会本部の意向の事業です。借り入れ主体として、同学会の関連会社である(関根容疑者の)食品販売会社が選ばれました」などと偽って融資を依頼し、その後、偽造した同社の確定申告書などを提出して、融資金約1億4000万円をだまし取った疑い。
(11:01)

NIKKI NET より
**************************************************

架空の建設計画で銀行から融資詐取、7人グループを逮捕
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20050509AT1G0900R09052005.html

1588ラキ:2005/05/11(水) 01:09:50
初めて「大日蓮」を読んで・・・
説法の原文は誰が書いたのか謎ですが、浅井さんの講義よりは、
私の今の教学では、ためになる発見が合ったのは意外でした。
一部200円の薄い〜新聞より、一部300円の「大日蓮」の方が価値があるなと思いました。

1589犀角独歩:2005/05/11(水) 01:13:22

ラキさん、説法の原文は、阿部さんが話したところですよ。

1590ラキ:2005/05/11(水) 04:04:16
犀角独歩さん。
少し、安部氏の見方が変りました。
池田氏は、原稿を読んでるときは、もっともらしく、まともな事を言ってるように聞こえていたのですが
勢いあまって、アドリブになると、言動の酷さが感じて、同一人物?の発言とはとても思えなく、
誰かが、原稿を手直し?または書いてるのではと、感じております。
浅井氏は語る内容は「なにかと国立戒壇」「切り貼り御書引用で、矛盾ばかりの解説や言動」
私は、聞いたり読んだりしても、どうも説得力に欠けると思っています。
それを考えると、安部氏の発言が、一番ましに感じてしまいました。
全文とは言わないですが、部分的には、私が感じてる部分。思いに近い、納得できる部分もある、
という意味ですが。
「法華講員の基礎知識」を読んでいて、目師の伝説が出ていて、抜粋ですが
「その壮烈なる御最期によるものか、我が宗門に、広宣流布の暁には日目上人がお生まれかわりになるという伝説を残しているのである」
阿部氏退陣後、血脈が途絶える事が無く、目師が生まれ変わると「顕正会」では
言われているみたいです。
やはり、三証を示す事が無い、言葉だけだと思ってしまし、不思議と私の疑問が
書籍を見ていて、タイミングが良く見つけられるとは、蓮師のお心かなと?
信が皆無な私でも、なんか嬉しい現証・実証・文証の出会いは、不思議だなと感じてしまいます。
「本は求める人の所に来ると」某アニメでの言葉があり、なんかそんな感じがして、
とても嬉しく、楽しい気持ちでいっぱいです。
信・行・だけで折伏は、若い世代の人にしか通用しない「現証・功徳」だけの
骨格が無いものだと感じます。
法論をして折伏するぐらいの力が無ければ、壁にぶち当たるのは、目に見えてると、感じます。
初心に帰り、勉強していくと、新たな発見があり、ますます楽しくて仕方が無いです。
蓮師真筆を見てない私には「見たことあるの?」の言葉に答える事が出来ない不甲斐なさが、
少し悔やまれます。
ますます、ツアーオフ会で真筆をまじかで拝見して、その感動で、対話をしていきたいと思ってもいます。
幼少の頃から、勤行・唱題が子守歌代わりに育った環境があるので、最近は時間を掛けて、
のんびり勤行・唱題をして自分を見つめ、事実を受け止め考えて行けるようになり、
心の修行(座禅ぽいですが)気持ちが引き締まり、信がないけど、心を落ち着かせ、
考え、気持ちが良い日々が最近は過せるようになりました。
私は、信が無いけど、なんちゃって信仰者としての自覚を持ち、世間様に後ろ指を刺されない、
行動(実践)勤行に望むに当たり、他の人のだらけた姿勢とかには、負けない自身は持てるようになりました。
信(妄信)だけでは、ご本尊を前にしての姿勢とかが、歴然と違うと拝見して、
志高く!究同心もいつまでも持ち続けたい、思いです。
僧侶の写真とかで勤行の場面がありますが、作法に矛盾してる〜
合掌の手がだらけてる〜と、自分にも戒めて、流されないように、
私が思う、姿勢、心がけを通して行きたいと思ってます。
最近は、夢の中でも勉強してる私が登場してきます(^^;

1591犀角独歩:2005/05/11(水) 09:29:38

ラキさん、少なくともわたしが法華講だった10年前、阿部さんは説法はうまかったし、論理だっていましたし、脱線もせず、原稿も読みませんでしたよ。「石山の」という括弧付きですが、教学には精通していましたし、台学も詳しいようでした。ちゃんと系統立てて学んだことが話から伝わりました。また、唱題行なんかで導師を勤めても、まるで像のように少しも動ぜず、見事な合掌礼のまま、何時間でも唱題していました。それは見事なものでした。これはわたしがこの目で見てきたことですから、嘘偽りはありません。また、わたしは学生当時、池田さんが中心を勤める勤行に何度か参加しました。「三分勤行」とか悪口を言われますが、一本抜けた好い声をしていました。また、故福島さんに会ったとき、「池田さんが3分しか勤行しないとか、言うけど、わたしは1時間唱題と後ろについてしたことがある。こういう悪口するだけのやり方は賛成できない」、そう言っていました。


さて、原文を当たらない騙されるという一つの好見本をお話しましょう。
これは、もちろん、当板では既に問題にしたことです。

> 日目上人がお生まれかわりになる

より正確に言えば、大石寺の歴代のなかに生まれ変わるというわけでしょう。これはしかし、パクりです。
この根拠は、保田妙本寺(日郷門流)の我師『申状見聞』の「此の申状奏せず 終に臨終す 此の土の受生所用無し雖も 今一度人間に生れ此の状を奏す可し、若し此の状奏問の人未来に於て之れ有らば 日目か再来と可し知る」という一節です。

度々の天奏をしてきたが、それが成就せず、この度は、病に倒れ、京都に到着することもできず、奏状を届けることすらできず、臨終する。もはや、人間に生まれる必要はない(霊山浄土、仏の許に行くからという意味でしょう)が、今一度、人間に生まれてきて、この状を天皇に提出しよう。未来において、この状を提出する人が現れた、その人こそ、わたし日目の再来と知りなさい、というわけです。これが日目再来説です。それで、石山では広宣流布の暁に、目師が猊座に着くといい、これをかつて創価学会も言っていましたし、顕正会は今でも言っているわけです。
ところが、この文章には続きがあります。

「爰に日要奏す之れを争か之れを疑ふ可けん乎」

ここに日要はこの目師の状を奏した。いかでか、これを疑うべきか、つまり、この伝説は保田妙本寺・日要が目師その人であるという伝説であったのです。それを、この結論部分の尻を隠して、頭だけ奪って、自分たちの伝説にしたというわけです。

ラキさんは、身延も、北山も行かれたことはないでしょう。身延に行けば、立派な真骨堂が建っています。北山に行けば、興師のお墓があります。日蓮・日興の正墓はちゃんと、それぞれの寺にあるということです。
ところが、石山はどうでしょうか。目師の遺骨がどこにありますか。お墓がどこにありますか。三師塔という形式墓はあっても中身は空です。目師が広宣流布の暁に再来するという伝説を保田妙本寺日要・目師再来話を原本に捏造はしたものの、その目師の墓すらないのです。わたしは、このような点を憤慨しているのです。これは悪口を言っているのではないのです。永らく信じていたことをよく調べたら、事実と違っていた、つまり「騙された」という憤慨を覚えたと言うことです。

1592犀角独歩:2005/05/11(水) 09:31:12

【1591の訂正】

誤)「爰に日要奏す之れを争か之れを疑ふ可けん乎」
正)「爰に日要之れを奏す争か之れを疑ふ可けん乎」

1593ラキ:2005/05/11(水) 13:16:13
犀角独歩さん。
貴重なお話ありがとうございます。
私が学会に在籍して活動をしていたのが、平成元年頃の宗門破門前でした。
1年間は、信・行・学に励んでいました。
実践すればするほど、疑問が?・・・私の性格なのでしょうが、疑問に思った些細な事でも
直ぐに指導を求め、明確な答えをいつも期待していましたが、「すっきりしない答え」が多かったと、
今でも記憶しています。
犀角独歩さんのお話を聞いて、石山と言う狭い範囲ですが、安部氏の意外な一面を垣間見た感じです。
(学会の刷り込みの影響が強かったからです。汗)
安部氏の説法も登山を2度した折に聞いてましたが、その当時は、大ご本尊様にお目道理してる
喜びで、話など聞いてなかったです。(^^;
やはり、石山系団体の個別の狭い範囲の視点では、事実が見えないと実感。
そして、石山系の範囲で見ていると、また狭い〜範囲でしか物事を見れないと
実感しました。

目師のお話、驚きと、感動です。
信はないですが、心の修行としての「勤行・唱題」をしております。
今は、疑問に思った些細な事でも「事実」を知りたい。
信が無いのに御祈念してる所が自己矛盾ですか、知りたい答えが見つかり、
そして、ここでみなさんに聞き、隠されていた「事実」を知り、浅井氏風に「不思議かな、不思議かな」と
つぶやきそうです。(^^;
犀角独歩さんのお話を聞いて、北山、身延に参詣したい思いが強く出てきました。
自分の目で確かめる。これが一番だと実感しました。
今は「蓮師仏法」について研鑽できる、楽しさでいっぱいです。

1594ラキ:2005/05/13(金) 22:14:58
電脳架空空間を放浪していて「遠離塔寺の難」の記載を見ました。
学会が「遠離塔寺の難」を受けたと主張しても・・・
顕正会の方が先では?と、<(|||。。)>・・・・・・ブツブツ

勤行の速度で、学会は「早口」寺院では「毎回、速度が変わる」顕正会は「一定の速度」
勤行の速度だけ見れば、顕正会が一番忠実だと感じました。
あくまで、速度ですよ〜〜
教学の基礎の本では「言葉がはっきり聞き取れる速度」でとなってるのに、
僧侶がその日の気分で速度が違うのって・・・
ここでも書けない、素朴な疑問が(^^;

1595愚鈍凡夫:2005/05/14(土) 19:25:47

ふと口ずさんでみた小生の好きな唄です。いつまでも、この国が万葉の美を失わないことを祈っています。

**************************************************
我が大地の歌

落葉松 こめつが 針葉樹林
かもしか つきのわぐま 走る稜線
そびえ立ち 連なる 我が山々よ
そびえ立ち 連なる 我が山々よ
いくたびか春を迎え いくたびか夏を過ごし
いくたびか秋を迎え いくたびか冬を過ごす

柿ノ木 赤土畑 広がる水田
川柳 青い水 流れる河川
この土地に生きている 私の暮らし
私に流れる 人達の歴史
私が歌う歌ではない あなたが歌う歌でもない
我が山々が私の歌 我が大地が私の歌

カルカヤ カヤツリグサ 積乱雲
カラスウリ 月見草 風渡る草原
この土に私の全てがある
この国に私の今がある
いくたびか春を迎え いくたびか夏を過ごし
いくたびか秋を迎え いくたびか冬を過ごす

カモメ鳥 黒松 岩礁海岸
カツオ鳥 海ツバメ うねる水平線
この国の歴史を知ってはいない
この国の未来を知ってはいない
けれども私はここに生まれた
けれども私はここに育った
私が歌う歌ではない あなたが歌う歌でもない
我が山々が私の歌 我が大地が私の歌

**************************************************

物・物・物・・・( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1596ひたち:2005/05/15(日) 08:26:54
主に本尊と曼陀羅スレに参加しておりますが、皆さんの深い研鑽には敬意と驚きを禁じ得ません。残業に追われるしがないサラリーマンの身である私ではついていくのも困難であり、皆さんが示して下さった資料にこのまま駄文を差し挟んでいてよいものかと考えてしまいます。それでも書きたいという衝動に任せているわけですが、さすがに失礼にあたると思いはじめている今日このごろです。つぶやきでした。

1597ラキ:2005/05/15(日) 10:20:36
夢の中で4次会が開催されました!ヽ(`O´*) ォィ!!
騒がしい〜けど、楽しい夢?・・・
ふと、感じたのが「日本一同、南無妙法蓮華経ととなへ」だけを何故か浮かんで、
題目だけで考えたら、宗派を抜きにすれば、国民の何割かは、唱えてるのではと思ったのです。
現証があるから正しい、正義と思ってる、教団の方とメールしていて、
題目を唱えてる事は、現証=事実なので、そのうち「広宣流布」の解釈を、
題目を唱える人達と、極端な解釈を言い出しかねないのでは?と感じました。

富士門流掲示板「教学辞典&御書全集&御書辞典」とか出来たら楽しいかなって、
つぶやきでした。

1598犀角独歩:2005/05/15(日) 13:47:58

昨日の伊藤師のご講演内容は、追ってブログでアップするつもりですが、印象に残った点はつぶやきで。

「漫荼羅を拝む」という点について、「漫荼羅の世界に入る」と言われたのが印象的でした。黒板に、首題を略図され、二仏がこちらを向き、四菩薩をはじめ他はその二仏を向いている立体構成になっている。その漫荼羅に入ると言われました。

漫荼羅が本尊であるとか、また、釈尊像が本尊であるといったように考えていくのでは器物崇拝になる。そうではなく、そのようなものを通じて、漫荼羅に入り、本尊を感徳していくといったご説明でした。

やや卑近な例ですが、自動車運転で、ナビゲータを使って走行するのに、ディスプレー上に現れる地図は、たしかに実際の道路を表し、その通りに進めば、実際の道路を走ることになる、けれど、ディスプレーの地図はあくまで画像に過ぎない…、と言った関係に似ていると思いながら、御説、拝聴したものでした。

1599ラキ:2005/05/24(火) 23:36:51
正宗信徒の方でも、妄信に近い方が居たとは、少し驚きです。
某掲示板での話で、下記の発言をされて、真面目にお話を出来る場所は、
私にはここしかないと、痛いほど、感じてしまいました。
以前ここで、組織に何を求めるのかと言われましたが、改めて、自分の愚かさを思い知りました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「法門申さるべき様のこと」とすでに書いてあるだろう。
たとえ文証が明示されなくても、御法主上人の決判があればそれが正論だ。それを信じられないものは日蓮正宗の信徒ではない。
(中略)些少なことの文献をどうこういうレベルに君はない。己をしるべきである。

1600犀角独歩:2005/05/24(火) 23:47:03

しかし、ラキさんは、あちらこちらで、指導者絶対という退屈な人たちを相手になさっているのですね。時間の無駄でしょう。

1601ラキ:2005/05/25(水) 01:36:34
犀角独歩さん。
>指導者絶対という退屈な人たちを相手になさっているのですね。時間の無駄でしょう。

身をもって体験して、改めて時間の無駄と思いました。
私は、体験して身をもって気が付かないと、ダメ見たいです。
独歩さんが体験した事の、私なりの確認作業みたいとでも思ってください。

1602吉祥仙人:2005/05/25(水) 08:08:26
 つぶやき

 >指導者絶対云々

 「盲従することは師弟ではなく主従である」と創価新報にありました。

1603犀角独歩:2005/05/25(水) 10:46:08

1601 ラキさん、了解です。

1602 吉祥仙人さん、で、その創価新報を読んで、あなたは、どう思うわけですか。
わたしは、学会員の現状を批判しているように読めました。

1604吉祥仙人:2005/05/25(水) 20:37:50
 犀角独歩さんへ

 まあ、事実を書いてみただけです。

1605犀角独歩:2005/05/25(水) 20:47:44

だから、それが事実ではないということが論証されたのを無視しただけでしょう。
見苦しいから、いい加減にしなさい。

1606吉祥仙人:2005/05/25(水) 21:04:40
 誤解なさらないように

 創価新報にそういう記述があったという事実を書いてみただけです。

1607犀角独歩:2005/05/25(水) 21:14:30

ですから、その創価新報に書かれた事実から、何を言いたいわけですか。

1608ひたち:2005/05/25(水) 22:50:39
犀角独歩さん

ここでは、日蓮信仰の議論についてはひとまずおいて、盲従と学会の師弟についてつぶやいて去ります。
今、本部には相当の危機感があるでしょう。池田先生もお年ですから、いつまでも生きておられるわけではありません。盲従の組織にしてしまったのは本部ですからある意味自業自得ですが、盲従の組織なら遅かれ早かれ衰退します。なぜかならば指導者を越えることができないからです。更なる発展を生み出すためには、師匠の構想をまねているだけではだめで、それを応用し新たな展開を生み出す必要があります。その意味で善かれ悪かれ池田先生は希有の指導者であったと思います。
今後の創価学会の未来は創価大学出身者の手にかかっているでしょう。実際のところ、彼らは盲信者ではありません。私が知る20数年前ですら、真剣に池田先生亡き後の学会を考え、常に、師のうたれた点を未来においていかに壮大な立体にしゆくかということを前提に訓練を受けているわけです。
本当は学会員総体がそういう人であってほしいのが先生の思いでしょう。自分で構想を考え、戦略を練り、自主的に行動する人間の集合として組織。残念ながら、今現在は上意下達の盲従組織といわれてしかたないですが、それでもなお青年に期待を寄せるということです。
創価新報のその一節は、独歩さんのいわれるようにひとつには現状批判であり、そして学会の目指すべき師弟を示したものなのでしょう。
この板には余りなじまない文章で申し訳ありません。

1609犀角独歩:2005/05/26(木) 01:38:18

ひたちさん、ここは、つぶやきですから、別段、反論しようという意図はありません。

まあ、つぶやきのようにわたしも書きましょう。小樽の事件、言論出版妨害事件、その他、世間一般に望まれない学会関連の事例を追って、つくづく感じることは、学会員以外は創価学会の永続など、少しも望んでいないと言うことです。また、興味もないでしょう。

池田さんが死んで、カネさんが預かり、やがて息子が世襲する。「ほら、見たことか。池田は、かつて、世襲制は邪宗教の証拠と言ったけど、自分で言ったとおり、邪宗教であることを自分の妻子が証明したよ」
そう言えるタイミングをぞくぞくしながら、待っている人々がいるわけです。

立正佼成会を見てもそうですが、次代の学会がどうなったところで、世間一般には、迷惑を掛けられないのであればどうでもいいことです。それが現実であるという認識がまず必要です。

しかし、創価学会はなくならないでしょう。それは創価学会で満足をしている人たち、生き甲斐を得た人たちがいるという証拠でしょう。しかし、それと同じように、○○先生、○○会で生き甲斐を得た人たちはたくさんいます。しかし、どれもこれも、指導者・組織に追従しない自立した精神を持った人間にとっては鬱陶しい前近代的な存在であるということです。そんなものに認めてもらおうと思うとは死んでも考えません。

社会の一員、国から認められた宗教法人、社会の片隅を借りて生計を成り立たせる以上は、全体の共和を考えてもらいたい、あんたたちだけの日本じゃないよという思いがあるわけです。

> 「盲従することは師弟ではなく主従である」

まず、第一に、少し人権感覚のある人であれば「盲」をネガティブに扱う成句を避けるのは一つの社会ルールのうちでしょう。この点でまず失格です。第二に「師弟でなく主従」と言いながら、池田さんが実質オーナーの創価学会には、その創価学会で飯を食っている人間がたくさんいるわけでしょう。これを人は主従と見ます。また、論点を換えれば、この創価新報の一節が指導者絶対を否定するものであれば、、では、なにがどのように絶対でないのか、換言すれば不足しているのか、不満足なのか、足りないのか、もっと言葉を換えれば、池田さんの不完全さは何なのかという問いかけは、ここに成立するわけです。それを一所懸命に組織人が考えるのはけっこうなことです。ですから、少なくとも、外部の池田さんとは何の主従関係にもない、師弟関係のないマジョリティ、社会一般に少数閉鎖集団死か通用しない価値観を押し付けないで欲しい、鬱陶しい、もっと言えば、不快だ、気味が悪いという大多数の気持ちをもっと斟酌し、それに基づいた行動言動をして欲しいと言うことです。

ただし、日蓮を敬愛し、尊敬する人たちにとって、創価学会が言うような日蓮が一般化するのは冗談じゃないという思いがあります。何故ならば、事実とかけ離れているからです。それを一々に論拠を挙げながら、真剣に語り合っているところに、何の証拠を挙げるわけでもなく、創価学会ではこう言っているなどと書き込まれても、そんなのはとるに足らない雑音としか聞こえないという現実を、もっとしっかりと認識してもらいたいと言うことです。

日蓮研究はようやくと緒に着きました。
しかし、少なくとも創価学会は、その真摯な流れとは、今のところ、まったく逆行している現実をしっかりと認識されるべきであるとわたしは思います。

1610小心者:2005/05/26(木) 20:41:11
、、ゴメン下さいませ、、。  一応おしらせしたく存じます、、。
 「書簡からみた日蓮」、(NHK;;こころを読む、ラディオ第二放送、、日曜日 、13:20〜14:00
再放送23:15〜23:55、、)、(監修、北川 前肇、立正大仏教学部教授、)の番組はお薦めかと、存じます、、。

1611パンナコッタ:2005/05/26(木) 22:41:10
20日の参院予算委員会で公明党の福本潤一氏が靖国神社参拝を「ヒトラーの墓参りと同じ」と発言、
冬柴幹事長は26日の党代議士会で、福本氏に対して「発言は不適切」と注意したとの事。

この福本議員は平成十一年十二月の村山訪朝団の一員として北朝鮮に行き帰国後、
「事実、私は日本で生活している以上に答礼宴を含めてたくさんおいしいものを食べ、太って帰ってきた」
                   (平成十一年十二月十一日付産経新聞)より

まあ、靖国に対する賛否はありますが、これは酷い発言でしょう。現実にヒトラーの墓はありませんし。
国民が多数餓死している北朝鮮で、たらふく食べて太ってくるという発言も、神経がどうかしているのではないか
と思います。
この様な人物に議員バッチをプレゼントする事が仏道修行なんですかね?

1612犀角独歩:2005/05/27(金) 01:21:22

パンナコッタさん、ご紹介有難うございます。
この「福本」なる人物、たしかに異常であると思います。

また、議員バッジを創価学会が公明党議員に「プレゼント」したという認識があるとすれば、これは完全な政教一体ということでしょうか。

1613犀角独歩:2005/05/27(金) 01:31:22

れんさん、
彰往考来さん

本日、興風談所・山上耕道師にお会いしました。
率直に、わたしの考えを伝えました。
師曰く「所謂、戒壇の本尊は物体ではない。本尊というのは物体を指すものではない。自分は本尊を信仰している」という、雑駁に記せば、以上のような見解でした。

信仰の仁である師と、そうではないわたしとは、そこに大きな隔たりはありました。しかし、淡々と語ってくださった師に、わたしは誠実さと、襟度を感じました。穏やかな表情をされた方でした。
師に対する考えを改めたいと思います。

いちおう、ご報告申し上げておきます。

1614ひたち:2005/05/27(金) 07:25:57
>「所謂、戒壇の本尊は物体ではない。本尊というのは物体を指すものではない。自分は本尊を信仰している」

戒壇の本尊が水火盗難なので消失した時のための写しが、法道院など石山諸寺にはあると聞いたことがあります。それは相貌のコピーではなく座配を記したものらしいですね。石山では緊急時の復元にあたって相貌(蓮師の筆法など)をまねることは重視されていないともとれます。裏が取れる話ではないので、なんともいえないのですが、上記の「本尊というのは物体を指すものではない」という文から思い出しました。ふたたび、では本尊とは?と問わなければならないような気がいたします。

1615犀角独歩:2005/05/27(金) 07:58:29

ひたちさんが、仰っているのは「正模写」のことでしょうか。
胤師に係るものであれば、少なくとも2カ所でその存在を文献的に確認しています。
石山提出資料(宝蔵帳)ですから、確実な資料といえようかと思います。
ただし、この用途は、仰るような内容とはなっていませんでした。

> では本尊とは?と問わなければならない

ええ、そういうことです。
過日の当方主催の講演で伊藤立教師も、ほぼ同様の見解を示されていました。
結局のところ、本尊とは観心本尊ということに戻っていくのでしょうね。

「言語道断心行処滅」は不動の釈ですから、それを文字で表したり、絵で描いたり、彫刻しても、結局、その形貌を通じて、信者が己心の中で観るところが本尊であるということになのでしょう。
この点は、さらに議論が望まれます。

1616藤川一郎:2005/05/27(金) 09:12:00
> 20日の参院予算委員会で公明党の福本潤一氏が靖国神社参拝を「ヒトラーの墓参りと同じ」と発言、

ヒトラーはホロコーストをしたが、日本軍はしていない。
そもそも戦犯にA級もB級も特級も無い。戦時国際法上に触れる行いをすれば、勝者も敗者も戦犯である。
田中角栄氏曰く「題目を唱えるヒトラー」の弟子は何を考えこのような発言をしたのでしょうか(じゃんじゃん・笑)?

1617れん:2005/05/27(金) 12:26:01
犀角独歩さん。
興風談所の山上弘道師にお会いになられたとのこと。ご報告有難うございました。
山上師曰く「所謂戒壇本尊は物体ではない。本尊というのは物体を指すものではない、自分は本尊を信仰している」
興風紀要第三巻には、大黒師が‘戒壇本尊’について久遠名字妙法・事の一念三千→内証本尊(本因)、板曼陀羅(本果)と論じていますが、山上師が仰ったのは上記の立て分けからいえば‘内証本尊’のことを言っているように思えますね。興風談所の発刊書を見るかぎり、興風談所では初期のころから既に物体である彫刻本尊よりもこの‘内証本尊’に比重がおかれていますね。
以前どなたか紹介なさっていましたが、大黒師は2000年刊行の日興門流上代事典に石山彫刻本尊について『大石寺所蔵の宗祖本尊の中では、元は東京・法道院所蔵にて昭和四五年に大石寺に奉納された弘安三年五月九日書顕の宗祖本尊(脇書「比丘日禅授与之/[日興上人加筆]少輔公日禅者日興第一弟子也にんべん+乃所申与如件。奉懸本門寺可為万年重宝者也」興全一四一)がその相貌と言い大きさと言い当本尊と酷似しており、注意される』と注意を促してますし、さらに昨年、独歩さんが重須蔵本との対比により現在の石山彫刻本尊の原本が禅師授与曼陀羅であることを証明されてますから、山上師も彫刻本尊についてはもはや戒壇本尊として認めてないのかも知れませんね。独歩さんの記された山上師の発言からそう感じました。

1618犀角独歩:2005/05/27(金) 12:55:49

れんさん、有難うございます。

> ‘戒壇本尊’…内証本尊(本因)、板曼陀羅(本果)

このような解釈を設けませんと、整合性は採れませんでしょうね。

しかし、そもそも本尊は仏であるわけですから、本因に配当できませんでしょうね。本因は菩薩であるわけです。まさか、こんな初歩的なことを知らないわけはありませんから、苦しい言い訳といったところでしょうか。

まあ、石山で出家した坊さん方も“騙されたクチ”ですから、同情するところはあります。しかし、こんな理屈付けは、どうもわたしは承服しかねます。もっともわたしなら、三妙合論を意識して、戒壇(本国土)とやりたくなりますが(笑)

つまり、これでは三妙合論になっていません。
また、内証に対語は、外用ですから、その対置として、論じなければ、ただ、言葉遊びと思えるのです。

そんなことより、祖師の言をそのまま用い、観心本尊としたほうがすっきりします。では、そこで観る本尊が釈尊か、日蓮か、はたまた自受用かと、確実な資料を持って論及することが望まれます。日蓮本仏への拘りが、上述のような解釈となるほか無いということなのでしょうか。

余計なことを記しました。レス、感謝申し上げます。

1619パンナコッタ:2005/05/27(金) 13:05:18
つぶやきなので受け答えは避けた方がいいのですが、この様に明らかに議員としての適正に問題が
ある人物を組織の決定という事で公認させて、組織力で当選させる(この人は比例当選)ことを
プレゼントと表現してもおかしくはないと思いますし、一般会員は政教一致という概念すら無い
と思います。学会と公明党は別組織、程度の認識がほとんどで当選すれば先生に報告に行くのが
当たりまえと思いこんでいる人がほとんどです。
東京大学農学部卒業で東京大学大学院博士課程単位修得の農学博士だそうですが基礎的な歴史認識と
議員としての自覚、認識が欠如した人物であることは言うまでもないでしょう。

1620パンナコッタ:2005/05/27(金) 13:05:50
ABC級戦犯の概念はドイツのニュールンベルグ国際軍事裁判で戦争犯罪を、
 A・平和に対する罪 B・通常の戦争犯罪 C・人道に対する罪 と分けたものであり
Aは従来、国家の行為を個人には当てはめませんでしたが戦争開始を決定した人物、共同謀議に
参加した人物を追求させる方針となり、日本に対しては戦争指導者=政治家・軍首脳とされました。
Bは命令者に対してであり、日本に対しては指揮官や士官が対象になりました。
Cはホロコーストに対するの責任を裁くための物であり、計画を実行した者や加担した者に対して
人道の名の下に裁く物であったのに対し、日本では一般兵卒、民間人が対象となりました。
ドイツと同様にファシズム国家として裁かれてしまった日本ですが、意味合いは全然違ってきますし
一体何を考えてこの様な発言をしたんでしょうかねぇ?

1621パンナコッタ:2005/05/27(金) 15:34:51
創価学会施設の架空建設話を巡る融資詐欺事件で、27日再逮捕された人の中には中小企業向けローン詐欺グループの
「偽造役」もいて、背後に偽造組織のネットワークがある可能性もあるとみて捜査が続けられるとの事。

札幌の正宗寺院に2ヶ月間で1123回の嫌がらせ電話をかけた人物が創価学会の地区部長であったとの事。

内部的には「大悪起これば大膳来る」とか「魔の所為」などと言って責任を転嫁させ会員を引き締めますが、
全部学会の身からで錆、己が鏡に映った姿である事をいい加減自覚して反省していただきたいですね。
今まで反省や自責の念などと言った物は見受けられないので、その都度尻尾切り的対応しかしないでしょうし
これからもこうした事件は起き続けるでしょう。 それは真面目に事実を認識しない・出来ない・させない
といった学会員の罪でしょうね。ですから一般社会との距離・軋轢は消えることはないのでしょう。

1622犀角独歩:2005/05/27(金) 19:34:15

パンナコッタさんがご紹介くださったような事件を、個人が行った場合、創価学会という団体の責任とはいえないという理屈は成り立つでしょうね。

ただし、では、その学会員がどうして、石山末寺院、または僧侶にそこまで執拗な嫌がらせをするようになったのか、創価学会では一切、そのような憎悪をあおるようなことはやっていなかったのか、また、そのような事件が起きないような努力をしてきたのか、起きた場合、どのような事後処理をしたのか…、ということで、創価学会の資質が問われることになるでしょうね。

しかし、こういう事件や、宣伝投稿などを見るにつけ、煽動、操作といった破壊的カルト・マインド・コントロール理論が当て嵌まると批判されることが、後を絶ちませんね。

当人たちは、創価学会のためのつもりなんでしょうが、間違いなく、創価学会への評価を下げています。しかも、そのように会員が動く原因は、聖教新聞、創価新報などを見る限り、会そのものに、煽動操作の責任があるように窺えるという前提が、パンナコッタさんの、ご投稿の基にあるのだと観察します。

1623ラキ:2005/05/27(金) 22:29:49
学会に限らず、石山系教団に一致してるのは、自教団の機関紙が書いてる事が
正しい!間違いが無いとの盲目です。
上人。先生。会長などの言葉(指導)が絶対だ。真実だ。
そのため、逸脱した行為に走る信徒も中にはいます。
そのような信徒を出ないように、指導するのがまずは大切だと思いますが、
機関紙自体で煽ってるのは、否定できません。
世間の法を犯す過ちをしたら、機関紙でもちゃんとした謝罪など載せる当たり前の行為が出来ていないと
思います。
過ちを過ちと認めて謝罪をしないのは、自己教団の信用や蓮師仏法の名を下げる行為だと私は思っております。
内紛の罵りあいは、みっともないと、他の宗教をしてる方からは、見られると思っていないのかと思わないのが不思議です。

1624藤川一郎:2005/05/28(土) 12:26:40
私が笑ってしまったのは、聖教新聞の紙上座談会にて、かの架空請求事件の犯人を「法華講から移ってきた学会員」としていた事です。
曰く「法華講から来たやつにろくな奴はいない」等です。
しかしながら、彼が昔からの筋金入りの学会員であることは有名であり、いくらそれを覆い隠したいからと言って、無惨な事実隠蔽に見えました。

もっとも「法華講から来た奴にろくな奴がいない」が本音なら、最初から「脱講運動」なんてやめたらどうかね。

1625愚鈍凡夫:2005/05/28(土) 19:13:30

梅雨入り前というのに、連日暑いですね。 ε-(´o`;A アチィ
柄にもなく最近はロム専をやっておりますが、新しい方々も増えて活気づいていますね。小生がいないと、なんて格調が高いんでしょう。 σ(^◇^;)
これも、犀角独歩さん、問答迷人さんを始めとする心優しい碩学の方々の御仁徳の賜物と拝察しております。 m(_ _)m
時間的余裕が出来たら、また小生も参加させて下さい。 ぴぃす((^へ^)v

物・物・物・・・( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1626問答迷人:2005/05/28(土) 19:29:36

ここは議論禁止のスレッドですので、独り言を呟いてみます。

問答迷人のことを、碩学の方々と一緒にしては、金石を混同だと思います。さぞや、碩学の方々が迷惑されるというもの。

僕なんぞは、仏教の勉強をきちんとしてないことをハンドルネームで初めから言い訳してる訳です。まぁ、懲りない性格だけを頼りに、何とか、碩学の方々の論議にしがみついて来た、と言ったところです。

勿論、勉強してないことを売りにするつもりは全然無いんですよ。何とか、付いてゆこうとして、少しは頑張ってみるんですが、何しろ、基礎を知らないから、ナカナカ付いてゆけない。

ブツブツブツ・・・

1627一字三礼:2005/05/28(土) 21:07:26

つぶやきです。

仏教学を学ぶには、最初に「倶舎論」から入るなどといいますが。
「唯識三年倶舎八年」をなどと言われるように、その内容は煩雑で、唯識系の論書は特に難解です。

かく言う私もこれらの論書をしっかり学んだわけではありません。読んでる途中で目と脳がストライキを起こしました。

しかし、私の極めて浅い認識で考えたのは、これら「唯識」と「倶舎」を基礎知識とはしてはいけないのではないか、という事でした。

アビダルマの成立自体は、根本仏典に散文的に説かれた釈尊の教説を、何とか体系的な学問にしようと試みた初期僧団の努力の結果でありましょう。
ところがその内容は俗信的であり、ドグマチックであり、あまりに細かくカテゴライズされている為に理解が困難というよりは、面倒くさいものでした。

これをベースとして他の論書や大乗仏典を学ぶとかなり歪んだ知識が形成されるのではないか、と思います。

そこで私が思うには、まず根本仏典。次に「中論」を読んでそれから他を学ぶ方が理解しやすいかと考えます。

1628三学無縁:2005/05/28(土) 23:59:56
今月はまだ8冊しか本を読めていない。
1月20冊、2月13冊、3月18冊、4月11冊。
今年は今日までで70冊、ということになる。
昨年は、
1月16冊、2月21冊、3月16冊、4月44冊、5月12冊。年間で196冊読めたけれど……。
ちなみに雑誌や研究誌などは計算に入れていない。
歳をとると、なかなか本が読めなくなってしまうと実感します。
専門書や研究書は月3冊か4冊が限度、あとは小説やエッセイ、雑書。
そのくせ、コミックは読み返しを含めて月40冊以上も……。
コミックを読むひまがあるなら、読みたい本、読まなければ鳴らない本を読めばいいのに、とほほ。

1629吉祥仙人:2005/05/29(日) 02:51:50
 つぶやきです

 改めて「最新の100」を読ませていただきました。

 自分が創価学会員であることが、幸せなのか不幸なのか考える今日のごろです。

1631つぶやきですよ〜〜:2005/05/29(日) 17:31:56
「何をばかげたことを言っているのだろう。
 結局は自分の考えたとおりにいかないと気に入らないだけであろう。」(ある板より)
真面目なのは分かるのですが、、、、言葉がありません。頑張って下さい。(笑)

1633吉祥仙人:2005/05/30(月) 01:54:59
 秘技 つぶやき返し

 >頑張って下さい。(笑)

 冷笑主義とはこのことか

1634吉祥仙人:2005/05/30(月) 02:02:50
 つぶやきですので、ここだけの話ですが。

 「摂受と折伏」をロムさせていただいて

 ひたちさんは「教授」もしくは「師範」クラスの方とお見受けいたしました。

1635つぶやきですよ〜〜:2005/05/30(月) 06:31:06
>1631
削除された1630の投稿者は完全に誤解しているね。1631のレスは某掲示板の人じゃないよ。
完全に決め付けて熱くなっているようだけど、謝ったほうがいいよ。

1636吉祥仙人:2005/05/30(月) 08:33:29
 後の祭りのつぶやき

 私が見たときには削除されていました。
 1629についての1631と思ってしまいました。
 穴があったら入りたい。ゴメンナサイ。

 1630・1632ってどんな書き込みだったのかな〜
 管理者さんは何も書いてないシー。つぶやきさんも教えてくれないシー

1637ラキ:2005/05/30(月) 10:29:57
1630、1632は私が書きました。
1631のような書き込みがあり、こちらの掲示板に迷惑になると思い、削除依頼を頼みました。
「富士大石寺へ帰ろう」の掲示板からの転用ですね。
他の掲示板には行っておりませんので「富士大石寺へ帰ろう」の人しかいないと思います。
ここの掲示板の方は、マナーが宜しいので、某掲示板見たく、ネチケットもわきまえないような人達とは違うと思っております。
ここのリンクから顕正会関係で閲覧できます。


追伸。
吉祥仙人さんには、大変ご迷惑をおかけしました。
削除依頼した後、書き込みをしてれば、ご迷惑をおかけしかなったと、
反省しております。
吉祥仙人さんに不愉快な思いをさせてしまい、申しわけございませんでした。

1638小心者:2005/05/30(月) 21:09:39
、、ゴメン下さい、、。
日刊のゲンダイ版の毎月曜日の、矢野、、元委員長のコラムはナカナカの重い響きが御座いました、、。
 それが、先般から削除のようです、、。 ??かが存在、、??、、でしょうか、、??

1639ラキ:2005/05/31(火) 12:23:33
蓮師辻説法のついて。
正宗石山に電話にて問い合わせしたら「辻説法は、文献的証拠。御書にも明確に書かれてないので、
辻説法をしたと、断言は出来ないが、辻説法はされていた可能性が強い」との回答を頂きました。
文献的証拠が無く、伝承が残っているので、「確実にした。」ではなく「したであろう」との気持ちの良い明確な回答を頂きました。

この書き込みをしてる最中に、身元確認の間違い電話をしてくるのは、少しいただけないですが。(-ェ-o)ボソ

1640小心者:2005/05/31(火) 22:06:50
、ゴメン下さい、、。  昨今は、、某SSS会の、、息のかかった方方が、、続続と、、??、、御登場のようです、、??
 まーー、、お手並みを、、ご拝見、、??、、したいものです、、!!、、??

1641大勇者:2005/05/31(火) 23:03:11
>1636 ラキさん
石山が辻説法を「したであろう」との回答には驚きました。
日蓮正宗創価学会の時代から、学会は一貫して辻説法は信じるに値しないとの見解と思っていましたので。

辻説法は御書にないだけではなく、化導記、註画讃、別頭統記にも出てこない事を挙げ、
小川泰堂氏の日蓮大士真実伝のころからいわれるようになった架空の説としていましたので、
大石寺も同じ見解と思っていましたよ。

1642ラキ:2005/05/31(火) 23:35:20
石山の発刊「日蓮大聖人正伝」に辻説法と言う題名の項目があり、下記HPで辻説法の話をしていたら、
辻説法はあったと妙観講の方は断言して述べられていました。
法華講の方に「日蓮大聖人正伝」を持ってる方がいたので、拝見させていただきましたが、明確にはあったとの記載も無く、
法華講の方も「あったとはかかれてません」と意見を頂、あった、無かったの審議は謎のまま。
ただ、伝説であっただけという事でしかないと確信しました。

>石山が辻説法を「したであろう」との回答には驚きました。
日蓮正宗創価学会の時代から、学会は一貫して辻説法は信じるに値しないとの見解と思っていましたので。

破門前の学会に属していましたが、辻説法の話は聞いた事もなく、気にもしていなかったので、
学会では否定してる意見だとはじめて知りました。

「富士石山寺へ帰ろう」BBS
http://hpcgi1.nifty.com/imei/raib.cgi?md=nv

1643パンナコッタ:2005/06/03(金) 13:05:22
あらためて摂受と折伏のスレをROMしてみて、いかに自分の思想が蓮祖とかけ離れたものに左右されていたかが、
ひしひしと感じられました。偽書や真偽未決文、後世の手引き書(富士系の寛師分段など)が、
いかに元の物をねじ曲げて思想を汚染させるかをきっちり認識、区別していかなければなりませんね。

1644ラキ:2005/06/03(金) 19:23:49
私も、摂受と折伏のスレをROMしていて、改めて石山系思想に浸かり過ぎていると感じました。
偽書とわかってる物をいまだに使用してる、閉鎖的な思想。
営利団体だから仕方がないとは言えないと感じます。
石山系内乱で、機関紙等の品のない掲載。
かりにも、信仰者としての品位も問われると思います。
(池田さんを呪う題目をあげてるご婦人がいましたが、祈祷してるような感じで、怖いと感じてしまいました。
信仰者としての悪い見本を拝見して、私自身はあのようにはなりたくはないと、心に思いました。)

1645吉祥仙人:2005/06/04(土) 08:39:39
 独り言で私事を

 来週より20年ぶりに再び学校に通うこととなりました。
 (学生部に戻るわけではありませんが)

 昼間は(もしかしたら夜も)勉強しなければなりませんので、ロムも充分に
出来ないかもしれません。
 ひとまず、お別れの挨拶を と思いましたが
 またすぐ戻ってくるかもしれません。

 わけのわからんツブヤキデシタ。

1646問答迷人:2005/06/04(土) 09:24:45

吉祥仙人さん

>来週より20年ぶりに再び学校に通う

羨ましいです。僕なんか、日夜仕事に追われてしまっています。夜学なんでしょうか、健康に留意されて、又、時々は書き込んでください。

1647小心者:2005/06/04(土) 21:31:32
1645 様 
 
勉強と言う、、隠れ蓑では、、??
 エエカゲンなボケ、、??、、は、、容赦はしませんゾ、、!!!!

1648ひたち:2005/06/04(土) 23:54:54
吉祥仙人さん

20年ぶりということは、私と同じくらいの御歳ですね。
私も20年前は学生部で活動しておりました。まとまって学ぶ機会があるというのは、すばらしいことです。ありきたりですが、この歳になると、つくづく学生時代にもっと勉強しておけばよかったと思うことしきりです。

1649藤川一郎:2005/06/08(水) 15:19:22
別スレで浅草寺について書きましたが、今年も8月27日に「浅草サンバカーニバル」が行われます。
なかなかセクシーなダンサーが踊りまくります。良かったらご覧下さい。

1650ラキ:2005/06/08(水) 19:39:07
神保町に蓮師関係の本を探しに行ったら、面白い物がたくさん見つかりました。
値段が高い・・・
内部資料の値段がないのも、数千円単位で売られているのは驚きでした。
戸田さんのレコード全集が24万て凄い〜と思いつつ、単品でも1万円もして。

1651藤川一郎:2005/06/09(木) 11:58:50
ここまで行ったら、最高ですね(爆)
「かわいいぬいぐるみが、あなたの大切な御守御本尊様をやさしく抱きかかえてくれます。
御守御本尊様での新入会の方にぴったり、ご入信の御祝にもどうぞ。」
「ぬいぐるみ付き学会版御守御本尊ケース」です。
http://www.sokei-net.com/bennri.htm

1652犀角独歩:2005/06/09(木) 13:11:33

藤川さん、このサイト、本気なんでしょうか。
学会から文句が来ない?というより、三色その他、商標使用料を支払・受取の関係が成り立っていると言うことですか。それとも学会の直営ですか。
これはひどい。

1653パンナコッタ:2005/06/09(木) 14:17:46
マスコットホルダーは当然女の子向けでしょうけど、もはや完全に蓮祖とは関係ないものですね。
携帯本尊をバックのアクセサリーにするとは、よく考えますねこんな事。
まあ、お値段が手頃なのは”中日友好”の賜なのでしょうけど。

1654ラキ:2005/06/09(木) 14:37:47
前から知っておりました。
仏壇の近代化?お洒落な仏壇はあきれましたがw
仏教とは言えない仏壇だと思ってしまいます。
近代化は良いとしても、伝統も重んじる事も必要ではと問いたいですね。
古風=古臭い
古風=伝統文化
文化をと言ってるわりには、伝統文化を破壊してる矛盾さ。
宗教法人ではなく、文化財団とかならいいのですが。

独歩さん。
学会公認のはずです。
現役学会員曰く「おしゃれでいいじゃん」とのコメント。
マスコットホルダーは、パンナコッタさんの指摘のように、女性受けしやすい、戦略です。
女性会員は「かわいくていい」このような感覚です。
違和感を唱える会員もいますが。

1655ラキ:2005/06/09(木) 14:58:28
学会御用立つ仏壇の一部です。
二番目のオリジナルは・・・

http://www.sokei-net.com/index.htm

http://www.cypress.ne.jp/hozumi/

http://www.taisyodo.com/taisyodo77.htm
女性向けグッツ(^^;
http://www.akazawachoyo.co.jp/index2.html

1656愚鈍凡夫:2005/06/09(木) 15:06:06

御守り本尊用キーホルダーに池田さんのフィギアを付けて売るって言うのはどうでしょうか。でも、少しキモイかも・・・・・。 (;゚゚)ウッ!

ひょっとしたら、創価学会員も買わないかも・・・・・ 。。。o(゚^ ゚)ウーン

1657犀角独歩:2005/06/09(木) 15:15:16

ラキさん、どうも。

現代的、おしゃれ、かわいいがいいんだったら、いっそのこと、漫荼羅も現代的におしゃれに可愛く作り直したらどうでしょうかね。ついでに題目も読経も古くさいからやめて、「宇宙生命に帰依します」とかいうのは朝晩唱えるなんてどうでしょうか。Hoto King Classicなんて、そんなのにピッタリですね。蓋を開けると七色のレーザービームが光ってろうそくの新型、煙幕が出てお線香の新型、ついでに円盤が飛び出るなんて心憎い仕掛けはないんでしょうか(大笑)

どんなにいじったって、中に入れる漫荼羅は、が現代的でもなく、おしゃれでもなく、かわいくもないんですから、ただ不釣り合いなだけ。笑いのタネを提供してくれているようなものですね。案外、悪趣味なんですね、創価学会は(笑)

1658犀角独歩:2005/06/09(木) 15:17:22

おや、愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。

1659ラキ:2005/06/09(木) 18:37:38
愚鈍凡夫さん。
>御守り本尊用キーホルダーに池田さんのフィギアを付けて売るって言うのはどうでしょうか。

確実な情報ではないのですが、蓋の部分に写真を貼ってる方がいるらしいです。(池田さんの)

破門前の学会員の家で、日顕さんの写真や池田さんの写真を大切に飾ってる家とかありました。

独歩さん。
宗教と言うより、若い世代はサークル活動みたいな感覚ではないかと感じます。
文化を大切にすると言っておいて、伝統文化を自ら破壊する行為をしてるのですから。
数珠のカラフルなことにはもう、キリスト教のロザリオを思い浮かべてしまうのは私だけかなとも感じます。
曼荼羅の表装は確かブルーだった記憶があります。
曼荼羅本体をさすがにいじるのは、会員の疑問を生じさせかねないから、やりたくても出来ないのが実情ではと私は考えております。
最終的には「一念信解」見たいですが、ことばは、ご本尊の力(功徳)を信じてるから、
仏壇(入れ物)がどんなに変っても、お洒落。カッコイイ。男女で表現は違いますが、
それ以上話す気もなくなった事があります。
灯明の代わりにミラーボールとか付けそうで怖いですがw

1660犀角独歩:2005/06/09(木) 18:46:28

なんだかラキさんのお話を聞いていると、創価学会はLGATみたいになってきたような気がしますね。

1661ラキ:2005/06/09(木) 19:22:04
念のために申し上げます。
学会全部の意見ではなくて、身近な人の一部意見なので。
壮年。婦人には話を聞いた事がないですが、
男子部。女子部の役職持ちか支部幹部以上の方の意見です。

素朴な疑問で御書のタイトルがと述べていましたが、過去スレッドがないか見ていて、
法華経のスレッドを拝見しましたが、私も「日蓮大聖人の仏法!南無妙法蓮華教が正しい」と言っていた時期があり
今考えると、本当に恥ずかしい思いです。(^^;

1662パンナコッタ:2005/06/09(木) 19:24:30
御存知かと思うのですが、学会の配布する通常タイプの寛師曼陀羅は緑色系で表装されておりません。
特別御形木は黄金色系で表装されています。
また、「下野国小薬邑 〜 日澄授与之」の添書が削損されています。

まあ、商売ですから意表をつく新製品は出し続けないとの考えがあるのは当然だと思いますが、
あきれて物を言う事が出来ない人のか多いでしょうね。

1663犀角独歩:2005/06/09(木) 20:03:58

パンナコッタさん

「表装」というか、1枚の紙に表装模様の印刷でしょう(笑)
あの軸心て何でできているんですか。プラスチックですか。
相変わらず、ラミネートしてあるんでしょうか。
すごい発想だと思いますね。

オウム真理教の上九一色村サティアンにあったシバ神の巨像が発泡スチロール製で、周囲を呆れさせたものでしたが、石油系、プラスチック系の加工は「御本尊」の素材として最低の粗悪品だと思いますが、それでも本部から頒布されるものだと、会員は満足できるものなんでしょうか。

漆器に見えたお椀がプラスチックでがっかりした経験がありますが、当初からラミネートされた本尊を有難がる神経というのは、わたしにはどうも頷けません。

石山本尊はあれでも、それなりに作ってありましたからね。
原価からすれば、10分の1以下、いやそれ以下でしょうね。
それをまたプラスチックモデルみたいな仏壇仏具で囲うわけですか。

理解できない不思議な感覚です。

1664パンナコッタ:2005/06/09(木) 20:19:30
軸棒は樹脂系だと思うのですがどうかな。
携帯本尊は、安い麻雀牌みたいなものですし、授与は代理人でOKという有難味が
ちっとも無いものですからマスコットやアクセサリーなどの考えが出てくるのでしょう。

1665ラキ:2005/06/09(木) 21:29:27
一番考えられるのは、板彫刻本尊ではないでしょうか?
(本体ブラスチックなら怖いですけど・汗)
法華講の方の板本尊を見て、学会版の出したら欲しがる方はいそうかなって?

>特別御形木は黄金色系で表装されています。
知り合いに確認したら、見た事はないそうです。
(半分寝てるからかもしれませんが?)

1666パンナコッタ:2005/06/09(木) 23:36:11
>黄金色系。すみません、ベージュ系というか、うすい緑がかった薄茶系みたいな感じです。

今日は放送大学のラジオで、木村清孝教授の「仏教の思想」なんてやっていましたので聞いてみました。
中国の新仏教の解説で、天台・法華、華厳、浄土、禅の説明でしたが、それぞれ中国に元からあった思想との
融合・摺り合わせがあってこその発展であるとのことでした。
やはり中国仏教の流れからの思想と漢訳教典の取り扱いについては、それなりの理解が必要なんだなと思いました。

1667通りすがり:2005/06/10(金) 00:12:35
>>1652
訪問販売法の表示がない時点で、いかがわしいと判断するのが賢明では
ないでしょうか。

1668愚鈍凡夫:2005/06/11(土) 09:25:48

いよいよ梅雨到来ですね。ジメジメカビカビの季節がやってまいりました。

>>1658:
犀角独歩さん、ご無沙汰しております。 <(_ _)>
創価漫荼羅もそのうちに、バーチャルリアリティってな感じで、3D映像が浮き出る「板漫荼羅もどき」なんて具合になると笑えるでしょうね。 (^▽^;)

1669犀角独歩:2005/06/11(土) 09:48:06

愚鈍凡夫さん、どうも。

以前、ある坊さんと話していたら、明治時代は寺院で「幻灯機」をかけて、大いに人が集まったなんて話をしていました。創価学会は当初はレコードで、次にシナノ企画の8ミリ映画、衛星放送。。顕正会もテープにビデオでDVD。こういったメディア戦略で成功したところが布教に成功してきたということでしょうか。

まあ、そうなると、次世代の目玉は、やはり三次元映像(3D)でしょうね。
さて、どんな感じになるでしょうか。
関係あるような無いような東京ではバーチャルリアリティ展が開催されます、産業用ですが(笑)
http://www.ivr.jp/

1671犀角独歩:2005/06/11(土) 23:39:36

わたしの摂折論観に異義を唱える方はいらっしゃらないのでしょうか。

1672大勇者:2005/06/12(日) 00:44:15
>>1650 ラキさん

神保町のお店の場所などをもう少し教えて頂けないでしょうか?
御願いします。

1673吉祥仙人:2005/06/12(日) 05:48:13
 拝見してますよ。と言うツブヤキ

 なかなか書き込むタイミングというのが、難しいですね。

1674ラキ:2005/06/12(日) 13:43:04
大勇者さん。
蓮師関係では「東陽堂書店」仏教関係では有名なお店です。
1650の学会系は「東陽堂書店」の右横のお店です。
店名は「玉英堂書店」だったと思いますが、袋に店名が入ってないので、
違っていたら、申しわけございません。
東陽堂の並びのお店は間違いないです。

神田古書店街HPからのMAPです。
http://www.book-kanda.or.jp/town/map/f3.htm
古書検索とかも出来て、便利です。

1675吉祥仙人:2005/06/13(月) 04:45:22
 「摂受と折伏について」を拝見いたしました。

 私なんぞが今まで書き込んだことを恥じ入る次第です。

1676ラキ:2005/06/13(月) 13:10:35
>執行海秀師の論文その他、わたしのHPを工事し、再アップしました。
ご参考に供してください。

独歩さん。ありがとうございます。
参考になりました。。。。と言うより、とても勉強になりました。
私の最近の疑問が、石山系教学の疑問にぶつかり、そのための参考にワザワザ
再UPしてくれたのだと、勝手に思い込んでいます。^^

1677犀角独歩:2005/06/13(月) 20:54:33

ラキ、ご高覧いただけたとのこと、作業した甲斐がありました。
該当の文書は、復刻の話があり、やや躊躇していたのですが、やはり、アップしておかない話が面倒なので、アップした次第です。
それにしても、執行師は、今から半世紀も前に斯様な論攷されていた。それを知らず、創価学会から、石山を経たわたしはまったく以て時間を無駄にした思いがあります。
そのようなことが繰り返されないよう、骨を折ったデータ化を敢えてアップした次第です。

1678ラキ:2005/06/13(月) 21:43:08
独歩さんの学会から石山の時間は無駄にはなってないと思います。
独歩さん自身には、貴重な時間の無駄だったかもしれませんが、
今現在の私や現役の方の参考になりますし、それを考えますと、
私が独歩さんの同じ道を歩み、時間の無駄をするのを早く気が付き、
私にとっては、時間の節約。そして、事実を知りたい気持ちがあるので、
そのための貴重な時間を頂けたと感謝しております。

私信の追伸。
前にお勧めくださった書籍、本日購入できました。^^
また、素朴な疑問が湯源するかも知れませんが、その時は、ご教授のほどよろしくお願い致します。

1679大勇者:2005/06/14(火) 08:31:55
>1674
ラキさん。 ありがとうございます。
参考なりました。

1680犀角独歩:2005/06/14(火) 11:55:24

ラキさん:

> 時間の節約

そうそう、それがわたしがもくろむ最大の理由です。わたしがした無駄、もっと言えば、日蓮門下全般がした時間と労力の無駄という被害が繰り返されないための捨て石となることが半世紀近く日蓮本仏・戒壇本尊絶対を語ってしまった自己責任の果たし方であると思い、日夜精進している次第です。

ですから、ラキさんのような存在こそ、わたしのしてきたことが報われる思いがする存在であるということです。

1681ラキ:2005/06/14(火) 20:32:35
図書館に織田仏教辞典(お陀仏・笑)を見に行ったら、難しい・・・(^^;
帰り道、古書店に寄ったらなんと!「図録 日蓮聖人の世界」が置いてあって、
購入しました。(●⌒∇⌒●)
パンフレット。入場割引券。チラシまで挟まっていて、得した気分です。
ただ、しおりも付いていたのですが、日本キリスト教会のしおりてのが、複雑な気分w

1682犀角独歩:2005/06/14(火) 21:03:21

> 日本キリスト教会のしおり

これ、けっこう、笑えました。

1683ラキ:2005/06/18(土) 00:06:37
法華経入門(岩波新書)を読んで。
とても読みやすく、判りやすい書籍で、感動してしまいました。^^
ふと、学会在籍当時の事が思い出されます。
法華経の本を買って、読んだけど判らない(^^;
地区リーダーが「俺も持ってないし凄い本買ったね」の言葉が思い出されました。
一番の驚きは、作者が創価大学の教授が何よりの驚きでした。(-ェ-o)ボソ

1684ラキ:2005/06/18(土) 03:08:07
日本の古書店
全国の加盟店の古書が検索できます。
「日蓮」で検索すると・・・3時間眺めていました。(^^;

http://www.kosho.or.jp/index.html

1685犀角独歩:2005/06/18(土) 08:44:09

> 1683

らきさん、それをいうなら岩本裕師が中公新書で『佛教入門』を書いた当時、創価大学名誉教授でしたよ。

わたしは創価大学に本格的、かつ国際的な仏教学部を創設すべきだと思っています。そして、有り余る学会マネーを大いに投資して、他の仏教系大学では到底できない資金を援助し、学者に研究させてほしいと念願しています。そうすれば、SGIだ、勲章だというより、人類知的財産と遺産に貢献することとなりますね。また、その研究が進めば、いま言っているような石山の残滓を引きずる教学からも、本尊からも、脱却していけるのではないでしょうか。もっとも、世俗化がさらに進み、プラスチックのおもちゃみたいな漫荼羅やらファンシーグッズみたいなケースもやめなければ、哄笑・嘲笑はやまないでしょうが。

1686犀角独歩:2005/06/18(土) 08:45:41

【1685の訂正】

誤)もっとも、世俗化がさらに進み、プラスチックのおもちゃみたいな漫荼羅やらファンシーグッズみたいなケースもやめなければ、哄笑・嘲笑はやまないでしょうが。
正)もっとも、世俗化がさらに進んではしようがないですね。プラスチックのおもちゃみたいな漫荼羅やらファンシーグッズみたいなケースもやめなければ、哄笑・嘲笑はやまないでしょうが。

1687ラキ:2005/06/20(月) 22:14:57
>1685
研究費用を出して「人類知的財産と遺産に貢献する」
切に願う気持ちです。

研究成果の発表も、学会系出版社で販売すれば、低価格でよい物が手に入る、こんな素晴らしい人類貢献はないかと感じます。

>岩本裕師が中公新書で『佛教入門』を書いた当時、創価大学名誉教授でしたよ。
興味深く拝読したいです。

1688乾闥婆:2005/06/23(木) 16:51:26
川蝉さんのお名前を見かけ、Niftyの仏教思想フォーラムのころのことを思い出しました。ハンドルネームを度忘れしてしまいましたが、当時シスオペをされていた方が辞められ、その後を受けたのが川蝉さんであったような気がします。もし私の勘違いであれば申し訳ございません。

創価学会の家庭に生まれ、そのことで悩み苦しんでいたころ、自身のそのような出自の根源である部分を相対化してゆく作業は、あのフォーラムに出入りしていたころから始まったのだな、と振り返り、懐かしさで、つぶやいてみました。

蓮祖のことを、信仰の要として固めてゆくのか、むしろその呪縛から逃れるために相対化してゆくのか、そういった姿勢の違いは、議論の進め方の違いや、解釈の違いを生んでいくように思います。この掲示板は後者の傾向にあるのだと思いますし、私もそのような傾向を求めているので、ここを訪れるのでしょう。正直、折伏という名の下に行われてきたことを現場に見てきて、その語の使用を擁護する気にはあまりなれません。だからといって恣意的に読み替えようというつもりも、もちろんございませんが。よい議論がなされるといい、とつぶやくばかりです。

1689れん:2005/06/26(日) 18:23:56
とりあえず、つぶやきです。
日蓮本宗本山京都要法寺には日蓮師の弟子日興師による「観心本尊抄」写本が現存するそうです。「日興上人全集」によると、書写奥書には「弘安四年太歳辛巳三月五日申時拝書写了 南無妙法蓮華経」とあるとのことです。この写本については要法寺僧侶富谷日震師が大崎学報二十八号に「本尊抄興本対照記」という論文を発表されているのですが、残念ながらまだ管見に入っておりません。しかし、ある記述によりますと興師写本「本尊抄」には「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士」の「為」の字の左方に「ナリテ」とルビがふられているそうです。昭和新定には「本門ノ釈尊ヲ脇士ト為ス」と読みますが、興師本によれば昭和定本の如く「本門ノ釈尊ノ脇士ト為(ナ)リテ」と読むのが正しいもののようです。この興師本は堀日亨師の著述によれば石山に伝承したのを要山に与えたとしています。ということは、興師本による限り、一尊四士の造立義が蓮師・興師にあったというのが、事実であったということになると思います。「日尊上人仰云」には「日興上人仰云、末法ハ濁乱也、三類強敵有之、爾者木像等ノ色相荘厳ノ仏ハ崇敬有憚、香華燈明ノ供養モ不可叶、広宣流布ノ時分マデ大曼陀羅ヲ可奉安置云々」とありますから、具体的には一尊四士の造立は本門寺(戒壇)において…というのが興師の義であり、上代の石山義でもあったと愚考します。しかし、有師以降日蓮本尊義が主流となり、不造像不読誦・曼陀羅本尊正意論が石山に定着した結果、彫刻本尊の造立がおこなわれ、また、興師本「本尊抄」が要山に行ったことによって、興師本「為脇士」のナリテの読みが忘れられ、日蓮本尊論から日蓮本仏論に進んだ結果、現在の昭和新定の読みが石山義として定着したものと考えます。以上ながながと失礼しました。

1690犀角独歩:2005/06/26(日) 18:51:29

れんさん、いつもながら、重要なご教示、有り難く拝読しました。

1691パンナコッタ:2005/06/28(火) 11:18:59

土日に此処では珍しく、大荒れになってしまいましたね。
正直常連さんも、ROM専の方々もみんな引いてしまっていますよ。
此処の掲示板はあくまでも富士系の思考性に疑問があり、それに対して冷静な対応・資料の提示
・論理的な思考が”味”で、それを良とするみなさんがカキコしているわけですから信仰体系を
持った方々とは論議が平行線になるのは仕方がないのでしょうけど、『前提にそれがある』ことを
踏まえての対応をお願いしたいものです。

1692川蝉:2005/06/29(水) 11:06:52

1688 番・乾闥婆 さんへ。
今日は。
今朝まで乾闥婆 さんの1688 番の投稿見過ごしておりました。
Niftyの仏教思想フォーラムに投稿していた川蝉です。
ブロバイダーを変えたので仏教思想フォーラムの閲覧投稿は中止しました。シスオペをしたことはありません。仏教思想フォーラムに参加されておられた乾闥婆 さんもでしたか。その後も熱心に求道のこと尊いことと思います。

>正直、折伏という名の下に行われてきたことを現場に見てきて、
>その語の使用を擁護する気にはあまりなれません。

昭和三十七五年ごろの創価学会の折伏を直接見聞していますので、皆様以上に、創価学会がやってきた折伏に対する嫌悪感は強いと思います。折伏と云うと直ぐに創価学会の折伏が重なって見えるし一般の人も創価学会の折伏と同一の事と誤解を受ける傾向が強いので、実の処は折伏と云う言葉の使用は控えています。
ただし私の理解では、日蓮聖人はご自分の強い諸宗批判は折伏の範疇に入る弘通方法せあると考えられていたことは確かと理解しているのです。
しつこくなるので冨士門流信徒掲示板での議論は止めておきますね。

1693パンナコッタ:2005/06/29(水) 22:16:28
摂受と折伏のスレで独歩さんと同一人物にされてしまいました。(^o^)
自分は摂受と折伏の議論はしたくない(ナンセンスだと思っている)ので、あそこのスレからは
身を引いたと書きましたが掲示板から居なくなるとは書いてませんよ。
疑心暗鬼になっている方も居られるようですが(土日荒れた事で)独歩さんと自分は別人ですよ。
むしろ自分の悪文投稿を独歩さんと同一視しているようでは、的はずれも良い所ですね。
クインや横溝正史の推理小説を読むことをおすすめします。

1694パンナコッタ:2005/06/30(木) 12:40:04
>567 に投稿した文中で、篠沢教授の名前が間違っておりました。
正しくは、篠沢秀夫教授 です。大変失礼しました。

実際に学習院で講義を受けたわけではないのでミスしてしまいましたが、
考えてみれば仏文学の大家なんですよね篠沢教授は。

1695乾闥婆:2005/06/30(木) 15:42:12
>>1692
川蝉さん。

>今朝まで乾闥婆 さんの1688 番の投稿見過ごしておりました。

ここは、つぶやきスレッドですから(笑)

>シスオペをしたことはありません。

それは申し訳ありませんでした。シスオペが辞められてからすぐに閉鎖されたように記憶しております。後半はごたごたしていて管理し切れていないような印象でした。あとを継いだのは青頸さんだったかもしれません。

>実の処は折伏と云う言葉の使用は控えています。

そうですね。言葉というものは力を持ちます。創価学会がいくら「仏法対話」と言ったところで、折伏という語の使用をやめなければ「折伏精神」とやらは継続して各会員の中に息づき、折に触れて激しい言動となって現われ出ます。折り伏す行為は、正確に創価学会員の継承するところなのかもしれません。そうであるので、折伏という語を蓮祖という根源において批判し正しく読みなおそうという姿勢は大事なのだと思います。

>ただし私の理解では、日蓮聖人はご自分の強い諸宗批判は折伏の範疇に入る弘通方法せあると考えられていたことは確かと理解しているのです。

ここで行われていることは非常に重要な一種の思考実験であるのだと思っています。犀角独歩さんや顕正居士さんの提示される事実を完全に否定することができないのであれば、それはひとつの読み方として認めうるということです。その読み方が伝統的な蓮祖理解と違ったとしても、そのような読み方のありうることは受け入れなければなりません。伝統的な宗学という範疇における蓮祖受容はひとつの価値判断であると思っています。それを全否定する必要はないでしょう。しかし事実判断の中にその価値判断を持ち込むことは不可であると考えます。それはそれ、これはこれ、です。

さらに遡れば、そもそもゴータマ・ブッダは法華経を説かなかったのですし、日本の仏教は仏教であるのか、とさえ言えるのでしょう。蓮祖、その人、に遡り、その一点において事実を見極めようとする思考形態は、その後の蓮祖受容を相対化することでしょう。ゴータマ・ブッタ自体に遡ってしまえば、大きな意味での「仏教」が相対化されるように。伝統を全否定する必要はなくとも、そのような視点はつねに意識しておかなければいけないと考えています。Niftyでの仏教思想フォーラムで、現代思想フォーラムから来ていた人たちとの間で行われていたことは、そのような立場の相違が底辺にあったと思っています。

1696慎之輔:2005/07/01(金) 09:34:11
乾闥婆さん
たいへん参考になるご意見ありがとうございました。m(__)m

1697一寸法師:2005/07/04(月) 02:53:06
つまり、久遠本仏という哲学的理解が出来ないから、ゴータマ・ブッダは法華経を説いていないと言うことに引っ掛かるの訳でしょ。法華経がブッダ入滅後、500年を経て成立していることぐらい誰でも知っているのに、そんなこといつまでの言っているのは、やっぱり仏教界では哲学的素養のある方の人材不足なのかなあ。

1698犀角独歩:2005/07/04(月) 08:03:27

>1697

こんなことは、100年前から言われているのであって、一神教化は原理主義と暴力に走るからやめようというのが、戦後の議論の訳です。

1699小心者:2005/07/06(水) 21:04:52
、、つぶやきです、、。
 この各スレッドでは、確かに御参考には、、相成りますです、、。 ただ一点は、、???、、 日蓮さまも、申していた、、、「、即成仏身、、!!」への???、などは、、???、、でしょうか、、?? 
今は、、何を、、拝し、、??、、何を、、行じれば、==成仏への一本道でしょうか、、?? イワユル能書きが多すぎまして、??、根本が不明、??、、のようですが、、??

1700れん:2005/07/08(金) 20:14:25
つぶやきです。
摂折議論において、他の蓮師門下の方のご意見を拝見して思うことは、摂折議論に限らずであるけれども、蓮師を神聖視し絶対視するあまり、蓮師の古代中世的思想をストレートに現代に持ち込んでしまっているということですね。平雅行氏は「日本中世の社会と仏教」において「生産活動は自然に対する人間の働きかけであるが、働きかけるべき自然は古代や中世にあっては単なる即物的自然ではない。古代中世社会の生産力水準にあっては自然への従属度がきわめて高く、生産活動は自然の変動に左右されやすい脆弱性を帯びていた。そのため人間の生産活動は自然に対する働きかけであると同時に自然の威力を体現する神仏への働きかけでもある、という二重性を孕まざるを得ない。つまり神仏への祈りは生産活動の不可欠な一環をなしていたのである(中略)換言すれば古代中世にあっては生産活動と宗教が未分離であり、経済と宗教が未分離であったのである。そして経済と宗教の未分離は、政治・芸能・文学をはじめとする様々な領域と宗教との未分離をもたらす(中略)このように古代中世の宗教はそれ自体として全体性を有していたが、近世・近代社会における技術の自立化は人間の生産活動を自然への従属から一定度解き放ち、経済と宗教の分離が果たされてゆく。このことは政治・法・芸能をはじめとする諸領域と宗教との分離をもたらし、信教の自由が付与されてゆくことになる。こうして宗教が政治・経済をはじめとする諸領域から分離・排除された結果、近代宗教は宗教一般がかつて有していたような全体性を喪失し、内面的実存的な領域に極限されていったのである」と述べておられます。これが現実の歴史的流れでもありますが、近代文明の発達にともない宗教が全体性を喪失した現代において、前近代・古代中世思想に属する蓮師の思想を安易に現代に持ち込んで正義だと主張することは時代錯誤にはなりはしないかと危惧してしまいます。21世紀に生きる我々は、蓮師から何を学ぶべきか、それを問うためにまず、真蹟現存遺文から、蓮師の思想を素描する作業をし、その上で、蓮師の思想の中で学ぶべきは学び、捨てるべきものは捨てるという勇気が必要だと思う。その点、「21世紀の日蓮」を考察されている犀角独歩さんのさらなるご活躍を期待するものです。以上長々なつぶやきで失礼しました。m(__)m

1701犀角独歩:2005/07/10(日) 00:17:33

れんさん、非常に興味深い論攷のご紹介有り難うございます。
また、エール、深く感謝申し上げます。

1702一寸法師:2005/07/11(月) 01:32:16
> 蓮師を神聖視し絶対視するあまり、蓮師の古代中世的思想をストレートに現代に持ち込んでしまっている
> 前近代・古代中世思想に属する蓮師の思想を安易に現代に持ち込んで正義だと主張することは時代錯誤にはなりはしないかと危惧してしまいます

とは、具体的にはどうような内容でしょうか。創価学会や富士系のような折伏は、日蓮聖人の思想には本来ありませんし、他宗からは非難されているようですが・・・。つぶやき

1703犀角独歩:2005/07/11(月) 08:20:54

戦前の日蓮門下について、わたしはもっと反省されて然るべきであろうと思います。

世界最終戦争、天皇本尊論に基づく、アジア侵略で日蓮折伏が果たしてしまった悪をもっと反省されなければならないと考えます。

戦後、創価学会の折伏大行進、また現在の顕正会の折伏は、中世以降醸造された折伏の意味を変えたものであったのであれば、その点は闡明にされるべきでしょう。しかし、学会も顕正会も侵略戦争に荷担したわけではありません。大木師は日蓮正宗の戦争責任を書きました。では、日蓮門下全般に戦争責任はなかったのかという問いは可能でしょう。わたしは大いにありと考えます。そのような責任を負うものが、その反省もなく、単に学会、顕正会を批判することは、まったくの無反省であると批判されて然るべきです。人のことより、まず、自分の反省が先決です。

1704犀角独歩:2005/07/11(月) 09:45:48

わたしは、勝った・負けたなど、まるで興味がありません。
事実は何か、興味はそれだけです。
事実と違うことを自分が信じていたことに気付けば、訂正して、また、前に進むだけです。ただ、そのときに自分が事実にあらざることを人に語ったことがあれば、その点は率直に反省もし、謝罪もします。潔くありたいと思っています。

人権侵害には断固甘んじません。
その権利を侵すものとは徹底的に戦います。
自分の人権は自分で守ります。いささかの妥協もしません。

善侶は尊敬します。しかし、悪侶・虚偽伝導の組織と指導者(僧俗を問わず)は糾弾します。妥協しません。そのような者の前では、一歩も引きません。

1705犀角独歩:2005/07/13(水) 09:00:17

○かつて、わたしが信じていたこと、わたしがいう「21世紀の日蓮」とは

01.「池田先生」は、世界最高の指導者である。
02.「南無妙法蓮華經」とは生命を表し、宇宙の透徹した真理である
03.「御法主上人猊下」は「唯授一人血脈相承」を継承している
04.日蓮「大聖人」は「久遠元初自受用報身如来」であり、「御本仏」である
05.「本門戒壇の大御本尊」は日蓮「大聖人」の「出世の本懐」である
06.「本門戒壇の大御本尊」は「人(日蓮大聖人)即法(本門戒壇の大御本尊)」である
07.大石寺は蓮興目道…と「唯授一人相伝」の唯一正統な寺院である
08.大石寺「御法主上人猊下」の弟子である僧侶のみが正統な僧侶である
09.「御本尊様」は大石寺「御法主上人猊下」のみが書写の権能を有する
10.大石寺授与の「本門戒壇の大御本尊」を書写した「御本尊」以外に功徳がない
11.「日蓮大聖人御書全集」に掲載される「御書」はすべて日蓮「大聖人」の真筆である
12.天台「大師」、妙楽「大師」、伝教「大師」は最高の法華経解釈者である
13.羅什三蔵は最高の漢訳者である
14.法華経は釈迦「牟尼仏」の究極の教えである
15.一切の仏典は釈迦「牟尼仏」の教えを文字にしたものである

ざっと挙げれば、こんなところでしょうか。「」で括った用語は、いわゆる専門用語で一般社会では通用しない言葉です。敢えて括ってみましたが、日蓮門下の信仰がこのような特殊用語にどのように反応するかという条件反射によって訓練された思念によって決定付けられていることがわかります。

01は創価学会のみで通用するところ。
02は石山僧俗でも信じている人はあること。
03〜10までは石山僧俗のみで信じられていること。
11は最近まで日蓮門下大半で信じられていたこと。
12〜14は法華宗(天台法華宗、日蓮法華宗)で信じられていること。
15は仏教徒の間でつい最近まで信じられていたこと。

世界の総人口は60億人。残念ながら、池田さんはわずか数百万人(1000万人としても1.6%が指示する指導者で世界最高とは言い難い。60億人のほとんどの人は池田さんの名前すら知らない)、石山住職は問題外。

南無妙法蓮華經が生命などという教えは日蓮の教えにはない。
大石寺が言う唯授一人血脈相承を証明できる証拠はない。
日蓮本仏論は、恵心流口伝法門「止観勝法華劣」「天台勝釈迦劣」を「御書勝止観法華劣」「日蓮勝釈迦劣」と焼き直した中世の捏造であることは、ほぼはっきりした。

1706犀角独歩:2005/07/13(水) 09:00:49

―1705からつづく―

いまの彫刻本尊は禅師授与漫荼羅を臨模・作為した模造品であることは明確になった。よって、それが人即法の訳もなく、彫刻を宗祖を見なす器物崇拝は高橋紳吾師の言を借りれば「象徴(シンボル)の病」に過ぎない。そのようなものを祀る寺院が正統なわけはない。また、そのような事実を隠匿して、信者を騙し、隷属搾取する形ばかりの僧が正統であるわけもない。

「御本尊様」といわれる漫荼羅書写が大石寺住職限定権限の証拠は何もなく、元より模造品である彫刻本尊を、名ばかりの書写(書かれている内容が彫刻と石山住職が書いたものでは違っている)したものに功徳があるとの思いは個人的リアリティを超えない。功徳は、宗教の数だけあり、罰も宗教の数だけある。つまり、その功罪は、実は各人の潜在能力にあり、特定宗教・指導者・教えにあるわけではなかった。

「御書」は、その大半が真偽未決であり、疑偽濃厚であり、それを直ちに日蓮の教えとするのは誠実な姿勢とは言えない。

では、真跡である日蓮の教えに間違いがないのかということが問題になる。日蓮の教えを支えるのは天台六大部その他の釈で、その釈は仏典という釈尊が説いた‘される’文書が真実であり、漢訳されたものが正確無比であるという前提によって成り立っている。

では、この前提が事実かと問われたとき、残念ながら、それを証明できるものはなく、むしろ、後世の創作であることは明らか。また、羅什の漢訳は奔放で作為的であることは近代の梵本研究で明らかになってきた。

このような釈尊が説いたわけでもない経典を釈尊が説いたものとし、さらに意訳を含む漢訳を元に釈されたものは正確であるとは言い難い。法華経に至っては西暦前100年から西暦後300年頃までに段階的な創作されたものであり、これが釈尊究極の教えであるなどということはもはや虚偽の範疇を出ない。

以上、自分が信じてきたところを総括した結果です。

さて、ここでどうするか。特定信念体系下でいまも言われ、教えられていることに疑いを懐くのは謗法であり、悪である。故にそのような自分の惰弱な信仰に鞭打ち、組織・指導者によって教えられるところを無疑曰信、以信得入の教えに従って自他共に折伏すればよいのか。こんなことを惰弱な信仰しかない自分は獅子身中の虫であるから、もっと信行学に励み、組織・指導者の言うとおり進めばよいのか。そう考えた時期はもちろんありました。

しかし、そんな選択は、事実の前には、ただ虚しいだけです。それまで、永年に亘り、人生の大半を賭けてきたことを否定する真実。その事実を受け入れることは、たしかに苦痛が伴いました。

上記挙げた15の事実に有らざるところを、では、受け入れて、それで何が残るのか、残るものが有るか無いか。有るとすれば、それは何か。また、それしか、事実で動く実社会では説得力を持ち得ないと言う事実もまた受け入れ、何があるのか、それを考えてみようと言うのがわたしがいう「21世紀の日蓮」ということです。

…長くなりましたが、つぶやきです。

1707犀角独歩:2005/07/13(水) 11:06:07

【1705の訂正】

誤)世界の人口60億人…学会員数(1000万人として)1.6%
正)世界の人口63億9003万人(国連人口部)…学会員数(1000万人として)0.156%

1708藤川一郎:2005/07/13(水) 11:33:19
>>1703
>>世界最終戦争、天皇本尊論に基づく、アジア侵略で日蓮折伏が果たしてしまった悪をもっと反省されなければならないと考えます。

「アジア侵略で日蓮折伏が果たしてしまった悪」と言うのは大東亜戦争侵略戦争論が前提になっていませんでしょうか?
(もちろん天皇本尊論、国旗本尊同格論等はもちろん無理な論理ですが。)
しかしながら、私のような「大東亜戦争正義論」の立場から言えば、アジアでの戦争が「アジア各国の植民地解放→独立」につながったと言う功績が強くもあります。
日蓮主義の是非はともかく、その面から言えば、功績がありますよね。

ちなみにもし大石寺が戦争に協力したというのなら、日本皇民として当然のことであり、マルクス史観(自虐史観)が崩れた現在、もっと誇っても良いと考えております(やばい、攻撃を受けそうな投稿になってしまった)。

1709きゃからばあ:2005/07/13(水) 12:24:31

あらゆる戒律を破るよりも法華経を謗るほうが罪が重く、そのために無間地獄に堕ちるなら、初めから法華経はいらない。
あらゆる本尊を謗るよりも板漫荼羅を謗るほうが罪が重く、そのために無間地獄に堕ちるなら、初めから板漫荼羅もいらない。
結局、どちらも無間地獄に堕ちるためのものだったのか?
本当に法華経とは何だったのだろうか?

以下、現時点の私のつぶやき。
本当は宗教の神秘的な産物ではなく、もっと身近な道徳や哲学的なものであり、あらゆる不平等を排除し、因果律によって悪心を除き、世界全体の秩序と平等を築くためのものではないのでしょうか。
その全体の平等や因果律を無視すると罰(結果)として亡国(地獄)になることを教えているのではないのでしょうか。
一日も早く、すべての国土の上に掲げられる、政治も経済も平等でかつ生命を尊重する国際法が確立して欲しい。
それが法華経の意(こころ)のような気がいたします。
そしてその意の象徴が漫荼羅であり、個々の人々のその意が本尊ではないのでしょうか。
未来に相承しなけらばならないのは、その法華経(平等と因果による安国)の精神です。
そして全知全能のような神秘的なものは、衆生を惑わす悪(犯罪)なのです。

1710犀角独歩:2005/07/13(水) 13:01:17

> 攻撃を受けそうな投稿

藤川さんに攻撃するほど、無謀じゃありませんよ、だいたいつぶやきですから(笑)
まあ、当然、コメントも戻ってくるだろうとも予想していました。

ご承知のとおり、わたしは、左右どっちだと聞かれれば、どちらかといえば右、右系左派という言い方が成り立てば、そんな口です。天皇を否定しているわけでもありません。

また、善か悪かといった二極論でいっているわけではなく、何事と善いところも有れば、悪いところもある。善いところは伸ばせばいいし、悪いところは直せばいい。

だから、たとえば、敗戦後の占領軍を支配したのは国辱であったけれど、日本人の人権と思想の自由を保障した点はよかった。じゃあ、どっちがよかったという議論はナンセンスだと思うわけです。敗戦になるようなことはしなければよかったわけで、では占領軍が与えた自由は、結局のところ、旧き佳き日本の心は殺したという一面もあります。じゃあ、かつての日本の心は100%正しいのかといえば、100%云々することではない…、と、まあ、こんな具合になってきますね。

ですから、「戦前の伝統教団はちっとも悪くない、悪いのは戦後の創価学会と顕正会だ」と言えば、「ちょっと、待った。あなた方の集団と戦前の教えは本当にそんなご大層なものなのか、反省するところはないのか」と突っつかざるを得ないと言う話です。何故か。反省というものがまったく見られないからです。反省無きところに進歩はない、反省無き者は過去の誤った歴史を繰り返します。そんなものに巻き込まれるのは御免だということです。

無反省・無自覚の日蓮もどきの跋扈に一言ということです。
生きた化石みたいな日蓮論など冗談じゃない、「もっと反省しろ」ということです。

1711パンナコッタ:2005/07/13(水) 13:42:19
画一的な物の見方(黒か白・善と悪)で、全てを判断するような単純な思考に陥っていると
結局何も解っていないのに、対立する意見に対し憎悪感情を抱く結果になってしまうのでしょう。

杉並の日蓮宗・蓮光寺にネタジの遺骨があります。(墓ではありません)
 http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/chandra_bose.html

マハトマ・ガンジーの名は誰でも知っていますが戦史を研究している方でもなければボーズの名は
知らないでしょう。しかし、彼の取った行動、何故ネタジなのか、遺骨が日本にある意味等を考えれば
一筋縄で物事は図れないという、複雑さの一片が垣間見られると思います。

1712犀角独歩:2005/07/13(水) 14:13:56

きゃからばあさんの「一神教」批判、わたしも同感です。

パンナコッタさんご紹介のサイト、面白いものでした。
大国ロシアを圧した唯一のアジアの列強国日本は、ロシア侵略からアジアを救った…、藤川さんが肯定する内容と軌を一にする記述は目が引かれ、30分の名演説で、上流夫人が身に付けた宝石類を貢がせたといっ件は、文が生き生きとしていますね。英雄不死伝説願望という側面も「なるほど」と思った次第です。ご投稿の趣旨とは違うところで感心したようなレスで恐縮ですが。

1713藤川一郎:2005/07/13(水) 16:08:48
たまには関係ないつぶやき。
今年も5月に三社祭が行われたんですが、そもそも「三社」って何?
浅草の人ですら余り知りません。

今から1370年程前、隅田川の漁師、檜前浜成・竹成の二兄弟が網の中に入った一像を持ち帰りまして、識者であった土師真仲知に見て貰った所、土師は尊い聖観音像であるとし、自邸に堂舎を構えて寺とした。これが浅草寺の起源であり、その後、天台座主によって中興されました。

さて、後世「檜前浜成・檜前竹成・土師真仲知」の三人が浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ祭祠されるようになったのですが、その後、神仏分離令により明治6年三社権現の名称は廃され、浅草神社となりました。このように明治以前は寺院とその境内地に垂しゃく堂があるのが当然でありました。神仏分離により本来境内地にあった垂しゃく堂が神社として別になっているのは、日本の伝統としてはかなり不自然なんだと思います。

1714通行人:2005/07/13(水) 23:10:23
ボーズじゃなくて、ボースです。しゃれですか。そんなに日本にとって、尊敬に値する人物なんすか?
「日蓮正宗は先の大戦で日本皇民として積極的に戦争に協力しました。中国、朝鮮半島の人々は、この日本と日蓮正宗の活躍を心から喜んでいました」って、『大日蓮』の表紙に常に書くといいですね。
つぶやきですよ、つぶやき。

1715犀角独歩:2005/07/14(木) 11:24:03

> 1714

ここは、つぶやきですから、こんなふうな突っ込み方は、止めたほうがよろしいでしょう。

1716パンナコッタ:2005/07/14(木) 12:20:17
>1171 おっと、これじゃスピーカーのメーカーだな。失敬。
尊敬するかどうかは、個人の価値観でいいんじゃないの。

1717パンナコッタ:2005/07/14(木) 13:42:30
>1711だ。 すんませんね。

1718小心者:2005/07/15(金) 20:50:11
、、、ゴメン下さい。
 総合ログにも「成仏、、?」の項目が不在、、。 速成就佛身、、と御座いますが、ドーモこの一件が欠落のようでしょうか、?? 仏とは、??? ナゼ、、大切か、その獲得の手段は、、??? 原点かと、、?? 存じますが、??

1719ラキ:2005/07/15(金) 23:29:08
つぶやきですよ〜
石山宗務院に「三転読授」の質問をしたら、所属寺院で教学的な事は聞いてくださいて・・・
不親切すぎませんか?
所属寺院で聞いても納得できないから電話したのに・・・
「十にょうぜいを3回繰り返して読んでるでしょ。それが三転読授ですよ」て。
ついでに、学生の小僧さんがどうしゅの勤行のとき、高速読授&1分題目て惰性で勤行してるようで、
質問しようと思ったのに。
お水をお供えして下げるとき、容器を乱雑に扱ってるから、戻すとき、音がガシャガシャて聞こえるんですけど〜
と、富士学林にでも問い合わせしてみようかな?(^^;

1720空即是進化:2005/07/16(土) 00:54:49
独歩さん、がんばれ!
>1705,1706
『上記挙げた15の事実に有らざるところを、では、受け入れて、それで何が
 残るのか、残るものが有るか無いか。有るとすれば、それは何か。また、
 それしか、事実で動く実社会では説得力を持ち得ないと言う事実もまた受
 け入れ、何があるのか、それを考えてみようと言うのがわたしがいう
 「21世紀の日蓮」ということです。』

 それが知りたいのです。
 本仏論も摂折論も、もはや関心が持てなくなっております。
 旧約聖書のモーゼ5書も、モーゼ1人の作でなく、最低4人以上の人間が
それぞれ自分の都合で書いたものを、後で合体させて造ったらしい。
 古今東西、人間がやることはいっしょ。

 皆さんの更なる(未来に向けた)見識をご披露ください。

1721顕正居士:2005/07/16(土) 06:59:06
ここは「つぶやきすれっど」なので1700 1705 1706 1709 1718 1720などの内容について意見を交換するスレッド
を作ってはどうでしょうか?「現代人が納得できる日蓮教学」とか。

わが国の仏教の「現代」はいつ始まるのか?飲光慈雲が悉曇学を復興し、富永謙斎が経典成立史を解明した
18世紀だろうとおもいます。この時点では睡眠中の仏徒は未だ覚醒せず明治の廃仏に至った。ようやく各宗は
欧州へ留学生を送って、現代仏教学が誕生した。以後、わが国の仏学の発達はめざましい。だが各宗の先哲、
さまざまに改革の努力をしたけれども、ついに葬式仏教から脱化しなかった。現代仏教学の知見は薄弱にしか
普及せず、伝統宗学の学習すら衰退した。そこで人民の宗教需要はほとんどが新興宗教に吸収されていった。

結局、わが国の仏教は今は整然、3種類に分かれるに至った。学問仏教、葬式仏教、仏教系新興宗教である。
伝統宗学も学問仏教に属する。いつの時代でも高等な学問は少数学僧のことで、在家信者の多数は基礎的な
宗学も知らなかったといえばそうであろう。問題は間を繋ぐ一般僧侶の教養である。かつて日蓮宗諸派の壇林
では能化に至るのには20年ほどかかった。天台の六大部を隅々まで学習するのにはそれくらい必要であった。
今日では僧侶と在家信者の教養には大差がないから、仏教学者、宗学者たちは直接に在家信者を対象にした
著作をよく出すようになった。葬式仏教、新興宗教に満足しない読者は増加しているようである。読書仏教の
隆盛である。わが国の仏教が結果的に当たり前のところに到着したのだといえる。現代仏教学の見識の上に
立った仏学書を手引きにして、次には自ら仏典を読む、それが在家仏教徒の基本である。中国、台湾の仏教
はまったくこういうあり方である。漢文がわれわれよりも楽に読めるからであるが、仏教学が発達した日本では
サンスクリット語、パーリ語からの現代日本語訳経典も溢れており、仏教を学ぶにはわが国が最高の環境です。

1722犀角独歩:2005/07/16(土) 10:31:33

空即是進化さん、エール、有り難うございます。
また、お会いいたしたいと思います。

1725藤川一郎:2005/07/16(土) 17:44:06
>>1719
ラキさんへ
一応横レスしますが、宗務院に教学的な事を直に聞いても意味がありません。
そもそも、宗務院が教学的な質問に答えることがあるとすれば、それ自体が筋違いです。
宗務院は宗務行政の機関に過ぎません。ましてや化儀に関しては末寺の裁量で微妙に違う事もありますから、余計な返答をすれば、逆に宗務院が指導教師の権限を侵害したことになるのですから、答えることが出来ないのです。
よく法華講の方は近代的な用法で「所属寺院」と申しますが、古い信徒は「寺籍」と申す方が多いです。また指導教師では無く「引導師範」(貫首)などと言われる方もおります。
寺籍の引導教師が全てを裁量する。その解釈がそれぞれ微妙に違う事もある。
ですから下手な返答は出来ないのです。その寺でどのような指導をしているか宗務院には分かりませんから・・・!

1726ラキ:2005/07/16(土) 18:43:11
藤川一郎さんへ。
宗務院に直に回答をもらいました。
当たり障りがない回答で、こんなものかと微妙に納得してお終いです。(^^;

1727パンナコッタ:2005/07/23(土) 12:54:26
放送大学の「仏教の思想」というラジオの講座が先日終わりました。(放送大学は45分授業なんですね。知らなかった)自分は全部聞いたわけでは無く
半分ぐらいでしたが、それでも歴史を通して様々に変化・発展していった仏教をその”思想”で捉えるという方法は自分にとっては新鮮でした。しかし、
史学的に見てみればごく普通の事でしょうし、当たり前の事なのかもしれません。
これは「自分が正しい仏教の教団に所属している」という考え方をずっと刷り込まれていたからなのでしょうね。

あらためて基礎的なインド・史学(講義では現在は衰退しているとの事)があってこそ、これからの仏教であると実感した次第です。

ちなみに現在の日本仏教の問題点を、
 ・宗派制
 ・シンクレティズム
 ・本覚思想 
   と指摘していました。

1728犀角独歩:2005/07/23(土) 19:00:05

富士門流というのが、日興を派祖としてはじまり、保田(小泉)の日郷、西山日代、石山の日目、上行院の日尊その他孫弟子に端緒を見る門派一般を指すとすれば、現在、その末流がやっていることを、日興の確実な資料と照らすとき、その末流の主張は、日興と異なることははっきりとしています。

となれば、流ればかりは日興を祖とするものの、その内容たるや、上古の日興に比すれば、新興宗教と何ら変わるところはなく、五十歩百歩の相違でしょう。

また、日蓮の本意は「本弟子六人」にあり、そこに偏頗はありません。ならば、一人日興を採って、他を捨てることは、そもそも日蓮の本意に悖ることになります。

ここ富士門流信徒の掲示板とは、そのような偏狭な独善を越え、日興から日蓮を戻ることを希求した人々の集まりであったと存じます。また、かつて話し合ったことであったと思いますが、日蓮が定める「本弟子六人」の遺言を遵守するとは、それぞれが門派意識を反省し、日蓮門会一丸となって、大道を進むことを意味するはずです。

しかしそれが、現在考えられている富士門、殊に、日蓮本仏、彫刻本尊を主張する信仰ばかりが富士門流であるなどとし、それ以外を批判するような態度は、源を弁えず、自身、新興宗教、改竄教学の徒である事実を確認できない愚論であると、わたしは、呟いておきます。

以下、参考までに

興門教学の思想的展開の一考察
教学の本質を中心として
執行海秀
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_001.html

1729顕正居士:2005/07/23(土) 23:56:09
門派、学派、包括法人

この掲示板は大石寺派とそれから出た新興教団の間の抗争などにより、日蓮宗富士派の宗学、宗史について
ますます誤解や混乱が増幅しているので、これを幾らかは是正できないものかという考えからはじまったように
記憶しています。そこで門派、学派、包括法人ということを理解する必要があります。

日蓮宗分派図 http://bukkyo.rissho.jp/inform/shugaku/shu_0141.htm

日蓮宗富士派は富士日興の門流であり、八本山があります。北山本門寺、 小泉久遠寺、 大石寺、 下条妙蓮寺、
西山本門寺(以上、富士五山)、柳瀬実成寺、 京都要法寺、 保田妙本寺です。包括法人とは日蓮宗、日蓮正宗
など各寺院が所属する法人です。包括法人としての日蓮宗をいう際には、「単称日蓮宗」ということがあります。
北山本門寺、 小泉久遠寺、柳瀬実成寺は単称日蓮宗に所属、大石寺、 下条妙蓮寺は日蓮正宗に所属、他3寺
は単立本山です。他に単立寺院の非法人の連盟の正信会があります。なお創価学会、顕正会は大石寺の系統
から出た新興教団です。

学派というのは、学問の師資は門派の師資より優先するので、壇林時代になりますと学派が形成されます。
今日では充洽園学派より起った立正大学が日蓮宗で唯一の学派ですが、別に国立大学の印度哲学系統の
学脈が存在します。

1730小心者:2005/07/24(日) 00:42:09
、、あくまで、、一言のツブヤキです、、。 ここにも、、庶民の願望、、===速成就、、仏身、、===成仏、、への問題は全く論外視されている論法には、、人生の生き様、、への無責任、、、無関心、、はたまた、、着いて来い、、という、、??、、傲慢さスラ視野になりましょうか、、???

1732犀角独歩:2005/07/24(日) 09:28:21

1729 顕正居士さん、補完有り難うございます。

「充洽園」とは優那陀日輝に始まるところでしたか。
立正安国論をさて置き、さらに現代摂受で、出発が立正大学と読めますでしょうか。

1733パンナコッタ:2005/07/24(日) 11:00:00
ここでの受け答えは良くないのですが、小心者さんが怒っているようなのでとりあえず、
「即身成仏事」といわれている弘安三年七月二日の『大田女房殿御返事』が蓮祖の考え
であると思われます。(真蹟二十一紙完 中山法華経寺蔵)

1734顕正居士:2005/07/24(日) 11:08:31
>>1732

舜統真迢が宗外に出てこの宗の学行の弊害を指摘したのに対して、草山日政は宗内にとどまり弊害を刷新
しょうとした。その草山の教風を慕ったのが本妙日臨で、優陀那日輝は壇林を去って彼を訪ねた。門派でも
壇林でもない革新教学を創始した日輝の許には学徒が参集して充洽園学派を形成した。その資、新居日薩
が日蓮宗の初代管長に就任し、品川区大崎の日蓮宗大学林が今日の立正大学になった。大崎学派という。
以後、大石寺派(日蓮正宗)であろうが、妙満寺派(顕本法華宗)であろうが、日蓮宗学を専攻するのはこの
大学であるから、学派としてはすでに統合されているわけです。

新居日薩和上 http://www.t3.rim.or.jp/~nichiren/hoke/hoke15.html

1735犀角独歩:2005/07/24(日) 13:34:38

1734 顕正居士さん

有り難うございました。

1736パンナコッタ:2005/07/24(日) 13:39:30
>>1733
 失礼、『大田殿女房御返事』ですね。_(._.)_

1737パンナコッタ:2005/07/28(木) 21:59:44
週刊誌ネタなのですが、創価学会の全国男子部長が女性問題で解任されたとの記事があり、
他の掲示板の一部では盛り上がっているみたいですね。まあ、どうでもいいことなのですが
恐らく組織内では”動じるな”との引き締めは、やるでしょう。しかし、末端をいくら締め付けても
エリート幹部の不祥事は直接関係ありませんし、今後もこの手の問題は出てくるでしょうね。

なんだか、巨大教団が蔑んで見ている小乗律こそが「あなた達には必要ではないのか」と思ってしまいますね。

1738犀角独歩:2005/07/28(木) 22:19:15

つぶやきですが、1737に賛同します。

1739愚鈍凡夫:2005/07/30(土) 19:06:13

ご無沙汰しております。
もしかして、パンナコッタさんが仰ってるのは、この御仁のことでしょうか?

池田名誉会長が「ケダモノ!」と激怒した 超エリート幹部の「ハレンチ解任劇」
http://wave2005.hp.infoseek.co.jp/kyouki/050729.htm

組織が大きいぶん、いろんな人間がいるんでしょうが、男女関係の問題って創価学会には多いですね。 ( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

河川は源に行けば行くほど澄んでいるものですが、人間の組織は、上へ行けば行くほど濁っていくものなのでしょうか。 ( ̄〜 ̄;) ウーン

1740青島:2005/07/30(土) 23:49:56
事件は現場で起きている!会議室じゃない!

1741パンナコッタ:2005/08/01(月) 13:50:46
お薦めスレの >266の蛇足的な部分は自分の勝手な主観で、決して茶化した訳ではではありませんのでご容赦ください。

1742パンナコッタ:2005/08/04(木) 13:47:12
『英雄を崇拝する人は、たとえ暴力によらなくても崇拝する対象の名誉が傷つけられたと感じるとひどく傷ついて激怒するものです。
そういったことが国家間の戦争の引き金になってきたことはよく知られています。

 英雄崇拝をする人が傷つきやすい理由は、英雄崇拝の心理を考えれば理解できるでしょう。劣等感や無力感を持つ人は、自分自身の
値打ちによって人から尊敬してもらえないと思うので、称賛に値するものや人と結びつくことによって、自分の存在意義を見いだそうとします。
 このような、自負心を持ちたいという欲求は非常に強いもので、からだが酸素を必要とするように精神にとってなくてはならないもの
かもしれません。したがって、英雄が侮辱されると、自分の存在意義がおびやかされたような気がするわけです。 

 英雄と自分を結びつけるのは、他にも目的があります。 完全な人間などいません。誰でも失敗します。それでもなお、全知全能の存在になりたい
という欲求がありますが、これはしょせん無理というものです。そこで完全なものだと思える何かと自分を結びつけることによって、
このハードルを越えようというわけです。その完全なものの一部になることによって、完全のおこぼれにあずかろうとするのです。
 崇拝の対象が神に近いと感じることで、完全なものへの欲求が満たされるので、崇拝の対象に欠点があると指摘されることは、
絶対にがまんがなりません』    A・J・ツワルスキー  スヌーピーたちの性格心理分析 より引用


荒し行為や常識外れの嫌がらせ的行為をする人たちは、上記の引用で「自分中心でまわりが見えない人」と指摘されています。

1743藤川一郎:2005/08/09(火) 14:20:55
8月9日は「北方領土の日」です。
本日あらためて、日ソ中立条約を見てみました。
第1条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキトヲ約ス
第2条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ
第3条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年の期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ 

本条約の締結は昭和16年4月13日です。
つまり昭和21年4月12日まではソ連は日本領に踏み込むことは許されてなかった。
それを一方的に廃棄したのに「国際法違反」については戦犯として裁かれていません。

1744犀角独歩:2005/08/09(火) 23:55:34

ここのところ、わたしに対する不満を書く方が増えています。
管理人さんには、ご迷惑をかけ、たいへんに申し訳なく思っています。

わたしの「うんざり」発言がいけなかった部分があるのでしょう。

しかし、おしなべて言えることは、わたしに対する不満・批判は、かつて、わたしが他者に対して、示した言論と感情と同じで、その意味で、言ってみたい気持ちはわかるし、わかるだけに今さら面倒くさいという意味もあります。まあ、わたしも通った道だという思いで同情はあります。付き合いたいのですが、あまり、付き合うと、管理人さんを煩わせてしまうという申し訳なさもあります。

通ってきた道は、「何だ、こんなふうになっていたのか」と、わたしならずとも誰でも気付けるものなんですが、所詮、団体や、指導者、そんなものに拘っていると、それより大きなものが見えないことになるので、前に進めなくなり、かったるい、ということになるわけです。

まあ、しかし、団体、指導者の代弁が宗教ではないとわかる人であれば、わたしが歩いた道は、あなたも、やがて通る小道です。先に歩いた人、わたしの話を聞いてみるのは一考だということです。あなたの気持ちはわかりますよ。なぜなら、わたしはもっと過激でしたから。もちろん、それは過去形ではなく、現在進行形です。

1750管理者:2005/08/10(水) 16:50:31

1745-1749

当事者からの申し出がありましたので、申し訳ありませんが削除させていただきます。

1751犀角独歩:2005/08/10(水) 22:25:39

皆さん、済みません。わたしのほうでお願いして、今回は削除していただきました。

1752犀角独歩:2005/08/12(金) 20:34:59

本年は、オウム真理教地下鉄サリン事件から10年目に当たる。
さらに遡れば原爆投下から60年…。そう考えながら、本日ニュースを見れば御巣鷹尾根への航空機事故から20年。つい少し前まで、わたしは本年が小樽問答から50年、言論出版帽が事件から35年であるとも語ってきました。

00年…1945年…原爆投下、敗戦
10年…1955年…小樽問答
35年…1970年…創価学会言論問題
40年…1985年…御巣鷹航空機事故
50年…1995年…阪神淡路大震災、オウム真理教地下鉄サリン事件
60年…2005年…本年

わたしは、10年、5年のきりで何かを考える習慣はない。けれど、偶然か必然か、以上の一連の事件の起きた年を反芻しました。それはまた、本年で自分が50の齢を経るからかも知れません。

1753犀角独歩:2005/08/12(金) 20:53:56

【1752の訂正】

誤)35年…1970年…創価学会言論問題
正)25年…1970年…創価学会言論問題

1754パンナコッタ:2005/08/19(金) 11:55:03
独歩さん、普通の事をして”賢人”だなんて、自分に対してはホメ過ぎです(◎-◎;)

『描写するための創作の嘘はたちどころに、【真実】と、なり得る。これが小説である】
          池波正太郎  「新選組異聞」 より引用

小説ならば作家の力量や盗作に対して厳しい目で見られますが、仏教関係の教書等は
”ありがたいものである”との先入観・イメージが先行してしまい今まで割と無頓着
だったのではないでしょうか。 
だから古人の意図したものをキッチリ把握出来る物は把握し、現代社会でも通用するものは
採用し、そぐわないものは切り捨てる判断を出来るように個人がなっていかなければ、
いけないのでしょうね。

1755藤川一郎:2005/08/19(金) 15:31:55
原爆投下(終戦)から60年ですか?
アメリカでは今でも戦争終結のためにやむを得なかったと発言しているようですが、広島と長崎への原爆投下は「人体実験」であります。
広島に落とされた「リトルボーイ(ふざけたネーミングですが)」はウラン235を原料とする「ウラン型」であります。対して長崎へ落とされた「フォットマン」はプルトニウム239を原料とする「プルトニウム型」なのです。
大体、爆弾にネーミングを付ける等、最初からふざけてるんですが、明らかに人体実験だったのです。60年経った今こそ、それをアメリカは認めるべきだと考えております。

1756藤川一郎:2005/08/19(金) 15:55:10
>>1755
ついでにイヤミを1つ、ネーミングですが
「リトルボーイ」は「小さな男の子」
「フォットマン」は「ふとっちょ」
だそうですが、少年とふとった人が大変な損害を起こしてくれたもんです。

1757彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/19(金) 17:12:57

>1756 藤川さん

Fat Manファットマンですね。

http://rnnnews.jp/indepth/pg/view.php?ch=020

英語の発音に忠実に書こうとすると「フォットマン」になるのでしょうね。

ここでの話題から脱線しますが、fatは“太った”という意味以外に“脂肪”という意味もあります。米国で太った人にいう表現で“fatty jaket”を着ているというのがありまして、小生は“fatty jaket”を“肉襦袢”と訳していました。日米で同じような表現があると妙に感心したものでした

1758彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/19(金) 17:37:34

1757の続きです。

リトルボーイがウラン型で広島に、ファットマンがプルトニウム型で長崎に投下されました。どういう理由をつけるにせよ、2種類の原爆を同時期に投下した行為は人体実験以外の何ものでもありません。

http://contest.thinkquest.jp/tqj2001/40234/genbaku/genbaku.htm

http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/manh1.htm

ウラン型は核実験を必要とせず、プルトニウム型は構造が複雑なため核実験を要するといわれています。
しかしながらプルトニウム型は使用済核燃料を再処理することにより原料が得られますので、最初に北朝鮮が進めていたのがプルトニウム型であったと思われます。どうでしょうか、今、北朝鮮は5個前後のプルトニウム型を保有しているのではないでしょうか。1個は核実験を要しますが数個持っていれば、核保有を宣言することができます。
それに対してウラン型の原料は構造は簡単であるものの天然ウラン中にごく少量含まれる同位体を精製して得られますので、原料の確保が簡単ではありません。原子炉が止まった状態の中、北朝鮮が極秘に進めてきたといわれるのがこのウラン型です。核実験を要しないことと小さいことからノドンへの取り付けが容易と考えられますので、日本にとって非常に脅威なのです。

1759彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/19(金) 17:47:23

>1758

誤記訂正

誤:小さいこと
正:小さくできると考えられること

1760犀角独歩:2005/08/19(金) 19:40:49

原爆投下、まちがいなく、人体実験でしたね。
一般市民の無差別大量殺人でした。
戦争を早く終結させるために役立ったというのであれば、なぜいま、イランの投下しないのでしょうか。もっとも劣化ウラン弾でも問題ですが。結局、理屈になっていないわけです。
この前、テレビを見ていたら、アメリカの高校生に原爆投下を意見を聞いたら「たった20万人しか死なないですんだんだから正しかった」と言っていました。「たった、20万」、では、同時多発テロでは何百万人も死んだんでしょうか。異常な国民体質だと思いました。

以下、何度か引用したコピーですが

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/ikaku.gif

ジャンプしないときは、コピペしてください。

1761パンナコッタ:2005/08/19(金) 23:20:49
まあ、平和な国のティーン・エイジャーの意識とは、そんなものかもしれませんね。
同じ十代でも大戦経験者は、
 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/3f.htm#dai-kuushuu

こんな感想を述べています。
ただ別の意味で気になったのは、新聞のプロパガンダですね。これ又富士系の体質に
非常によく似ているんですね。

1762藤川一郎:2005/08/20(土) 13:28:09
いずれにしても、当時の日本は瀕死の状態でした。そこに原爆では・・・!

総合格闘家が相手がタップしない場合、腕を1本1本、足を1本1本折っていくんだそうです。
ところがそれが面倒くさくなって(勝ちあぐねて)銃でも使いたくなることがあるそうです。
アメリカもそうで、少しずつ消耗させていくやり方が、じれてきたので、一気に大量破壊兵器を導入したと言うのが心理的な事実でしょう。いずれにしても、人間が人間にやる所業では無いですね。
もっとも、日本が白人の国だったら、絶対に原爆は落とさなかったと言うのが定説です。

1763パンナコッタ:2005/08/21(日) 09:44:24
独歩さんのブログで大白蓮華の「佐渡国法華講衆等御返事」の引用の指摘がありましたが、
あらためて切り文引用の恐さを感じた次第です。

1764犀角独歩:2005/08/21(日) 09:55:46

パンナコッタさん、ご高覧、有り難うございます。

1765藤川一郎:2005/08/22(月) 17:43:14
選挙ですね。意見を言うと、選挙違反になりそうなので、URAだけ貼っておきます。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/koizumi-rape.html
http://www.asyura2.com/0505/senkyo10/msg/256.html
http://www.pressnet.tv/log/view/4760
http://www.jca.apc.org/~altmedka/2003aku/aku771.html
http://www.pressnet.tv/log/view/6172
http://www.jca.apc.org/~altmedka/2003aku/aku1045.html

1766VIPPER:2005/08/27(土) 16:14:04
>>1765
藤川さん、極左団体関連のURLはいかがなものかと・・・

ところで正宗の寺院では民主党のチラシを置いてるところが結構あるようですが、
創価憎しで民主党を支持したり、民主党側がその心理を利用して擦り寄ってきたりしているのは、
物凄く滑稽で間抜けな姿に見えるのですが・・・
民主党のHPを見ればマスコミが国民に知らせない彼らの本音が満載なのに。
私は「国民主権の移譲」を見てぶっ飛びましたwww
仮に億千万が一民主党が勝利して公明党が寝返ったら悲惨だと思う。
創価憎しだったら自民党単独政権を実現して公明党を追い出すのが筋だと思うんだけどなあ。

1767藤川一郎:2005/08/27(土) 19:26:11
>>1766
これは別に極左集団のページではありません。
一部を作ってる方は、某地域で出馬しましたが、共産党でも左翼でもありません。
大体、私は左翼大嫌い人間(爆)ですので、そのようなページは挙げません。

1768パンナコッタ:2005/08/29(月) 12:06:44
栴檀さんが蕎麦好きとのことなので、ランチで蕎麦を食べながらふと思い出したのですが、

『私たちにも馴染み深い大根、意外にも外来野菜なのだそうです。鎌倉期には渡来していたとみえ、
日蓮上人の見た大根は「大仏殿の大釘」ほどの太さだったといい、【徒然草】にも、薬草としてちらりと
名が見えています。品種改良が進められたのが室町中期、女性のふくらはぎのように立派に完成したのが、
わずか三百年前、元禄の頃なのだそうです。 元々貧弱な外来野菜だった大根を、総菜頻度ナンバーワン
野菜にまで高めたのは大和魂のたまもの』   杉浦日向子 一日江戸人 より引用

ソバ(屋)好きで、先日お亡くなりになった杉浦さんの著作を改めて読み直した次第です。 ちなみに、
「上野殿御返事 弘安四年九月二十日(真偽未決)」と
「徒然草 第六十八段(大根のことを”土おほね”と記述)」 の引用のようですね。

1769犀角独歩:2005/08/30(火) 23:30:32

栴檀さん、ご覧になっていらっしゃいますか。
なかなか有意義な2日間でしたね。

わたしは神四郎の屋敷跡が特定されており、そこに墓があることも知りませんでした。
本日は、その墓参ができ、また、この地に寺院が建ちが700年近く、護られてきたことに敬意を表しました。パンフレットに載った神四郎坐像、しかし、いつ頃の作なのでしょうか。

しかし、あそこの住職さんの温厚な笑顔、吟じてくださった唄、振る舞ってくださった料理、心が温まりました。その前の学習も含め、いい旅ができたと思い出に残りました。

1770犀角独歩:2005/08/30(火) 23:33:30

栴檀さん、いま気付けば、わたしの前のご投稿は蕎麦、大根の話題ですか。
振る舞っていただいたメイン料理は手打ちのうどんでした。イカと大根の煮物も美味しかったですね(笑)

1771尾池:2005/08/31(水) 23:37:23
先日、本門寺根源のホームページがリニューアルされ、その中にある映像資料
で御大事本尊会の模様が動画で紹介されていましたが、シキミ払いという作法
が富士門流には伝わっているのですか?
だれか教えて下さいませ。

1772栴檀:2005/09/01(木) 10:48:08
犀角独歩さん、おはようございます。

お返事遅れました。
昨日一昨日、PC見てなかったものですから。

いや、まことに有意義な2日間でしたね。
富士に行くというので、
以前要法寺で購入した日興上人所持の数珠の複製を持っていったんですが、
なんとみなさん日蓮宗でありながら、その同じ数珠でしたね。
富士門流だ〜〜〜!と感激しまして、2日間はそっちを使っておりましたよ。
そう考えると大石寺が形状のみは現行一致派等の数珠の形と同じなのはなんか変ですね。
帰ってから宮崎英修師の本見ましたら、宗祖から室町まではあの形なんだそうです。
3本ある方も2本しかなく、しかも紐に珠はついていないんですね。
やはり富士は古風を守ってきたのでは、と思いました。
で、よく考えたら真宗で坊さんが正装時に持つ数珠と同じになるんですよ。これが。
色も形も。
昔は宗派での数珠の違いってあんま無かったんじゃないですかね?

神四郎さんのお墓の前で自我偈読みましたが、
あれ皆が全部読めるわけじゃないんじゃないかって思ったんです。
佼成会さんは裏経でありますが、今は普段読まないのでほとんどの会員は読めないでしょうし、
(かの先生は古参の会員なんで多分お読みになられたでしょう)
仏立宗さんの妙講一座には自我偈無いんですよ。
だからきっと読めなかったんじゃないかなって気になりました。

あとおうかがいしたいんですが、
要法寺の経典では唱題は1分間に12遍となっているんですが
やはり他の富士門流もそうなんでしょうか?
かなりゆっくりですよね?

1773犀角独歩:2005/09/01(木) 12:08:13

栴檀さん、おはようございます。

本照寺縁起につき、彰往考来さんからメールをいただき「疑義あり」と(笑)
彰往考来さん、ご教示有り難うございます。

> 日興上人所持の数珠の複製を…みなさん日蓮宗で…同じ数珠

これは興門流寺院を訪れるということで、それに合わせてお持ちになったということでしょうか。となれば、見習うべき身だしなみであると思った次第です。

> 要法寺…唱題は1分間に12遍…やはり他の富士門流

少なくとも石山には、このような既定はないですね。
ただし、創価学会では(今は言っているのかは知りませんが)「1時間3000遍の唱題」というのが、一応の目安となっていました。石山では唱題には太鼓を用いますから、こんなスピードとはならないわけです。ただ、不確かな情報ですが、小僧修行の寒経ではかなり早く唱えるなどと聞いたことがありました。極めつけは、顕正会で唱題中にメトロノーム(大笑)でリズムを取るんだそうです。まあ、これがどれくらいのスピードで「カッチン、コッチン」合わせているのかは知りません。(藤川さんに批正していただければと思います、よろしく)

1774栴檀:2005/09/01(木) 13:36:55
犀角独歩さん、こんにちは。

数珠は本来は自己の所属を表すと思いますので、
今まで通りでよかったのでしょうけれど一応持参しました。
国柱会などは用いませんしね。
でも富士一帯で仏具屋さんで「日蓮宗の数珠を」と言っても、
「富士門ですか?」と但し書きをつけなければ間違えてしまいますね。
下手すると真宗の坊さんから借りた方が早かったりしますね。

1時間3000遍ですか。
となりますと、1分間で3000÷60=50遍ですから
随分違いますね。
これは不受派の方から聞きましたが、あちらも大変ゆっくり唱題するとかで、
大聖人御在世の時はゆっくりだったからだ、とおっしゃっていました。
引き題目というのもあるようにうかがいましたが、あれは通常とは違うのですか?
田中智学師は北山本門寺の唱題が本当だ、と言っておられましたね。

メトロノームは「脱歴史化」じゃないでしょうか?(笑)

1775藤川一郎:2005/09/02(金) 02:16:38
眠いので、一言だけ顕正会のメトロノームの平均は24/1分間で設定されております。
すると1時間で1500遍足らずですかね。
浅井さんは、良く学会の唱題を「ナメコナメコ」と聞こえる。恐れ多いことですと指導しておりましたね。

1776藤川一郎:2005/09/02(金) 02:17:40
ちなみに余談ですが、単なるメトロノームではありません。本格的ですよ。だって、リズムボックスのメトロノームだもん(爆)。

1777犀角独歩:2005/09/02(金) 09:19:10

栴檀さん

> 引き題目

石山のアナウンスでは、日蓮聖人の朝日に向かっての唱えはじめの唱題は引き題目であったといいます。(何を根拠しているのかわかりませんが)

この引き題目の唱え方については、石山の唱え方を批判する声があります。
たしか、以前、みかんさんが記していたと思います。すなわち、

南〜無、妙法蓮華経南〜無、妙法蓮華経南〜無、妙法蓮華経

で、最初の「南〜無」は導師、そのあと全員で続けますが、「南無」で切ってしまうので、「首切り題目」と言って批判されるようです。

1778犀角独歩:2005/09/02(金) 09:44:28

藤川さん、顕正会メトロノームの保管、有り難うございました。

栴檀さん、「脱歴史化」、これはロムの皆さんには意味がわからないでしょうから、追ってブログに報告を記して、今一度、記すことにします(笑)

1779犀角独歩:2005/09/02(金) 09:56:28

【1778の訂正】

誤)保管
正)補完

1780栴檀:2005/09/02(金) 14:05:31
犀角独歩さん、こんにちは。

実は本門仏立宗でも引き題目ってあるらしいです。
不受派の題目もそう銘打ってはいませんが、実質引き題目みたいなものではないでしょうか?
意外と伝承ってバカにできないと僕なんか思うんですけどね。

七字のうちどこで区切るかについて、
山川智応先生は南無で切ることは確か良かったと言われていたかと思います。
記憶が曖昧なんで帰ってから確認しますが。
いけないのは南無妙、法蓮華経だと思いました。
あと妙法、蓮華経も良かったと言われていたような。

ちなみに真宗大谷派の勤行も和讃のところで、間に念仏が入りますが、
南無阿弥陀仏、南無。で終わるんですよ。

1781藤川一郎:2005/09/02(金) 17:31:30
> 最初の「南〜無」は導師、そのあと全員で続けますが、「南無」で切ってしまうので、「首切り題目」と言って批判されるようです。

そうとは限らないんですよね。確かにそのように切る方が多いんですが、決して南無では切ってない人もたくさんいるんですよね。
もちろん、丑虎の勤行での日顕上人も「南無」では切っていませんがね。

1782煽イカ:2005/09/02(金) 21:52:24
栴檀さん、その通りです。
横から失礼しますね。本化妙宗では、
南−無 妙−法 蓮−華 経 至信唱念馨調厳明 とあります。
俗に言う「首切題目」というのは、南無妙/法蓮華経と
妙と法を切り離す呼び方であると私どもでは教わっています。
石山のことはわかりませんが、智学師、山川師は少なくとも
そのように述べています。(本化妙宗 信行読本 他)

1783栴檀:2005/09/03(土) 02:19:10
煽イカ さん、こんばんは。
ありがとうございます。
私も今、智応先生の『妙行正軌略解』で確認いたしました。

1784犀角独歩:2005/09/03(土) 11:46:08

皆さん、ご批正有難うございます。

わたしが記した石山の引き題目は正確に言えば、かつての創価学会ではそう、わたしが習ったということです。
藤川さんも記されたとおり、石山でもこの点はまちまちです。
ただ、わたしにこの点を指摘したのは日蓮宗一致派の本山貫主さんでしたから、田中・山川師の言うこととは別に、このような考えはあるということだと思います。つまり、各派まちまちということでしょう。この段階では、どのやり方が正しいということは言えないわけです。

では、この「首切り題目」ということは文献的に、どこまで遡れるのかということが問題になると思います。

栴檀さん、『妙行正軌略解』をお持ちのようですが、ここでは、なぜ、このような唱えなければならないのか、その論拠として何を挙げているのでしょうか。
転載いただけませんでしょうか。

1785煽イカ:2005/09/04(日) 13:31:04
つぶやきすれっど2なので、参考までに書き添えます。
智学師の「日蓮聖人の教義」には−−「妙法五字の指す当体はというと
法の一字であって、その法がどうしたというと「妙」であるという
事になるから、法は体で妙はその心である。−−引用終わり
という一文がありますから、こころと体の妙法を切り離すのを嫌うと
考えております。ちなみに、日蓮宗小事典などの題目や唱題の項目を
見ても、どこで切るとかいう、細かな解説はありませんから「宗派に
よりまちまち」ということなのでしょうね。横から失礼しました。

1786犀角独歩:2005/09/04(日) 14:01:54

田中師の考えにわたしはまるで無謬性は覚えないので、田中師は、そう考えていたのか程度にしか思わないわけですが、妙法を切ると「首切り題目」なら、蓮華を切れば「腹切り題目」かなと思ったりします。本覚的には蓮華が因果倶時不思議一法ですからこれを切ってもまずい。しかし、妙法蓮華経を如来全身と見なせば、どこで切っても仏身を切るなんていう解釈は成り立つわけでしょうか(笑)

まあ、わたしからすれば、どうでもいい話に分類されます。興味があるのは、しかし、日蓮聖人はこの件に何か言っているのか、言っていなければ、あとの人間は何を根拠にそれら説を立てるのかという一点のみです。

日蓮聖人の時代、一般の唱題を唱える時間はどれ位の長さだったのでしょうか。3編唱えた、5編唱えたとか、そんな短い題目口唱の記述がありますが、今の時代の唱題、もしくは引き題目よりはるかに長くかけて一唱をされていたように思えます。となれば、一文字一息の可能性もあり、もしくは南無、妙法、蓮華、経で切っていたかも知れず、しかし、それを本当に首切りだと言ったかどうか…、わたしは言わなかったように思えます。しかし、これは資料の提示を待って発言したほうがいいことでしょうね。

批正をお待ちいたしましょう。

1787栴檀:2005/09/04(日) 17:28:14
犀角独歩さん、遅れました。

『妙行正軌略解』に唱え方自体の大聖人の御教示はないようです。
もっともあればどなたかが、すでに出していたのでしょうね。

1788犀角独歩:2005/09/06(火) 00:50:58

栴檀さん、有り難うございます。

本日は、松山先生の法華経講義を聴講してきました。
いつもながら、すごいご講義でした。
当掲示板で、わたしは皆さんに。岩波文庫版の岩本師訳法華経を勧めてきたのですが、ここにそれを撤回し、お詫びしなければならないと思った次第です。しかし、現段階では、お詫びするにも、何がどう間違っているのか、説明もできないので、将来の宿題としておきます。

特に本日ご講義があったのは、岩波文庫『法華経』上のP408『解題「法華経のサンスクリット語原典」』の1「『法華経』の題名について」でした。詳しくは追ってブログにアップしようと思いますが、ここで記される訳語からして誤植がそのままになっているといいます。
たとえば、rsabhaは同書では「牝牛」となっていますが、これは牡牛。vrsaが牝となっているのも牡ではないかというご指摘からはじまり、そもそもここで、紀元後650年頃に成立した『カーシカー』を挙げて、法華経の説明に充てるのは如何なものかと手厳しいものでした。サンスクリット語の知識のないわたしは正確に記述できませんが、まあ、羅什の漢訳に比せば、それでも原典を知るに便のある岩本訳ですが、この正確さには難があるという新たな障壁が立ちはだかることが知れました。

いやはや、ぐうの音も出ないという気分をまた味わうことになりました。
松山先生の法華経講義の聴講者は僅か数名。とてつもない歴史の現場に立ち会っている気分に、猫に凝らせば、逆毛が立つ緊張で臨んでいます。

1789藤川一郎:2005/09/06(火) 19:49:07
小泉・竹中両氏が応援するホリエモンが天皇制否定を展開した。
仏法的にいうと「小泉さんは国賊の与同罪」と言うところでしょうか?

1790ラキ:2005/09/09(金) 07:21:58
富士宗学要集(学会版)9、10巻発見!
残り3巻で補完完了!
日顕さんが書いた、戒壇論の書籍を読みたいと思い、持っていたら貸してくれませんか?と申し出をしたら、
そんなに本ばかり買いあさりしてると、二乗に落ちるよと・・・(法華講幹部)
行・学前進の年なのに、学ぶ事を否定するような発言は、矛盾しませんか?とぼやいている今日この頃。
理由は、ご本尊の前に座らなくなるて・・・
ちゃんと学ばす事をしないから、法華講の幹部が顕正会と言う、妄信組織に行く人が出るんですよね。

1791栴檀:2005/09/11(日) 01:20:54
犀角独歩さん、こんばんは。
お返事遅れて申し訳ありません。

松山先生は面白い方ですよね。
いつもあのような感じなんですかね?
法華経に関していえば羅什が訳さなければここまで広まらなかったんじゃないでしょうか?

1792犀角独歩:2005/09/11(日) 08:26:45

栴檀さん

松山先生は万事あの調子です。もはや人生の達人の域ですね。

羅什のこと、そうでしょうね。それに併せて、涅槃経によって解釈されたことも大きな要因ではなかったでしょうか。いずれもしかし、梵本法華経からかけ離れることによって成り立ったわけですね。

わたしは、法華経は、天台解釈を捨てて見直すことが重要であると思っています。

1793犀角独歩:2005/09/11(日) 21:37:59

最近、「大石寺法華講」と名乗って、『暁鐘』を片手にグループを組んで日蓮宗寺院を回っているそうですが、これは妙観講でしょうか。

大石寺法華講と言えるのは、700年来の根檀家の人々のみであるという認識だったのですが、理境坊の預かり信徒はいつから大石寺法華講を名乗ることが許されたのでしょうか。というより、群を為している連中は妙観講なんでしょうか?

また、手に持っている『暁鐘』には何が書いてあるのでしょうか。

ある日蓮宗寺院で『現代宗教研究』第39号に載ったわたしの講演原稿の話をすると「その人間は前非を悔いて謝罪した」と言ったそう(爆笑)
何を寝ぼけているんだか知りませんが、ぜひとも今回、アップしたページを見ていただきたいものです。

1794ラキ:2005/09/11(日) 22:27:13
私見ですが、妙観講員なら「妙観講」の名前に”特別な講”だと自意識過剰な意識があるので、
妙観講と名乗ると思うのですが、グループを組むのは妙観講て感じですね。
ま、私の所属では、妙観講自体知らなかったり、嫌われていますが。

1795三学無縁:2005/09/11(日) 23:36:22
島問題研究家の菅田さんとさきほど電話で話しました。
「今日は、日本の命日だね」
と、のこと。今回ほどショックを受けた選挙結果はありません。
いまの私は、まるで関口巽のように茫然とするばかりです。

1796藤川一郎:2005/09/12(月) 12:16:17
三学無縁さん

同意。
(これ以上は何も語りたくありません)。

1797藤川一郎:2005/09/12(月) 12:50:09
「大石寺法華講」ですか?
「日蓮正宗法華講」なら分かるんですがね・・・!

1798ラキ:2005/09/12(月) 17:44:15
本日、竜の口法難と言っていますが、旧暦だと日にちが違うので、
正確には、今日9月12日は違うのではないかと、思う今日この頃・・・

1799彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 12:48:22

>1798 ラキさん
それは歴史の決め事ですね。年齢を江戸期以前は数えで、明治以後は満で表すのと同じです。

貴殿の疑問については下記参照ください。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/hon_kataru/katudou/012.html#1.1

新城新蔵「暦と年中行事」: 『民族』3(3), p.489; 『こよみと天文』, p.229-230:
「忌辰や又は著名なる事件の記念日の如きは如何様に定むべきか、旧暦の月日を其まゝ新暦に移したるものとすべきか、新暦を其当時まで溯らしめて相当せる時日を取るべきか、又は旧暦を現在まで延長し旧暦の月日を用ふべきか、これは屡遭遇する問題であるが、これに対しては、右の三つの方法の中いづれにても可なりとも言へるし、又いづれにしても正しからずとも言はなければならぬ。或る一の事件を記念し当時の様子を髣髴せしむるためには、成るべくは其当時と季節も同じく、周囲の状況も同じ様なる時日を選むのが適当であるが、然し全然同じ様な状況を再現せしむることは到底出来ないことである。例へば元禄15年12月14日の義士の討入を記念するためには、若し事件の発端なる3月14日と因縁ある12月14日といふ月日に執着するならば、現行暦の12月14日を以て記念日とするもよいであらうし、若し当時の雪を連想せんとならば其当日に相当せる太陽暦の時日なる1月30日を取るべく、若し又当夜の月を連想するためには、現時まで延長せる旧暦の12月14日を取るべきで、何れも一得一失であるが、以上三つの条件を併せて満足さすことは到底不可能のことで如何とも致し方ない。況んや其他の一切の周囲の状況までをも再現せしめることはいふまでもなく不可能である。蓋し歴史は或る一面より見れば繰り返へすものゝ如くであるが、其全体より見れば決して繰返へさぬものであるからである。」

1800ラキ:2005/09/13(火) 19:53:19
彰往考来さん。
参照リンクありがとうございます。
全文読みましたが、とてもためになりました。^^
素朴な疑問でと思ったのですが、皆さんはご存知だと思ったので、つぶやいて見たかったのです。(^^;
連師在世の9月12日と現在の日にちは違うのに、日にちだけ強調して、
あたかも7百数十年前に「法難」とかが現代の暦の日にあったと思うような教団の教えが、
疑問に思ったのです。
顕正会では9月12日の法要に拘っていますが、本当に法難があった日が違うよと言いたかっただけです。
お盆だけは旧盆とか盂蘭盆とかあるのに、「旧法難」とか「旧立宗宣言」とかあってもいいのではと、
天邪鬼思想です。(^^;
下記「こよみのページ」で少し楽しいページなので、ついでに紹介させていただきます。
http://koyomi.vis.ne.jp/mainindex.htm

1801ラキ:2005/09/18(日) 18:31:38
寛師会登山行って来ました。
他の行事には参加してこなかったですけど、当初の目的。
内山ワカさんの名前が刻んである、階段を見てきました。
おまけで、大草さんを生で初めて拝見しました。
9696疑惑は確認できませんでしたが(^^;

1802独学徒:2005/09/21(水) 19:27:27

HPの作成が、なかなか進みません。

一応ブログなど、一部書き込んでみました。
『おすすめスレッド』で紹介できるような状態ではないので、こちらで紹介させていただきます。

http://fujikyougaku.fc2web.com/index.html

過去に「富士教学研究会」という、浜中和道師が委員長を務めた研究グループがあったそうですが、「富士」を「冨士」として別個の存在であることをアピールしたつもりです。

「資料室」も充実させたいと思っていますが、画像ファイルのアップロードがうまくできず、まずはテキスト資料からはじめたいと思っています。

こちらもご指導のほど、お願い申し上げます。

1803パンナコッタ:2005/09/22(木) 00:33:18
独学徒さん、
HPの充実、期待してます (^o^)

1805管理者:2005/09/22(木) 10:14:18


コウさん

当スレツドは論争禁止スレツドです。

掲示板に土足で踏み込むのですか、貴方は?

そのような、ルールを守ろうとしない輩に対しては、当掲示板は参加をお断りいたします。掲示板のルールや、スレッドの弁えぐらい出来る様になってから参加される事をお勧めします。

1807管理者:2005/09/22(木) 10:22:05

1804レスは削除の上、「さらしスレッド」に移転します。

1808問答迷人:2005/09/22(木) 10:35:58

法華初心成仏抄は、真蹟は無く、時代写しも無く、内容的にも、疑義のある御書。

当掲示板では、真蹟主義で議論が進められてきたから、当然のことながら、この御書は考証・議論から排除されている。

創価学会では、無神経にも、真蹟も疑義のあるものも、御書全集に収められているものは、全て日蓮大聖人の金言と教えてきた。

もう、そろそろ、そういう、世間に通用しないあり方は改めるべき時が来ているように思うのだが・・・

1809コウ:2005/09/22(木) 18:10:28
問答迷人さん。

法論する気はないですよ。
ただ、あまり邪儀を唱えられても
「日蓮正宗」が大変迷惑をするのでね。

>法華初心成仏抄は、真蹟は無く、時代写しも無く、内容的にも、
疑義のある御書。

これを証明してください。
ところであなた、
法華講員ですか?
本当に?

1810問答迷人:2005/09/22(木) 18:49:15

コウさん

このスレッドは議論禁止なんですよ。議論したいなら、適切なスレッドを選ぶか、新しいスレッドを提案されるべきです。

>これを証明してください。

あなたのお持ちの御書全集(創価学会版でも、日蓮正宗版でも構いません)の目次を御覧なさい。そのように書いてありますよ。

>ところであなた、法華講員ですか?

貴方は議論が目的なのか、日蓮正宗のメッセンジャーをするのが目的なのですか。

僕が法華講員なのかどうか、何か議論の中身に関係があるんでしようかね。

まぁ、この位にしておきますね。

1811犀角独歩:2005/09/22(木) 20:02:26

管理人さん
コウさん

コウさんは、わたしを名誉会長、パンナコッタさんを会長、独学徒さんを教学部長と勝手な役付けをし、法論をしたがっているんでしょう。

わたしは別段、かまいませんよ。
ただし、「法論」という限り、勝敗を決し、もし、わたしが負ければ、今後、わたしは一切の言論活動をやめましょう。しかし、わたしが勝った場合はコウさんには、法華講をやめる(脱講届の提出)のみならず、本尊を寺院に返納し、日蓮正宗の信仰をやめていただきます。

以上の真剣勝負といたしましょう。

この場をお借りするわけですから、このレフリーには、問答さんがなってください。
わたしの本名と連絡先は管理人さんはご承知です。
コウさんは掲示板下記にあるメール、本名と連絡先を通知してください。この際、所属寺院も書き添えてください。

さて、公開「法論」を始めるに当たり、さらしスレッドにある投稿につき、質疑応答をいたしましょう。

> 「法華初心成仏抄」を、
> 読まれたことがありますか?

もちろん、あります。

> もしもあるなら、全文解説つきで、
> 引用していただけませんか?

なぜでしょうか。
この意味を解説してください。
わたしは、同抄をもって日蓮正宗を難じたことは一度としてありません。しかし、コウさんはこの書をもって日蓮正宗が正統であるというためにこの書を引用したのでしょう。よって、まず、以下、5点につき、説明を求めます。


(1)同抄が日蓮の親筆であることを証明してください。
(2)この書が日蓮の正当性であることを証明してください
(3)この書が日蓮正宗の正統性を示す理由を証明してください。
(4)この書をもって日蓮正宗が正統であることを証明してください。
(5)この書をもって日蓮正宗が自宗を正等であるという文献的証拠を挙げてください。

以上の5点に答えられなければ、まさにコウさん自身が言うように

> 手を抜いてコピーを使うようなことが
> あれば、鬼が笑いますよ。

次に前提の質問です。
コウさん、あなたがいう「日蓮正宗」とは何を指すのでしょうか。
日蓮正宗大石寺ですか、日蓮正宗正信会ですか、日蓮正宗冨士大石寺顕正会ですか、それとも、本門正宗ですか、はたまた日蓮正宗創価学会ですか。

また、日蓮正宗という限り、大正年間以前は含まないでしょうか。それともどこまでを日蓮正宗といってのことでしょうか。この点を回答ください。また、言うところの法華講とは何をさすのでしょうか。

> 「法華初心成仏抄」を全文引用して、
> 解説してくださいな。

コウさんが挙げたパンナコッタさん、独学徒さん、わたし、3人とも同抄を取り沙汰したことはありません。故にその全文を引用して解説する責務は言い出したコウさんがまず負います。

以上、5点の質問と、あなたが言う日蓮正宗をここに説明し、その立場から、どうすると同抄が日蓮正宗の正統性を示すものであるかを全文を引用して説明してください。併せて、あなたの本名・連絡先を管理者さんに通知してください。

この「法論」、受けてたちましょう。
管理者さんには「法論」用のスレッドを、コウさんが上記質問と本名・連絡先を告げてきた時点で立てていただくよう、依頼します。

1812犀角独歩:2005/09/22(木) 20:14:49

なお、わたしは独歩であり、特定の会を組織しているわけでもなく、名誉会長でももちろんありませんし、そんか低俗なニックネームも願い下げです。この点はパンナコッタさんも、独学徒さんも同様でしょう。

また、お二方が、この「法論」に加わるか否かは、もちろん、ご自由です。

まじめな議論において、人格攻撃、揶揄の類は排除してください。この点は当掲示板の規約、「管理者からのお願い」を遵守しましょう。この違反があれば、反則負けということにもいたしましょう。

勝敗を決することですから、時間制限を設けましょう。質問に対して24時間以内に返答がない場合は時間切れといたしましょう。ただし、この時間を具体的に申し出た場合は、その時間といたしましょう。

1813コウ:2005/09/23(金) 00:16:30
犀角独歩さんへ。

まあ何も、それほど大げさな話でもありますまい。
勝敗など私にとってはどうでもいいことです。
ただ邪儀をかまえていることが問題なのであり、
あまりにも「身延」に酷似しているので観想を述べたまでですよ。
お気を悪くされたのなら謝罪でもしましょう。

しかし本尊の写真等をとることなど
「正当なる日蓮正宗富士派」としては
厳禁であり「謗法」となる原則には変わりありますまい。

以前のスレッドを見せていただくと
「沖浦」を徹底破折されておりますね。
これは大変素晴らしいのですが、
しかし本尊の写真をネットでUPするのは
いかがなモンでしょうね?

管理人さんが本当に「法華講員」なのか、
疑問に思ったのはその点なんですよ。

「悪しく敬ってはいませんか?」
そういう意味です。

頭のイイあなたたちならば、
理解されると思いますが…

1814犀角独歩:2005/09/23(金) 01:36:03

コウさん

1813に限り、応答しましょう。

> 本尊の写真等をとることなど
> 「正当なる日蓮正宗富士派」としては
> 厳禁であり「謗法」

そうですか。では、わたしが使用している熊田葦城著『日蓮上人』に掲載された写真の撮影は謗法ですか。明治44年のことです。まさに富士派の話でしょう。宝蔵に秘蔵厳護されている本尊です。カメラ、感光剤の性能も著しく悪い時代の話です。盗み撮りではありませんよ。石山の、それも「猊下」の許可なくして撮影ができることではないでしょう。もし、この撮影が謗法であるというのであれば、当時の歴代「猊下」、並びに隠尊「猊下」は謗法なのでしょうか。

また、あなたの家の本尊は形木本尊ですか。その本尊の製作は写真製版という方法を採っています。これは謗法ですか。

大石寺総坊に並ぶ、阿部氏書写漫荼羅の板本尊はみな同じ相貌です。つまり、これらは写真で原図を採ったので大量生産が可能だったのではないでしょうか。これは謗法ですか。

わたしは大石寺教学部長・大村さんの勉強会に参加していました。この時、立正安国会発行の『御本尊集』の漫荼羅写真を披露していました。これは謗法ですか。

あなたの年齢は存じ上げませんが、そもそも何故、石山で漫荼羅の写真撮影が謗法扱いされるようになったか、それは上記、『日蓮上人』に載った「戒壇の大御本尊」を一見して、『御本尊集』と比較すれば、直ちにこの本尊が偽物であることがわかるからです。実際に、この写真を見て、日蓮真筆漫荼羅の知識を持ち合わせた人は一見して、この彫刻が偽物であることを見破ってきた歴史的経緯があります。そのために、慌てて、写真撮影を厳禁し、謗法として、情報操作を行ったのでしょう。あなたはその操作にまんまとはまっているのに過ぎません。

「写真撮影が謗法」。何故、自分がそのように考えるようになったのか、また、そのように言われるようになった理由は何か、それを真剣に考えてみれば、理解できます。

写真に撮られて、都合の悪いが故に、本尊の写真撮影は謗法である情報操作をしているのに過ぎません。その証拠に当の石山は写真を大いに利用し、信者に頒布する本尊を製作しているじゃありませんか。写真撮影が謗法ならば、大石寺こそ、まさに謗法であることになりますが、どうでしょうか。物事はこのように考えていかないと、その底意というものはわからないのですよ。

この馬鹿げた仕掛けを管理人さんは、しっかりと洞察されているのです。
あなたはわたしの記したページを読もうとしないのでしょうが、ここにわたしは以下のように記しました。ここには漫荼羅写真が掲載されているので、あなたは読まないのでしょう。ですから、文章だけを転載しておきましょう。よくよく熟読玩味してご覧なさい。

……「戒壇の大御本尊様以外は、たとえ日蓮大聖人の真筆でも拝んではいけない。罰が当たる。御本尊を写真に撮るのは謗法だ。御本尊の写真集なんて見るものじゃない」などと言った〝指導〟である。

 そもそも各家庭に頒布される「形木本尊」と言われる印刷漫荼羅は写真撮影された原稿を製版印刷したものである。写真撮影を禁じれば、この頒布自体が成りたたない矛盾が生じる。

 しかし、このように真筆の御筆漫荼羅から目を遠ざけさせ、さらに漫荼羅の写真を禁止すれば、信徒会員はビジュアル情報を完全に閉ざされることになる。彼らにとって日蓮真筆は「本門戒壇之大御本尊」唯一つとなる。もっともこれは参拝でも遠目でよく見えない。よく見ることができるのは各家庭に下付された大石寺住職が書いた原本とする印刷漫荼羅、あるいは寺院、会館の、同じく大石寺住職が書いた漫荼羅だけとなる。信徒会員は御筆漫荼羅を見ることを謗法と禁じられているわけだから、それが一体どのようなものであるかという知識を持ち合わせていない。

 見事な情報操作に舌を巻くばかりだ。こうして言うがままに信じ込まされている、「唯一絶対の御本尊は弘安2年10月12日建立の本門戒壇之大御本尊様のみ」と。

 創価学会を含む大石寺集団では、日蓮の真筆御筆漫荼羅を見聞することを禁忌として人々の知的欲求を閉ざしている。その「思考停止」という心理操作によって、板漫荼羅を疑う心の自由を奪い取ってきた。」……
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1815犀角独歩:2005/09/23(金) 01:54:25

そうそう、一つ書き忘れました。
『御本尊集』(立正安国会)漫荼羅写真掲載の内、第82、第111、第116は大石寺所蔵の漫荼羅で、堀日亨が許可して掲載したものでしょう。第82は石山がいう紫宸殿(師師伝)本尊です。これら写真が謗法ならば、堀日亨その人は謗法となりますが、どうでしょうか。
また、日亨は写真に撮った第82漫荼羅を元に板に彫刻し、これを雪山坊に安置したのではありませんでしたか。この行為は謗法ですか。

第82
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/082.html
第111
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/111.html
第116
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/116.html

さて、本尊写真撮影については、以上です。
ここはつぶやきスレッドです。
以降は、適宜のスレッドで、といたしましょうか。

なお、

> 大げさな話でもありますまい。

ならば、たやすく「法論」だ、「かかってこい」などと蛮勇に任せてものを言わないことです。

> 勝敗など私にとってはどうでもいい…邪儀

邪儀は邪義でしょう。まあ、打ち間違いはいいことにしましょう。
しかし、邪義も何も、石山が邪義であれば、それを言うのは当然のことです。
邪義でないというのであれば、大げさでけっこう、言い出した責任として、法論、真剣勝負をわたしとしなさい。できない腰抜けならば、偉そうにものを述べないことです。
みっともない限りです。ここではあなたの浅薄な知識・強盛な信心と勘違いした思い込みは通用しません。

過去ログの一切を読み直して出直しなさい。

1816問答迷人:2005/09/23(金) 02:00:35

コウさん

曼荼羅を写真に取る事が不敬になるとの事、犀角独歩さんが述べられている通り、僕はそのようには今は全く考えていません。

ネットに曼荼羅の画像をupすることにも、なんら問題があるとは思っていません。それは資料としての必要に応じて提示しているのみです。

また、大石寺戒壇板曼荼羅、所謂戒壇の大御本尊様だけに神秘的な力があるとは考えていません。

なお、誤解を避けるために付言して置きます。僕は今も昔も、熱烈な法華信者であり、今後とも、曼荼羅に対する信仰を生涯捨てる事は無いだろうと思っています。今も僕は、曼荼羅に対する信心を、生活の全てに先行・優先させ、信心を生活の根本として、信心第一で、日々勤行唱題に励んでいる事を御報告しておきたいと思います。

1817犀角独歩:2005/09/23(金) 05:33:28

つぶやきということで。

漫荼羅を本尊たらしめているのは、持(たも)つ当人が信じる力に依るのでしょうね。

ですから、それを信じるに足る通過儀礼がそれを決定付けるのでしょう。
石山末寺から下付される印刷は、入信、受戒、信仰、勤行という本人が納得する儀礼、修行を通じて、本尊となっていくのでしょう。

漫荼羅を写真に撮ったものは写真です。普通の写真のような光沢、絹目といった紙に印刷されると本尊という実感は薄いでしょう。しかし、これを和紙に印刷し、表装し、仏壇に安置し、日々、勤行・唱題を繰り返せば、やがて本尊として価値を発揮することになります。これは彫刻でも同じでしょう。店に掛かっている屋号を彫った板が看板で、漫荼羅を彫れば本尊であるというのは、そこに刻まれた文字の意義がわかる人にしか通用しない心理です。店の看板でも、寺院の本堂の仏壇に安置されていれば、まるで漢字の読めない外国人ならば、何か大切な信仰対象であると思うことでしょう。

わたしが問題にしているのは、漫荼羅を写真に撮れば謗法かどうか、もしくは写真製版した印刷が漫荼羅かどうか、ということではなく、何故、それを謗法と思うのか、もしくは本尊と思うのかという己心・他心の問題です。そのように思うようになったのは、外的要因の影響で喜怒哀楽を操作されていないのかという問題です。

1818パンナコッタ:2005/09/23(金) 11:25:46
あらら、エラいことになってたんですね。

自分の名前が出た以上、書かせて貰いますが自分は当たり前ですが”会長”なんぞはやってませんし、
さらしに移されたこの文面は、悪意があり揶揄的に受け捉えるので対応することなく”スルー”させてもらいます。

もちろん、この板のルールに則って非礼な部分を謝った上で、議論を続けたいと言うなら構いません。
しかし、その様な当たり前のことを出来ない人物には時間の無駄ですし、一切スルーで対処させていただきます。

1819独学徒:2005/09/23(金) 12:13:43

コウさん、初めまして。

ここでのルールに則した議論ならば、きっと皆さんも歓迎し、貴方にとっても実り多き時間となると思いますよ。

一緒に学びませんか。

1820犀角独歩:2005/09/23(金) 12:16:53

1817の自己レスです。

ここで、わたしが記したことは、1816に問答さんが開陳された法華、漫荼羅信仰を否定する意図ではありません。信教はあくまで自由ですし、記したとおり、漫荼羅は本尊と足りえるでしょう。

ここは自由な議論の場ですから、立場を明確にしておかないと混乱が来たすと思ったので、問答さんがお考えを提示されたので、同様にわたしも立場を鮮明にしたということです。

1821ラキ:2005/09/29(木) 22:32:12
秋ですね〜
そろそろ、鎌倉の紅葉もはじまり、連師の足跡を辿る、オフ会とか楽しいかなぁ〜
(-ェ-o)ボソッ

1822犀角独歩:2005/09/30(金) 01:23:11

ラキさん、本日は有り難うございました。

1823とうとう本当に地球が死滅:2005/09/30(金) 10:41:07
昨日のマスコミで取り上げられていたけれど、このまま温暖化が進めば百年以内に貝類は海水が酸性に変わって死滅するそうだ。貝が生きられないということは海の死滅を意味するので、その結果として陸が無事であるわけがない。つまり地球の死滅です。運が良ければ?百年といわず数年後の滅亡し、あなたは滅亡に遭遇することができる!?世界中でハリケーンや台風の多数同時発生、くらげの異常発生などその兆候は枚挙に暇がない。池田さん、日顕さん、浅井さん達!この現実に目を向ければつまらない抗争をしている場合じゃないとわかるはずだが。真の指導者ならばあなた達の力で何とかできるはずだし、こんな時こそ少しでも何か行動しているでしょう。、そうしてこそ本物のリーダーと言えます。
多分、反対にニセのリーダーと証明してくれるのじゃないかな。最後に正信会は話にならない。

1824ラキ:2005/09/30(金) 23:08:13
Mドで顕正会の悪口罵詈を語っていたのは、私です。
山手線系の後ろの席にいた、お兄さん〜
身動きしないで、聞き耳立てていたのが、気になるんですが(^^;

1825ラキ:2005/10/01(土) 00:34:36
聖教新聞入手して見たら・・・
広告だらけε-(´д`) ハァー・・
機関紙に広告載せるなら、値段下げましょう〜
広告収入は課税対象ですよね?・・・
疑問に思わないのかと(=д=;)はぁ…

1826ラキ:2005/10/04(火) 19:35:17
介護保険見直しで、デイケアーの食事代が増額!
うちの父が今お世話になってる場所が料金UPの為、他所の施設に移転する事になりました。
社会福祉を訴えてる所は、何とかして欲しいものですよ。。。。
ついでに、1年前に”疥癬”の感染があったにもかかわらず、今月に入ってまた、”疥癬”の感染が判明!
あれほど、行政には注意するように警告をしていたのに、同じ過ちを犯すとは・・・

1827ラキ:2005/10/06(木) 00:20:55
お料理の本を立ち読みしていたら、けんちん汁の発祥が「建長寺」と知り、けんちん汁を食するとき「謗法汁」とか言われたらどうしましょうと?くだらない疑問をふと思い浮かべてしまいました。(^^;

「日本豆腐協会」のけんちん汁の紹介ページ。
http://www.tofu.ne.jp/2004/abouttofu/rekishi/rekishi/4-kenchin.html

1828パンナコッタ:2005/10/06(木) 11:38:26
ラキさん、
池上会館のすぐ下にある照栄院さんの”たぬき汁”も一応、名物とのことです。
 http://www.shoueiin.jp/shoeiin/tanuki.html

精進料理なので本物のタヌキは入っていませんけど、簡単レシピが載っています。

1829犀角独歩:2005/10/06(木) 13:05:36

創価学会にいた頃、「広宣流布の模擬試験」記念とか言って、毎年、豚汁を皆で、登山となれば、新町売店に駆け込んで、豚汁を食べていました。

本門寺では、たぬき汁、知りませんでした。
今度、池上でオフ会をやるときにでも、みんなで食べますか。なんか、ばかされそうですが(笑)

1830ラキ:2005/10/06(木) 14:44:08
”たぬき汁”*゚ρ゚)ノ~*.オオオォォォォォォ-
次回、たぬき汁をメインのミニフィールドオフ会か、昼食オフ会とかいいですね。
たぬき=てんかす(揚げ玉)が入ってるのかと思ったら、入ってないんですね。
宗教と食文化。探せば色々ありそうで、楽しそうです。
(難しい事はわからなくてもいいのです。美味しい!幸せの有難い一念で食せばいいのです。)(;゜(エ)゜ヾ

正宗では来年の年明けに教学試験がありますが、正宗系教団の”教学試験”は、試験に合格するための勉強で、教学を”身に付ける”勉強ではないと最近感じております。
受験の為の”教学試験”なら受けない方が、身の恥にならないような気がします。
試験何級合格者と言っても、基礎教学に近いことさえ質問しても、答えが無いか知らないって方が多い現状は、嘆かざるおえません。

1831独学徒:2005/10/06(木) 15:15:15

>犀角独歩さん、
お薦めスレッドより移動します。

お薦めスレッド334のご投稿にて紹介戴きました、「大石寺の歴史」181以降を拝見しました。
2001年に既にここまで議論されていたのですね。
改めて敬服しました。

2001年といえば、確か私は、学会教学に何の疑問も持たずに、青年教学一級試験に挑戦し合格したころだと思います。

その後、宗門との問題を取り扱うようになり、それまで学習した教学が何の役にも立たないことがわかり、情報をインターネットの世界に求めたことが、自身の新たな研鑽のきっかけとなりました。

膨大な過去ログをすべては拝見できないでしょうが、できるだけ同じ議論の蒸し返しにならないよう注意してまいりますので、今後とも宜しくご指導の程お願い申し上げます。

1832犀角独歩:2005/10/06(木) 16:19:38

独学徒さん

> 議論の蒸し返しにならないように

いえいえ、書いてきた本人も、そもそも、忘れてしまうほどの分量です。
確認の意味においても、議論の蒸し返し、大いに歓迎ということにいたします。
わたしは皆さんの議論をしながら、また、学びながら、過去の自分の考えを書き換える毎日です。ですから、蒸し返しても、また、そこに新しい展開も生じようかと存じます。
その点はお気になさらず、お気軽に、と申し上げておきます。

1833独学徒:2005/10/06(木) 16:30:29

>1832
犀角独歩さん、

恐れ入ります。
初学の私にとって、大変にありがたいお言葉です。
有難うございます。

今後とも宜しくお願いいたします。

1834彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/07(金) 12:42:35

>1830 ラキさん

> たぬき=てんかす(揚げ玉)

というのは関東の文化でして関西では“たぬき”とは、黒いソバに油揚げの入っているものです。関東ではこれを“キツネソバ”といっているはすです。

動物の狸の肉は臭いので今では食することはまあないでしょう。江戸時代には食していたようですが、臭い消しにニンニクを使ったようです。

1835藤川一郎:2005/10/07(金) 13:45:58
スレ違いにつき再投稿します。
元は削除下さい。

先日、某右翼結社の団員と会ってました。
彼は右翼でありながら真如苑信徒という変わり種なんです(笑)。

さて本題ですが、昨今「右翼結社(民族結社)」の団体行動に国柱会の方が参加されることがあるそうです。
彼もその時に配布していた国柱会の機関誌を所持しておりました。
そこでどなたかご存じの方がおられましたら、お答え下さい。
昨今の国柱会は政治結社としての立場もあるのでしょうか?

1836ラキ:2005/10/07(金) 18:26:21
>1834彰往考来さん。

>というのは関東の文化でして関西では“たぬき”とは、黒いソバに油揚げの入っているものです。関東ではこれを“キツネソバ”といっているはすです。

”きつねそば”=揚げ玉入りは関西です。
関東では”きつね”=油揚げが入った、うどん。そばを”きつね”うどん。きつね蕎麦と呼んでいます。
和歌山で驚いたので、印象に残ってます。
注文したのと違ったので(^^;
余談ですが、関東と関西では、カップ麺の味が違います。
商品に「E」「w」と印刷があり、関東、関西と2種類販売しています。

「大阪食のタブー集・マナー集・常識集」
http://www.kuidaore-osaka.com/2top/deep/02_tabu/0009.html

1837イワザル:2005/10/07(金) 20:12:40
RE:1835 藤川一郎さま
>昨今の国柱会は政治結社としての立場もあるのでしょうか?
ございません。

>団体行動に国柱会の方が参加
あくまで、個人的な行動です。ただ、以前の機関紙編集者に思想的偏りが
あったかもしれませんね。もし、その機関紙が最近のものであれば、
「立正」ではありませんか?それは「国体学会」の機関紙ですね。
一部の方のため、間違ったイメージが出来上がり迷惑しております。
まあ、一般的に見れば右よりですが、政治結社ではありません。
困ったことです。(~_~)

1838藤川一郎:2005/10/07(金) 22:24:32
>>1837
イワザルさんへ。補足します。

機関誌は何だったかは忘れました。もしかしたらそれかも知れません。
それと田中勇一郎さんという方の運動への激励文(?)のような物をご持参されたそうです。
情報は以上です。

1839慎之輔:2005/10/07(金) 23:31:30
藤川一郎さま
たぶん、昭和の日の成立に関係する催しか?活動ではありませんか?
国柱会は昨今というより伝統的に天皇及び天皇制を尊重していますね。
戦前の明治節制定にもかかわりましたからね。ただ、それ以上の政治の
手法に口出しするような政治結社ではありません。宗教団体ですから。
派出の団体は結社的なものもあります。

1840犀角独歩:2005/10/08(土) 05:27:16

独学徒さん

昨日、本行寺をのぞいてきましたが、御会式桜は葉ばかりでした。
ちょっと、がっかりして眺めていると、傍らにいた方が「あそこに一つ咲いていますよ」と指さした先に一つ、二つ、花開いていました。携帯電話のカメラに望遠機能がなく、残念ながら撮影できませんでした。この種類は葉が先なのかどうか、しばらくしたら、咲くのでしょうか。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/oesikizakura051007.jpg
(上記、ジャンプしなかったら、アドレス(D)にコピペしてください)

1841独学徒:2005/10/08(土) 11:38:57

犀角独歩さん、有難うございます。

10月13日は無理ですが、近く見学に行ってみたいと思います。

1842犀角独歩:2005/10/08(土) 12:40:58

独学徒さん、御会式桜というのは、たしか長く咲いていると思います。

1843ラキ:2005/10/09(日) 00:53:49
妙観講が”顕正会。日蓮宗”の折伏の為のマニュアル冊子があるとの話を聞いたのですが、そのような冊子は存在するのでしょうか?

1844ラキ:2005/10/09(日) 01:03:37
桜と言えば”春”ですが、秋に咲く桜もかなりあります。
下記のHPにて、秋の桜の写真付きで記事が掲載されているので、秋桜が堪能できます。

「年中桜旅」
http://sakura.way-nifty.com/sakura/

1845独学徒:2005/10/10(月) 13:01:26

犀角独歩さん、ラキさん、情報有難うございます。

1846ラキ:2005/10/10(月) 23:41:32
”富士門流信徒の掲示板”が書籍になれば、教団・団体の発言に矛盾を感じ、”嘘”を教え込まれた、と目が覚めるのでは?・・・
富士門流信徒て多いからベストセラー間違いなしかな?(;^□^)あはは…

1847ラキ:2005/10/11(火) 00:40:38
妙観講・大草さんの法道院に居た時の指導教師に対しての暴言のネタ(まだ起きてるけど!汗)探しをしていたら、歴代の本尊の写真を発見。
板彫刻て色んな種類があるんですね。。。。
それにしても○○の本尊て記載ではなく”御本尊”て記載してるのが・・・ε-(´д`)


「謗法容認シリーズ」
http://fujinomiyaboy.fc2web.com/shiryousitu_houbou_index.htm

1848栴檀:2005/10/13(木) 09:08:55
こんにちは。

突然話をそらして申し訳ありませんが、
1777〜1787あたりで話題になりました題目の区切り方なのですが、
江戸初期の立本寺第二十世霊鷲院日審上人の講義録の中に
やはり南無・妙法・蓮華経で切るようにとのご教示がありました。
もしかするとかなり前からこのような指導が行われていたのではないでしょうか?

1849犀角独歩:2005/10/14(金) 01:34:39

本日、立正大学の公開講座に参加してきたのですが、上演された演能「龍乃口」、最後の決め場面で、‘日蓮聖人’がお題目を唱えるシーン「南無、妙、法蓮華経」と発声されたとき、栴檀さんが顔が目に浮かびました(笑)

1850藤川一郎:2005/11/01(火) 14:25:32
この頁面白いよ。
卒塔婆用プリンターもあります。

http://www.oterasan.jp/index.htm

1851パンナコッタ:2005/11/05(土) 11:14:50
公明党は4日、党の「政治倫理規範」を改定し、政治資金パーティーや企業・団体献金の禁止規定を削除する方針を固め、
5日決定する。小選挙区制に移行以来、当選には支持基盤の拡大が不可欠となり資金調達の必要性が高まった事情が背景にある。
すでにパーティーを開いている議員も多く、規範を現実に近付けることにした。 (毎日新聞) - 11月5日3時4分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051105-00000016-mai-pol      更新してリンクが切れる場合があります。

清廉潔白なイメージを売り物にしていたのに、なんだかねぇ。

1852犀角独歩:2005/11/05(土) 11:34:35

古い話ですが、公明党が出来立ての頃、宴会政治の廃止を訴えた国会中継を見た記憶があるけれど、格好良かったですね。さらに福祉政策とか、みんな、信念に基づいて、輝いて見えました。

これががっくり腐り落ちていたのがわかったのは、田代富士夫の砂利船汚職、池田克哉のリクルート汚職でした。

区議、市議辺りはどうだか知りませんが、衆参議員になれば、会員向きの顔と、議員一般社会の付き合いを使い分けていますね。いまや自民党のよきパートナーですからね。

藤原行正の藍綬褒章受章パーティーに行ったんですが、高輪新プリンスホテルの飛天の間で、「なんだ、創価・公明は『無冠の友』じゃなかったのか」と思ったのを覚えています。もっとも日本で勲章をもらわない池田さんは海外からで、いまや200にも及び勲章とか、何とか。

この『無冠の友』という池田さんの詩、たしか正本堂建立当時、パンフレットにされて配られたんですが、いまでも読まれているんでしょうか。聖教新聞配達員を謳ったものでした。あと、学生部に送った『6・30メッセージ』というのもありました。「喝采のない不惜の転教」という一節に涙したものですが、いまや、昔話というところでしょうか。

「昔はよかった」と、他宗の人を交えたところで呟いたら、「俺たちは迷惑していたんだ」とぼやかれました(笑)

1853ラキ:2005/11/05(土) 15:03:40
庶民の味方!公明党。
学会員が口にする言葉・・・
ここまで、裏切られて、小ばかにされて、学会員は何も思わないのでしょうか?・・・
いまさらながら、感覚が麻痺しまくっているんでしょうね。

1854犀角独歩:2005/11/06(日) 15:44:41

石山に限らず、正信会などでも、日興「仏聖人」と書く‘ほ信念体系で固定観念化から来る希望的観測ですね。『御遷化記録』を読み直していて、そう思いました。

「一、御所持仏教事
 御遺言云。仏者釈迦立像。墓所傍可立置云々」(宗全興尊全集 P105)

仏聖人とは、釈迦と日蓮という意味なのだろうと思います。
現行の冨士方漫荼羅正意論者は決して認めないでしょうが、わたしは日興が仏像を奉安していた可能性は捨てきれないと考えます。

1855れん:2005/11/06(日) 16:46:15
横レス失礼します。
日蓮御遷化記録や原殿御返事から日興消息「仏聖人」を考えますと、やはり仏=久遠実成釈尊、聖人=日蓮と読むほうが自然ですね。独歩さんの御推測のとおり、私も日興は師日蓮に倣って釈迦立像を持仏として所持していたと思います。家中抄中巻に掲載された目録の「日興御作の釈迦一そん一ふく」の記述は、僅かにそのことを伝えるものと謂えるかも知れません。

1856犀角独歩:2005/11/06(日) 17:58:21

れんさん、ご教示有り難うございます。

興門上代の一尊四士を日興義とする日澄に係る記述、また、「日興持仏堂」と言った文献資料は、お示しの日精述と併せ、その事情を伝えていると考えます。

1857怒りの台湾人:2005/11/07(月) 20:13:02
今日、奉安堂の扉が故障して御開扉が中止になりました。扉が途中で開かなくなってしまい、
しかも手動で開けることが出来ない欠陥?が発覚してしまった。こんな安全管理で大丈夫なんだろうか?
御開扉料を返却するから退出して下さいと言われて、台湾からの団体さんがあ然して途方にくれてました。
この不祥事は前代未聞らしく今後の宗門を暗示しているかの様な不吉な出来事なんだろうか?

1858犀角独歩:2005/11/08(火) 00:19:36

前代未聞のことというか、以前もこんなことはあったと記憶しています。

その時は御開扉者の中に謗法の者が紛れ込んでいるために、「御本尊様」と「猊下」のお力で扉が開かなくなったとか、そんな口混みが流れたのではなかったでしたったけ?
これは正本堂時代の話でしたか?

1859犀角独歩:2005/11/08(火) 00:24:09

【1858の訂正】

誤)口混み
正)口コミ

1860ラキ:2005/11/08(火) 00:32:44
顕正会浅井さんが知ったら喜びそうな話ですね。
13日の日曜勤行で、話をしような予感。
また”御開扉料を返却する”で、戒壇の御本尊を見世物にしてると、いっそうの指摘が目に見えて考えられます。
電動式にしてる時点で、故障の危機は考えられる問題であり手動で開閉できない設計の時点で欠陥品は隠せない問題でしょう。
また機会式なので、日頃のメンテナンス点検を怠っているのではとも想像ができます。
これを機に手動式開閉にしたほうがよさそうですね。

1861犀角独歩:2005/11/08(火) 09:50:54

昨日の松山師の講義。法華経とはまったく別の話ですが、

・人間が言葉を喋る能力を持ったのはいまから5万年前後
・舌骨(Hyoid bone)の突然変異で自由に発声ができるようになったから。
・この声(音)が一つの意味を持ち、コミュニケーションに利用されるようになるには、それ相当の集団化があったはずだ。少なくとも1万人程度の集合があったのではないのか。

 参)Os hyoideum(舌骨)Hyoid bone
   http://web.sc.itc.keio.ac.jp/anatomy/osteologia/A02116001-004.html

・古代文明が何故数千年前からしか確認できないのか。それは最後の氷河期が1万年前に終わったことと関連するのではないのか。その後、爆発的に文明が発達した。

 参)氷河期
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nkazu/yama/hyouga.htm

というような余談がありました。
また、宇宙に我々のような生命体のある可能性はないだろうと、その確率を示す数値を示されたが失念。

法華経を聞く観念でいたので、この一連の話が妙に記憶に残りました。

1862単己:2005/11/08(火) 10:36:41
>>1858
>その時は御開扉者の中に謗法の者が紛れ込んで...

その話はその場にいた(と言ってました)、創価班の本山担当から聞いたことがあります。

「正本堂で御開扉の時に、猊下が着座されて唱題がしばらく続いたが電動の扉の部分が開かなかった。猊下は唱題を止められて「この中に、来てはいけない人がいます」と言われた。その途端、数人が座席から飛び出して逃げ出した。彼らが出たあと、扉がいつものように開き始めた。捕まえてみると、彼らは顕正会のメンバーだったことが分かった」とこんな話でした。

実際には扉が開かなかったことは老朽化で何回もあったかもしれませね。

1863犀角独歩:2005/11/08(火) 11:09:04

単己さん、レクチャー有り難うございました。

こんな話でしたか。「顕正会」オチだとは知りませんでした。
如何にも、学会・石山蜜月時代のハナシという出来上がりですね。

1864門外漢:2005/11/11(金) 05:11:20
>1861

(1849に関連して)Os hyoideumはラテン語では、「オース、ヒュオイーデイウム」(イーにアクセントをつける)
のように、発音するようです。関係のない話で、すみません。
われわれ、英語から勉強してるから、ちょっと意外な感じがしませんか?
だから、能や声明で、古い発音が残っているって言うのは、すごい貴重な文化遺産だと思います。

これまたあまり関係のない話ですが、ある全盲の翻訳家が、「文字を見ないと外国語の勉強って却って楽なんですよ。」って言ってたのが印象に残っています。

1865犀角独歩:2005/11/11(金) 10:59:23

門外漢さん、はじめまして。

参考になるお話、有り難うございました。

1866藤川一郎:2005/11/22(火) 14:53:04
スレ違いになるので、こちらでつぶやきます。

「右翼だ」「左翼だ」「協賛(共産)だ」「マルクスだ」「ブルジョワだ(キリが無いな)」等とラベルを貼るのを、ラベリングと言うんだそうです。
世間一般で言う「レッテルを貼る」と言う事でしょうか?
これをするとものすごい分かりやすいことは確かなんですよね。
でも昔の金八先生で不良の加藤君が言った台詞「教育というのは悪にレッテルを貼って、もっと悪くする事じゃ無いんじゃねっすか。」じゃ無いですけど、レッテルを貼ることにより、相手を縛り付ける事があるのですよね。
それも、討論上の技術戦略なんですがね。

話は戻しますが、世界的には民主主義が絶対のような風潮にあります。創価学会も仏法民主主義なんて用語を創作してますが、私は民主主義が絶対だとは思いません(もちろん資本主義も絶対ではない)。
ここで話を止めると恐らく「差別主義者」「帝政主義者」だと決めつけられるんでしょうがね(爆)。でも決して、そんな白黒に分けられない者なのですがね。

ここに日本人の長所でもあり短所でもある事に「曖昧さ」「妥協性」「全てを包含する性質」等があります。それは怨霊(恨み)を恐れる事から生まれたのかも知れませんが、今こそ見直すべきでは無いでしょうか?真ん中を取ると言う事です。まさに薄墨の衣のような考えですね。
徹底的に排除すると、相手は絶対に怨念が残り怨霊になりますよ。
私も共産党は嫌いです。だからといって根絶やしにする気持ちはありません。むしろ、批判勢力として少数として残っていて欲しいとも思っております。ましてや、彼ら自体いまさら「テロリズム」を行使するとも思えません。むしろ「共産党は暴力革命を目論んでいる」とレッテルを貼ると、本当に追い込まれて「そんなに言うならテロでもやってやるぞ」となったら、誰の責任でしょうか? ラベリングした側に全く責任が無いとは言えるのでしょうか?

1867匿名:2005/11/22(火) 18:51:35
>1866

あー、そうでした。
私も、自分で「中庸精神」などと書いておりながら、つい反論に夢中になって「ラベリング」してしまっておりましたね。
自分の思想や信条というものを書きはじめると、どうしても偏ってしまう。思想や信条とはそういうものですからね。なるべくそのようにならないようにと、自分の内心のことは書かないつもりでおりましたのですが…。
自分の自身の中で、真中をとるというのは、意外と難しいものです。
全体で、中庸になっていく、もしくは真中をとっていく、そんな全体のバランスには、いろんな立場やいろんな意見の人がそこにたくさんいるというのが、いいんだろうと思います。

共産党の立場の方々と、仏教界が、共に行動をすることによって、共産党の潜在的な暴力性というのが、抑えられるというプラスの面もあるのかもしれませんしね。

行き過ぎた投稿だったと気が付き、反省しております。
ありがとうございます。

1868匿名:2005/11/22(火) 18:57:23
>1866 訂正

誤)共産党
正)共産主義

1869犀角独歩:2005/11/22(火) 19:07:18

藤川さん、わたしは、仏教の話をする場で「討論上の戦略」はやめにしたいと思うわけですよ。

事実究明を目的にする場で、勝った負けたの話になっても不毛だからです。

1870犀角独歩:2005/11/22(火) 19:25:35

というわけで、1866に賛成です。

1871匿名:2005/11/22(火) 19:55:11
>1870

賛同ですか。そうですか。それは、よかった。
どうぞ私にラベリングされませんよう、善処して頂ければ幸いです。

1872犀角独歩:2005/11/22(火) 20:32:40

匿名さん

どうして、なんでもそうやって、他人のことでしか考えられないのかな。
この話の発端は、あなたがわたしは「革新左翼系」と言ったところから始まっているんでしょう。

1873匿名:2005/11/22(火) 20:55:32
>1872

そうかもしれませんが、深く読めば、あなたにも当て嵌まることです。
私、あなたから「自衛隊翼賛」と6回もラベリングされました。
まあ、>1866のレスが、そのことを示唆しているものというわけではないと思いますけど。
ご参考まで。

1874匿名:2005/11/22(火) 20:57:59
追記

そうそう、「保守系政治論」とも書かれました。

1875犀角独歩:2005/11/22(火) 21:27:52

> 1874

何を言っているのですか。自分で自衛隊は軍隊で賛成、保守であるといったのでしょう。
つまり、ラベリングではなく、当を得ていたということです。

一方、わたしは憲法改正反対という保守意見を述べたのであり、また、仏教徒であり、左翼思想の根本をなす唯物史観とは根本的に考えが違います。
このような的外れな決め付けをすることをラベリングだというのです。

しかし、賢明な藤川さんの提案も、ねちねちした執拗な言いがかりとなるわけですか。
呆れたものです。

1876匿名:2005/11/22(火) 21:30:42
>1875

このスレッドの趣旨に反してますよ。

「このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」

ここに投稿された意図を汲んで、お互いに、そこそこにしておきましょう。

1877犀角独歩:2005/11/22(火) 21:42:15

1870から因縁を付けてきたのは、そっちのほうでしょう。
どうして、そうも自分のことは見えないのでしょうか。
ともかく、これ以上はやめてください。

1878匿名:2005/11/22(火) 21:48:38
>1877

極力、とりあわないように、心がけますので、できれば、そちら様も。

1879犀角独歩:2005/11/22(火) 21:54:03

そうしてください。現時点でもかなり迷惑しておりますので。

1880藤川一郎:2005/11/22(火) 22:00:10
私がつぶやきスレッドに書いたのは、このスレッドが討論禁止だったからです。
それすら、挑発と取られたとしたら、自分の不徳の致す所であります。
まあ、今後は「烏帽子直垂」の礼装を正した討論を心がけましょう(多少イヤミだったかな?)。

1881匿名:2005/11/22(火) 22:44:20
この際ですから、はっきりしたことを言わせて頂きましょう。
ここの掲示板、私、5年前でしょうか、アップした当初から読ませて頂いております。
信仰における大変有意義な議論が、続けられてきました。
犀角独歩さんの教義における研鑚と、この掲示板における貢献度については、私は大変敬意をもって認めております。
個人的に、感謝もしております。

しかし、この掲示板の参加者は、何も投稿者ばかりではありません。
ロム者も参加者です。広く立場の違う方、意見の違う方がおられるでしょう。
しかし、どうも投稿がしにくい。
掲示板の議論の流れというのは、もちろん大切です。
しかし、ロムしている中で、「あれ?なんか違うんじゃないだろうか」と思うことは、あるわけです。
適当なHNをつけて、投稿にかられることもあります。
しかし、ここは、はっきりいって投稿しにくいです。

個別のHNを出して申し訳ないですが、犀角独歩さんの議論の運び方において、横暴に思えるときが種々あります。
だいたい、人の投稿に対して、何かにつけて「無礼」と言う。こんな発言、他の誰が発するでしょう。
知識の未熟な人もいます。そういう人が投稿したっていいはずです。だからといって、卑屈にならなければいけないのでしょうか。

また、犀角独歩さんの見解とは違う人だって、たくさんいるんです。だけど、それを投稿すれば、必ず最後には、「無礼」呼ばわりされるわけです。それを見ているだけでも、他人事ながら、とてもいやな気分になります。
そもそも「無礼」と発するほうが、「失礼」なわけです。
だけど、誰もそれを、諌める人はいません。
それもそうでしょう。一言言えば、何倍にも返ってくるのですから、それだけども、諌めた側の精神的負担は大きいわけですから。

オフ会などで、面識を交わしている方々も、多くいらっしゃることと思います。そのような方々は、尚のこと、余計な意見をすることは出来ません。
しかしロム者を含めた大半の参加者は、面識を交わすことはなく、個人的な交流は関係ないのです。
そのような方々も、自由に自分の意見が投稿できる掲示板の「空気」というものを作って頂きたい。
これは、管理者様に是非、申し伝えたいことであります。

これは、何も、犀角独歩さんへの個人攻撃というものではありません。
ただ、昔からロムしている参加者としての私の掲示板への思いの一端です。
私は、教義に関する深い造詣はありませんので、教義スレッドに対してレスするつもりはありません。
しかし、教義に縛られないスレッドに関しては、もう少し広く参加者が投稿できる環境を整えて頂けないものでしょうか。

1882管理者:2005/11/23(水) 00:46:57

>1881

匿名さん

>そのような方々も、自由に自分の意見が投稿できる掲示板の「空気」というものを作って頂きたい。
これは、管理者様に是非、申し伝えたいことであります。

管理者に対するご発言なので、応答させていただきます。匿名さんには是非とも、管理者に対してどの様に掲示板を運営すべきか、具体的な御提案を賜りたく存じます。ご承知の事と存じますが、当掲示板は、「管理者からのお願い」スレッドの「掲示板の投稿ルール」に従って運営されておりますので、具体的に、掲示板のルールの変更・追加・削除の御提案を賜りたく存じます。ルールが変わらない限り、運営を変えることは難しい訳です。ご理解賜りたく存じます。

1883雖念:2005/11/23(水) 06:59:18
> 1881 犀角独歩さんの見解とは違う人だって、たくさんいるんです。だけど、それを投稿すれば、必ず最後には、「無礼」呼ばわりされるわけです。

匿名さん、はじめまして。雖念と申します。
独歩さんは、掲示板で議論する上でのマナーを厳しく要求されます。議論の重複を避けるとか、議論の根拠となる文書、発言の出典を明示する等々です。しかし、私も、このようなことは議論の水準を維持し、議論を発展的に進めていく上での最低限のマナーだと思います。
独歩さんはご自分自身に対しても大変に厳しい方で、批判に対しては誠実にレスを返してくださいますが、これは投稿する立場にいざなってみると、なかなかできることではありません。
小生もいくつかの点で、独歩さんとは見解を異にしていますが、無礼呼ばわりをされたりはしていません。
要は、本気になって誠実に議論を続けられるかどうかという点にあると思います。

1884彰往考来(しょうおうこうらい):2005/11/23(水) 07:17:23

>1881オフ会などで、面識を交わしている方々も、多くいらっしゃることと思います。そのような方々は、尚のこと、余計な意見をすることは出来ません

ここはつぶやきなので。

私は確かに犀角独歩さんとオフ会で面識があります。細かい点で意見が違う箇所は多々ありますよ。
でも確実にそれが間違いでない限り、当方の考えは認識されていますよ。
まして無礼よばわりされることはありません。

オフ会で感じることは、この掲示板は色々な出身母体の人がいるということです。創価学会の人もいるし、法華講の人もいる。顕正会の人もいるし、それぞれの組織を退会してフリーになった人もいる。だから、その組織を代表する意見を述べるなら浮き上がってしまいます。組織の枠を越えることができるかできないかどと思うわけです。
要はこの掲示板での真剣な議論をそれぞれの組織においていけせるかどうかだと思っています。

1885彰往考来(しょうおうこうらい):2005/11/23(水) 07:23:47

>1884

打ち間違いをしでかしました。

誤:組織の枠を越えることができるかできないかどと思うわけです。
正:組織の枠を越えることができるかできないかだと思うわけです。

1886彰往考来(しょうおうこうらい):2005/11/23(水) 07:26:32

>1884

ごめんなさい。もう一箇所。

誤:要はこの掲示板での真剣な議論をそれぞれの組織においていけせるかどうかだと思っています。
正:要はこの掲示板での真剣な議論をそれぞれの組織においていかせるかどうかだと思っています。

1887つぶやき:2005/11/23(水) 07:49:45
議論の中身の優劣はともかく、議論の仕方は匿名さんの方がずっと紳士的に
思えるのは私だけじゃないはず。

自分と正反対の意見だと
”無礼でしょ””笑止千万””お話になりません””他の掲示板でやればいい”
”私と議論するレベルじゃない”
とくる。それでいて、応答しないと”逃げるきですか”と来る。
これは言葉の暴力以外何物でもないと思いますが。

でも、管理者さんからの注意は一切無いので、ルールには反して無いのかな。

1888管理者:2005/11/23(水) 09:54:59

>これは言葉の暴力以外何物でもないと思いますが。
>でも、管理者さんからの注意は一切無いので、ルールには反して無いのかな。

管理者は犀角独歩さんの、ご指摘のような発言に対して、確かにハラハラして見守っているという現状は有ります。そして、それらの発言がルールスレスレかな、と思うことも度々有ります。

ただ、明らかに禁止事項に抵触しているとまで判断できるレベルで有る判断できない限り、注意とか削除とかはしていません。

激しい応酬が有ったとしても、それを以って直ちに管理者が介入する考えは有りません。

議論である以上、それぞれ発言される方がご自身の主張に対しては責任を持って頂くことによって、不毛の対立を回避すべきものであると考えいます。

主張の根拠を求められたときに、立ち往生して返答に窮するなら、その時点で議論は終焉します。

にも拘らず、求められた根拠を示すことなく主張を続ければ、1887に示されたような表現が犀角独歩さんから飛び出すのは止むを得ない経過であろうと管理者は考えております。

管理者も、過去、犀角独歩さんとは、かなり激しい議論の応酬になる事がしばしばですが、証拠主義に立つ事によって、喧嘩別れにならないばかりか、却って、啓発され、有意義な議論で有ったとの感慨を持つことが出来てきました。

ご参加の皆様におかれましては、常に「根拠の明確な主張」を心がけて戴けますれば有り難く存じます。

「根拠の定かでない主張はこの掲示板ではお法度か?」という事ですが、ご自身の主張として述べられるのであれば、そうなりますね。

議論というものは、掲示板での議論に限らず、本来、それぞれの方々が根拠を以って主張を展開したときに始めて、議論になるのだと考えております。

もし、それが堅苦しい、とお考えなら、「議論」をなさらなければよろしいのではないかと考えます。

いろいろな投稿の仕方が有ると思います。例えば、どんどん相手に対して質問して、相手の主張の内部矛盾を指摘するとか・・・

管理者の考えは以上のようなことですが、皆様のご意見をお待ちいたします。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

1889犀角独歩:2005/11/23(水) 10:31:02

自分のことなので、自分で記しますが、わたしが「無礼」「失礼」というのは、もちろん、そのように礼が無く、失しているからです。

ごく最近の例でいえば「平和ボケ戦士もどき」とわたしは罵ったものがいる。これは無礼でしょう。

そもそも、十分な説明で出来ず、また、わたしの記したことを誤読したうえで「甘い」などと暴言を吐いて、それに抗議しても何ら応じることもない態度を無礼というのは理の当然です。人に難癖を付ける前に、ちゃんとした謝罪をするべきでしょう。ところが誤るどころか、さらに輪をかけてのこの体たらくです。

だいたい、ここはつぶやきであり、そこでわたしに1871でこすってきた。ところがこれに応じられると、あたかもわたしが言い出したように「趣旨に反してますよ。…このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう…お互いに、そこそこに」と、あたかもわたしが言い出したことのような口振りで来るわけです。さらに「極力、とりあわない」といいながら、1881に長文でさらに書いています。

このようなことは「つぶやき」という当スレッドの趣旨に反しています。常識はずれというより、実におかしなやり取りではないでしょうか。自分から議論に応酬をし趣旨に反しておきながら、あたかもわたしのほうがしたような書きぶりで、さらにエスカレートしてきています。このような点はまったく自省することもなく、ただ、相手のせいにしてあげつらう。このようなことに対して、抗議するのは当然のことです。

そもそも、このスレッドは、応酬禁止というきまりを逆手に取り、悪口を書き連ね、それに応酬するとルールに反しているという理に通らざる批判を投げかけることに悪用されてきた経緯があります。今回も、その一例となったわけです。

わたしは最近では、彰往考来さん、れんさん、一字三礼さん、ラスカルさんなどと応答しています。また、ここの掲示板で、わたしと最も意見も違い、信念体系も違うのは藤川さんでしょう。また、問答さんとも信仰、漫荼羅観、唱題観では大きく異なっています。雖念さんともかなりお考えは違うと思います。しかし、これらの方々に対して、無礼と失礼とも言っていない。何故ならば、たいへんに礼を重んじられ、実に矜持を持ち、礼儀を重んじ、ルールを尊重したマナーがあるからです。わたしは自分の考えと違うことに対して、無礼だといったことは只の一度もありません。実際に無礼だから無礼だと抗議しているわけです。わたしが誰彼構わず、自分と意見の違う方に無礼と言っているのであれば、批判に当たるでしょうが、実際は、挙証不可、回答不能になった段階で終わるべき議論を終わらせることが出来ず、自分の考えに固執して相手を逆恨みし、悪口を書き連ねてくれば、その有様が例を欠いていれば、無礼と言うほかないということです。

1887については、管理者さんの総括に尽くされているので、わたしは繰り返さないこととしています。

1890きゃからばあ:2005/11/23(水) 10:32:52

>オフ会などで、面識を交わしている方々も…。

私もその内のひとりですが、確かにオフ会に参加するまでは、掲示板の参加者全員が強くて怖い存在に感じました。
しかしオフ会に参加してみたら、みなさん丁寧な方々で、掲示板のイメージとは全く違うのがわかりました。
しかしお会いしたことの無い方々の文章には、やはり威圧感を感じてしまいます。
極端な発言は良くないが、論議の中から得たものや、また違いを知ることがどれだけ素晴らしいことなのかを個人的に楽しんでいます。(と言いながらあまり参加できていませんが…。)

犀角独歩さんの「板漫荼羅の真偽」が、板漫荼羅を信じていた私には大きな不安を与えました。しかし今では死後の世界すら本当は無いんじゃないかと疑うようにもなってきました。確かにわからないことへの不安は、絶対に無くなりません。
だからこそ、そのわからないことをこの掲示板で探してみようと思っています。

1891犀角独歩:2005/11/23(水) 13:02:10

きゃからばあさん

> 板漫荼羅の真偽…大きな不安を与え

そうですね。これはわたし自身そうでした。
しかし、事実とは常に厳正であり、粛々と受け止めるなければならないものなのだと思います。
また、事実を明確にすると、その反証ではなく、自分の考えと違うということで敵意を懐かれ、議論ではない悪口雑言の限りとなることは世の常です。10月25日のあの報道の如きです。
独歩たる1人に100万人の憎悪をけしかける。しかし、わたしは怖いとも不安とも感じません。
なぜならば、事実は何よりも強いからです。そして、事実を事実と受け入れられる心の準備ができることを「平安」「目覚め」というのだろうと、最近、考えています。

1892匿名:2005/11/23(水) 21:56:07
ここは、応酬禁止スレッドということで、続けて投稿して良いものなのかどうかわかりませんが、他に適当なスレッドも見当たりませんし、一応の流れですので、ここに投稿させて頂きます。

まず、ここは教義について議論することを主とした目的の掲示板であることは、私は立ち上げ当時から見てきておりますので、当然のこと承知しております。ですから、前にも記しましたように、問答形式、根拠を示す、このような議論形式に対して、何も異論はございません。

ただ私が、申し上げたかったのは、教義に縛られないスレッドで、もう少し自由に投稿できる空気がつくれないものかということです。
これは、ルールなどに記すことは大変難しいことだと思います。私にも方法は思いつきません。
また逆にいえば、思いつかないからこそ、意を決して本音を投稿させて頂いたということでもあります。これも問題提起と受け止めて頂ければ幸いです。

私は、当初、どうせ投稿しても、どういう流れになるものかは、だいたい想像がついておりましたので、疲れるからやめておこうかとも思っておりました。こういう思いは、これまでにも何度かありました。まあ、案の定の結果となりましたが、それでも、それなりの成果もあった思っております。

確かに、私は最初に犀角独歩さんの書き込みに意見する投稿させていただきました。いきなりで、とうとつだったかもしれませんが、揶揄したつもりはありません。その後に質問を兼ねたご返信のレスを頂きました。他にも書きたいことがありましたが、ご返信を優先し、時間を費やし投稿をいたしました。そのご返信から、想像していた通り、水掛け論争になりそうでしたので、私は「やめましょう」とご提案いたしましたが、「答えて前に進めるのが筋でしょう。」ということで、その後も引き続き、お答えさせて頂きました。
ところが、どうでしょうか。そのレスに対して、
「わかりきったことです」ですとか、「なんら参考になりません」とか、「こんなことは他の掲示板で書けばいい」ですとか。
たとえ、そのような印象を受けたとしても、そのようなことを相手に平然と発するものなのか。
それ自体が、礼儀を弁えない、相手を侮辱した発言といえるものではないかと、私は考えます。
そのようなことを言われても仕方がないほど、私は趣旨に反した的外れなレスをしていたのか。そのあたりのことは、私は自分では、いまだによくわかりません。

また、私ではありませんが、「平和ボケ戦士もどき」に対する「無礼だ」という発言もありました。しかし考えても見れば、長年この掲示板を見てきておりますが、その程度の暴言は、犀角独歩さんは頻繁に発しておられるのも事実です。当然この度においても、私にも、いく度となく向けられました。そのことにおいてさえ、「当を得ていたということです。」といったご返事。ところが私が意見すると「無礼」となる。そのような横暴な投稿姿勢だから故に、他の相手にも暴言を吐かせてしまうというものではないかと思うところです。

そもそも、自分と意見の違う人を排除しようという防衛本能が強すぎるのではないかと言いたいくらいです。
誰しも自分の議論を否定されれば、そりゃあ不愉快です。だけど、世間は広いのですから、いろんな意見や見解があって当然なんです。私が投稿していたスレッドは、教義を詰める目的ではないのですから、こうでなければならないというものはないはずです。よその掲示板で書けなどど、排除しないで頂きたい。私は、そのことを主張いたします。

相手を見下した暴言は、それぞれが慎んでしかるべきです。これは教義の議論の場でもそうあるべきでしょう。それが本当の礼儀というものです。
このようなことは人に言われることではなく、仏教徒であれば、誰に言われるでもなく自ら慎んでしかるべきことだと思いますし、ことらの投稿者の大半の人は、そのように慎んでいらっしゃいます。ただしかし、最も、頻繁に投稿し、最も、この掲示板に貢献していらっしゃる方が、その点において自らの慎みにいつまでも非常に「甘い」ように思います。また、そのことが、そもそもの、今回の私が投稿する動機でもあります。

1893匿名:2005/11/23(水) 21:57:05
>>オフ会などで、面識を交わしている方々も、多くいらっしゃることと思います。そのような方々は、尚のこと、余計な意見をすることは出来ません

私のこの記述について誤解を招いてしまったかもしれません。

私が言いたかったことは、たとえ一度でもオフ会で面識を交わすことができれば、誰しもそれなりの「情」が通い、「情」が通えば、少々の暴言は、苦笑いで許せるものだということなのです。
しかし、オフ会で面識を交わすことができるのは、ごく少数の方々です。
どのくらいのロム者がおられるのかは存じ上げませんが、面識を交わすことのない、言葉だけのやりとりに限られる何百倍もの参加者がおられるわけです。その人たちは、個人的な交流の「情」というものは、持ち合わせておりません。せっかく投稿したのに、結局は詰りや謗りを受けて、最後には去っていく姿というのは、見ているだけで気分が悪くなるものです。

はじめての投稿者を警戒してしまう。それこそ防衛本能としてわかります。しかし、はじめて投稿をする。これも大変勇気のいることです。当然、構えてしまうものです。

言葉だけのやりとりは、面識を交わしている時以上に、言葉そのものが力を持ちます。ある意味で、言葉は武器となります。そのまま言葉はストレートにある種の「暴力」にもなるわけです。
それが掲示板への防衛本能と思えば、理解もできます。しかし、しっかりと管理者がいるのですから、投稿者が排除に躍起になることはないはずです。
感情的な議論を避けるためには、どんな議論展開になっても、なるべく相手にレッテルを貼ることがないよう心がけ、決して揶揄せず、暴言を吐かず、そして嘲笑しない、こうしたことをそれぞれが自分で戒めることではないかと思います。
これをルールに記さなければ、その品位が保てないとすれば、それは、仏教徒の掲示板として大変恥ずべきことでもあります。

顔が見えないからといって、平然と暴言を吐くのでは、非暴力主義とはいえません。
掲示板では、言葉こそが暴力にもなるのですから。私はそれを言いたかった。

それから私は犀角独歩さんに、個人的に憎悪を向けているわけではありません。むしろ、教義においては過去5年間のご投稿から、多くを学ばせて頂きました。
しかしこの度の議論では、むしろ犀角独歩さんこそ、自衛隊という存在に憎悪を向けておられたのではないかと、私は、そのように見受けました。しかし、結局、自衛隊翼賛と私は言われ、入隊してイラクへ行ったらどうかと揶揄されたわけです。
せっかく高い教義の知識をお持ちでありながら、仏教徒としての品位を示してはいただけなかった点、残念な思いでおります。

管理者さまにおかれましては、私の意向に耳を傾けてまださいまして、その点、感謝しております。
私は、教義スレッドの議論に口を挟むつもりはございません。立てていただいた、「戦争を考える」においては、まだ書き残していることがありますので、少しずつ投稿していきたいと思っております。
私のこの度のクレームが、今後の掲示板の新たな発展につながりますことを、心より念じております。

1894一字三礼:2005/11/23(水) 23:27:34

> 問答形式、根拠を示す、このような議論形式に対して、何も異論はございません。

> 教義に縛られないスレッドで、もう少し自由に投稿できる空気がつくれないものかということです。

> ルールなどに記すことは大変難しいことだと思います。私にも方法は思いつきません。

もう少しご自身で考えをまとめられてから提案されてはいかがでしょうか。
これでは何を仰りたいのかわかりませんでしょう。

長い時間を費やして、こちらの掲示板で緻密に論証され、暴かれた真実や教義はたくさんあります。その結果に対して快く思わない宗教者も、それこそたくさんいることと想像されます。

もしも、「教義に縛られないスレッド」など立てようものなら、仏法の基礎を学んでいない某団体の教義のような、「諸法」を「宇宙」と言って憚らない人達の「言い捨て」「言いっぱなし」の横行する無秩序な掲示板になってしまうのではないでしょうか。

1895匿名:2005/11/23(水) 23:50:11
>1894

では、なぜ「戦争は起きるのか」ということにおいて、仏教ではどのように説いているのかという私の問いかけにきちんと答えて頂けなかったのでしょうか。
これこそ、教義において答えるべきところではないでしょうか。
私は、教義において、お釈迦さまが出家された事実をもって、限界があるのでないかと、記しました。

1896犀角独歩:2005/11/24(木) 00:16:58

今夕は忙しいのであとでまとめて総括しますが、

> 「戦争は起きるのか」ということにおいて、仏教ではどのように説いているのかという私の問いかけにきちんと答えて頂けなかったのでしょうか

匿名さん、あなたは自分が仏教徒である公言した、ならば、この問に答えるべきは、誰でもない、あなた自身だ。

また、わたしが難じた点をはぐらかして善人面するのはやめなさい。

オフ会で会ったことがあれば、情がある? そんな妥協で、信条を語ったことは、わたしはありません。ここにあるのは事実の究明だけです。

くだらない弁明をしていないで、自分の責任で、自分の問題として語りなさい。

> 言葉はストレートにある種の「暴力」

この暴力を行使したのは、自分自身であるという自覚を持ちなさい。

まったく、いつまで経っても、自分の問題と考えられず、すべてを他人を転嫁することしかできないところにすべてのあなたの過ちがあるわけです。

1897匿名:2005/11/24(木) 00:22:59
>1896

命令口調のレスはやめていただけませんか。

1898犀角独歩:2005/11/24(木) 00:31:28

人の抗議を無視して、なかったように語ることこそ、止めなさい。

1899犀角独歩:2005/11/24(木) 00:32:47

匿名さん、言葉優しく語るあなたは慇懃無礼で、誰よりも命令口調ですよ

1900犀角独歩:2005/11/24(木) 00:37:32

もう一点

> 入隊してイラクへ行ったらどうかと揶揄

なんで、これが揶揄なのでしょうか。
自衛隊を肯定するのであれば、当然の帰結でしょう。
なんで入隊したいのですか。また、イラク派遣を肯定するのであれば、なぜ、行かないのですか。

1901犀角独歩:2005/11/24(木) 00:41:45

打ち間違えました。
「入隊したいのですか」ではなく、「入隊しないのですか」です。

なお、わたしはまったく自衛隊を憎悪などしておりません。
このような決めつけと、プロバガンダはやめてください。

1902一字三礼:2005/11/24(木) 00:59:04
> 1895

> では、なぜ「戦争は起きるのか」ということにおいて、仏教ではどのように説いているのかという私の問いかけにきちんと答えて頂けな> かったのでしょうか。
> これこそ、教義において答えるべきところではないでしょうか。

Jan Gonda氏は「インド思想史」の中で仏教を「宗教でも哲学でもなく、まさに解脱の教えである」と位置づけておりますが、私も基本的には同様に考えております。

「仏教の教義」と簡単に仰いますがそれは数えられないほどあるのですよ。
インドの釈尊根本教団から始まって、上座部・大衆部・部派等の三蔵経典、初期・中期・後期の大乗仏典、雑密・純密・タントラ・倶生・時輪乗等の密教経典、中国で作られたとされる仁王般若や梵網経等の鎮護国家の経典、日本の本覚思想等々。

すべての仏教の教義を網羅して語ることは誰にも出来ないことでしょう。
あなたの仰る「仏教の教義」とはどのような経典、もしくは論、人の教義を指すのですか。

また、あなたは仏教の教義は'なぜ「戦争は起こるのか」’について説いている、というようにお考えのようですが、その根拠は何でしょうか。

1903犀角独歩:2005/11/24(木) 01:00:57

もう一点、読み直したところ、

> 自らの慎みにいつまでも非常に「甘い」

このようにわたしが度々抗議している点について「」つぎで繰り返して、省みることはありません。

わたしからすれば、誰よりも自分に甘いのは匿名さん、あなた自身であるわけです。もう、このような挑発はおやめになったら如何でしょうか。

1904匿名:2005/11/24(木) 01:25:59
>1902

>すべての仏教の教義を網羅して語ることは誰にも出来ないことでしょう。
あなたの仰る「仏教の教義」とはどのような経典、もしくは論、人の教義を指すのですか。

今の私は、日蓮聖人のことを尊敬し、思慕しております。
皆様ほど、教義には精通しておりません。本当に、学ばせて頂いてきた立場です。
ただ、政治と憲法については、私なりに勉強してまいりました。
そのことを自分なりの信仰の実践と思っておりますし、追々、投稿していきたいと思っております。
教義についての表現は、私には豊富な語彙がございませんので、どうしても稚拙表現になりますが、試みたいと思っております。


>また、あなたは仏教の教義は'なぜ「戦争は起こるのか」’について説いている、というようにお考えのようですが、その根拠は何でしょうか。

この点は、どここの記述だったか、見当たらず、そのままを引っ張り出せませんが、概ね継ぎのような内容を投稿いたしました。

人は、生を受けた以上、生きたいという(生存権)本能がは逃れられないもので、その生存権をかけて、領土と資源を求めていくうちに、やがて戦争となる。
不殺生戒は、人の生存権を脅かすなという戒めであると同時に、人は殺生する存在であるということを、説いているのではないかと、たわしはそう思っております。

間違っていれば、ご教授ください。

1906管理者:2005/11/25(金) 05:59:16

通りすがりさん

1905レスは、個人攻撃に当たりますので、当掲示板のルールに従って、削除いたします。

ルールを遵守して投稿されることを希望します。

1907藤川一郎:2005/11/26(土) 15:11:52
小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(座長・吉川弘之元東大総長)は24日、皇室の安定維持で皇位継承資格を女性や女系の皇族に拡大することなどを求める報告書を首相に提出したそうである。
これは男系霊位継承を覆す許されざる暴挙である。そもそも有識者会議のメンバーが問題である。御皇室のことをもっともご存知であるのは、旧公卿や旧宮家、そして天皇家そのものである。有識者会議のメンバーに本当の事が分かっている者がいるのか?有職故事も儀礼も何も知らない者ばかりで決めるのは、僭越の極みである。
一部オブザーバーで数人の旧宮家が御発言なさったそうであるが、そのほとんどが反対である。その方たちのお話では「①女性天皇は問題ない」しかし「②女系天皇には問題がある」のである。国民の中には「女性天皇と女系天皇の違い」すら知らない者が多い。
御歴代天皇陛下8人10代の方が女性であることを、女系容認の根拠とする、無知な者が多いが、その女帝全てが男性と男性をつなぐ「霊位のお預かり」のお立場である。
ここに、女系天皇の容認は、皇位を冒涜する行為である。神事は女性には出来ない事が多い。ご歴代の女性天皇の時代には、生理の為「大嘗祭(先代天皇の霊位を継承する儀式)」の日時を変えた記録もある。有識者会議と称する「無識者会議」は全員辞任せよ!

1908:2005/11/26(土) 21:12:24
象徴天皇制、どっちでも、なんでもいいけど。万世一系ってほんとかな。

http://www.asukanet.gr.jp/n-ken/kojiki/wakasazaki.html

即、削除されるかも。

1909犀角独歩:2005/11/26(土) 23:43:08

昨日は、三島由紀夫が自決してから、35年目に当たるのだそうです。
島田師の『経堂日記』を読んで、気付きました。

http://hitorigurashi.cocolog-nifty.com/kyodo/

大の三島ファンだった父が「おい、三島が死んだぞ!」を血相の変えて、テレビのスイッチを入れました。盾の会の制服、軍服といったほうがいいのでしょうか。白手袋、鉢巻きをして、高いところから自衛隊員に向かって演説をする三島の雄志がありました。しかし、その命懸けの演説も隊員の野次にかき消されていました。演説を終えたのか、断念したのか、三島は建物のなかに引きこもります。そこで、割腹自殺。介錯は2度、3度と失敗した…、のちに報道が伝えたその一言が何故か記憶に残っています。

この三島の死は何であったのか、耽溺した美学か、狂気か、はたまた、真の武士道であったのか。わたしがいまでも腹立たしく思うのは、誰であろうと、自分の命を賭けて訴えている三島の話を野次で遮ったその自衛隊の有様でした。心底、自衛隊に絶望して、三島は腹を割いたのではないのか、わたしはいまでもそう思っています。

1910藤川一郎:2005/11/27(日) 03:17:36
象徴天皇制度と言いながら、総理大臣等は未だに「大臣」です。
つまり「大いなる臣下」です。
臣下がいれば主君がいる。大臣の主君は誰か?こんなものは、任命形態を見れば天皇陛下に決まっている。そこから現代でも日本国は「(象徴的な)立憲君主制」だと言えます。

しかし曖昧なことには違いない。
戦争放棄の憲法9条を変えるならその前に、不自然で翻訳くさい象徴天皇条項も変えるべきでありましょう。
「天皇は日本国の元首にして統治権を総攬する。」
「天皇は神聖にして侵すべからず。」
上記文言が決して「民主主義」と矛盾するものでは無いのは、近代法上は常識です。
実は世界的に見ると「戦前までの君主国の数よりも、戦後に出来た君主国の数の方が多い」等と言う事実もあり、時代の逆行にもなりません。

1911パンナコッタ:2005/11/27(日) 11:20:21
三島由紀夫といえば、先日こんな記事がありました。
 http://news.tbs.co.jp/20051123/headline/tbs_headline3166795.html
    更新されてリンクが切れる場合もあります。

”日本”というアニミズムの、現在進行形なのかもしれませんね。

1912犀角独歩:2005/11/28(月) 11:52:05

パンナコッタさん、これは貴重な情報、有り難うございます。
実はわたしもこの神社を探していました。

> ”日本”というアニミズム

なかなか味わいのある表現ですね。

1913藤川一郎:2005/11/30(水) 13:47:28
下記のような記事があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
愛子さま、皇位継承2位に=女性・女系天皇容認−有識者会議が最終報告

 皇位の安定的継承を議論してきた小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(座長・吉川弘之元東大学長)は24日、女性・女系天皇を容認する最終報告書をまとめ首相に提出した。報告書は男系男子に限った制度では「皇位の安定的継承は極めて困難」と強調、「女性・女系天皇への道を開くことが不可欠」と結論付けている。皇位継承順位は男女を問わず、天皇直系の第1子から出生順に定める「長子優先」を採用した。
 皇族の範囲は天皇や皇族の子は皇族とする現行の「永世皇族制」を維持。皇位継承者を増やす観点から、女性皇族が結婚後も皇族に残り、宮家を創設できるとした。
 政府は来年の通常国会に皇室典範改正案を提出、成立を目指す。最終報告書通り改正されれば、皇位継承順位は、皇太子ご夫妻の長女愛子さまが皇太子さまに次いで2位となり、秋篠宮さまは2位から3位となる。国民世論の一部にはなお女性・女系天皇を認めることに根強い反対論があり、改正作業は曲折も予想される。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上の記事でも、「女性、女系天皇」とあたかも両者を併記している。
これは誤魔化しでは無いか?
「女性天皇」と「女系天皇」ではまるで意味が違う。
マスコミも愚弄するのもいい加減にしろと言いたい。

1914ラキ:2005/11/30(水) 23:25:42
魑魅魍魎と同席しいて法論(勉強会?)をする事が謗法て、折伏と法論は違う?て、おかしいような気がします。
法について話をする法論は、折伏に通じるのではと思い、同じ意味を持つのでは?と私は思っていますが、顕正会浅井会長に違いを教えて頂きたいですね。
”大坊棟札”が”天生原”に戒壇建立の証明て笑えます。
”棟札”が風習、習慣として行われるようになったのは、確か江戸時代頃でしたね。
そして、国立戒壇に安置する本尊の願主の名前は、一信徒の名前てのはおかしいと思うのに、その正当性を証明するのに、
『不惜身命の集団として大聖人様の師子王心と同心した「師子王は百獣に怖ぢず、師子の子又かくのごとし」この異体同心こそ未来事の広宣流布の端相だから』
浅井さんの指導なのか?幹部の指導なのか?回答にならない回答を言わせてるのかな?願主に付いてのかすりもしない回答と感じます。

1915犀角独歩:2005/12/01(木) 02:05:31

NHK、プロジェクトX『太陽に賭けろ―住宅エネルギー革命』、面白かったですね。

太陽発電パネルの開発物語でしたが、大量需要が日本で見込めないので、モンゴルにこれを持ち込む。放牧移動のテント住居で太陽電池パネルを使用。いまでは5万件で使用されている。ラクダの背の太陽発電パネル。冷蔵庫も積まれる。中にはワクチン。この需要で日本での大量生産、コストダウンが可能になった…。

無害、無限のエネルギーの時代は必ずやってくるだろうと思えました。

1916犀角独歩:2005/12/01(木) 02:13:49

> 1914

顕正会って、まだ、わたしのことを魑魅魍魎だ何だとやっているんですか(大笑)

100万組織が、独歩1人になにをおたおた慌てふためいて口角泡を飛ばしているんでしょうか。滑稽ですね。

口先では、何とも言えますが、百聞は一見に如かず。
もはや、「本門戒壇の大御本尊」の時代は終わりました。
いくら興奮して、わたしの悪口を言っても、真実・事実は動きません。
事実を掴んだわたしのほうはゆったり、余裕の気分でいます。

1917藤川一郎:2005/12/01(木) 12:21:49
浅井さん著書「南無日蓮大聖人」にて、神四郎+弥五郎+弥六郎を足して総称したのが「弥四郎国重」となってますが、この根拠は何処だろうか?
宗門でもこういう公式見解では無かったが。。。

1918藤川一郎:2005/12/01(木) 12:29:36
魑魅魍魎をgoo国語辞典で見てみると、
魑魅は
〔「魑」も「魅」も化け物の意〕山林の精気から生じ、人を迷わすというばけもの。すだま。
魍魎は
〔「魍」も「魎」も山川の化け物〕山・水・木・石などの精気から生じて人をばかすという怪物。すだま。
魑魅も魍魎も似たような意味ですね。まあ怪物、化け物の類ですか?
物の怪的な意味でしょうか?
そうか?犀角独歩さんは化け物だったのか?
でも化け物って悪い意味もあるけど「普通の人間とは思われない能力をもっている人」の事も言うそうですから、超能力者的な意味もあるそうです。
今度「スプーンまげ」して貰おうかな?すいません。冗談でした。気を悪くしないでね(爆)。

1919彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/01(木) 12:47:21

>1916,1918

魑魅(ちみ):山林や沼沢の気から生ずる化け物。人面獣身で人を迷わせるという。
魍魎(もうりょう):すだま。山川・木石の精霊。三歳くらいの小児に似て赤黒く、耳が長く人の声をまねるという。
阿部吉雄編『漢和辞典』(昭和50年新訂版3刷、旺文社)

魑魅魍魎(ちみもうりょう)
さまざまな妖怪変化。いろいろなばけもの。また、怪しげな人々。
金田一晴彦編『現代新国語辞典』(1997年第6刷(初版1994年)、学習研究社)

1920犀角独歩:2005/12/01(木) 12:55:55

> 浅井…神四郎+弥五郎+弥六郎を足して総称したのが「弥四郎国重」

これはたしかにおかしな見解ですね。
現代の石山では、弥四郎国重は「日蓮己心の」ということで、非存在説に立っているわけですね。
日精は波木井嫡男説で、これが史実的に成り立たなくなったあと、弥四郎国重不詳を経てのことでした。

1921犀角独歩:2005/12/01(木) 12:58:37

藤川一郎さん
彰往考来さん

魑魅魍魎の解説有り難うございました(笑)
しかし、こういう表現は人権侵害、名誉毀損に抵触しないのでしょうかね。
弁護士と相談しているところです。

わたしはスプーン曲げはできません。あと、当たらない予言もできません(笑)

1922独学徒:2005/12/01(木) 15:39:18

皆様お久しぶりです。

>いろいろなばけもの。また、怪しげな人々。

私も参加者でしたので、「いろいろなばけもの。また、怪しげな人々。」の中の一人でしょうか。

確か、彫刻と禅師曼荼羅の寸法云々の話をしていたような。

一寸、スプーン曲げに挑戦してみましょうか!

1923パンナコッタ:2005/12/01(木) 22:37:57
魑魅魍魎の絵姿ならば、佐藤有文監修「妖怪大図鑑」に載っていましたっけ。
もっとも、ほかのを見てみれば「人食い鬼ゴール」などとキャプションを付けられていた物が、
ゴヤの『わが子を喰らうサトゥルヌス』だった事実を後で知った時は、唖然としたものでした。
どこぞの教団が主張している教学のメッキが剥がれたのと、同じようなものだったでしょうか。

暮れですから飲み会の機会も多くなると思いますので、曲がる金属のスプーンではなく
割り箸を曲げてみてはどうでしょうか? かなりウケると思いますよ。

1924犀角独歩:2005/12/01(木) 22:51:48

独学徒さん
パンナコッタさん

魑魅魍魎からいきおい、忘年会の隠し芸に話が発展ですね。
独歩の会としても、忘年会をやりたいと思っています。
是非、ご参加いただき、皆でいっせいにスプーン曲げ、箸曲げというのも一興かと(笑)

1925犀角独歩:2005/12/02(金) 01:17:53

昨日は、石山のお陰で賑やかな1日でした。

1926彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/02(金) 07:43:21

>スプーン曲げ


http://www.sun-3.jp/page029.html

http://www.aa.alpha-net.ne.jp/itimuan/maru/old/aya24.html

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ebisan/spoon.htm

1927ラキ:2005/12/02(金) 14:54:21
空中浮遊もやってもらいたいですね。^^

1928犀角独歩:2005/12/02(金) 15:34:45

滝本弁護士はやりましたよ(笑)

1929彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/02(金) 17:39:22

>滝本弁護士・・・空中浮遊

NHKスペシャル「奇跡の詩人」への検証本『異議あり! 「奇跡の詩人」』 (同時代社、滝本太郎・石井謙一郎 編著)の著者近影で、滝本太郎弁護士は「空中浮遊」している。麻原彰晃を激怒させ、滝本弁護士殺害計画の切っ掛けになったとも言われているものだが、滝本弁護士がわざわざこの写真を選んだことの意味は自ずから明らかだろう。「奇跡の詩人」を信じろと言うことは、麻原彰晃の空中浮遊を信じろというのと、等価なのである。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886834752/503-4798392-9661507

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/dabun24.html

1930ラキ:2005/12/02(金) 20:15:39
>麻原彰晃の空中浮遊

昔、学研のムーと言う雑誌で、掲載されていた号を持ってました。w

1931犀角独歩:2005/12/02(金) 21:10:17

>> 麻原彰晃の空中浮遊
> …ムー…掲載…号

これはプレミアがつきますね。

1932片瀬江ノ島:2005/12/04(日) 12:30:15
67世御法主日顕上人猊下様が今月をもって退座されるようですね。考え深い一日になります。

1933問答迷人:2005/12/05(月) 06:40:45

>67世御法主日顕上人猊下様が今月をもって退座

日蓮正宗の宗制宗規は改定されて、終身制とも言える有り方になっているのに、なぜ、今退座何でしょうか。

そもそも、宗制宗規を変えたのは、確か昨年ではなかったでしょうか。

何か背景が有るのでしょうね。

1934孤独な迷子:2005/12/05(月) 07:17:25
お久しぶりです。

>1933
学会系の掲示板で退座の情報がありましたが、本当だったのですね。

宗門や法華講が大きく変わるのでしょうか。

1935犀角独歩:2005/12/05(月) 08:44:26

創価学会が最も御しやすいと言われる早瀬さん。藤本さんはどんなつっかえ棒になるのか。
先代早瀬(日慈)さんに屈辱を与えた妙観講への怨念を背負っています。顕正会へももっているんでしょう。法道院に入る八木さんは、顕正会のパイプ足り得る存在でしょうか。

阿部さんの容態の度合いは知りませんが、「法主」を降りたからといって、石山では完全引退ということにはなりません。久方の「隠尊猊下」の誕生ということでしょう。いわば、坊さん連中は二つの頭になり倍加した支配構造に締め付けが激しくなるということでしょう。

いずれにしても、創価学会の松岡本、浅井さんの情報入手の末、はったり辞任勧告と、今回の交替劇は、何ら因果関係がないことだけは明らかでしょう。

1936藤川一郎:2005/12/05(月) 12:03:12
「ほらみなさい!
私の諫暁に恐れをなして阿部日顕(上人)が隠居しました。
顕正会の対決申し入れを回避するために逃げたのです。」

上記のような趣旨の講演を浅井さんがすることを前もって予言しておく(私も超能力があるのです・笑)。

1937連番通りすがりじゃない通りすがり:2005/12/05(月) 13:12:27
はやく、浅井センセが私の諫めで「日顕」がやめたっていわないかな。
そしたら、みんな笑いものにしましょ。

1938犀角独歩:2005/12/06(火) 12:49:03

藤川さんの偉大な予言は当たるでしょうね(笑)

1939藤川一郎:2005/12/07(水) 11:35:59
>>1933

>>日蓮正宗の宗制宗規は改定されて、終身制とも言える有り方になっているのに、なぜ、今退座何でしょうか。

「法主は、遷化又は自らの意思による以外はその地位を退くことはない。」
上記条項は、別に改正しようと、しまいと、余り変わりは無い条項ですがね。
むしろ元からの不文律を文律化したようにしか見えませんがね。
もし本気で終身制にするのなら「又は自らの意思による」は削ったでしょう。

それより、改正宗規により、大正以来途絶えていた「学頭職」を復活させた事が重要で、その、宗規に従って、常聰院日如師が学頭に任じられたと言うことは、改正時点で既に、御隠居を想定した改正だったと考える方が普通です。

1940藤川一郎:2005/12/07(水) 12:50:59
別スレですが、確かに「バカチョン」の語源については、この「チョン」を朝鮮人とするのは早計のようです。
私もそう聞いて、後輩を注意したことがありますが、それを朝鮮人と思ってる若者は少なかったのも事実です。
むしろそれを注意することにより、忘れかけた「チョン=朝鮮人説」が復活してくるとも言えます。

所謂、放送禁止用語(言葉狩り)が盛んな昨今ですが、差別用語を言葉狩りで刈るのは日本だけでして、まして古い映画等からも「ピー音」で修正するのは言霊国である日本の習性でしょうか?
しかし「差別用語」を刈れば差別が無くなる等というのは誤解でして、海外では差別用語はもちろん使用しないようにしますが、実質を重んじます。差別を無くすのは「差別用語」を無くすのではなく、「差別の実質」を無くすのが正解なのです。

日本でも古い映画には、座頭市等でも「ドメク○」(目のご不自由な方の蔑称)等と叫ぶシーンでは「ピー音」で消され、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまいます。
せめて字幕で「現代では不適切な用語ですが、制作者のオリジナルを尊重し、そのまま放送します」位の事は出来ないものでしょうかね(パーフェクトTV等衛星放送ではこの例はあります)?

1941問答迷人:2005/12/07(水) 13:42:09

>改正時点で既に、御隠居を想定した改正だったと考える方が普通です。

納得です。有難うございました。

1942藤川一郎:2005/12/07(水) 14:18:13
つぶやきです。
つまらないことですが、自分の投稿を見て、驚きました。
ホリエモンの名文句「想定内」「想定外」を知らぬうちに使用している自分がいた。

私の過去の投稿を全て見ても「想定」等という言葉は使用していない。
しかし、今回無意識に使用していた。
マスコミの報道の影響力を感じた。

1943ラキ:2005/12/08(木) 17:51:06
独歩さん。
本日のランチ勉強会ありがとうございました。
一番の発見は、独歩さんの弱点が○○○とは、驚き!でした。^^
本日は本当にありがとうございました。

1944犀角独歩:2005/12/08(木) 18:19:33

藤川さん、1940のご指摘、賛同します。

ただ「バカ○○○カメラ」(敢えて、それでも伏せ字)は、しかし、そのような意味での使用中止は事実であったでしょう。

わたしも言葉狩りは根治的改善にならないと思います。

らきさん

うーん、一つ弱みを見せてしまいました(笑)

1945管理者:2005/12/15(木) 06:34:33

シタラバ掲示板のメンテナンスが先日実施されたようです。その時に、何らかの錯誤で、レス数が1000に制限される設定になってしまったようです。

新たに、10000レスまで投稿できる設定に変更しました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

1947管理者:2005/12/19(月) 13:59:41

>1946は、「戦争についてスレッド」の閉鎖に関連して、さらに、管理者の制止、スレッド停止措置を無視して、書き込まれたものと判断いたします。このような投稿は、当然のことながら、当掲示板のルールに抵触しますので、削除すると共に、匿名さんの、以後の掲示板への書き込みをお断りいたします。

1950ラキ:2005/12/29(木) 19:02:10
2005年も残すこと数日。
色々な事件、出来事があり1年間大変お世話になりました。
来年は、どんな出来事があるか楽しみですが、浅井さんをオフ会に呼びたいですねw
それでは皆さん。良いお年をお迎えください。
お年玉365日受付中です(*ノωノ)

1951ラスカル:2005/12/30(金) 15:39:08
高野山には日蓮上人の墓があるそうです。他にもいろいろ聞きますが。空海は華厳から教学を方向付けたとか読みました。でも、家の周りの真言宗は南無遍照金剛(弘法大師空海)と唱えてるような。学問と捉えるならアバウトさがわかるような気がしました。大仏など仏は、お天道様から信仰が来ているのかと。

1952パンナコッタ:2006/01/16(月) 23:39:15
また、此処の掲示板の存続にも関わるニュースが飛び込んできましたね。
管理人さんの方針が出るまでは、様子を見る感じですね。

しかし、一体どうなる事やら・・・。

1953犀角独歩:2006/01/17(火) 01:08:04

パンナコッタさん、なんのことですか?

1954彰往考来(しょうおうこうらい):2006/01/17(火) 07:17:53

>1952 パンナコッタさん

ライブドア家宅捜索の件ですか?

1955パンナコッタ:2006/01/17(火) 12:18:54
ええ、家宅捜査の件です。
株価は午前でストップ安水準になりましたし、昨年の選挙の時、社長を担ぎ上げた政党(一応、無所属でしたが)も
なにやら慌ただしいですね。
社長のコメントは、お詫びとさらなる事業拡大を言っていましたし、直接板の存続に関わるような事には
ならないでしょうが、間接的には何らかの影響が今後出てくるのかもしれませんね。

1956アリアン:2006/01/18(水) 10:27:48
> 1947
トクメイさんとの議論が気に入らないので一時的に閉鎖し、追い出した後に閉鎖を解除したわけですね。

1958管理者:2006/01/18(水) 10:54:16

非難の応酬の様になってスレッドが混乱したので、停止措置を取りました。一週間停止して、とりあえず混乱が収まったと判断しましたので、停止措置を解除しました。書き込み禁止措置は、1947でご説明した通り、この措置とは別のことです。ご理解賜りますれば幸いです。

1959僕だけ:2006/01/18(水) 12:01:10
ライブドアのホームページにアクセスすると

1960僕だけ:2006/01/18(水) 12:44:13
1959> 済みません尻切れとんぼになってます
ライブドアのホームページにアクセスすると話題の子会社のクッキーが保存されます
しかもワーム付きです
つぶやきでした

1961名無しさん:2006/01/18(水) 19:44:21
>>1958
管理者さん、大変だと思いますが、念のためログの保存を
しておいた方がよろしいと思います。

1962管理者:2006/01/19(木) 07:04:22

>1961 有難う御座います。削除対象となったレスも、全て管理者の手元ではログは保存するように設定してあります。但し、掲示板過去ログ倉庫には現在のところ保存してはいません。今後は、削除する時には、過去ログ倉庫に保存するようにしたいと存じます。

1964パンナコッタ:2006/01/29(日) 01:11:00
れんさんと一字三礼さんとのやり取りの中で電子大蔵経がでてきましたが、それでふと思い過去の
レスを読み返して、えらい勘違いを自分がしていたことが解りました。
以前、独歩さんと薩曇分陀利経についてやり取りをしましたが、自分は竺法護が265年に訳出したと云われる
六訳三存、西晋の薩曇分陀利経と頭から思いこんでおり、それが注法華経にも引用されていたのだと勘違いしていました。

大正新脩大蔵経9巻 訳者不詳 一巻。 内容は見宝塔品の一部と提婆達多品に相当する部分で、蓮祖の引用はこれの事
でしょう。
最初の思いこみと、基本的な事を失念していたポカミスですね。大変失礼しました。 <(_ _)>

1965れん:2006/01/31(火) 18:42:46
昨日、図書館に行きまして、大正新脩大蔵経所収の世親の法華論をコピーしてきました。世親の法華論は梵本が現存せず、世親が用いた梵本法華経の形態が不明なのは誠に残念ですが、世親の教学を知ることができますから、世親当時のインドにおける法華経の用いられ方、知る止すがにはなろうかと思います。
漢訳仏典でのこる法華論ですが、やはり本場の漢文体は難しいですね。日蓮や門下のいわゆる和様漢文体とはまた違いますから、ときどきどのように読み下せばよいかわからない文章に出会います。やはり国訳大蔵経も参照しなければならないですね。
パンナコッタさん、私もそういう思い込みはざらにあります。でも、実際に調べてみて、自分の間違いを修正できた。知らなかったことが、わかった。それもひとつの“功徳”といえるかもしれませんね。

1966犀角独歩:2006/03/18(土) 10:17:00

最近は、既に過去に沸騰した議論になっていることが、同じように繰り返され、投稿されています。

まあ、ここの膨大な過去ログを読むのも大変でしょうし、致し方がないのでしょう。
ただ、大概のことはほとんど、議論が尽くされている観があります。

そもそも、「わたしは」何を書いたのか、忘れているところもありますから、繰り返しも、また、一つのあり方かと最近は思うことにしました。

それにしても、顕正居士さんはさすがで、既に過去に記されたことは、あまり再論なさらない、既に回答済みという姿勢を貫かれるのは、さすがであると違う観点で感心しています。

これまた、余談ですが、わたしは定期的に掲示板データをダウンロードし、テキスト化したうえで、該当事項を検索して、読み直すようにしています。このデータ化は、一度の作業で小1時間、思いつきで、気軽に質問を投げかけるのは個人の自由ですが、既出の話題であれば、この検索で過去の投稿を追ったほうが情報量は遙かに多いことになります。
お薦めしておくことにします。

つぶやきとも、お薦めとも採れる文章になりましたが、一言まで。

1967今川元真:2006/03/25(土) 15:51:05
【21世紀は、空海教、鳩摩教?】●紅(神教)〜白(仏教)、仏塔、●法華教学、本仏殿、法華経様式、●仏性〜如来蔵、北から伝えられた一念の法が三千の花弁の蓮を咲かせる教え『南無妙法蓮華経』、法華堂(十界勧請漫陀羅)、法華経変遷、真蹟研究、宿坊、●価値創造、三証四悉檀、●何の知識・情報も無い人々に布教するのは大変

1968今川元真:2006/03/26(日) 13:13:43
切りの良い所で書き込みを止めれば良いのですが創価(勝ち創造の笑顔と愚痴)学会と冷戦になったのでストレス溜まるので辞められない。何でも書いてバッサリ妙法の利剣(御書遺文)で切り分けてくれる所なんて他所に無い。●広宣流布・仏壇(本尊漫陀羅・位牌・水其他)・道場(シャクソン成道図絵・本尊漫陀羅・日蓮立宗図絵、三国四師・何故最澄は法華経行者・天台と伝教の相違・天台密教と日蓮仏法の相違)・神社仏閣(シャクソン・蓮華・四大菩薩天竺様・四菩薩震旦様・四天王日本様)、個人的には、法華堂(十界勧請漫陀羅)だけで良いと思うのですが、歴史は一筋縄では捉えられませんから。

1969犀角独歩:2006/03/27(月) 22:47:37

やや長い投稿をさせていただきます。以下、あくまで試案です。
議論の俎上に乗せようと思うわけではなく、自らの備忘録として、書き置くものです。

■四大天玉の図示の位置について

以下はわたしが個人的に気が付いた点ですので、先行研究等がございましたらご紹介いただくと共に、ご批正をいただきたく存じます。

四大天玉は、図示年代変遷のなかで、日蓮聖人の試行錯誤が窺われ、興味深いテーマの一つです。

東・持国天、西・広目天、南・増長天、北・毘沙門

当時のの宇宙観では大地を方(四角形)と考えられていたわけで、その四角がそれぞれ東西南北になる(方角)ことは、今さら申し上げることでもないわけです。

戒壇院などの伽藍様式の四角い部屋となっているのは、単なる建都合というより、当時、大地は四角形と思われていることに由来するのであろうと類推します。そのそれぞれ方(四角形)の角が東西南北です(方角)。実際に建物がその方向を向いているかというと、これは45度ずれがあります。中央に五重塔(多宝塔)を建て、中に釈迦・多宝の二仏が奉安されています。実際の法華説相からすれば、宝塔の真後ろが東となります(角が正面ということになります)から、そこに持国天像が置かれ、大衆が立つ背が西となって、ここに広目天像を建てれば、経典のとおりとなります。しかし、こうなりますと、多宝塔の後ろでは、像はよく見えませんし、何より、西側入り口の中央に像を置くことになってしまいますから、参詣にも都合が悪く、また、美を尽くせないことになります。この場合、そこで、45度これをずらして、奉安することで、この点を解消しているのが、一般的な建築の妥協でした。

日蓮聖人は、四角い料紙を大地に見立て、その四隅を東西南北の方角を与えることとまず考案されました。しかし、インドでは天子は東面、日本は天子は南面と、国風の相違があります。説法の釈尊もそのように方向を選んで座しておられるわけです。つまり、西側に座しておられるわけです。そこに涌現した多宝塔は、その釈尊に向かっているわけですから、西面となります。つまり、紙の四角(よすみ)に東西南北を与え、宝塔品を図式化しようとすれば、インドのしきたりに従えば、図される上側が東となります。
一方、日本では天子南面のしきたりがあります。ですから、上側が北になります。

日蓮漫荼羅は宝塔品を図示といいますから、西面となりますが、しかし、天照・八幡という国神も勧請されているわけですし、奉安様式は、南面でしょう。そうしないと国風に準じられないからです。つまり、宝塔は東側は、貴人は北側という相矛盾する二つの要素を孕むことになるわけです。
これを表化すれば

【宝塔涌現】
北(左上):毘沙、東(右上):持国
西(左下):広目、南(右下):増長
【日本国風】
西(左上):広目、北(右上):毘沙
南(左下):増長、東(右下):持国

となり、四大天玉の配置に相違が生じます。

1970犀角独歩:2006/03/27(月) 22:48:48

―1969からつづく―

また、45度、ずらしているために、本来、東には西、北には南と対するところを、東西南北のままに配置すると、こうはならず、従来の奉安では、東西、北南との対が対角線上に配置されてしまうわけです。しかし、実際は、宝塔を正面から見る場合、衆は西を背に東に向かい、日本国風の天子を仰ぐとなれば、南を背に北を向くはずです。けっして、対角線にはなりません。
この点を日蓮聖人は、紙の四角を方角に見立てるに置いて、見事に解消したアイデアが浮かんだのでしょう。
つまり、右上下二角を東西に、左上下二角を北南とすることで、このを問題を見事に図示することに成功したわけです。

なお、漫荼羅平面でしか表現できないわけで、さらに掛け立ててありますが、そのイメージは三次元で、大地と虚空を表すわけで、四角に従えば、床に敷いて大地の如く、けれど、首題(塔内妙法蓮華經)と諸尊はその大地に立って天に向かって立っていることになるのでしょう。紙の上が奧で下が手前という三次元です。

以上、ややこしいので紙に四角を書き、その四隅にそれぞれの四大天玉と方角を書き込んでみれば、日蓮聖人の卓抜したアイデアが彷彿とします。
以下、簡単に作図してみました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/sidaitenohaiti.html

諸尊勧請とインド、日本の国風の相違からの配置については、日寛はうまく説明しています。

「千古より国風自然に同じからず、所謂漢土・日本は天子南面す、故に左は東にして陽、右は西にして陰なり、故に左尊右卑なり。
若し月氏の如くんば君父東面す、故に右は南にして陽なり、左は北にして陰なり、故に右尊左卑なり。
国風同じからざれば尊卑既に定まる、故に其の処に随って何れの方に向かう時も日本は左を上座と為し、月氏は右を上座と為すなり。
本尊の左右亦復爾なり。謂わく、宝塔西に向く、故に釈尊は右の上座に居し、多宝は左の下座に居するなり。大衆は東に向く、故に上行・無辺行は右の上座に居し、浄行・安立行は左の下座に居す、是れ霊山の儀式を移す故なり」(六巻抄当流行事鈔第五)

余談ですが、仏像奉安の際、本当であれば、四菩薩をわたしどもに背を向けている形になるはずですが、こちらを向けて建てられています。これも致し方のないことでしょうか。

■塔中「妙法蓮華經」は五字か・経典か

日蓮聖人における仏像開眼とは、絵像木造で表現できない梵音声である経典を仏像の御前に置くことであることは御遺文から窺われます。『木絵二像開眼事』は、そのことを説明したものでした。

「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず」

梵音声は経典であれば、開眼となるわけですが、しかし、それでは心とならない、心は法華経に限る、では、この心とはいえば、すなわち一念三千である、故に経典は法華経に限るという論の運びであるわけです。
経典は梵音声の説法そのものを指し、妙法蓮華經の五字は一念三千を指す。

1971犀角独歩:2006/03/27(月) 22:50:17

―1970からつづく―

さて、ここで『本尊抄』の

「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり」

というときの「塔中の妙法蓮華経」が五字か・経典かという問をわたしは懐いたわけです。この本尊抄の記述に従って仏像を建立するとします。多宝塔を造り、その塔の中に二仏並座させることになります。

わたしは塔の中でなければならないと思いますが、しかし、これは四菩薩がこちらを向いているのと同様、外に置くのは致し方のない造形上の措置でしょうか。
それは、置くとして、では、肝心の妙法蓮華經はどうでしょうか。
わたしは法華経典であると思います。なぜならば、ここに法華経典がなければ、『木絵二像開眼事』と齟齬を来すからです。では、上行所伝の妙法蓮華經が表現できないではないかとなりますが、そうなのだと思います。仏像造立では妙法五字は表現できないのです。ですから、別立てで曼荼羅が必要なわけです。

富士方では、伝・三位日順文書『本門心底抄』に

「本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し」

とあり、要法寺系でも、この考えですが、わたしは、これはまったく日蓮聖人の三大法門を満たすことが出来ない謬論であると考えています。
本門の本尊は仏像・本門の題目は字像曼荼羅、そして、戒壇は『取要抄』に記される密事として、伝えられた比叡山戒壇の代わる本門戒壇であり、こうして、三大法門の三つは成就するのではないのかという考えです。

これを妙法蓮華經の五字を本仏釈尊としてしまえば、二大秘法としかならないことになります。この点は、石山で言う日蓮本仏・人法一箇でも同様ではないのか、というのがわたしの考えです。

なお、「其本尊為体」は、日蓮門下一般を通じて、「其の本尊為体(ていたらく)と読むことで、異論がないようですが、わたしはこの点に異議を有します。では、どう読むのか「其の本尊を体と為(な)し」ではないのか、というのがわたしの考えです。では、その体とされる本尊とは、その後に続く記述ではなく、その前段ではないのかと考えます。すなわち、四十五字法体段でいわれる仏が本尊であるということではないか、ということです。では、「為体」以降は何を意味するのか、つまり、それは「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」という造立される仏像の奉安様式です。
ただし、この点については、思索中です。

1972犀角独歩:2006/03/27(月) 22:51:17

―1971からつづく―

■日蓮聖人持仏は聖人のご自作のこと

「随身仏、この表現はいかん」と、中尾堯先生はいうので、いまは持仏とさせていただきます。
日蓮門会一般の伝承認識として、このお像は伊東配流の際、船守弥三郎から献上されたものだとなっています。
しかし、その成立を日興上人滅後90年、聖人滅から140年目の成立であるとする高木豊師がいう『五人所破抄』では、日蓮聖人自らが刻まれたものであるといいます。すなわち

「五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに及ばんや云云」

とあります。これを雪仙日亨は訳解して

「五人一同の義には先師日蓮の御奉持になつていた釈迦牟尼の立像仏は・勿体なくも弘長元年伊東御流罪の時に彫刻せられて・弘安五年池上御入滅の時まで御身を離さず奉持せられたもので・あるを・何とて遺弟の身とて容易く彼是と非難をしてよからうや・唯仰いで信敬すべきぢや云云」

といいます。最近は、どうも記憶力が減退し、文献を失念しましたが、船守弥三郎の寄進は浮木であったという文献が確かありました。
この「忝くも」「勿体なくも」は「刻み」に掛かる語ですから、日蓮聖人を指していることになります。ここで刻んだというわけですから、海中出現とは齟齬を来すことになります。実際に古文献を調べても、海中出現を指示するものには当たれなかった記憶があります。

さて、聖人お手製本尊となれば、その崇敬は高いのは当然で、日興上人作とされる『原殿御返事』に

「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。
 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」

と‘第二転’とは、つまり、日蓮聖人お手製の仏の第二転という意味であろうと、わたしは考えます。ただ、この日朗上人を記述する文面が、本当に日興筆であるのか、やや疑問は残ります。いずれにしても、日蓮聖人お手製持仏という文献は、以上の如くとなります。

■字像漫荼羅の不動愛染勧請の理由

『不動愛染感見記』は真筆か、という問題は、さておいて、不動愛染が梵字で図示される理由は、富士門流信徒の掲示板に顕正居士さんが宝珠曼荼羅を引きご賢察を示されたわけです。そこから、調べたところ、たしかに摩尼宝珠漫荼羅という真言の曼荼羅がありました。中央、宝珠に脇士は不動愛染です。

ただ、この摩尼宝珠曼荼羅の場合、中央宝珠を、どのような解するのかという点で、日蓮聖人とは異なるであろうと思います。聖人は、もちろん、一念三千を宝珠と考える立場でしょう。『本尊抄』に「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ」という珠の正体は、この文脈からすれば、一念三千に他なりません。そして、この珠は、聖人が虚空蔵求聞持法を修して「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候」という珠と一致するのであろうと、わたしは考えます。そして、一致こそ、顕密相対し、聖人のなかで生じる整合性であるとわたしは拝します。つまり虚空蔵を介する密教宝珠を一念三千と翻訳し、上行所伝の妙法蓮華經の五字と一致させ、ここに法華によって、聖人の密教を開会されたのではないでしょうか。

その宝珠を上行所伝の妙法蓮華經の五字に裏み、霊鷲山出現の宝塔中における四菩薩への附属の儀式を併せて表現したのが、字像漫荼羅であれば、密教に精通した日蓮聖人であれば、宝珠の脇士に不動愛染を置かれるのは、むしろ必然というほかありません。『不動愛染感見記』を引き合いに出すまでもなく、不動愛染の勧請は説明が着きます。

1973れん:2006/03/28(火) 19:15:18
犀角独歩さん
1969〜1972
久方振りに御賢察をご披瀝頂き、大変勉強になりました。
>本門の本尊は仏像、本門の題目は字像曼荼羅、そして戒壇は『取要抄』に記される密事、伝えられた比叡山戒壇の代わる本門戒壇であり、こうして三大法門はの三つは成就する…
御賢察に賛同致します。重須側の日順師・日代師の著述を見ますと戒壇に安置する仏像は「本尊図の如し」なのですが、上野に目を転じますと、日目師の申状(正本・保田妙本寺蔵)には「仏滅後二千余年間正像末三時流通程、迦葉龍樹天台傳教所残秘法有三。所謂法華本門本尊与戒壇与妙法蓮華経五字也」日目の孫弟子日向定善寺開山日叡師の後信抄(正本・定善寺蔵)に「本仏・本戒・本尊」(この表記は法華取要抄や報恩抄に見られる通途の本門三法門と表記が異なりますが、これは日興師・日源師の写本が伝わる“法華本門本尊問答抄”の思想の影響を受けた記述と考えます。意味合いとしては、本門本尊=仏像、本門戒壇=『取要抄』に記される密事としての比叡山戒壇に代わる戒壇、本門題目=字像漫荼羅と理解できます)又、時代は室町中期以降に下りますが要法寺日辰師の造読論議に引用される大石寺顕応房の文書には「三箇秘法者仏土教法也」とあり、顕応房自身は御影本尊論を述べるものの、この成句そのものの原初的な意味は取要抄・報恩抄・目師申状・日叡後信抄に同じであったろうと考えます。
蓮師の取要抄や報恩抄ないし初期上野の文献から原初的な本門三法門を調べますと、やはり独歩さんの御賢察の方が、やはりしっくり来ますね。
なおご失念された上代富士における日蓮聖人自作の釋尊像についての記述ですが富士宗学要集第二巻に収録されている日順雑集の中の“法華観心本尊抄見聞”に「聖人海の定木を以て一躰の仏を造り佐渡の国へも御所持・御臨終の時は墓側に置けと云々」との記述を見ます。初期興門においては日蓮聖人持仏の釈尊像は、やはり日蓮聖人の御自作と伝承されていたようですね。

1974犀角独歩:2006/03/28(火) 21:23:39

れんさんには種々ご賛同を賜り、恐悦至極に存じます。
上記備忘録にやや補足します。

■四大天玉の図示の位置については、かつてワラシナさんとメールであったと記憶しますが、遣り取りをしたことに端を発します。

■塔中「妙法蓮華經」は五字か・経典かは、問答名人さんと議論をしたことです。

先に顕正居士さんは「漫荼羅設計図論」を提示されましたが、わたしは、むしろ、『本尊抄』がその設計図ではないのかという考えをもっています。ただし、これは顕正居士さんのご賢察を斥けるというものでは、もちろん、ありません。

漫荼羅が設計図であった場合は、二つの位相、すなわち、宝塔(東西)と国風(北南)は、相容れない配置となりますから、これを実際の大地に顕現することは不可能ではないのかという思いがあり、この点から漫荼羅を設計図と見ることに躊躇いがあることもあります。

なお、日蓮の仏像開眼観は、木絵仏像+{経典:梵音声+心:一念三千}という三点セットで、法華経である場合、梵音声と一念三千の両意を有するととらえている。門下教学のなかでは仏像本尊は、のちに曼荼羅本尊に移行するという見方がありますが、わたしはこの考えには反対です。なんとなれば、本門題目と本門本尊が明確に二立しなければ、三大法門とはなり得ないからです。その意義を異にすると考えるからです

妙法蓮華経に裏まれた宝珠と不動・愛染脇士という試論は、実に秀でたところと敬服します。

仏像本尊は、本師・本仏の所表ですが、漫荼羅は一念三千宝珠の所表、つまり、仏像で表される仏は本尊ですが、漫荼羅の場合は仏界の所表とその意図するところが相違しています。しかし、この二つが別のものであるかといえば、三大法門は一を三に開くところであるところで、所化もって同体だからこそ、一念三千であるのでしょう。また三千はその十界互具百界で本因九界悉く本仏界にあり、さらにその本国土はまさに本門戒壇として事相されなければ、三千を成ぜません。妙法蓮華経の五字は一念三千を裏み、では、その一念三千を諸尊で図すれば曼荼羅図の如く、その東西・北南に拝する宝塔存立の場はまさに戒壇で、この意味において、たしかに顕正居士さんが仰る如く、漫荼羅は、その意義を余すことなく、孕んでいるのであろうと思います。つまり、妙法蓮華経の五字に裏まれた一念三千は具体的な十界諸尊の図示を以てさらに記されているわけです。となれば、漫荼羅の全体は一念三千であり、この宝珠全体を不動愛染の脇士が守護すると見ても、よいのであろうとも考えます。

【宝珠曼荼羅】愛染+宝珠+不動

【字像漫荼羅】愛染+{一念三千〔本果・仏+本因・九界+本国土戒壇〕+〔妙法蓮華経(宝珠:一念三千)〕}+不動

一尊四士の一尊は本仏の所表、四菩薩は附属の菩薩を表しますが、しかし、ここでは師資の義を成じても附属の本法が表せません。已上末法出現仏像本尊。

1975犀角独歩:2006/03/28(火) 21:25:20

―1974からつづく―

これを表すのは、漫荼羅図示に譲られるところで、しかも、具体的に本門寿量顕本の一念三千、仏界・九界・互具十如、そして本門戒壇として三世間をそこに書き示して秘事として、名前を書き示して、授与とすることは、まさに上行菩薩附属の妙法蓮華経の五字を流布する相となるのでしょう。已上五字漫荼羅。

そして、密事された未来建立を期した迹門戒壇に代わる末法の事壇。已上本門戒壇。

■日蓮聖人持仏は聖人のご自作のことについては、いまのところ、議論にはなっていなかったかと存じます。特に参考にした先行研究があるというより、『五人所破抄』の記述が、事実であればという前提の愚考です。

れんさんには、わたしの失念を補完していただきまして、誠に有り難うございました。

■字像漫荼羅の不動愛染勧請の理由について。別スレッドで彰往考来さんがさらに感見記のご賢察を示されたので参考になりました。感見記の真偽は書の鑑定上の問題で、それ以上でもなければそれ以下であってもならないというのは科学的な態度であると考えます。いままで自分の所属する団体が「真言亡国」と言ってきたから、日蓮はそうなんだから、真言臭のする感見記は偽書だなどという連想ゲームが固定観念になって、論陣を張るというのは、古文書鑑定としては墜ちた為にする論というほかありません。鳳凰さんには、最高の意図が示されたこと、喜ばしく存じます。また、パンナコッタさんがご指摘のとおり、独学徒さんの考証がありましたか。

妙法蓮華経の五字は筆を握れば、誰でも記せます。書いて人に授けられます。口で唱えることもできるでしょう。では、それと上行所伝の妙法蓮華経は、どこで違うのか、それはまさに‘日蓮の妙法蓮華経’でなければならない。では、日蓮の妙法蓮華経とは具体的には何か、それはまさに字像漫荼羅を置いて、他にないというのは、わたしなりの結論です。

本仏釈尊の久遠下種、さらに四菩薩地涌菩薩の眷属たるを示す本尊は一尊四士にあり、では上行所伝を日蓮の名に隠す日蓮は、自ら附属された妙法を如何様に、さらに附属、広宣流布しするのか。それはまさに妙法蓮華経の漫荼羅をもってするのでしょう。漫荼羅に示された妙法蓮華経は、日蓮の(正確には上行に附属され、末法に日蓮として流宣する)妙法蓮華経です。他の妙法蓮華経とは軸が同様でも、根本的に意義は相違します。日蓮の妙法蓮華経に有らずんば、附属の妙法蓮華経とは言えないというのが日蓮の自覚でありましょう。そして、その授与を受けた弟子檀那は、ここに自らの久遠下種を知り、報恩尊敬(そんぎょう)の一念を以て像を結ぶのが、本仏師・久遠釈尊、附属の資・四菩薩の像ではないでしょうか。(一尊四士)しかし、日蓮が比叡山を去り、本門一念三千を末法流宣に成就、本国土の妙を、事相せんとすれば、密事とされた本門戒壇未来建立を以て、三大法門の成就を期したのであろうと拝察いたします。本門の本尊と戒壇、妙法蓮華経の五字は一の宝珠を以て、不可思議にも虚空蔵菩薩を介して、日蓮に伝えられ、その守護を不動愛染がなしていたという自覚が日蓮にあったのかも知れません。

以上しかし、わたしは既に富士の裾野より独歩したうえ、大崎の学風にも、身延の学風に疎い、一在家に過ぎません。皆さんのご批正を賜れれば幸甚です。

1976犀角独歩:2006/03/28(火) 23:21:34

【1975の訂正】

誤)鳳凰さんには、最高の意図
正)鳳凰さんには、再考の意図

誤)妙法蓮華経とは軸が同様でも
正)妙法蓮華経とは字句が同様でも

1977今川元真:2006/04/01(土) 17:12:39
今更ながら尚更ながら、●●蓮祖教学≒5機●● ▲▲興門教学≒5時▲▲[本尊論・勝劣でも一致でも無い十全完璧な本尊]、シャカ(泥沼蓮華)、シャクソン(皆成仏道)、鳩摩訳で無くても台家は一心三観等を繋げるか、大乗教団次第か。

1978今川元真:2006/04/03(月) 11:50:53
私の家で花と言えば、スイセン・アジサイ・オニユリ・ウメですが、名前も知らない花もあります。年の所為か小さくて群生で集まって咲く花々をキレイに見れるようになりました。名前が解らないのはイライラします...●皆成仏道、、法華涅槃、依法不法人●本仏と言えない本尊、漫陀羅=修行●像法(仏像)、末法(漫陀羅)、本門法華経戒壇堂(生粋法華経行者)●教義(題目肝心)修行(唱題成仏)できる本尊、横並びでも縦並びでも無い教法本尊●ゼロベースの仏国土=理想郷

1979一字三礼:2006/04/04(火) 22:45:15

犀角独歩さん

超亀レスで申し訳ありませんが、ご教示ください。

> 1790
>> 仏像奉安の際、本当であれば、四菩薩をわたしどもに背を向けている形になるはずですが、こちらを向けて建てられています。

ご存知のように文永・建治の大曼荼羅には釈迦・多宝以外の仏尊も勧請されているものがあります。
保田の万年救護本尊であれば「南無善徳仏」「南無十方分身諸仏」ですが、では、これらの仏尊方は、どちらを向いているとお考えですか。

釈尊・多宝の二尊と同じ向きに座して四菩薩と対面しているのか、それとも四菩薩と同じ向きに座して釈迦・多宝と対面しているのか。

これが解れば、日蓮聖人が東密と台密のどちらを重視していたかを知るための一つのアプローチになるのではないと考えているのです。

その答えを例の金・胎両界の大日如来が勧請されている第18番の大曼荼羅にあてはめて考えてみて、胎蔵界・大日如来が上座であれば、東密重視と考えられますし、金剛界・大日如来を上座としているのであれば、台密重視であったとは考えられませんでしょうか。

1980犀角独歩:2006/04/08(土) 08:17:09

どちらに投稿をしてよいのか判りませんので、こちらとさせていただきます。

4月6日、悲母が逝去しました。
お励ましをくださった皆様には、衷心より御礼申し上げます。

以上の事情から、ここ何日間か投稿ができませんでした。
まだ、しばらくは整理その他から、お声かけに十分なお答えができないこととなろうかと存じます。恐縮ながら、御斟酌をお願い申し上げるものです。

有り難うございました。

1981問答迷人:2006/04/08(土) 08:26:24

犀角独歩さん

ご母堂のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。お力落としの事と存じます。暫くは、ご静養される事と存じます。落ち着かれましたら、又、掲示板でのご活躍を拝見致したく存じます。ご愁傷さまでした。

1982れん:2006/04/08(土) 11:33:17
犀角独歩さん。
三日の松山師ご講義にもご参加なさっておられなかったので、もしや御母堂様の御体調が御悪いのではないかと心のなかで危惧しておりました。
六日に、御母堂様ご逝去の由、謹みて、御母堂様の御冥福をお祈り申し上げます。
何と言葉をかけるべきか、適切な言葉が出てきません。
今は、心身ともに、なにかと大変なことと拝察申し上げますが、今は、とにかく諸事、周りの状況が落ち着くまでは、心ゆくまで、御母堂様をお送り下さい。早々

1983パンナコッタ:2006/04/08(土) 12:36:17
犀角独歩さん、
 お母様ご逝去の由、心からお悔やみ申し上げます。
 ご親族の方におかれましても、ご傷心はさぞ深いことと拝察いたしますが、
 なにとぞお気を取り直されて、ご自愛のほどお祈り申し上げます。
 まずは、謹んでお母様のご冥福をお祈り申し上げます。

1984独学徒:2006/04/08(土) 13:03:19

犀角独歩さん、お母様ご逝去とのこと伺いました。謹んでお悔やみ申し上げます。

私を彫刻信仰から覚醒させてくださった、犀角独歩さんの論考『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』、及び『何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』を、拝読させていただく中で、犀角独歩さんのご家族への思いを強く感じておりました。
お母様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

1985顕正居士:2006/04/08(土) 13:59:20
犀角独歩さん。
御母堂様のご逝去を悼み、
謹んでお悔み申し上げます。

1986一字三礼:2006/04/08(土) 20:49:57

犀角独歩さん

御母堂様のご逝去謹んでお悔やみ申し上げます。

まことに勝手ながら、題目、読経を勤めまして御母様の菩提を弔わせていただきました。

ご心痛の中、やらなければならない事は尽きないと思いますが、どうぞお体もご自愛ください。

1987文殊:2006/04/08(土) 21:00:57
犀角独歩さん。
お母様のご逝去の報に接し、謹んで
ご冥福をお祈り申し上げます。

1988空即是進化:2006/04/08(土) 22:30:45
犀角独歩様
 御母堂様のご逝去をお悔やみ申し上げます。
 やはり悲しいものは悲しいですね。
 お気を落とすことなく、これからもご活躍をお願いします。

1989ラキ:2006/04/10(月) 02:50:02
犀角独歩さん

お母様ご逝去の由、心からお悔やみ申し上げます。

1990彰往考来(しょうおうこうらい):2006/04/10(月) 06:53:19

犀角独歩さん

ご母堂様、ご逝去の報に接し、心からお悼み申し上げます。

1991犀角独歩:2006/04/13(木) 12:36:17

皆様には、ご弔辞、並びに暖かいお励ましを頂戴しましたこと、謹んで御礼申し上げます。

悲母葬儀は、楠山日道(泰道)上人、貫名日泰(英舜)上人の大導師を得て、お二方のお慈悲溢れる御計らいの許、三浦本山と称される金谷山大明寺に於いて執行していただきました。

法名 帰真院妙行日松信女 位

皆様の御回向を賜れれば、有り難く存じます。蹲踞

1992みかん:2006/04/13(木) 23:49:59
犀角独歩さま。
お母様がご逝去されたとのこと、こころよりお悔やみ申し上げます。
なんと申し上げて良いか、言葉もありません。
こころより、ご冥福を祈念させていただきます。
さぞ、お力落としのことと存じますが、ご無理なさいませんよう。

1993犀角独歩:2006/04/14(金) 04:40:57

みかんさん

お久しぶりです。ご祈念下されるとのこと、痛み入ります。
有り難うございます。

1994雖念:2006/04/15(土) 20:37:35
犀角独歩さん

ご母堂様、ご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。

小生も近年両親を送ったばかりですので、ご心中をお察しいたします。

あわせて、ご母堂様のご冥福を祈念させていただきます。

1995犀角独歩:2006/04/16(日) 07:22:10

雖念さん、お久しぶりです。
有り難うございました。

1996犀角独歩:2006/05/01(月) 23:19:19

一字三礼さん

本日は、たいへんに有り難うございました。
追って、詳しく投稿させていただく所存ですが、頂戴しました御香、ただいま、母の遺骨に供えさせていただきました。お気持ち、衷心より御礼申し上げます。

1997Taitsu:2006/05/02(火) 00:10:42
金谷山大明寺とは衣笠の・・・
私以外に横須賀に縁の有る方がここにお出でとは、ちょっと嬉しく思いました。

不謹慎と思われましたならお詫び申し上げます。

1998犀角独歩:2006/05/02(火) 08:19:58

Taitsuさん

わたしも嬉しく思います。
機会がありましたら、大明寺でお会いしましょう。

1999犀角独歩:2006/05/08(月) 22:27:13

本日、日蓮宗の千部会に参列してみたのですが、いくつか発見があり、日蓮宗の様を観て、いまさら、石山とはなんたるかと、慨歎を禁じ得ない発見がありました。

わたしが法華講にいた頃、石山御影堂の法要で散華というものを初めて観ました。教学部の説明では、古式豊かに、よく研究して行ったとかという口上でしたが、本日、日蓮宗の法要で、この散華があったのです。その華の取り出し方、構え方、そして、散らし方に至るまで、ほとんど、同じ。
日蓮宗のほうの散華は、昨日今日始まったものではなく、要は「石山が言う古式豊か」というのは、ただの日蓮宗のパクりということなのでしょう。もっとも、檀林その他で、他派の日蓮門徒と席を同じくし、共に教を唱えてきたからこそ、離間した現在でも、方便自我偈に唱和することに苦労はないわけです。信者を食った話だと思った次第です。

このような呆れ話は、類は幾つもあります。石山で、正式書籍にも載る日目の身延修業時代を謳ったとする古歌「法華経を我が得しことは薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし(『日蓮大聖人正伝』321頁)という話が、実は、比叡山の修行で僧侶たちが口ずさむ歌であることを、わたしは指摘したことがあります。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117251/37

また、地名さんもその元は、拾遺集哀傷 一三四六、大僧正行基の歌であると、正確に情報をご指摘下さったわけでした。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015573970/724

御受戒の「持(たも)ち奉るや否や」「持ち奉るべし」という遣り取りも、日蓮宗の法要における経巻頂戴の儀式の台詞そのままであり、「乃至法界平等利益」もまた、日蓮宗の勤行の台詞です。

まあ、なんというか、先に勤行は二品読誦で一経読誦謗法だなんだという話がありますが、謗法を云々するのなら、行基の歌を日目の修行を謳ったなどと寝惚けた戯言を記したり、散華その他を日蓮宗からパクッたりするほうが、よほど、問題であろうと思った次第です。

七百年の伝統とか、富士の清流とか、祖道の恢復とか、聞こえは善いのですが、それぞれ結局、近代の捏造で、よくもすぐにばれるような作り物を「伝統」だなんだといって憚らないものだと改めて思った次第です。

2000なし:2006/05/09(火) 01:42:39
延暦寺本堂での散華を見た。身延もパクリかな。正倉院にもあるという。

2001なし:2006/05/09(火) 06:42:36
叡山、散華行道僧の衣がカラフル。身延は?
狩野派の日蓮像、衣が真っ赤。

2002犀角独歩:2006/05/09(火) 07:34:09

散華に関しては、2000、2001に言うとおりでしょう。
その元々は、他派に由来するのでしょう。

石山で散華の記述として、僧俗が誰しも知るのは、化儀抄の記述でしょう。

「経を読むに必ず散華有るべし信の時は法界妙法蓮華経なる故に一仏なり其の一仏の三身に供するなり、是れ即ち本門無作なり、天台宗に沙汰する本有の理智慈悲は理の無作なり」

わたしが着目していたのは、この日亨師の『註解』です。

「他宗にては厳儀の折などに・紙に製したる蓮華の葩を華籠に入れて・行道の僧童が参集の衆の頭を降らすことあり」

という一節です。つまり、紙で造った華(多くは蓮華の花弁を模す)を参集に降らすやり方は「他宗」であると言っている点です。ですから、「宗門古来の伝統」ではないだろうと言ってのことでした。

なお、化儀抄における散華は、石山の勤行では、経机の経本に置かれてある三枚葉の樒を、勤行の終わりに、一枚一枚に切り離すことを言います。
この三枚葉の樒の様もまた天台密教、密壇に置かれるものと同じ。つまり、そこが起原となっているのでしょう。

あと、他日蓮門下の日蓮像の衣は真っ赤なのではなく、緋衣。五位の朝服の色ということですが、この点は、わたしなどより、藤川さんがお詳しいところでしょう。

日蓮が終生、薄墨衣であったかどうか。わたしはやや決しかねますが、先に挙げた化儀抄、その他聞き書きを瞥見すると、薄墨、白五条袈裟は早い時期に定着していた如きです。ただし、ここで重要な点は「素絹」といった簡素な衣であるという点です。

「真っ赤」な衣が、批判されるのであれば、色ばかりは薄墨で、しかし、石山住職が着る衣など、100万とも数100万もするといわれる豪奢なものでしょう。これは日蓮の粗衣、名字折伏を示すという中世の自宗の化儀にも反するという批判は既に為されているところでしょう。

日蓮御影に、在世は、弟子檀那が着せることが出来なかった緋衣を着せ、報恩の志が非難されるべきことなのか、その御影像には在世当時を表す質素な薄墨衣を着せ、その前に座る石山住職は、桁違いの豪奢な衣を纏うことが是なのか、自宗に贔屓目を捨て考えてみるべき点です。

2003犀角独歩:2006/05/09(火) 12:07:32

やや補足しますが、緋衣が五位の朝服を法衣としたものであり、かつ、明治以前からそのような衣が着せられていたとすれば、これはその御影を祀る寺院が勝手に行ったことではないだろうと思われます。つまり、これは朝廷からの勅許なくしては、出来ないことであったろうという意味です。

日本という国は、後継者が既に故人になっている者の、生前の名誉を称揚するために、あたかも生者のように、官位、称号を朝廷に願うことが行われるという特殊な監修を有した国です。

帝都弘教を果たした日像お、既に故人の日蓮への大菩薩号を勅許の功は夙に著明なことです。また、近代では「明治天皇は、日露戦争のときに時宗の苦労を思いやられて、明治37年、勅使を円覚寺にある時宗の墓にお遣わしになって、四階級特進して従一位をご追贈なられた」(『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社)渡部昇一 P280)という話も伝わります。

また、日顕氏が、創価学会の願い出によって執行した故牧口常三郎氏第50回忌で、戒名を冷然院感徳日常居士から、冷然院感徳日常大居士に改めたと言うことがありました。

日蓮御影に緋衣を着せることが江戸時代までのことであれば、以上のような朝廷に対する正式な手続きを経ずしては行えることではなく、終生流人の汚名を背負った日蓮の名誉復権に苦心した門下の熱意がその衣と現れているということでしょう。しかし、近代では、このような官・衣は撤廃され、勝手に団体を興したものが自ら法皇を僭称するご時世ですから、御影に好き勝手な法衣を着せる風潮もまま見受けられるのかも知れません。また、僧位・法衣も各宗の独自性に任せられる故、これもまた、明治以前のような、一つの尺度にはならなくなったという一面もあります。

わたしは個人的には、御影は、日興の言とされる「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」という精神は賛成するところが多く、ならば、当時の似姿を忠実に再現したものが至当であるという思いはあります。しかしこれは、あくまで、個人の嗜好と、希望の範囲を超えるものではないのであろうという襟度も記しておかなければならないかと存じます。

つぶやきスレッドなので、これくらいといたします。

2004犀角独歩:2006/05/09(火) 12:10:44

【2003の訂正】

誤)特殊な監修
正)特殊な慣習

2005ミカ:2006/05/09(火) 17:56:48
はじめまして。
こちらの掲示板は、以前から知っておりましたが、私が「自由な茶寮掲示板1F」にて、犀角独歩氏の著書を紹介をしましたが、あちらの掲示板で氏の著書に付いての議論があり、氏の名誉を傷つけかねない発言もありました。
この原因を招いたのは、私の責任でもあり、発言者、UWFさんがこちらで、反論をなされるように進めたしだいでありますので、ご迷惑かもしれませんが、こちらで議論する場をお貸し願いたく、ご挨拶がてら、書き込みをさせて頂きました。
犀角独歩氏にたいして、他の掲示板で名誉を傷つける発言の原因を招いた事を、ここでお詫び申し上げます。


「自由な茶寮掲示板1F」
http://mt.advenbbs.net/bbs/kensho.htm

2006顕正居士:2006/05/10(水) 06:48:16
素絹薄墨の衣に白五条の袈裟は天台宗からです。『有師談諸聞書』、『当家三衣抄』に詳しい。
これは律衣ではなく俗服、それも折伏(戦闘)用の僧兵の服です。日有師、日寛師は慈覚大師
以来としていますが、池田令道師は慈恵大師以来とし、それが正しいようです。
参考 『天台の教え』ページ9
http://www.shosha.or.jp/syukyou/main/tendai/osie/osie/osie9.htm
なお、日蓮は『八幡抄』に八幡大菩薩が伝教大師に授けたのが紫衣の起源だとしており、紫衣
などを否定していません。『三衣抄』もこれを会通できていない。薄墨・白五条は天台宗から来て
いるのですが、色袈裟の否定は神道、修験のほうからではないかと想像します。
参考 『風俗博物館』
http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/

2007なし:2006/05/10(水) 07:00:52
散華の博識ご披露ありがとうございます。

儀式の淵源を尋ねれば誰かの創作でしょうから後にはすべてパクリでしょう。
学ぶの語源は真似ぶからだと聞いたことがあります。

>「宗門古来の伝統」ではないだろうと言ってのことでした

なるほど。

>日蓮御影に、在世は、弟子檀那が着せることが出来なかった緋衣を着せ、報恩の志が非難されるべきことなのか

報恩の志というよりみてくれ、世間気でしょう。アバタもえくぼに見えますか。緋衣の聖人、お弟子がカラフルの図、もう別世界でしょう。高価な法衣もご指摘どおりだとは思いますが。

>また、日顕氏が、創価学会の願い出によって執行した故牧口常三郎氏第50回忌で、戒名を冷然院感徳日常居士から、冷然院感徳日常大居士に改めたと言うことがありました。

これは初めて知りました。

>わたしは個人的には、御影は、日興の言とされる「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」という精神は賛成するところが多く、ならば、当時の似姿を忠実に再現したものが至当であるという思いはあります。しかしこれは、あくまで、個人の嗜好と、希望の範囲を超えるものではないのであろうという襟度も記しておかなければならないかと存じます。

日興上人は御影信仰との論は取り下げられました。

興上御自筆の御遷化記録の文によれば、一体仏は御灰骨とともに、廟内に安置しおくべしとの大聖人の御遺言である。けっして、他に持ち出し、または帰敬の本尊仏となすべきでない。墓番の六老僧たちが、廟参のときの香華燈明供の時に記念の礼拝をなすべき、特別の宝物で墓所の内院に納まる御焼骨と同然のものである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝

興師筆の御遷化記録には「仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべ し」とあるそうですが、ど素人の私にはこの程度でいいご処置でありこれ以上ではないように思いますが。

ブツブツとつぶやきです。

2008犀角独歩:2006/05/10(水) 08:04:44

2005 ミカさん

はじめまして。当掲示板にご訪問なされたことを歓迎いたします。

ご紹介の該当掲示板において、わたしの名誉が穢されたかどうか、現時点では判断をつきかねますので、謝罪を戴くまではないと判断しております。

やや瞥見しましたが、所謂「本門戒壇の大御本尊」と日寛が呼んだ彫刻品についての議論は、当掲示板ではほぼ落着し、すでに拙書でも落着したことです。
あとは、その事実を受け入れられるかどうかは、各人の健康な精神状態によるほかありません。特定信念体系に誣いられて、事実を事実と認められない人は、事実を受け入れられないという過悪において、事実に打ち捨てられ、その仮想現実の中で長い彷徨、つまり、虚偽の夢想の輪廻に陥り続けるほかないことを気の毒に思うばかりです。

該当の掲示板の、わたしに係る一連の遣り取りは瞥見しましたが、これは議論になっていません。つまり、わたしが提示した彫刻に関する事実鑑別についてのミカさんの投げかけに対して、回答側は、顕正会と同じ話法で、その質問に答えず、ただ悪口を以て、回答を回避しています。つまり、質問内容を悪口にすり替えて、答えることから逃げるという、よく見かける人格攻撃の論理のすり替えという常套手段を悪用しています。

また、このような回答回避を受けた側は、その起因、たとえばわたしの事実鑑別が議論の主眼であったところから、人格攻撃に係る論理のすり替えにはまって話がずれされる主題から脱線してしまうという事態に陥るわけです。

この悪辣な論法はしかし、該当掲示板のミカさんのご投稿に対してに限ることではなく、そもそも、顕正会の常套手段です。これに嵌っては肝心の議論ができないことになります。

彫刻が、日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模作為された模造品であることは、わたしがサイトにアップした写真でも一目瞭然なのであって、もはや、そこに疑問を挟む余地はありません。反対者側は、その写真を見ることをせず、ただ、その提示者への悪口を以て、論理をすり替えています。その第一が浅井さんでしょう。

浅井さんの言うところに依れば、法道院で何度も日禅授与漫荼羅を観た、この論法自体、既にすり替えているわけです。観たが、それが彫刻の原本であると見抜けなかったのは、浅井さんの鑑識眼の能力が劣っていただけのことです。わたしは図形を以て鑑別したわけですから、その反論は図形を以て論じるそれ以外の反論の方法はないわけです。ところが彼は、「大謗法者」「魑魅魍魎」「学会くずれ」と口を極めて、わたしは悪口することで、この真偽鑑別を人格攻撃にすり替えたうえで、回答から逃げています。また、それを鵜呑みにする誣いられた人々は、その口真似・物真似を以て議論をすり替えるという連鎖に陥ってる自分の姿に気付かないでいます。

もっとも、顕正会員は、観たこともない彫刻を信じさせられているわけですから、その真偽を論じること事態、できるはずはありません。それを信じさせ議論を悪口にすり替える卑怯な論法を口真似するほか、何もできないのでしょう。

2009犀角独歩:2006/05/10(水) 08:05:39

―2008からつづく―

この結果が、わたしの名誉を傷つけたかどうか、いまのところ、子供が棒を振り回して自分が一番強いと思っている他愛なさとしか映じておりませんので、子供の“いきがり”に、腹を立てることは大人げないことなので、以上の分析に留めることにいたします。

ただし、昨年10月25日付『顕正新聞』における顕正会の公式発表、並びに浅井さんの前後の発言については、謂われない誹謗中傷であり、十分に名誉毀損に当たると判断すれば、名を挙げられたわたしのみならず、楠山泰道JSCPR代表理事、紀藤正樹弁護士とも協議のうえ、JSCPRに所属する弁護士複数を以て弁護団を結成し、オウム真理教、統一教会、法の華三法行、ライフスペースといったカルト団体を処理したきたことと同様、法的措置に訴える用意はあります。

しかし、人づて、新聞で見るばかりで、当人浅井さんから、わたしに直接、何ら言ってくるわけでもなく、ただ、わたしの知人を処分している悪口をして、それだけで終わる様は、ずいぶんと恐がりの人物だと、いと面白く感じるばかりです。次にアクションがあれば、裁判の当事者は、私設の掲示板で口真似をしている人々ではなく、ズバリ、裁判のターゲットは浅井さん本人です。

以上わたしの名誉に係ることとしかし、彫刻の真偽は、別問題です。

わたしが採用した該当の写真は熊田葦城著『日蓮上人』に掲載されたものです。わたしの批判者は、この原資料を確認しておらず、この写真自体から疑うというお話にならない稚拙さですので、この点については一言すれば、同書には、

「本門戒壇の大本尊…大石寺に宝蔵す由井一乗居士特に寄贈せらる」(『日蓮上人』P375)

とその写真の提供者を「由井一乗」であると明示してあります。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitirenshonin_p375.html

同氏は昭和4年に総講頭に日開氏が任命した人物です。『日蓮上人』の発刊は、明治44年のことです。

さらに、写真が発表されたことが事実であることは細井精道(のちの日達)氏が『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮抄宗務院編)のなかで認めています。

また、わたしが使用した日禅授与漫荼羅の写真は、北山本門寺宝蔵調査で撮影されたものです。この北山所蔵漫荼羅と、大石寺所蔵の同漫荼羅が見分けがつかないことは堀日亨氏も認めたことでした。そのことから、この二体は相剥で分かたれたものであると目されるわけです。仮にこの二幅の相貌が不一致であっても、日蓮上人に載る「戒壇の大本尊」写真と日禅授与漫荼羅の相貌が一致していることは、既に鑑別したとおりです。

以上のことは、わたしの管見をご理解いただいている以上、屋上屋を重ねるところですが、取りあえず、記しました。

感情的、人格攻撃によって回答を避け、事実を認めない類の議論は時間の無駄ですから、こちらで、落ち着いた議論をされることをお薦めするものです。

2010犀角独歩:2006/05/10(水) 08:21:06

―2009からつづく―

ご承知のことと思いますが、彫刻に関しては2頁、わたしのHPは2箇所設けてあります。

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

佛教再考
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/

BLOG 犀の角のように独り歩め
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/

2011犀角独歩:2006/05/10(水) 08:44:31

2007 なしさん

できれば、何かHNをお決めになって落ち着いて議論されては如何でしょうか。
ここは、つぶやきですから、議論はNG。ですから、感想程度に、以下、留めます。必要があれば、適切なスレッドに移動して、議論を続けたいと希望します。

> …パクリ…学ぶ・真似ぶ

は、御説のとおりでしょうが、わたしが「パクリ」と慨歎したのは、そのパクリ元を謗法だなんだと誹謗したうえで物真似をしているからです。これは学ぶ姿勢とは言えません。「盗人猛々しい」という非難の対象だろうという意味です。

> 報恩の志というよりみてくれ、世間気でしょう

それは、なしさんの個人的な勘繰りでしょう。
世間一般でも親が年を取れば、赤いちゃんちゃんこを着せるといった風習はあります。それは親孝行からの思い、報恩であるのに、世間気といってしまえば、その志は潰えます。

たとえば、日蓮の『立正安国論』が認められ、国士と認められ、朝廷の帰依も受け、官位を衣を下賜されたとしたらどうでしょうか。それを日蓮は拒否したでしょうか。わたしは、むしろ、当初の日蓮は、国師を標榜していたと思えます。となれば、それを否定する言われもないことになります。そんな拒否するぐらいであれば、そもそも、坊さんスタイル、頭を剃って、袈裟衣を着て沙門と名乗る世間気自体から否定すればよいわけです。薄墨=折伏ということ自体、後付の日蓮潤色のみてくれじゃないでしょうか。

> 日興上人は御影信仰との論は取り下げられました。

ええ、これは仰るとおりです。

> …仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべ し

この点ですが、恰も釈迦仏像の扱いを、この文献が既定しているような誤解があるとわたしは考えます。この釈迦像を墓所に置けとされたのは、これが日蓮手製の持仏、すなわち、日蓮個人の本尊だからです。

このような慣習は今でも行われていますが、堂塔伽藍に奉安される本尊と、各人が個人的に護本尊として所有する持仏とは、その性質が違います。
これを同等に論じるなど、石山で下付する個人用のお守り本尊を、本門戒壇の大御本尊として戒壇堂に懸けることだと言っているようなものです。ナンセンスな、勘違いというほかありません。

2012藤川一郎:2006/05/10(水) 11:27:03
薄墨色というのは、面白い。
天皇陛下の衣冠束帯は通常「黒色」であるが、仏門への帰依を顕すときに着用されるのは薄墨色です。
また、伊勢神宮や色々な場所への勅許が下される場合、各種色彩に施された詔書(用紙)が下されますが、
最高神を祀る社である伊勢神宮への詔書の色が薄墨色であります。

つまり、宮中でも特別な意味を持つのが「薄墨色」なのです。

2014犀角独歩:2006/05/10(水) 17:07:23

探したら、石山で七百遠忌の時にもらった散華が出てきたので、日蓮宗のものと並べてみました。

右が日蓮宗、左が石山。描いてあることに違いはありますが、その形は、そっくりです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/sange_hikaku.html

2015ミカ:2006/05/11(木) 00:22:43
犀角独歩氏へ。
暖かいお言葉ありがとうございます。
犀角独歩氏の「本門戒壇の大御本尊」の書籍を紹介したかいがあります。
顕正会の掲示板では、散々に言われておりますが、いくら騒いでも、証拠を持って反論証明できないのが現状であり、なにを言われても説得力がないと思っております。
顕正会員として、会長の発言矛盾等指摘しても、何の回答も反応も出来ない、同じ会員としては情けない限りです。
私もこちらに参加して反論でもと思いましたが、次元が違いすぎて無理なので、閲覧専門になります。(汗)
こちらの顕正会のスレットでも、反論できる余地が恥ずかしいですが、微塵もございません。

私信の板汚しになって申し訳ございませんが、ご了承の程お願い申し上げます。

2016なし:2006/05/11(木) 01:05:14
>2007 

失礼だとは思いますが、お許しを、削除は受け入れますので
お説を疑問に思うことはあるのですが議論などとてもできないのです。

散華の写真ありがとうございます。左右が逆では?
大石寺の行道散華、堀上人以前はなかったのでしょうね。


世間と出世間とを同列視して飛躍した譬えのように思います。
世間の人は僧の中身より位階に平伏します。出世間に住しながら行態、思考が世間気の僧も数多見かけます。

仮定の上でなんですがセンダラが子と国師の両極の気位をお持ちの聖人、下賜をそのまま応諾されるでしょうか。階位などなくてよしと、ましてや五位の位階などと。  勝手な想像です。


>日蓮手製の持仏、
海中出現と聞きましたがお手製の証拠はどんなものなのですか。

信徒の釈迦像造立は個人の礼拝用の域であれば信心増幅のためお許しあったのではと、これまた自己流解釈です。

波木井氏の釈迦像建立は日興上人身延離山の理由の一つでした。

2017犀角独歩:2006/05/11(木) 01:45:07

なしさん

散華の写真、たしかに左右逆でした。

>大石寺の行道散華、堀上人以前はなかったのでしょうね。

先の資料からするとそういうことになりますね。

> 世間と出世間とを同列視して飛躍した譬え

そうでしょうか。僧侶というのは、何時の時代にも日本では、国家認可ですよ。
日興にしても、四十九院の供僧でしたし、日目その他にしても、自分の領地を持っていたわけです。そんな歴史は知りませんか。まさか、坊さんは、供養だけで食べていると思っていますか。

> 階位などなくてよしと、ましてや五位の位階などと。

では、なぜ公卿の弟子が多いんでしょうね。新田卿の日目、日尊みんなその類ではないでしょうか。また、出世間といいながら、日興は公家天奏しない、いや、できなかった。武士の出身だからでしょう。しかし、日目、日尊はできました。出身が公卿だからでしょう。(まあ、大雑把な表現ですが)
ここで問題です。では、日蓮が「センダラ」の身で、国家祈祷をできるんでしょうか。日蓮にその気があっても、当時の日本社会構造はそれを許さなかったでしょう。そんなことは日蓮は百も承知で、立正安国論ではないでしょうか。つまり、日蓮の出身には謎があるということです。
では、国師とはどういう意味か? あの当時、民衆凱歌なんかありえません。国家祈願、本門戒壇、それが階位なくしてできるなんて、非現実的な議論でしょう。
現在の民主儀と鎌倉時代を混同しては現実は見えません。

>>日蓮手製の持仏、
> 海中出現と聞きましたがお手製の証拠はどんなものなのですか。

この点は、つい最近、投稿し、れんさんの補完も受けたことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/1972-1973

> 信徒の釈迦像造立は個人の礼拝用の域であれば信心増幅のためお許しあったのではと、これまた自己流解釈です。

当たらずとも遠からずでしょう。
その個人用の隋身仏を日蓮も持っていた問い事です。

> 波木井氏の釈迦像建立は日興上人身延離山の理由の一つでした。

そうですね。しかし、これは釈迦立像建立が離山の理由ではなく、(多分、日蓮手製の)隋身仏が持ちされたからといって、第二転、つまり、その身代わり複製を建立したことに対する抗議、さらに日興は仏像は一尊四士であるという持論を持っていたので、一体仏であるという、以上二つの理由から、これに抗議したことでした。以下、その文献です。

「日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。
 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」(原殿御返事)

刷り込まれた集団のご都合アナウンスを自分で考えたことのように思わないことです。そして、集団のいうことは疑って、位置から自分で考え直してみることが大切です。少なくても、ここで長らく書いている人は、みな、その道を通ってきました。

2018犀角独歩:2006/05/11(木) 01:46:37

【2014の訂正】

誤)右が日蓮宗、左が石山。
正)左が日蓮宗、右が石山。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/sange_hikaku.html

2019犀角独歩:2006/05/11(木) 02:01:55

【2017の訂正】

誤)現在の民主儀
正)現在の民主主義

2020犀角独歩:2006/05/11(木) 02:33:34

持仏は、日蓮手製であること
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitirenteseinobutuzo.html

2021なし:2006/05/11(木) 06:39:41
>現在の民主主儀と鎌倉時代を混同しては現実は見えません。

ご指摘のとおりですね。ありがとうございました。出家の原点はことごとくを捨て去る事から始まると思っていましたが
世の中は認めてくれない。優秀な僧侶にはジレンマもあったでしょうね。 大甘でありました。


聖人手製の持仏、証拠の提示ありがとうございます。伝承鵜呑みはあぶない。


波木井氏の釈迦像建立についての文献提示ありがとうございます。よくわかりました。

御文は強い、後世に残すことに尽力された日興上人のご功績は計り知れない。有難い事です。


>刷り込まれた集団のご都合アナウンスを自分で考えたことのように思わないことです。そして、集団のいうことは疑って、位置から自分で考え直してみることが大切です。少なくても、ここで長らく書いている人は、みな、その道を通ってきました。

心しているつもりです。
恥のさらしついでにもう一つ。
独歩さんの日目上人の評価が気に入らないのです。聞くところではば問答第一であられたという。
天奏でお尋ねあった時、問答に詰まってはお話にならないのでは。

2022犀角独歩:2006/05/11(木) 10:36:59

なしさん

まあ、気に入らないと、言われても困ります(笑)

さて、この「問答第一」「天奏」という2点に就き、あなたの思いは矛盾していませんか。伝説によれば、日目は42度の天奏を行ったといいますね。(『五段荒量』等)最後は美濃で臨終されたわけですから41度ということになりましょうか。41度です。では、あなたがいうとおり、問答第一ならば、そこで問答がされ、相手が納得しなかったのならば、これでは、まるで問答第一ということになりませんが、どうでしょうか。

さきにれんさんが、日目に取り立てた教学的な特徴を見られないのは、むしろ、日蓮、また、日興の教えを忠実に継承したからではないか、顕正居士さんがご指摘されるとおり、特に著書が伝わらないわけです。それでも、日目の様を伝える伝記は古く、『御伝土代』に見られます。

「大聖仰せに云く。卿公問答せよ…聖感あつて云くさればこそ日蓮が見知りてこそ卿公をば出たれと云云」

この記事を見る限り、日蓮は、日目の問答能力を高く評価していたことが知られます。また、これは『家中抄』日目伝では「小日蓮」さらに「肉牙」問答第一の証に脱けた歯を下す(御肉牙)へと潤色されていきます。このようなところから、日目の問答第一の伝説は出来上がって言ったのでしょう。

わたしが日目の教学力に疑義を唱えたのは、問答第一という側面ではありません。概ね二つです。一つは、日目は日興在世の時から既に本尊を認めています。これは石山流の師弟の筋目に反しないかということです。もう一点は、日蓮の漫荼羅は「書写」の二文字がないことは、当掲示板でも話題に上ったことで、これは本尊書写のとしては、ルール違反ではないのかという点です。問答についてではありません。

問答というのは、勝ったほうが教学力も、信心もあると看做されることになりますが、わたしは問答の勝敗と、述べる教学の是非は別問題であると考えます。単に口がうまく、場を握れば、問答には勝つことができるからです。その好例が半世紀前の小樽問答の創価学会の勝利です。ここでなされた問答内容の学会側の主張はまさに噴飯ものですが、しかし、見かけでは学会の圧勝ということになります。しかし、その勝利に際し、主張された内容は、少しも日蓮の教学といえるものではなく、「本門戒壇の大御本尊」も偽物でした。

日目が問答第一であったか、懐く教学の日蓮を継承したものであったのか、今のところ、資料が乏しくその落着は困難であろうかと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、なしさんは、一つの固定観念に基づいて天奏を考えているのではないでしょうか。それはつまり、問答が巧みで天奏して問答して朝廷を納得させれば、日蓮の教えに帰依する。これがまず、言われてきた物語を鵜呑みにしてしまったことによる判断の誤りの第一です。

当時のの事情、文献をから考えるとき、天奏とは、大雑把に現在の事例で類似形の探ると、いわば、宗教法人の許認可、また、朝廷、もしくは武家からの供養の確保という点に、実利面に重点があることがわかります。今の時代と違い、書類の手数料を出して、認可を待つというわけにはいきません。公の長、武の長と、直接掛け合って、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。まあ、そこで問答に巧み(口がうまい?)というのは、他から抜きん出る意味でも、口下手より有利でしょうが、しかし、絶対要件ではないでしょう。

ですから、日目が問答第一であったかどうかと、天奏とは、直接、脈絡のないことであるとわたしは思いますが如何でしょうか。

2023犀角独歩:2006/05/11(木) 13:19:49

2020に就き、「船守弥三郎許御書にある」というメールを頂戴しましたので、ご本人の許可をいただき、その後指摘を紹介させていただくと共にこの点を記します。

『船守弥三郎許御書』に「海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事」(定230)

この一節から、持仏は海中出現であるというのが、その反論でした。
わたしは、これを類推解釈であると思うわけです。「仏体」とあって、仏像とはないからです。
同御書は真蹟を遺さず、その内容からとても日蓮の真筆とは思えません。しかし、仮にここに記される出現の仏体という伝説が事実であったとしても、それが直ちに仏像であるということにはならないと考えます。

むしろ、ここで日蓮がたまわったとするのは、「海の定木」であり、それを仏像に刻んだゆえに仏(の)体としたという類推は成り立ちます。

漫荼羅正意論からは見えない日蓮の伊東流罪の心情があります。
当時は、当然、漫荼羅図示を日蓮は始めていません。日蓮が伊東で実際に過ごした場所はどのようなところであったのか、憶測の域を出ませんが、幼少より仏教に慣れ親しみ、虚空蔵菩薩に願もかけ、弥陀仏を簡んで釈迦を崇めた日蓮は、仏教の僧侶として、当然、仏像は崇敬の対象であったでしょう。

しかし、流人として流された日蓮の寓居は同宇ではなかった。当然、そこには仏像もないような場所であったのだろうと想像できます。

漫荼羅正意論者が、家に本尊がないことを寂しく不安に思うように、仏教僧として、仏像のない場所での暮らしは、どれほど、心細いものであったのか、わたしは、そんな流地伊東で流人の身上で日々を送った日蓮を想像します。そこで、海に浮かぶ一木を献上された日蓮は、自らの思いを篭めて一体の仏像を彫り、それを持仏として充て、無仏の寓居で、流罪を越した…。その苦しみを共にした手製の持仏を日蓮は、終生、大切に身に帯し、死んで身延に墓所を希望するに及んでも、身が荼毘に付されて骨となっても、その辛苦を共にした持仏を墓の傍らに置いて欲しいと願ったというのが、その日蓮の心情であったのではないでしょうか。

この持仏彫刻の伝承は、しかし、重須文献に見られる富士方が護るところであったのに、その後、徐々に漫荼羅正意に傾いた門派では、日蓮が自ら仏像を彫ったという伝説はまことに都合が悪いところであり、ゆえに今日では文献が残っているのにもかかわらず、語られるところがないことになったのであろうとも思えます。

いくえにも日蓮の痛みが伝わる顛末であると、わたしには思えます。

2024犀角独歩:2006/05/11(木) 13:42:09

ところで、この海中出現仏像伝説というのは、日蓮門下に限らず、むしろ、他で先行して、その物語があります。
なぜか、仏像の海中出現の仏像の伝説は古今東西に聞かれるのですが、こんな物語の延長で船守弥三郎献上の海中出現の仏像伝説も紡がれたのであろうと思われます。
彰往考来さんが得意とされるテーマと感じます。


「推古天皇36(628)年に土地の漁師、浜成・竹成の兄弟が投網で聖観世音菩薩像を海中から拾い、土師真中知が居宅を寺として奉安」
http://masuda91.hp.infoseek.co.jp/page07b.html

「白鳳元年3月15日、この地の漁船が八幡浦で難風に遭ったとき、荒れる海中より出現した阿弥陀仏像を、船にお載せ」
http://www.jodo-chiba.jp/contents/syokai/4088_muryoji.htm

「閻浮檀金釋迦如来像…唐代貞観十九年(646年)
下関赤間ヶ渕の海中出現の金像」
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/y04/0409taka/jihou.htm

「普賢寺は平安時代、寛弘3年(1006)の創建で、開山は播州書写山円教寺の性空上人(910〜1007)といわれる。本尊の普賢菩薩像は海中から出現したという生身の霊仏」
http://www.kvision.ne.jp/~h-kanko/new-hp/bunkazai.htm

貞和3年(1347)「柴村の漁師が海中にまばゆいばかりの光を放つ物を見付け、村人たちは光をたよりに恐る恐る網を入れた。と、その光の主こそ、大津波のとき身替りになった長浜の観音さまだったのである。
 長年、海中に沈んでいたためカキ殻が一面に付着。村人は「貝付<かいつき>観音」といい、別に「海中出現の観音」とも呼んだ」
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/21/21.htm

「応安元年(1368)妙謙和尚によって、開かれたといわれ、本尊の毘沙門天は、行基の作と伝えられています。この毘沙門天は、海中出現の像」
http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/M-MIURASI-B.htm

「済鱗寺…1570)に海中より出現の阿弥陀仏像を本尊」
http://www.kcc.zaq.ne.jp/sitihukujin/sairinnji.htm

等々

2025藤川一郎:2006/05/11(木) 16:13:03
京都のIH法衣店にて、法衣の作成をする場合、一番出しにくいのが「薄墨色」だそうです。
一見逆のようですが、この微妙な色は出すのが難しい。
ネズミ色は簡単に出来ますが、薄墨色は難しく手間もかかるそうです(同一ではありません)。
一見派手な色の方が、染めが簡単だそうです。

だから究極の薄墨色の衣を作るとすると、最大の金額の物も作れるのですが、残念なことに日蓮正宗ですらそこまでの法衣は作ってくれないそうです。
それを宮中御依頼で作成するのが、数十年に一度だそうです。

2026れん:2006/05/11(木) 19:14:12
なしさん、初めまして。
目師の教学については、独歩さんのご指摘の通り、目師自身の著作は殆どなく、目師による日蓮聖人の御遺文の写本も、一代聖教大意(保田妙本寺蔵)・法華経題目抄(柳目妙教寺蔵)・四信五品抄(富士大石寺蔵)・法華取要抄(富士大石寺蔵)が伝承されるのみです。もっとも四信五品抄については奥書に「弘安元年五月二日」とあり、日蓮聖人在世、恐らく身延山での書写でしょうから、日蓮聖人から、この書の法義について何らかの教示を受けた可能性の推定は可能でしょう。ともかく目師が自身の日蓮聖人の教学に対する認識を披瀝した文献は現存しないので、現在、独歩さんが要約してくださった視点に落着しています。
一応の参考資料を提示すれば目師の孫弟子の郷門の日叡師の類聚記には「大上人御出世御本懐御法門日目上人御相承ハ弘安五年正月一日也云々」とあり、また同師の後信抄に「師傳ニ又本佛、本戒、本尊等の大事アリ、可秘可秘」とあり、上記の法門伝授が行われたことが上代目師門下に確認出来ます。道師門でも、大同の法門が伝承されていた模様でこちらは耳引法門として纏められたようですね(石山三十一代日因師の三四月会合抄に引用される日目直授相承〈三口一徹の相伝〉はその一部分の可能性があるかもしれません)。ただし郷門のそれは貫首一人の秘伝というわけではなく、日叡にも伝承されていた訳ですから当器伝授という位置付けだったと思います。
目師の問答については、日叡師の兄弟の慶俊師の写本を底本としたという戦国期の写本を翻刻した「問答記録」にありますね。目師筆の本尊には、現在公開されている三幅の御筆写真には「書写之」が記されてないのは、どういうわけによるものか、釈然としないものがありますね。まあ、図顕といった意識の方が強かったのかもしれません。

2027なし:2006/05/11(木) 20:01:41
先ほど帰ってきました。とりあえず1行だけ
お会式で読まれる申状はどんな位置づけなのでしょう。

2028犀角独歩:2006/05/11(木) 21:48:18

れんさん

つぶやきで、やや議論になってしまいますが(笑)

『百五十箇条』に「三箇秘法とは日蓮日目と御相承し・日興聖人は唯授一人の相
承たる間、我が臨終の時・耳にさゝやげと仰せられけるほどに・其の剋に御耳にこそ唱へて聞せ奉り御座す事なり、大聖より御聴聞有る故にこそは日朗の「卿公は御法門聴聞」とて強くも目の耳を引きたまふ日朗の耳引法門とは今の三箇のいはれなり、此の時は日蓮・日目・日興と次第し、御付法は日蓮・日興・日目と次第するなり、此の三箇の秘法は当宗の独歩なり」とあります。

この文章を信頼する限り、耳引法門とは、臨終に囁く三箇の秘法であり、これは、蓮目興の次第であるけれど、付法となると蓮興目なのだという趣旨です。

この辺のところは、内心ではまだまだ決着していないのですが、以前の話し合ったことかと存じますが、蓮目直授という相承譜は、あるめん、洛の始原であると思うのです。しかし、これが天文法難以降、寺院拠点を喪った洛中では、その復興に際し、権威を富士に求めたところ、その頃には既に蓮興目の次第が定着していた。そこで、上古の蓮目尊という直授相承観と、蓮興目の相承観の整合性を諮る必要性が迫られたということはないでしょうか。

もう一点。わたしはどうも耳引法門という点の判断に迷いがあるわけですが、上記の文献にいう説明というのは至当なものとお考えになりますか。

2029犀角独歩:2006/05/11(木) 21:51:06

> 申状はどんな位置づけ

認可嘆願書といったところではないでしょうか。

お会式のといことなので、一言しますが、これを法要で捧読するようになったのは、日精の時代ではありませんでしたか。その際、申状が存在しない歴代のものをいくつか作って補填したということでしたね。

2030れん:2006/05/11(木) 23:00:01
犀角独歩さん
やはり突っ込まれてしまいました(笑)
御引用の文は百五十箇條ではなく、左京日教が石山転派後に著述した穆作抄ですよね。左京日教が富士に転派する以前の著作の百五十箇條では、「法門の大事・三箇の秘法を授け玉ふ日興」と記して、三箇秘法を日蓮が授与したのは日興という設定で、こちらが当時の尊門の伝承と思います。日教が富士に転派してからの著作には、日蓮が三箇秘法を授けたのは日目としている訳で、こちらが日教が帰依した当時の三箇秘法に関する石山義だったと思います。上古の尊門の系譜観は百六箇の奥に垣間見えるようにむしろ蓮興尊で、蓮目の直授相承観は富士山麓の目師門程には色濃くなかったと思えます。日教は石山日有とほぼ同時代に活動した天文法難以前の人で、石山に帰依してから三箇秘法については以前の蓮興直授の主張を捨て、蓮目相承を主張したので、整合性を諮るというという意図が日教にあったか否かは、私には分かりません。
石山日有の言では、石山で蓮目直授とされる耳引法門を文献化したのは六世日時だとするわけで、御提示の日教が穆作抄に記した耳引き法門にかかるエピソードの設定は、日有の言を補完するものではありましょうね。このエピソードの設定は、おそらく日時が四帖に記したものがネタ元だと思います。
堀日亨師によれば現在要山に所蔵される日蓮在世に日興が書写した観心本尊抄の写本は後世に石山が要山に与えたとのことですから、私の根拠の無い勝手な想像ですが、上古石山においては、石山にあったという観心本尊抄日興写本が、蓮興目の相承観に使われていた可能性はあると思います。
以上のことから、日教の穆作抄の耳引法門に関する説明は、当時の石山の主張を示したものとしては至当と判断しております。
以上ご参考まで。

2031なし:2006/05/11(木) 23:36:19
>> 申状はどんな位置づけ

>認可嘆願書といったところではないでしょうか。

目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか。

小樽問答あれは吊るし上げでしょう。問答に饒舌の必要はないと思います。
簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います。

2032犀角独歩:2006/05/11(木) 23:58:23

れんさん、ご批正、有り難うございました。
たしかに『穆作抄』でした。どうも、最近は耄碌したせいか、すぐに間違います(笑)

れんさんと議論の始まりは、『四帖抄』でしたね。空き缶さんや、現時点さんとの、この件に関しては賑々しく議論しましたね。

わたしは、四帖と聞くと、やはり、慶林日隆を想起するのですが、石山では、そうはならないわけですね。「四帖の聖教」というのは、当時、回達された『四帖抄』にあやかって、悪くいえば、パクって付けた名前ではないのかと、わたしは思ったりするのです。富要で見る限り、この語彙は『有師談諸聞書』でしか、確認できません。相変わらず、歴全を所持しない怠慢なのですが、確実な資料として、この初出というのは一体いつ頃のことになるのでしょうか。

後付で日時に仮託すれば、日隆に先行することになりますが、日有であれば、受け取った張本人以降ということになります。日精に依れば受け取ったが読まなかったというけれど、そんなことはないでしょう。面白いともうのは、『四帖抄』を受け取ったのが、日有であるというのは、日蓮門下一般でも通説になっていて、その他の人の名が上がらないことです。それで、石山は勝劣義というわけですから、影響がないとは誰も思っていないわけです。

関連するかどうか分かりませんが、耳引法門といえば、三箇の秘法で、『三大秘法抄』も日時本があると主張してきたのも、石山。どうも、日時となると疑わしい気分になるわけです。

この辺り、れんさんは、どうお考えになりますか。

2033犀角独歩:2006/05/12(金) 00:07:00

なしさん

「正法を崇められんと請ふ」というのは嘆願以外の何でしょうか。

> 問答…簡潔、痛烈な一矢

それはあなたが考える問答でしょう。

では、逆に聞きましょうか。日目の申状のどこに痛烈な一矢があるのでしょうか。そもそも、内裏に通された僧侶が、朝廷に言辞とは言え、痛烈な一矢など放ったら、その場で即刻、頚を刎ねられますよ(笑)

2034犀角独歩:2006/05/12(金) 00:09:12

それから、なしさんに一つ記しておきますが、れんさんもあなたに話しかけ、記して下さっているわけですし、わたしも時間を割いて、レスをしています。

それなりの儀礼を以て、応じる矜持を示せないのであれば、他のバトル系のBBSでやればよろしいのです。

2035犀角独歩:2006/05/12(金) 01:06:43

日目四十二度の天奏は後付の伝説か?

いま、ざっと検索してみたのですが、日目の四十二度の天奏は、古い資料で『五人所破抄見聞』の「日目上人四十二度の天奏」、『申状見聞』の「目上は一代の間四十二度の御天奏」といったところです。日目寂から、150年ほど、あとの伝説ということになります。

わたしが、日目の天奏に就き、許認可嘆願の類といったのは、その結末が日尊が代奏した結果、土地を賜って、一宇建立したのが上行院であるからです。
この史実は、死身弘法であるとか、国諫という語彙のニュアンスからほど遠いではないかと思うからです。

ただ、これは日尊のみのことかといえば、その他の事例も大同小異という印象があります。

また、申状を受けた側も、他宗他派を斥けて日蓮法華一宗を採ったなどということはなく、常に複数の宗教を是認しているのが、為政者の常でした。新興宗教の代表者が朝廷その他に謁見を求め、内裏に上がるのに、諫めの目通りが適うなどということは、実際上、考えづらいところです。むしろ、やや穿った見方をすれば、このような目通りには、その斡旋、紹介者を含めて、巨額の資金が動き、むしろ、主眼はそちらに傾きやすい面があったのではないのかと想像します。

中世の不受布施派のように、謗施、謗法与同、破邪顕正といった趣きの国諫が実際になされたとすれば、そのレスポンスは、日蓮と同様、法難流罪といった形となったでしょう。ところが、日目にしても、日尊にしても、そうはなっていないわけです。

申状とは「個人が公に差し出す上申書。申文ともいう。または日本中世における訴訟状。本解状・目安。所領等の争いにおいて安堵を要請する原告者の訴状」(日蓮宗事典)というのが、本来の意味ですから、国家諫暁書を直ちに意味すると考える点にわたしは疑問を懐いているということです。

なお、各師の申状の文面は定型化しており、それはつまり、現代の法令書式一般のように、一定の決まりに基づいて書かれたことを意味するのだと思います。

2036なし:2006/05/12(金) 03:27:01
れんさんからご挨拶をいただいておりながら大変失礼いたしました。
れんさんの書き込みの詳細部分、私にはレベルが高すぎて何につながっているのかは実はよくわからなかったのです。ご指摘を受け何度も読み返して目師の著述に関してのご教示でありました。れんさんすみませんでした。

わたしは」日目上人に教学の著述が少ないことには興味がありません。
「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです。加えて頭頂の凹むご奉公、身延で「聖人の御説法を聴聞せずということなし」これによって習学せざることも亦よく暁了したまえり----。亦予の伝奏の代として二度流難三度の高名これあり----,亦巧於難問答に達せり---伊勢法印と問答したまうときも一両句にて閉口いたされたる、---、と
これらをもって著述が少ないことが何の不足になるだろうかと思っています。

独歩さん、短文過ぎて誤解をあたえてしまったようですみませんでした。

>認可嘆願書といったところではないでしょうか。

目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか。

この質問は独歩さんの以下の記述を受けてのものでした。

>天奏とは、大雑把に現在の事例で類似形の探ると、いわば、宗教法人の許認可、また、朝廷、もしくは武家からの供養の確保という点に、実利面に重点があることがわかります。今の時代と違い、書類の手数料を出して、認可を待つというわけにはいきません。公の長、武の長と、直接掛け合って、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。まあ、そこで問答に巧み(口がうまい?)というのは、他から抜きん出る意味でも、口下手より有利でしょうが、しかし、絶対要件ではないでしょう

---------------------------------------------------------------------------------------------------
日 目 上 人 申 状
 日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す。
 殊に天恩を蒙り、且つは一代説教の前後に任せ、且つは三時弘経の次第に准じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請うの状。
 副え進ず
 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文
 一通 先師日興上人申状 元徳二年
 一、 三時弘経の次第

 右、謹んで案内を検えたるに、一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意(ぶっち)に任すベし。三時の弘経は則ち如来の告勅なり、進退全く人力に非ず。
 抑、一万余宇の寺塔を建立して、恒例の講経陵夷を致さず、三千余の社壇を崇めて如在の礼奠怠懈しむることなし。然りと雖も顕教密教の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も験(しるし)なく、自他の反逆歳を逐うて強盛なり、神慮測られず仏意思い難し。倩(つらつら)微管を傾け聊(いささ)か経文を披きたるに、仏滅後二千余年の間正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。之を信敬せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を鎮めん、此の条如来の金言分明なり、大師の解釈炳焉たり。就中我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず。三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を誡む。然れば則ち爾前迹門の謗法を退治せらるれば、仏も慶び神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え国も栄えん。望み請う、殊に天恩を蒙り諸宗の悪法を棄捐せられ、一乗妙典を崇敬せらるれば、金言しかも愆(あやま)たず、妙法の唱え閻浮に絶えず、玉体恙(つつが)無うして宝祚の境え天地と疆(きわ)まり無けん。日目先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。誠惶誠恐謹んで言す。
  元弘三年十一月   日 目
-----------------------------------------------------------------------------------------------------
独歩さんは答えとして「請うの状」をあげられました。嘆と請う
申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません。

二度流難三度の高名これありとは何のことでしょうか。


小樽問答あれは吊るし上げでしょう。問答に饒舌の必要はないと思います。
簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います。

問答について小樽問答を出されましたので感想と問答の要点を述べたまでです。
「伊勢法印と問答したまうときも一両句にて閉口いたされたる」を連想してのことだったのですが。

なぜか「出て行け」とお叱りを受けました。まもなくお暇いたします。
お叱りを受けて一本指で一所懸命に書きました。御寛恕を。

2037犀角独歩:2006/05/12(金) 09:37:44

なしさん

わたしは「出て行け」と記したのではありません。
せっかく、れんさんが声をかけてくださり、長いレスを下さったのだから、挨拶を返してしかりである、そのようなことが出来ないような無礼な態度はこの掲示板に馴染まない、挨拶も出来ないのであれば、他のバトル系の掲示板にいってはどうかという意味で記したのです。しかし、ちゃんと、2036に挨拶をされたのですから、その限りではありません。

なお、2036では、先の投稿内容を繰り返しています。これはたぶん、先の投稿が短文で誤解を招いたので、それを補完して繰り返したのであろうと思います。しかし、この同一内容の繰り返しは、当掲示板では投稿規約に抵触します。

「4 無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。同じ文章の連続投稿、或いは、文章は同一でなくとも内容的に同じことを繰り返し投稿された場合は削除致します。なお、根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。」

特に管理者さんから注意がないので、今回は看過しますが、よく『当掲示板への書き込みルール』を熟読されて、投稿されては如何でしょうか。
http://jbbs.livedoor.jp/study/364/#13

さて、日目申状が許認可・嘆願書の類ではないかという点について、説明しましたが、どうも、申状の文のみにとらわれて、わたしの記した意味がわからないようなので、やや補完します。

> 日目上人に教学の著述が少ないことには興味がありません

あなたの興味は、関係ありません。
事実証拠がなければ実証されないということです。

> 「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです

該当文章は『日興跡条々事』、日目譲状と称されるところですが、これを日興の真筆だといっているのは石山門下ぐらいのものです。
石山では日興真筆があると主張しますが、本日に至るまで、その影本を見せず、石山僧が論文まがいのものを発表し真筆であると言っているのに過ぎません。わたしは偽書説を採ります。偽書を以て証拠とするは笑止千万。この書は日興の真筆である証拠があればお聞きします。是一

わたしは先にも記した際に小樽問答を上げましたが、これは問答ではなく吊し上げだというのがあなたの反論でした。では、この問答と、称賛したのは誰でしょうか。大石寺一山ではありませんでしたか。あなたがどのような信仰者であるか知りませんが、文面からすれば、小樽問答を批判する側であるということは、この点については当時の石山を批判する立場にあるということですね。その点ではわたしは同意しますよ。

2038犀角独歩:2006/05/12(金) 09:38:17

―2037からつづく―

しかし、日目の御伝土代に記されるところの問答において、相手が問答に詰まって閉口した。それが、ですから、朝廷に対する国諫でどんな意味を有するのかというのがわたしの問い返しです。意味を持ちますか、そんなことが。是二

> 目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか

この点については、既に記しましたが、どうも通じないようなので、やや補足しましょう。読み飛ばさず、一々の記述をしっかりと認識してください。

1.「請う」という言葉の意味は以下のとおりです。

こ・う こふ 【請う/乞う】

(動ワ五[ハ四])
(1)ある物を与えてくれるよう、またある事をしてくれるよう相手に求める。
「この道の専門家に教えを―・う」「近日上映。―・う、御期待」「みどり子の乳(ち)―・ふがごとく/万葉 4122」
(2)願いの叶(かな)うよう神仏に祈る。
「天地(あめつち)の神を―・ひつつ我(あれ)待たむはや来ませ君待たば苦しも/万葉 3682」(三省堂提供「大辞林 第二版」)

日目の申状の場合、文面だけで読めば「末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められん」ことのみを請うているわけですが、本当にそれだけが趣旨なのか、というのがわたしの発題です。ですから、わたしが記したことは申状における文章だけの意味ではなく、所謂「国諫」と称された行為そのものがどのような意味のことなのかを記してきたことです。そのうえから、今一度、申状に戻り、読めば、許認可・嘆願を趣旨とした文章なのだろうという意味です。

日目の天奏が本当に42度に及んだのかどうか。この点については、日目寂150年後の書と覚しき『五人所破抄見聞』に載るところであるけれど、上古の文献にそれが見られず、単なる伝説の類、潤色の称賛ではないのかというのが、先に記したことです。となると、実質的に日目の天奏は、美濃の垂井で旅途上で寂した時に、日尊が代奏を果たした事跡に史実が見られる。では、この史実の顛末は、と言えば、日尊は、代奏の巧を嘉見せられ、土地を受け、上行院を建立した。つまり、この史実が示す顛末は、結局のところ、京都における布教の安堵、寺院土地堂宇の下賜ということになっているではないか、つまり、このことが申状の目的であったのだろうというのが、先のわたしの投稿の意味です。

> 申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません

ですから、文だけを読めば、あなたが言うようになるけれど、結果的には、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援にしかなっていないと言っているのです。違いますか。是三

2039犀角独歩:2006/05/12(金) 09:38:47

―2038からつづく―

またもし、日目の意志に「国諫」という意志があったのであれば、日蓮のように流罪・死罪に及ばないのかは不思議である。それはつまり、「国諫」と称される申状を上申する行為が、言うほどの諫めを目的としたものではないから、もしくは、相手にされなかったかのどちらかということになる。であれば、問答が巧みであることにならないし、仮に問答が巧みであっても意味をなさないというのが、先のわたしの記したことです。日目が問答が巧みであったことが国諫に何か役立ちましたか。是四

> 二度流難三度の高名

これが日目とどのような関係があるのでしょうか。日目の事跡であると勘違いしているのでしょうか。日蓮の伊東、佐渡の二度の流罪のことでしょう。三度の高名とは『撰時抄』の以下の文章を指すのでしょう。長いですが、コピペします。

「余に三度のかうみやう(高名)あり。一には、去し文応元年〈太歳庚申〉七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。この事を御用ひなきならば、この一門より事をこりて、他国にせめられさせ給ふべし。二には、去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向て云く、日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とてこの国の人々他国に打殺さるるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には、去年〈文永十一年〉四月八日、左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑なし。殊に真言宗がこの国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事、真言師には仰せ付けらるべからず。もし大事を真言師調伏するならば、いよ球究いそいでこの国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問うて云く、いつごろかよせ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。この三つの大事は、日蓮が申したるにはあらず。ただ偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。経に云く、「所謂諸法如是相」と申すは何事ぞ。十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば、仏は世にいでさせ給ふ。「智人は起をしる、蛇はみづから蛇をしる」とはこれなり。衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始しは、日本国には一稀一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道はこれよりほかにまたもとむる事なかれ」

その迫力といい、身に法難を呼び起こした実際といい、まさに国諫というに、相応しい内容です。日目の定型文とは、比較になりません。

> 問答…簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います

先に記したとおり、そのようなものでは、何の役にも立ちません。

以上、あなたが個人的に日目を崇拝するのはけっこうですが、ここでの議論は、実際の証拠を挙げて、事実を追求することに目的があります。日目崇拝の押し売りはなじみません。押し売りでないというのであれば、上述したわたしの記述を拾い読みしたり、一部をつまみ出して反論するのではなく、事実証拠を付して、一々に議論に臨むことが望まれます。

2040れん:2006/05/12(金) 10:38:24
犀角独歩さん
石山の四帖については、公開されていないですし、不現存説もありますので、内容を確認出来ない以上考証はできませんが、独歩さんのおっしゃるとおり、日有が日隆から渡された四帖抄にあやかって、または触発されて、当時の石山義を纏めた書である可能性も否定できませんね。石山蔵の三大秘法抄の古写本は、戦後発見され、発見当時は日時筆とされたものの、近時の興風談所の研究と筆跡鑑定により日時筆は否定され、筆者不明本(日主の署名花押が別の箇所に見えることから、日主所持本と考えられています)とされていますから、三大秘法抄と日時の繋がりは、無いとは存じます。
石山の四帖が日時の真書と仮定したとして、私の推定では、三師伝も、四帖の一部では…と想像しています。宗祖伝(一帖)日興伝(二帖)日目伝(未完ですが一応三帖)、残りの一帖に耳引法門を含む当時の石山義が記した…という推定です。まあこれについてはこれといった根拠は全然ないので、お気になさらずにご笑覧ください。

2041れん:2006/05/12(金) 10:49:49
追記
石山の四帖や耳引法門の初出はやはり、文献的には、日有の例の富要収録の雑雑聞書ということになりますね。年代は特定できませんが、まあ、有師老年の頃すなわち室町中期と仮定すればあたらずとも遠からずであろうと存じます。

なしさん、ご挨拶痛み入ります。私については、そんなにお気になさらずに結構です。目師に限らず上代富士門とくに石山は教義についての文献が少なく、考証が困難です。ですから、答えを早急に出すのではなく、ここでの皆さんの議論を拝聴して、一通り勉強してから結論を出しても遅くないと思いますよ。

2042犀角独歩:2006/05/12(金) 11:22:02

れんさん

ご回答、有り難うございます。

> 石山の四帖…公開されていない…不現存説

かさねての問で恐縮ですが、つまり、石山は、条々事や、示書のように真筆があるという主張があるのでしょうか。

この“帖”というのは、いまでいう和綴じ本の体裁を言うとのことでした。
これまた、何で読んだのか失念したのですが、日隆以前では巻本が主流で、帖と綴じられた本がなかった。故にいわば一種の出版革命の趣があり、大いに興隆したということでした。この手のことは、多分、彰往考来さんがお詳しいと思います。

申すまでもありませんが、四帖抄とは『法華天台両宗勝劣抄』。
つまり、四帖とは4冊の和綴本としたという意味で、これが日隆に始まる。となれば、それ以前にそのようなものはなかったのではないのかという類推も交えて、日時の時代には遡れないのではないのかという、まあ、書誌学といえるかどうかわかりませんが、そのような類推です。

2043犀角独歩:2006/05/12(金) 11:38:19

2042の自己レス

帖(じょう)というのは、辞典で調べると、和綴本ではなく、折り本を意味するのですね。
どうも、あぶなかっしい記憶のようです。
どなたか補完していただければ有り難く存じます。

2044顕正居士:2006/05/12(金) 15:02:39
「帖」は折本、つまり屏風のようなものです。源氏物語は54帖です。
四帖というのはそれが四つという以外の意味はありません。

2045れん:2006/05/12(金) 16:21:05
犀角独歩さん
今から十年程前に、石山で刊行した蓮祖の真筆影印集について同山に問い合わせた際、話のなかで、時師が石山の法門を纏めたものがある…というようなことを聞いた記憶があります。それが有師の言う四帖にあたるのか、また別物なのか、本当に時師筆なのか否かも存じ上げません。
まあ、石山にはそのようなものが有るらしい?という程度の認識です。

2046れん:2006/05/12(金) 16:23:51
追記
不現存説は、大黒師編「日興門流上代事典」によります。

2047犀角独歩:2006/05/12(金) 16:49:42

顕正居士さん

そうしますと「四帖抄」とは、どんな意味になりますか。
折本4冊でよろしいでしょうか。


れんさん

有り難うございます。
それにしても、近代以降の石山では四帖も、耳引もいわれなくなりましたね。
散失してしまって「猊下」もご存じないと言ったところでしょうか。

2048顕正居士:2006/05/12(金) 20:32:56
>>2047
折り本四部の著述という意味に過ぎず、日隆の抄とは無関係でしょう。
巻子本の次に行われた製本ですが、平安時代からです。経本は今もこの形です。
一帖抄、二帖抄、八帖抄、三帖和讃、観経四帖疏、古今六帖…。
帖数で呼ばれる著述は多いです。

製本の歴史
http://www.tokyo-seihon.or.jp/seihon/history-1.html

2049犀角独歩:2006/05/12(金) 21:57:38

顕正居士さん

ご教示有り難うございます。
どこかでたしか、帖としたことが、功を奏したといった記述を読んだのですが、いまは思い出せません。たしか日本への輸入も仰るように折本は中国には、かなり早い時期にあったようで、であれば、平安期に日本にあって然るべきかと存じます。ただ、「日蓮門下では」ということでもあったような。しかし、いまはこれまでといたします。

それにしても、日隆は「著述は古来三千余帖と伝えられている」(『日蓮宗教学史』P113)のに、取り分け、そのなかで四帖抄、一帖抄と切り出されていることに不思議を感じます。

2050犀角独歩:2006/05/13(土) 12:06:55

2039のわたしの応答に対して、なしさんからはいまのところ、返答はありませんが、もう少しだけ、申状ということについて、記しておきます。

日蓮が、鎌倉で布教をはじめようとしたとき、『立正安国論』を上申しました。
日蓮滅後、6人の派祖たち、また、その系脈に係る人々は、主に京に向けて申状を提出していったわけです。門下一般では、これを「国諫」と称し、捨邪帰正、一乗法華経帰依の旗印のように論じられてきました。

しかし、わたしは、この説明は、どうも納得がいかない。なぜならば、為政者というのは、常に複数の宗教者、複数の寺院を認めていて、ただ一つに帰依するなどということはなかったからです。

申状…、というより、国諫?と言われた行動を、わたしが「許認可」と言ったのは、たとえば、日蓮は新幕府の地、鎌倉で布教をはじめるのに上申をした、また、その門下は、やはり、日本の中心地である京都に向かい、上申をした。その内容は表面的には確かに自己正当の主張であったけれど、詰まるところ、為政者、国王に自分たちの教えが正しいことを認めてもらうことに主眼があった。これは結局のところ、布教基盤の確保、自己存在の確保という主眼があるわけで、つまるところ、現在の宗教法人の許認可とさほど、変わらない行為であると映じるからです。

しかし、取り分け、そのなかで、近代の国家神道のように、もしくは伝教当時の比叡山のように、その主導権を自らが握ることに主眼が置かれれば、その許認可内容はさらにランクアップしたものとなる、従来の主導権を握る、宗教権威に自らが取って代わる第一歩は、まず、弘教の認可の確保であり、次には為政者、国王の帰依、ついには、日本一国の宗教的主導権の掌握という概ね三段階を、日蓮は想定していたし、また、その意志を継いだ六弟子も標榜した。日蓮が密事とした本門戒壇構想もそんな一環にあったのではないのかとわたしは考えます。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

時代を遡れば遡るほど、宗教というものは呪術性というか、祈祷的側面が色濃かったわけですが、その性質はいまの言葉で言えば、「国家安全保障」の、霊的というか、神的というか、ともかく防衛の一環を、実は担っていたわけです。
近代でも、他国が責めてきても、神風が吹いて日本は守られると、本気で信じていたのが日本人でした。ところが、東京中心に都市に無差別爆撃をし、非戦闘員を大量殺戮されたうえ、ついには、2度までも原爆を落とされたわけです。ここに日本人の神風信仰は潰えたのでしょう。

結局のところ、日本の戦後というのは、この手の霊的防衛論からの卒業にあったわけです。日蓮滅後から、近代日蓮主義は敗戦で、ようやくその終焉を迎えたわけです。ところが、いまの顕正会の類は、この幻想をいまだに懐いて、高校生を中心に仏教の右も左もわからない不勉強な連中を誑かしているわけです。

いずれにしても、日目が本当に42度も天奏をしたのだとしたら、高名3度で流罪2回の日蓮のような眼に、どうして遭わなかったのか、日尊はどうして、京に代奏ののちに上行院を持ち得たのか、朗門に目を向ければ、どうしても日像に菩薩号、日蓮は大菩薩号を下賜され、それでも、一国帰依でなかったのか、という歴史的事実と照らし合わせたうえで、国諫?であるとか、申状というものを再読してみれば、その本来の意味するところは、冷静に、客観的に判断できることになるだろうと思うわけです。

まあ、返答がなくても、つぶやきということです。

2051れん:2006/05/13(土) 17:54:25
犀角独歩さん
>2047
近代以降の石山…四帖…耳引もいわれなくなりましたね。散失…「猊下」もご存知ない…
独歩さんの仰るとおりですね。耳引との関連が予想される“日目上人直授相承”については、石山三十一代日因の三四月会合抄上巻に引用され、安政六年成立の大石要法血脈問答にも「唯授一人極秘の御大事とは大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて三十三箇の御相承と聞く」(富要第七巻10ページ)とあり、日目直授相承=三口一徹の相伝の存在を金口相承と並記しており、江戸後期まで確認できますが、近代以降は四帖も耳引も、目師直授相承さえもいわれなくなりましたから、独歩さんの仰るとおり、すでに散失してしまっていて、“猊下”ももはやご存知ないというのが真実かもしれません。
まあ、日有の頃の石山義における三箇秘法を左京日教の著述からみますと「当家には本門教主釈尊・本門戒壇・南無妙法蓮華経の広宣流布あるべき事の三箇の秘法と申すなり」(類聚翰集私)「三箇の秘法とは仏と土と教法なり」(日辰の造読論議に引用される大石寺顕応房=左京日教が会津実成寺泉養房へ宛てた消息文)ということになるのでしょうね。当時の石山ではこの三法門についての教義は日蓮から日目に伝承されたという主張していたということですね。
なお郷師の門下の日叡の後信抄に「本仏、本戒、本尊」とありますが、本来は、本仏、本戒、南無妙法蓮華経とでもあるべきですが、それが本尊とあるのは、案外、もしかしましたら文永十一年十二月の“大本尊”の図顕讃文を有する日蓮御筆漫荼羅の存在を念頭に置いていたが故かもしれません。日興門流上代事典によりますと日郷書写「万年救護本尊讃文」が日向定善寺に現存し「恐らく切紙相承の一種として日郷から日叡に授与されたものではないかと推測」(上代事典383ページ)されるからです。まあ、これは私の根拠薄弱な思い付きにすぎないのですが…。

2052犀角独歩:2006/05/13(土) 23:16:56

れんさん

> 大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて三十三箇の御相承

に該当するものは六巻抄ほか、日寛の公刊されている文献に確認できるものでしょうか。

2053なし:2006/05/13(土) 23:22:03
遅くなりすみません。
やはり恥の上塗りをやってしまいました。
「予が天奏の代として二度流難三度の高名これあり巳上」を目師を指してのことと勘違いして
二度流難三度の高名これありとは何のことでしょうか。と質問してしまいました。初歩の事なのに恥ずかしい。


独歩さんは申し状をを嘆願書と表現されました。申状には 請うの状とあります。嘆と表現しながら 請うの語意を
示されました。同じ大辞林で「嘆」の語意を示してみます。
【嘆/▼歎】
(1)感心すること。感動のあまり、うめき声やため息を出すこと。「―を発する」
(2)なげくこと。なげき。 「亡羊の―」「髀肉(ひにく)の―」
[ 大辞林 提供:三省堂 ]
--------------------------------------------------------------------------------
たん‐がん〔‐グワン〕【嘆願・×歎願】
(名)スル事情を説明して、ある事柄の実現を切に願うこと。「助命を―する」[ 大辞林 提供:三省堂 ]
[名](スル)事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。「釈放を―する」    大辞泉

--------------------------------------------------------------------------------
申状の請うは、嘆とは趣が違うのではと思いますが。請うは矜持を感じます。

独歩さんは天奏の背景には権益取得の狙いがあったされています。
真跡主義をとられる独歩さんが申状の中には一言の記述もないにもかかわらず
弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。と述べられています。
副えられたのは 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文 一通 先師日興上人申状 元徳二年 一、 三時弘経の次第です。

日目上人の申状が権益取得を願うという具体的な嘆願であった事実証拠を示す文献をお教えください。


以下、是○の問いの答えを記しました。


さて、日目申状が許認可・嘆願書の類ではないかという点について、説明しましたが、どうも、申状の文のみにとらわれて、わたしの記した意味がわからないようなので、やや補完します。


> 「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです

該当文章は『日興跡条々事』、日目譲状と称されるところですが、これを日興の真筆だといっているのは石山門下ぐらいのものです。
石山では日興真筆があると主張しますが、本日に至るまで、その影本を見せず、石山僧が論文まがいのものを発表し真筆であると言っているのに過ぎません。わたしは偽書説を採ります。偽書を以て証拠とするは笑止千万。この書は日興の真筆である証拠があればお聞きします。是一

是一の答え
『日興跡条々事』真筆か否かを私に問われても真贋を見抜く力などありません。富士門のいうには「日興跡条々事」を与えられる数日前に、日興上人より「最前上奏の仁、新田卿阿闍梨日目にこれを授与す一が一の中の弟子なり」と脇書のあるご本尊授与があったとの説明を信じるのみ。また文中に他筆もあると解説することは思うに筆跡は鑑定ずみということなのではと。
「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」との日興上人は仰せは事実に反するとは思えません。


しかし、日目の御伝土代に記されるところの問答において、相手が問答に詰まって閉口した。それが、ですから、朝廷に対する国諫でどんな意味を有するのかというのがわたしの問い返しです。意味を持ちますか、そんなことが。是二

是二の答え
早く尋ね聞こし食(め)され、急ぎ御沙汰ある、そんな機会があれば有効に働くのではという程度です。論理が通っても相手が受け入れるかどうかはまた別問題でしょうし。相手がいなければ話にもなりません。

2054なし:2006/05/13(土) 23:23:47
ー2053つづきー

> 目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか

この点については、既に記しましたが、どうも通じないようなので、やや補足しましょう。読み飛ばさず、一々の記述をしっかりと認識してください。

1.「請う」という言葉の意味は以下のとおりです。

こ・う こふ 【請う/乞う】(動ワ五[ハ四])

(1)ある物を与えてくれるよう、またある事をしてくれるよう相手に求める。
「この道の専門家に教えを―・う」「近日上映。―・う、御期待」「みどり子の乳(ち)―・ふがごとく/万葉 4122」
(2)願いの叶(かな)うよう神仏に祈る。
「天地(あめつち)の神を―・ひつつ我(あれ)待たむはや来ませ君待たば苦しも/万葉 3682」(三省堂提供「大辞林 第二版」)

日目の申状の場合、文面だけで読めば「末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められん」ことのみを請うているわけですが、本当にそれだけが趣旨なのか、というのがわたしの発題です。ですから、わたしが記したことは申状における文章だけの意味ではなく、所謂「国諫」と称された行為そのものがどのような意味のことなのかを記してきたことです。そのうえから、今一度、申状に戻り、読めば、許認可・嘆願を趣旨とした文章なのだろうという意味です。

日目の天奏が本当に42度に及んだのかどうか。この点については、日目寂150年後の書と覚しき『五人所破抄見聞』に載るところであるけれど、上古の文献にそれが見られず、単なる伝説の類、潤色の称賛ではないのかというのが、先に記したことです。となると、実質的に日目の天奏は、美濃の垂井で旅途上で寂した時に、日尊が代奏を果たした事跡に史実が見られる。では、この史実の顛末は、と言えば、日尊は、代奏の巧を嘉見せられ、土地を受け、上行院を建立した。つまり、この史実が示す顛末は、結局のところ、京都における布教の安堵、寺院土地堂宇の下賜ということになっているではないか、つまり、このことが申状の目的であったのだろうというのが、先のわたしの投稿の意味です。

> 申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません

ですから、文だけを読めば、あなたが言うようになるけれど、結果的には、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援にしかなっていないと言っているのです。違いますか。 是三

是三の答え

私は違う思いです、天奏の申状の文面も、副えられたものからして聖人のお心、日興上人のお心と寸分も違わぬものであり、表裏などまったく無いと思います。
天奏途上の遷化を聞き、為政者としては無視はしていてもその労苦は承知のはず、惻隠の情のわかぬはずはない。後に下賜があっても何も不思議ではないと思いますが。
下賜のそれが目的であったなどとは邪推の域であり牽強付会ではないかと思います。
頑固ですがどう読んでも独歩さんとは見解が異なります。


またもし、日目の意志に「国諫」という意志があったのであれば、日蓮のように流罪・死罪に及ばないのかは不思議である。それはつまり、「国諫」と称される申状を上申する行為が、言うほどの諫めを目的としたものではないから、もしくは、相手にされなかったかのどちらかということになる。であれば、問答が巧みであることにならないし、仮に問答が巧みであっても意味をなさないというのが、先のわたしの記したことです。日目が問答が巧みであったことが国諫に何か役立ちましたか。是四

是四の答え
聖人の赦免の例もあり、時の経過もあり、さわらぬ神に祟りなしを決め込んだのではないのでしょうか、勝手な想像ですが。
>そもそも、内裏に通された僧侶が、朝廷に言辞とは言え、痛烈な一矢など放ったら、その場で即刻、頚を刎ねられますよ(笑)
日目上人、元より望むところであられたのでは、。斬首がこわくて天奏などできないでしょう。熱原法難を経験しておられます。竜ノ口では四条金吾が殉死の覚悟を示しました。俗でも法の為なら惜しまぬ命を僧が惜しむでしょうか。
他のお弟子は申状に天台沙門と名乗り幕府の安寧を祈ったやに聞きます。へつらいにさぞや恩賞に与ったことでしょう。

独歩さんこれにて退散いたします。多くの誤りを指摘していただき、また多くの教示を賜りありがとうございました。しかし、通じもしない論に拘泥されるのは独歩さんらしくありません。

れんさん、後になりましたがご忠告ありがとうございました。私は去年新井田の本源寺に参詣しました。
車で行きましたが遠路でした。目師は奥州へも数度行かれ京への往復も数多く、最後の出発の模様はすさまじいものを感じます。痛む足をひきずり、雪の中お題目を唱えながら歩を進められたお姿は尊く、欲得の世界は離れられていたであろうと拝します。

2055なし:2006/05/13(土) 23:43:40
書き忘れました。

管理人さんつぶやきすれスレッドのルール違反を謝ります。

削除はおまかせいたします。

2056犀角独歩:2006/05/14(日) 00:02:27

なしさん

> 状の請うは、嘆とは趣が違うのではと思いますが

どうしてでしょうか。あなたが上げた嘆願の意味がそのまま、申状の文面ではないでしょうか。

> 日目上人の申状…事実証拠を示す文献をお教えください。

わたしがいう真蹟主義は文章だけから示すなどと言う狭量なことを言っているのではありません。先に上げたとおり、日尊の安堵がそれを示すのではないかと言っているのです。

> 『日興跡条々事』真筆か否かを私に問われても真贋を見抜く力などありません

では、話にならないでしょう。あなたは、真筆かどうかもわからず日興の文章だと言って、これを引用したわけですか。
そのようなあなたが、わたしに真蹟云々を問うというのはあまりに厚顔無恥、図々しすぎませんか。わたしには真蹟から説明しろと言い、自分は真蹟かどうかわからない。そんな無責任な遣り取りがありますか。あなたが、わたしに真蹟から説明しろと言うのであれば、自分が上げた文章が真蹟であるかどうかをまず示すというのが筋でしょう。

> 説明を信じるのみ

信じるのは勝手です。では、わたしも日目のやったことは許認可だったと信じるのみと、これを答にして善いのですか。他人に厳しく、自分に甘い。そんな遣り取りは成り立ちません。

あなたに課せられたことは、条々事が日興真筆の証拠をここに挙げることです。

> 相手がいなければ話にもなりません。

そうでしょう。ですから、もし、42度、日目が天奏をしたとすれば、相手にされず、話にならなかったことをあなたは認めたと言うことですね。

> 下賜があっても何も不思議ではないと思います

そうですか。そうなると、為政者が信心をしなくても土地を下賜してもらうことが、日目の目的であったとあなたは認めるわけですか。
それが、日蓮と日興と、少しも違わぬ意志であったと。

> 見解が異なります。

見解が異なるなどということは、どうでもいいのです。
わたしはあなたと頷きあうことを目的にしているのではありません。
わたしの興味は、事実は何か、それだけです。

2057犀角独歩:2006/05/14(日) 00:03:02

―2057からつづく―

> 勝手な想像ですが。

そうですね。まったく勝手な想像です。答にも何もなっていません。
ちゃんと回答しなければ駄目ですよ

> 日目上人、元より望むところであられた

臨む望まない話をしているのではなく、そうならなかったのは、なぜか。相手にされなかったか・実際に42度の天奏がなかったからか。そうでなければ、申状の文面は定型文で、国を諫めているなどと採られていなかったのどれかだろうと言っているのです。

> 他のお弟子は申状に天台沙門

石山のアナウンスや、重須文献を鵜呑みにしていませんか。たとえば、日向でも、日蓮の弟子として、申状を提出していますよ。ちゃんと文献を調べて書いたほうがいいですよ。

「申状…日蓮聖人遺弟日向申」(日宗全【向尊之部】P36)
「申状…日蓮聖人遺弟日高謹申」(〃【日高之部】P47)
「日祐日樹申状…日蓮聖人遺弟日祐日樹等謹言」(〃【日祐之部】P403)

以上、天台沙門とは書いていません。

> …聞きます

まさにそのとおり。聞いただけで信じたあなたは軽率です。

> へつらいにさぞや恩賞に与ったことでしょう。

こうした他を貶して自分の信じるものだけを養護するのは、冷笑を誘うだけですからおやめになったほうがいい。みっともないだけです。

> 通じもしない論

いや、別にわたしの論が通じないのは、自分に執着している方だけです。
寧ろ、これはあなた自分に当てはまることでしょう。
まあ、逃げて退散する以上、これにて終了ですか。
真実を何も掴めず逃げ去ることしかできない姿だけをさらして終わりにするのは、後に恥を遺すことになります。もう少しちゃんと回答していったほうがよろしいのではないでしょうか。
それより、その囚われた心を早く解放してあげたほうがよろしい。あなたの囚われた心が可哀想です。

2058犀角独歩:2006/05/14(日) 10:07:19

すでに日蓮門下も六派祖の時代に入ってからは、それぞれ、本拠を構えて、弘教、弟子の養育を行ったことを、各寺院の縁起などからも窺えます。
これはまた、換言すれば、僧侶が寺院を構えることは、その土地の地頭(国主)の認可なくしてはできないことであったという歴史的背景に基づくものです。

それは派祖に限らず、日蓮にしても、波木井の庇護と認可に基づいて、身延に久遠寺の堂を結んでいることからもわかります。日興が身延を離山したのも、その力関係では、地頭が勝っていることを物語っています。

日目が大石寺を開けたのも南条の認可であり、この地頭と僧侶の力関係は重須でも同様でしょう。

天奏は、現代で言えば、宗教法人の許認可を求める嘆願といったところと、わたしが記したのは以上の事情から類推するところで、この歴史的背景を通じて、申状を読まないとその意味を取り違えるだろうというのが一連の遣り取りでした。
それにしても、日目に係る資料を手放しで、ただひたすらに日目崇敬を懐くという有様は、所属団体の刷り込みが如何に大きなものであるか、その一例を見た思いがしました。一中一弟子については、先にれんさんと議論になりましたが、そんなことは何処吹く風という態度にも嘆息を禁じ得ないものがあります。


さて、京は、鎌倉に新幕府が樹立されようと、武家政権となろうと、日本人にとって、変わらぬ中心地であった。その中心地に寺院を建立し、布教の本拠とすることは、これまた、現代風の言い方をすれば、地方区から全国区への進出を目指す悲願であったわけです。天奏が意味することは、この日本の中心地、京都における布教とその本拠の安堵を、幕府も、地頭の、さらに上に位置する朝廷から勅許されることを求めるものであったのでしょう。そして、実際のところ、日尊は油六角小路の土地を受け、上行院を建立するに至ります。

このように京都を目指した日目が、では、単に京都進出だけにその意図があったのかという点は、先のれんさんが提出される日目に係る“相承”と大いに関連するとわたしは考えます。

真蹟遺文から見る限り、日蓮は本門戒壇の具体的内容の言及は見られません。題目についても、本尊についても、あれだけの言及をしているのに、殊戒壇については、その名目を挙げるばかりで、言及がないわけです。依って、わたしは、日蓮は戒壇思想を構築以前に死去したのではないのかと考えていました。しかし、この考えを覆すに足りる資料が存しました。『法華取要抄』の草案である『主要抄』『以一察万抄』です。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

この提示をわたしは彰往考来さんから受けたわけですが、都守師の秀逸な分析は、わたしのそれまでの考えを覆すに足りる論攷でした。『善無畏抄』の件という、まさに日蓮宗にこの人ありと言うに相応しい優秀な学者であると、わたしは尊敬します。

横道に逸れましたが、派祖の時代、富士方で言えば、日興・日目の時代、では、戒壇義を含めた三箇秘法というのは、門下一般にとって、現在のように遍く知られたものであったのかという疑義は立ちます。わたしは、そうではなかったと考えます。いまですら、日蓮の戒壇義は不闡明であるわけですが、当時はさらにその名目すら“密事”に属したのではないかと思うわけです。ここから、れんさんがお示しの、日目三箇秘法直授、また、耳引法門ということも成り立っていたのではないのかという、歴史性は付加して考えてみる必要があると思うわけです。しかし、時代を経り、「三大秘法」という造語も漸々と定着すれば、密事は、門下教学の解釈に取って代わられ、日目直授相承は色も褪せ、やがて、忘れ去られていったという経緯であったのではないのかと、類推しているわけです。この点については、是非とも、れんさんのご賢察を窺いたいと希望します。

ともかく、天奏を目指した日目は、第一、帝都弘教の安堵、朝廷の帰依、ついには、日目直授、“要”の一密事、成就、すなわち、迹門戒壇に代わる、本門戒壇建立構想を、他の天奏をなす人々とは違い、懐いていたかも知れないという想像はできます。しかし、この想像を補強するためには、れんさんがお示しの日目直授の相承…、というか日蓮の特命があったかどうかに掛かると考えられます。しかし、いまとなっては、この点を証明することは困難を極めることでしょう。

なお、「一中一弟子」については、すでにれんさんの議論をしましたが、数カ年前にも指摘しましたが、ここに上がる「最前上奏仁」の最前が最も最初に上奏したという意味であるとする解釈は、石山でまことしやかに取り沙汰される以下の記事

1281 弘安 4 日興園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕(聖613)(富士年表)

と齟齬を来していることが指摘できます。

2059れん:2006/05/14(日) 20:40:39
犀角独歩さん
>2052
管見にはいったものでは、日寛にかかる文献では「金口の相承」の語は寿量品談義(富要第十巻所収)に見えますが、三口一徹の相伝は日寛の文献には見えず、石要血脈問答以外では日因の三四月会合抄上巻に日目上人直授相承に云くとして引用されている一文のみに見えるだけですね。
>2058
派祖の時代…その名目すら“秘事”…時代を経り、「三大秘法」という造語も漸々と定着…密事は、門下教学の解釈に取って代わられ、日目直授相承は色も褪せ、やがて忘れ去られていったという経緯であった…
私も歴史的経過を考える時、仰る通りと存じます。私の愚見では、近世から現代にいたる石山の三大秘法義はあの彫刻を中心に据えたものですが、石山上代に見える日目直授という本門三大秘法義が色褪せ忘れ去られた背景には、石山義としては新義といえるであろう彫刻を中心とする三大秘法義にたいする信仰とその後付け教学の影響があったと思えます。要するに忘れさられたということは、日目直授とされていた上代石山の三大秘法義と近現代石山の彫刻を中心とした三大秘法義は、異質であったからということを表していると思います。
初期日目門下の三法門は、日目には法華取要抄の写本(ただし公開されてないので、内容が草案か中山本かどうか不明)が石山にありますから、恐らくそれに準じたものと思えます。それを土台として、日蓮・日興からの師伝を付加したものが、日目の三法門観ではないかと思います。日興による付加とは門徒存知事に見える日興による本門寺(戒壇含む)建立地を富士に選定したということであるとは考えられます。
日目に近い時代に成立した初期郷門の日叡・後信抄の記述は、初期日目門下の三法門観を窺う一つの資料となるかと存じます。
以上、日目の三法門観についての資料があまりに少ないので、これが限度なのですが、雑雑ながら、賢察などというレベルには千万が一にも及びませんが愚見をしるしてみました。

2060彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/15(月) 07:47:03

>2043 犀角独歩さん
京都へ出張していましたので亀レスとなりました。ちょうど京都では「鴨川をどり」が開催されている最中で「鴨川をどり」を観ることができました。夜は先斗町(ぽんとちょう)で「鴨川をどり」に出演した芸妓さんもみえて皆で飲んで盛り上がりました。(エヘヘ)

さて「帖」(じょう)ですが、検証居士さんから詳細がレスされいますので、できるかぎり重副しないように進めます。「帖」とは「折本」のことをさします。巻物を軸からはずし、継ぎ紙を等分に折り重ねていき、前後に厚めの表紙をつけたものです。読経するときに手にもつ縦長のお経の形です。現在でも経文などはこの形が残っています。「折本」は一帖(いちじょう)二帖と数えます。

書誌学的にみれば、「折本」は中国では「経折装」(きょうせつそう)といって唐代から始まり、日本には平安時代に伝わったものです。
なお日隆師の『四帖抄』ですが北川前肇師講述『四帖抄に聞く(一)』(平成16年、本門法華宗学院、15頁)によれば日隆師の真蹟は兵庫県尼崎市の本興寺にあり、「折本」ではなく、「巻子本」(巻物)だそうです。
従いまして
>2042
帖とは4冊の和綴本としたという意味で、これが日隆に始まる。となれば、それ以前にそのようなものはなかったのではないのかという類推も交えて、日時の時代には遡れないのではないのかという、まあ、書誌学といえるかどうかわかりませんが

ということはございません。

2061犀角独歩:2006/05/15(月) 09:21:48

れんさん

ご賢察のご呈示、有り難うございました。参考になりました。
「日目には法華取要抄の写本」が本物であれば、さらに現実味を帯びますね。

公家出の日目に、直接、本門戒壇勅許の特命を、日蓮を課したなどというストーリーが証明されれば、これは面白いと思えます。ただ、これは、大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います。

それにしても、日目が美濃の垂井に寂したあと、その報告を富士方に告げる必要があったことはわかるのですが、日尊と日郷は、そこで別れ、そこから、まったく別の展開をしていくことは、実に不思議に感じます。
わたしの感覚すれば、二人で日目の遺志を継いで、代奏をし、六角小路に土地を拝領し、寺院建築の基礎ができた段階で、また、二人で富士に戻って、日目の墓も建立するということが通常の在り方ではないのかと思うわけです。

ところが、そうはなっていません。日目の遺骨を、垂井の荼毘の段階で、二分しているわけです。日尊は鳥辺山に塔したわけですが、日郷は、日目の遺骨半分を下之坊に持ち帰ったといいます。大石寺ではなく、下之坊です。そして、いまに至るまで、石山には日目の正墓すら造られなかったわけです。造られてなくなったのか・当初から造られなかったのかわかりません。ともかく、ないわけです。身延に日蓮の正墓、北山に日興の正墓があるのにもかかわらず、石山には日目の正墓がない。日郷が退出に当たってもって出たのかというと、そんな事跡もなかったように記憶します。いったい、日目の遺骨は何処へ行ってしまったのか。この点は、1年前にもれんさんと応答し合った点ですが、それ故、わたしは5年前から、石山で日蓮の灰骨と言われているものこそ、日目の遺骨であると考えてきたわけです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015567021/99

話が横道に逸れましたが、日目直授があったかどうか、わたしは血脈、相承の類は疑って掛かるほうですが、この日目に係る件については、れんさんのご呈示ということもあり、かなり興味を懐いております。

2062犀角独歩:2006/05/15(月) 09:27:14

2060 彰往考来さん

なかなかお楽しみであったようで(笑)

さて、四帖に係るわたしの記憶は、どうやらガセであったようですね。
顕正居士さんのご指摘と併せ、一点、思い込んでいた点を修正することができました。有り難うございました。

それにしても、そうなると、何故、『法華天台両宗勝劣抄』は四帖などと称されていたのでしょうか。この点がまた疑問と残りました。

2063ラキ:2006/05/16(火) 00:34:42
自由な茶寮掲示板を見ていましたが、浅井さんが独歩さんに対して法論を挑む事はないのに、きっと時が来れば破折してくれると、信じてる会員が居るのは、可愛そうです。
独歩さんから浅井さんに法論などめんどくさいかも知れませんが、申し込んだら、浅井さんの反応が楽しみなんですけど!・・・
それにしても、自由な茶寮掲示板てワイドショーを見てる感じで面白い。(・∀・)ニコッ
浅井会長さん〜独歩さんとの法論を会員達が期待してますよ〜〜
つぶやきでした。ヾ(≧∇≦)ノ"

2064犀角独歩:2006/05/16(火) 13:05:09

ラキさん

他の掲示板のことは他の掲示板で、が、まあ、原則ですが、「法論」という話ではないでしょう。

わたしは図形鑑別を通じて、石山の彫刻は日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模作為した模造品であるとしたわけです。そして、それを研究発表もし、講演もし、本にもまとめ、ネットでも公開しているわけです。であれば、この彫刻が従来の石山下の論調のとおりのものであることを証明するためには、図形を持っての反論しかないわけです。しかし、そのようなことを少しもできず、単に悪口雑言をもって人格攻撃しかできない。これは忍性良観が日蓮に行った手口と一緒です。つまり、道理から言っても、既に決着はついてます。つまり、浅井さんの負けです。

浅井さんの勝ちにしたければ、図形的特徴から、それを説明すればよろしいだけです。それができない悔し紛れに、悪口を言って、自分の取り巻きをそそのかし憎悪を煽り、発言者の人格を貶めて、その論説を考えることを、やめさせて、自説に呪縛させようとするという手口は、古今東西、悪しき先導者の常套手段です。
しかし、その本質は結局、負け犬の遠吠えに過ぎません。

客観的に見て、顕正会と浅井さんは、この悪人の手口に手を出してしまったわけです。これが、かつて、正本堂について、日達さんに、論を尽くして糺した同一人物の発言なのか、正直、目を疑うほかない愚考であったわけです。

結局のところ、この浅井さんにそそのかされた会員たちは、わたしの鑑別の内容に至ることなく、ただ人格攻撃に翻弄されて、浅井さんの話を鵜呑みにするというロボトミー化、社会心理学で言えば、憎悪に基づく代理状態に陥っているわけですから、このような心理操作下にある人はとは、法論どころか議論も成り立たないでしょう。

この掲示板の善き慣習は、挙証義務の励行ばかりではなく、人格攻撃にすり替えて、回答不能をごまかす悪意を断じて許さない管理者さんの姿勢にあります。

人格攻撃、悪口雑言を除けば何も残らない空虚な遣り取りは、結局、真実を見られない被害だけが残るということです。わたしは、ラキさんが感じるようにワイドショーのようであるとも、面白いと思いません。深刻な宗教被害の実例を見るだけです。

2065ラキ:2006/05/16(火) 15:29:08
>2063>>それにしても、自由な茶寮掲示板てワイドショーを見てる感じで面白い。(・∀・)ニコッ
>>>ラキさんが感じるようにワイドショーのようであるとも、面白いと思いません。
つぶやきで突っ込まれてしまいました(^^;
2063の該当箇所の発言は、ご指摘を受けて、安易な発言あると私も思いましたので、撤回させていただきます。

2066犀角独歩:2006/05/16(火) 16:43:25

あ、そうでした。ここはつぶやきでしたね。失礼しました。

2067Taitsu ◆bnx86/FFP2:2006/05/17(水) 04:00:49
解る人にはその偉大な功績、ドグマを打ち破った事実は良く解っている筈ですし、
無疑曰信を身体で示した功績は大きいと私は思っています。

どうやら迷える人達は「待った無し」の様です。
私にもお手伝いさせて頂きたく、色々模索中です。

ちょっとつぶやいてみました。

運良く犀の角の様に一人で歩いてる方のお目に留まって
連絡なんて頂けたら良いかな、なんて。。

あくまでもつぶやきです。

2068れん:2006/05/18(木) 21:27:26
亀レスにて失礼します。
2061
>大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います…
日尊が公家筋とは驚きました。日尊は、日興門流上代事典によりますと桓武平氏千葉氏族の一族亀卦川胤氏三男とのことで、どちらかというと武家出身の匂いがします。日道は日目の実家の新田小野寺氏出身で、日郷は保田文書によりますと清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とされる太田氏出身だったと記憶します。
もっとも小野寺氏について、ネットで検索してみますと、どうやら秀郷流藤原氏山内首藤氏族というのが史実のようですね。日目の直授についての話は、郷師の門弟日叡師の記述にも見えますし、道門では日時が文献化したという伝承もありますから、日尊系のみでなく、どうも日道系にも日郷系にも受け継がれた話だという感触がありますね。

2069青門:2006/05/19(金) 00:57:07
初めまして。文献だけをみて判断するとした場合、立正安国論をどこか時の権力者が受け入れていたら歴史は大きく変わったいたでしょうか。大して変わらないと私は判断します(あくまで文献だけをみて)。話を変えます。私自身の成長を考えると難に合うことや難問に立ち向かうことを望みますが、弱い私は苦労から逃げ気味です。しかし、信じて南無妙法蓮華経を唱えると大聖人が難を乗り越えられたのと同じくらい成長が頂けると思っています。でないと日蓮仏法の意味は無いのではないでしょうか。言いたかったことはどの宗派のひとも細かいことより大聖人の大慈悲を原点に一致団結できないのでしょうか。細かいこだわりも究極に凝縮すると単純なことです。大聖人の大慈悲が全てのひとにもあるんですから、それをどうやって引き出すかですよね。南無妙法蓮華経と唱える。ここから先のことはこれより大事なことじゃないですよね。間違い探しに陥り本質を忘れていたので反省で書き込みしました。乱筆乱文で失礼しました。つぶやきにつきお許し下さい。

2070顕正居士:2006/05/19(金) 02:00:22
日蓮宗主要本山と現在の包括法人

http://bukkyo.rissho.jp/inform/shugaku/shu_0141.htm

現状、過半は単称日蓮宗に所属しており、その余は小規模教団、単立です。
また日蓮宗学の専攻課程は立正大学仏教学部宗学科が唯一ですから、
すでに事実上、日蓮教団は統一されているのではないでしょうか。

2071犀角独歩:2006/05/19(金) 08:36:45

Taitsu さん

もしお時間等のご都合がつけば、、28日にオフ会にご参加なさってみては如何ですか。お誘い申し上げておきます。


れんさん

有り難うございます。
桓武平氏千葉氏というのは、その祖を桓武天皇とするのではありませんでしたか。
日目は武家南条の縁、けれど、小野寺家の末裔といい、新田卿をいいました。この場合も武家方ということになりますか。

美濃垂井での日目寂後、そこで、日尊、日郷が別れたと、先に記したのですが『日蓮宗事典』によれば

「日興滅後、日目に随い日郷と共に天奏上洛の任についてが、中途にして日目の遷化にあい、日郷を随えて天奏の役を果し、日郷は富士に帰り日尊は関西の遊化にあたり、暦応元年(1338)再び入洛、翌年2年六角油小路に上行院を建ててここに住した」

といい、わたしが記憶していたこととは違っています。以上の記述は『祖師伝』に基づく如くでした。

日目直授ということは、要は、日目が唯授一人相承をしたという話ではなく、日蓮・日目という直授に主眼があるのだと思います。ですから、京の日尊、富士の日道、保田の日郷等の系譜を潤色するのに、日蓮直授、さらに直授という経緯であったのではないでしょうか。

これが、天文法難以降、京の地盤を失った日辰、のちの要法寺系や、教学的根拠の一端を富士の求めた保田では、日教が北山において、一つの体系をものにしていたことなども相俟って、加上する経緯のなかで、権威を日興に求めた。その結果、「三箇秘法とは日蓮日目と御相承…御付法は日蓮・日興・日目と次第」といった折衷案を経て、蓮興目に落着していった歴史があるのではないのかというが、いちおうの、現段階でのわたしの考えです。

2072れん:2006/05/19(金) 10:16:31
犀角独歩さん
>2071
目師直授についてのご見解のご披瀝有難うございます。大変参考になりました。

桓武平氏は当然桓武天皇の子孫ですが、平朝臣姓を下賜されて臣籍降下した時点で皇族ではなく天皇の臣下ですし、千葉氏を出した桓武平氏が関東に土着したのは、中央では殆ど無位無冠で、新天地を関東に求め、子孫は関東に土着して武士化したという流れだったと記憶しております。ですから、私は武家という認識でおります。
目師の新田卿の卿も、小野寺氏の家系伝承ではその祖首藤資清が藤原道長の流れとされていたことによる命名でしょうが、やや時代は下るものの室町時代の公家・洞院公定撰の尊卑分脈によるとその首藤資清は「本姓守部」云々とあって、守部姓の資清が秀郷流藤原氏の猶子となって藤原朝臣姓を名乗ったのが史実の様で、わたしとしては小野寺氏を御堂関白道長の流れとするのには懐疑的です。まあ出自はどうあれ、小野寺氏は鎌倉幕府御家人として奥州に多く領地があり、日目のパトロンとして、その上奏の資金をカバーするだけの経済力は十分に有していたのは事実ですね。

2073犀角独歩:2006/05/19(金) 23:39:57

れんさん、仰る意味はわかりますが、そもそも僧侶になった段階で、無位も無冠もありません、出世間ですから。

ただ、仰るような系図的判断は、たしかに加上、潤色が伴うことですから、慎重に期すことに異論はありません。

わたしが公家方と言ったのは、その方面に発言と人脈を持つといった意味であると解していただければと存じます。

近代で言えば、華族制度は、廃されましたが、しかし、それでも、この人々は、かつて平民と言われた人々より、皇族との関係は、それでも濃厚です。

僧侶となって身分を捨てたとはいえ、また、その出自がかつて天皇家であったけれど、(また、そう主張していたに過ぎないにせよ)その後、無位無冠であり、武家となっていたとしても、実際のその影響力から、公家との接点を有していたのではないかとという意味での投稿であるとお考えいただければと存じます。

2074彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/20(土) 08:58:54

>2062 何故、『法華天台両宗勝劣抄』は四帖などと称されていたのでしょうか

日隆師の『四帖抄』ですが、北川前肇師講述『四帖抄に聞く(一)』(平成16年、本門法華宗学院、15頁)によれば、「現在の装幀は、本興寺二十八世の日顕上人の代に改めたもので、江戸時代の貞亨三年(一六八六年)正月二十三日の日付が記載されている」とありますので、あるいはこの時に「折本」から「巻子本」に改装されたのではないかと思います。
「巻子本」から「折本」はよくある改装ですが「冊子体」の本が「巻子本」に改装されることもまま行われたようです。
例えば、西本願寺所蔵で重要文化財に指定されている『歎異抄』の蓮如上人筆写本は、現在「巻子本」になっていますが、もとは半葉六行の「袋綴じ」であったものを江戸時代中期に今日のように改装されたと考えられています。

http://www.otani.ac.jp/tannisyo/a_tannisyo/tan_b.html

ただし北川前肇師は『四帖抄に聞く(一)』で『四帖抄』が「巻子本」であることについて、「当初よりの形態とみられます」(15頁)と記述しています。尼崎本興寺蔵の御真筆の形態をみてみないと判断できませんが、仮に当初から「巻子本」であったとするなら上述の「改装説」は崩壊することになり、再度なぜ「巻子本」でありながら「帖」と称されているのかという疑問は解消されません。

奉書紙・杉原紙・美濃紙などの和紙で1帖とは48枚を表わしますので、

http://www.hm2.aitai.ne.jp/~row/kazu/kazu.html

『四帖抄』というのは和紙192枚分量(=4帖)の『法華天台両宗勝劣抄』という書物なのですよ、という意味ではないかとも考えましたが少々こじ付けに近いものです。ただ日隆師には『一帖抄』もありますので、このような分量を示す略称があったとしても不思議はないでしょう。

私自身は「巻子本」でありながら『四帖抄』と称するのは「折本」から「巻子本」に改装されたためと考えています。

2075独学徒:2006/05/20(土) 16:31:18

横レスにて失礼します。

隆師の『四帖抄』について、「法華宗全書 日隆1」の解題では、第1巻:42紙、第2巻:46紙、第3巻:64紙、第4巻:59紙となっています。
また『四帖抄』という通称は、隆師自身命名によると出ています。

こちらの解題は、大平宏龍師のものですが、やはり巻子本は当初からの形態と出ています。

隆師の意図するところの「四帖」とは、なにか別の意味があるような気がします。

2076れん:2006/05/20(土) 20:02:40
犀角独歩さん
>2073
了解いたしましたm(__)m

2077犀角独歩:2006/05/21(日) 07:06:37

彰往考来さん
独学徒さん

貴重な情報と、ご賢察の披瀝有り難うございました。
参考になりました。

「帖」の意味するところ、振り出しに戻りました。

2078彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/22(月) 07:45:27

>2075 独学徒さん
>「法華宗全書 日隆1」の解題・・・やはり巻子本は当初からの形態と出ています

「法華宗全書 日隆1」の解題にも同様の記載がありますか。参考になりました。

2079彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/22(月) 12:33:57

こんなアホな行動をする議員が公明党にもいるのですね。まず政治をやりなさい。国民の血税でしょ!

http://www.zakzak.co.jp/top/2006_05/t2006052003.html

2080藤川一郎:2006/05/22(月) 16:21:01
無位無冠と言う意味で言えば「僧侶は官位を越える」と言う考え方があります。
つまり本源的に申せば、天子拝謁は三位以上の位階を有する者、または四位以上の位階で役職に就いている者、即ち「公卿格」を有する者で無ければ、不可能なわけです。
それでも越階(おっかい)して拝謁する場合は、右近の橘(井桁橘)の下で公卿の口を通しての拝謁となる訳です。
俗に言う日像の拝謁は、井桁橘の下での拝謁であった為、法華宗は「井桁橘」の紋章となっているのです。つまり、正式な拝謁でなかった事を紋章からも顕しております。
ところがある一定の色衣を有する場合、無位無冠でも正式拝謁が可能となります。

有名なところでは、千利休は無位無冠でありました。利休とは居士号です。
しかし、天子面前での茶会のために、大徳寺で僧籍を取り「宋易」となった訳です。
単なる居士号では在家扱いですから、位階が必要になります。
それを僧籍で越えたのであります。

2081今川元真:2006/05/22(月) 18:51:57
横割失礼します。 ◆東大寺の対を為すように建てられた西大寺(称徳天皇が四天王を求めて建てたのが始まりだとか)◆十一面観音・四王堂 (聖徳太子)弥勒・薬師金堂、東西五重塔(光明皇后・聖武天皇)◆藤原仲麻呂、弓削道鏡、和気清麻呂の権力闘争。◆東大寺、西大寺、聖徳太子・最澄(比叡山寺・延暦寺)、ビルシャナ・大日如来・空海(金剛峯寺)、弥勒指向。◆鎌倉時代の西大寺、叡尊(真言・戒律の寺院)シャカ如来、愛染明王。

2082犀角独歩:2006/05/22(月) 21:07:44

そうそう。2080、藤川さんから、この手のご教示を期待していました。

2083れん:2006/05/23(火) 11:22:43
藤川一郎さん
>2080
無位無冠…「僧侶は官位を越える」…
有職故実の上からのご教示誠に有り難く拝受いたしました。
私の家は郷士の出で、こういったことには基本的に疎いので、大いに勉強になりました。

2084れん:2006/05/24(水) 19:20:27
彰往考来さん・独学徒さん
遅蒔きながら、2074・2075における隆師「四帖抄」の形態についての御賢察のご教示お礼申し上げます。また学恩に感謝申し上げます。
時師作という四帖見聞については不現存という説もあり、その当初の形態すら不明ということで、所詮、今となっては“伝説”の域を出ないもののようですね。となると、時師作の文献としては、公開されているものとしては三師伝・未公開分では妙法蓮華経色心実相境智根源口決ということになりましょうね。日時は目師の弟子民部阿日盛との師弟関係もあり、仙波で当時の台学の研鑚もした。当時の台学や石山を含む富士門の伝承や文献を参考にしつつ日有師に先駆けて初期石山の教義の基礎を築いたは日時師であろうことは、何となく想像しております。有師は、時師が築いた原初石山義を踏まえながらも、京都で面談したという日隆師の影響を受けて、諸聞書に見える法義を構築したというのが室町期の石山における教学の流れではないかと愚考しております。
取り急ぎ右お礼まで。

2085犀角独歩:2006/05/24(水) 19:30:08

れんさんに異論を述べる形になりますが、わたしは、日有以前の段階で石山は、廃寺売却の憂き目に遭っているだろうと思いますから、ここに上代からの脈絡を考えることは、手前味噌であると思います。

何もなくなっていたために、土地を買い戻し、諸堂を整備し、板マンダラ(伝・紫宸殿)も作り、教学は、律師と日隆のいただいて、これまた整備したのではないでしょうか。

美談化した石山の言い分を踏襲するのであれば、それなりの根拠を出すべきであると思います。

2086れん:2006/05/24(水) 21:57:58
犀角独歩さん
>2085
日有以前の段階で石山は廃寺売却の憂き目…
日時は興津氏法陽より「富士の上方上野郷内大石寺の東坊地者、法陽か雖為知行分之内、如本別当卿阿闍梨日時にさりわたし申也」云々の去状(静岡県史資料編六・六五五)をもって石山東坊地を領掌し、以後石山は日時門下が相続していきます。日時は、自身造立の日蓮御影像裏書きに「大施主、奥州法華宗等僧俗男女、野州法華宗等僧俗男女、武州法華宗僧俗男女、駿州法華宗等…」と記したように日目のパトロンであった奥法華衆たちの子孫と考えられる“奥州法華宗等僧俗男女”の支持をうけており、日時の時代はまだ、奥州法華衆等は石山の日時を支えるだけの財力はあったろうと思います。日影の時代は文献はないものの、おそらく日時を支持した奥州等の諸国法華宗も戦乱等により消長があり、檀越の財力も陰り、石山も衰微したのは事実でしょうが、日有以前に廃寺売却までになったか資料がなくわかりません。日有の御物語聴聞抄には日有代に留守居による石山売却が書かれており、保田日要の当体義抄聞書に「大石の日有上人、カシハ原ノ慶順法印に相ひ給はんが為に極月二十一日に寺出し玉へり。勤行の代は尾張阿へ仰せ付け、さて寺家の成敗は少輔・信濃・土作・作渡阿四人也。此の人をは無智とて宮内阿日掟を召してしばらくの住持と定めて美濃へ参らるる。日有判形し玉ふに彼の人を云へり、日有兎も角も云々。然るに彼の四人の方は日有死去と号し大石をのつとる、此の時日有下向有りて彼の末弟を折檻す云々…内の物をも彼の四人の業なると云々」とあり、これは事実と存じます。このように、日有段階での廃寺売却は史実なるも、日有以前の段階での石山の廃寺売却を示す資料は石山や富士他山になく、別に石山の肩を持つわけではありませんが、何もかもがなくなっていたわけではなく、微々細々ながら時師門の命脈をたもっていたというのが日有以前の石山と考えます。上代のからの脈絡を即断するものではありませんが、上代からの脈絡がまったく存しないということはまた云えないものではないかと考えております。
日有による、儀式やその裏付けとなる教学のさらなる肉付け作業は、ご指摘の通り律師や日隆、また慶順の法義からいただいたものを加上して整備したものですし、さらに板漫荼羅(伝紫宸殿)をつくり整備した堂宇に安置したのだと考えます。
“美談化した石山の言い分を踏襲”するつもりはありませんが、手前味噌にならないように、冷静に文献を読み、石山を含めた富士の思想を考えてまいりたいと思います。今後ともご批正のほどお願い申し上げます。

2087顕正居士:2006/05/24(水) 23:28:42
日時寂が1406年、日阿は翌年に寂し、日影が1407-19年在職。したがって日時寂と日有晋山
の間は13年に過ぎないのであって、何か大きな断絶があったとはいえないでしょう。

2088犀角独歩:2006/05/25(木) 05:13:02

れんさん
顕正居士さん

日有以前に廃寺とは、たしかに言葉が過ぎたかも知れません。
しかし、日目の教学的な資料を裏付けるものは残っていないことは、議論で落着していました。では、その後、日有にいたるまで、石山として、継承したものとは一体なんでしょうか。以下の点について、わたしはまるでその実像が見えません。このようなものが残っていない、すなわち、この期間、何もなくなっていた、いわば、廃寺同然という思いが生じることになったわけです。
そんなことはないというのであれば、

日目から日影に至る石山教学
日目から日影に至る石山の有様

という2点について、日目、日道、日行、日時、日阿、日影のそれぞれについて、それぞれどのような説明が立つでしょうか。

なにより、「時師が築いた原初石山義」とは、どのようなものでしょうか。
また、中興の祖、すなわち、日目から現代に至るまでで、石山史の中で再興した祖であるという日有の時代に、その本人がいない間に石山が売却されるという有様は、むしろ、石山そのものの不安定さを物語っていると映じますが、如何でしょうか。

たしかに、顕正居士さんが仰るように日影から日有までの間は13年。しかし、断絶というのは1年であっても、断絶は断絶です。また、なにより、そもそも、その13年の断絶より何より、そもそも日有以前の何を伝えたのか、その答がなければ、日有に始まったと見なすことは至当なこととなります。故に上記2項の明確な資料がない限り、あたかも断絶、廃寺同然という感は否めません。もちろん、それは印象であって、事実ではないかも知れません。となれば、上記2点について、どのような説明が立つのか、ご教示願えますでしょうか。

2089れん:2006/05/25(木) 07:29:24
犀角独歩さん
>日目から日影に至る石山教学…
日目には教学的にものしたものがないのは以前の議論の落着した通りです。日道は日時作の三師伝に引用される「日興上人御遺告」を記したという事跡と、問答記録と後信抄・日時の大石記に日道の述べたことが記録されているばかりです。私が日時が築いた「原初石山義」とは日時作の三師伝・日時が述べたことを記した大石記に見える日時の記述のことで、これが、日目から日影までの流れの中で文献上日時にかかる上記二文献が唯一この時期の石山の教学を物語るもので、日影は実質それを継承するのみであったろうと思います。その後は独歩さんのご指摘の通りで日有にいたり、律師・日隆・慶順等の影響のもと、石山として独自の法義が構築されたと考えます。
>日目から日影に至る石山の有様…
この点は、まだ、私の中では研究中とでも云うべきもので、まだ、こちらに記せるほどの見解がまとまっておりません。
これから仕事に出かけるので、取り急ぎですが、雑雑に記しました。至らぬ点はまたご批正ください。早々

2090金龍:2006/05/31(水) 00:37:38
以上のレスを拝見して、一つの疑問と言うか、もしかしたらと言う仮説が頭をよぎります。
そもそも、目師は尊・郷師の二人を連れて、寒風拭きぬく中に苦難の上奏と言う伝説ですが、
本当に「苦難の上奏」であったのかと言う疑問です。
目師の当時の年齢を考えると、既に伝法叶った道師が大導師として行くところを、
当時の石山一同が全く留めるという事は無かったという不思議です。
もしかすると、目師でなければならない理由が有り、仮に目師でなければならないとすれば、
多くの祖師の伝説に辻褄が合う場面が多くあると思います。

2091犀角独歩:2006/05/31(水) 08:21:53

> 2090

これは理に適った疑問であると思います。
宮崎師であったか、執行師であったか、失念しましたが、日目の日道相承を、この最期の天奏から疑義を呈していました。

要は、既に伝法相承を行ったのであれば、日目は隠居なのだから、一宗の代表として、天奏すべきは日道であるということです。

当時、血脈相承などということは、まだ行われていなかったにせよ、実質的な継承者が日道であったとすれば、たしかに「目師でなければならない理由」があったと考えることは理に適っています。このような類推経路にわたしは賛成です。

ただし、人間が自分の死期を特定できることは、なかなか難しいことです。ですから、最期の天奏に際、日目がそれを覚り、日道に相承してでかけたなどというのは、潤色の物語としてとらえるほうが事実に近いと思え、天奏を生きて石山へ帰る気で出たのであれば、日道に譲っていく必要もなかったというのも、また、一面の理に適った類推ということになります。

2092藤川一郎:2006/05/31(水) 10:11:45
>>2090
もちろん、目師で無ければ無かったんでしょう?
つまり天奏の手配は出来ていた。いや、もっと踏み進んで、宮中からのお呼び出しが日目上人宛にあったとのなら
代行では御不敬になる。

後醍醐天皇は建武の中興に際して、あらゆる寺院の長に「お呼び出し」をかけている。
もちろん、法華に強く関心があったと言うより、御自身の中興政権を護持できる霊的な存在を求めておられた。
これが御本意であったのであろう。
それが恐ろしいほどの田舎寺にまで、呼び出しをかけている。
考えてみたら、鎌倉幕府壊滅のために悪党まで集められた方である。
とにもかくにも政権維持の霊的保護の為には何でも取り入れるようなところがおありだったのでは?

2093お暇庵:2006/05/31(水) 11:25:37

藤川さん、これは面白い着眼ですね
後醍醐天皇は真言密教の伝法灌頂を受け自ら出家となって鎌倉幕府転覆と王権奪還を目指して怨敵退散の調伏をいたしていたことは事実です。中宮の御産祈祷と称し関東方調伏の祈祷を行い、更に興福寺や延暦寺などの寺社勢力を味方につけようとしていたことも(結果的には延暦寺にうらぎられますが・・・)
もともと武士の出自は源氏を始めとする下野した皇族縁故による(皇位権剥奪や権力遠慮)嫡男以外に寄って組織された護衛団の意味もありましたが、承久の乱に下克上にあって鎌倉北条家に皇位の交替まで云々され、官位や人事にまでの越権行為があったのは歴史的事実なことでしょう。

「正中の変」や元弘の変、幾度かの挙兵による蟄居や配流を経た後醍醐天皇が政権奪還のために利用しようとしたネットワークは高野から連なる連峰群に拠点を持つ修験・山伏系を始めとする山岳集団、木地師、職能・遊行者・白拍子などの芸能集団、忍者の元祖と言われる千早赤阪系の悪党山師。勿論その中には鎌倉にほど近い富士山岳の霊的ネットワークも視野に入っていたと思います。
結果的に鎌倉幕府が新田義貞と足利によって滅亡しますが、鎌倉を滅ぼしたのが新田家とは深長な意味合いが見て取れますね。
その後、建武の新政による後醍醐天皇と貴族中心の政治運営は荷担した武士達が報償面で不満を持ち、後醍醐天皇が政争に敗れて吉野の山中に逃げ込んだのも熊野地方には天皇を支えるこうした武士階級や貴族とは違うネットワークの基盤があったと思うのは自然なことではないでしょうか。

2094金龍:2006/05/31(水) 11:58:22
目師の上洛が、禁裏御采配とした場合、当然にそれに関わる人物はある程度の資格が存在したのではと考えます。
確かに、新田氏との関係を思考しつつも、大聖人入滅時に関わる伝説が私の頭には浮かぶのです。
池上入滅時には、興師は当然六僧の席があり、それぞれに遺言を託されています。
その中にして、一人少年であり「経一丸」後の日像がおりますが、諸説は色々でそれぞれの伝説が言われています。
興味深いのは、大聖人が帝都布教を託されたのが経一丸であり、形見として「歯」を自ら抜いて渡したという伝説です。
極論の展開をしてしまうと、虎王丸と経一丸、どこかに共通点があったのではと思っています。
時代背景として、二人を同一視するのは乱暴と思いますが、当時の記録がハッキリと確証が持てないとすれば、
大聖人在世当時に随時給仕をした少年は二人と言うことになります。
しかし、当家では虎王丸のみを主張し、経一丸は身延方の主張となりどちらも二人の少年の存在を明記していません。
宮中に入る前にここら辺の整理をしてみたら面白いと思います。

2095犀角独歩:2006/05/31(水) 12:22:13

藤川さん、質問。

> 代行では御不敬になる

では、日目の代わりに、日尊が代行したことは不敬ですか。
不敬ならば、何故、土地まで拝領したのでしょうか。
事実と一致しないように思えます。

2096藤川一郎:2006/05/31(水) 13:25:25
>>2095
そもそも、当人が亡くなってしまって後の代行と、当人生存中の代行では意味は違うでしょう。
現今の園遊会でもそうですが、当人がどんなに高齢でも召された当人が参ります。
それに対して、当人が亡くなってしまった場合、しかるべき代理人を園遊会に召すことがあると聞いております(確か映画監督でその例があったと記憶します)。
それとは少しも矛盾しないように考えます。

それに日尊師=日目師の代行というのは、現代の伝承から言えますが、本当に正式な代行だったのでしょうか?
日尊師は日尊師で御自分の資格で参内したと考えた方が自然だと思えるのですが。
当宗の伝承は伝承として、それとは別にそこにも疑問視してみるのも面白いでしょう。

2097お暇庵:2006/05/31(水) 13:34:08

金龍さん、はじめましてお暇庵と申します、よろしくお願いいたしますです。

すこし、お聞きしたいですのでお願いいたします。それは「大聖人在世当時に随時給仕をした少年は二人と言うことになります」なのですが、私の記憶に間違いがあれば訂正をお願いいたします。

確か目師は文応元年(1260)に伊豆仁田郡に出生され、文永九年(1272)走湯山円蔵坊にて出家(13才)興師に謁されたのは文永11年(1274年15才、76年に得度)で、宗祖に謁見叶うのは同年11月(数え18才)のことです、目師は弘安五年(1282)では数えで22才になり、宗祖身延在住の間は(18〜22才となり)わずかに4年あまりで少年とは言えないのではないですか。

また日像こと経一丸は朗門に入ったのが建治元年の7才(1275)目師より15才若いですね、同年12月に宗祖より本尊授与されています、その時に経一丸と名乗ったとあります。朗門であったために鎌倉小企谷妙本寺が本拠で、身延にも再三登ったと物の本にはあります、宗祖遷化の弘安五年には14才ですからこちらの方が少年と言えるのではないでしょうか。

ついでながら、像師は京都布教に再三チャレンジして三度の院宣で追放に会いながら、遂に後醍醐天皇の京都還幸の祈願を護良親王より令旨を得て祈祷し、還幸の報なって尾張・備中などの三ヶ寺の寺領を朝廷より寄進されました。
また、その祈祷成就の功として後醍醐帝より綸旨を賜り勅願寺としての立場と一乗円頓之宗旨を弘める勅許がもたらされています。日蓮宗はここで天下公認の宗派になったわけです。これは像師上洛41年目のことです。

後に京都洛中四条の地の像師開基の妙顕寺(四条門流といわれています)は足利将軍の祈祷所、北朝光厳院の祈願所も兼ね、宗祖諸門流の最高峰として洛中では妙顕寺を通さずして挙状と申し状を朝廷もしくは関係各所には上げられなかったと言うことです。

2098金龍:2006/05/31(水) 15:10:14
お暇庵さんこんにちわ。
確かに現存の歴史的な背景はその様に存じます。
ここは、少し遊んでみませんか。
お説の通り、目師は走湯での13才御出家、像師は宗祖入滅時14才。
しかし目師の記述は、他の日蓮門下に明記されているのでしょうか。
又、当家では像師の事は触れる文献は有りませんよね。
私が、折り触れて思うのは、富士門と他門の文献は互いに反する場面が多いという事です。
これらの伝承等を一蹴にして「不相伝」と言う言葉でかたずけるのでは無く、双方に何らかの共通点が見られないかと言う事です。
教義は別として、日蓮門下に伝わる伝承が如何なる背景で生み出されたかと言う疑問です。
確かに目師と像師は全くの別人と思いますが、事、稚児奉公の頃から考えると、本当に別人であったのかと言う突拍子も無い発想です。

仮に、虎王丸=経一丸と推論した場合、御肉牙の伝承にも繋がり、天奏の次第も目師であったと言っても大変に面白い仮説と思います。
私は、暴論かもしれませんが、虎王丸=経一丸とした場合、鶴丸の紋章使用にも納得する場面があるのです。
後醍醐天皇の宗教政策には確かに多くの教義と手を結び一宗一派に固まる事は無かったことは確かです。
さて、それだけで終わったのでしょうか。
建武以後、日本は戦国を迎え、後、徳川まで禁裏は実験を失い、大政委任が続く体制が続きます。
その中で、目師の伝統と像師の伝統とどちらが、禁裏で捉えられていたかと言う事に続くと思います。
公家文化と言う物は、武家風とは違い、あからさまに物事を表現することはありません。
江戸よりの使者が御所に上がる際。
「遠い関東より、ありがとう・・・・・、はよお帰りやす。」
の世界です。
話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。

2099金龍:2006/05/31(水) 15:26:13
藤川様こんにちは。
私は、尊師代理説に対して違う意見が有ります。
御所に於いては、「穢れ」を嫌います、その中でも「喪」は最大の「気涸れ」となり、御上への拝謁は控えるべきものと拝します。
現在の礼式ではその限りでは無いと思いますが、少なくても孝明天皇より上はそうであったと存じます。
では、目師の遷化後、何故に尊・郷師で御所に参内出来たかと言う事です。
私はここに、後醍醐帝の政策以上の物を感じるのです。
宗祖・開山・伝法と続く大導師に共通するものは何か。
その意義に、尊・郷師でもお役が叶ったと思うのです。

2100犀角独歩:2006/05/31(水) 16:07:24

藤川さん、有り難うございます。
その通りでしょうね。

では、もう一点。
「呼び出し」という表現を使われていましたが、日目の場合は、どちらですか。
呼び出されたのですか、それとも自分で行ったのでしょうか。

あと、日郷の天奏については、富士年表には

1345 興国 6 乙酉 後村上 足利尊氏 貞和 1 10.21 光明 滅後 64年
日興・日目13回忌 3.7 保田日郷、大聖人本尊を京六条坊門にて薩摩阿日叡に授与す(叡譜)3.14 保田日郷上洛して上杉管領に伝奏す(8ー373)3.15 保田日郷天奏により光明院より綸旨並びに嵯峨帝宸翰の法華経10巻を拝領す(

という記事が伝わります。

日尊は土地を拝領。日郷は法華経典。これら、顛末を見るに、どうも、国家諫暁などという朝廷を謗法罪悪視した様子は伝わりません。朝廷に認めてもらいに行っているという感じですが、これが天奏の実態と見て差し支えありませんか。

2101犀角独歩:2006/05/31(水) 16:19:07

それから、もう一点。
日尊が日目とは独自に天奏をしたのではないかという仮説は、説得性があります。
その理由は、日尊の天奏成就が石山にとって、何の意味もなしていないからです。

2102お暇庵:2006/05/31(水) 18:29:34

金龍さま、レスいただき有り難うございます

駄文に恐れ入ります

>話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
>一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。

金龍さまの見解はすこし、私どもには相容れないものがありそうです。この文調では何でも有りになってしまいませんか?
私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。

確かに口伝や相伝のたぐいは公開を前提としたものではないですから、表に出る事は少ないと思われますが、それでも延暦寺では口伝・相伝を書類化するために記家という専門僧侶をおき、そのための血脈相伝もあるのです。

これを言いますと飛んでもない分量になりますので、金龍さまの見解として、この議論は切り上げたいと思います。

有り難うございました、なお2097の文章に間違いがありました
>また日像こと経一丸は朗門に入ったのが建治元年の7才(1275)目師より15才若いですね

の「目師より15才」は8才の(目師出生1260、像師1268年)間違いです、謹んで訂正させていただきます。

2103犀角独歩:2006/05/31(水) 18:56:46

藤川さん、つい、投稿だけ読んで、質問をしてしまいましたが、ここは「つぶやき」なので、質疑応答付加でした。
お応えいただけるようでしたら、「素朴な疑問」のほうにでもお願いいたします。
よろしく、どうぞ。

2104犀角独歩:2006/05/31(水) 18:57:26

間違えました。付加ではなく「不可」でした。

2105金龍:2006/05/31(水) 18:59:23
拝復 お暇庵様
>話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
>一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。

金龍さまの見解はすこし、私どもには相容れないものがありそうです。この文調では何でも有りになってしまいませんか?
私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。
とのお説、賜りました。
では、目師天奏と言う所に絞ってみたいと思います。

最終的には、目師自身が天奏を遂げることなく、従僧の尊・郷師により禁裏の奏上がなされた。
これは、富士門にかかる事実として捉えてよろしいでしょうか。

かかる、宗門の大事を遂げた従僧の尊・郷師は石山を離れ、目師天奏の次第は富士門下には伝わらなかったと言う事で良いでしょうか。
現在に残る文献をもって、偽書或いは「伝に曰く」と言われている事に関しては、全く効をそうさないと言う形であるのでしょうか。
「私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。」
との見解には、どこを持って基準とするかが問題になると思います。
論議の切り上げ とのお言葉ですので、これでこの件に関してコメントはいたしません。
但し、私は教義の云々はさておき、いや、別として。
伝記伝承に対してのみ、色々な方面より意見があってしかるべきと思い、又、これからもそうあるべきと思います。
残念ながら、「判断」の基準が私には分かりませんので、判断に合わないとの結果である
「この議論の切り上げたいと思います。」
には大変に残念に思います。
これからは、議論の判断基準値を示しておいて頂ければ幸いです。

2106お暇庵:2006/05/31(水) 19:50:36

金龍さま、再々におそれいります

独歩さんが、2103でいみじくも書かれています様にこのスレッドでは質疑応答は禁止だそうです、私も大ボケで失礼いたしました。

失礼ついでに適当なスレッドがないので、お答えに変えさせて頂くとして、金龍さまは議論を進めさせるための判断基準をお求めですが、この掲示板は富士門とは書かれていますが他門の方も参加されますし、富士門と言っても石山だけではございません。

よって、大方の人の書き込みを見るまでもなく「ある程度の歴史的事実や資料を基にして」は当然の事と思います、その上で口伝的な事を主張するのであるならば、その根拠と依文は富士だけでなく、他門あるいは首肯するに足る学説を用いて証明する義務はあると思います。
この辺は他のスレッドを読んでいれば空気で分かると思います、何よりも個人の私信掲示板ではないですから、ここには論客も多いですので大方の批判に耐えうる論旨が望ましいと思いますが、こんな感じでしょうか。

以上にて失礼いたします

2108今川元真:2006/06/04(日) 10:58:02
劇画発想【日興私案】 「本化垂(しんにょう)亦天照太神宮」八百万神々の長・光神アマテラスが真の力を発揮。「日蓮聖人御影堂」御書遺文から法華経行者・日蓮を学ぶ。「法華本門寺根源」若くて綺麗な理想・南無妙法蓮華経本尊漫陀羅。

2109励合人:2006/06/10(土) 05:25:34
管理人様、素晴らしいサイトを提供して下さってありがとうございます。また博識ある皆様の貴重な投稿も丁寧な文面で時間を惜しみなく提供して頂いて感謝致します。
管理人様に提案なのですがサイトにカウンターをつけられたら如何でしょうか。どれくらいのロムの方がいらっしゃるのかと思いまして。常連の方々はあまり意識されてないと思いますが今後のサイトの発展を意識できるのにもカウンターがあれば分かりやすいと思いましたもので。新しい時代の幕開けになるサイトだと思いますので動向を見届けたいと思いました。

2110管理者:2006/06/10(土) 07:55:32

励合人 さん

ご参加有難うございます。

>サイトにカウンターをつけられたら如何でしょうか

ご提案有難うございます。
カウンターは当掲示板開設当初より、設置されています。ページの上部、タイトルの下、左側にあります。
現在のカウントは400720です。ご確認戴ければ幸いです。

2111今川元真:2006/06/10(土) 12:40:08
劇画用背景説 ●シャカ(諸行無常) ●大乗教(転輪聖王) ●ビシュヌ様→【密教】秘密一乗[大日如来]大乗現証→【法華】法華一乗[妙法蓮華]一念三千・因果倶時、十全完璧即戦力 ●シヴァ様→鬼道密教→天台神道⇔十二天羯摩曼陀羅or法華本門戒壇堂or金剛界胎蔵曼陀羅法華儀軌(仮称) ◆すいません。2チャンネルに書く事でした。

2112今川元真:2006/06/13(火) 19:02:01
シャカ・ライスカレー・ナンカレー、龍樹・惣菜サンド・カレーパン、大乗経典・いろいろなパン、鳩摩訳・惣菜パン、智豈頁・点心・究極パン、最澄・サンドイッチ・揚げパン・究極パン、円仁・焼きサンド、円珍・惣菜サンド、安然・揚げパン、日蓮・究極パン、牧口・ジャムパン、戸田・惣菜サンド、玄奘訳・ジャムサンド、西遊記・惣菜パン・惣菜サンド・揚げパン・サンドイッチ、道教・点心、鬼道密教・惣菜不調合サンド、天台神道・インスタント的菓子パン、 【少年サンデー「焼きたて!!じゃパン」からの例え】

2113今川元真:2006/06/18(日) 11:09:16
【魔力・神力・法力・仏力・信力・学力・功力】【金剛界胎蔵曼陀羅法華儀軌】【上行・シャカ在世、不軽・シャカ没後】【軍茶利明・大威徳明王・降三世明王・金剛夜叉明王・烏沙摩明王】【南無妙法蓮華経如来、四天王、不動明王、愛染明王】【題目、本尊、戒壇】【鳩摩訳、智豈頁選、最澄編、日蓮継】

2114今川元真:2006/06/19(月) 20:29:20
◆明王の王の字が一つ脱字でした。◆高野山奥院で弘法大師空海の遺体が髪が伸びていたそうです。公家の日記か何かには荼毘にふされた事が書かれてあったそうです。◆聖徳太子に未来予言の書があるらしいです。日蓮聖人が密教や超能力などを否定せずの人なら、漫陀羅本尊を宣揚できる僧が出現するのが「シャカ没後2000年以上後の末法時代」だとしたら[題目義・日蓮、本尊義・日寛、戒壇義・牧口]に求めたい。宗教で無くて学問として。◆聖書に付属する黙示録も21世紀にある私等の眼から見れば警告なのか予言なのか判らず。神が書かせた予言では無くて端なるケースバイケースの未来予知ならヒトの想像の範囲内とも考えられるのでは無いでしょうか。

2115今川元真:2006/06/21(水) 12:06:19
連続書き込みになってるけど一箇所一日一度で御勘弁っていうか此の書き込みで前提な疑問に区切りです。●大乗経典・定義白蓮華思想経典●聖徳太子、役小角、最澄、日蓮、山川智応、石原莞爾、牧口常三郎、戸田城聖●21世紀の仏教・シャカ(諸行無常)解脱、シャクソン(涅槃寂静)成仏 ●「親が存在しなければ、子も存在しない」で振り出しに戻るなら、シャカの言葉・原始経典から始めなければならないか

2116一字三礼:2006/06/21(水) 13:20:17
最近ちょっとがんばって書き込みをしておりますが、顕正居士さんとの対話にしても、犀角独歩さんとの対話にしても自分の投稿内容が非常に保守的だということに気付かされます。

れんさんと初めてお会いした時に、「お坊さんだと思ってました。」と言われたのもなるほどと思いました。

でも最近、見た目で、お坊さんではなく、少し年配のハンプティーダンプティーに似ていると言われました。

年配のハンプティーダンプティーって、、、。

2117今川元真:2006/06/21(水) 16:18:44
連続で無ければ良い? ◆嘘から出た卵。元意、真。 ◆数字の計算では何故か合わないけど、末法の様相には合う。事件事故が起こらない神仏の時代など無いと言われるなら其れまでです。 ◆悟りの立脚点は何か。から考えないと建て直しは無理でしょうか。

2118犀角独歩:2006/06/22(木) 12:02:23

かつての友人が、「成仏したいというのも、欲求なんだから煩悩じゃないの?」と言っていました。「なるほど」と妙に納得したものでした。

しかし実のところ、釈迦牟尼は成仏したところから50年、生き続け、人々を教化していたわけでした。それを修行と呼んでもいたようでした。

ところが仏教徒は成仏するために一所懸命、修行して仏になりません。今日日の仏教ともなると、人間であることに強い執着も見られます。
信じていることからも自由になること、そこに平安があること、釈迦牟尼はそんなことを教えたかったのではないのかとも思う昨今です。

2119今川元真:2006/06/22(木) 15:51:01
反神教or汎神教の違いか?

2120藤川一郎:2006/06/22(木) 16:50:13
>>2116
独歩さんも、顕正会からは「日蓮宗の僧侶」と言われてますが・・・。
何しろ「○○坊」ですからね。

2121犀角独歩:2006/06/22(木) 18:36:49

藤川さん、わたしが日蓮宗僧侶というのは、一種のブラックユーモアですね。
わたしは出家させる大器は、そうはいらっしゃらないと思います(笑)

2122藤川一郎:2006/06/25(日) 19:20:12
>>2121

まあ、日蓮宗でもお断り?(爆)

それはさておき下記オークションは全く落札者無く終了しました(笑)。
終わってからでないと、入札妨害と勘ぐられますので、今発表しました。

http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g42352086

2123ラキ:2006/06/27(火) 23:25:16
商魂たくましいですね(笑)
本尊て破門前は「貸し与え」だったはずなのに、売り渡し(販売)て意識があるんですね。
それにしても、破門されてから日寛上人本尊に交換するのに、3000円を取られて、貸し与えだから交換なら無料でも構わない気がします。
販売された物なら、再販売?で交換と行って、本尊を持っていくのは騙しじゃん!と今は考えますね。
所有権放棄した訳ではないので、返還請求して、オークションにでも掛けてみたいかも?w

2124きゃからばあ:2006/07/01(土) 11:33:09

少しつぶやきたくなりました。

学会2世として育ち、脱会後は法華講として活動し、なによりも大御本尊を信じて勤行・唱題をして、少しばかりの教学を学んできましたが、この掲示板に出会ってから悩んで悩んだ結果、今ではすっかり大御本尊に興味がなくなり、むしろ宗教そのものを信じなくなり、死後の世界すら信じていません。
といいながら家の御本尊に唱題しているので矛盾していますが…。

でも五逆罪よりも法華経の誹謗のほうが無間地獄に堕ちるなら、法華経なんて無いほうがいい。こちらの漫荼羅が良く、あちらが駄目でそれを拝んだら堕地獄なんていうならすべての漫荼羅はいらない。
釈迦も日蓮も、過去の偉人として尊敬はしますが、本仏とは思えません。
もちろん間違いだってあるし、失敗もあるのが普通です。
きっとあの頃の世間の苦しみ(戦争)を無くしたかっただけなのかもしれない。
そのために因果律を説き、真の平等を説いたのかもしれない。
おそらく法華経とは因果律と真の平等を説いたものだから、それを無視すると五逆罪よりも重く、逆に信じるとあらゆる仏を供養するよりも功徳が大きいのだと思う。
そして日蓮は法華経に唱題することで、自己開発・自己啓発・向上心・人間革命?、させる手段を発見したのではないでしょうか?
それと釈迦も日蓮も当時の堕落した僧侶(宗教人)に人々が惑わされていることを五濁悪世の原因と考え、そこには幸福はなく、だからこそそれらから人々を救いたかったのではないでしょうか?

変かもしれませんが私は学会に期待しています。宗教そのものを見極めて、本当に大切なことは抽象的な神仏に拝むことではなく、自己意識による改革・向上の方法を見つけることで、もし本尊が必要なら、万民でそれを協議し、そして選べばいいのであり、そして他力本願的な宗教を打破し、因果律と真の平等を基にした活動を展開して欲しい。

やっぱり抽象的な漫荼羅より、一人ひとりの命のほうが大切だと私は思います。

なお過去の投稿で名前にメールアドレスをリンクさせていましたが、迷惑メールが多いのでアドレスを無くしました。

2125独学徒:2006/07/02(日) 20:47:46

6月18日にブログにて、正信会と創価学会について少々批判的な内容を投稿しました。

なぜかそれ以降、掲示板では連日のように迷惑投稿がなされ、現在に至っています。

ひょっとして因果関係があったりして。

つぶやきでした。

2126犀角独歩:2006/07/03(月) 09:12:24

独学徒さん

この度は、‘ご法難’の由、ご苦労さまです。
また、拙書のご紹介、まことに痛み入ります。
貴ブログ、謹んで拝読いたしました。

正信会に対するご見解にはまったく同意です。
正信会のサイトの

> 熱原法難を通して師弟一箇の成道を得た法難の瑞相

というのは、いったい何を言っているのか理解に苦しみますが、いずれにしても、熱原信徒の篤信と法難を賛嘆したものなのでしょう。ところが、正信会各位、殊に彼の所の古文書研究をよくする人々は、彫刻の真偽を語らないわけです。そこに四弘誓願の衆生無辺誓願度は見られません。彼らの師である日達氏がいった「上求菩提下化衆生」も見られません。

熱原信徒の篤信と法難を賞賛するのであれば、自分たちも真実を語り、そこで遭う難から逃れない生き様を示して然るべきであると思うのです。

ところが、彫刻を信じる人々は、このような破戒に止施するわけでもなく、むしろ、荷担して、事実を語れば留難をなし、罪業を重ねます。また、在家のみで生きる人々もまた、自分の信じる‘本尊’を貶されたと思い、難を為します。しかし、彫刻の真偽を語ることは、事実を語ることであり、悪口ではありません。斯かる信に執着する人々は、何故、事実を見ようとせず、寧ろ、事実を語ることに難を為すのか、哀しむべきものがあります。

しかし、このようなことは先刻ご承知のことであり、昨年の流行語を使えば、まさに「想定内」のこと、致し方のないことなのかも知れません。しかし、難を為す人々もまた、事実を隠蔽することで組織、指導者に呪縛される被害者である以上、こちら側としては、一片の怒りも覚えず、ただ、憐憫の情を催すばかりです。

2127きゃからばあ:2006/07/03(月) 11:16:10

>2124
「すっかり大御本尊に興味がなくなり…、」
を、
「すっかり大御本尊を信ずる気持ちがなくなり、」
と訂正させてください。

あくまでも御本尊の真偽は必要であり、その結果を後世に残さなければいけないと考えています。

2128犀角独歩:2006/07/03(月) 14:44:11

きゃからばあさん

わたしもそう思います

2129独学徒:2006/07/03(月) 20:46:58

犀角独歩さん、”法難”お見舞い、誠に恐縮です。

>熱原信徒の篤信と法難を賞賛するのであれば、自分たちも真実を語り、そこで遭う難から逃れない生き様を示して然るべきであると思うのです。

全く仰せの通りだと思います。

興風談所の研究成果は、深く尊敬致します。
まさに正信に覚醒させられる思いすらあります。

しかし彫刻の真偽や、自分達の興味の無い、もしくは自分達にとって不利益な問い合わせには、どこまでも無視を決めむ態度、傲慢な言い草等には落胆します。
僧侶など所詮は皆この程度かと、溜息が出る思いです。


きゃからばあさん、
>あくまでも御本尊の真偽は必要であり、その結果を後世に残さなければいけないと考えています。

宗門の方の中に、このような真摯な方が居られる事を心強く思います。
心より尊敬申し上げます。


管理人様、
つぶやきスレッドでの返信、失礼致します。

2130下学上達:2006/07/03(月) 22:11:53
本門戒壇の大御本尊だけは、「この世での唯一の真実」と信じて来ましたが、
独歩さんのページなどを読ませて頂き、かなり落ち込んでいます。
本物は、いったいどこにあるんでしょうかね。
一度で良いから、拝んでみたいものです。

2131犀角独歩:2006/07/04(火) 00:16:30

独学徒さん

正信会、殊に興風檀所の人々、あれは“坊さん”なのですか。坊さんの格好をしているだけではないのですか。彼らが坊さん、僧侶という点には大いに疑問があります。頭を剃って、袈裟を着るだけなら、われわれだって、出来ます。彼らが坊さんだというのは、いったいどこから言えるのでしょうか。もちろん、これは独学徒さんへの詰問ではありません。わたしは彼らを坊さんだとはまったく思っていないという意思表示です。坊さんコスプレ、古文書オタク、衆生済度の意志はなく、仏教学界で認められて、いい気分になっているだけとしか映じません。


下学上達さん

本物の戒壇本尊、そんなものはないでしょう。そもそも、日蓮は会談と本尊と題目と言っているのです。

戒壇の本尊があるというのであれば、戒壇の題目、戒壇の戒壇もなければなりません。戒壇と本尊が別立てなのが日蓮の教義ですが、それを束ねれば秘事で一つであるというのが草案に見られるところではないでしょうか。

いずれにしても、本尊は「観心本尊」ではないでしょうか。

2132犀角独歩:2006/07/04(火) 00:18:03

【2131の訂正】

誤)会談と本尊と題目
正)戒壇と本尊と題目

2134犀角独歩:2006/07/04(火) 00:27:59

管理者さん

投稿したあとに、少し反芻しました。これは偽らざる感想です。しかし、管理者さんが、「坊さんコスプレ、古文書オタク」というのが、悪口等の投稿規約に該当するとご判断されるのであれば、2131、2132は削除してください。

2135顕正居士:2006/07/04(火) 05:33:30
正信会や創価シンパの離脱僧はろんなく坊さんです。カルト化しているとはいえ、日蓮正宗は
由緒ある伝統宗派の流れですから。そこで出家した人は坊さんです。宗派から擯斥されても、
宗派を替えても、坊さんであることに変りはありません。
ただし具足戒を受けている人を坊さんという国際標準からは、日本とチベットのニンマ派の方は
優婆塞(居士)です。

2136:2006/07/04(火) 05:39:18
2131の掲示は独歩さんの人格、品性を表して面白い。

自らへの無礼には大変鋭敏でいらっしゃる。
偉大な独歩さんも、
意に副わぬ者に対してはかくの如くになられる。
削除より晒しておくべきでしょう。

「カラフル坊さんコスプレ、法華経オタク」はお気に入りのようだが

独学徒 さん
ブログどこにあるのかご紹介を

2137顕正居士:2006/07/04(火) 05:56:32
日本の坊さんの中でちょっと違うのは真宗の方です。無戒ですから。ほかは円戒です。
日本仏教の世界では真宗の方も同じ坊さんです。全く差異はない。しかし仏教の世界
を出ると違います。神官と同じに俗人として扱われます。ですから、真宗九家は華族に
列したのです。

なお、明治廃仏以後は四民の外である僧侶という身分は法律上はありません。僧侶は
宗教、ことに葬儀に与る職業に過ぎず、選挙権など国民の権利を有すると同時に、納税、
(兵役)などの義務を負います。したがって何が僧侶であるかは、明治廃仏以前の習慣
によるといえます。

2138犀角独歩:2006/07/04(火) 06:27:01

Bさん

「偉大」とは恐れ入りました(大笑)
ところで、わたしはどこに「カラフル」と書きましたか?
わたしがコスプレ、オタクではないかと記したのは、その言葉が気に入っているからではなく、わたしは、僧の僧たる所以は何かと、問うためです。
このようなことは日蓮にも見られるでしょう。以下の如き、引用、記述が見られます。

「法を護らざる者をば禿居士と名づく」
「多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是くの如きの人を名づけて禿人と為す。是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駈逐して出ださしめ、若しくは殺し若しくは害せん」

また、疑偽書には、さらに激烈を極め、

「食法がきと申すは、出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がきとて法をくらふがきと申すなり。当世の僧を見るに、人にかくして我一人ばかり供養をうくる人もあり。是は狗犬の僧と法華経に見えたり。是は未来には牛頭と云ふ鬼となるべし」
「遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を著たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし」

既得権ではあるまいし、出家、教師補認という免許を、あるとき、ある宗派から得れば、その後、終生、僧侶であるというのか、そもそも、僧侶とは何ぞや、かくあるべきかという問いです。

以下、よく引用するところです。この心情を言っているのです。

「坊さんのすべてが、もう一度、出家しなおしたら、どんなにすばらしいことかと思う。皮肉などで決してない。実感である。
三十三カ所霊場とは限らない。日本の寺々にはともすると、草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。かたちはでんとかまえているが、ひっくり返してみたら下のほうが腐りかけていた南瓜……。そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである」(『西国巡拝記』杉本苑子)

2139犀角独歩:2006/07/04(火) 06:49:07

なお、誤解があるといけませんから、一言、補足します。

わたしは、僧は宝であるという考えには、心から賛同しています。
原則として、僧侶には、最高の礼を以て、接しています。

しかし、破戒、無戒、一片の民衆共済の志も感じられない者には、歯に衣を着せず、断固、その非を問います。それは、わたしの意に副うか・否かということではない、僧の僧たる所以を滅ぼす悪行であるからです。

2140犀角独歩:2006/07/04(火) 21:02:59

こちらも間違えていました。

【2139の訂正】

誤)民衆共済
正)民衆救済

2141独学徒:2006/07/04(火) 22:36:48

犀角独歩さん、今晩は。

>正信会、殊に興風檀所の人々、あれは“坊さん”なのですか。坊さんの格好をしているだけではないのですか。

私は経験が少ないためか、真に尊敬できる僧侶を存知あげません。
したがって、私にとって僧侶とは「坊さんの格好をしているだけ」の人を指しています。

将来、本当に尊敬できる僧侶と出会うことができれば、この認識は改まると思います。


Bさん、私のブログは以下にございます。

http://blog22.fc2.com/fujikyougaku/index.php?style2=pop-k17&amp;index

2142 B:2006/07/04(火) 23:07:23
下手な書き込みのせいで誤解されたようです。婉曲は通じないようです。

>「偉大」とは恐れ入りました(大笑)
いやいやどういたしまして精一杯のヨイショです、真に受けられた訳ではないでしょうけれど。

> ところで、わたしはどこに「カラフル」と書きましたか?

独歩さんの表現を借りて私がお返ししただけです。

「カラフル坊さんコスプレ」衣の色に憂き身をやつすお上人様、これ中身より見てくれの「高僧コスプレ」なのでは 
古文書オタクに対して法華経オタクと書いてしまいました。オタクとは地道な研究者に対する侮蔑表現です。

独歩さんお気に入りのお上人様方ごめんなさい。
独歩さんお気に入りの法華経研究者様ごめんなさい。

> わたしがコスプレ、オタクではないかと記したのは、その言葉が気に入っているからではなく

私の記した「お気に入り」の意味は、独歩さんが尊称をつけておられる方々は独歩さんの「お気に入り」なのではという意味です。残念ながら富士系僧侶には「氏」と表現されていますので。

ところで独歩さん、今日本国中でこれぞ本物の僧と思われるお方はどなたでしょうか。


独学徒さん  ありがとうございます。 ぼちぼち読ませていただきます。

2143犀角独歩:2006/07/05(水) 04:19:18

Bさん

誤解も何もありません。ここは議論の場ですから、湾曲な表現がどうだとか、お気に入りがどうだとかということ自体、わたしは馴染まないと思いますし、そんな話につきあう気はありません。ヨイショ、お返し、お気に入り、あなた、なんか勘違いして居るんじゃないですか。

> オタクとは地道な研究者に対する侮蔑表現です。

研究だけして、衆生済度を忘れた者は、僧侶の本分を失っている故に尊敬に値していないと言っているのです。そのような戒めは日蓮以已来のことだろうとも記しました。湾曲で通じませんでしたか。
日有は『化儀抄』に
「一、当宗には談義あるべからず、其の故は談義とは其れ文段を横に沙汰する故に智者の所作なり、当宗は信の宗旨なる故に爾るべからず、但し竪に一宗の建立の様を一筋云ひ立るは説法なり、是をば当宗にゆるすべきなり愚者の聞く耳なるが故に云云」
というのではありませんか。わたしは富士の信徒は卒業していますから、この日有の教戒に随うことはありませんが、富士の僧侶を誇るのであれば、よろしく、この義に副うべきところ、単に研究とは、既にこの意に外れませんか。まして、大乗戒、すなわち、菩薩戒をもって僧侶となる法華宗において、「衆生無辺誓願度」は僧侶の誓いでしょう。この僧侶の本分を忘れては、もはや、僧侶と呼ぶことは出来ないと言っているのです。

> 残念ながら富士系僧侶には「氏」

当然でしょう。日蓮本仏という嘘を解き、模造の彫刻を「本門戒壇の大御本尊」と謀って恥じ入るところもありません。とても「師」などと呼ぶことはできません。。

> 今日本国中でこれぞ本物の僧と思われるお方はどなたでしょうか。

たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、こんな質問に答え、実名を上げるわけにはいきません。2136、2142の如く、議論ではなく、突然、人を指名し、悪言を吐き、「晒しておくべき」などという書き込みをして、人を侮蔑するあなたに、まともに応える言われもありません。

2144犀角独歩:2006/07/05(水) 04:34:41

「仏所讃歎捨世中福田所誡於一闡提加讃歎供養。故弥貪欲心盛謗法音満天下。豈不起災難乎。…
 問曰汝以僧形顕比丘失豈非破不謗四衆不謗三宝二重戒乎。答曰守涅槃経云若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨。若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也[已上]。之文記之」(災難興起由来)

2145犀角独歩:2006/07/05(水) 11:07:04

独学徒さん、以下へ移動しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/887

2146ラキ:2006/07/05(水) 13:00:50
最近ネット映像で、イスラム原理主義者による、ロシア人処刑映像を見ましたが、宗教に狂う怖さを実感しました。
日本ではここまで過激ではないですが(オーム事件を別として)自分が信仰してる宗教のためなら、法を犯す行為も平気でするのが宗教と呼べるものなのかと考えます。

2147ひきこもり:2006/07/08(土) 14:39:24
>>2146
そんなことはありませんよ。「仏法は王法よりも尊し」と言う理論を振りかざして、現行法を
犯すようなことは、富士門流信徒のほとんどはしませんよ。

2148真実知求者:2006/07/08(土) 20:42:49
>>2147様、オーーット、、ホンマかいな、?  マー重く受けとめるが、疑義は、、999%位は実感中、だす、、。 因みに「共同謀議処罰法=治安維持法、」、にご執心して批判者をブタ箱にしょっ引く法案には、つい先日までシャカリキの団体さまは、どこの誰でしたか、、ネ、?  ここに宗教のの恐ろしさが存在のようです、、? イスラム教徒がユダヤ人をテロで殺傷する時、、「、、アッラー、!、アクバル、、!」(=お題目)、、と叫ぶ、ようです、。 この点には、??、、どこかと似ている点、、はないのでしょうか、、?
 軽々しくは言えませんが、「、宗教、、=、、洗脳、、=、、凶悪、?、、」、、も、含んではいないでしょうか、? 心配ではございまするが、、。

2149犀角独歩:2006/07/08(土) 21:15:51

> 現行法を犯すようなことは、富士門流信徒のほとんどはしません

何を言いますか。7月3日、その富士門流の顕正会員が、人を殴って、家宅捜査が入ったばかりではないですか。創価・公明で言えば、池田克也、田代富士雄の汚職をはじめ、創価学会が蛇蝎のように嫌う山崎正友氏も、現役の富士門流信徒ではないですか。

不起訴、起訴猶予になったからと言って、現行法を守っていることにもなりません。

2150問答迷人:2006/07/08(土) 21:37:20

僕が創価学会員だったとき、こんな事を習いました。

「法には三種の法がある。世間法、国法、そして仏法だ。この三つの中で一番大切なのは、仏法であり、国法と仏法のどちらかを選ばなければならないときには、たとえ国法を犯しても、仏法に随わなければならないのだ」

たしか、これは、第二代会長の戸田氏の発言が元になっていたように思います。戦時中、戸田氏が国法を犯して捕らえられ、監獄に繋がれた事を正当化する論理がそこにはあったと思います。

本来、創価学会では、国法遵守の精神は薄いのではなかろうかと思います。現に、僕は、昭和44年当時、公然と選挙妨害を幹部から指示され、他党候補の事務所の電話を鳴りっぱなしにする、という選挙妨害活動をしたことがあります。

この経験からも、富士門流信徒、特に大石寺門流においては、現行法を犯すことには、そう心理的抵抗は無いように思っています。

2151犀角独歩:2006/07/09(日) 06:14:14

いわゆる、法に関するハッサン師の記述。以下、『マインド・コントロールの恐怖』から。

現行法は、暴力の行使またはその危険がないかぎり、マインドコントロールなるものが存在すること自体認めない。(略)実際、法というものは、知らないあいだに破壊的カルトの犠牲となってしまった人々よりは、むしろ破壊的カルトの方を守りがちである。(略)カルト集団には途方もない資力があるため、彼らはそれで最高の弁護士を雇い、批判者や元メンバーに対するいやがらせの訴訟(勝ち目はなくても訴えられた人は迷惑)を起こすことができる。

破壊的カルトはみな、目的は手段を正当化すると信じているので、自分たちは法の上にあると思っている。

まっとうなグループは、破壊的カルトのように恐怖と罪意識を通してコントロールするというような極端には、決して走らないものである。
あるもっとも破壊的カルトは、元メンバーを実際に突きとめて、あからさまな暴力、あるいは法的嫌がらせ、感情的脅しや脅迫などでだまらせようとする。

2152ラキ:2006/07/09(日) 14:13:06
>2147
>>そんなことはありませんよ。「仏法は王法よりも尊し」と言う理論を振りかざして、現行法を
犯すようなことは、富士門流信徒のほとんどはしませんよ。

過去に同じような事を述べた記憶がありますが、私は、富士門流信徒の方が、他宗教より(国内限定で言う)犯罪を犯してる方が多いと思います。
報道に流れないような小さな犯罪も身近で体験し、聞いてきました。
富士門流の折伏と言う、脅迫はある意味犯罪行為だと思ってもいます。
顕正会など、顕正会をバカにすると、罰が当たる。入信を拒むと罰が当たる。他の宗教では不幸になる。幸せになるには顕正会の日蓮聖人の仏法をしなければ、幸せになれない。
何か問題があるの?と思う人もいるでしょう。
だけど、捉える人により、罰・不幸と言う言葉の脅迫とも取れるわけです。
そのように考えると、他の宗教を見て話を聞いて来た私をしては、富士門流が一番世間法を犯してると思います。

2153犀角独歩:2006/07/10(月) 05:50:27

> 富士門流が一番世間法を犯してる

まあ、そこまでは言えないと思います、オウム真理教、統一協会などの例もありますし、戦前の軍部権力を結ばれた大東亜圏武力支配という問題もあるでしょうから。

ただ、たとえば、顕正会にしても、昨年は神奈川だけで500件の被害届があったということですし、戦後、間もない、創価学会の威力行使、勧誘、その他の被害は凄まじいものがあったのは、事実でしょうが。

2154今川元真:2006/07/16(日) 06:12:41
創価学会の冷戦敵対に以前此んなものを書き送りました。【シャクソン・出世の本懐・法華経、日蓮・出世の本懐・三大秘法の大御本尊、爾前(諸の外道を破す)→シンニョウ亦門(諸の禅定を明かす)→本門(真寂の深義を明かす)→観心(人天の因果を明かす)、自分自身が妙法の蓮華の当体である事を悟る】 2006年現在では、法華一乗≒三大秘法、爾前or化城

2155大縫 薫:2006/07/20(木) 22:12:42
今回の大雨水害で土石流によってお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げ
るとともに、被害に遭遇された方にお見舞い申し上げます。

2156下学上達:2006/07/21(金) 02:45:38
ここの過去ログは大変勉強になりました。
ずっと読んでいて、日蓮大聖人の真意を理解した弟子はいなくて(日興でさえも)
・・・と言う事は後世には全く正しく伝わっていないのですね。
私は一体、何を信仰してきたのか判らなくなりました。

2157今川元真:2006/07/21(金) 06:05:53
法華一乗では無いですか

2158パンナコッタ:2006/07/21(金) 14:26:23
下学上達さん、こんにちは。ここは受け答え禁止なので、あくまでも自分の主観による
つぶやきです。ご容赦下さい。

以前、TVで三笠宮崇仁殿下が歴史を語ったインタビュー番組の中で、
 「当たり前なのですが、誰が見ても、イエスはキリスト教徒ではないのです」 という
ご発言を聞き、アッと思いました。 
当たり前の事実に、以外と気付いていない事があると言う事ですね。
(イエス実在論もありますが、それを踏まえてもキリスト教徒ではないでしょう)
富士系教学をベースにした信仰の場合、このような事が非常に多いと思われます。


慨出ですが、宗教の法則に”宗教の中心は空洞である”というものがあります。
【神や仏がたとえ存在しないとしても、宗教という装置は成立する。
 重要なのは、神や仏が存在すると、人々に信じさせることである】
組織の維持、拡大が至上命題になっている教団の論理を信仰していたのでは、ないでしょうか。

2159下学上達:2006/07/21(金) 19:28:30
>パンナコッタ さん
受け答えではありませんが。返信ありがとうございました。
私も創価学会の本尊では無く、己心の大聖人の真筆を、
信じて頑張って行こうと思います。

2160藤川一郎:2006/07/22(土) 13:12:42
「イエスは仏教徒だった?―大いなる仮説とその検証 」
著者 エルマー・R. グルーバー

と言う書籍もありますね。

2161ラキ:2006/07/23(日) 00:32:43
本屋さんで見かけて、独歩さんの解体新書かと思ってしまいました。(^^;
「犀の角たち 」  佐々木 閑著
税込価格 : \1,995  出版 : 大蔵出版  サイズ : B6判 / 244p
ISBN : 4-8043-3064-X
発行年月 : 2006.7  利用対象 : 一般
内容説明
「科学とはなにか? 仏教とはなにか? まったく無関係にみえるこの問いの根底にある、驚くべき共通点とは。宗教の神秘性を極力排除し、徹底した論理性だけを用いて解き明かす、知的冒険の書。 」

2162大縫 薫:2006/07/27(木) 22:28:30
興門の化儀で、要法寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺と大石寺の比較を
考察すると法衣・法具などで大いなる相違があるのに考え深いのがあります。
石山は鶴丸は三枚羽でその他の七山は二枚羽で日興上人の紋たる亀甲紋も亀甲の中
に花菱があるのは石山で二階堂家の門であり、大井家の紋は花菱が無く、御宝前の
器は石山は六器で華香水華香水を供えるのに、七山は三器を供えています。
法衣も大石寺では白五条袈裟に対して、要法寺・北山本門寺・西山本門寺などは
薄墨五条袈裟を着用しています。四菩薩造立抄には宗祖は薄墨色の袈裟を着用して
いた事が判明しますが、石山古刹寺院の御影画像には白袈裟では無く薄墨色で描かれ
ています。題目も石山はナンミョウホウレンゲキョウに対し古来の七山はナムミョウホウレンケキョウ
とゲをケと発音し追いの題目を上げます。
数珠も石山は数え球があるのに対し七山は数え球がなく房も切房で丸房ではありません。
法具たる中啓も石山では葬儀にも朱骨・黒骨金銀の面の中啓を使うのに対し、七山では鈍色又は白骨の
中啓を使用します。葬儀の席も所詮は目出度いとでもいいたいのでしょうか?
まだまだ違いがありすぎて、書ききれません。
後者の七山が興門の古式を伝えているのだけは、誰の目から見ても明らかです。
何故に大石寺が変節してしまったのかお分かりの方がいたらご教示願います。

2163みかん:2006/07/28(金) 08:17:09
>石山は鶴丸は三枚羽でその他の七山は二枚羽で

そのようにMさんという方から教えられましたが、一昨年、
実際に実際に自分で富士五山全山を回ってみたら、
どのお寺でも二枚羽、三枚羽ばらばらに混じっていましたよ。
どうもちゃんと決まっていないと思います。

>ナムミョウホウレンケキョウ

これも同じMさんからそう教わりましたが、疑っています。
ナムミョウホウレンケキョウと表記するのは、古来の日本語が
濁点を表記しなかったからで、実際に濁音で発音していたか
発音していなかったかは、分からないのではないですか?

大縫さんがそのように教わったのは、Mさんからですか?

2164大縫 薫:2006/07/28(金) 11:19:19
みかんさん
要山の関係者から教わりました。

2165みかん:2006/07/28(金) 18:09:03
5年ほど前に、要法寺の寺務所で数珠を買いましたが、
たしか丸房で、房は左右とも二つだったと思うんですよね。
日興上人遺品のレプリカというふれこみでしたが、
いま、探してみましたが、見当たらないので
もし出てきたら、もういちど確かめてみます。

やはり5年ほど前に北山本門寺の御開帳を
受けましたが、その際は、貫主猊下は
白い切房の数珠でしたが、伴僧は色つき丸房の
数珠を使っていました。他門流の僧侶が出仕していた
と思われます。
開帳の時に「引き題目」というものを唱えさせられましたが、
げきょうだったか、けきょうだったか、覚えていません。

やはり5年ほど前の四月、西山本門寺の虫払い法要
に参列しましたが、僧侶の数珠は覚えていませんが、
たぶん切り房だったと思います。
信者は、丸房、切り房、白、色つきまちまちでした。
(東京布教所の信者だけは切り房でしたが、
わたしが持参した要法寺の数珠とはデザインは全く違いました)
一昨年の四月、再度西山の虫払いに参列したところ、信者の
数珠は、切り房が増えていました。

五山の五ヶ寺の鶴丸の写真がちょっと見あたらないのですが、
もし見つかったらアップします。

法衣、法具については知識がないので失礼。

2166犀角独歩:2006/07/28(金) 19:12:06

皆さん、ご無沙汰いたしております。

ここ10日ばかり、モバイルに頼っていたところ、頂戴したメールが不読消去される事故が起きました。もし、メールをお寄せ下さった方がいらっしゃいましたら、お手数でも、再送頂きたくお願い申し上げます。

2167独学徒:2006/07/29(土) 18:36:34

大縫さん、ご無沙汰です。
みかんさん、はじめまして。

>ナムミョウホウレンケキョウ

これは私もMさんから聞いたことがあります。
正信会の「通称『万年講』の邪義を破す」でも出ていますので、ソースはわかりませんが、Mさんは学会在籍中からそのような考えがあったと思われます。

また北山本門寺、京都要法寺、保田妙本寺の勤行要典に該当するものから、現在の各山の発音を探ってみますと以下の通りとなりました。

北山本門寺=「妙行聖典」:南無妙法蓮華経に「なむみょうほうれんげきょう」のルビがふられている。
京都要法寺=「信行正軌」:南無妙法蓮華経に「なんみょうほうれんげきょう」のルビがふられている。
保田妙本寺=「勤行要典」:南無妙法蓮華経に「なむみょうほうれんげきょう」のルビがふられている。

以上から考えますと、むしろ尊門では「なんみょうほうれんげきょう」と発音することが、「正軌」と考えられているようにも思われます。


犀角独歩さん、こんにちは。
昨日も添付ファイル付きのメールを送っていますが、どうも帰ってきてしまいます。
彰往考来さんには、届いているようですので、なにか対処法があればお伝えいただきたく存じます。

2168大縫 薫:2006/07/29(土) 20:05:35
独学徒さん、こちらこそご無沙汰しております。
暑さで体はバテてはいませんか?
保田妙本寺では緑の折本で「勤行読本」といっていたような勤行要典に変わった
のでしょうか!

2169独学徒:2006/07/29(土) 20:30:31
大縫さん、
>暑さで体はバテてはいませんか?

実はバテまくってます。
今日は明るいうちから発泡酒(私の小遣いではビールが買えません)をあけ、家でゆっくりさせていただきました。

>保田妙本寺では緑の折本で「勤行読本」といっていたような

ご存知のように、私は近年こうした富士門系諸山を訪問し始めたばかりですので、保田妙本寺さんに関しましても、正宗時代や離脱直後などのことはわかりません。
確か昨年、冨士教学研究会のブログを起こしたころに購入したのが、現在所持している保田の経本だったと記憶しています。
その今手元にあるものでは「中谷山妙本寺勤行要典」となっています。

2170ラキ:2006/07/30(日) 02:51:16
アンチ日蓮正宗系掲示板て感じで、面白いです。
「自称”顕正会員”の発言を考える」
http://windsaber.hp.infoseek.co.jp/

mixiの中にも日蓮のコミにティーがあるのには驚きました。
mixiメンバーで興味がある方は検索して覗いて見ても面白いかもしれません。

2171犀角独歩:2006/07/30(日) 07:43:59

独学徒さん

恐縮です。
どうも、ここのところ、メーラーの調子がよくありません。
お手数ですが、以下、再送いただければと存じます。

saikakudoppo@rio.odn.ne.jp
saikakudoppo@yahoo.co.jp

恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます。

2172独学徒:2006/07/30(日) 10:18:30

犀角独歩さん、お早うございます。
ヤフーに送ってみました。
ご確認下さいませ。

2173犀角独歩:2006/07/30(日) 13:20:42

独学徒さん

こんにちは。拝受いたしました。
お手数をおかけいたしました。
有り難うございました。

2174大縫 薫:2006/07/30(日) 16:57:34
独学徒さん
中谷山妙本寺勤行要典は表紙は何色でしょうか?
大石寺と大差は感じませんでしょうか。

2175独学徒:2006/07/30(日) 17:12:41

大縫さん、
>中谷山妙本寺勤行要典は表紙は何色でしょうか?
グレーです。
大石寺のは私が所持していますのは、昭和56年版で茶色といいますか黄土色のような色をしています。
巷でよく見かけたのは、ブルーの経本でした。
いずれにしましても、現在の保田妙本寺さんの経本で、私が現在所持しているのはグレーです。

ちなみに勤行の次第は以下の通りです。

初座→石山「諸天供養」:保田「諸天供養」
ニ座→石山「本尊供養」:保田「法本尊供養」
三座→石山「三師供養」:保田「人本尊及僧宝供養」
四座→石山「広宣流布祈念」:保田「広宣流布祈念」
五座→石山「回向」:保田「回向」

宗祖本仏論の寺ですが、人本尊と法本尊を別個に供養するところは、石山と違っていますね。
石山では所謂「本門戒壇之大御本尊」をもって、人法一箇の本尊としますが、保田では法本尊=万年救護大本尊、人本尊=日蓮大聖人(大石寺正御影?)としているようです。

2176大縫 薫:2006/07/30(日) 20:22:54
独学徒さん、ご教示有難うございます。
富士諸山でも宗祖本佛論・久遠実成の釈迦佛を人本尊として位置付けをしているのが
大変に面白いです、特に西山では諸師によって人本尊のたて分け方に相違があるのは
興門の三宝式に見られる、宗祖御影(木像・画像)本尊(紙幅・板)開山御影(木像・画像)
の捉え方が多分にも影響しているのではないでしょうか。

2177独学徒:2006/07/31(月) 00:04:17

大縫さん、
>特に西山では諸師によって人本尊のたて分け方に相違がある
本当ですね。西山は諸師によって意見が異なりますね。
保田は猊下と執事さんとで、少々意見が違うようですが。
しかし、10人いれば10通りの意見があっていいと思いますので、むしろ内部で種々の意見があって健全かもしれません。

こちらこそ今後とも御教示の程お願い申し上げます。
特に、導師曼荼羅について、どのようなものを導師曼荼羅と呼称して間違いないのか、是非御教示戴きたく存じます。

2178大縫 薫:2006/07/31(月) 00:38:00
平成十八年 七月七日 「『立正安国論』─その道を歩む─」
立正大学名誉教授中尾中尾堯文師の金曜講話をネット配信で聴聞し、改めて宗祖
日蓮大聖人を身近に感じる事が出来て、今後の活動の糧となった。
合掌
http://dendo.d-nichiren.jp/share/getu_kin/index.html

2179富士:2006/07/31(月) 11:38:39
久しぶりに書き込ませていただきます。

突然ですが、彰往考来さん。
自分の事覚えていらっしゃるかどうかわからないのですが・・・。
昨年のオフ会、二次会の席で正面に居た途中で帰った法華講の者です。

実は早急にお知らせしたいことがあります。

いきなりで大変失礼なのですが、名前のところへ御迷惑でなければ、
電話番号かメアドを教えていただく事は出来ないでしょうか。

個人情報ですので、もし別なアクセス方法があれば指示してください。
従います。

2180れん:2006/08/01(火) 17:20:52
>2177
独学徒さん
>西山は諸師によって意見が異なりますね…保田は猊下と執事さんとで少々意見が違うようです…

とのことですが、私、不勉強にて近年の富士他山のことには全く疎いので、もう少し具体的にお示し下されれば幸甚に存じます。

2181独学徒:2006/08/01(火) 23:33:36

れんさん、今晩は。

西山については、富士門流の謗法観といいますか、所謂「雑乱勧請」といわれる別勧請を謗法ととらえる方と、そうでない方がいらっしゃると思います。
特に末寺にいたっては、身延系の日蓮宗とそう変わらない境内の寺院もあると聞いています。
具体的には申し上げ辛いのですが、本山塔中でも、七面山信仰を奨励されるところもございます。

保田では、昨年の御虫干でも、貫首猊下が同寺の御影を聖人在世に日法の作と説法されましたが、執事さんは霊宝解説の中で、聖人滅後日興上人の命によって作成と話されていたと記憶しています。
貫首猊下は伝統を尊重したお考えで、執事さんは、比較的現実的なお考えなのではないかと存じます。
但し、滅後日興上人の命によって作成との説も、公に判断されたものではないと思われます。

なかなか具体的にできず恐縮です。
事情御察し戴けますと幸です。

2182れん:2006/08/02(水) 13:56:07
独学徒さん
お示し戴ける範囲で、ご教示頂き、誠に有難うございます。
なるほど、保田でも西山でも、そのような事情があるのですね。
保田の場合はいわゆる大石寺御影の造立時期に関する異見ですか、かなり以前に話題になりましたが、日順雑集の記事によると、興師は蓮師滅後、弘安七年までに、蓮師の住坊を御影堂に改め、かつ、蓮師の御影像を造立したことが見えるので、保田の執事さんのご意見は、この雑集の記事にみえる御影を保田の御影像に比定されているということでしょうね。
西山の場合も、旧末寺が日蓮宗に所属しているので、通日蓮宗的な法義解釈の影響を少なからず受けている方もおられるでしょうから、これも、当然のことと存じます。
ともあれ、ご教示誠に有難うございました。学恩に感謝申し上げます。

2183彰往考来:2006/08/02(水) 17:03:38

>2181,2182 横レス失礼。

私はいわゆる大石寺御影の造立時期はもう少し時代が下がるものと考えています。鎌倉末期から南北朝のころでしょうか。
これにつきましては近々私見を公表したいと存じます。

彰往考来

2184れん:2006/08/03(木) 18:16:10
彰往考来さん
>2183
保田所蔵の所謂大石寺御影の造立の時期につき、ご見解を近々御披瀝戴けるとのこと、楽しみにお待ち申し上げます。
日順雑集に記される、興師が弘安七年前後に造立したという蓮師御影については、文面からは画像か木像かは分かりませんが、木像と仮定した場合、その候補は重須の生御影・保田の正御影・下条東光寺に秘蔵されて東光寺の御影・明治時代に焼失した小泉久遠寺の御影が挙げられますが、東光寺の御影は一般に非公開、小泉久遠寺のは焼失していて、比較検討出来ないのは残念です。
ともかくも、彰往さんの御賢察の御披瀝を楽しみにお待ち申し上げます。

2185れん:2006/08/04(金) 17:59:29
>2184
訂正
誤)秘蔵されて
正)秘蔵されている

2186驟雨:2006/08/08(火) 00:44:02
つぶやきすれっどということなので、ふと思ったことを書き込ませて頂きます。
御書には人間感情の両側面の主張を擁護する文面というものが存在しているように思います。
例えば日蓮正宗系で言うと、相対立した立場それぞれの言い分を擁護する御書が存在するような意味合いです。
相対立者同志がそれぞれ御書を元手に主張しても「切文」として吐いて捨ててしまわれ解決をつけられない事柄が多いのですが、大きく見れば、反論御書も、ただ一片だけでは日蓮聖人の聖意とも取れないと思うんです。
でも色々読んでいても、片方では悪を善とし、片方では善を悪とする、といった論述展開が私には見えて取れてしまったのですが、それでは一体日蓮聖人の本来の目的とは一体何なのか・・・判断に迷う事も多くあります。
特にの現在の日蓮正宗系同士のやりとりでは全く判断つかないのです。
多くの僧侶系の方々は「対告衆」という文言をよく使用されますが、主張の違う論者同士の場合、またこれが実に巧みに身勝手に使用されているようにも思えてならないのです。
私は日蓮聖人信奉者でありたいと思っていますが、お互いに情報提供しあって日蓮聖人の御聖意に近づこうとする許容力も、整合力も、協調性もないように感じてならないのです。

こんなご時世にこそ本当の力ある宗教が必要とされるのに・・・結局は日蓮聖人の生き方も、現代の多重の思考主張の世間では、一つの思想でしか成立し得ないのか、と残念に思う今日このごろです。

私は無智の部類の日蓮聖人尊者でしかないのですが、少しばかりもどかしく思いつぶやきすれっどならば、と思い書かせて頂きました。

2187大縫 薫:2006/08/12(土) 20:26:59
興門の長老から伺った話では、御本尊の首題と花押(日蓮在御判)は我々衆生
に向かっているが、実は首題に対して花押(日蓮在御判)はこちらに背を向けている
からこそ、末法有縁の大導師としてのお立場が備わると聞いた事があります。
御影様は逆にこちらを向いているのは、宗祖自ら客をもてなす意があるからだと
言っていたのが、この頃気になるのですが・・・

2188問答迷人:2006/08/12(土) 20:55:03

>実は首題に対して花押(日蓮在御判)はこちらに背を向けている

興門長老のお話のご紹介、大変有難うございます。

僕は、曼荼羅の首題と花押は、それぞれ「上行所伝の妙法蓮華経の五字」と「口唱日蓮」を表していると考えています。

これが正しければ、当然、花押(日蓮在御判)は、「首題に向っている」、つまりは、「こちらに背を向けている」と考えています。

御影様は「口唱日蓮」ではなく、「説法日蓮」を表していますから、客である信徒の方を向かれているのであると考えています。

2189今川元真:2006/08/12(土) 22:58:59
なるへそ!

2190大縫 薫:2006/08/13(日) 00:21:04
問答様
お世話になります。興門長老の言では御義口伝の末文の、法とは上行所伝の題目なり
この要文に興門の真意が要約されているとの事です。
古来より御影様は客殿式の如く安置されるのが伝統であり、西山・北山・蓮山・豆山・石山
が現在も木像・画像の違いはあるにせよ客としての信徒を御持て成しをされている姿は説法
日蓮大聖人・撰時抄を講話され第五の五百歳を指を指し示す日興上人のお姿だと・・・
我々の口を仮にお使いになり、宗祖は上行所伝の妙法蓮華経の五字に向い口唱されているから
こそ末法有縁の大導師にあたるそうです。
その長老も今は鬼籍に入られ、興門の古式伝統を重んじる方は数少ないと思います。

2191大縫 薫:2006/08/13(日) 00:57:26
もうひとつ言うのを忘れていましたが、石山(現日蓮正宗)は興門古来の化儀や
古式・伝統を簡素化にし、日蓮本佛でありますから、宗祖もこちら(衆生)側を
向いていているので、常に説法日蓮であって、客を御持て成しする姿ではなく
本佛として完成された容でありますから、佛と衆生とそこに差別が生じ、一器の
器から器に注がれた法灯連綿が説法日蓮の名代たる法主に受け継がれ、さらに法主
の名代たる寺院住職とそこに所属する信徒としての師弟関係に結び付きます。
化儀抄に出家と在家信徒には大いなる差別があると指南されています。
上行所伝の妙法蓮華経の五字に宗祖御自ら導師になられ、我が口を仮に使い口唱さ
れる宗祖こそが興門の求める宗祖の姿ではないでしょうか。

2192今川元真:2006/08/13(日) 05:44:03
シンプルに考えるなら、多宝如来の建てた宝塔にシャカを招いて法を説いてもらい、其の意義が、鎌倉時代の末法無戒の頃まで続いた事を示している漫荼羅に見えます。

2193問答迷人:2006/08/13(日) 07:33:42

宗祖「仏既に宝塔に入つて二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る可からず。」と法華取要抄に述べられています。

釈尊が法華経で説いた「法」とは、「妙法蓮華経の五字」であり、それが神力品に於いて、上行菩薩を上首とする地湧千界に授与された、との道筋をお示しで有ると思います。

曼荼羅にお認めになられた首題は、この上行所伝の妙法蓮華経の五字であり、日蓮花押は、宗祖が、この上行所伝妙法蓮華経の五字を口唱される姿を表すのだと思います。

2194問答迷人:2006/08/13(日) 10:35:25

「妙法蓮華経の五字」と「南無妙法蓮華経」の関係について

「妙法蓮華経の五字」は上行所伝の、神力品の結要付属の正体。この、「妙法蓮華経の五字」に南無し奉るという意図をもって、南無妙法蓮華経と口唱する数秒間の、行者の刹那の心、ひと思いの心(一念)。この一念を南無妙法蓮華経と言い、この南無妙法蓮華経の一念に十界三千が具わる、というのが、宗祖の教えられた事行の一念三千なのだと考えています。

2195今川元真:2006/08/13(日) 10:36:52
法の形を人物で無くて蓮に例えたと見て良いのか云々。植物に例える事で諸法無我・諸行無常・涅槃寂静を示したと言うべきか云々。

2196犀角独歩:2006/08/13(日) 19:32:16

水を差すようで恐縮ですが、花押は、日蓮ご本人が確かにこれ(漫荼羅)を図したこと示す証なのであって、それが唱題する姿であるとか、こちらを向いている・背を向けているなどという意図で記したものではないという見解も付加されて然るべきであろうと存じます。

なお、現石山の言い分は中世以降に定着したものであり、日興已来のものでないことは既に議論を畢えています。また、御儀口伝が、その名称を『就注法華経御義口伝』(注法華経に就いての御義口伝)と言いながら、実際は、注法華経と脈絡がないこと(山中研究)、さらに、その口伝を弘安元年としながら「六老僧」という語彙が見られること(この記述は、石山、学会版では削除されている)、しかし、本弟子六人の選定は弘安五年であるので時系列が一致しないのみならず、当初の選定段階で「六老僧」という呼称もなかったことなどからして、この文書を以て、日蓮日興已来の血脈を論じることは、議論としては破綻している点もまた既に論じてきたことでした。

以上のような、過去の議論の積み重ねを覆すのであれば、それなりの挙証があって然るべきです。原石山の老僧が何を言ったところで、日蓮日興の教学と伝承の証明とはならない点を、指摘しなければなりません。

ただし、以上の点は、紳士的な道義から申し上げることで、問答さんのご賢察、また、大縫さんの石山歴代曼荼羅研究を穢す意図はないことは申し添えるものです。

2197れん:2006/08/13(日) 20:45:43
問答さん・大縫さん。
貴重なお話謹んで拝聴いたしました。大縫さんのおっしゃる興門長老とは、文脈から、恐らく石山以外の日興門流の老僧の方のお話と拝察致します。興門長老の方のご意見から、ふと、日順雑集の「戒定慧と下る事は仏法修行の儀式なり、定戒慧と下るは説法の儀式なり」を思い出し、前者を漫荼羅の日蓮御判に、後者を御影にあてて考えてみましたが、やはり、原初的には独歩さんが仰る以上の意味は無かったものと思います。
先日の松山師の法華経講義の休憩の時に、松山師が澁澤師に蓮師の上行自覚の有無について質問されておられました。私は個人的には、蓮師の上行自覚があったかもしれないことを示す蓮師真筆は万年救護本尊しかなく、蓮師としてはむしろ「不軽の跡を紹継する」(聖人知三世事)御自覚の方が佐渡期身延期を通じて強かったものと思っております。

2198問答迷人:2006/08/13(日) 21:47:50

犀角独歩さん

御叱責、尤もであると存じます。

れんさん

ご指摘尤もだと存じます。

ここはつぶやきスレッドなので、簡単に思うところを述べさせていただきます。

一、曼荼羅に認められている「妙法蓮華経」という文字は、法華経の経題であり、神力品に於いて上行菩薩が代表として釈尊から付属された要法であるとして蓮祖が教えられる所の「妙法蓮華経の五字」だと言う事。

二、この、上行所伝の「妙法蓮華経の五字」に南無する、という意義を以って、蓮祖が「南無妙法蓮華経」と口に唱える修行方法を自らも唱え、他にも唱える事を広められた事。

この二つは動かないと思っています。この二点を前提に考えるとき、大縫さんが教えてくださった興門の古老のお話は、誠に合点が行くと僕は思ったわけです。これは、過去、既に議論されてきた事を蒸し返しているのでは無く、曼荼羅を蓮祖がどのような目的で表したのか、それを探る意味合いなのです。

又、蓮祖に上行菩薩の自覚が有ったか無かったか、大変難しい問題ですが、事実としては、釈尊が上行菩薩に付属した「妙法蓮華経の五字」を蓮祖が口唱し、他をも口唱させ、又、曼荼羅に認めて信徒に授与したのは紛れも無い事実だと思います。もし、蓮祖に上行菩薩の自覚が全く無かったとしたら、なぜそのような越権ともむ取れる行為に及んだのか、説明が付かないのではないかと思います。大いに疑問が残るわけです。

僕としては、結論を急ぐ気持ちは全く有りません。ただ、蓮祖が如何なる目的で曼荼羅を表したのか、何としても知りたいものだと思うばかりです。まぁ、そういう意味で、日頃考えてきた愚案を少しばかりつぶやかせて戴きました。ご賢察賜れば幸いです。

2199問答迷人:2006/08/13(日) 21:51:17

訂正です

× 越権ともむ取れる行為
○ 越権とも取れる行為

2200大縫 薫:2006/08/13(日) 22:16:47
現日蓮本宗の宗務総長は興門全体の歴史・教学・伝統などすべてに精通していて
興門の論客としてもかなり有名な方だと聞いていますので、現在と往古の違いを
お伺いして見たいと思います。

2201犀角独歩:2006/08/14(月) 08:47:41

問答名人さん

「叱責」など、恐れ多いところです。
曾て、「塔中妙法蓮華経」につき、わたしが、この一節は、法華経典を指すのではないかという見解を示したとき、五字である点をご教示くださった点を、いまも有り難く存じております。その後、考えを改め、本尊抄の文意は、五字である点に、考えを改めさせていただいたものでした。

> 既に議論されてきた事を蒸し返しているのでは無く、曼荼羅を蓮祖がどのような目的で表したのか、それを探る意味合い

なるほど。御意、理解いたしました。

今回の漫荼羅図示の祖意、また、上行自覚については、わたしも興味を懐く点です。真蹟遺文から拝する限り、れんさんもご投稿と、わたしも同様の見解を懐いてまいりました。しかし、仰るとおり、祖師ほどの方がその自覚が無く、しかも、「越権」、僭称とも非難されかねない行為をするとは考えづらいとのご賢察、しかしながら、れんさんのご賢察と相反し、しかし、両意共に、確かに傾聴に値します。

仰せのとおり、早々に答えが出す用はないこと、わたしもお邪魔させていただきながら、愚慮愚見をさらに重ねてまいる所存でございます。また、こちらは、つぶやきですので、適宜なスレッドに宛て、議論もさせていただければと存じます。

2202今川元真:2006/08/17(木) 12:25:45
■名誉会長史の決定版?が出るらしいですね。 ■私の視点論点問題点で出すなら【学会広宣流布・原理主義と過激主義の狭間】《富士興門流変遷、魔障罠法主本仏論》身延・天台密教(四箇格言)法華一乗、富士・漫荼羅正意論[題目・本尊・戒壇]≒シャクソン≒皆成仏道(三証四悉檀)戒壇堂、獄中悟達は華厳式?、空識縁起で偉と卑は無い、皆成仏道で本仏もしんにょう亦仏も無い、肉食妻帯で出家も在家も無い等で書きたいです。

2203れん:2006/08/18(金) 18:22:48
問答さん
>2198
蓮祖の佐渡期の著述である顕仏未来記に「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意之同じ」とあり、威音王仏の像法の末の不軽菩薩の「我深敬…」の二十四字と題目五字の口唱の意味・意義が同一であることが示されております。身延初期の法花取要抄には、不軽菩薩の二十四字と同意義とされた題目五字が「所謂上行菩薩所伝」と明記されるにいたりました。ですから、上記遺文の記述から、蓮師の不軽菩薩の自覚と上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字の口唱は一応の関連性が有るのではないかと愚考はしております。とはいえ、蓮祖はこの辺のところを体系的に著述したものを残されてないので、真相を現時点で決しきれないのが現状です。
その上、蓮祖は題目を中心とした漫荼羅の図顕をも行っておりますから、結構その関連性は複雑そうだなぁと感じております。
その意味で
>曼荼羅を蓮祖がどのような目的で表したのか、それを探る…
という、問答さんの問題意識に同感いたしております。この点につきましては、問答さんが仰る通り、結論を急がず、問答様をはじめ先学の皆様のご教示を拝聴しつつ、さらに考えていこうと存じております。

2204犀角独歩:2006/08/18(金) 23:03:19

れんさん、書き込みを拝読して改めて思ったこと。

不軽菩薩:二十四文字=日蓮:題目五字

が、まったく同じであると日蓮が考えていたとしたら、二十四文字の法華経と題目の五字が、意が同じであるばかりではなく、不軽が菩薩であれば、日蓮もまた菩薩の意であるという点もまったく同じだと言うことなのでしょうね。

日蓮が自身菩薩の自覚があったとしても、しかし、不軽=上行とはならないことは、法華経典で記述される不軽と上行の相違から言えるのだろうとも思えました。

2205れん:2006/08/19(土) 19:12:35
犀角独歩さん
2204
>不軽が菩薩であれば、日蓮も又菩薩の意であるという点もまったく同じ…日蓮が自身菩薩の自覚があったとしても、しかし、不軽=上行とはならない…法華経典で記述される不軽と上行の相違から言える…
私も、真蹟遺文から、基本的にそのように思います。蓮師自身は真言諸宗違目に「法花経の外の諸経の大菩薩は、法花の名字即の凡夫より下れり」と書き、自らも顕仏未来記に「日蓮は名字の凡夫なり」と自身を定位しました。この蓮師の名字即の凡夫の意識と、蓮師の「日蓮即ち不軽菩薩為るべし」(寺泊御書)「日蓮は是れ法花経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」(聖人知三世事)と表明される“不軽菩薩の自覚”がどのようにつながるのか、この点についても、残念ながら蓮師は体系化した著述を残されていないので、今一つはっきりしません。この点につきましても、犀角独歩さんをはじめ、諸賢の皆様のご意見を拝聴させて戴ければ幸甚です。

2206エン:2006/08/22(火) 22:52:41
ここでよろしいでしょうか。
私は日蓮正宗系信心を続けて、結局組織的な理由から続行不可能になり現在無所属です。
実はかつて母親の臨終の際に日蓮聖人(どうお呼びすればいいのかわからず、こうお呼びさせて頂きます)の仰られたお題目を唱えた際、
母親が一瞬蘇生した事があり、それ以来お題目には力がある、と思ってきました。
現在は組織的な活動などはしたくないので、別段取り込んではいないのですが、他にもお題目で到底人知では乗り越えられない、或いは及ばない事が実現できてしまった、と思う経験があるんです。
宗派とかそうゆうのは抜いて考えた上で、お題目には力がないのでしょうか? 自分のただの気持ち次第の結果なのだろうか? と考える事もあります。
例えば 日本では念仏とか般若心経とかもありますが、そういったものはその人の「心の拠り所」というものだけなのでしょうか。
その点、どなたか御教示お願いしたく書き込みました。

例えばこんな例を私は目の前で見た事があります。(嘘偽りはありません)
ある日、私の会社にα波を調査しにきた方が来ました。
その人は会社のただの社員、中枢幹部、役員といった方達を全て対象にして、それぞれの責任能力や仕事に対する情熱を調査に来た、という名目でした。
そのうち、会社の2割がα波をよく出す人で、営業の人や或いは企画といった部署に務めている人に多く出る傾向にある、という結果が出たんです。
ところが、翌日その調査員から私だけが呼ばれ、「君は調査の際に一体何を考えていましたか?」と突然聞かれたのです。
調査員の質問はだいたい次のようなものでした。
・あなたの理想を思い浮かべて下さい。
・あなたが憎んでいる人を思い浮かべて下さい。
・あなたが「こうなったら幸せだ」という夢を描いて下さい
・あなたが「こんな事態になるのは絶対に嫌だ」というのを考えてみて下さい

などです。

2207エン:2006/08/22(火) 23:00:43
その時、私は正直に言って何も考えられず、最初に説明されていた、α波というものは人を成長させたり、能力を引き伸ばす力がある、という知識だけしかなく、どんなことを考えればいいのかも思い浮かばず、
ただお題目を繰り返し、頭の中で唱えていたのです。
すると、その調査員が聞いてきたのは「あなたは一体何を私の質問に対して考えていたのですか?」というものでした。
私は何に対してもお題目だけを頭に思い浮かべていたので、「ちょっと別のことを・・・」と濁していると、
「その内容を教えて下さい。あなたのα波は異常な高値を示していました」といわれたのです。
私が考えていた事すら知らない人が、私の脳みその中身を知るはずもなく、だからといって他の人も同じような結果が必ず出るとは思っていません。
ですが、私には衝撃でした。
母のことといい、調査の人の戸惑いといい、少なくともお題目には何かあるのではないか、と思ってしまい、それは今でも続いています。

指しよろしくお願いしますにお断りしたとおり、団体には興味がないのですが、お題目の凄さだけはこういった経験から否定する気にもなれません。
だから「ただの心の拠り所」だけではないような気がして、何か判断材料になるような論拠をお持ちの方がいらっしゃればご意見をお伺いしたく書き込みしました。
突然、ご迷惑をおかけいたしました。

2208問答迷人:2006/08/23(水) 20:41:34

エンさん 今日は

>少なくともお題目には何かあるのではないか

僕も、そう思うからこそ、創価学会を辞め、法華講も辞め、しかも、今なお、一日一時間の唱題に取り組んでいます。

過去の信仰体験が、唱題を続けさせているのだと思います。僕の個人的体験に付いては、過去、当掲示板に幾度か書き込みましたので、繰り返しませんが、不思議な力が有るに違いない、という想いには、抜き差しならぬものが有ります。

お答えにはなりませんが、ご参考までに申し述べました。

2209パンナコッタ:2006/08/23(水) 23:27:47
α波の調査という物が具体的にどういった物なのかは、わかりませんけど一般的に勘違いしやすい事を
参考までに。

『アルファ波というのは特殊な脳波ではなく、目を閉じて安静にしているだけで、誰でも発生するものなのである。
 そもそも脳波というのは、脳の活動の「結果」として発生するものである。
つまり、「リラックスするとアルファ波が出る」のに、多くの人は「アルファ波が発生したらリラックスする」
というように、原因と結果を混同してしまっているのだ(風邪をひいた結果としてくしゃみが出ることがあるが、
「くしゃみをすれば風邪をひく」という理屈には決してならない)』
  トンデモ本の逆襲 山本弘・タキオン&オカルト通販生活カタログより引用

エンさんにとって題目を唱える事は、効果的に安息を得られる物とお見受けします。

2210kuusan:2006/08/24(木) 01:39:07
はじめての書き込みにて失礼いたします 
1975年頃に学会を機縁として、信心を始めた者です
皆様の博識ある書き込み感心し興味深くこの掲示板を拝見しております
私も「唱題」はいまだ実感として元気が出ますし
不思議感覚の体験は健在です

唱題は発声とリズム、日常生活では無い深い呼吸法
合掌の姿勢の安定ある集中
自己催眠.気功.アルファ波f/1ゆらぎ等も取り入れたかのような
とても理に適った行法に思えます
更に鈴の音、香 も心地よくさせる物で
心理上に良い効果を用いてますね
唱題はモンゴルのホーミのような超音波も含まれていますね
共鳴する何かを呼び覚ます効果もあるのではと思ってます

ちなみに超音波や脳波測定器も所有してます

2211犀角独歩:2006/08/24(木) 17:32:36

記上の話題は、以下の研究を視野に入れたほうがよいでしょうね。

影山教俊師『修行による変性意識状態の誘導の比較について』坐禅と読経時の脳波と心拍数の比較から

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_037.htm

2212年金160万無職者:2006/08/25(金) 17:54:47
 横からゴメン下さいませ。 さて、昨年末NHK特集で「独居老人の孤独死と常盤台団地」、が放映されました。
 人知れず「孤独死」を余儀なくされましたかたがたを、何とかしようとNPO(自主的町内会)の方が巡回・個別相談を開始していました、、。
 
 このような「現代版のウバステ山=弱者イジメ」、、が現在・進行形で現存とは、、!!
 自殺者が三万人/年が数年も継続した今になって「、、失敗しても再チャレンジの時代、?」、を掲げる方もございますが、、何を、、今更、、トホホ、、、。
 どーも、、現今は、、何かが、、???、、が、、欠落して、、勝ち組だけが、、謳歌する時代なのでしょうか、??  この辺で、、「弱者からの、、逆襲、、??」、、にご期待は可能、、でしょうか、、??

2213真実知求者:2006/08/28(月) 19:19:31
 横レスゴメン、、。 昨今は諸般に渡り、ナカナカ厳しい世の中と、存じます。
 直近の報道記事には「、、老人夫婦が認知症状の連れ合いを殺し、本人も自殺、、」、、「、児童へのイジメ・虐待問題、老人への介護限界からの老人虐待、、」、、などなど、には言葉も御座いません。
最近の近隣でも、異臭とウジ虫が見える、という新聞配達の方の通報で警官が入室したところ「独居老人の孤独死」が判明。 すぐさま役所福祉員がきて、何食わぬ顔で白い袋に死体を放り込みました。
 人生さいごの最大的な儀式の葬式も無く、、あとは、斎場〜無縁墓地へのお決まりの「現代版姥捨て山」、、が現存中、、です。 勝ち組だけがイバッテいる今は、いかがなものでしょうか、? トホホ、、。

2214今川元真:2006/08/29(火) 10:36:51
勝ち組も負け組も浅深高低ありますから、気落ちする考え方は止めましょう。21世紀の日本が地盤沈下しない為には、技術立国・観光立国・人材立国に改善できるかにかかっていると考えます。でも借金大国ですから、自由主義の名の下にピラミッド型差別社会に移行するのは免れ無いかもしれません。

2215犀角独歩:2006/08/29(火) 12:04:46

れんさん、有り難うございます。
御筆の複製、たしかに、やむを得ないというところですね。
しかし、複製が複製であることをしっかり明示する矜持が望まれますね。

それにしても、通りすがりさんがいう石山初信者向けは日興漫荼羅というのは、日顕さんの説法、ひいては石山本尊「奉書写之」がまるで嘘であることを物語っていますね。
もちろん、仰るように日興上人は日蓮聖人の漫荼羅を書写したわけですから、書写の書写と言えますが、これはしかし、書写とは違います。書写が第二転であれば、書写の書写は第三転ですから。さらに日興書写本尊を書写したと言いながら、実際のところ、種々相貌の相違があるわけですから、そのたびごとに違う原本を書写しているのか??という新たな突っ込みも可能となります。

わたしは曼荼羅書写は、その用途によって、各内容が変化して然りであると思っていますから、石山の言うような通り一遍の屁理屈は、そもそも美を尽くさないと思うわけです。


一真法界さん、はじめまして。

> どのような、ご本尊を拝んでおられるのでしょうか

わたしは、そもそも漫荼羅が本尊であるという点に、疑義を立ててきました。
本尊抄に拠れば、本尊は久遠五百塵点成道の本師釈迦牟尼仏であり、本尊問答抄に拠れば、法華経の題目ということになるでしょう。しかし、そののちの解釈(門派教学)でいわれるように釈迦=題目=漫荼羅という図式は、祖師に遡源できないとわたしは考えています。


彰往考来さん、有り難うございました。

大量印刷用に使用する紙でしょうから、和紙風であっても、和紙ではないでしょうね。本物の和紙であれば、布地の模様のカラープリントなど出来るはずはありませんか。
かつて、創価学会は、身延の売店で漫荼羅が売られていることを非難しましたが、その創価学会が(分離独立したわけですから石山は)他宗の漫荼羅を勝手にコピー、大量印刷し、さらに携帯本尊という、本来、御守とされてきた相貌とは違う仏壇安置用本尊の縮小版をプラスチックのケースに入れて販売したりする様は、まさに本尊雑乱の有様ですね。
おまけにいま販売の印刷本尊は、石山貸下とはサイズを変えて、仏壇を買い換えを余儀なくされる販売効果もねらっているそうですが、この点は、どうでしょうか。

わたしからすれば、身延の売店の本尊のほうが、よほど、ましに見えます。
ただし、漫荼羅は、やはり、墨書きの原本を、僧侶に書いてもらったものは、印刷とは比較になりませんね。

2216彰往考来:2006/08/29(火) 12:40:02

>2214 21世紀の日本が地盤沈下しない為には、技術立国・観光立国・人材立国に改善できるか

まあ、ここはつぶやきですから、反論権はないので、つぶやきです。ブツブツ。

『技術立国に改善できるか』ということは、現在は技術立国ではないという意味になる。
ン? 日本は世界でも有数な技術大国なんだけどな。ブツブツ。
文部科学省のアホな政策のため、学生のレベルが地に落ちているということダヨ、と言う意味ならわかる。でもそれなら『技術立国に改善できるか』ではなく『教育立国に改善できるか』ということダロウ。

2218彰往考来:2006/08/29(火) 12:48:42

>2215 布地の模様のカラープリント

犀角独歩さん
学会版寛師の特別御形木御本尊は布地の模様のカラープリントではなく白地です。
よって、和紙なのか和紙風なのかは眼でみただけではわかりませんね。
実は学会版寛師の御形木御本尊をしげしげとみたことがないのですよ、興味がなくて。
御形木御本尊が布地の模様のカラープリントとすれば、和紙ではありませんね。表装していないわけです。
それに対して寛師の特別御形木御本尊は表装してあります。

2219犀角独歩:2006/08/29(火) 14:20:57

彰往考来さん

先に、投稿するところを間違えたのですが、行きがかり上、ここで続けます。

わたしが記したのは、学会の印刷本尊は、もちろん‘白地’の紙に日寛の文字と本来、織布で表装してあるところに、布模様がカラーでプリントされているのではないかということです。

要は、いちばん高価な携帯小型版がプラスチックケース入りで、次が布模様ごと印刷の1枚プリント、特別版は、それでも表装してあり、文字の部分だけが和紙か・和紙風の、白地用紙に印刷し、表装はしてある大型ということですね。

なお、わたしも、もとよりこんなものを本尊として興味を懐いているわけではありません。むしろ、こんなものを、よくぞまあ、本尊として、拝むものだと呆れているといったほうが合っています。

もし、鎌倉時代にいまのような印刷技術があり、日蓮、日興が大量に印刷したものを本尊と称して頒布したら、いまの時代まで、その高名が残ることはなかったでしょうね。学会本尊は、わたしの正直な感想を述べれば、そんな愚考と映じます。まあ、つぶやきということにしておきます。

2220彰往考来:2006/08/29(火) 17:25:37

犀角独歩さん

>2219 要は、いちばん高価な携帯小型版がプラスチックケース入りで、次が布模様ごと印刷の1枚プリント、特別版は、それでも表装してあり、文字の部分だけが和紙か・和紙風の、白地用紙に印刷し、表装はしてある大型ということですね。

そいうことですが、携帯御本尊がプラスチックケース入りだったか記憶にありません。うろ覚えなので確認が必要ですが本体がプラスチック製で開く形になっていると思いました。だからケースなしで持っていた気がするんですよ。ケースは別売りでしょうか。携帯御本尊が手元にないので(親の家にあります)ついでの時に確認しておきます。

2221独学徒:2006/08/29(火) 22:17:34

犀角独歩さん、
彰往考来さん、

実は私、プラスチック製の携帯ミニ日寛曼荼羅を持っています。
次回、オフ会等があった場合、持参したいと思います。
確かに5,000円を払った記憶があります。

伝特別御形木の絹本日寛曼荼羅もあります。
こちらは10,000円で、プラスチック製携帯ミニ日寛曼荼羅の倍の値段です。
こちらは家族が信仰の対象としていますので、持ち出すことは厳しいと思いますが、今度家族が寝静まったころにじっくりと観察してみます。

伝特別御形木絹本日寛曼荼羅は、遠目で見る限りでは比較的きれいにできていると思います。

私の実家は、メイドイン法道院と噂される初代伝御形木日寛曼荼羅で、叔母の家は今でも顕師曼荼羅です。
これらは紙本表装で、掛軸業界では所謂「仮巻き」といわれる状態です。
仮本尊だからでしょうか?

私が個人的に、某興門寺院より授与いただいた書写曼荼羅は、未表装状態の曼荼羅部分のみでした。
表装は自分で表具店に持ち込み行ってもらいました。

石山の信徒さんには、仮本尊(紙本表装)から変わるのは「常住御本尊」で、この「常住御本尊」には二種類あって、時の法主上人猊下の直筆曼荼羅、もしくは時の法主上人猊下の板曼荼羅(板に墨書したものではなく彫刻されたもの)であると聞きました。
これはあくまでも聞いた話ですので、信憑性はいかがなものかと思います。

たしかに聖僧無き現代ではありますが、書写曼荼羅も良いものだと個人的には感じます。但し基本的には巻いた状態で桐の箱にしまったままです。
仏壇などに安置して、毎日拝むという感じではないです。
基本的には私は不信心で、勤行等はここ数年していませんので、このような感覚なのかもしれません。

不信心な私が言うのもなんですが、本尊は無くても良いような気がするのですがどうなんでしょう。
私は家に帰ってきてから仏壇に向かうことはここ数年なくなってしまいましたが、日々の生活の中で「かわいそうだな」と思うことや、大変なことに直面した時、自分では何もしてあげられない時などは心の中で題目を唱えます。

しかし敢て本尊を曼荼羅の中から選定するのなら、れんさんも仰られていますが、宗祖曼荼羅の複製版が最も良いのではないかと思います。
その意味では、日蓮宗が宗定本尊としている曼荼羅は、最も妥当なのではないかと思います。

2222ラキ:2006/08/30(水) 01:26:48
つぶやきです〜・・・・・( ̄。 ̄ )ボソ...
私が知ってる範囲で、日顕上人の常住御本尊は、直筆曼荼羅から板彫刻に取り替えた方が居ます。
寺院でも直筆曼荼羅から、同じ用に板彫刻に代えてある所もあります。
日顕上人の代で板彫刻曼荼羅になったのか、詳しい経緯は聞いていませんが、何故なんだろうと考えてしまいます。

2223藤川一郎:2006/09/01(金) 12:58:55
>>口悪く言えば「ゲスト」に、総講頭を命じ、本末を挙げての慶讃委員長を命じたのですか。日達さんは池田さんを「現代の維摩居士」とまで言ったわけでしょう。

ふと別スレの独歩さんの上記文章を読んでいて、創価学会って確かにかわいそうな扱いだったんだなと思ったので、つぶやきを・・・。

達師は「現代の維摩居士」と口では言ってくれるのに、何で俺達はゲスト扱いなんだ?
大石寺正式信徒の代表である“総代”のはるかに下にさせられ、大法要では、総代は内陣に入れるのに、外陣で有象無象の信徒と一緒に扱われ、大檀那として扱わず、本来大した役職も無い信徒が命じられるべき“慶讃委員長”という名誉職でお茶を濁された。
自分らは、現代の有徳王のつもりでいるのにその象徴である「太刀持ち役」すらさせてくれない。
俺達(池田さんたち)が最後まで納得いかなかったのは、この扱いだったんだ。
以上が彼らの本音でしょう(笑)。確かに不満は感じるでしょうね。

2224真実知求者:2006/09/02(土) 20:57:40
  気になる点です。 ツブヤカセて下さい。
 今、ロクに葬式もされずに、白い袋にに無造作に放り込まれて、一人寂しく、?、、無縁墓地に埋葬される方が、、少なく有りません。
  菩提寺を持たない現今の方方の「、、弱みを見事に、巧みに利用、?、、」、、した寺院があります、。 大阪・天王寺区の「一心寺」です。
  そこでは檀家からの「お骨」をマゼすり合わせて「日蓮様が堕地獄の主因と喝破された阿弥陀佛(浄土宗)に似せてセメントと合成しながら似非の仏を作り、大衆の支持を受け、経済的にもすごいようです。(日経新聞8月20日、大阪の「御骨佛」、)
 ナカナカのアイデア・マンの建築家あがりの住職の御発想のようです、?
  今後は、これをマネして、お骨の始末・処置に苦慮する寺院らが、、「、、その残骨を活用して、セメント合成の題目の本尊作成も視野、?」、、かも、、??
  これはマジに懸念と検討も、?、、でしょうか、!怖い時代、、かも、、?

2225孤独な迷子:2006/09/03(日) 06:07:11
>>2224
真実知求者さん、はじめまして。

宗教もビジネスの手段、金のためなら何でもあり、というところでしょうか?

2226藤川一郎:2006/09/07(木) 13:36:27
いよいよ、安部普三氏が総理大臣になりそうですね。
彼は、今年の統一教会の合同結婚式に祝電を送ったそうですね。
彼と統一教会の関係は、おじいさんの岸信介氏以来ですかね(岸信介氏と統一教会系の政治結社国際勝共連合の関係は有名)。

自民党の支持母体=統一教会(国際勝共連合)
公明党の支持母体=創価学会

そんなこと無いか(笑)。

2227藤川一郎:2006/09/07(木) 13:42:49
(つづき)
岸信介氏が文鮮明氏を弁護した文書

親愛なる大統領閣下
 本日私たちは恐らく前例がないと思われる憂える米国民および世界市民の集まりとして、閣下にこの書状をしたためております。この集まりは、特に報道・通信分野で活動する者たちを代表しています。(中略)
 「教会と国家」の問題はあまりにも数多くありますが、その中で閣下に書き送るという点で、私たちが一致した問題は、合衆国と文鮮明師との間の訴訟です。私たちは文鮮明師を弁護する必要も、文師の教会を支持する必要もないのです。私たちの伝統が、すなわち万民に対し自由と正義を認めるという遺産が、文師にも同様に与えられるべきであるという、強い信念のゆえの行動なのです。
 文師は米国で評判のいい人物ではありません。彼は強固な反共の立場を取り、同時に伝統的な価値観をはっきりと擁護しました。多くの人々がこれらの価値観を嘲笑している時にです。このような文師とその教会の人気のなさにもかかわらず、文師の訴訟は、事実上キリスト教会全体から支援されただけでなく、米国の主な公民権擁護団体の多数から支持されました。
 歴史上の主な宗教指導者が皆そうであったように、文師は今、迫害のただ中にいます。文師は誰かの助けがあってもなくても、最終的にはこの期間を乗り越えて、神の真の人として認められるようになるだろうと思います。しかし、精神的、物質的再復興という神から与えられたこの国の使命にとって、今世紀最大の希望の灯をともしている政府の下で、このような不正が行なわれているのを見るのは痛烈な皮肉であり、悲劇です。米国は信仰と道徳と正義の善なる手本を自ら示すことで、世界を導いていくという使命を担っているのです。
 「宗教の自由」が、米国で保障されている自由の根幹を成していることを考えると、「宗教の自由」が侵害されているのを見ることは、実に恐るべきことであります。文師の裁判では、文師を支援する書状が、米国でも著名な人々や、主流教会をはじめ3人の州検事総長を含む40の主要団体、個人から合衆国最高裁宛に提出されました。最高裁史上、これほど多くの支援が寄せられた人はいないのですが、それでもなお、最高裁は審理することさえ拒否したのです。
 300万人近い人々の宗教指導者で国際的にも認められている人物が、このような状況下で米国の刑務所に投獄されていることは私たちにとって非常に気がかりです。大統領閣下、私たちは「宗教の自由」および「言論の自由」を保障した米国憲法修正第一条に基づいて、閣下が直ちに過ちを是正する行動を取るようお勧めするものであります。文師を引続き投獄しておくことは、国家にとっても何ら利益になりません。私たちは閣下がこの問題に注意を向けてくださるようお願いするものであります。
敬具
岸信介 元・日本国総理
ダグラス・マッカーサー2世 元・駐日大使
ジャック・スーステル博士 元・フランス副首相

2228彰往考来:2006/09/08(金) 18:23:33

「撃壌歌(げきじょうか)」

日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力于我何有哉

日出でて作り
日入りてやすむ
井を鑿ちて飲み
田を耕して食らう
低力われに何かあらん

太陽がのぼれば耕作し
太陽がしずめば休む
井戸を掘って水を飲み
田を耕してご飯を食べる
帝の権力?私には何の関係もない

本郷和人『人物を読む 日本中世史』2006年、講談社、62頁より、

2229彰往考来:2006/09/08(金) 18:26:00

>2228 誤記訂正

誤:低力われに何かあらん
正:帝力われに何かあらん

失礼いたしました。(彰往考来)

2230独学徒:2006/09/20(水) 22:35:05

公明党元委員長で総務庁長官をつとめられました石田幸四郎さんが、突発性肺繊維症の為18日にお亡くなりになったそうです。
ご冥福をお祈りします。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060919-00000007-maip-peo

2231鳥辺野:2006/09/21(木) 21:06:53
皆さんお久しぶりでございます。2005年5月「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」でお世話になりました鳥辺野でございます。
以前から大変気になっている事を一点挙げさせていただきます。現在小泉久遠寺に奉安されている御影尊は確か明治十三年十一月九日の
大火で焼失してしまった旧御影尊に替わって安置された物なのですが、私が所蔵しています「大石寺をめぐる史跡と伝説」(郷土出版社
緑星社刊 著者 富士 宗四郎 初版1973年9月1日)七六頁によると「九州から戻された由緒ある祖師像」と写真入りで掲載され
ております。本文七五〜七七ページにも「なお当寺の火災後、ただちに九州本善寺から古い由緒ある祖師像が送られたことを報告してお
く。」とあります。九州本善寺といえば石山の末寺ですが元々郷門の寺院で日郷師の弟子日叡師が建武二(1335)年に開山した寺院
です。この事と何か関係があるのでしょうか?どなたかご存知の方はおられますか?

>2230 石田氏亡くなられましたか。ご冥福をお祈りします。

2232鳥辺野:2006/09/21(木) 21:09:46
>2231行がずれました。失礼致しました。

2233独学徒:2006/09/21(木) 22:17:47

鳥辺野さん、はじめまして独学徒と申します。
旧本門宗の時代には、保田妙本寺と小泉久遠寺は郷門の中心寺院でしたので、明治期に本善寺から小泉久遠寺に御影の奉納があっても不思議ではないと思います。
むしろ日向定善寺や日向七ヶ寺・保田妙本寺などが、戦後日蓮正宗に移行したことのほうが不思議な出来事であったのかもしれません。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Temple/Kyushu/honzenji.jpg

2234鳥辺野:2006/09/21(木) 22:59:49
2233 独学徒さん
>戦後日蓮正宗に移行したことのほうが不思議な出来事
はじめまして。そうですよね。現在の妙本寺に関しましては小泉久遠寺や伊豆の實成寺、北山本門寺とも仲良くされています。特に執事さんは「久遠寺とは親戚のようなものですよ」とおっしゃっていた事が印象に残っています。

2235国旗国歌強制は違憲:2006/09/22(金) 07:01:39
>戦後日蓮正宗に移行したことのほうが不思議

創価の財力がおいしそうに見えたのでは。

2236賞味期限ゼロ:2006/09/22(金) 19:11:29
、、、2235サン。 失礼します。
 >、、おいしそうに、、。
 グサリと核心を突いています。  我々は所詮はカネとその他の力には、トホホ、、ですか、、。
 誠に情けない次第では御座います。
 アノ鎌倉時代にカネと力に対して、、?を感じて、全力・全誠心で命を投げ打って立ち上がった方= 
こそ日蓮さま、と存じます。  その末裔を繋ぎたいならば、いまは、?、、が求められていますでしょう、?
 とっくの昔に賞味期限が切れている団体さまも散見されます。(「創価の実力」島田教授、「FORUM21]9:15号)
 今後もダマシのテクニックが闊歩するでしょうが。 それを見破る眼力の養成に今こそアイ勤めたく思いますが、、。

2237通りすがり:2006/09/22(金) 21:10:28
賞味期限ゼロさんは、たびたびネームを変えて書き込みされていますね。
???、、、ばかりの珍しい書き方は、あなたしかいません。

2238不思議?:2006/09/22(金) 23:03:27
自作自演の書き込み、何が楽しいの?

2239お願いです。:2006/09/23(土) 16:02:10
>2236の方へお願い。

『、、、2235サン。 >、、おいしそうに、、。アノ鎌倉時代にカネと力に対して、、?を感じて いまは、?、、が求められていますでしょう、?』

抜粋しましたが、ひらがな、カタカナ、句読点がゴチャゴチャになってとても読みづらいのです。
公開を前提として書き込まれているのですから、出来るだけ、読む者のことも配慮して頂けないでしょうか。つぶやきというか、お願いです。

2240賞味期限ゼロ:2006/09/23(土) 17:21:08
前略。
 済みません。 全てに関しまして陳謝いたします。
 申し訳が御座いません。 反省いたします。 早々。

2241犀角独歩:2006/09/23(土) 19:37:00

反省いただくことは有り難く思います。

人間孤独なときは、人との関わりがほしくなり、されど、実際に関わるのは怖く、自問自答で、答えを導き出すこともあります。

ここはされど、挙証と論攷を、文書証拠を指し示しながら、静かに落ち着いてするところです。その趣旨に則っていただけると、場が荒れた雰囲気にならず、文字通り、落ち着いてやれます。
ご協力をお願いいたします。

2242鳥辺野:2006/09/23(土) 20:22:24
何やら私の書き込み以降荒れてしまいました。申し訳ありません。これに懲りず勉強させてください。また何かあれば、宜しくお願いいたします。

2243国旗国歌強制は違憲:2006/09/23(土) 21:32:50
2235 名前: 国旗国歌強制は違憲 は

名前:賞味期限ゼロさんとは全くの別人です 。
よって、自問自答ではありません。

書き方、内容からなんとなくどなたかわかるような気がしますが、大はずれかも。

2244犀角独歩:2006/09/23(土) 22:10:37

まあ、どうでもいいですが、管理レベルでは、IPその他から、投稿者が、HNを変えても、誰と誰が同一人物であるかはわかっています。ただ、管理人さんは、こころが大きな方ですから、そんな追及はなさらないだけですよ。ですから、わたしも、突き落とすレスはしません。

そんなことは、どうでもいいですから、実りある議論をしましょう。

2245通りすがり:2006/09/24(日) 03:23:12
私は何も荒れていないと思いますよ。
ただ非常に読みにくく、しかも毎回ハンドルネームを変えて来られる方に、
お願いと言うか、お知らせしているだけだと思います。

1人の方が毎回同じネームで投稿し、意見を述べる。
当たり前のマナーだと思いますし、読む方も混乱しないのではないでしょうか?

2246犀角独歩:2006/09/24(日) 07:44:40

通りすがりさんと、わたしでは「荒れる」という視点が、少し違うのでしょう。

ここは挙証しながら、議論を重ねる場ですから、な議論にもならず、多重ハンドルがどうの、と言い合うこと自体、すでにその段階で荒れ出していると考えます。

いずれにしても、議論に関係のないことなので、これ以上は繰り返さないことといたします。

2247鳥辺野:2006/09/24(日) 09:41:13
>2242
×これに懲りず勉強させてください。
○これに懲りず勉強研鑽してまいりますので書き込みさせてください。

2248鳥辺野:2006/09/24(日) 10:05:42
私は犀角独歩さんのホームページにてアップされている執行海秀師の論文を読んで私自身のなかにある本佛感、本尊感を180度変える事ができました。それまでは日蓮=本佛という石山教学の固定概念にとらわれて生きてきました。しかしそれはひとつの考え方(教義の解釈の違い)の問題で正しくないことがわかりました。今では一塔両尊四士は何のためらいも無く拝んでいます。自宅にも御影尊を曼荼羅の前に安置しています。執行海秀師の論文とそれをアップしてくださった犀角独歩さんに感謝しております。

2249きゃからばあ:2006/09/25(月) 09:57:10

23日、『吉田拓郎&かぐや姫 コンサート イン つま恋』に行ってきました。
拓郎ファンの私にとっては、同じ拓郎ファンの仲間と盛り上がり、忘れられない思い出となった。

平成6年、大石寺の六万総会に参加しました。
平成13年、30万総登山会に参加しました。
「あれ?何も思い出せない!」「どんな話があったっけ?」
一緒に参加した仲間は、ほとんどいなくなってしまった。
ただ『つま恋のコンサート』のチケット代の20倍以上の御供養をしたのだけは覚えている。
つまらないつぶやきでした。m(_ _)m

2250子持ちししゃも:2006/09/26(火) 01:24:16
突然失礼いたします。
全く関係のない家族での出来事なのですが、私には少し尾を引くことでしたので書き込んでみます。
私は日蓮正宗系の信仰でいうと家系的には私が初代(笑)となるのですが、今の考えは組織から完全に離脱していて、むしろ否定的ですらあるのですが、
この前、自分の子供と話している時も、子供の矛盾する言動に対して理屈をこねている私の言い方が、どこか私の最も拒む正宗系の詰め方になっている事に気付きました。
子供への対応の問題ではなく、どこかで自分は既に忘れ去ってしまったと思っている考え方に影響を及ぼしているのでしょうか。
それとも自身に対する警戒のし過ぎなんだろうか。
そんなことをつい思ってしまいました。

たわいもない話ですみません。

2251犀角独歩:2006/09/26(火) 08:21:21

2248 鳥辺野さん、はじめまして。

> 執行海秀師の論文

秀逸な論文であると、わたしも目から鱗が落ちる思いをなしたものでした。対して、石山は50年経っても、何ら進歩するところがなく、嘘を繰り返しています。破門になって古文書を研究する人々は、その識読能力で門下一般に重宝がられ、「先生」と呼ばれたりもしていますが、その人たちがいない場では、「結局、板マンダラと日蓮本仏論を捨てられないんだ」と嘲り笑われている現場を、何度か目の当たりにし、「だから、石山彫刻本尊と日蓮本仏論に決着をつけておけばよいものを」と同情もしました。

さて、わたしは、漫荼羅ばかりではなく、仏像も好きです。文字による図示では表現できない面を有しているからです。もちろん、字像漫荼羅も仏像では表現できない世界を有しています。どちらか一方を採るという考えは偏ったものであると映じます。

ところで、挙げられた「一塔両尊四士」は、通常、首題が記された塔の形を採ることが多いようですが、『本尊抄』の意からすれば「塔中」とすべきところ、同じく、四士は二尊と同じ面を向いていますが、実際は、拝観者に背を向けて、首題と二尊が収まる塔を向かうか、もしくは東西南北に位置し、塔に向いているはずですが、そうはなっていません。ここら辺が仏像奉安上の限界と言ったところですね。まして、「有七宝塔…住在空中」ですから、浮かんでいなければなりませんが、塔は地に着いています。

漫荼羅では、弘安2年10月頃は首題が小さく書かれ、「日蓮花押」と間が大きく開いているために、恰も空中に浮かんでいるような印象を懐かせます。実際、日蓮聖人がそのような意図を持っていたかはわかりませんが、このような表現は、字像、絵像ならでは、仏像奉安では表現不可能ということになります。

「本尊」は天台初期文献には全く見られない密教の影響の反映であるわけですが、真言密教の影響から比叡山を批判しながら、漫荼羅を図し、さらに極楽往生を批判しながら、霊山往詣を語るに至る心情の推移と、末法を意識し展開するところに、鎌倉という時代の人であった一面が窺えます。

横道に逸れましたが、本尊とは「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」をいうのであって、この本尊を体(たい)と為(な)して、表すところが漫荼羅であり、諸尊仏像の奉安なのだろうというのが、わたしのなかで落着した考えです。「為体」は‘ていたらく’ではなく‘いたい’、もしくは「たいとなし」であると拝します。そして、己の心に観する本尊を「正像未有寿量仏 来入末法始此仏像可令出現歟」というのでしょう。「一閻浮提第一本尊可立此国」の‘可立’も、立つ可しではなく、「立てる可し」であろうと拝します。

以上、つぶやきということで。

2252鳥辺野:2006/09/26(火) 15:27:28
2251犀角独歩さんはじめまして。
字像漫荼羅、仏像どちらも捨てがたいですね。私も両方好きです。日尊師は上行院を起こされた頃、諸尊全体(大曼荼羅勧請全部)を仏像で造立されていた可能性が強いですね。今の富士門流もこれを見習って字像と仏像の両立を、今一度考えてもらえないかと思います。

2253鳥辺野:2006/09/26(火) 15:38:38
>2252
×可能性が強い
○可能性が高い
初歩的なミスです失礼しました。

2254犀角独歩:2006/09/26(火) 18:56:46

鳥辺野さん

HNは、京都における日目墓所ですね。尊門につき、語ることも故なきもなしと読みました。

2255鳥辺野:2006/09/26(火) 19:55:07
目師墓所の側には尊師の逆修塔があります。この逆修塔の一遍首題は日尊師の文字と言われています。要法寺客殿には本尊の隣にこの日尊師の石拓本曼荼羅が掛けてあります。生涯一度も字像曼荼羅を書写しなかったとされる、日尊師の曼荼羅を拝みたいという尊門徒の願望の現われのように私は感じました。

2256れん:2006/09/28(木) 18:24:30
仏像と字像、本来は相反するものではなく、両立するものだったと思います。
日尊師の仏像は日尹師の“遣日代上人状”によりますと「有る仁の方より安置候へとて寄進申さしめ候ひ畢ぬ、教主は立像、脇士は十大弟子にて御座候」とあって、十大弟子を脇士とする釈迦立像だったようです。日代師より日尹師への返状には心底抄と同様に「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケ大事一度に成就せしめたまうべきの由御本意なり、御本尊図は其れがためなり」と明示されて、本門の仏像の造立は広宣流布の時・本門寺建立の時とことわられています。また尊師実録には「日興上人の仰せに云く、末法は濁乱なり、三類の強敵これ有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶ふべからず、広宣流布の時分まで大漫荼羅を安置し奉るべし云々」とあって、これらの史料から富士上代では未広布時は大漫荼羅安置、本門寺建立の時、戒壇に大漫荼羅図の如く仏像造立安置だったようですね。しかしその本門寺戒壇に安置の仏像等の具体相は、富士に大漫荼羅正意・不造像不読誦義が定着してから戦国期頃にはその伝承は失われたようで、大漫荼羅正意の本尊義から石山では彫刻本尊を作成し、西山等では保田の大本尊を戒壇の本尊をしているようですね。
とりあえず、鳥野辺さんのご投稿を拝見して呟きました。

2257れん:2006/09/29(金) 10:17:01
>2256
訂正
誤)鳥野辺さん
正)鳥辺野さん
HNを間違えてしまい大変失礼いたしました。

2258鳥辺野:2006/09/29(金) 17:34:47
>2256れんさん
はじめまして。富士門流で実際に蓮祖、興師の理想的な本尊論を展開、実行した人物は、要山一三世広蔵日辰師や石山一七世日精師ではないかと思います。造仏論と字像曼荼羅の書写や彫刻等(特に精師は保田の万年救護大本尊の模刻安置)を平行して行っています。今学会ではこの造仏論を謗法と決め付け、石山ではその事実さえ闇に葬ろうとしている始末です。原点に立ち返って冷静に考えてもらいたいです。
西山の万年救護本尊と呼ばれる曼荼羅(つまり戒壇の本尊)は確か本尊集№32-2であったと記憶します。
私も、誤字脱字が多いですのでお構いなく(笑)

2259彰往考来(しょうおうこうらい):2006/09/29(金) 18:05:39

>2258 鳥辺野さん、 横レス失礼。

>西山の万年救護本尊と呼ばれる曼荼羅(つまり戒壇の本尊)は確か本尊集№32-2

西山本門寺蔵の蓮祖御本尊は32の2で間違いないですね。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/032B.html

でも西山の万年救護本尊=戒壇の本尊とおっしゃるのがよくわかりません。
ご説明願えませんか? 西山で当該本尊を万年救護本尊と称しているのは理解しています。
戒壇の本尊とおっしゃっているのは西山にある当該本尊の板漫荼羅のことでしょうか?

2260鳥辺野:2006/09/29(金) 18:23:24
>彰往考来さん
はじめまして
万年救護本尊=戒壇の本尊 失礼しました。戒壇ではなく御宮殿(重文)の本尊でしたお詫びして訂正させていただきます。

2261独学徒:2006/09/29(金) 18:55:30

横レス失礼致します。

>御宮殿(重文)の本尊

御宮殿の本尊は、日蓮聖人御影であり、板・紙幅とも曼荼羅はありません。
御宮殿の背面(御宮殿の外)には、左から日蓮聖人御影画・№32-2の彫刻・日興上人御影画・日代上人御影像となっています。
現在の本堂は旧客殿で、もともとは「左から日蓮聖人御影画・№32-2の彫刻・日興上人御影画」のみがあったと思われます。
いつかは失念しましたが、火災で三堂が焼失した際に、御影堂の本尊である御宮殿に入った日蓮聖人御影像と、開山堂の本尊である厨子に入った日代上人御影像が遷座されたものと思われます。

れんさんの仰る通り、西山でいう「戒壇の本尊」とは、現在保田妙本寺に所蔵される「万年救護本尊」の事です。

2262鳥辺野:2006/09/29(金) 19:42:07
>2261独学徒さん 御宮殿の背面(御宮殿の外)
なるほど、そうでしたか。私は現物を見たことがないもので。ありがとうございます。
れんさんのおっしゃる通りなのですね。れんさん大変失礼しました。
まだまだ私自身知っているようで知らない事だらけです。これからもみなさん御指導、ご教示ください。お願いいたします。

2263鳥辺野:2006/09/29(金) 23:28:27
ところで、別の話ですが、これは私のつぶやきということで、保田妙本寺の一四世日我師の観心本尊抄の抜書に「久遠寺の板本尊今大石寺にあり。大聖御存日の時造立なり」という文章をかつて創価学会は切り文で解釈して仏教哲学大辞典の第一巻(昭和五十年十月一二日三版)で「(日我師が)富士大石寺に大御本尊あり、との事実を、ありのままに認めている。」と宣伝していますが、これは身延山久遠寺の事ではなく私は小泉久遠寺の板本尊の事で、以前れんさんが「本門戒壇の大御本尊様の偽作説」№1409にて語られた弘安四年の板本尊について日我師は述べているのではないかと思います。つまり「(小泉)久遠寺の板本尊(の紙幅曼荼羅は)大石寺にあり(板本尊は)大聖御存日の時造立なり」とは読めないでしょうか?実際に日我師が戒壇の板本尊を本物と認めるはずは無いと思います。ただ小泉の弘安四年の板本尊の原本が本当に石山にあるのかは不明です。私は№2231の小泉の御影尊の事同様この事を考えると夜も眠れません。(少しオーバーですが・・・)皆さんはこの文章どうとらえられますか。以上つぶやきでした。

2264独学徒:2006/09/29(金) 23:56:53

鳥辺野さん、

>日我師が戒壇の板本尊を本物と認めるはずは無いと思います。

私は日我師は、論理構成には長けていたかもしれませんが、本因・百六箇の両抄を真撰として各抄に引用するなど、真偽眼はそれほど長けていなかったのではないかと考えます。
したがって、日我師が大石寺の彫刻を見て「大聖御存日の時造立なり」と錯誤する可能性は大いにありうると思います。
現代のようにパソコンもなければ写真もない時代ですので、そのようなことがあっても致し方ない時代であったのだろうと思います。

しかし写真もパソコンも大いに普及したこの世の中で、いまだに彫刻を「大聖御存日の時造立なり」と信じ込んでいる人が多いことは、大きな問題かもしれませんね。

2265鳥辺野:2006/09/30(土) 00:07:02
>2264独学徒さん
さっそくのご返事ありがとうございます。参考になりました。

2266れん:2006/09/30(土) 20:52:01
独学徒さん・鳥辺野さん
お二人のお話、なかなか興味深く拝読いたしました。私も独学徒さんのご教示により、西山における戒壇本尊=保田の万年救護と知りましたが、腑に落ちないのは西山の御開山の日代上人は仏像安置と日尹師に示しているにもかかわらず、今の西山では保田の万年救護をもって戒壇安置の“本尊”としている点です。おそらく西山では八通置状の内、元徳四年状の「日秀阿闍梨の跡並びに御筆の大本尊…」の大本尊を保田の万年救護に比定しているものと推察しますが、日我師を遡ることさ程遠くない成立と思われる撰者不明“日道六ケ謗法事”には「大聖人御筆御本尊の先師より理境坊に給わるるを横しまに押留せらるる事」とあり、理境坊日秀師にかかる蓮師御筆漫荼羅を日道師門下が“押留”したとする記録があり、とすると八通置状にある日秀師に係る“御筆大本尊”を保田の万年救護に比定するのはやや牽強付会であるかもしれないですね。ただ、何度か記しましたが、道門と郷門の係争は当時の史料によれば、行師・時師と伝師による係争であり、それぞれの門祖である道師・郷師の間に係争があったことを証する正文献はなく、本来行師・時師と伝師の係争であったのを、それぞれの門祖に係争を遡らせている“日道六ケ謗法事”は上記係争からある程度時間がたって、史実が埋もれてから、それぞれの門閥意識が高揚して係争を門祖に遡らせた設定のもとに作られているので余り文献価値が無いのですが、秀師にかかる蓮師御筆漫荼羅の伝承を考えるには一応の参考にはなります。
我師の観心本尊抄抜書ですが、この記述が確かならば石山日院師の代には彫刻が作られていたことになりますが、どうでしょうか?石山における漫荼羅正意を決定付けたのが、左京日教師の著述と思われるので、本尊抄抜書の記述が正確ならば、左京日教師以後に石山において彫刻が作成された可能性を想定することは可能です。ただ確かな石山貫首の著述で彫刻について触れるのは精師を待たねばならないので、写本のみ現存の抜書の記述をどこまで信用すればよいのか、迷いますね。
抜書を信用するとして、しかし、我師の御見識は、現在とは違い、戦国期の限られた情報の中からの判断ですので、独学徒さんの仰る通り、石山彫刻を“大聖御存日の造立”と見誤っても致し方ないと存じます。
鳥辺野さんのご指摘の、小泉蔵の弘安四年の板本尊について、私はまだ一度も拝したことはないので、よくわかりません。実見すればある程度原本を想定することは可能かもしれませんね。
以上、お二方に触発されての長い呟きでした。

2267雖念:2006/10/01(日) 09:31:57
ご無沙汰しています。

最近はネットともご無沙汰気味なのですが、最近「紅楼夢」のビデオ(中国中央電視台作)を見ていて、道教のお寺でも同じように香をたくのを見て、大変興味深く思いました。
また、三国志や水滸伝のビデオ(同)を見ていても、やたらに香を焚くシーンが多いのが気になりました。
また、変わったところでは「牡丹亭」(漢光文化事業股人分有限公司、台北、1990)を読んでいると、進士の受験生である柳夢梅が杜麗の肖像画を前にして香を焚くシーンもありました。
私は、長ずるまで仏壇でしか線香を焚いたことが無かったものですから、これらの情景には新鮮な驚きを感じました。

2268鳥辺野:2006/10/02(月) 14:19:43
>2266れんさん 貴重なお話ありがとうございます。 
行師・時師と伝師による係争  以前保田妙本寺の執事さんからも同様の回答を頂きました。又、師は「(石山彫刻)板本尊は有師が跡条条事とセットで彫刻したものと推定される。重須日浄記の原本が見つかればなー」とおっしゃっていました。私も有師彫刻説を現段階では支持しております。

2269犀角独歩:2006/10/02(月) 17:30:10

2268 鳥辺野さん

こちらの掲示板をいつ頃からロムされていたかわかりませんが、わたしは、彫刻本尊の再造説を立てています。理由は、時代資料に残る彫刻本尊の相貌が著しく異なってからです。この点は、拙書に記してあります。このわたしの仮説を受けて、皆さんも、賛意を表してくださっています。

日有の段階で、仮に彫刻本尊があったとしても、現代のものとは別のものでしょう。完則、日憲の記録がそれを物語っています。

ただし、石山では、日有造立の「戒壇本尊」の身代わり彫刻があると言います。これがどのようなものであるのか、杳としてわかりませんが、実際にこのようなものが存在するとすれば、その相貌を見れば、多くの事実を語ることでしょう。

明治年間に撮影された彫刻本尊は、弘安3年5月9日の日禅授与漫荼羅を臨模作為した模造品ですが、北山にあるこの本尊は『大石寺誑惑顕本書』では万年救護とも、戒壇本尊とも称されています。

万年救護、戒壇というロジックが先行し、次いで、時代時代に、複数の「戒壇本尊」が再造され、今日に至ったのであれば、単に日有作とするの、論を微細に尽くしていないことになります。

なお、条々事との関係とのことですが、この書で言う「弘安二年本尊」とは、日精説では第16大本尊の可能性は濃厚ではないでしょうか。

2270鳥辺野:2006/10/02(月) 18:03:12
>2269犀角独歩さん ご返事ありがとうございます。 彫刻本尊の再造説
なるほど再造ですか。しばらく掲示板見ておりませんでしたので(汗)もう一度過去掲示板を読まさせていただきます。

>「弘安二年本尊」とは、日精説では第16大本尊の可能性は濃厚
この件私も賛同致します。

2271鳥辺野:2006/10/02(月) 21:02:45
>彫刻本尊の再造説
あらためて過去の掲示板をざっと見ました。・・・鳥肌がたちました。つまり石山は何か有るごとに戒壇本尊と呼ばれるモノを何度も何度も偽造し信徒を騙してきたわけですね。いかにも器物崇拝の石山がやりそうな事です。「火事でもえてしまった・・・どうしよう、出生の本懐がなくなった、信徒がいなくなるー。替わりに偽作して本物とするしかない・・・」みたいな。本当に呆れてしまいます。そして、たまたま今の(何体目か判りませんが)板本尊が禅師授与曼荼羅の彫刻だったということですね。それならばすべて納得いきます。

2272彰往考来(しょうおうこうらい):2006/10/03(火) 07:57:46

>2271鳥辺野さん

本件につきまして、私も過去スレッドの「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」のスレッド1347〜1350(2005.09.12)に投稿していますので、併せて参照ください。

彰往考来

2273れん:2006/10/03(火) 21:16:11
鳥辺野さん
亀レスになりましたが
>2268
石山東坊地係争につき、保田妙本寺執事さんのご見解も同様でしたか、これは驚きました。
石山彫刻本尊の有師彫刻説は重須日浄記が典拠とされていますが、犀角独歩さんが三学無縁さんのお言葉をご紹介くださったとおり、「原本」に当たれないようですし、当の日有師には戒壇に“本尊図の如く仏像安置”を説く心底抄を高く評価したという南条日住の記録がありますので、戒壇に安置するという彫刻本尊を有師が造ったかどうか、決しきれないものがあります。条々事が日有作ならば、日有師は蓮師御筆漫荼羅を“数多拝見”したようですから、その拝観した蓮師御筆?や先師御筆の十界広式の漫荼羅を参考に、日道門流の旗印としての紙幅の蓮師御筆に仮託した漫荼羅を偽作した可能性は有り得ると思います。また、それを不造像不読誦・漫荼羅正意論に傾倒した日有師死後の石山貫首(誰かは特定出来ませんが)が、戒壇には大漫荼羅を安置すべしとの思いから、その日有が偽作したであろう門流の旗印の紙幅を彫刻し、あの腰書きを作成し付して戒壇本尊と意義付けして、初代彫刻本尊が成立したという流れ、展望の推定は可能だと思えます。ですから、私の現時点の考えとしては、日有がただちに彫刻本尊を偽作したという説には懐疑的ですので、この点、保田妙本寺の執事さんとは、意見は合いませんね。
ともかくも、亀レスにて失礼しました。

2274犀角独歩:2006/10/04(水) 08:27:11

以下に移動しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1661

2275今川元真:2006/10/20(金) 23:56:09
整理整頓 【漫荼羅正意で無くて漫荼羅本意】 【天台密教から法華一乗を目的とする】 【法華経は因果倶時を目指す場、題目は一念三千を目指す場、本尊は色心不二を目指す場、戒壇は依正不二を目指す場】 【法華経付属と立正安国に導く修行の場を提供する漫荼羅】

2276ひきこもり:2006/10/22(日) 17:57:06
創価学会は日蓮正宗の教義を保持してきたわけです。大御本尊が偽作であり、日蓮正宗が邪宗である
と言うことなら、私は何を拝んだらいいにでしょうか。

2277ひきこもり:2006/10/22(日) 18:04:27
>第16大本尊の可能性は濃厚ではないでしょうか。

独歩さんこれはどう言う御本尊ですか?

2278犀角独歩:2006/10/22(日) 18:39:32

2277 ひきこもりさん

以下の本尊です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html

2279鳥辺野:2006/10/22(日) 20:28:04
2277ひきこもりさん はじめまして
横レス失礼いたします。
第16大本尊についてですが、私の知っている事を少し書かせていただきます。蓮祖が文永十一年十二月に身延山にて揮毫された曼荼羅です。讃文(端書)に「大本尊」の文字が入っている唯一の曼荼羅です。(他の蓮祖の曼荼羅は大曼荼羅也、大曼陀羅也等です)石山一七世日精師によると弘安二年十二月に興師に授与されたとしています。石山の東坊地問題(日郷師と日行、日時師ら)の後、建武元年(1334)日郷師はこの大本尊と蓮祖正御影を持って小泉久遠寺を開きました。(その後本拠地である大本山保田妙本寺に大本尊、正御影共遷座)現在に至っています。GohonzonShu/016の写真右側のカラーの板本尊は保田妙本寺の真筆大本尊を模刻した新興宗教本門正宗本門寺のレプリカ板本尊です。尚これは私見ですが、蓮祖には究極の本尊とか唯一礼拝の対象の本尊などという物は存在しないと思います。蓮祖揮毫の字像曼荼羅とは釈迦佛救済の世界を図案化した物だと思います。「コレこそ究極だ。これしか拝んではいけない」という器物崇拝主義では決してないと思います。以上僭越ながら私の考えを述べさせていただきました。

2280問答迷人:2006/10/22(日) 20:50:05

ひきこもりさん

>大御本尊が偽作であり、日蓮正宗が邪宗である

確かに、日蓮正宗の戒壇板本尊が偽作で有る事は、前管長日顕師が述べたことでもあり、犀角独歩さんが論証し、広く世に問うたところです。僕も大石寺戒壇板本尊を蓮祖が建立したとはもはや考えておりません。
又、日蓮正宗が本尊に関して、蓮祖のお考えから大きく離れた主張を展開していることに付いては、問題が有る思います。

>私は何を拝んだらいいにでしょうか。

基本的には、六老の門下として、蓮祖の末流に連なる宗派の僧より下付された曼荼羅を拝すれば良いと思います。日蓮正宗の主張に上記の如き問題性が有る事を認識してさえおれば、日蓮正宗から下付された曼荼羅を拝しても何ら問題はないと考えております。なお、この件に付いては、僕の私見に過ぎませんので、諸賢の叱正を乞うところです。

2281今川元真:2006/10/25(水) 16:54:52
私は賢人ではありませんが、私は法華一乗を修行するなら、臨滅度漫荼羅を綺麗にコピーした掛軸を修行の道具に使うべきだと考えます。信学行を望まなければ、修行の道で自然治癒力も出ないと思います。

2282ひきこもり:2006/10/26(木) 02:41:49
>>2280>>2281
問答さんも今川さんも、どっちがどっちなんですか?日寛上人の本尊のコピーと、
本当の日蓮大聖人の第92,93,などのコピーを拝んだ方がいのですか?

私はやはり北山本門寺の曼陀羅か、第92、93、102、103曼陀羅が本当
だと思います。独歩さんどう思いますか?私は全部見ました。四天王と題目の下
の八幡大菩薩と天照大神がある御本尊はこのくらいでしょう?

2283ひきこもり:2006/10/26(木) 02:44:29
>>2281
それでは富士門流を出なければいけないですねw

2284ひきこもり:2006/10/26(木) 02:52:36
>>2281
臨滅度漫荼羅には四天王の日本語の表記がありません。このような表記で、末法の
衆生を全部救済すると言う思想は受け止められません。

2285ひきこもり:2006/10/26(木) 03:04:12
失礼しました。今、臨滅度漫荼羅の曼陀羅の写真を見ましたところ、四天王も
全て同じでした。

2286ひきこもり:2006/10/26(木) 03:09:45
>>2281
蓮祖の御真筆のコピーと、寛師の御真筆のコピーと、どちらがいいのかと言うことですね。
難しい問題ですね。

2287犀角独歩:2006/10/26(木) 12:15:57

ひきこもりさん

わたしは、漫荼羅が直ちに本尊であるという認識はありません。
また、漫荼羅に優劣はないと考えます。あるのは、授与された人の差です。漫荼羅は、授与者に合わせたオーダーメイドですから、自分宛の漫荼羅でなければ、自分の‘本尊’とはなり得ないと原則的には考えています。

また、より厳密に言えば、本尊は寿量仏における久遠本仏の認知ですから、漫荼羅とは別に考えます。

日蓮的な発想で言えば、如何にして上行所伝の妙法蓮華経を受け取るのかは、問答さんのお言葉を借りれば「蓮祖の末流に連なる宗派の僧より下付された曼荼羅」という点で同感です。ただ、それが自分のためのオリジナルでなければ、それはあくまで仮のものという認識です。

2288ひきこもり:2006/10/28(土) 00:14:47
>>2287
独歩さん。有り難う御座います。
『本尊問答抄』に「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあります。やはり曼陀羅を
本尊とするのが蓮祖の真髄ではないでしょうか。

2289犀角独歩:2006/10/28(土) 10:46:13

ひきこもりさん

では、反対にお尋ねしますが、法華経の題目とは経典の題名、妙法蓮華経のことです。これは漫荼羅ではありませんよ。題名です。『本尊問答抄』が真蹟であるとして、日蓮が法華経典の題名を本尊とせよというのに、何故、あなたは漫荼羅が本尊であるというのですか。

2290藤川一郎:2006/10/28(土) 17:31:18
>>2267
亀レスですが、床の間の掛け軸の前に香炉と花を置くのは日本家屋の伝統です。
不肖、我が家の床の間にも、父母の実家(茨城県)にも掛け軸の前に香炉があります。
別に、中国に限ったことではありません。最近は日本家屋の伝統を護るほどの大きな家屋が少ないので、見る機会は無いとも思いますが、旧家では常識の話では無いでしょうか?

2291今川元真:2006/10/28(土) 19:07:13
犀角独歩さん等の議論で日蓮宗系の輪郭は見え始めてきた様に存じます。鎌倉時代、日蓮が目指した事。21世紀、私等が目指す事。同じなのか。異なものか。

2292今川元真:2006/10/29(日) 11:55:25
連続書き込みで失礼します。 【末法無戒】 【三法門本尊在りて題目起こす戒壇立つ】 【広宣流布(三法門)→漫荼羅(成道得道)→皆成仏道(平等大慧)】 法華経(教科書)、 漫荼羅(天台密教→法華一乗)、       仏像(主師親)

2293天蓋真鏡:2006/10/29(日) 20:30:05
誤字すいません。 ⇒【末法無戒】 【三法門・本尊在りて戒壇立つ題目起こす】 【広宣流布(三法門)→漫荼羅(成仏得道)→皆成仏道(平等大慧)】 法華経(教科書)、 漫荼羅(天台密教→法華一乗)、 仏像(主師親)

2294再挑戦者:2006/10/31(火) 10:30:44
 失礼します。 最近、99%もの多く方方がズル賢いようです。1%くらいは聖人君子かも。
 経済界では「儲ける為にはインサイダー取引も良い」、「手数料さえ稼げれば客にはウソをついても良い」という方は少ないはずです。
 しかし、進学校で将来の有望な高校で「合格のためには、未履修科目でも履修済みにして内申書を整えた」と言う学校や教育委員会が多数存在です。
「インサイダーに積極的にかかわった人は」証券市場から追放される。 文部科学省は見習えるだろうか。 翻って「宗教法人を管轄するのも文部科学省」だったでしょうか。
 他人をダマシようなズル賢いやり方は「決して美しい国の美しい所作」にはほど遠いのでは、とツブヤキでした。

2295蓮華:2006/10/31(火) 11:44:29
>「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあります。やはり曼陀羅を
>本尊とするのが蓮祖の真髄

曼荼羅正依でいい。
本尊の功徳に「差異」などあるはずが無い。
個人宛の本尊に他人が拝めば功徳・効能が異なる?
そんな教えはない。

もし、本尊ごとに功徳・効能が異なるとしたら、日蓮は無慈悲の坊主となってしまう。

日蓮は何の為に沢山の本尊を書写したのか?
その根本の一念に気がついた時、
本尊は功徳の塊である事を自覚する。

コピーした本尊でも功徳は変わらない。
体験済みだ。

また他人が模写した本尊であっても功徳は変わらない。
ようは受けて側の信心だ。
これも体験済みだ。

唱題を行い、生活を正し、法華経三昧に浴する
この法の素晴らしさを伝え、社会に役立つ人間になっていく

本尊がどうだ、宗派がどうだ との論議に迷っている間は
功徳を受ける事すら遠い・・・・

2296犀角独歩:2006/10/31(火) 11:50:59

蓮華さん

ここは教書によって議論する場です。
あなたの一方的な意見の投げ捨ては意味を持ちません。
思うところがあれば、証拠を挙げて論じなさい。

2297蓮華:2006/10/31(火) 11:51:00
受けての信心。

日蓮は弟子の為に、命を墨に染め流して本尊を表した。
しかしながら、どんなに念をこめて書いた本尊すら、
物理的にはただの紙と墨汁の跡なのだ。

大事なのは日蓮の念を感じることだ。
この本尊は己の為に日蓮が心血を注いで書写したものだと感じることだ。

対象物の形、筆法、形式、内容の差異など、
信仰の本質論から言えば意味を成さない。

主題を見、日蓮の慈悲を感じ、己の命を妙法蓮華経に帰命させよ。
余事を交えず己の命があるがままに獲得しようとする世界に目を向けよ。
耳を傾けよ。

2298犀角独歩:2006/10/31(火) 11:52:44

蓮華さん、もう一度、忠告します。
あなたの思いこみの押し売りはやめなさい。

2299蓮華:2006/10/31(火) 11:53:52
>自分宛の漫荼羅でなければ、自分の‘本尊’とはなり得ないと原則的には考えています。

>思うところがあれば、証拠を挙げて論じなさい。

自分の考えを述べているのは私だけではありませんね。
まずは貴殿からどうぞ。証拠を挙げて論じなさい。
そもそもここのスレッドは「つぶやき」のスレッドではないのですか?

2300蓮華:2006/10/31(火) 11:55:47
>蓮華さん、もう一度、忠告します。
>あなたの思いこみの押し売りはやめなさい。

犀角独歩さん、あなたに忠告いたします。
ここはつぶやきスレッドであり、スレ主様の言葉をよく思い出しなさい。

「何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」

独り言は可ですか? それとも不可ですか?

2301犀角独歩:2006/10/31(火) 11:56:49

本尊と漫荼羅において、わたしは文章を挙げて、論じています。
つぶやきを逆手にとって、放言を述べるのは、ルール違反でしょう。

2302蓮華:2006/10/31(火) 11:57:52
>独り言は可ですか? それとも不可ですか?

2303蓮華:2006/10/31(火) 11:59:01
>放言を述べるのは、ルール違反でしょう。」

どちらがルールを違反してるのか?

「ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」」

2304犀角独歩:2006/10/31(火) 11:59:12

蓮華さん、では、あなたが、わたしに証拠を挙げて論じろと言ったことはどうなりますか。あなた自身を挙証をしているではないですか。

2305犀角独歩:2006/10/31(火) 12:02:30

訂正します。

蓮華さん、では、あなたが、わたしに証拠を挙げて論じろと言ったことはどうなりますか。あなた自身、挙証をしろと言っているではないですか。それにもかかわらず、つぶやきだと言うのは矛盾しています。

ぼやきだ、つぶやきなどと言わず、本尊と漫荼羅のスレッドに移動して議論しましょう。

2306蓮華:2006/10/31(火) 12:05:45
話を摩り替える前に、まず、つぶやきスレッドの内容に抵触したのは
貴方が先だと言うことを認識してください。

「考えを述べるなら、証拠を挙げよ」と貴殿は仰る。
まずはここでスレッド違反です。

私は注意を促しただけです。
「自分の考えを述べているのは私だけではない」との証明と、
貴方の意見自体が矛盾していると指摘しているのです。
(貴方も己の考えを述べていますが、引用箇所についてはご自信の考えであり、
証拠は提示してませんね)

そもそも論議をするつもりであれば、つぶやきには書きません。

いいですか、まずはご自身の書き込みを振り返ってみてくださいね。

独り言は可ですか? それとも不可ですか?

2307蓮華:2006/10/31(火) 12:07:49
>訂正します。

失礼致しました。訂正の文言に気がつきませんでした。
ROMの方に不快な思いをさせました。

>犀角独歩さん、
失礼致しました。

2308犀角独歩:2006/10/31(火) 12:12:01

蓮華さん、わたしが言っているのは、つぶやきという特性を逆でにとって、挙証もせず、根幹に関わる書き込みをするのは、ルール違反だと言っているのです。

つぶやきならば、何を書いてもよいということではありません。
ここのところ、本尊と漫荼羅において、独学徒さん、問答さんと、わたしは議論を積み重ねてきています。その内容に抵触し、かつ、まったく逆の意見を、つぶやきと称して、放言すれば、掲示板全体の風紀は乱れます。

そのようなことはルール違反だと言っているのです。つまり、そのような他のスレッドの議論を抵触する内容を独り言と称して、反論不能の「つぶやき」に投稿することは、わたしは「不可」であると言っているのです。

これはを逆手に悪用する「アラシ」行為であると、わたしは判断します。

2309犀角独歩:2006/10/31(火) 12:16:48

なお、誤解がないように申し上げますが、「信仰」という点からすれば、蓮華山が記された点に、わたしも大いに賛同するところはあります。ただし、当掲示板は、信仰的見地のみならず、宗史、教学史、書誌学的見地を重視し、かつ、挙証義務を課して、議論を深めることによって発展してきました。

ですから、そのような議論が進んでいる横で、まったく挙証せず、信仰的見地から、論攷と逆の意見を「つぶやき」と称して述べることは、この微風を著しく汚すものであるということです。

しかしながら、ご意見はわかりますので、スレッドに移動して、議論しませんかとお願いしているわけです。

2310犀角独歩:2006/10/31(火) 12:18:38

【2309の訂正】

誤)蓮華山
正)蓮華さん

誤)スレッドに移動して、議論しませんかとお願いしているわけです。
正)スレッドに移動して、議論しませんかとお願いすることとします。

2311蓮華:2006/10/31(火) 12:20:24
>悪用する「アラシ」行為であると、わたしは判断します。

そもそもの考え方が異なるようです。
スレッドの趣旨を守って、独り言のように書く行為が「アラシ」と言うのは、
貴方の独断的な決め付けであるかと思われます。

学術的な論議は大変素晴らしいものであり、
大いに盛り上がるべきであるとは存じますが、スレッドの趣旨にある、
「つぶやき」に学術的根拠を求める事自体、奇異に映ってしまいますね。

スレッドの趣旨を読むべきです。
そして、最初にスレッドの趣旨を違反してクレームをつけられたのはご自身だと言うことを
しっかりと認識してください。

つぶやきの内容の可否について、スレ主でない貴方が決めるのもどうかと思います。
管理者様に知的財産の所有権がある事は承知してますが、
あくまでもオープンな掲示板です。ご理解頂ければ幸いです。

2312蓮華:2006/10/31(火) 12:22:43
>この微風を著しく汚すものであるということです。

仰る事は承知しております。
私も犀角独歩さんのレスで勉強した一人ですから。
サイトも立ち寄らせていただいてますし、書籍も読んでおります。

正し、ご理解いただきたいのは、だからこそ、「つぶやき」に記したのです。

2313犀角独歩:2006/10/31(火) 12:53:48

蓮華さん

「スレ主」ということですが、そもそも、当掲示板にはそのような考え方はありません。しかし、あなたが悪意なく、「つぶやき」として記したまでというのであれば、それはその点を否定するものではありません。わたしの発言にはフライングがあったことを反省もし、お詫びもいたします。

ただ、この点はご承知いただきたいのですが、過去の経緯のなかで、スレッドで進行形でなされている議論に対して、悪用されてきたのが、「つぶやき」でした。実際、ここから投稿停止者も何人も出ています。

まして、本尊と漫荼羅に関する議論は、一山を超えて、次の段階に入っています。このような場の雰囲気を考慮いただき、「つぶやき」というより、むしろ、適宜スレッドにおいて、議論に加わっていただければ有り難く存じます。

いまから、外出いたしますので、次の投稿は、間合いが空きます。悪しからず、ご了承いただければと存じます。

2314蓮華:2006/10/31(火) 13:01:05
犀角独歩さん、

ご丁寧なレス、ありがとうございます。
趣旨は理解いたしました。

ただし、「普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい」
の記述がある事から、あえて、協議論争とは別な観点のスレがあってもいいのでは?
と思ってしまいます。
信仰の上から普段感じている点を記載した次第でございます。

まあ、ご判断はスレ主である管理人様に判断していただきましょう。
管理人様のご意向に一任させていただきます。

それではお気をつけて外出されてくださいませ。

2315蓮華:2006/10/31(火) 13:02:51
>別な観点のスレ

「別な観点のレス」でした。謹んで訂正させていただきます。

2316犀角独歩:2006/10/31(火) 22:25:35

蓮華さん、失礼いたしました。
わたしが過敏に反応しすぎました。仰るとおりであろうと存じます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

2317名無しさん:2006/10/31(火) 23:07:48
現在まで「文証などを挙げ、膨大なる貴重な」書き込みをされている方と、
ポッと出てきて、自分の一人よがりな信仰観を書きなぐる方とでは、
信頼という点で、天地雲泥の差があるように思います。

2318正論氏:2006/11/01(水) 00:57:10
蓮華さんが言ってる事は正論では?
一人よがりを書いてもいいスレでしょうに。

2319寸鉄:2006/11/01(水) 02:03:53
つぶやきを単なるハケ口と勘違いしている。
何でも書けばイイってもんじゃない。

2320藤川一郎:2006/11/01(水) 11:30:40
何かの書籍で読んだのですが、浅井円道師(又は要りん師?)が、とある学術発表会の席上、執行海秀師に
向かって「学術論争の場で、どなたかのように(明らかに執行師に向かって)信仰体験を語られても困る」と批判したそうです。

2321再挑戦者:2006/11/01(水) 19:27:28
、、、失礼、、です。
 いろいろ御座いますようですが、、。 ある程度の、、「、、限界、、」、、も存在のようでしょうか、。
 難儀でしょうか、、、、。 今後とも諸賢の建設的な論議、、考察、、意見、、提言、、をご期待します、、。

2322蓮華:2006/11/02(木) 11:24:46
「会話や議論の応酬は避けるべき」と言うスレの趣旨ですが、
内容を明確にしたいが為、当趣旨を無視して記載する事をお許し下さい。

>何でも書けばイイってもんじゃない。
それでは「つぶやき」に書くべき内容、書いてはいけない内容をご教示下さい。

>学術論争の場で、
全く同意致しますが、つぶやきは引用例は適用外ではないでしょうか?
ここは学術論争の場なのでしょうか?

私の認識と、スレの趣旨は下記の認識でおります。

・普段からフツフツと感じている事
・このスレッドは、独り言、ボヤキ
・会話や議論の応酬は避けるべき
・本音、弱根を、思う存分

学術論争とは別の、信仰における、普段感じている本音を独り言で書きました。
それがスレの趣旨に適合しないのでしょうか?
私的にはルールを遵守した思いがあります。

2323蓮華:2006/11/02(木) 11:28:46
>犀角独歩さん、

ご返信レス、誠にありがとうございます。
こちらこそ失礼致しました。そしてご理解頂いた事に感謝申し上げます。
今後とも勉強させて頂きます。何卒宜しくお願い致します。

2324ボヤッキー:2006/11/02(木) 20:19:45
独り言、ボヤキです。

>コピーした本尊でも功徳は変わらない。
体験済みだ・・・「それは良かったですね。」

>また他人が模写した本尊であっても功徳は変わらない。
ようは受けて側の信心だ。
これも体験済みだ。・・・「素晴らしいですね。」

>本尊がどうだ、宗派がどうだ との論議に迷っている間は
功徳を受ける事すら遠い・・・・「あなた何様?」

2325再挑戦者:2006/11/02(木) 20:32:50
2295さん、 >、、ようは受けて側の信心だ、、。
 一見、、は、、正論のような、響きを感じまするが、、疑義が払拭仕切れませんです、。
 別な視点から考察・論考しますと、ドーモ「、、某S会、、」、、の999%を超えるような「、、擁護論、?」、の感じがしてなりません。
 「本尊に迷えり、、」、、この原点から出発されました日蓮様を「、、何かしら、、軽視、、」、、とも受け止められるような本音をツブヤかてたようでしょうか、、。 そんな自分の愚考をつぶやきました。 悪しからず、。

2326蓮華:2006/11/02(木) 20:36:43
ずいぶん陰湿で排他的なのですね。

教義にわたっては徹底的に論議するべきだと思っています。
真実を探求する姿勢は美しい。諸賢の方々のレスには感謝・感服しております。

私が申し上げたかったのは信仰心から見た宗教の本質、そして心です。
形式も大切だが、偏狭にとらわれずに宗祖本来の精神に光をあてたい。
宗教とは本来、庶民の祈りをかなえる為に生まれたものだと思っています。
庶民が己の人生をより幸福に彩る術であるべきです。

一宗派にとらわれずに、私は私の実践において、宗教がもつ「力」を、
自身の生活の上で発揮していきたいと願っております。
宗祖の門下であった一民衆も、ただひたすら宗祖を信じ、
祈りを実践してきたかのように・・・・。

2327蓮華:2006/11/02(木) 20:44:45
私は諸宗を転々として参りました。また、独歩様のレスやあまたの書籍で、
真実と思える学説に触れる機会がございました。

その結果、無残にも信仰心を消失しかけたのは事実です。

それ故に、敢えてシンプルに考えるようになりました。
宗祖在世中の弟子のように、本尊に題目を徹底的に上げ、宗祖の心を知るべきだと・・。
在世中の弟子には釈尊像を帰依の対象にした方もいらっしゃったでしょうし、
恐らくは主題と四菩薩のみの本尊に帰依してた方もいらっしゃたでしょう。

それがむしろ自然な信徒の姿に感じられました。

2328蓮華:2006/11/02(木) 20:51:34
「本尊に迷えり」。 一番本尊に迷っているのが皮肉にも日蓮系教団です。
私の場合はすっきりしてます。宗祖が表した本尊、それを模写した本尊、
写真複製した本尊、恐らく偽者であろう戒壇本尊、どの本尊に祈っても、
必ず功徳がある気がします。受け手と申したのはその意味です。

現に、身延系、正宗、創価、顕正、正信、その他の宗派は教えは各々異なれど、
沢山の功徳が生まれている現実は無視できません。

それで無ければ、ご本尊を持たない「内徳信仰」などに、功徳がある説明ができないからです。

2329再挑戦者:2006/11/02(木) 21:07:49
 蓮華さん、、>、、内得、、、。
 これである程度が判明しました、、。 そうです、、===、、今お騒がせの「、、某K会、、」、、様のご投稿のようです、、??
 今後ともよろしくお願い申しあげます、!!! 早々。

2330ボヤッキー:2006/11/02(木) 23:29:13
個人の信仰体験を書かれても、心に響かない。説得力が無い。

2331しゅんかん:2006/11/03(金) 13:45:52
独歩さん、このような解りやすいスレがあったんですね。
(教えてくれはったらエエのに。お前の勉強不足や!おっしゃる
通りでごぜぇーやす)(大阪人なんで一人突っ込みです、あしからず)
蓮華さんと独歩さんのやりとりは私など駆け出しの者には両者共
おっしゃる通りと思います。
ここの掲示板は人を傷つける様な文面を見受けないので
好意を持っています。(ほぼ見受けない)
蓮華さんのおっしゃる通り、会話や議論の応酬は避けるべき
ですね。つぶやき=独り言=一方通行では寂しいですから、
会話のキャッチボールをしたいものですネ。

2332しゅんかん:2006/11/03(金) 14:27:18
蓮華さん、はじめまして。
素朴な疑問で駆け出し中のしゅんかんと申します。
蓮華さんの色々な本尊(曼荼羅)ようは受けて側の信心だ。
おっしゃる通りだと思います。多くの方にご理解をいただける
ものと思います。
私は信仰をしておりませんが、ネット上で他宗もこの様に活発な議論、
意見交換、会話のキャッチボールをしているのですかネ。
(しているのであれば私の勉強不足です、すいません)
日蓮上人は他宗はほうぼう?(字も分からず変換出来ませんでした)
って言うのですか。駄目って言ってるんでしょ。
日蓮宗派で色々な曼荼羅が有って全部オッケーって
私自身はなんとなく?って感じです。
信仰を行っている人は自分の派はやはり信じています。
他派の曼荼羅も良しなのであればその教義も良しでしょ。
それでは自我が揺らぐのではないですか。
日蓮上人の教えがこの様に沢山の板を作らせているのかなぁ
と思っております。

2333絵空事:2006/11/03(金) 14:39:51
、、ようは受けて側の信心だ、、。
私もそう思っているのです....が確かな授与も必要かと
一方的片思い...すとーかーもどき?もちょっと困る
様々な経緯は有るものの現在まで受け継がれた信仰としての授与....
かといって広宣流布のように多くの人へ
自分のためのオリジナル曼荼羅以外は仮も無理があるかも....
漫荼羅への大切さと思い入れが持てるのであれば.....
正確な複製の出来る今どきが時代相応なんでしょうかね...
複製に裏書きしてもらって伏せってかぁ.....
でも宗派を越えたような信仰の漫荼羅を誰が授与してくれんねん...
此処の掲示板を読むようになってから、そうだと肯定しながらも疑問を持つようになった...
唱題はいいですね....当面はひたすら祈れってかぁ....

2334蓮華:2006/11/03(金) 15:22:03
>・会話や議論の応酬は避けるべき
上記の趣旨をいささか脱線してしまうことをお許し下さい。

沢山のレスを頂いた故、感謝の意とご返信レスを記させて頂きます。

まずはじめに、独歩様をはじめとする諸賢の皆様の、真実への探求における、
真剣な姿勢、また、わかり易く後輩にご教示いただけるその行為に深く感謝申し上げます。

>ドーモ「、、某S会、、」、、の999%を超えるような「、、擁護論、?」
>今お騒がせの「、、某K会、、」、、様のご投稿のようです、、??
私は確かにとある宗教団体に所属はしておりますが、教義の面では納得しておりません。
ただ少なくとも、他宗教の言い分・主張も理解せずに頭より見下して、
「謗法」だと罵るような行為は、所詮、井の中の蛙であり、本来あってはならない姿勢であると信じております。
又、特別な本尊を崇盃しているが故に、我尊しと言う姿勢にも納得できません。
更に言及して言えば、単なる宗教的建築物を構築する事で、個人も国も安穏になると言う、
安直な考えにも賛同しかねる現状です。(特定の宗派を否定している訳ではありません)

>個人の信仰体験を書かれても、心に響かない。説得力が無い。
ボヤキ、独り言であると言う事でお許し下さい。
宗祖が弟子に伝えたかった世界に触れるには、徹底的な真実の検証行為と、
弟子に示された教えの実践しかないと思っております。

どちらか片方だけでは到達できない何かがあるような気がして仕方ないのです。

2335蓮華:2006/11/03(金) 15:29:03


>私など駆け出しの者には両者共おっしゃる通りと思います。
私の方こそ駆け出しであり、無学の極みであると認識しております。
故に、皆様のレスで学習させていただいております。

>日蓮上人は他宗はほうぼう?
私見でしかご返信できない無礼をお許し下さい。

宗祖は「妙法蓮華経」こそが唯一真実の教えであると説かれました。
故にそれ以外の教えは悉く邪義であると喝破されております。

しかし、その宗祖の言葉にも深い大意があると思っております。
当時と現代社会を比較するば、宗教的影響力、行政との関係性、常識的な仏教解釈が現代とは大きく異なっております。
現代のように、沢山の情報が当たり前のように取得できると言う、ある意味特殊な状況下では、
宗祖の言葉とは言え、文言を取捨択一し、言葉の裏側に内在する心をつかむ事が要であると信じております。

その上で申しますならば、私にとっては、「南無妙法蓮華経」の本尊であれば、
宗祖の弟子が修行を実践するにあたって、充分に事足りるものであると思うのです。
形式や作法も大切だと思いますが、宗祖が何故その本尊を顕されたのか、
また、何ゆえに弟子に修行を明示されたのか。その本質に肉薄できるよう修行するのみです。
回答になっておりませんね。失礼致しました。

>正確な複製の出来る今どきが時代相応なんでしょうかね...
私も個人的には、宗祖の漫荼羅の方が大切に感じます。

>唱題はいいですね....
はい。私も唱題行を大切にしております。

長々と失礼いたしました。

2336ボヤッキー:2006/11/03(金) 16:03:19
ちょっと前の書き込みにて、日蓮さんの「真意」をくみ取り、
現在に伝えている宗派は皆無、と書かれていましたが、
そうなれば、今は誰も「本当の修行」は出来ていない事になりますね。
みんなどうやって修行しているのだろう?

南無妙法蓮華経の本尊ならば、どれでも良いなんて言うのも、
なんじゃそりゃ・・・という感じです。

2337しゅんかん:2006/11/03(金) 18:54:42
蓮華さん早速のご返信有難うございます。
2336のボヤッキーさんと同感なんですが。他宗派なら
これもいいじゃない、あれもまぁ許そうかって言うなら
なんとなく納得出来るのですが。親兄弟やネット上での皆さん達、
日蓮上人門下の方々のご意見を見させてもらいますと。
やはり何処に蓮師の正当な教えがあるのかと追及されています。
その追求されているところが詰り蓮師の教えを守っておられる
様な気がするのです、蓮師に六老僧がおり孫弟子がおり又、弟子が
と・・・人それぞれ捉え方が違いますからええやろとは蓮師の
教えからは逸脱しているように感じられてしまうのです。
すいません信仰もしていない者が。

2338再挑戦者:2006/11/03(金) 19:30:30
ボヤッキーさん、、。
 ウムッム、、!!!、、です。  ホンまに難儀なことでございます。 
 今、、今後、一体、、ドナイしたらエエンでしょうね、?? トホホ、、。

2339犀角独歩:2006/11/04(土) 08:34:35

ここは、つぶやきなので、レスト言うことではないのですが…。

日蓮の真意を汲み取り、いまに伝える‘宗派’は皆無でしょう。ただ、わたしが多くの方々との出会いから思うことは、日蓮の精神を伝える人は、しかし、決して皆無ではないと言うことです。では、仮にその精神を伝える人は、すべてを伝えるかといえば、また、そうではないわけです。それぞれが善いところがあり、また、欠点もあります。善いところは大いに参考にし、敬意もはらい、欠点は批判すると言うより、改善案を考え進歩させる、そんな人の集まりを、わたしはサンガというのだと思います。そこには、文字や形式を超えた生きた人間同士の‘修行’があります。

2340絵空事:2006/11/04(土) 14:29:33
百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サンガ (曖昧さ回避)。「集団」を意味するサンスクリット語で、仏教では修行者の集団を指し、「僧伽(そうぎゃ)」と漢訳される
僧伽 (そうぎゃ、saMgha、संघ (sanskrit))はサンスクリット語の音写であり、「衆」(しゅ)「和合衆」(わごうしゅ)と漢訳される。
もとの意味は「集団」「集会」などであり、古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合、共和政体のことをサンガと呼んだ。
これが仏教に採用されて修行者の集まりや、教団のことを指した。
略して僧と呼び、仏・法・僧の三宝の一つとして尊重され、三帰依の対象となっている。僧は仏陀の教えを実行し、
その教えの真実であることを世間に示し、あわせて弟子を教育し、教法を次代に伝える。

犀角独歩様の思慮深さには感心する事が多いです
その都度、私の想いは右に左に、吊り下げられた曼荼羅に風が吹き付けて揺れ動いたかのように
本当に揺らしていないでしょうねぇ

2341名無しさん:2006/11/04(土) 17:50:20
私は、「日蓮の精神を伝える人」とは、犀角独歩さんじゃないかと、
思ったりしています。真実を探求されている姿は、素晴らしいですね。

2342しゅんかん:2006/11/05(日) 23:32:14
今日、娘の大学の行事で京都に行って時間が余ったので。
本圀寺へ参拝に行ってまいりました。黄金の大梵鐘の下にあった一室
(仏像が沢山祀ってありました)に奉安してあった曼荼羅は平成に
書写された物の様でしたが、釈堤桓因大王ではなく正宗の寺院や
下付曼荼羅の様に帝釈天王だった正宗以外で初めて見たのでへ〜〜っと思いました。
クッソー腹立つなあーーー。
寺院案内のパンフが見当らず見物をしていました。
ある建物内でお経をあげておられ(本師堂でした)信者らしき方が2・30人
おられましたが構わず入って行き座りました。
直ぐにお経が終わり御僧侶さんのお言葉で法要だと判明しました。
(私はアロハシャツを着ていたので信者らしき方から何やこいつ、
といった目でにらまれた、皆さんすいませんでした、そう言やぁ
皆さん黒い服ばっかりやったなぁー)
本堂も拝観させてもらいました。南妙法蓮華経とだけ彫ってある本尊、
その前に釈迦像そしてその前が日蓮上人の座像でした。
寺院で南妙法蓮華経とだけ彫ってある本尊を見たのは初めてでした。
帰る前に寺院関係者の方に尋ねパンフをもらいました。
帰路の車中でパンフを読み、法要を行っていたいた所が本師堂としりました。
そしてそこに大聖人が片時も離さず・・・の釈迦像をお祀りしている事も
初めて知ったのです。(目に止まらんかった。クッソーーー、本圀寺ってこんな
お寺やったん。もう一回行こ〜っと)

2343再挑戦者:2006/11/07(火) 18:51:08
しゅんかんサン、 >、、、、。
 御検足は、、、ご苦労様です、。 日蓮様の御真筆所要のベスト3に名を連ねる「本国寺様」でさえ、、「、、ガタガタ(日蓮的に、)、、」、、のようでしたか、?
 真筆の曼荼羅を所有されていましても「、そのアリガタさを理解不能な方」、、にはムベなるかナ、、?  と、、。
 小生は過去、二度ばかり「真筆さま」をご拝見しました。 一回目は「、、ヤット、、周り道しましたが、遅くなってゴメンなさい、日蓮様、、!!」、、と泣きました、。
 二回目は「、、一寸待てヨ、、ドーモ、、オカシイーぜヨ、、?」、、多少の余裕も出来たので、周りの雰囲気を見渡す度胸も得たのです、、。
 それは、一般の観覧者が美術館、、博物館などでの「古代・中世の文物」を「見る視線」と全く同じに実感しました、、。
 形式上の本物をうわべだけで拝んでも「日蓮様」の「お心」を体得して・体感・体現するのは、、「、、至難、、の難儀、、!!」、、のようです、、? えらそうに御託を述べて、ゴメン下さい、、。

2344天蓋真鏡:2006/11/08(水) 20:16:31
変遷【シャカ如来、法華等持院】【妙法華院、日蓮、仏彫像&漫荼羅&法華経、成仏得道、法華一乗、立正安国】【垂ジャク堂・御影堂・本堂、日興・石川】【日目・南ジョウ】皆成仏道

2345とんび:2006/11/09(木) 00:17:37
 先の発言の付随しての発言です。
 太陽の光に感謝する人は、多いでしょうが、地球の重力に感謝する人は、少ないだろうな...
とも感じたり。人類は、大気のオゾン層などによって守られないと、生きていけないと思います。
また、大地があるから、守られてもいます。

 地球は、自転しているので、重力がないと、大気圏外に、飛ばされてしまうのだろうと...。
確か、かなりなスピードだったと、思います。われわれ人類の動いているスピードは。
それに、地球は、公転しているし、きっと銀河も回転しているでしょう。

 海抜0メートルに住んでいる人より、海抜2000メートルに住んでいる人の方が、より光速に
近いので、老化が遅れる・長生きする...という理論があったと思います。
 余談でしたが、私たちは、様々なものに助けられて生きているのだなと感じます。

2346再挑戦者:2006/11/11(土) 18:29:25
  失礼します。
  私事ですが、今般、実母が88歳で永眠しました。 
 小生の希望の「星」、、でした。 苦しい時、悲しい時、、「、、それなりに元気を」、、モライました。
  ただ、残念は、、晩年の認知症ぎみからの救済が出来なかった事。
 幾度かは「、S会の欺瞞性」を説得しましたが、日ごろの「聖教」に洗脳され他者の意見を聞きませんでした。
  逆に、小生のオチコボレ人生ぶりを小バカにしていました。
 ここで一句、、「、、涙拭く、青いハンカチ、、出しずらい、、。」、、「、、意地だけは、維持したいが、トホホ、、なり、」、、。
 、、、トホほ、、かな、、。 アホのツブヤキ、、でした、、。

2347再挑戦者:2006/11/11(土) 18:49:59
続、、、。
  実母は実妹と同居していたので一番イヤラシー、、「、、友人葬、?、」、、とかの僧侶不在の葬儀でした、。
 小生は、とてもとても参加・出席する気持ちがもてず「、欠席中、、」、、しました、、。
 これは、「、、家庭内の宗教の戦争、、」、、が勃発した、と思います、。 悲しいが、現実です、。 トホホ、、。

2348犀角独歩:2006/11/11(土) 23:11:49

再挑戦者さん

謹んで、御母堂様のご逝去を悼み、お悔やみ申し上げると共に、ご冥福をお祈り申し上げます。

2349しゅんかん:2006/11/13(月) 00:33:44
再挑戦者さん、はじめまして。
お母様のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。

2350再挑戦者:2006/11/13(月) 19:27:38
、、、面目ありません、、お心遣いに深謝致します、、。 悔しいですが、これも厳しい現実のようですか、、。
 諦めずにジリジリ進むことが、アノ化け者某会への打撃になると信じたい、、です、、。 ゴメン下さい。

2351再挑戦者:2006/11/25(土) 21:40:25
、、、失礼します。 今般得ました資料ですが。 「経のうちの肝心は題目におさまられり、、」に関しての考察です。
 「、、日興門流の唱える題目は”旧来の法華経の題目”ではなく、本門かつ本因妙の”久遠初自受報身の所持するところの久遠名字の妙法”である、、とか、??、、この題目こそが、末法の荒凡夫である
我我衆生衆生を成仏”せしめる大法である、本門の題目として示されたのである、、。」、、、
、、皆様、諸賢さまはいかが御考察・検察でしょうか、、?
 自愚考では、オイオイ、、!!、、、一寸、、お待ち、、お待ち下さいませ、、。、です、、。 題目には「格差問題と差別問題」、が存在だったのでしょうか、、?
 本当に難儀で御座います、、。。。。。

2352再挑戦者:2006/12/09(土) 20:00:50
  愚考ですが、家庭内宗教戦争継続の中、母の葬儀の写真が送付されて来ました。 驚きました。 位牌は紙にワープロ印刷して木製の位牌に貼り付けてある様でした。
 棺の右側はガラス扉が有るとうでした。 奉掲本尊は紙にて遮断されていました。 これが「家族葬・友人葬」なる実態のようです。 また、墓地埋葬は12月〜4月の間は冬の期間で一切の参拝・墓参は不可(北海道・厚田墓苑関係、)との事でした。 
  紙を貼り付けた「位牌」、冬は墓参をさせない、、とは、、正しく、、信者を無視・軽視した一点が際立つ「、ボッタクリ宗教の闇事情、?、、」、、でしょうか、?  トホホ、、。

2353しゅんかん:2006/12/18(月) 19:47:26
再挑戦者さん、お久しぶりです。
少しは落ち着かれましたか?

ここよりつぶやき。
私の家族{(認知症の母)姉二人、兄一人}は私以外、全てS会員です。
私、以外の親兄弟が無くなった時の葬儀様式の未来像。
{私は今のところ宗教をしておりません!ひょっとすると私の葬儀様式も?
あら!恐ろしや}
私は宗教に学がありませんから家庭内宗教戦争には至らない(願望)とは
思っています。(姉兄に相手にされなし、私自身、反論が出来ない)
ですが法華経を読誦し僧侶不在の葬儀は経験がないので違和感が有りますね。
自我が不安定になります。
何でも有って感じですね。
真さに人間です、人間の成せる技ですね。

2354再挑戦者:2006/12/21(木) 18:45:08
 しゅんかんサン、ご機嫌のほど、御麗しゅうございます、、。
  人生、、人の間の生活には、、トホホ、、が多いような昨今でございます、、。
 小生も、寄る年波には負けます、。 昨日も今日も、、、、自分の「死」、、にかんして思う時間が多くなりました、、。       決して、自らが希望して、望んでの”生”ではないが、一概に親をを攻めることはには抵抗を感じました、、。
 思うに「、、頼みもしないのに、生みやがって、、!!」と反抗したりもしましたが、、今は「、、頼みもしないの、、”虫(昆虫)、、牛・ブタ・鶏などの被肉食家畜動物”」にも生誕可能は否定は出来ませんようです、、??     しかるに、現生の我らの死亡率は999.999%のようです、、。   今後、自分なりの「、、生、、死、、」、をどのように捕らえ、マットウするのかは、、??? です、、。  各自の現生の、一応の死後は、一体どんな世界に追誕してドンナ動・植物にに連続・生誕、、するのでしょうか、、?? 心配でもあります、、。 愚考でした。

2355しゅんかん:2006/12/23(土) 00:17:27
人生は人が創生したようですね。(私は肯定派です、仏法で言う末法は?)
人が作った世ですがこの世は人に住み難いようです。
(なんだか漱石の草枕の文頭のようですが)
此れも人は現実を現実と見ることが出来ず現実と密着していないからでは
ないでしょうか。
人が言うところの高等動物(よりホモサピエンスに近い)と定義しているもの程ど
現実から乖離していて、人が言うところの下等動物と定義されているもの程ど現実と
密着している様に思われます。下等動物と定義されている彼らは(彼らと会話をした
事が無いが)本能のまま生きている様に思われるからです。
人には自我と言う物が存在します(人の驕り昂ぶりにより)
より人から見て下等と言われている動物の程、本能のまま生きている様に思われます。
本能と現実は密着していると思われます。
人は未熟児として生まれ(此処で言う未熟児とは一般に言われる未熟児ではなく
全ての人をとらえています)本能が壊れているのだと考えられます。
下等動物な程、生を受けて直ぐ地球上の環境に適応出来るが、人は人生の先輩の
手助けなしには、多く見積もっても一週間と生きられないのではないでしょうか。

2356再挑戦者:2006/12/23(土) 20:00:49
 しゅんかん様。
 誠に示唆に溢れる御指摘はとても勉強になりました。
 先々のことは99%ほど意味・不明の一愚者ではあります、、。 ただ、「法華経・如来寿量品第十六の中で、、」、、「、、諸善男子 如来見衆生 楽於小法 徳薄苦垢重者 為是人説 我少出家、、、」、の聖文からも伺えるますのは、、ヒトは「難儀な苦労はしたくない、、少しでも楽をしたい」、という本音が存在のようでしょうか、?
 その一点から、・、各方面の利害関係者らが、ウブな、?、、信者を、? 獲得しようと画策・欲望のダマシの入り口に、、??、、なるようでしょうか、、? 無防備の我々などは、レベルの低い、マヤカシの「、、小法、」、にさえいとも簡単に執着してもその意識すらも不感症の症候群にドップリでは御座います、でしょうか、、? 難儀な、、世の中ではございまするが、、?? 愚考で失礼、。

2357ワラシナ:2006/12/29(金) 10:10:57
「思い出すア先生指導」


0、ア先生の指導で忘れられないのは、1993年国連ボランティアだった中田厚志さんがカンボジアで殉死された事に触れた時のものだ。

1、「ボランティアなんかやっても無駄」といったア先生がはなからカンボジアを見下していた事は、その教義解説書に明らかであった。そこには御自身の小乗仏教観から東南アジア諸国の国民性を一様に「、、その無気力」などと精神的廃疾者のように決め付けた上で「それらは小乗仏教の害毒を如実に示すものである」などと書いてあったからだ。
 
 だが、見た感じで言う。新宿周辺のパチンコ屋で早朝から行列待ちしていた人々のかなりが賭け事熱中体質のやる気満々の東南アジア系と言われていてとても無気力には見えなかったのである。
 反対に、その新宿駅を西に六箇所ほどずらした駅あたりで線路に飛び込む邦人がいたりして大変お気の毒なのであるが、うわさでは株で失敗してしまった人が多い、と聞いた事がある。これなどもしア先生の言う通りなら「大乗仏教の害毒を如実に示すもの」と言えようか(!?)。

2、ところで、国連から明石さんが行ってそこそこの使命を全うされたのだったが、ア先生は根底が見下しているから否定的にしか見ていないのも明らかだった。和平が実現したことを素直に喜ばなかった。自分が期待する見通しの正しさを実証する為に内戦の再発を期待しているかのようだった。
 その本音を意地悪く推量すると、「カンボジアに平和なんか生意気、早すぎだ、もっと殺し合っててくんなきゃこっちは困るんだ、何故かと言えば、もっと殺し合いが続いてくれれば言えた筈のお好きなセリフ「いずれ日本もあーなる」が言えなくなってしまった悔しさ」から来ている気持ち、、に見えた。

「第一、立正安国抜きの平和が実現してもらっては正宗信者の立つ瀬がない」とでも思っているようなそれにも見えた。確かに東洋の民の平和と幸福の実現を願わないわけではないけれども日蓮正宗信仰抜きのそれが実現されてしまっては(繰り返すが日蓮正宗信仰流布の暁にこそ真の平和が招来されると標榜している我々信者の)立つ瀬がない、との思い込みからきているのも明らかだった。
 
この思い込みの強さを見せ付けられると、信者にとっては信者以外の世界の平和と繁栄は忌むべき対象らしく、輝かしくも奇蹟的に招来されるべき立正安国実現のその日に至る迄は、世界は一層の不幸と悲惨で覆われるべき、とでも願っているかのように見えた。

3、確かに、多くの真面目な信者は世界の惨さに対して素直な同悲苦感情から布教による救済を志しているのだが、素直な同悲苦感情におぼれるだけではなく、このような或る懲罰感情めいたもの(一凶的罰論?)も同時に働いていると思うのである。
 きっとその感情が強度になって、世界中が日蓮正宗信仰(むしろ顕正会信仰と言うべきか?)流布の国々になる迄は、世界では暗黒と悲惨だけがふさわしく思われてくるのであろう。決して偶然の不幸発生を認めず、万事に信仰中心の因果付けをしなければ気がすまない心理になってくるのであろう。

4、だが、上で触れたア先生のように自ら依拠する信仰基準から他人の幸福にけちをつけたがる心情は自分にもあるし、これをもってア先生をどうこう言うつもりはない。

「悲惨ですねええ、だがこれらはいまだ序分、みててごらんなさい、いずれ、日本も、あーなるとわたくしは思っております。」式のア先生指導が苦々しく思い出されただけなのだ。、、同時に、今も題目三唱の二回唱えをやってるのかなああ、と言う事も。(h18/12/29)

2358再挑戦者:2006/12/30(土) 21:38:29
 ワラシナさん、、。
 示唆に富むご意見と思います。  ヒトが沈黙することは、結局は、何回でも誤り、失敗を繰り返すと遠因になるようです。
 今、IT時代、一人一人が自由に発言==言いたい事を遠慮もせずに「言える」、、アリガタさを実感します。
  今、格差の拡大が心配です。 時に、貧しい子供や大人も世界中に増加しています。 
  貧しい方に「、食べ物、衣服などの提供、、??」、は本当の援助?では無いようです。
 「ヒトは勉強を通じて、人生を切り開いて行く」ようです。 その為、途上国に50学校もの寄贈した方もいます(日経12月28日夕刊)。 レノンの奥方のオノ・ヨーコ氏です。
 与えるどころか「貰う、、欲しい、、」、ばかりの御方と比較しましてもドヒャッ、と感じます一件、かと思います。 愚思でした。

2359パンナコッタ:2007/01/05(金) 15:20:42
”正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此れをもてなす人は
月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、
徳もまさり人にもあいせられ候なり”

以前、彰往考来さんが過去スレで幻日について紹介して下さりましたが、この正月にも
結構見られたようですね。
 http://www.gifu-np.co.jp/photonews/?p=07010501
 http://www.topics.or.jp/News/news2007010304.html
 http://www.shinmai.co.jp/news/20070101/KT061231FTI090003000022.htm

2360犀角独歩:2007/01/05(金) 17:18:36

『立正安国論』の「仁王経云…其国土中有七可畏難…日月失度時節返逆或赤日出黒日出二三四五日出或日蝕無光或日輪一重二三四五重輪現為一難也…」辺りを引いて、浅井さんが、はしゃぎそうでいやですね、せっかく、きれいな自然現象なのに。

2361しゅんかん:2007/01/10(水) 22:56:58
は宗教学、私宗門学はまずもって理解を致しておりません(難し過ぎます^^;)
が、家庭の事情及び指摘見解上。石山並びにS会に再接触を(主に石山。学会はメディアのみ)
致しております。(学会二世ですが活動だ一切経験無しで、約30数年一切接触無し)
此処、数ヶ月こちらにお世話になって確信に至った事は、石山は他の日蓮宗とやはり違うな、
と言うことです。何時頃?何処から?誰が?何を?は多く議論されていますね。
大変欺瞞に満ち溢れている事でしょう。(今般の情報社会の賜物によるものかもしれませんが)
ですが、上古より石山も他門と接触をもた無ければならなかったはずです。
どうしてすぐばれるような嘘を言い始めたのでしょう。
何故このようなつじつまの合わない、事を起こすに至ったのでしょうか?精師、寛師ともあろう御人が?
私は此処に引っかかります。
地球上における(資本主義国家が指すところの)危険因子。
国家(自治体、団体)における危険因子。
家族内における危険因子。これらはこの存在が在る事によりそれら国家及び個が維持出来ているの
だと言う学説がありますね、バランスがとれているのだと。{俺ら(善良団体、人)だって何時も何時も
良い子ちゃんでいたくはない、爆発もしたい。(これは無意識の領域のことです)}
彼ら危険因子がわれわれの鬱積している物(欲求不満)を開放していてくれているのだと。
彼らを生み出したのは彼らを批判しているところの者だと。
必要悪なのだ、彼らが居なければ成り立たないのだと言う論理です。

2362しゅんかん:2007/01/10(水) 23:06:23
訂正

誤、は宗教学、私宗門学
正、私は宗教学、宗門学

誤、指摘見解上
正、私的見解上

2363顕正居士:2007/01/11(木) 05:06:07
大石寺のカルト化は直接的には大石日応からです。明治の終わり頃ですね。
「すぐばれるような嘘」は、相手が要法寺や北山で、すぐばれる嘘仲間だからです。
つまり今と同んなじなんです。
国会図書館のデジタルアーカイブにその頃の基本資料があります。
独学徒さんのサイトから行けますよ。

2364再挑戦者:2007/01/11(木) 21:19:08
 横から失礼致します。
 ウッム、と感じましたが、奥行きの深い御提言と思います。
 要法寺、北山様の件につきましても示唆が深いようです、。
 小生の独断をお許し戴ければ、、、。
  日蓮さま在世の時に、京都界隈に御信者がどのくらいおられたのでしょうか、、?、、。
 と、申しますのは、真筆本尊の現存在の数ですが、京都周辺の日蓮宗寺院関連が多いようです。
  信者の数と供養者数に比例されての「下付」を日蓮さまは実行されたでしょう、。 ならば、富士山周辺〜千葉周辺などの信者への真筆下付が中心でしたでしょうか、?
 それらの下付された方方がお亡くなりなりました後は、?  
 それなりの関連の重い方向の寺院に返納された、でしょうか、?
 その後は、京都方面に数十回も意見具申したと??讃えられています方もいますようです、。
 現今、大阪の堺=妙国寺さまが真筆さまを非公開ながら「 売り、、」、に出されて、身延本部がアワテ・フタメイタ噂も御座いました、。 話半分に致しましても、、寺院の経営に苦慮・苦闘が押し寄せれば、キレイ事ばかりでは座して餓死しか無いようです、。
 宗教と言えど、これを支える誰かさんが存在せねば経営不振になるのは道理でしょう、。 メシの種に???、、かが存在は??しませんでしたでしょうか、? 愚問でした、。

2365再挑戦者:2007/01/15(月) 18:06:56
、、、、、懸念を捨てられないのは???  何か?? を思いたいですが、、。
 保田の真筆本尊さまが、北山様から、何らかの策略、、??で 回りまわって、、千葉のド田舎に到達とは、、????
 是に類推いたしますと、、旧信者からの返却真筆本尊は、、どのような経過を辿ったのでしょうか? ? 
 マサカのマサカ、、??  日目様の「天奉」と言う、数十回の京都詣でが、、俄然、、疑問視が、、??  有るかも、?

2366再挑戦者:2007/01/15(月) 19:39:10
、、、うそ仲間の中心は、、???  どこの、、??  どなた様、、でしょうか、、???

2367再挑戦者:2007/01/22(月) 19:17:34
 悲しい 、、 厳しい 、、 はかない 、、 当時 の醜い 欲望 、 と継続 ??  の シガラミ 、、
などが、、 存在 したので 、、 しょうか ,、、、??

2368しゅんかん:2007/01/27(土) 17:50:09
〇富士宗学要集、堀日亨編纂を手にしたく現在の発行元である聖教新聞社に問い合わせました所
絶版で現在の在庫のみの供給に成りますとの事で(聖教新聞社版4.5.7.8.9巻)を入手しました。
ここで?と思った事なのですが、この様に歯抜けで無くなるものか?1.2.3.6.10巻に
(勿論、単巻売りなのでありえるのですが)
記されている内容は如何ほどの物なのか?私が手にした全5巻は上記巻よりも見劣りするので在庫
があったのかと思っていたのです。こちらの掲示板で情報を頂き現在の未入手は3巻のみとなりました。
そこで1.2.3.6.10巻は本当に出荷されて在庫無しとなったのでしょうか?
1.2.6.10は古書で学会版です(10は実家にあり、他はネット古書店で入手)
まだこの書を実際に読んではおりません(他のメディアから得た情報です)が、
出版社の故意によるものとは考えられないでしょうか?私の感じた事を以下に記します。

●1巻、2巻本尊写は貫主のみの的な文面
●6巻、仙代問答の方便品読不読
以上なんですが1.2.3.6.10巻は出版社にとって不都合とは私の考えすぎで
しょうか?(3.10巻は未確認です)私の考えすぎですかね。
説得力不足も否めません、独り言です。すいませんでした。

2369れん:2007/01/27(土) 19:13:11
しゅんかんさん、取り敢えずは、別に現在の出版元には意図はないと思いますよ。
私も、かつて学会に所属していたとき、(平成10年ごろに)富士宗学要集を購入しましたが、当時すでに売れきれ(在庫切れ)があって、聖教新聞社版で購入出来たのは2・3・4・5・6・7・8・10巻で、あとは東陽堂書店あたりで出るのを気長に待って、欠巻を補いました。

2370独学徒:2007/01/28(日) 02:15:10

しゅんかんさん、はじめまして。
当方HPをご覧いただいていますこと、厚く御礼申し上げます。
ありがとう御座います。
どうぞ談議所の方にもお越し下さいませ。

富士宗学要集の絶版に関しては、私もれんさん同様で、特に深い意味は無いと思っています。

残すところ3巻のみとの事ですが、古い昭和30年代の富士宗学要集刊行会編のものでよければ、余分にありますので差し上げます。
箱なしで、鉛筆・赤鉛筆での書き込みなどもあり、状態は良くありませんが、読むには差し支えないと思います。
よろしければメールにてご連絡下さい。
http://fujikyougaku.fc2web.com/renraku.html

ともに冨士教学の再点検をできれば幸です。

2371しゅんかん:2007/01/28(日) 15:44:13
れんさん、独学徒さん、有難うございます。
浅学者の愚考でした。

2372しゅんかん:2007/01/28(日) 16:03:30
独学徒さん、お気遣い有難うございます。
まだ購入に要した期間が約二ヶ月ほどです、もう数ヶ月頑張ってみます。
それでも無理な時はご連絡いたします、その折にはよろしくお願い致します。

2373犀角独歩:2007/01/28(日) 16:10:57

れんさんの仰るとおり、意図はないでしょうが、しかし、富要の内容は、それはたしかに創価学会にとって、都合のいいものなど、何もありませんよね。大石寺とそこの本尊、坊さんがいちばん正しいという内容ですから。

松岡さん辺りは、日寛で完成する一切が日亨氏によって公開されたから、万人に開かれたと言った調子ですが、結局のところ、石山の相伝というのは以上のような性質のものです。他人の財産目録をいくら眺めても、金持ちになりません。石山の相伝を分で読んだからといっても、それは他宗の話です。創価学会とは何の関係もありません。単に勝手に石山・日寛本尊と教義を使っているだけです。

やるわけはありませんが、石山が牧口さんの『価値論』とか、戸田さんの『生命論』を勝手に出版して、正統はこちらにありと言うのと、何ら異なりません。やるのは勝手ですが、意味をなしません。石山本尊と教義と坊さんと何の関係もない創価学会が、そこの本尊と教義を使うことは結局他家の財宝を数えるのことならないでしょう。

日寛以降の本尊と教義は、「戒壇本尊」と、唯授一人の絶対性を強調することがすべてです。この戒壇の本尊とも、唯授一人とも何の関係もない創価学会にとって、これを説明する富要の記述はしかし、まったく不都合でしょう。
不都合というより、富要は「不要」でしょう。
よって、増刷、再版の必要なし、消えるに任せるという、『折伏教典』『創価学会入門』『人間革命』などと同様の扱いになるのでしょう。

日寛の記述が石山の絶対性を鼓舞している部分を捨て去って、都合のいいところだけ切り張りし、それを学問の世界でやるとすれば、まさに語るに落ちる愚挙というほかありません。
『創価学会の神話』と言ったところです。
いきおい「不要」からはみ出ました。

2374独学徒:2007/01/28(日) 21:55:05

しゅんかんさん、

>もう数ヶ月頑張ってみます。

わかりました。
先にご案内したとおりの状態ですので、きれいなものが入手できるならその方がいいと思います。
もしもの時は、どうぞご連絡下さいませ。

2375再挑戦者:2007/01/29(月) 19:43:03
 横から失礼ですが、、。
 諸賢様の御検察には御憧憬のいたりで御座います、。
 今、 残念、、、かつ 遺憾 に思いますのは、夏季の二点です。
 1: 日蓮真筆本尊の釈提桓因大王を帝釈などと間違うような方もも居ました。
 2: 戒壇を特に開秘を許すともったいぶっての、登山を企画・運営した中心者もいます、、。
 、、、このような方が、 はたして 999% 以上の確率 でもって マトモ  まとも MATOMO な方 と言える ので しょうか、、。 トホホ、、。

2376ラキ:2007/01/31(水) 02:42:50
妙観講の樋田昌志さんのHPにて「犀角独歩 氏の邪難を粉砕す」と言うページがありました。

http://toyoda.tv/saikaku.hasyaku.htm

「TOPページ」
http://toyoda.tv/

2377犀角独歩:2007/01/31(水) 08:34:14

らきさん

読みました。ぜんぜん、破折になっていないですね(笑)
まあ、何を言うのも勝手ですが、肝心の図形鑑別部分については、何も言えずじまいになっていますね。
「本門戒壇の大御本尊は本物だ」と拳を振り上げた手前、いつまでの模造品を本物だと言い続けなければならないのはかわいそうですね。
贋作を掴ませるというのはこういうことです。

近代、日禅授与を原本にして造った模造品を、「日蓮大聖人が」と言っても始まらないでしょう(笑)

なお、細井さんの言動については、ちょうど、昨日から書いていたところでした。ブログにアップしました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/?blog_id=469468

浅井さんもそうですが、他人の前では威勢がいいんですが、何故かわたしには直接、何も言ってきません。
大石寺彫刻本尊については、日教研の発表の折、大石寺からも数人が来、その中で高橋粛道さんも聞いてくださり、何ら反論もなかった。その後、特に何も書いていないようなので、大石寺としては、これを認めたと、わたしは判断しています。

妙観講は、その大石寺の一在家団体に過ぎず、樋田さんというのは、そこの一部員…、この人、妙観講ですか? ともかく、信者の一人に過ぎません。わたしに文句があるのであれば、自分の指導教師の許可を取って、大石寺の代理人として、彫刻本尊と大石寺蔵の日禅授与漫荼羅の写真をもってくればいいだけのことです。
いずれにしても、一信者がどうこう段階はとっくに過ぎています。
大石寺が公式見解として、「本門戒壇の大御本尊」の原本の真偽考証、さらに彫刻造立課程、さらに!、大石寺持仏堂本尊の贋作であった点に関して、弁明をする段階です。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50865483.html

信者として、信じたい気持ちがあり、自分の信じているものを養護したい気持ちはわかりますが、気の毒というほかありません。
なお、ブログでも引用しましたが、細井さんは以下のようにいっています。引用の方は、この細井さんの教えに違反していますね。

「本書(板本尊偽作論)が既に公明なる求道心から出発したものではなく、全くの感情的な悪意によるものであるからである。かかる悪言は修羅界の徒の致すところであって、真摯(しんし)なる仏教者の口にすべからざるところであるからである。
 凡そ宗門間の論争は飽迄(あくまで)清浄なる道念に立脚して教義の邪正を決し、仏教界の進展に寄与せしむるものでなくてはならない」(P2)

2378犀角独歩:2007/01/31(水) 08:53:52

ついでにブログにアップしなかった細井さんの言を挙げれば

「一宗をかけての邪正の論議決定の時であるならば明確に教えるのは意義がある、その時までは言はないことにする」(悪書「板本尊偽作論」を粉砕す P13)

ちなみに、この本が出たのは昭和31年、前年に小樽問答がありました。
本来、大石寺が日蓮宗と法論をするはずだったのに、創価学会に肩代わりさせ逃げてしまった翌年のことです。
これまた、威勢はいいですが、こんなこと言える立場か、というところです。

しかし、ここに「一宗をかける」と言っているのですから、自分たちの日蓮・日興両方の板本尊が贋作であることが白日の下に晒されたいま、‘教えて’くれるなら、教えてもらいたいものですね。

在家信者に肩代わりさせて逃げてしまうか、何も言わず、嵐が去るのを待つかどちらかでしょうか。いずれにしても、大石寺の公式見解を聞く段階です。

2379犀角独歩:2007/01/31(水) 12:09:02

ラキさんのために、ちょっと書いておきましょうか。

> 既に完膚なきまでに破折され尽くされている

既にブログで考証したとおり、細井さんの言うところは破折になっていませんし、「尽くされて」もいません。

> 此の説を見ると現存御真筆と称する百二十三幅によっている。此れ以外に御本尊がなければ此の説に一分の理がある。しかし若し他に何幅もあるとすれば其の御本尊が果して如何なる御書体であらせられるか、若し一幅でも此れに反するものがあれば、なり立たない説である。

これは一応、文面としては理屈は通りますが、ここまで言うのであれば、具体的に、どの大漫荼羅、どのようになっているのか挙げなければ反証とはならないですね。この義務を細井さんは怠っています。まあ、できなかったのでしょう。

> 然るに山中氏は石山関係の御本尊は全く含まれていないと言っている。

しかし、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』のなかで、82、111、116は大石寺所蔵だと証しているわけです。

> 弘安二年の十月に於て両様の御本尊が存在しても不思議ではない。

これは机上の空論でしょう。その実際の例を挙げなければ、論証とは言えません。不思議でないのなら、実際の例を挙げればよいだけのことです。

> 御書体の変遷は厳格に日時を区切って御変え遊ばされたのではない事が明白である。

これはある程度言えます。

> 畢畢(つまり)或る時期に於ては斯様な書体が多いということは言い得るが、絶対的なものとは言えないのである。

これについては、山中師は123の実際の大漫荼羅を挙げて説明しているわけです。方や、細井氏は、単に想像でものを言っているに過ぎないわけです。これはお話になりません。反証になっていません。口だけなら何とでも言えます。

石山の遣り方はいつもそうで、図で示されても、想像憶測を言い、それが絶対であるかのように語ることで成り立っています。悔し紛れの言い訳に過ぎません。

> さて此れで安永君の第一節の説

ここで、挙げる安永氏の説は確かに、あまり参考になりません。
細井氏が反論したくなるのは当然でしょう。

> 御歴代上人が唯授一人・血脈相承によって御相伝され、御書写されるのは、御本尊の物理的・表層的な御相貌ではなく、戒壇の大御本尊様の”御内証”である。

得意の「内証」が出ましたね(笑)
そもそも内証というのはどうやって写すのでしょうか。
それを写すと書いてある内容が変わってしまい、それでも書写だというのはどういうことだというのが、こちらの質問です。この答えになっていないわけです。

> 御法主上人御一人の御所作に依られるのであり、犀角氏などの御相伝を全く知り得ない謗法者が云々できる領域ではないのである。

出ました。「謗法」のレッテル張り。口の悪い人ですね(笑)

まあ、わたしが「御法主上人」の相伝を知らないのは事実です。
しかし、反対に聞きますが、では、これを書いている当人は、その相伝の内容を知っているのでしょうか。知りもせず、書いているのでしょうか。
知っているのであれば、意味がありますが、知らなければ何とも言えないでしょう。

> 10月12日に大御本尊を御図顕あらせられた

そうですね。この日に細井さんは日蓮が日興と共同で本尊を建立したというわけです。それなのに、日興は、日蓮の許にいなかった。どうしてでしょうか。

> 妄弁者、犀角氏は、歪んだ自らの心を省みて、大いに恥じ入るべきであろう。

こういう汚い言葉を使う前に細井氏の『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』の冒頭の言葉を読みましょう。

それから、何より、図形でこちらは論証しているのですから、図形を持って反証しましょうというところです。

詳しくは、一信者が代表できるわけもないですから、わたしは大石寺の公式発表を望みます。

2380犀角独歩:2007/01/31(水) 12:21:35

補足です。

> 「熱原で法難が起こり、法華衆3人が首を斬られた。その事件に時を感ぜられた大聖人は、出世の本懐たる大御本尊を顕わされた」と書くのは、ごく普通のことであろう。
また第4世日道上人の『御伝土代』も、その趣旨で書かれたものに他ならない。

何で、『御伝土代』の原文を挙げないのでしょうか。
原文を出すと、困るのでしょうか。

「熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」

‘畢’とは「動詞「おわる」の連用形に完了の助動詞「ぬ」の付いた「おわりぬ」の転〕多く動詞の連用形に付いて、動作の完了したことを表す。…し終わった。…してしまった」という意味です。

熱原の法華宗二人は頚を切られてしまった。その時(頚を切られたとき)、大聖人は感ずるところがあって、「(細井さんの言葉を使えば)日興上人と共に御本尊を建立」したという文章です。

また、「三人」と書いてきたのに、ここでは「二人」となっていることも原文を出すとわかってしまいますね。

文章のとおりでしょう。頚を切られたから感じ入って本尊と遊ばしたということです。

2381犀角独歩:2007/01/31(水) 12:59:23

これも書いておきましょうか。

『熱原法難史』に

「先師がかつて直ちに『聖人御難事鈔』の余は二十七年、この文を以って戒壇本尊(板本尊)顕彰(アラワス)の依文(タヨルブン)とされたようだが直接の文使はないようである」(P72)

堀日亨氏の文章です。
『聖人御難事』と戒壇本尊は関係ないと言っています。
こういうふうに、「歴代上人」が言っているのに、あんなふうに解釈してしまっていいんでしょうか。

あ、図形から見て日禅授与漫荼羅を原本とする臨模・作為した模造品ですから、こんな文章考証は不要なんですが、ラキさん、向こうの言い分に心が動いているようなんで、書いておかないと、反論できないと誤解されては困りますから(笑


2382ラキ:2007/01/31(水) 14:30:44
独歩さん。
解説ありがとうございます。

>ラキさん、向こうの言い分に心が動いているようなんで、書いておかないと、反論できないと誤解されては困りますから(笑

いやいや、心など動いてないですよ(笑)
板本尊が仮に本物であっても、「魂を墨に染め流し書きあらわして」て、文で、観心の魂の墨の部分が削られてないわけですから、魂の篭った本尊にならないと思ってます。
宗祖自身が彫刻でもしたなら別だと思いますが、隅に魂(心)をこめている大事な部分がないのですしね。
せめて、墨の部分だけ残す、浮き彫りならまだ、心が動いたかもしれませんが?(笑)


>何で、『御伝土代』の原文を挙げないのでしょうか。
原文を出すと、困るのでしょうか。
「熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」

これは、ビックリです。
二人と三人では違いますね。
原文をだしたら、確かにおかしいとなってしまうから、調べる手段がない人には、効果的なごまかし方法だと思います。

2383しゅんかん:2007/01/31(水) 21:53:30
御内証と云う語が多くの処で引用されますが、以前からこの語義が解りません。
今回、論に上がりました樋田さんの説を読ませて頂き、(以前よりの考えも含め)
私なりに解釈したところを記させて下さい。

辞典に拠りますと
御内証= 仏語。自己の心の内で真理を悟ること。内面的な悟り。
表向きにせず、内々にしておくこと。外部には隠しておくこと。
また、そういう意向。内密。ないしょ。

>御歴代上人が唯授一人・血脈相承によって御相伝され、御書写されるのは、
御本尊の物理的・表層的な御相貌ではなく、戒壇の大御本尊様の”御内証”である。

1、貫主のみが「ないしょ」を操れる。
2、歴代貫主より内々に、一器の水・・・如く告げられこれは「ないしょ」ですよと。
3、下付曼荼羅は板曼荼羅の「ないしょ」である。
4、内証=上記の如く。内密、ないしょ、であるからとやかく云われる筋合の物ではない。
元より「ないしょ」と云っていると云われかねない都合の良い語である。

1=石山がそのように云っておられるので間違いはないですよね。
2=唯授一人・血脈相承・一器の水・・・ここまでして、「ないしょ」にせねばならない物って
仏教を実践する宗派に必要なのでしょうか。
3=内証は内密。ないしょ。外部には隠しておく事。ですからこれより連想されますのは、
非常に(大切Or恥)だから第三者(私、貫主)には知られない様に隠しておこう。

〇今回、樋田さんの説を読ませて頂いた感想をまとめますと。
>・・・戒壇の大御本尊様の”御内証”である。

〇下付曼荼羅=板曼荼羅の内なる物であって、本来外部に知られたくないものである。
叉、別の表現をすれば、大切で「ないしょ」にしていたい板曼荼羅の部分を顕したのが下付曼荼羅であるが、
捻くれた考え方の御仁は恥の部分を顕したと思われるかもしれません。
ですが、これも貫主さまの人徳の致すところにより顕していただいたのでしょう。
どっちにしろ、板曼荼羅より凄いと云うのが下付曼荼羅である。

2384しゅんかん:2007/01/31(水) 22:00:35
誤=(私、貫主)
正=(私、貫主以外には)

2385佐賀県民:2007/01/31(水) 22:45:57
島田洋七さんの「佐賀のがばいばあちゃん」という作品が大変高い評価を受けています。
とても素敵なお話なのですが、佐賀県民として一言・・・。
洋七さんは「すごいばあちゃん」という意味で「がばいばあちゃん」と表現してありますが、
佐賀弁で「がばい」は「すごい」ではありません。「すごく」です。

2386犀角独歩:2007/02/01(木) 14:12:23

2383 しゅんかんさん

なるほど、「内証」は「ないしょ」ですか。

内証は外相に対する言葉ですが、本尊書写に関してこの語が引用されるのはたぶん、日顕さんぐらいだと思います。
ただし、樋田さんは、引用の日顕さんの言葉を誤読しています。

樋田さんによると「御書写されるのは、御本尊の物理的・表層的な御相貌ではなく、戒壇の大御本尊様の”御内証”である」

日顕さんは、こんなことは言っていません。

「本門戒壇の大御本尊の御内証を拝してお写し申し上げ奉る」

ここで日顕さんは「本尊の御内証を拝」すると言っていますが、それを写したと言っているわけではないのです。石山で言う戒壇本尊は人即法の本尊である、つまり人に即せば日蓮である。しかし、日蓮というのは上行菩薩再誕という外用の姿である。内証の寿量品、深秘相伝から久遠元初自受用報身如来(南無妙法蓮華経仏)であると拝して、そのうえで本尊を書き写していると言うのが、文意でしょう。外に書かれたところが南無妙法蓮華経なら、内に証されたところも南無妙法蓮華経です。その内証を写したら違うものになるはずはありません
誤読されたのでは、日顕さんも迷惑でしょうね。

しゅんかんさんが仰るように、内証を写したのが書写漫荼羅だとしたら、「戒壇本尊」は外用を写したと言うことになる。では、「板曼荼羅より凄いと云うのが下付曼荼羅」という突っ込みにもなるわけです。

だいたい、わたしがサイトで記した趣旨すら、樋田さんは採れていない。

しゅんかんさんのご投稿を例に挙げさせていただければ、「母も私も家に有るご本尊さんは、本門戒壇の大御本尊の通りに当時の法主が書写したものだと思っていました」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/2851

このような考えは、他の方もしばしば語るところです。
出入り禁止になった方ですが、「蓮祖の曼荼羅と相貌が違うのならば、偽曼荼羅です」と発言した現役学会員がいました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015575530/429
また、「

かなり多くの方々が、このように誤解しているわけです。
「そんなのは学会員が勝手に思っていることだ」という話をしたいわけではないのです。このような、誤解が多々散見できますから、故に「創価学会を含む大石寺系集団の信徒は、各家庭に下付される印刷漫荼羅本尊は板漫荼羅と相貌が一緒であると信じ込まされているようであるが、実際には違っている」とことわって、その真相を記したわけです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

2387犀角独歩:2007/02/01(木) 14:13:05

― 2386からつづく ―

それにしても、この樋田さんの発言は、北山の本間師との遣り取りで読み、顕正会員との遣り取りの録画見ました。弁も立つし、論理的に考えることもできる。それなのに、わたしへの批判は、まず、人格攻撃をし「謗法者の脳内は随分と固着」などと記すわけです。

このような文章は、わたしを貶しているつもりでも書いた人間の品性を悪く印象づける以上の意味はありません。細井さんの「既に公明なる求道心から出発したものではなく、全くの感情的な悪意によるものであるからである。かかる悪言は修羅界の徒の致すところであって、真摯(しんし)なる仏教者の口にすべからざるところである」に当たるでしょう。

ついで、答えられないところはすべてカットしているわけです。このような遣り方はカットした部分はすべて認めた・回答不能であることを意味することになります。だいたい、どなたからか、わたしのサイトの掲載文につき回答を求めれ、それに答えるのに答えられないところはカットしてしまった。これはつまり、回答不能、敗北ですね。

さらに細井さんの『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』を挙げていますが、この本自体、ブログで検証したとおり、まったく穴だらけで回答になっていません。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50871189.html
つまり、「日蓮正宗は絶対」という信仰上の罠にはまっているために、このような文章を検証することをしない思考停止状態に陥っています。

あれだけ弁舌が立つのであれば、模造品のためにその能力を使うのではなく、真実を語るために、その能力がよいのにと、その才能を惜しむものです。いまからでも遅くありません。懺悔するところに罪障は消えるというのが日蓮の教えですからね。

2388犀角独歩:2007/02/01(木) 15:54:53

【2386の訂正】

誤)内証は外相に対する言葉
正)内証は外用に対する言葉

2389しゅんかん:2007/02/01(木) 18:47:31
独歩さん、御ご教示有難うございます。

>「本尊の御内証を拝し」・・・
〇この部分が良く判りません。何時の頃から内証と云う物を語られるようになったのか存じませんが。
髷を結っている時代にも使用されていたとすれば多くの信徒は理解出来なかったのでは無いでしょうか。
内証=「ないしょ」とはせず(少し揶揄し過ぎたかも知れません)
内証=(仏語。自己の心の内で真理を悟ること。内面的な悟り。)を採用しますと、

>・・・大御本尊の御内証を拝し・・・
〇内証の意を当てはめますと
1.大御本尊の(自己の心の内で真理を悟ったOr内面的な悟りを得た)を拝し・・・は×
2.大御本尊を拝した処(自己の心の内で真理を悟ったOr内面的な悟りを得た)
と成りませんでしょうか?(この説も少し揶揄してますね)
石山は何時の頃からか自説がどうも辻褄が合わないなと自覚した、それを内証と云う
掴み所の無い物を持って来て多様しているのではないですかね?
どの様に突っ込まれても元より「内証と云ってるでしょ」と。
私自身が心の中でその様に悟り、感じ取ったのだと。
ただ、この様な稚拙な表現方法は御法主上人猊下ともあろうお方は述べられませんので、
内証と云っているのではないかと推察されますが。

2390しゅんかん:2007/02/01(木) 18:56:14
2389の続き

私はどうもこの名称にアレルギーが有りこの板を一度も拝見していませんでしたが
{クリックすると入ってしまいました(´`)}

>他五老方が書写したものも、現在の顕師の書写したものもすべて蓮祖漫荼羅ということになるでしょう。

 あたりまえです。

〇ならばこのお方は仏具店等で身延派等が奉安する宗定本尊を祀られれば
良いのではないですかね、寛師曼荼羅は無い・・・など説明も要しないと思いますが。

>それを否定することは蓮祖漫荼羅を否定することになります。

不思議な人ですね、何故くどとあたりまえの事を声高に述べているのですか?

〇「>あなたがお感じになられないことは、ご自由ですよ」と、この様に一個人の権利を
認める様な事をおっしゃられていて於いて、「くどくどあたりまえ・・・」などと議論をして
下さっている、他者を愚弄する様な文を記すのはこの方自身の品位を下げる者ではなく、
この方の属している団体も同等と取られる事を理解されていないのでしょうね。
そもそも他者あっての議論ですから、相手を尊重すると云うものが根底にあって欲しい物です。
出入り禁止で、古いレスですし云ってもこの方には無駄ですか。すいませんでした。

2391再挑戦者:2007/02/01(木) 21:07:19
 横から疑問です。
 問題になる核心になるのは、、??、、でしょうか、、?
 時代、、時代、の各人、が「、、書写、、」、するには、信者かた、と、身内寺内かたへの担保、?、かと、おもいます、。
 後世の批判に耐えうるような「、書写、」、を、すべきでしょう、!!
 それが不可なら、、マトモニに書写も出来ないようなオチコボレ僧侶、?、と、言えるかも、??

2392犀角独歩:2007/02/02(金) 07:06:26

2389 しゅんかんさん

> 何時の頃から内証と云う物を語られるようになったのか

天台の段階で、既にこの用法は見られます。
ただ、現代のような神秘的な用法ではなく、もっとシンプルです。
たとえば『止観弘決』では「經從外用故云明説 今從内證故名爲知」、我流でよく批正を受けますが、読み下せば、「経は外用に従う故に明らかに説くと云い、いま内証に従う故に名づけて知と為す」
いわば、外用とは外の向いた在り方で経をここに例を採り、それに対して、内証は心のなかで智慧で考え立証していった結果ほどの相対用法です。

日蓮の場合も、この筋に則っているようですが、経典の文字に表れる範囲と、心の中で思惟し立証した経典に相違を起きます。「内証の寿量品」といった用法です。経典の文字面で表れるところ(外用)より、さらに心中立証されるところ(内証)という分別論です。文上・文底、教相・観心といった対概念と一脈通じる用法です。

これが日蓮滅後に創られていく相伝文の段階で神秘化されていきます。
しかし、詮ずる所、本迹、一念三千、自受用身ということを証していきます。

ですから、用法の歴史から云えば、法華系では、1500年以上前から使われている言葉です。

>> 大御本尊の御内証を拝し
> この様な稚拙な表現方法は御法主上人猊下ともあろうお方は述べられませんので、内証と云っているのではないかと推察されますが。

しばらくわたしは日顕さんの仕事をやっていた経験があり、この人の説法を、たぶん、一般の信者さんのなかではいちばん聞いているほうだと思います。開観両抄のほぼ全編の説法を聞いています。その他、消息文も同じほどの時間聞いています。そんな経験から言いますが、実に明晰で記憶力もあり、頭に入っている経・釈・御書を縦横無尽に解し、立て板に水のように話す、非常に有能な弁者でした。まあ、それだけの才能ですから、本尊鑑識の目も確かで、「戒壇本尊」が日禅授与漫荼羅を原本にしていることを見抜けたのでしょう。神秘的な側面も有しますが、教学部長の時代から、ものの考え方は合理的な人でしたね。

彫刻された板の内証というと、何だか神秘的な話に聞こえますが、日顕さんは、そんな煙に巻くような誤魔化し論法はしないでしょう。
言っていることは、要は日寛の人即法という教理的な立場から、板彫刻に人本尊として生身の日蓮と拝し、その御意を内証という意味でしょう。証されるところは自受用報身如来の内証で、すなわち一念三千ということではないですか。『御義口伝』、日寛の教学で、伝・伝教の『秘密荘厳論』(日蓮の時代には成立していなかったと思います)を依拠とするわけですが、つまり、「一念三千即自受用身自受用身者出尊形仏矣。出尊形仏者無作三身云事也」です。(尊形(三十二相八十種好)を出たということは凡夫の姿ですから、ここで日寛は示同凡夫・日蓮を言うわけです。こちらは外用ですね)

2393犀角独歩:2007/02/02(金) 07:06:55

― 2392からつづく ―

この筋を拝して、本尊を写していると言っているのでしょう。
血脈相承という側面から言えば、「法水相承」というわけですから、外用・上行/再誕日蓮、内証・自受用身の「内証相承」も言っていいところですが、該当の説法では、そこまでは言っていません。襟度があります。

> 石山は何時の頃からか自説がどうも辻褄が合わないなと自覚した、それを内証と云う掴み所の無い物を持って来て多様している

この側面は確かにあります。先に記したように、創価学会という在家集団では、印刷本尊を有り難がって受け、これをいちばん根本の「戒壇本尊」を書写したものだから有り難いと信じてきたわけです。ところが、その書かれている内容が違っていた。書写というのは、略があり、また、意義、用途に従って、その書かれる内容が変わるというのは、これは石山ばかりではなく、日蓮門下一般の常識です。ところが、こんなことを知らない信者会員には通用しない。

そこで、引用された日顕さんの言は内証を写したとは言っていませんが、意味もわからない人々は、「内証を写したから同じにならない」などと筋の通らないことを言い出すし、苦しい言い訳に使ったと言うことでしょうね。

余談ながら、わたしがかつて日顕さんの仕事をしていた感覚で言えば「本門戒壇の大御本尊」を‘物理的’と表現しただけで、これはNGですよ。坊さんに怒鳴られたでしょう。生きておわす(生身)の日蓮大聖人と拝する信仰です。たぶん、石山の坊さんや、法華講員に「戒壇本尊の物理的な面」といったら「そんな信心のない、不敬な表現をするものではない」と窘められるでしょう。こんな説明では、日顕さんを弁明していることにはならないわけです。もっと、日顕さんの説法を知悉したほうがよい。まあ、しかし、日顕さん、その寺務を統括する内事部、さらに「日蓮正宗」出版発行の許可を出す教学部から、なんら許可を取らず、勝手に文章を書き、勝手に出版してきた書物なんかが、日蓮正宗の考えだと思うから、こんな軽はずみな石山のアナウンス、日顕さんとも違うことを言い出すことになるのでしょう。

… どうでしょうか、藤川さん。現役法華講員として、以上のわたしの説明に評論してください …

まあ、以上はかつて、法華講であった頃、宗務院内事部『大日蓮』編集室、並びに教学部から仕事を請け負っていた頃の、かつて自分に言わせると、そうなるというところです。

しかしながら、日蓮本仏を典型にする石山教学と、彫刻本尊が後世の捏造であったことで、それまで数十年に亘って、身命を捧げた研鑽と石山での仕事が泡沫に帰したことには、いまでも断腸の思いがあります。言辞に尽くせません。残念でした。しかし、事実を受け容れ、前に進むしかありません。

2394犀角独歩:2007/02/02(金) 07:12:59

【2392の訂正】

誤)天台の段階
正)天台学の段階

2395ラキ:2007/02/04(日) 02:19:33
節分ですね。
豆まきに落花生はどうしても馴染めません。
衛生上そして、豆まき後の掃除を考えての事だと思いますが、大豆の方が風情があって良いのにと思った1日でした。
御在世当時は節分に豆をまく習慣がなかったらしいとはじめて知りました。

落花生て古くから日本に来ていたんですね。

「本土へは宝永3(1706)年中国より伝播したが、栽培には至らなかったとされている。
しかし、江戸時代には「ナンキンマメ」の名称が残っており、すでに栽培されていたのではないかとも考えられるが、明らかではない。
一般に栽培されるようになったのは明治に入ってからである。」

参考「落花生の郷」から落花生の歴史。
http://www.nbn-jp.com/yachimata/histry.htm

2396南京豆:2007/02/04(日) 06:38:25

節分に欠かせない豆撒(ま)きといえば、煎(い)った大豆で、年齢の数だけ食べるのがわが家のしきたりだが、雪国では落花生を撒くというのを、本紙暮らし面の記事で初めて知った▼なんでも「殻つき落花生なら外に撒いて雪で濡(ぬ)れても食べられる」という北海道の開拓農家の知恵が、東北や上越地方に広がったらしい。関取の豆撒きで知られる千葉県の成田山新勝寺でも、撒く豆は大豆八百六十キロに落花生四百キロを加える。落花生が千葉県の特産品だからだそうな

(2007/2/3) 東京新聞 筆洗 から

2397独学徒:2007/02/06(火) 15:01:02

またしても法難?か、

「弥四郎国重」関連を投稿していた、『冨士教学研究会談議所』がなぜか表示されなくなっています。

???、何故でしょう?

2398独学徒:2007/02/06(火) 15:39:28

ひとまず別種の掲示板にて、談議所機能を移すことを検討します。

http://xbbs.knacks.biz/dangisyo

『弥四郎国重』関連より、上記掲示板にて再アップしました。

2399天蓋真鏡:2007/02/06(火) 16:32:58
既得権益と言う権力の魔性が起こさせる悪か? 日蓮が信じた信じさせたい仏法がシンプルイズベストであるので良かった。三国四師から来ていますけど。信仰の形から言えば、漫荼羅本意論で良いのではと思い考えます。

2400独学徒:2007/02/06(火) 19:36:27

お騒がせしました。
談議所の方が無事復旧したようです。
今後ともよろしくお願いいたします。

http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html

2401しゅんかん:2007/02/10(土) 23:10:59
静岡・女子高生ひき逃げ事件の日系ブラジル人。
彼の家の部屋と思われますが、彼が語っている後ろの壁面に
小さく神棚状でしたが十戒曼荼羅がはっきり確認できましたね。
厭ですね、現地で携わっていた報道関係の方の配慮が欲しかったです。

2402しゅんかん:2007/02/11(日) 00:47:05
訂正

誤−十戒曼荼羅
正−十界曼荼羅

2403ラキ:2007/02/14(水) 00:51:02
風塵社HPにて、独歩さんの反証に対して反証した文書がUPされてましたよ。

「犀角独歩と称する妄乱を憐れむ。(笑)」
http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/

2404犀角独歩:2007/02/14(水) 05:54:28

では、また、書きますか(笑)

2405偶ロム偶ログ(別HN御免):2007/02/16(金) 13:56:12
>2404
独歩さん、煩わしいだけですよ。
反論とかする必要のないレベルだと思います。
言いたいだけ言わせておけば良いのです。
悪口雑言であなたを誹謗中傷する様をみて嫌悪しない人は少ないでしょう。
先方は日蓮正宗法華講の信徒とのことですが、どうせ自称です。
「逆誉め殺し」のパターンで、日蓮正宗を毀謗している自覚も無い相手です、自爆するに任せましょう。
日蓮正宗僧侶からの反論であれば相手にしても良いでしょうが、時間の無駄遣いは無意味ですよ。
独歩さんへの有効な反論はただ一つ、日蓮正宗のしかるべき僧侶が、鮮明な写真を公開することだけでしょう。
あ、写真といっても歴代の板ですから複数となるでしょうがね。

それにしても日正寺だかの僧侶は「指導」教師ではないのですかねえ。
たしか日蓮正宗の宗制宗規には、日蓮正宗の名誉を毀損したものは厳重処分の対象とする旨、規定があったはずですのにねえ。

それから、ラキさん、>2403は、私には煽りのように感じられます。
掲示板に書き込まず、独歩さんに直接メールして教えてさしあげれば済むことではないですか。
もっとも、私ならば、独歩さんを煩らわせたくはないので、そんなことはしませんが。

2406きゃからばあ:2007/02/17(土) 10:34:48

法太郎氏のサイトを見て感じることは

>札幌市の法華講員から問い合わせがあった。本門戒壇大御本尊に対する偽作論に対して意見が欲しいとのことである。
>この程度の低劣な痴論を直ぐに見破ることが出来ないのであれば、うかつな教学態度でありやめたほうが良いのではないたろうか、ということである。

とあるように同じ仲間の法華講員を完全に見下している点である。
この慢心が信仰者として、もはや失格である。
おそらく質問したこの法華講員は指導教師(僧侶)に問題の答えを聞けなかったか、その質問さえできない状況だったのだろう。
もちろん指導教師がきちんと答えていれば、このようなことはなかっただろう。
一日も早く大御本尊の疑難に対して、本山がきちんと、本物であることを立証すべきである。
花押以下の脇書きだけでも写真公開すべきです。
また裏に記されているといわれる「閻浮提云云」を明確にしてほしい。

それともうひとつ。
法太郎氏のように法華講員の中で教学を好み、それを武器にして他を攻撃する人々は、尊ばれているようだが、本当は僧侶達から邪魔にされている。それはなぜか?
僧侶達は御供養が好きなだけで、教学は嫌いなんです。
教学の質問をしてくる人も嫌いだし、教学のできる人も嫌いなんです。
さらに大御本尊の疑難は、本音は僧侶達自身が本山に聞きたいけど、聞けないんです。
つまり現状のままでは真偽の判定はできないのです。
ぜひ大石寺の重宝類を大石寺の総代方々のお力で明確にしてほしいじゃありませんか。

だいぶ話が逸れました。m(_ _)m

2407きゃからばあ:2007/02/17(土) 10:38:01

私自身は教学好きな人は大好きです。
もちろん法太郎氏だって…。
一緒に真剣に話し合ってみたい。

2408きゃからばあ:2007/02/17(土) 10:40:14

訂正

ここは「氏」じゃなくて「さん」でした。m(_ _)m

2409ひきこもり:2007/03/08(木) 20:47:20
私は人付き合いが苦手で、人間嫌いなのです。子供の時から家の中
で玩具で一人で遊ぶか、絵本や漫画を読んでいました。一人っ子な
ので大事に育てられました。幼稚園には在籍していましたが、祖父
母の家にいることが多く、欠席することがほとんどでした。

創価学会に入会したのは、中学3年の14歳の時です。学生部の時
には会合に時々出ましたが、家の中で勉強していることがほとんど
でした。

今悩んでいるのは、座談会に出ず、学会活動をしていないことに関
してのことです。一人で拝んでいても、幸福になれるのならば、家
からほとんど出なくてもいいのですが。

パスカルの『パンセ』には、人の不幸の原因は部屋の中で休んでい
られないことであると書いてあります。個人主義者として、人と接
触せずに、ネットで対話して折伏するのではいけないのでしょうか。

2410れん:2007/03/12(月) 11:53:35
富士門祖白蓮日興師・重須談所二代三位日順師の古写本が北山本門寺に現存する文永十年八月三日付けの宗祖遺文の南部六郎三郎殿御返事に「但仏滅後二千余年三朝之間数万寺々有之、雖然本門教主寺塔、地涌千界菩薩別所授与妙法蓮華経五字未弘通之。有経文無国土。時機未至故歟」「所残本門教主・妙法五字、流布一閻浮提無疑歟」とあります。ここに述べられた本門教主・寺塔・妙法五字が後の法華取要抄や報恩抄で説かれる本門三法門の原型であると愚考してます。観心本尊抄を書かれてから四か月程で、三法門の原型が示されるのは注目されるところです。特に南部六郎三郎殿御返事に「本門教主の寺塔」(この“寺塔”に戒壇は含まれるでしょう。寧ろ寺塔の象徴として戒壇が示されるのかもしれません)とあるところから、日興並びにその門下が建立を念願した“本門寺”構想の一つの源流と言えるのかもしれません。

2411犀角独歩:2007/03/16(金) 14:48:03

れんさん

興味深い資料のご呈示、有り難うございます。

わたしは、『本尊抄』述作の段階で、日蓮は三法門に考えが至っておらず、本尊と五字で戒壇義を存していなかったと考えてきました。

しかし、この点について、果たしてそうなのだろうかと反芻しています。
観心本尊という名目は、そもそも教相に対して観心から論じているのであって、その心を観る話題で、現実の国家に建てる戒壇は埒外であるわけです。

本尊抄は、まず教相面から本尊を考え、これを五百塵点成道釈尊とします。ついで、さらに己心達観を通じて「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」といい、この観心面からすれば「経云 我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数等云云 我等己心菩薩等也 地涌千界菩薩己心釈尊眷属也」といいます。

さらに「妙楽大師云 当知身土一念三千 故成道時称此本理一身一念遍於法界等云云…今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土。仏既過去不滅未来不生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間也」

常住の浄土であると言い切ったうえに、では、戒壇建立など考える必要があるのかという疑問は成り立ちます。

以上の点を考えるうえで、先に問答さんとは議論をしましたが、わたしどもが習ってきた教学というのは、教相観心において混乱があるのではないのかと、わたしは整理しました。

つまり、久遠五百塵点成道釈尊とは教相の本尊であり、そこで上行等所伝される妙法蓮華経五字、そして、建てるべき戒壇という三法門は導かれます。
しかし、さらに観心の本尊と進めば、それは娑婆即浄土の国土世間・所化同体の一念三千、つまり、妙法蓮華経が観心本尊であるという教学場の整理を、日蓮は存しているのではないのかということです。

故に、そして三法門から建つ戒壇院(堂)安置本尊は妙法五字の漫荼羅ではなく、一尊四士となる。しかし観心本尊からすれば、法華経の題目こそ本尊である。では、ここに勝劣があるかといえば、それはなく、教観の異なりなのではないかということです。

教相観心本尊の混乱が、教義理解の妨げとなっていると考える昨今です。

2412れん:2007/03/17(土) 20:19:56
犀角独歩さん
愚文に対する重厚なるコメント痛み入ります。
観心本尊抄の流通段に「上宮、四天王寺…阿弥陀他方」「聖武天王、東大寺…花厳経の教主」「伝教大師…東方の鵝王」と示して、地涌千界が本門の一尊四士を建立する事が述べられておりますから、内意としては既に観心本尊抄の時点で地涌千界が建立する寺塔とその寺に安置する一尊四士(本門本尊)が示されていると言えるのかもしれません。
私があの三法妙図から得る感触では本門(教相)の本尊は久遠実成釈尊、観心本尊はその久遠実成釈尊の心法妙の直体とされる法華経の題目で、飛躍していえば本門本尊は色法で観心本尊は本門本尊(久遠実成釈尊)の心法であり、色心(教観)二にして不二という関係ではないかと思います。仏法妙・衆生法妙具足の心法妙(題目)を受持することにより、凡夫の己心にも久遠実成釈尊とその本眷属を感見できるのでは…というがの愚見です。
あまり整理してないので大雑把な愚見で申し訳ありませんが、今日の教相観心本尊の混乱が日蓮聖人のこの部分の教義の理解の妨げになっているというのは、まさに犀角独歩さんの仰る通りと存じます。

2413犀角独歩:2007/03/18(日) 08:57:55

れんさん

ご返信、有り難うございます。

> 本門本尊は色法…観心本尊は本門本尊(久遠実成釈尊)の心法…色心(教観)二…不二…関係

三法妙という配立に関しては、わたし自身は消極的ですが、しかし、ここで整理される点は理があると思います。

ただ、本尊抄の段階では、題目に関しても、色法面を論じているようにわたしは思うのです。

釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足 我等受持此五字自然譲与彼因果功徳

此本門肝心於南無妙法蓮華経五字仏猶文殊薬王等不付属之

但彼脱此種也。彼一品二半此但題目五字也

召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生也

如是現十神力地涌菩薩嘱累妙法五字

此十神力以妙法蓮華経五字授与上行安立行浄行無辺行等四大菩薩

但論理具事行南無妙法蓮華経五字 並本門本尊未広行之
此時地涌菩薩始出現世但以妙法蓮華経五字令服幼稚

不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚

以上の記述は、心法における五字ではなく、明らかに文字で書かれた(色法の)妙法蓮華經の五文字を意味していると思われます。

つまり、本尊抄で査定されるところは、寿量仏像と文字として妙法蓮華經ではないでしょうか。

もちろん、本門本尊=寿量仏像(一尊四士)、観心本尊=妙法蓮華經五字で、後者は「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏…当知身土一念三千 故成道時称此本理一身一念遍於法界等」というわけですから、仰るとおり、教相の五百塵点成道の釈尊の心中と読むことはできようかと存じます。
その段階に至るとき、れんさんの整理は至当であろうかと存じます。

それにしても、富士門下において、等閑にされる教観相待につき、議論ができたことを嬉しく存じます。

2414パンナコッタ:2007/03/25(日) 12:22:27
能登地方で被害に遭われた方、
お見舞い申し上げます。

2415ラキ:2007/03/31(土) 21:51:58
「悪書板本尊論を粉砕する」を読みましたが、良く解らなかったが本音です。
この本自体が”悪書”だから、あまり見せたがらないのかと感じております。
また、「国立戒壇論の誤りについて」「本門事の戒壇の本義」などは、読んでみたいから貸し出しを願い出ても、宗門の人は誰も貸してくれません。
これも、悪書?だから、見せたがらないのかなぁ〜と感じた日でした。

2416ラキ:2007/03/31(土) 22:40:07
2chの正宗スレッドを見ていましたら、不思議な教団を見つけました。
「富士山本門寺」
http://www3.ocn.ne.jp/~isak/index.html

「正統大石寺」の部分で、「弥四郎国重は日目聖人の従兄で新田小野寺弥四郎国重の事です、」と、
記載されてましたが、大石寺系て不思議な教団を産む要因とかがあるのかと感じました。

それにしても最近は「七仏通誡偈」
諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
「諸々の悪を為すことなく、もろもろの善を行い、自ら心を浄くせよ、是が諸仏の教えなり。」
この言葉が一番理解しやすくて、マイブームと言うか、お気に入りの言葉になってます。

2418犀角独歩:2007/06/03(日) 08:39:45

> http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014181212/117

青蓮さん(はじめまして)と、同じく、かつて、わたしも北山の日興正墓に参じたことがあります。香花灯明すら、何年も上げていない有様で、この一事を見て、北山門下というのは、口先だけの日興崇拝だと思った次第です。
目の前にある派祖の墓を放りだし、自分たちの住まいばかり、せっせと綺麗にし、日興正当もないものだと思ったものです。

もっとも、実質的開祖・日目の正墓すらない石山は、もはや、問題外と言うことになりますか。

2419再挑戦者:2007/06/04(月) 22:47:02
、、毎度の失礼です、、、ゴメンします、、。。
 さて、、先般、ニセ・ササニキ犯罪が報道されました。  その発端は、某中華料理店が発した情報のようです、、「、、これでは、マトモなチャー飯がデケンよよ、、」、、一体、米の会社はドナイなトン、、ジャ、、!!という、一問題の提起から、七名もの詐欺・容疑で逮捕者がでました、。
 気位が高い調理人方の、、「、、真骨頂、、」、、でございました、、。
 さて、宗教界、、方、では、、ドナイ、、でしょう、、???
 「、、ニセ・日蓮ブランドがマカリ通っても、、長年の間、、当該者らは、ナぜか無言、、でした、、??
 むしろ、儲けの手段に逆の利用をたくらんだ、シタタカナ、、???、、方方、、も、、居られました、、??ようでしょうか、、??
 何も知らない、、小生、、一族、、、郎党、、「トホホ、、」、、で御座います、。ツブヤキでした、、。

2420再挑戦者:2007/06/04(月) 23:03:58
  、、小生は、「、、悔しさ、、99999999.99999%、、」、、の毎日ですが、、これほどの「、大問題、?、、」を、、無視〜〜〜軽視〜〜〜、、するような方方も、、御存在、、のようでしょうか、?? クッソー、、!!!!

2421再挑戦者:2007/06/04(月) 23:20:59
、、ドナイしたら、、「、、本当の”、成仏、”とやら、、」、、が、、保障、されるん、、でしょうか、、??
 経文にも、仏の境涯に到達したならば、、「、、いろいろな状況でも、999%もの確かな、、”分別、”、が可能だし、庶民へのお笑いも提供可能、、」、、と経文にはございます、、。 でも、疑問ばかりでございます、、。

2422青蓮:2007/06/05(火) 06:40:52
私も遅ればせながら独歩さんのブログを(携帯からなので写真等が一部読み込めませんでしたが)読ませて頂きました。

独歩さんはブログの中で半生を棒に振ったなどと謙遜されていましたが、とんでもない。先駆者です。

およそ犯罪など事件が起こり裁判となった時などに必ず問題となる事は、何時、何処で、誰が、何をしたかであって、その証拠が明らかとならなければ誰も納得はしませんし信用に足るものではない。この道理がそのまま10月12日の問題にも当てはまると思います。

釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞと何処かで聞いた事がありますが石山にはこの教えの如き振る舞いを忘れずに真摯に対応して戴きたいものですね。

2423ラキ:2007/06/05(火) 09:12:40
石山が佐渡塚原跡に記念石碑を建てました。

表には「日蓮大聖人佐渡御流摘」「塚原跡」「日蓮正宗総本山大石寺六十八世日如 花押」

裏には「維時 平成十九年五月十六日」「立正安国論正義顕揚七百五十年記念局 建之」

顕正会でも塚原跡に記念碑を建てると過去に発言があったのですが、どうするのかな?・・・
隣接地に建てるのか?独自に塚原跡を調査して、宗門の場所は違うとか言い張るのか?見ものですね。

2424犀角独歩:2007/06/06(水) 00:39:41

青蓮さん、ご高覧、感謝申し上げます。

2425凡愚:2007/06/15(金) 15:56:43
突然、失礼いたします。先に本尊の名や曼茶羅についての考察が述べられていた
今月の御講は「日女御前御返事」の一節だった。帰って全文を拝すると御本尊についてのお手紙である。もとよりここにお集まりの皆様には百も承知の御文なのでしょうが。

聖人は

日女御前御返事  御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候ひ畢んぬ。 抑 此の御本尊は在世五十年の中には八年、八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕はれ給ふなり。さて滅後には正法・像法・末法の中には、正像二千年にはいまだ本門の本尊と申す名だにもなし。何に況や顕はれ給はんをや。又顕はすべき人なし。天台・妙楽・伝教等は内には鑑み給へども、故こそあるらめ、言には出だし給はず。彼の顔淵が聞きし事、意にはさとるといへども、言に顕はしていはざるが如し。然るに仏滅後二千年過ぎて、末法の始めの五百年に出現せさせ給ふべき由、経文赫々たり、明々たり。天台・妙楽等の解釈分明なり。 爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん。竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕はし奉るなり。是れ全く日蓮が自作にあらず。多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏のすりかたぎ(摺形木)たる本尊なり。略

一人ももれず、此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是れを本尊とは申すなり。

 此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是れを九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり。之れに依りて曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云ふは天竺の名なり。此には輪円具足とも功徳聚とも名づくるなり。此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。「以信得入」とは是れなり。

南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。 仏法の根本は信を以て源とす。されば止観の四に云く「仏法は海の如し、唯信のみ能く入る」

日蓮が弟子檀那の肝要、是れより外に求むる事なかれ。神力品に云へり。委しくは又々申すべく候。穴賢穴賢。  八月二十三日  日蓮花押  日女御前御返事

2426偶ロム偶ログ:2007/06/15(金) 18:55:00
日女御前御返事 ですか
真筆とはいうものの、断片5ケ寺に5紙の現存ですね。
石山にはありません。
写本は本満寺本より已前にはありません。
本文のどの部分が真筆なのか興味があります。

2427問答迷人:2007/06/15(金) 19:25:55

凡愚 さん
偶ロム偶ログ さん

整理させていただきます。

凡愚さんが引用されたのは、弘安二年八月二十三日される書で、これには、真蹟も時代写しも有りません。
偶ロム偶ログ さんが、「断片5ケ寺に5紙の現存」とされるのは、弘安元年六月二十五日の書です。
同じく、日如御前御返事ですが、別物です。

2428問答迷人:2007/06/15(金) 19:27:34

訂正

×日如御前
○日女御前

失礼しました。

2429偶ロム偶ログ:2007/06/15(金) 19:42:35
しっつれいいたしました、たはは。
行学院日朝師の写本が初出のほうでしたね。
すみませんでした、書名だけで検索したためのおーまちがいでした。
ご面倒おかけしました。陳謝申し上げます。
行学院日朝師の写本が底本となって版本に収録された遺文ですが、以前どこかで民部向師の金綱集がネタではないかというのがあったような。
宗全を持っていないので確認はできていませんが……。

2430凡愚:2007/06/15(金) 22:50:34
ご回答ありがとうございます。

日朝師写本からでしたか。(といっても日朝師がどんなお方か知らないのですが)

この写本の中の文言句々に聖人の常の仰せと違う部分があるのでしょうか?

常の仰せと合致するもの、また違う部分についてご教示いただけませんか。

2431問答迷人:2007/06/16(土) 10:51:44

凡愚さん

>この写本の中の文言句々に聖人の常の仰せと違う部分があるのでしょうか?

真蹟が無いので、後世、誰かが何らかの目的で製作されたものである可能性を否定できません。それで、この書に書かれていることが、蓮祖のお考えであるとは、直ちには採用出来ないということです。

2432凡愚:2007/06/18(月) 22:09:06

でかけておりまして遅くなりました。ありがとうございます。

このサイトでは写本と言われるものについては検討外であり、幸いにして残っている真蹟の範疇での対話でありましたか。失礼いたしました。

そうすると真蹟から波及するところの、凡人の伸張させた考察?なども写本と似たり寄ったりの部分もありますね。

御書に掲載されているものは信頼できるものと思っておりましたが、それぞれに○△×
をつけておかねばなりません。

貴重な真蹟を残された僧俗には感謝申し上げ、写本をされた方々はご苦労様でしたというところでしょうか。
無くなった真蹟も多くあるでしょうに何が書かれてあったのでしょうね。
もったいないことです。

しかし私は「日女御前御返事」の内容を信じることにいたします。

つぶやきでした。

2433再挑戦者:2007/06/23(土) 21:15:06
 お日柄もそこそこのようです、、。 
 一言を発声させてくださいませ。
 当該スレッド”蓮祖の、、、曼荼羅、、の真偽について”に関連します、。
 No.237さんのお言葉「、、戦後最大の宗教犯罪、、糾弾してきました、」、。
 過去ログをご拝見しまして、重く受け止めたく存じます。
 独歩さんは、顕氏の汚さを御指摘では御座いまする、、。 しかし、小生の凡愚の低脳頭から考察させてもらいますと、それ以前から”それなりの体質のような、何か、?”、が存在、、?、のようでしょうか、?
  疑義の人は故日達さん(含む、日寛、)でしょうか、? 「日蓮真筆本尊から、いたく乖離したような、書写(讃文不当添加〜仏滅後の年代の誤記〜略式の帝釈の誤記、、)もマトモに不可の方が存在、したようでしょうか、?
  マトモな書写不可能なのは、そのモデル・規範が存在しない、、?? 当時、当該寺には”日蓮さまの真筆本尊様が御不在のようでしょうか、? こんな団体や法人には、マユに”ツバをつけて、、”、、再考もありでしょうか、? 愚言でした、、。トホホ、、。

2434再挑戦者:2007/06/25(月) 20:06:30
 モウ一言ゴメンします。
 昨今の不祥事には驚愕します、。 何かが作用していますようでしょうか、。
 問題の主因は、いずこに、??
 http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20070623AS1K2300223062007.html

2435犀角独歩:2007/06/26(火) 18:23:12

2433 再挑戦者さん

> それ以前から”それなりの体質

それはそうだと思います。だいたい、日蓮の抜けた歯にくっついている肉が生きて成長しているなどといってきた団体です。それはそれは昔からの体質ではないでしょうか。

2436青蓮:2007/06/28(木) 12:55:46
いやはや、私の思っていたことは、今この平成の時代に、いざ鎌倉〜!などと言って誰が素晴らしい政治的見解だと思う人がいるだろうかというレベルの話しですよ。歴史的な事柄についてはまるでドのつく素人ですのでいつも興味深く学ばせて頂いている次第です。
m(__)m

2437しゅんかん:2007/06/29(金) 14:36:44
時の法主に依る言で方向転換される、どうして「以来今日まで、日蓮大聖人の仏法は、
唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承(けちみゃくそうじょう)によって、一器の水を一器に瀉(うつ)
すように法灯連綿として、現法主・第68世日如上人(にちにょしょうにん)に受け継がれている。
などと云えるのでしょう。

2438再挑戦者:2007/07/01(日) 19:02:05
,,ゴメンします、。
 諸賢様の過去の御賢察には、ご同慶の至りでゴワス、、。
 混乱の極まるような、一寸の先は、全く不透明、、と言う、カオスの中では、見下されて来た我ら庶民はタダ、、オドオド、、して良いのでしょうか、?
 、、ところで、、先般の「偽装ミンチ事件、」では、工場長でさえ「、社長は、我らの意見など、聞き入れない雲の上の人”だった、」、と言っていました。
 「、、雲の上の人、、とは、一体、、全体、、どんな御方、、???」、。 是に似たようなお方は、ここ、かしこに存在されたようでしょうか、?
 「雲の上の方」、==「、絶対的な命令・世論操作の中心者、??」、、かも知れマシエーン、、。 騙された方が、バカのようでしょうか、? トホホ、、!!

2439しゅんかん:2007/07/03(火) 00:03:44
先日、法華講のお方より、参院選では在るお人を宜しくお願い致します、とご依頼がありました。
そのお人は祖父か曽祖父が石山末寺の御住職であられたそうで、野党より立候補されるそうです。
宗門・学会が分裂してしまえば全てが異なる、其れは自己の意思に拠る処で無いのが引っかかる今日この頃です。

2440再挑戦者:2007/07/06(金) 22:44:13
 ゴメンします、、。本夏はラニーニャ?とかの因で猛暑・厳暑の予測がございました。 4.5畳のボロ・アパートにすむ小生は、今年こそ「念願のクーラーを購入」しようと、大家に諾否を聞いたところ、配線の電線が昔のままで細い、電流容量?が足りないので漏電火災防止のため、ダメ、と言われました、(涙)。 また、近く建て替え予定なので不満なら退去されたし、との冷たい言でした。
 中・高高年単身者への、姥捨て山のような、弱者へのイジメ〜排除〜儲け主義の悪漢どもの自己主張ばかりは良く通るようでしょうか、(クッソー)。
 先日は、近所の飲み仲間がパート出勤の8時35分頃玄関出口にて倒れましたが、15〜20分?が経過したのか? 救急員の心臓マッサージでも蘇生しませんでした、(トホホ)。 警察の調べで、天涯孤独、事件性無しとのことで、市役所から来た方が白い袋に入れられ、斎場、無縁墓地埋葬まで、一応立会いました(涙)。 これは「人間らしい死に方?」でしょうか?「こんな人生の最期では、あまりにも情けない、??」、。
 「死を考察しつつ生を考える、?ことは?」、何かは不明です。 でもそこそこの「道筋くらい、?」、は知りたく真筆本尊(1〜123)のコピーを順次取替えて、緊急避難的に拝んではいます(それ以外は何やら、やらせぽっくって、ニセっぽくて怖くて、、)。 アホのサエズリ・愚考でした、。

2441孤独な迷子:2007/07/07(土) 01:27:27
地球は温暖化しているのに、人間(社会)は寒冷化ですね。
孤独死・・・ニュースで時々聞きますが、身近に感じてしまいました。
なんか寂しい世の中になったものですね。

2442犀角独歩:2007/07/07(土) 08:08:40

再挑戦者さん

ご友人のご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げます。

貧道というのは、ある面、修行のようだとわたしは思います。
少なくとも日蓮にはそのような考えがあったでしょう。
真蹟を残しませんが、『四菩薩造立鈔』に

「日蓮は世間には日本第一の貧者なれども、以仏法論ずれば一閻浮提第一の富者也。是時の然らしむる故也と思へば喜び身にあまり、感涙難押、教主釈尊の御恩報じ奉り難し。恐くは付法蔵の人々も日蓮には果報は劣らせ給たり。天台智者大師・伝教大師等も及給べからず。最四菩薩を建立すべき時也云云。」

なにより『開目抄』に

「般泥亀経云 善男子過去曽作無量諸罪種種悪業。是諸罪報О或被軽易或形状醜陋 衣服不足 飲食麁疎求財不利生貧賎家邪見家或遭王難及余種々人間苦報。現世軽受斯由護法功徳力故等[云云]。此の経文日蓮が身に宛も符契のごとし。狐疑氷とけぬ。千万難由なし。一一の句我が身にあわせん。或被軽易等[云云]。法華経云 軽賎憎嫉等[云云]。二十余年が間の軽慢せらる。或形状醜陋。
又云 衣服不足。予身也。飲食麁疎。予身也。求財不利。予身也。生貧賎家。予身也。或遭王難等。此経文人疑べしや。法華経云 数々見擯出。此経文云種々等[云云]。斯由護法功徳力故等者摩訶止観第五云 散善微弱 不能令動。今修止観健病不虧動生死輪等[云云]。又云 三障四魔紛然競起等[云云]。」

また『撰時抄』に

「法華経の行者は貧道なるゆへに国こぞつてこれをいやしみ候はん時、不軽菩薩のごとく、賢愛論師がごとく、申つをら(強)ば身命に及べし。此が第一の大事なるべしとみへて候」

「法華経の行者は貧道」とは、名言の極みと存じます。

御筆漫荼羅の写真を拝まれているとのこと、これはたしか顕正居士さんがご紹介くださった日蓮を信奉する外国の人々の流行「Download-Honzon」といったことと一脈通じますね。

わたしは個人的に漫荼羅正意から導かれる漫荼羅本尊観は日蓮の考えとは違っていると考えています。日蓮が漫荼羅を書いたのは、一念三千を裹む妙法蓮華経の五字を授与するためであったと思うからです。一念三千とはつまり仏因・仏果ですから、その授受は成仏のためでしょう。日蓮は弟子に漫荼羅の書法を教えたかどうか、どうやら教えなかったようにも思えますし、教えたのかも知れません。それはともかく、しかし、妙法五文字の授与という儀式制は継承されたでしょう。久遠本仏所有・妙法蓮華経―上行所伝―日蓮所伝―継承方式漫荼羅図示【授与】

漫荼羅を本尊として拝むかどうかというより、“日蓮から妙法五文字を書き与える儀式を継承した者が、自分のために書き与えてくれた妙法五文字であること”に、実は重点があるのではないでしょうか。

2443しゅんかん:2007/07/11(水) 18:15:26
〉2240
再挑戦者さん
ええ、その様ですね今夏は猛暑、酷暑の予想ですね。間々外れもしますからそう落ち込まれますな。

大家さんの漏電は少し的外れと思いますよ。
漏電の恐れはクーラーに関係なく危険なのでそれなりの対策が必要と思われます。
〔電気配線は古い家屋との事でしたので、全体が1.6mmだと踏まえて印させてもらいます〕
昨今、省エネが喧しく云われてます。
一例ですが、6畳タイプで消費電力は(75〜650W)です。これが駄目なら、炊飯器や電気ポット(700〜905W)も駄目だし、オーブントースターなんてあんなに小さいのに(1000〜1300W)もあります、これらは咎めないのでしょ、消費電力のもっと多い電気ストーブだって。
簡便に設置出来る窓型(ウィンドクーラー)も在りますよ、これは配管の穴も開けず、ドレン水も処理してくれて又、価格も安いですよ。大家さんにもう一度お願いをされてみてはどうですか?
では、お体ご慈愛下さいませ。

※問題発生時のクレームは、一切受け付けませんので悪しからずm(__)m

2444再挑戦者:2007/07/11(水) 21:12:38
、、独歩さん、しゅんかんさん、、。 諸賢様の暖かい、御心情溢れる御提言には、、ただ、、ただ、、ナミダ、、なみだ、、涙、、でゴワス、、。
 謝謝、、!! Muchas Gracias,! Muito Obrigado,!  セニョレス、、ドクトーレス、!! 諸賢に陳謝、、。

2445偶ロム偶ログ:2007/07/15(日) 02:32:42
過日、大林宣彦監督の「転校生 さよなら あなた」を観てきました。
1981年の「転校生」を大林監督自身がリメイクした作品です。
しかし、このようなリメイクの仕方があったとは、まったく思ってもみませんでした。
私は81年版もリアルタイムで観ており、当時、ノスタルジックなほろ苦さを覚えました。
今回のリメイク版は、81年版の「再映画化」ではありませんでした。
私としては、今年度の邦画ベスト1、大林監督作品としても最高の作品であろうと思います。
掲示板の主旨には、直接には関連しませんが、ぜひ、ご覧になることをお勧めします。
つぶやきでした。

2446犀角独歩:2007/07/20(金) 00:03:08

たぶん、日蓮門下であれば、誰しもが思っているでしょう。

「よりによって『立正安国論』が上奏された7月16日の、それも、日蓮聖人が佐渡からお戻りになって漂着された柏崎で、こんな悲惨な地震が起こるとは…」

とある日蓮宗僧侶が言われた「まったく、顕正会が新潟に会館を建ててから、あの地では、ろくなことはない」

偶然か、必然かはともかく、翌日に、柏崎と連絡が取れたところ、既に日蓮宗僧侶によるボランティアが到着し、活動を開始しているとのことでした。被災された方にはお見舞い申し上げると共に、救済活動をされている方々には、深く敬意を表するものです。

2447犀角独歩:2007/08/05(日) 21:45:38

以下のような相談?を受けるところがあるようですが、ここでは石山法華講の脱会相談を受けているのでしょうか。
学会、顕正会脱会から脱会させ、石山に勧誘するなんてことがあれば、問題にしなければなりません。

創価学会員・顕正会員対象脱会希望者の相談館
http://8830.teacup.com/tsurutaro5/bbs

2448問答迷人:2007/08/05(日) 22:21:56

早速覗いてみましたら、次のように書かれていました。

『日蓮正宗で正しい信仰をされたい方は、どうぞここの掲示板に遠慮なくご投稿ください。私たち法華講員が、あなたを全面的にサポートし、あなたを無事に正しい妙法へとお導きいたします。
 さ、私たちと一緒に、大石寺の本門戒壇の大御本尊様のところへまいりましょう。 』

この書き込みの通りだとすると、法華講員が主宰する、日蓮正宗への勧誘サイトですね。

まだ、こんなことをやっているんですね。もう法華講は下火だと思っていましたが、そうでもないのでしょうか・・・???

2449再挑戦者:2007/08/05(日) 22:23:39
 、、失礼いたします、、。
 
 アノ手、コノ手の策略・策謀が開始されたようですしょうか、。
 石山様では、時流の混乱に生じて、迷った方方の取り込みを思考したかも知れません、? 
 本来の教導、?(、教主釈尊の説いた”成仏”への継続は、?)、を思考するのではなく、明日の飯を確保のため、?、、としか思えない思考でしょうか、?
 その最たる一件が、「、庶民無視・軽視の自・公の結末が、?」、今回の選挙結果かも、? 
  庶民は、一見はバカのようですが、深層は、侮れませんようですか、。
 今は、IT時代の始まりですが、今後は、老若男女がパソコンを自由に操作が可能な時代に突入です。
 今までの「ダマシの技術は、」、小生のツブヤキでは、間もなく、通用しないでしょう!、?(朝日新聞 8/5 社説より)

2450犀角独歩:2007/08/06(月) 07:17:32

問答さん、有り難うございます。

被害者が引っかからないように、注意していかなければいけないと思いました。

2451犀角独歩:2007/08/07(火) 13:57:40

> http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/2447

先の紹介したいまどきこんな掲示板という印象を懐かざるを得ない石山勧誘を意図した脱会相談のサイトですが、ここでは創価学会印刷「本尊」を「ニセ本尊」と書いてあるのですね。

何を以て「ニセ」というのか、その議論は分かれるでしょうが、だいたい自分たちは、彫刻を本物であると謀っておいて、よく言うものだと思いました、もっとも創価学会も他宗の本尊に、何ゆえ執着しているのかもよくわかりませんが。

石山では、本尊所者に関することは「御法主上人猊下」の権能にかかることだから在家は許より、僧侶も考えること自体が謗法だというわけです。便利な詭弁です。この報道管制と思考操作によって、単なる模造品を日蓮作とし・日興作としてきました。そして、歯にくっついた肉が生きているとまで言ってきたわけです。

「本尊」の写真を撮るのも謗法、見るのも謗法、自分たち以外は何でも謗法という論法で、他を斥け、自己正当化を図るところに、真実もなければ、正義もないことは自明です。こんな相談所に迷い込んでしまえば、元の木阿弥、詐欺に引っかかったものが無免許の自称弁護士に相談に行ってしまうようなものです。

宗教問題にかかる各支援団体にも連絡をし、被害の拡大を防いでまいろうと思います。

2452偶ロム偶ログ:2007/08/08(水) 13:31:39
460000ゲットしました。
もうこんなにアクセスされたのですね。
これからもみなさんの論議を学ばせていただきます。
問答さん、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

2453管理者:2007/08/08(水) 22:11:17

偶ロム偶ログさん

>460000ゲットしました。

何か、管理者の想定外の数字です。

以前の議論は、460000から眺めると、的外れの議論も有りますね。
しかし、何ら修正する必要の無い適切な議論も有ります。
460000レスは、それぞれご参加の皆様が刻んでくださった貴重な一コマ一コマです。
発展や矛盾を当然孕んでいますが、この掲示板のレスの総体が冨士門流信徒の為の極めて貴重な議論となっていると考えています。
批判の精神を忘れずにこれまでの議論を読み返してくださるなら、460000レスが宝の山である事をご理解戴ける物と思っております。
然る後、現在の当掲示板の議論にご参加賜りますれば、管理者の願う所、望む所であります。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。

2454犀角独歩:2007/08/09(木) 11:32:05

460000ですか。感慨無量です。

気が付けば、前言・後言、異見とする試行錯誤を繰り返してきました。
7年間に亘り、これだけ多くの稔りある議論ができたことは、ひとえに適切な管理をなさる労により、わたしども安心してなせたことでした。

茲に慎んで、深く御礼申し上げると共に、そのご尽力に深く敬意を表します。

2455再挑戦者:2007/08/09(木) 23:54:02
、、ドーモですが、
今時、無関心方の啓蒙・覚醒などに重大な役目を担って居られる貴HPには「有難うの」一言を忘れておりました、ゴメン、なさい、。

2456スイカペンギン:2007/09/06(木) 03:31:37
法華戦隊ミョウレンジャー
http://www.eonet.ne.jp/~myoh-ranger/
カルト教団を倒し、カルトとから家族を守る法華戦隊なんて子供にも
理解出来るかも!!

2457富士川一郎:2007/09/06(木) 11:54:14
昔昔、悪名高き顕正会ただ1回の体育文化祭にて、オーレンジャーショーが行われ、敵は信濃町の悪の組織であり、武器が題目などと言う馬鹿げたものでした。
確かビデオにもなったと思いますが、どなたか持ってませんかね。

確か、最後に敵が「信濃町に引き上げだ」と逃げていくシーンがあったと思いますが。

2458大縫 薫:2007/09/06(木) 22:00:14
富士川さん、それは面白い!!
船隊シリーズは、子供だけじゃなく大人も楽しめるのでカルト問題に興味を引き付ける
格好の材料になるかも!
そのビデオ是非見て見たいです。
法華戦隊なんて笑いのツボにハマル

2460犀角独歩:2007/09/15(土) 10:20:30

偽造、捏造、模造を暴く、真実糾明を皆さんと行ってきたのが、こちらの掲示板での議論でした。

昨日、電車に乗ったら中吊り広告で

「週刊文春の広告で大きく「スクープ 服部幸應(料理番組のドン)の『家柄』は偽装だった! 本名は『染谷』、450年続く『服部流割烹家元』も大嘘だった」

とあり、吃驚しました。ありもしない団体名を詐称していたということでしょうか。

まあ、よく見かける話ではありますね。

2461富士川一郎:2007/09/15(土) 17:31:42
>>2460

しかし、この程度の事は調べればすぐに分かりそうなのですが、意外と発覚しにくいんですね。
もっともテレビ局が故意に隠している事もありますが。。。
細木某(姐さん)は最も激しい家柄、経歴詐称をしているんですがね。
服部さんについても、人気があるんで、局もかくしていたように思えますがね。

2462富士川一郎:2007/09/15(土) 17:33:37
>>ありもしない団体名

正式名称 宗教法人顕正会
自称  「冨士大石寺顕正会」

正式名称 宗教法人太平教団
自称  「本門正宗」

2463犀角独歩:2007/09/15(土) 17:44:18

顕正会がいつから「冨士大石寺」を自称するようになったのかは、過日の研究発表で明確に、その証拠が出ていて興味深かったですね。

この自称というやつですが、「日蓮正宗」というブランドは、なかなか魅力的ということなんでしょうか。

日蓮宗でも、同様のやり口はあるんでしょうね。
また、その他でもありでしょうか。

2466犀角独歩:2007/09/16(日) 06:44:21

横から失礼します。

アスランさんのクレームの趣旨はわかりますが、アスランご自身も第三者です。ご本人から直接聞いたとのことですが、では、そのことを証するものはなにもありません。こういっては、なんですが、閲覧している側からすれば、その両者ともウラを取れないという点では同等の程度であると存じます。

ここは、アスランさんのクレームが明示されているわけですから、削除しないで、両投稿とも残しておくほうが閲覧側としてはわかりやすいかと存じます。

ご一考ください。

2467アスラン:2007/09/16(日) 08:52:36
犀角独歩様

お話の件、ごもっともだと承りました。
確かに私もこのネット上の立場においてはご指摘の通り第三者となります。
私も友人の名前が予期もせぬ場所から出て来ましたので、彼の名誉の為にと思い、先走りました。
これ以上の追求は致しません。
申し訳ありませんでした。


管理人様

せっかく取り上げて頂いたにも関わらず、ご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。
私も個人的に本人に報告致しましたので、抗議があるのならば本人からして頂くよう進言致します。
お手数をお掛けしてしまいました。

2468犀角独歩:2007/09/16(日) 09:13:00

アスランさん、どうぞ「さん」付けでお願いいたします。

ご理解いただけて有り難く存じます。
わたしも会ったことのない人物が、あたかも会ったことのあるように書かれていると連絡を受けることがあります。こうした場合、やはり悩みます、「会ったことなどないではないか」と抗議するほうがよいのか・しないほうがよいのか。

会ったことがない場合、当然、そこに立ち会った方はいないわけです。となると、この手の話は「二人きりで会った」という虚言にならざるを得ません。こうなると、当の本人であっても、‘会っていない’ことを証明できないことになります。「ない」ことを「ない」と証明するのは、あることを証明するより骨が折れます。これはなかなか困りものです。

なにせ、わたしは読んでもいない、それも未公開の書籍を盗用したという不名誉な疑惑を最近かけられたばかりでした。これには異議を記したのですが、しかし、結局、数と口コミは、わたしの真実をもみ消すかも知れません。

また、以上のように「名誉」という言葉を記しましたが、これまた、最近、「自分の人権と名誉を自分で守る」と言ったことにまで、ケチをつけられたこともあります。

ですから、こちらの掲示板のように挙証義務に基づいて、しっかりとした議論ができる場が希有なのだと、改めて思う次第です。

2473管理者:2007/09/19(水) 15:53:55

波木井坊竜尊@日蓮宗葵講さん

当掲示板の書き込みの基本原則は「意見交換、相互理解の場との主旨から、話合いを重んじてください。」となっています。

貴殿の2469のレスは、この掲示板の基本原則に反していると管理者は判断致しました。よって、当該書き込みを削除すると共に、以後の当掲示板へのご参加をお断りいたします。

なお、問題となった発言以外の書き込みにも、様々な問題点が存すると考えますが、以後のご参加をお断りする事により、削除するまでもない考えますので、削除せずにこのままと致します。

なお、この管理者の措置にご意見がありましたら、引き続き承りたいと思います。

2474犀角独歩:2007/09/22(土) 10:26:55

ごく個人的なつぶやきですが、Livedoor の無料ブログを使っていますが、表示トップ記事には勝手に広告がつくようになりました。これは書き込まれている内容をコンピュータが判断し、自動で適当な広告を選んで貼り付けてくるようです。

わたしの書いている内容がそうだからでしょうが、やたら、創価学会系か、寺院の広告がくっついてきて辟易しています、まあ、無料ですから、文句も言えませんが。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/

あと、犀角独歩、「犀の角のように」という題名を付けたブログやら、ページが、やたらと増加。内容も、仏教であったりします。
いわば、犀角独歩、犀の角現象とでもいう様相を呈しています。

これによってわたしのHP、ブログなどのヒット率が低下しています。
巧妙な嫌がらせの類かと思っています。

2475顕正居士:2007/09/30(日) 14:11:37
SecondLifeの中にあった外国のSGI会員とおぼしき方の公開祭壇。
曼荼羅は厨子の中。希望者には見せてくれるそうである。

ttp://www.geocities.jp/xianzhengjp/altar.jpg
ジオシティの画像には直リンクはできないのでコピーして頭にhを補って下さい。

*SecondLife MMOの一種であるが、すべてユーザーが作ったもので出来ている

2476顕正居士:2007/09/30(日) 17:09:23
これもSecondlifeの中のPrivate Temple。
「六十七歳 日顕」とある。こちらは日蓮正宗の方だろうか。
ここにも曼荼羅があり、以前は公開していたようである。

ttp://www.geocities.jp/xianzhengjp/temple.jpg

2477青蓮:2007/11/04(日) 14:57:39
石山教学は出世の本懐というキーワードに病的にこだわり過ぎている感がある。出世は世に出る事で本懐は本来の目的という意味でありましょうが宗祖におかれては本門の法華経の弘通、或は三大秘法を世に弘める、簡潔に言っても難しく言っても本尊流布する事でしょう。要約すれば、つまりは本尊をしたためて是を受持し世に弘通して行く事であると阿仏房へのお手紙等には明確に金言として残されている。いつの本尊がプレミア物みたいな次元の低い話しではない。実際には弘安2年に本尊も戒檀も題目も日本の全土に流布されたわけではないが、宗祖の出世の本懐を遂げたとのお手紙はこれで必ず広宣流布が出来るという確信からの御金言であると私は感じます。

PS:いつも書き込みを読ませて頂いています。私のような無学の者には大変勉強になります。

2478青蓮:2007/11/17(土) 22:00:17
絵に買いた餅は味も食感も匂いもわからない。

きっと、もしも餅を知らない人に餅を説明し理解させる為にはとてつもない理屈の山を築いても足りない程になるのでしょうね。

ところが餅(三大秘法)がここにあるという事になれば話しは早い。簡単だ。餅を食べてみれば判る。長々と説明で時間を費やすより食べたほうが美味しいし幸せになれる。きっとそれが日蓮仏法なのでしょうね。

2479犀角独歩:2007/11/17(土) 22:41:34

では、お尋ねしますが、食べておいしい日蓮仏法の味とはどんなものでしょうか。
また、各人が、「これこそ、おいしい日蓮仏法だ」と思う味は、本当に日蓮のレシピだという証拠はどこにあるのでしょうか。
結局は、的外れの自己満足ではないでしょうか。
そもそも、日蓮は三大秘法などとは言っていません。

2480管理者:2007/11/18(日) 06:44:11

犀角独歩さん

当スレッドの趣旨はご承知の通り、「何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」となっています。ここでの議論は、スレッドの趣旨になじみません。よろしくお願いいたします。

青蓮さん、

犀角独歩さんに申し上げたとおり、ここは議論する場所ではありません。今回の書き込みは、激しい議論の的となる様な内容であり、当スレッドになじまないと思います。当掲示板の議論に一石を投じられる場合は、該当スレッドに書き込んでください。よろしくお願いいたします。

2481犀角独歩:2007/11/18(日) 09:10:55

管理者さん、趣旨は理解し、従います。

が、当スレッドは、応酬、議論を逃れて、言いたい放題を書ける欠点を有しています。いままでも、そのような悪用はあとを絶たなかったわけです。
そのようにならないよう、管理を重々、お願い申し上げます。

今回の問題にしても、「一念三千とはなにか」というスレッドを立てることを提案しておきながら、その議論には全く参加せず、その内容に抵触し、かつ、各投稿を抵触する内容を「つぶやき」として書くことで、応酬を逃れた、一方的な批判となっています。このようなことが許されるのであれば、議論そのものを挫くことになりませんか。実に不快なことです。重ね重ねよろしくお願い申し上げます。

2482管理者:2007/11/18(日) 11:15:58

犀角独歩さん

>「一念三千とはなにか」というスレッドを立てることを提案しておきながら

スレッド提案は「春風」さん、このスレッドの書き込みは、「青蓮」さん。別の方だと思いますが・・・


>管理を重々、お願い申し上げます。

はい。厳格に管理してまいります。よろしくお願いいたします。

2483犀角独歩:2007/11/18(日) 20:37:01

まずは、春風さんには、早計勘違いをいたし、大変ご無礼を申し上げました。茲に謹んでお詫び申し上げます。

また、管理者さんには、ご批正を賜りましたこと、深く御礼申し上げます。
今後とも、ご指導・ご鞭撻の程、お願い申し上げます。

2484犀角独歩:2007/11/26(月) 19:53:12

松本師から電話を頂戴した。
「法華経に“祈祷”なんかない。法華六大部にない」
かつて、そんな検索はしたことがなかった。
早速してみると、本当にない。

六大部で“祈”で検索してヒットしたのは、以下のみ。
法華経は、やはり、祈祷の経典ではなかった。


摩訶止觀.TXK(8795):7知次位8,T46'No1911,98a,28
樹崩倒。摧折我人衆惡傾殄。是名懺悔。勸
請者。名爲祈求。聲聞自度直懺己罪。菩薩
愍衆故行道故須勸請。我今知罪尚不得


止觀弘決.TXK(4747):2-2修大行,T46'No1912,193c,14
今文但是顯機顯應。亦冥亦顯機顯應。請又
三義。延請爲身業。祈請爲口業。願請即意
業。又五體是身業。四偈是口業。繋念是意業。

止觀弘決.TXK(4749):2-2修大行,T46'No1912,193c,16
業。又五體是身業。四偈是口業。繋念是意業。
又延是請人。祈是請法。願總人法。機既
開三應亦應爾。三業亦應各有二句機應

文句記_.TXK(14030):8法師品10,T34'No1719,307a,27
倶無力。初約觀中初總明觀。言雖通諸意
且在圓。依通觀下歴教明觀。祈體理同故
略三藏。法華論等者。水如佛性。取之不同

2485天蓋真鏡:2008/01/10(木) 01:39:21
謹賀新年、 去年の内に池上本門寺行けなかったので 2008年中には行きたい。

2486大観:2008/01/11(金) 02:26:45
http://www.rakuten.co.jp/garou/890674/890840/917011/#830947

2487犀角独歩:2008/01/11(金) 21:25:31
>2486

どうでもいいですが、「妙法蓮華教大曼荼羅御本尊」ではなく、「妙法蓮華‘経’大曼荼羅御本尊」ではないでしょうか。
こんな間違いをするようではしようがないですね(笑)

2488カワガミ:2008/01/14(月) 20:05:53
頭ん中が走馬灯ジョターイの私は頭破七分?
いやいや三十路超えのアレだからだな。
若くないわな。みんなそうだよ、うん。うん。

2489カワガミ:2008/01/17(木) 13:38:33
祟教魔光を破ってくる。

2490偶ロム偶ログ:2008/01/22(火) 04:16:40
つぶやきです。

○正宗系で二百年以上の歴史をもつ寺院では、信心が4世代以上続いていて、ようやく信徒としてみとめられる。
○形木本尊は仮本尊であり、仮信徒のものである。
○裏書のない形木本尊は仮本尊未満である。
○家庭の仏壇に安置し礼拝する本尊は墨書紙幅の本尊である。
○家庭の仏壇に安置する墨書紙幅の本尊は当主を被授与者とする。
○当主死去の場合は再感得後は家宝として、礼拝してはならない。
○当主死去後は次期当主宛の墨書紙幅本尊を安置する。
○脇書もしくは裏書のない墨書紙幅の本尊は仮本尊である。
○板本尊には、賞与のものと供養堂(位牌堂)のものの二通りしかない。
○賞与の板本尊は匣に収めておくもので礼拝するものではない。
○供養堂(位牌堂)の板本尊は破損しない限り永代一体のものである。
○供養堂(位牌堂)に紙幅本尊を安置することは永代の義に反する。
○寺の本堂の本尊は住職一代限りの紙幅が本当である。

ずいぶん昔に、亡くなった老僧方から聞いた話のメモ書きからです。
今の石山の僧侶でこんなことを知っているのはほとんどいないのではないでしょうか。


>>2484
独歩さん、松本さんは「法華経に祈祷はない」と。
鎌倉時代に祈祷の無い宗教は禅系だけでしょうね。
日蓮さんは禅僧ではなかったのですから、当然、法華経にはない祈祷をしていたのでしょうね。
ところで法華経に「南無妙法蓮華経」「智識相承」はあったでしょうか?


僧侶のなかに、講義をして金銭を取る人がいるらしい。
僧侶の講義は、基本的には学衆にするもので、学衆を育てるのは僧侶の勤め。
寺に上がった学衆は、金銭を払うどころか、衣食住はもちろん小遣いまで僧侶に面倒をみてもらうもの。
寺子屋でさえ金を取ったなどという話はない。
明治維新以後、妻帯、有髪、洋装、冠り物をする「僧侶」と名乗る職業人が出現したが、、、。
「僧」とは曾て人であった者、つまり今は「人でなし」。
「出家」とは、家を出る=家出・外出ではなく、「出・世間」。
お布施を喜捨していただくのは可としても、金銭の要求・請求は商人のやること。
「智識」とは智慧と見識をいう。
智慧も見識も相承などできるものではなく、天稟のみ。
人の知らないことを知っているのは「物知り」といい、智者・智人とは違う。
理とはことわり、それを覆い隠すことを屈という。
屈とは高い山に庇をかけることの意でもある。(辞書なんぞ探しても出てはこない)


優・良・可・不可、不快は不可、愉快は可、では良・優とは?

2491犀角独歩:2008/01/22(火) 16:05:49

こちらは「つぶやき」なので、2490を拝読して、「なるほど」とつぶやきのみにしておきます。

2492偶ロム偶ログ:2008/01/27(日) 05:53:19
ないのなら作って見せよう板本尊

三ホトトギスのような句はできなかった・・・

2493問答迷人:2008/01/27(日) 09:17:52

偶ロム偶ログさんに倣って、三句です。


偽ならば いつかはばれる 板本尊

偽なれば ばらしてしまえ 板本尊

偽物と ばれてしまった 板本尊

2494犀角独歩:2008/01/27(日) 09:27:49

お二人ともうまいですね(笑)

2495偶ロム偶ログ:2008/01/27(日) 23:09:47
偽だから いくつも作れる 板本尊

ばれたなら たくさん作って ごまかそう

偽だから 花押を入れても だいじょうぶ

偽だから 金箔入れて 虚仮威し

2496犀角独歩:2008/02/07(木) 18:52:16

本日は2月7日、日興の示寂から675年の祥月命日。
それと共に、戒壇本尊を偽物と記した『河邊メモ』から、ちょうど30年目に当たるわけですね。感慨深い1日といえるでしょうか。
それにしても、日興の祥月命日に戒壇本尊の偽物云々がメモされたというのは、皮肉という感想を懐きます。それにしても、興師会の当日、帝国ホテルで話し合っていたとは、なんともはやという印象も懐きます。

2497問答迷人:2008/02/15(金) 17:51:35

ここ数年、こんな気持ちで、こんな事を考えて過ごして来ました。


日蓮を 信ずるならば 真跡だ 宗派都合は 宗祖欺く

大石寺 富士門流で 最悪だ ウソ塗り固め 信徒欺く

学会も ウソに気づいて 大慌て 破門されても 本音は安堵

2498アスラン:2008/02/15(金) 19:48:34
金儲け主義、坊主丸儲けだと創価時代は声高らかに良く口にしてきました。しかし良く良く冷静になった近頃は、もしそんな連中の集まりだったとしたら…創価など切れる訳が無いだろうと自然に思う。上手く池田をちょろまかし、適当に持ち上げ、バカな幹部辺りに少々握らせておけば何とでも道はあったはず。財務で借金を作るのは自分も含め山ほど見てきた。しかし内拝料や講費に追われている人は見た事がない。あれは偽物これは偽物呼ばわりした所で、では他宗教は?墓檀家、葬式坊主、法要坊主。宗教法人をいい事に未だに荒稼ぎを続けている宗派の本尊の真偽など、それこそ問題だと思う昨今。

2499大縫 薫:2008/02/20(水) 23:31:59
今日、所用があり信濃町に行ったが駅横の学会系仏具店を覗いて見ましたが
仏具と全然関係ない、俗に学会グッツと言われるものが売れていて、店内で
はシナノ企画が作成したビデオが流れていて、荘厳さが全く感じ無いどころ
か異様な雰囲気になっていたのが印象に残りました。
余談ですが・・・・・
額入れには、八葉蓮華が入っていて飛ぶように売れてました。

2500偶ロム偶ログ:2008/02/21(木) 00:33:04
僧侶に限らず宗教で生活している所謂聖職者のほとんどは、意図的なのか無知な
のか、信仰と宗教(若しくは教団)を混同して信徒に君臨している。
もちろんこれは新宗教についても同様だと思う。
教団専従者、彼らは信徒にたかっていることすら自覚していないのでは。
信徒に必要なのは宗教や教団や教学などではなく信仰だと思う。

2501問答迷人:2008/02/21(木) 21:55:48

創価学会時代
幸せに なれると言われ 拝んだが 活動迫られ 己失う 

法華講時代
清流と 信じた僕が 馬鹿だった 富士の濁流 全て飲み込む

現在心境
偽物と 気付いてからは 聖人の 教え求めて 晴れ晴れと

2502犀角独歩:2008/02/21(木) 21:55:56

ここは富士門流信徒の掲示板ということで、富士=日興ということになるのでしょうね。ですから、判断の基準が日興の在り方になっています。

しかし、わたしは日興よりも日蓮です。
では、日蓮が拝んでいた本尊とは何か。その答えは、実は日興が書いた文書にありますね。

一、御所持仏教の事
  御遺言に云はく
  仏は釈迦立像 墓所の傍に立て置くべし云云。
  経は私集最要文注法華経と名づく 同じ墓所の寺に篭め置き、
  六人香花当番の時之を被見すべし。自余の聖教は沙汰の限りに非ず云云。
日興筆『御遷化記録』の一節です。
「仏は釈迦立像」、日蓮が、生前、拝んでいたのは何でしょうか。漫荼羅ですか。漫荼羅なんか、拝んでいませんよね。釈迦仏像です。
では「仏は釈迦立像 墓所の傍に立て置くべし」というのを、寂然門下は墓に捨て置けと解釈した。果たして、そうでしょうか。生涯、自分が拝んできた釈迦像を、死して墓に入っても傍らに置いてくれと日蓮は言ったのです。どれほど、この仏像を日蓮は大切に思っていたのか。一節に、この釈迦像は、伊東流罪の折、日蓮自ら流木をもらい彫ったという伝承があります。流罪地で、仏像もない場所で、釈迦仏を求め、自ら刻んで、そして、拝み続けた仏像。そこにはどれほどの思いが籠もっていたのでしょうか。
わたしが同じ境遇であれば、墓場まで持っていきたいと思いますね。
実際、日蓮はそう遺言した。では、日蓮が「本尊」といったのは漫荼羅でしょうか、仏像でしょうか。そもそも、日蓮が拝んだ仏像は真蹟に明確です。一方、では、日蓮が拝んだ漫荼羅なんかあるのでしょうか。ありませんね。

わたしは日興門流というより、日蓮門流として、この事実に着目してきたわけです。

2503犀角独歩:2008/02/21(木) 21:57:44

【2502の訂正】

誤)寂然門下は墓に捨て置けと解釈した。
正)石山門下は墓に捨て置けと解釈した。

2504パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:26:52
議論が活発化するのはいいのですが、信仰感情から板のルールを逸脱してカキコ禁止になるのは
よろしくありませんね。
また、引用文献も蓮祖遺文としては明確でない物を自明としているのは、まさに
素朴な疑問で自分が引用した
"自明なものに変換し、人々をそのようにふるまわせる社会的装置である"
そのものですね。

せっかくなので、この宗教の法則のリンクを張りたいところなのですが既に落ちているため
過疎っている"信仰は役に立つか"に、九つupさせていただきます。
大変長文になって申し訳ないのですが、教団信仰を見つめ直す時に役立ちますので
管理人さん含め諸氏、順番がずれた事はご容赦ください。

2505問答迷人:2008/02/23(土) 22:51:56

御書全集と言うのは、本当に問題を孕んでいる。創価学会版にしろ、大石寺版にしろ、御書全集に収められたものは、全て日蓮聖人の御金言、と勘違いしてしまう。

目次を見れば判るのに。真跡、時代写本が何処に有るか、明示して無いものは、信心の糧にはなっても、議論の根拠にはならないことは、明らかなのに。

編纂した堀上人もワザワザ、「真跡かどうか定かで無い物も、信心の糧になるものは収めた」(取意)と述べられている。

真跡でも、継ぎ接ぎのものも有り、何処まで信じてよいか、迷う物もある。時代写本の無いものは、到底議論の根拠には出来ない。

これは、犀角独歩さんが、そのように先鞭を付けられ、当掲示板では、それが議論の暗黙の大前提になっているので、初めてこの掲示板に来られた方は面食らうかもしれないけれど、言われてみれば道理だと、納得して頂けると考えている。

これはルールとして明文化すべきなのかもしれない、と思う昨今である。

2507鳥辺野:2008/02/25(月) 01:52:31
犀角独歩さん
>わたしは日興門流というより、日蓮門流として、この事実に着目してきたわけです

(少し的外れな事かもしれませんが)そういえば、石山系の人はやたらと、「日蓮大聖人の仏法」等という言葉を使いたがりますね。私もかつては使っていたと思います。おそらく無意識に、です。しかし今使うとすれば、「釈迦仏法の中の日蓮教義」となるでしょうね。そういった意味で、この意見に賛同いたします。

2508鳥辺野:2008/02/26(火) 18:17:10
問答迷人さん
>御書全集と言うのは、本当に問題を孕んでいる。創価学会版にしろ、大石寺版にしろ、御書全集に収められたものは、全て日蓮聖人の御金言、と勘違いしてしまう。

しかも、正宗、学会系は、自分たちの「御書全集」の誤謬を棚に上げて、「身延派の御書は偽書が混じっている」「謬義だ」等と、堂々と書籍や機関紙で語るわけです。本当に恥ずかしい事ですよね。

2509犀角独歩:2008/02/26(火) 20:33:13

鳥辺野さん

ご賛同有り難うございます。

わたしの思惟のなかでは、「大聖人直結」などかけらもありません。
単に、日興の考えは日蓮と違う。日蓮の考えは何かというときに日興は考慮しない、それだけのことです。

2510鳥辺野:2008/02/26(火) 20:49:55
犀角独歩さん
>日蓮の考えは何かというときに日興は考慮しない
 
おっしゃるとおりですね。また特に、石山において歴代貫主、学会においては池田さんの考えが即蓮祖の言葉であるかのような発言をしたがりますね。そもそもこれが「法主本佛論」とか、「池田本佛論」と互いに罵倒しあうきっかけになるのでしょうね。

2511偶ロム偶ログ:2008/03/02(日) 20:59:04
富士門の掲示板を、沖縄でロムしている人は、どのくらいいるのでしょうか。捨てハンでもいいので、教えてほしいなぁと。何人かおられるようだったら、3日〜5日の間のいずれかの日に二時間くらいお会いできるかもしれません。急な話しで、ダメならまたの機会を待つことにします。

2513天蓋真鏡:2008/03/05(水) 21:57:37
言い方悪いかもしれませんが、漫荼羅は法華経の付録でしょうか

2515犀角独歩:2008/03/09(日) 13:50:20

日蓮のもの・日蓮にあらざるものという分立は、極めて重要な作業で、わたしがこれを意識したのは、石山で言い古された言葉を使えば「祖道の恢復」、そのためには祖である日蓮の実像の掌握が必要であり、その日蓮のものの道を恢復しようとすることなのだが、こうした作業をする人々の十中八九が、その手前で引っかかって、そのしがらみから、日蓮のものと日蓮のものにあらざるものの分立を躊躇い、答えを先送りにして、自分の信仰を…わたしからみれば、それが新興団体であれ、伝統教団であれ、それらのご都合に振り回されているだけなのだが…固執してしまう。

日蓮における最後のゴール(日蓮という祖の道)まで、まずは歩んでみないかと、再び問いかけたい。

…ただし、その先には釈迦牟尼仏陀という祖のゴールもあり、さらにその先もあるのがこの道なのだが、まあ、そこは丸い地球の地平線の先が見えないように、日蓮のゴールまで歩まないと先は、けして見えないから…

2516天蓋真鏡:2008/03/11(火) 18:45:26
日蓮仏法と言うなら 日蓮本仏派と間違われるので好ましくないでしょうか

2517マターリ:2008/03/20(木) 12:30:27
約14億円で落札された大日如来の仏像は、欠けた所も無く金箔もかなり
残っていて、国宝級の美術品だと思いました。
大日如来といえば密教の本尊ですが、そういえば両手で印を結んでいて
神秘性・呪術性を漂わせていました。

日蓮が祈祷修法面で参考にしたのは、密教・修験道ですが、密教の修行
中、大日如来像を拝んでいた可能性もあるのでは、と思ってテレビを
見ていました。

2518偶ロム偶ログ:2008/03/21(金) 03:02:45
この数日チベットの問題が気掛かりでしょうがない。
ここにはリンクは記さないが、チベットの人たちの衝撃的な写真もネットで
公開されている。
いまの私にできることは祈ることだけです。

2519犀角独歩:2008/03/21(金) 18:00:24

わたしもチベットに関しては、祈ることしかできません。

それにしても、何が中国チベット自治区ですか。チベットはチベットですよね。
世界情勢など、およそ関係のない浮世離れした石山や、顕正会は問題外にせよ、日本政府・公明党も、創価学会も、なんでこの問題には触れないでしょうか。

2520顕正居士:2008/03/21(金) 20:12:20
「目撃」邦人学生、生々しく語るチベット暴動
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00576.htm

中国はチベットに莫大な投資を続けており、西蔵自治区のGDP成長はこの7年間年率12%以上
だそうです。今回の暴動は経済発展に伴う貧富の差の拡大が原因だと思います。発展の恩恵が
下層に及ぶのには時間がかかります。場合によってはより高い教育を受けた次の世代からです。
したがってこの時期には共産革命などを目指す揺れ戻しが起こり、政府は原則強権をもって対処
しなければなりません。あらゆる問題はチベットが豊かになることによってのみ解決されるのです
から亡命政府の高度自治要求がチベット経済発展第一を前提の政策に進歩することを望みます。

2521一字三礼:2008/03/21(金) 22:01:43

チベットという国は、もともと高度に発達した経済社会とは無縁の土地柄だったのではないでしょうか。
そこに、観光収入でのアガリを当て込んだ中央政府と自治区が、鉄道を通して、商業的環境を整備していったのでしょう。

小規模な農業と放牧で成り立っていた社会に、自国を征服した異民族政府から、急速な経済発展と都市化と人が襲いかかってきたのだとしたら、それが悲劇の始まりだったとは考えられないでしょうか。
「経済が発展することで豊かになる」という経済理論の図式が、チベットという独自の伝統と文化をもつ国家を安定させることに繋がるか、私には疑問です。

2522顕正居士:2008/03/21(金) 23:46:37
チベット報道は一方的な宣伝が多い。次はその類いとは全然ちがうインドの記事の翻訳です。

チベットの未来  http://cruel.org/economist/tibet.html

チベットの歴史が後ろへ巻き戻る可能性はないでしょう。

2523しゅんかん:2008/03/21(金) 23:58:55
資本主義→社会主義→共産主義と熟成発展して行く。

よく述べられるところで共産主義国家は一度も樹立されたことは無い。
(社会主義国家も同じ様に捉えているんですが)
中国が社会主義国家であるのか、はたまた在ったのかどうかはさておき、共産主義化を図って
いないのは自明ですね。
以前よりチベット紛争は宗教問題ではなさそうですね、政治的背景がその原因でしょうか?

大和民族が琉球民族・アイヌ民族を席巻しました、米軍人の戦時下に見られるような
非人道的な犯罪が沖縄で頻繁に発生しておりますが私達、ヤマトンチュー(大和人)は何をしたでしょう?
沖縄の方達から見れば私達、ヤマトンチューの態度はまさしく対岸の火事と映っている事でしょう。

遠交近攻は往古より続いている訳ですが、詰まるところ異なる文化を強要したが為に生んだ
悲劇と愚考致します。

2524パンナコッタ:2008/03/22(土) 14:54:39
岩山ばかりのイメージがある西蔵は、クロム・銅・水晶をはじめとして、
コバルト・鉛・亜鉛・金・銀・ダイヤ、そしてザブイェ塩湖のリチウムは世界最大級とか。
またガス田や油田の掘削ニュースも最近ちらほらとありましたが
西蔵への投資の裏には、それを補って余りある天然資源の豊富さであり、
経済成長を続ける中国政府が、諸外国から非難を受けつつも固執する
大きな要因となっているのでしょう。

又、いまさら多田等観や河口慧海の居た時代へ戻れ というような主張の類は、
やはりナンセンスでしょうね。

2525顕正居士:2008/03/22(土) 18:07:38
今日に至るチベット情勢の概略が述べられています。

多民族国家 中国(6/6) 王柯
http://www3.ocn.ne.jp/~kenro/history/china_ethnicity/6.html

なぜ莫大な投資によって豊かになったラサで暴動が起こるのか?

“一国二制度”−チベット問題解決の鍵 徐明旭
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~TIBET/cnd20.htm

2526犀角独歩:2008/03/23(日) 02:42:59

少し論点がずれていると思うのです。
仮に中国の経済的な背景が肯定され、歴史が不可逆的であるにせよ、では、マシンガンを使って、打ち殺していいのかとは別の問題ではないでしょうか。

2527天蓋真鏡:2008/03/23(日) 12:20:22
中華人民共和国の共産主義とは何だったのか? 資本主義への扉を開けた時から共産党の支配は終わっていたのかもしれません。 中国が超大国になった時日本はどの様な国家であるでしょうか

2528マターリ:2008/03/23(日) 16:58:20
日中戦争のころ共産党軍は、国民党軍と第二次国共合作をしていました。
しかし共産党軍は専らソ連とのパイプ役に徹し、謀略によって日本軍と
国民党軍を戦わせていました。上海事変・南京事件など、大きな戦いで
日本軍は、国民党軍を相手にしました。その間、共産党軍は非戦闘地域
で精力を拡大。そして太平洋戦争終結後、国共内戦となりました。
このように、日本軍は、共産党軍と戦っていないのです。

それなのに、台湾政府が親日で、中国共産党が反日というのも不思議な
話です。

現在の中国は、共産主義を脱し、資本主義社会になったように見えますが、
共産主義思想は根強いと思います。中国共産党の謀略体質は、今も消えて
いないでしょう。

チベット問題は、政治・経済・宗教などの問題が、複雑に交錯しているよう
ですが、案外、宗教問題が大きいと思います。中国政府は、儒教教育に力を
入れており、10年間で1万校以上の儒教学校が設立されそうです。
ダライ・ラマのチベット仏教は、共産党にとって、やっかいな物に映ってい
るのではないでしょうか?

2529みれい:2008/03/24(月) 11:12:55
おひさしぶりです。
流れを切って申し訳ないですが、こういったものをみつけましてつぶやきたく。
ここの掲示板でしたら名前でご存じの方もいらっしゃると思います。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/shorikai/sub188.html
現代に限らず、昔々から炭酸水の泡のようにさまざまな宗教団体が発生し、また消えていったのだろうと想像しています。

また一昨日は顕正会員さんとお話しして、ハンセン病と法華経に関しての質問をさせていただいた際には、差別も当然であるかのような発言を受けて(でも本人はきちんと調べていないし調べる気もない)、問題の深刻さを味わってきた次第です。

2530顕正居士:2008/03/24(月) 18:16:21
中国の現体制は依然社会主義であると考えられます。

資本の公有や計画経済はスターリン時代のソ連の特殊な社会体制であって社会主義に何ら
必然の要素ではありません。資本の公有とは事実上党幹部の私有でありますがそうではなく
人民の所有でなくてはならない。中国の現体制はこの当然の公理に戻って来ただけでしょう。
およそ経済の発達に第一に必要な社会要素は私有財産の保証であってこれが薄弱であれば
他の要素である交通通信の進歩、科学的合理的思考、民主的諸制度もまた存在できません。
社会主義とは競争に伴う弊害と独占に伴う弊害に対して政府が一定の調整を行い得るという
思想であってその意味で今日存在する諸国家はすべて社会主義の体制を採用しています。

註 競争に伴う弊害と独占に伴う弊害 いずれは市場が解決するが、たいへん時間がかかる。
今日では政府の介入が必ず失敗するわけではないと考えられている。ただし失敗は常に多い。

2531とおりすがり:2008/03/26(水) 13:57:30
2529のジャンプは、中杉弘氏の関係。正理研究会で石田次男とからみ、その後、催眠術、博士号販売、宗教法人ブローカー、平和神軍、
むすこはラーメン屋。といった経歴

2532パンナコッタ:2008/03/26(水) 19:53:34
高島易断総本部に業務停止命令とのこと。
 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&amp;k=2008032600575

この手の悪徳商法は多々ありますが、宗教法人に停止命令が下ったのは初との事。

2533犀角独歩:2008/03/27(木) 02:27:08

みれいさん

> 顕正会員…ハンセン病と法華経…差別も当然…発言

こうした点が顕正会が反社会的存在として糾弾される所以ですね。
差別の砦となっている顕正会は、この人権感覚が発達した現代社会において、やがて自滅していく存在なのでしょう。それが現証というものです。

2534天蓋真鏡:2008/03/28(金) 16:41:57
マターリさん、顕正居士さん、ありがとうございます。良い意味での個人主義が醸成されないと完全な自由競争社会社は無理かもしれません。儒教と言えば仁義礼智信でしたか?伊達政宗の教訓がありました。

2535しゅんかん:2008/04/07(月) 13:48:27
先程、親類の告別式でした。
歩行が困難な母の介添えをしていて、数珠を見エッ!母は施設に入所してもう何年もなります、学会員の姉兄が手渡したんでしょうね。
数取りに青・黄・赤、信仰をしていないのにどうもしっくりしない自分がいます。

2536偶ロム偶ログ:2008/04/19(土) 13:24:16
富士川さんの仏教掲示板がユーザーつごうで閉鎖されていた。
ほとんど動いてはいなかったけれど、なにかあったのだろうか。

2537顕正居士:2008/04/21(月) 09:09:56
昨日はこんな記事

旧オウムを離脱した上祐史浩氏、独占インタビュー
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070506/10799
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070506/10820

や日蓮、創価学会関連掲示板の過去ログ保存サイトなどを眺めて過ごしていました。
わたしがインーネットにはじめて接続したのがサリン事件の年でした。
そのせいで宗教、カルトの話題に多くの人が関心があり、「宗教のるつぼ」という
掲示板が日本では最も栄えていました。折りしも創価学会が破門予定になっており
宗創論争は中でも投稿の多いテーマでした。ネット接続者は今の100分の1もいない頃、
だいたい礼儀正しく議論していました。
その後、宗創論争の掲示板は数多く立てられ、その代わり教団の主張のぶつけあいや
単なる荒らしあいの場所に転落して行きやがて消滅しました。唯一生存しているのが
問答迷人さんの掲示板です。21世紀に入ると創価学会2、3世の方のサイトや掲示板が
増え、2-3年前まで活発でした。
おおよそ正しい日蓮教義とは→正しい仏教教義とは→正しい思想・哲学とはの順に
思考が進み最終的に日蓮やカルト教団に対して無関心になり、いわゆるマインド・
コントロールが解けるようです。今は完全に一段落しましたから長年のウォッチャー
からは寂しいのですが、無関心になるのこそが快癒であることはたしかでしょう。

2538偶ロム偶ログ:2008/05/11(日) 03:19:09
ったく。
自分のサイトで何事かを書くのはいい、masturbationレベルであっても。
しかし、そのmasturbationレベルをサイトで公表する行為は、公衆の面前での
露出行為と異ならないものだ。
が、これはまだ、自宅の窓から露出しているようなものだから、その家を避け
て通ればいいだけのことである。
自宅での露出でやめておけばいいものを、見られて味を占め、他所にまで出か
けて露出したものを見せようとするのは勘弁してほしいものである。
しかも、見せるだけでなく、交わろうというのだから閉口する。
それも言いっ放し、つまりは相手など関係なく見境なく放出するわけである。
自分がどれほどアブであるかの自覚すらないのだから・・・。
そうして、富士門流信徒の掲示板への出入り禁止になった者もいる。
顕正会に限らず、創価学会や法華講にもそのような悪癖を持つものはいる。
もちろん彼らは例外なく出入り禁止になっている。
念彼観音力悉怨嫉退散

2539天蓋真鏡:2008/05/14(水) 00:07:11
仏滅後→薬王・天台以後→末法〜地涌〜妙法蓮華・一念三千因果倶時、 鎌倉時代の僧・日蓮も経典を学ぶ内齟齬を来す所もあるので自分の時代の纏め方を考えていたのでは無いかと想います。 識字率の低い時代には 唱題だけでも良い方向に変わって行く事を信じていたのでは?

2540偶ロム偶ログ:2008/05/28(水) 14:38:19
正信掲示板
http://otd4.jbbs.livedoor.jp/401307/bbs_plain?base=21674&amp;range=1
において、法陰亭妙俊という御仁が、したり気に戯れ言を吐いている。
どうやら元石山僧らしく正信会にでも所属しているのか。

久々に、僧侶という族に対して不快感と怒りを覚えた。
尊大であることは、石山系僧侶の必要絶対条件のようである。
吐き気をもよおしてくる。

2541再挑戦者:2008/06/06(金) 20:51:21
 2533>らい病と法華経、、。
  ドーモ、お久しぶりです、、。
 生命の流転〜〜〜変転〜〜の含みを容認していたような日蓮でさえ、「、、黒らい
、白らい、、」に関する言々が、教主釈尊殿の残文(法華経)を証拠としていたようです。
 今でも難病のライ病です。 一筋縄では、、、イカン、、でしょうか、、??

2542偶ロム偶ログ:2008/06/07(土) 23:52:08
500100ゲットしました・・・。
500000はゲットできなかった・・・。←かなり、くやしいっす(苦笑)。
だれがゲットしたのだろう?

2543てんてん:2008/06/12(木) 12:12:48
牧口常三郎関係のサイト(長らく更新が滞っておりますが…)の
管理人 てんてんと申します。

先日、三一書房の関係者とおぼしきかたより、竹中労の『聞書庶民列伝』が
今月末から7月の第一週にようやく発刊されるとの書き込みがありました。

ttp://www.san-ichi.co.jp/

以前、偶ロム偶ログさんに書き込みいただきまして、
すでにご存知かもしれませんが、ひと言お知らせまでと思い
こちらをお借りしました。

不適切でしたら削除していただいてけっこうです。

2544富士川一郎:2008/06/12(木) 13:32:01
500900ゲットしました・・・。

2545偶ロム偶ログ:2008/06/13(金) 15:09:28
>>2543
てんてんさん、ありがとうございます。
知らなかったので、助かりますです。

2546マハー:2008/06/21(土) 09:27:26
久々に寄らせてもらいます。

幻冬舎新書の「日本の10大新宗教」島田裕己を読んでの感想をつぶやき。

真如苑を日本の3大新宗教に数えたことに驚き。
学会関係の記事は短いながらも前書「創価学会」より相当踏み込んだ内容が目立った。吃驚した。
寺門興隆の記事はあまり好きじゃなかったのだが・・・
それはともかく、「よく取材したな。」との印象であった。

2547富士川一郎:2008/06/23(月) 11:35:32
>>2546
>>真如苑を日本の3大新宗教に数えたことに驚き。

それは当然でしょう。ある時期に誠に失礼な言葉ですが
「貧乏人は創価学会に、金持ちは真如苑に」
と言われてましたからね。
実際に真如苑にはかなりの高額所得者が入信したそうですが。

2548顕正居士:2008/06/23(月) 13:03:33
真如苑の公称信徒数は85万人ですが、これは実数です。
信徒は磁気カードを持っており、総合道場応現院という主要施設を年2回以上訪れた人数だそうです。
したがって通常の公称信徒数200万人以上に優に相当しますので、立正佼成会と同程度か以上ですね。

2550マハー:2008/06/28(土) 14:54:13
>>2548
御返事ありがとう。
信者数が頭打ちになってくると、信者の管理が非常に重要になってくると思います。
特に檀家制度を採らない新宗教は尚更でしょう。この点にハイテクシステムの導入は合理的であり真如苑は抜きんでているかと思います。
今後各団体とも指紋管理程度までは進んで行くでしょう。

特に真如苑の場合の磁気カードは、信徒数の把握よりも個人ごとのカルテを作り、ホットリーディングをより素早くする為に利用出来るので
費用対効果が充分狙えます。

2551天蓋真鏡:2008/06/29(日) 20:26:23
超改革案・貢献度を計る僧侶(個人の発言権は同じ):向学多少→僧位、 檀家(個人の成道成仏の権利名誉は同じ):寄付金多少→檀位(戒名)、 学問:座禅・唱題・真言

2552天蓋真鏡:2008/08/12(火) 07:20:29
[正法四大菩薩or末法地涌菩薩][一念三千因果倶時or因行果徳継仏][南無妙法蓮華経or九識心王真如][釈尊or日蓮]南無妙法蓮華経と九識心王真如はイコール=なのか?

2553彰往考来:2008/08/12(火) 16:04:10

管理人さんへ、

ここはつぶやきなので議論はしませんが、2551-2552の如き意味不明の投稿はおかしいと思います。
もし個人の防忘録であるなら自分のPCか日記に行うべきです。すくなくともインターネットで全世界に発信すべき内容ではありません。
私は、書き込みルールの
無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。同じ文章の連続投稿、或いは、文章は同一でなくとも内容的に同じことを繰り返し投稿された場合は削除致します。なお、根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。
に抵触し、削除すべきで、繰り返すなら出入り差し止め処分も考えるべきと思いますが、いかがでしょうか?

彰往考来

2554管理者:2008/08/12(火) 16:26:46

彰往考来さん

このルールは議論の中身を視野に置いての書き込みルールだと考えています。

まぁ、この「つぶやきスレッド」は、本来議論禁止スレッドですから、これらの書き込みルールは適用除外的な扱いで今日まで来ました。

ですから、意味不明でも、ご本人に取っては意味のある事であれば、書き込んではいけないとまでは言えないかと思います。

もし、このルールを適用すべきであるという事であれば「禁止事項は、議論禁止のスレッドにも適用されます」という一文を追加した上で、実施した方が判り易いのではないでしょうか。

彰往考来さんから、改めて禁止事項の一部訂正提案を賜りますれば、ご参加の皆様にお計り致します。よろしくお願い致します。

2555彰往考来:2008/08/12(火) 16:43:49

管理人さんへ

「禁止事項は、議論禁止のスレッドにも適用されます」という一文を禁止事項へ追加提案をします。

つぶやくすれっどは独り言、ボヤキの書き込み用で議論は禁止ですが、スレッドである以上、他人に読まれるのを前提にしていると思います。したがって、投稿者本人しか解らない単語の羅列のような意味不明の投稿は削除すべきと考えます。

なお、一文を追加してから削除を実施するのであれば、今までのスレッドには適用されないと理解します。
ご参加の皆様が従来どおりでよいということであれば、そのご意見に従いますが、くそ暑い最中に意味不明のイライラする投稿は避けていただくよう要望します。

彰往考来

2556天蓋真鏡:2008/08/13(水) 00:53:08
彰往考来さん、管理者さん、富士門流の掲示板に関係無く意味不明で何の足しにもならないなら、削除してもらって結構です。論議確認と情報交換などに変えた方が良いかと思います。自分はめちゃくちゃ難儀な質問又は意味不明な書き込みをしているとはおもいません。同じ語句でもカテゴライズの仕分けで質問の内容等訴える中身は違うものでしょう。

2557偶ロム偶ログ:2008/08/13(水) 01:11:23
まぁ、かなり理解しづらいことは確かですが、荒らしや煽りではないですし、
削除はしなくても良いのではないでしょうか。

天蓋さん自身の中にあるいろいろな思いが、整理されないままに噴出しているのではありませんか?

以前から比べると、それでも「、、、」などが激減してずいぶんと文章に近づいておられるようですから、ここは天蓋さんにもう少し分かり易い文章を書くよう心がけていただければと思います。

文章にしづらければ、No.をふって箇条書きでも良いのではありませんか?

2558彰往考来:2008/08/13(水) 10:33:39

天蓋真鏡さん

私は貴殿の投稿は貴殿自身が「富士門流の掲示板に関係無く意味不明で何の足しにもならない」とおっしゃっているのと同意見です。意味不明で何の足しにもならないと思っています。しかしそれだけでは、削除だ!出入り差し止めだ!と騒ぐことではありません。私の理解力が低いためかもしれませんし、ここは私の掲示板ではないからです。ここで私が求めているのは理解できる文章です。内容を問うているのではありません。貴殿は「めちゃくちゃ難儀な質問又は意味不明な書き込みをしているとはおもいません」と述べていますが、私にとっては意味不明の書き込みなのです。貴殿が意味不明な書き込みではないと思っている以上、そこから先に進みようがありませんがとりあえず意味不明の書き込みを例示します。

天蓋真鏡さんの投稿2556でいう「論議確認」とは何なのでしょうか? ここはつぶやきスレッドですから「議論」はだめですが、「論議」ならよいという意味ですか? そもそも「論議確認」とはどういう意味でしょうか?私には「論議確認」の意味が全く理解できません。「論議」とは広辞苑によれば「問答によって理非を明らかにすること。互いに意見を述べて論じ合うこと」とあります。「論議(互いに意見を述べて論じ合うこと)」を「確認(たしかにそうだと認めること)」するのなら議論禁止のスレッドに投稿すべきではありません。議論しようにも議論が禁止されているスレッドで垂れ流しのように投稿されています。これではアンフェアーです。だからフェアーな扱いを管理人さんに求めたのです。決して自分の気に入らないものを強制的に排除するのが目的ではありません。

書き込みのルールによれば、この掲示板の主旨は以下のとおりです。
1.富士門流信徒同士の意見交流の場
2.各所属団体の活動に疑問を持つ方々の心情の吐露の場
3.現状の各団体には所属していないが、信心を捨ていない人達の場
4.富士門流の改革を外部から支えてくれる人達の場
5.純粋に富士門流の信心を知りたい非信徒の質問の場
6.富士門流の聖職者との意見交流の場
この方向性に即した上で、お話が盛り上がってくることを期待して掲示板を設置いたしております。

天蓋真鏡さんの投稿趣旨は2番目なのですか? それなら心情の吐露が他人に理解できる文章でなければならないと思いますが余計なお世話ですか?余計なお世話なら貴殿の投稿は捨て置くことにします。以後、余計なお世話はいたしません。

2559天蓋真鏡:2008/08/13(水) 12:43:42
彰往考来さん、自分の言葉足らずでイライラさせてすみません。自分の書き込みで何か引っ掛かり物事の見方考え方のヴァリエーションが増えればと思っていたのですが、早々に容易くいきませんでした。自分から見ると否定と肯定が極端な結論で終わってしまいそうで。議論確認は議論の質疑応答のレスの事で、つぶやきスレッドは教義論争以外の情報交換の場みたいなので情報交換と括った看板にすれば良いのでは無いかと思った訳です。自分は④⑤⑥の立場を標傍したいなと思っています。

2560彰往考来:2008/08/13(水) 16:39:08

天蓋真鏡さん

どうも私には貴殿の2559の投稿がよくわかりませんね。ここは議論の場ではありませんから私の感想を述べます。議論の場でない以上、貴殿が答える必要はありません。

>自分の書き込みで何か引っ掛かり物事の見方考え方のヴァリエーションが増えれば
私には全く意味不明です。誰が引っかかるのですか?あなたですか読者ですか?何がひっかかるのですか?引っかかって誰の物の見方が増えるのですか?増えてどうなるのですか? Variation(変化、変異)を理解されていますか?

貴殿は信仰の世界で何故variationが必要なのですか?という質問に答えられないはずです。私は信仰の世界でvariationが必ずしも必要とは思っていません。

>つぶやきスレッドは教義論争以外の情報交換の場
そうでしょうか。それでは情報交換の場でありながらなぜ議論が禁止されているのでしょうか。情報交換であるなら応報があたりまえです。つぶやきスレッドは情報交換の場ではありません。(管理人さん、そうですよね?)
情報交換の場がご必要であれば相応のスレッドを立ち上げられてはいかがですか?ただ貴殿の投稿は情報を供与しているのか求めているのかさえ不明なのです。それでは情報など得られませんし、貴殿の発信する情報モドキを必要とされる奇特な方がおられるかどうかわかりませんね。

>自分は④⑤⑥の立場を標傍したい
というのは、前の文章には丸数字(④〜⑥)がありませんが、内容から判断して
4.富士門流の改革を外部から支えてくれる人達の場
5.純粋に富士門流の信心を知りたい非信徒の質問の場
6.富士門流の聖職者との意見交流の場
でしょうが、あなたは富士門流の改革を外部から支えているのですか?それでは意味不明の投稿など有難迷惑というものです。
純粋に富士門流の信心を知りたい非信徒の質問というのであれば、単語の羅列などそもそも人に物を尋ねる際の礼儀を失しています。
聖職者との意見交流であるならなおさら礼儀が必要ではありませんか?
そもそも質問や意見交流なら議論が禁止されているスレッドへの投稿は自己矛盾しています。

要するに貴殿のロジックはすべて破綻しているのです。貴殿がどういう目的で投稿されているのかさっぱりわからないというのが私の感想です。

2561管理者:2008/08/13(水) 17:27:39

彰往考来さん

天蓋真鏡さん

>つぶやきスレッドは情報交換の場ではありません。

そうですね、このスレッドは、本来、息抜きの為の、休憩室として想定されています。独り言専用スペースですから、ここで情報交換を期待する事はかなり困難ではないでしょうか。なにしろ、ここは応酬禁止、議論禁止ですから。

2562マターリ:2008/08/13(水) 18:34:14
天蓋真鏡さんのカキコは、数学の方程式のように簡潔にまとまっている
のだと思います。しかし簡潔過ぎて、他人が理解し辛いので、説明書き
が必要と考えます。説明書きをすると、本文の5倍〜10倍くらいの、長い
文章になるのではないでしょうか?

昔は、難解な文章を書く人が、文章の達人と思われていました。難しく
て、凡人には訳のわからない文章ほど、高級と思われていました。

しかし現代では、平明達意の文章が、良い文章と考えられています。
つまり、簡単で、しかも他人に意味が通じる文章です。

こたつに入って、おばあさんに話してみて、意味が通じるような文章が
求められていると思います。

こちらの掲示板に当てはめますと、どんな仏教初心者が見ても、簡単に
理解できるような、やさしくていねいな書き方が、必要なのでしょう。

2563天蓋真鏡:2008/08/13(水) 20:31:00
ヴァーリエションが増えると言うのは、自分が信仰するに当たって理解するために必要な理屈・説明で、只見た儘感じた儘で理屈など要らないなら他人の言う事書く事からは目を背ければ良いだけの事。天蓋真鏡の書き込みは完全無視すれば宜しいのでは無いでしょうか。自分はロジックをごねる程の質量が無いので此のレス立てに書いただけの事なので無理に返事を求めてません。結局「自分で調べて自分で考えて自分で行わなければ理解できない」のが信仰信心の質量ならば、釈迦や日蓮の行いの真似をして得られた事が自分の真実であり教義でしょう。シンプルに結論を得たいなら他人に質問する必要もないのでは無いでしょうか。

2564天蓋真鏡:2008/08/15(金) 15:00:42
漫荼羅掛軸を御先祖様に説明するのか[中央首題・自分の一念三千因果倶時を尊形する経典、泥中キレイに花を咲かせる蓮][十界互具・10の世界要素を秘めている、どんな形で表現するかは各々個人差][三国四師・釈尊天台伝教日蓮][四天王・東西南北][二明王・愛染自分の病魔を折伏して健康管理、不動自分を五大明王で摂受して人生充実]云々

2565犀角独歩:2008/08/16(土) 18:52:10

ただいま、「管理者からのお願い」で、天蓋真鏡さんのつぶやきに関しては、検討中。
2564は、ややフライングと感じますね。

2566彰往考来:2008/08/17(日) 09:45:02

ここはつぶやきなので、以下ブツブツ。

天蓋真鏡さんの投稿をみていますと、まるで私の出来の悪い部下の仕事をみているようなのです。唯我独尊というか天動説(世の中は自分中心に動いている)というか極楽トンボというか。出来の悪い部下は自分が正しいと思っているのでよけい始末が悪いです。
仕事がら(技術開発のマネージャーをしています)部下がわけのわからない報告書を持ってきた場合、真赤に添削したり、時間をかけて指導したりすることがあります。それがその者に対する教育であり放っておいたら将来大変なことになるからと思うからです。しかし回りの人の大方の意見は、放っておくというものです。曰く、忙しいのでアイツにかまっているヒマはない。曰く、言っても聞かない。曰く、自分には関係ない。等々。
確かに真赤に添削したり、時間をかけて指導したりすることは負荷が多く大変です。でもそれをしないといけない。心を鬼にしてもしないといけない。でないと出来の悪い部下に足を引張られ会社の発展はないし、事業の継続もおぼつかなくなってしまう。そういう想いです。
だから私は理解できない文章は排除します。もちろん内容が濃く難解で自分の知識でもって理解できないものは排除しませんしできません。排除する(やり直しを命じる)のは小学校の日本語からやり直しなさい!もう一度足し算から勉強し直しなさい!中学校の英語のレベルですよ!という程度のものです。

天蓋真鏡さんの2564の投稿は2565で犀角独歩さんがご指摘されているように、まさに今管理人さんのところで検討していただいている最中であり、常識的には1週間程度のこの期間中は投稿を見合わせるべきでその意味ではフライングといえます。現時点でこのような内容を投稿してはいけないというルールはありませんが、私には、「誰に何をいわれても俺は訳のわからない投稿を継続するゾという天蓋真鏡さんの意志表示」にしか見えません。

天蓋真鏡さんの投稿が理解できないのは単語の意味付けがデタラメだからです。例示するなら、天蓋真鏡さんは2563で「自分はロジックをごねる程の質量が無い」と述べています。質量(mass)とは「物体が有する固有の量」という定義です。よって「自分はロジックをごねる程の質量が無い」というのは日本語になっておらず意味不明です。但し、前後関係から類推するに天蓋真鏡さんは「自分はロジックをごねる程の技量が無い」、「自分はロジックをごねる程の能力が無い」というような使い方で質量という単語を使っていると思われます。しかし質量には技量とか能力とかという意味はありません。もし、ここの文章を天蓋真鏡さん流に単語の羅列をしたらどうなるでしょうか?
「ロジック、ごねる、質量、無」
どうでしょうか?意味が通じますか? 単語の意味付けがデタラメだと到底理解することができず、この人は何をいいたいのかさっぱりわからないので余計な労力を要し結果としてイライラするのです。

2567一読者:2008/11/15(土) 23:46:53
犀角独歩さんの戒壇本尊は偽物だということが、このコーナーで理解でき、大石寺信仰から少しずつ離れていく自分があります。まだmだ知りたいことはたくさんありますが、罰だとか謗法だとかいう言葉の呪縛から時はなれていくことができることに、喜びを感じます。ありがとうございます。とはいえ、では歴史の真実は何かを知りたいと思います。ぜひ、戒壇本尊が偽物だという書籍を一般書店でも手に入り、多くの方に知っていただくようにしていただきたいのです。島田教授の最新刊に犀角独歩さんの研究が掲載されていたので、そのように思います。難しい教学のことはわかりませんが、あまりに盲信している方が多く、私の親族もすべてそうなのです。目覚めてほしいのです。どこに書いてよいか分からないのでここにしました。

2568犀角独歩:2008/11/16(日) 07:47:59

一読者さん

はじめまして。ご高覧有り難うございます。

2569偶ロム偶ログ:2008/12/31(水) 03:45:02
あの、山●●友サンが29日夕方、自宅で倒れ亡くなったとのこと。

享年72歳。

長年にわたっての創価学会批判を評価する人たちもいるようだが、私の見方は
全く異なる。

彼とそのお仲間たちの「創価学会批判」のおかげで、創価学会に対するまとも
な研究や批判が壊滅状態に陥ったと、私は思っている。

彼らは生活のために「創価学会批判」という名目の営業活動を続けていただけ

である。

山●●友サンたちのおかげで、創価学会批判は30年は遅れたと思う。

だから冥福は祈る気にはならない。

幸いなことにようやくここ数年は島田裕巳さんがまともな「創価学会論」を書
いているので、マスコミやジャーナリズムも多少は風向きが変わり始めたよう
な気もする。

2570たけぞう:2008/12/31(水) 17:41:18
亡くなりましたか。
彼の人生はなんだっだのだろう。
私も学生部時代、彼とほぼ同期で一緒に活動してきました。
もちろん、原島氏も一緒です。
学生部時代から、彼は卑屈というか卑怯というか、嫌な性格でした。
でも当時の学会は、東大とか京大の学生を特別扱いし、たいした経験もないのに幹部にしたり。
そんな中で弁護士第一号。
池田名誉会長がさかんにチヤホヤしていました。
チヤホヤされ、甘い汁を吸い、今度は批判者として生きていく。
コツコツと真面目な信仰出来なかったですかね。
信心第一、唱題第一、易しそうで難しいことなんですね。

2571いちりん:2008/12/31(水) 18:29:14
そうですか。山友さん、亡くなりましたか。
原島さんも、たしか今年、亡くなったんですよね。

ま、彼らの批判によって生々しい創価学会の実態、池田さんの実像が、伺えたようにも思います。

池田さんと学会に対する深い思い入れがあったがゆえに、かえって憎悪も怨念も強いものがありましたよね。
人生のほとんどを学会に使った生き方でしたからねーー。
その人生はなんだったんだろうと。
つらかったろうし、憎かったろうし、やぶれかぶれにもなったろうし。

いちど正信会の大会で、佐原まで出かけていって、いちばん前でお二人のことを観察させてもらったことがありました。
原島さんは、なにか肩の力が入っておりました。山友さんは、まあ余裕でにこやかでありました。

2572幻論乙坊:2009/01/01(木) 19:41:21
諸賢
破顔一笑
明けましておめでとう御座います。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。

本年よりHMをしゅんかん→幻論乙坊に変更致しました。

2573再挑戦者:2009/01/01(木) 20:51:31

 2570 > 、、チヤホヤされ、甘い汁を吸い、、、。>
 
 その甘い汁の存在 自体も 末端のわれらは、知りませんでしたゼ !!!
 その内部の、秘密にしたい情報を秘匿したい団体、?さえも、、知り得ません、でした、。

 その、カギとも言える扉の、パンドラの、蓋を、開けてくれた、? という、現実的な効果 ? だけは、 マジに評価、したいですナ、。 
 
  S会 関連者には 肯定不可能な厳しい案件、だろうが、?

2574偶ロム偶ログ:2009/01/03(土) 05:49:38
まぁ、いちりんさんや再挑戦者さんの言い分にも一分の理はあります。

しかし、彼らが本当に学会時代の自らの言動の非を反省懺悔していたかどうか。

彼らの池田サン批判は彼らが学会にいた時の話題が主でしたが、その時に、実質
池田礼賛と神格化を進めていたのは彼らでした。

除名後もアンフェアな批判(?)もどきを繰り返し、結果として学会を利する
ようなていたらくのケースが目に付きました。

パンドラの箱なんぞは、昭和42年に元学会員植村左内氏(故人)によって、とうに
こじ開けられていたのです。

仮に彼らによって箱が開けられたとしても、それで学会になんらかのダメージ
なり反省なりがあったといえるのか。

彼らが除名されても勢力の実質的バロメータといえる議員数や得票数は増加して
います。

ガセネタによる批判の弊害は創価学会を政権与党にし、創価学会を研究する学者は
ほとんどいなくなってしまいました。

つまり反効果だけが残ったのです。

2575一読者:2009/01/04(日) 11:29:59
私はとある寺院(正信会でしたが)で原島さんとお会いしお話したことがあります。私はご家族を大切にしていますか?と言ったことがあります。そのとき涙をためて、つらいことです。と答えられ、あぁ幹部だった方も人間らしいところがあるなと感じたものでした。このころは正信会寺院を回り、講演したりしていた時期ですね。どこか哀れでした。結局は宗創紛争に巻き込まれた被害者でもあったのだと思います。山友さんもそうかもしれません。組織の下の方の人間には分からない世界があったのでしょう。ただ、お二人のお蔭で脱会した方もあったわけで、私などはそれから本当にこの宗派は正しいのだろうかと考えるようになったのも事実です。その意味では感謝しています。複雑な事情や細かい人間性は分かりません。ただ少なくともなくなられた方には、慈悲心で合掌かなと思います。さきほど創価の方でしょうか、あいかわらず口汚くお二人を罵るブログを見て感じました。本当にこの宗派には寛容というか慈悲心がなさ過ぎますね。ちょっと、つぶやいてみました。

2576再挑戦者:2009/01/04(日) 18:56:51

 2574、、>> 池田 礼賛と 神格化をすすめたのは彼等でした、。、、、ガセネタによる、、つまり反対効果だけ、、>>

 なかなか、、きついご意見 でしょうか ?
  
 「最も チヤホヤされての特別な本佛のようなヤラセ的な仕掛けが奏功して、 最も 甘い ? 汁を ? 思う存分に 吸い始めた、? 目の前の 暴君化した、 親分に対して、腰が引けた大勢多数がいた、、。
 
 その視点に、??? ・ マーク を 投影 されたのが 彼等 では無かったか  ?? (「池田大作の品格」、「「創価・公明@2chj掲示板)

2577再挑戦者:2009/01/04(日) 20:16:30
2574 、、 S会への思い入れ には 理解 するが、 エエカゲン 化けの皮は とっくに ? ですぞ !
 
 一信者を、、蹂躙するのは ? か ?

2578偶ロム偶ログ:2009/01/05(月) 09:37:20
つぶやきです。

名指しであればきちんとお答えもするのですが、レスナンバーでの意見ですので(笑)

>S会への思い入れ

そんなものは30年以上前に捨てています。

>理解 するが

無用・迷惑なことですし、理解してないですよね、言葉だけ(笑)

>化けの皮は とっくに

意味不明かつ石山創価圈特有のレッテル貼りはつまらんですよ。

自己満足の文体もいーかげんにやめないと本当に誰からも相手にされなくなりますよ。

あ〜あ、正月からつまらんですなぁ。

2579一読者:2009/01/05(月) 16:00:40
再挑戦者さんは何を主張したいのでしょうか。賛成にしろ反対にしろなんにしろ、意味の読み取れない文章をこうして出してくるのは、みなさんに失礼かと思います。自己満足の壁の落書きではないのですから。偶ロム偶ログさんではありませんが、年の初めの文ではありませんね。

2580再挑戦者:2009/01/05(月) 19:07:23

 それは それは ご迷惑をおかけしまして ドーモ です 、。

 なにぶん 「 本当に 有るか ? ダマシか ?不明 ? の 成仏?」 とやらに ぞっこんにほれ込んでおる バカ ウマ、シカ、 ドアホ、?の一員 でござる 。
 それゆえ お気に触る、? が あれば 私の 無学のいたすところ 故 「 深心から 陳謝を 致したく 存知 申し あげまする、」 、!! 敬具。

2581顕正居士:2009/02/06(金) 00:51:46
宗教というものを現世や来世の自己の利益を期待して信仰するのであれば、
これほど人倫に反したものはありません。ちょっとよい詩を見つけました。

「むしろ地獄に」

弥陀の敵(かたき)ぞ放逸ぞ/進めば極楽に入らう/一歩の後は地獄の火の/燃え立つを知らじか
名号の旗の下(もと)に/立ちたる僧は罵る/親とて、主君とて/信心なきは仏敵ぞ/宗門の外護(げご)の役/
命ひとつ奉れと/攻めよする勢ひは/さながら猛火(みゃうか)の焔なり

三葵(みつあほひ)の旗はなえたり/金扇光うせて動めく/あはや主の元康/この原に消えたまはむ
思へば、主君、後世、忠義/忍びがたきわが心/尽未来まで苦を受くるとも/この様を見るは憂し

いざ来れと総角(あげまき)を/引かへして大音に/われは無間に落ちなむ/心がはりし土屋と名(なの)る
五騎三騎のつはもの/悪業と声かけて/槍あはせはたはたと/穂長の薄(すすき)ひらめく
土屋は斃れたり/敵にしてまた友垣なる/数の勇者も斃れたり/闇は静(しづか)にすべて掩ひぬ。

-山崎紫紅 『大日蓮華』

*土屋重治 一揆側に加わっていたが、家康公が危険に晒されているのを見て、「もう地獄に落ちても構わない」
といって、家康公を助け死んだという。

2582たけぞう:2009/02/06(金) 15:06:36
hageさん
宮本さん
いちりんさん

このスレッドで日蓮仏法の信仰を語りませんか。

私は、かねがね創価学会教学での日蓮本仏論に疑問を持ってました。
開目抄の、詮ずるところ天も捨て給え云々を本仏の境涯と解釈し、開目抄後段の日蓮聖人が過去に自分が法華経の行者を批判したところには言及しないのです。
ですから、学会教学ですと、法華経の行者日蓮という偉大なる凡夫が伝わってこないのです。
そうこうしているうちに、久遠元初を検索すると、本因妙抄と百六箇抄しかヒットしない。
更に、いかにも偽書という内容の産湯相承書が本因妙抄に重用視されている。
こんなことを試行錯誤しているうちに、一連の御書が偽作ではないかと思い始め、更に日蓮本仏論の要である日寛上人の六巻抄まで疑問視し始めました。
そんなことを友人の創価学会人に話しても、興味を示さないので一人で悶々と御書を読んでいました。

そんな時にこの掲示板に出会ったのです。
そして、過去ログも読み、なるほど、なるほどでした。
しかし、投稿している皆さんの教学のレベルが高いので読む専門で投稿はいたしませんでした。
ですが、最近になって思うに、創価学会や大石寺の批判はしますが、肝心の信仰のことは全く触れないのです。
信仰について、投稿出来る掲示板はないかと、いろいろ探しましたがないのです。
私は、日蓮仏法の研究者ではありません。己が信仰の糧になるため教学を学んでいます。
そんなわけで、信仰について、細かく言えば既成の教団教学を捨てて日蓮聖人は何を言いたかったのかを語り合いたいのです。
皆さんもそれぞれ別の教団に属しています。
しかし、この掲示板に投稿するということは、何か教団では満たされないものをお持ちだと考えます。
そんなわけで、満たされない何かを問題にしてもいいし、教学の研鑽でもいい、フリーな対話をいたしませんか

2583たけぞう:2009/02/06(金) 15:23:37
hageさん

早速のご回答ありがとうごいます。
日蓮聖人正宗関係とは明らかに違いますね。
正宗関係は、日蓮本仏論ですし、弘安2年の大御本尊を戒壇本尊としてますから。
でもこの掲示板では、上記の二つとも否定しています。
そうなると、どこが違うのだろう。
素朴な質問ですが、身延派と八品派との違いはなんでしょうか。

それから、hageさんは代々の八品派ですか。
曼荼羅御本尊を御安置しているのですか。
御看経って、御経を読み唱題することですか。やはり、方便品と寿量品ですか。
御講というのがありますか。

2584たけぞう:2009/02/06(金) 15:40:17
宮本さんへ

何度か対話しましたが、一見普通な真面目な学会人とお見受けします。
なんで、こんな魑魅魍魎な掲示板に参加しているのですか。
それに、オフ会は創価学会批判だし。
私の場合は、学会内部で日寛上人批判などしても、誰も話し相手になってくれないからです。
まして、日蓮非本仏論なんて、誰も相手してくれません。

2585たけぞう:2009/02/06(金) 15:48:47
いちりんさんへ

初めまして、たけぞうです。
確か、正宗でしたよね。
私も、入信当初は法華講でした。
でも、お寺の先生が会合嫌いなせいか、座談会は講頭さんの自宅でやっていました。
そんなわけで、御僧侶とお話をしたことがないのです。
法華講でもいろいろな本を読みましたが、完璧に日蓮本仏論講ガチガチで引っ越しのさい、全て捨てました。
いちりんさんが、この掲示板を読んでいる理由はなんですか、教えてください。

2586偶ロム偶ログ:2009/02/06(金) 16:02:44
たけぞうさん

>>こんな魑魅魍魎な掲示板

質問1.あなたが「魑魅魍魎」とおっしゃる根拠を明示していただけませんか。

>>オフ会は創価学会批判だし

質問2.あなたはすべてのオフ会に参加されましたか。

質問3.オフ会が学会批判だという根拠を明示して下さい。

批判と誹謗中傷は全く異なるものです。

批判に対してはきちんと反論するなり意見を述べれば良いだけのことです。

また、これまでオフ会でのテーマは、学会よりも日蓮正宗・顕正会・本尊問題の方がはるかに多いのですよ。

質問4.上記2584の書き込みは、これまでこちらに書き込まれた方たちへの誹謗中傷になると思われませんか。

以上にお答えいただければと思います。

2587たけぞう:2009/02/06(金) 16:15:22
宮本さんへ

>今日の朝10時、二人の壮年部と共に、勤行しました。
>一人の方は、39才で独身、障害者2級(精神病)で、生活保護、妹さんは36才で筋ジストロフィーで寝たきりです。
> 入信してまだ数年、大変です。では、また。

偉いですね。
私も、こうした活動はしたいのです。
個人指導というのが、滅茶苦茶好きなんです。
座談会に出て、他人の話を聞くのは苦手です。

そんなわけで、宮本さんのやっているような活動をしたいと、地区部長に相談しましたが、なしのつぶて、それで担当に入っている副区長にも相談しましたが、やはり駄目でした。
地区部長にもブロック長にも、別々に一席設けて、酒を飲みましたが、なんだか話しがのらずそのまま。
5年前までは、普通の住宅街でしたので、結構活動もさかんで、飲み会も盛り上がっていました。
団地っていうのは、一種独特なものがあります。
まずは、学会人が尋ねてきても家に入らず、玄関先というのが常識で、どうぞどうぞと言っても家の中に入ってもらえません。
もちろん、若き男女青年部はいません。
その代わり、変な話しですが、組織内で怨嫉というのが全くありません。
婦人部も淡々として、妻も喜んでいます。
妻は、副本部長なので、以前のブロックでは毎晩11時帰宅でした。
それから、電話連絡で12時。
引っ越しと同時に、夜妻が居ないと、私が自殺する恐れがあるので、妻は夜の会合は参加しないことにしました。
やっと、我が家も平和が戻りました。
妻は、大学在学中に私と婚約。卒業して3ヶ月で結婚。
ですから、女子部の経験なく学生部からいきなり婦人部。
若いから、すぐに地区担、そして支部婦人部長です。
婦人部の過激な昼夜の活動を30年間やってきたのですから、頭が下がります。
それに、怨嫉だらけの支部ですから、役職の下の人に人気のある妻は随分と睨まれていました。
今は、午前の唱題会、午後は韓流ドラマの世界です。

2588hage:2009/02/06(金) 16:27:14
たけぞうさん、こんにちは。

八品派は、室町時代の日隆聖人の流れを汲んでいる宗派で隆門ともいうそうです。
過去には富士派と壇林(僧侶の学問所)を共にしたり、交流はあったそうです。
冨士教学研究会−投稿論文集−の中の記事にも「富士門と隆門との接触が盛んであった」とあります。
http://xbbs.knacks.biz/dangisyo
「日蓮本仏論」は日隆聖人の「法華天台両宗勝劣抄」(四帖抄)が元になっているという話も聞きます。
(八品派では日蓮本佛諭は否定していますが)
私は違うのですが、本門佛立宗はご存知ないでしょうか?

2589犀角独歩:2009/02/06(金) 16:32:30

たけぞうさん

本日まで、管理者さんから依頼されて、代理管理を行っている犀角独歩です。

こちらのスレッドは冒頭にありますとおり、

「普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」

という趣旨で立っています。

2582以降の書き込みは、その趣旨に反している判断できます。
つきましては、こちらでの議論は、ご遠慮ください。

なお、投稿内容につき、偶ロム偶ログさんがご指摘なさったような不適切と思える箇所もありますが、この点は、明日以降、管理人さんがご判断なさることと存じます。

以上、注意を申し上げ、警告とさせていただきます。

引き続きこのスレッドの趣旨に反した投稿をなさった場合は、遺憾ながら、削除させていただきます。ただし、削除投稿は保存し、明日以降の管理にさんのご判断に委ねることといたします。

2590犀角独歩:2009/02/06(金) 16:42:06

hageさん

投稿が前後しましたが、2589に記した趣旨の遵守をお願いいたします。

2591hage:2009/02/06(金) 16:50:47
犀角独歩さん

趣旨に反した書き込み、申し訳ありません。
問題がありましたら、削除していただければ幸いです。

2592たけぞう:2009/02/06(金) 16:58:16
偶ロム偶ログ さんへ

>質問1.あなたが「魑魅魍魎」とおっしゃる根拠を明示していただけませんか。
現役の学会人が堂々と、学会批判を出来る掲示板はありません。
本音で喋れる掲示板ですので、それが言論の自由があるというタテマエで無いという学会の組織からみると、魑魅魍魎。

 376 名前:たけぞう 投稿日: 2009/01/21(水) 21:06:38
   >hageさん
   >ここは富士門流になっていますが、
   最初は富士門流のプライドで入りますが、パンドラの蓋を開けて魑魅魍魎。
   迷って迷って、最後には富士門流でなくなったりして。
   私、戸籍上は創価学会かろうじて守ってます。
 377 名前:管理者 投稿日: 2009/01/21(水) 21:23:04
   たけぞうさん
   >魑魅魍魎
   どこかの会の会長さんが、当掲示板にご参加の方を名指しでそう批判したそうですね。
   彼らから見れば、ここは魑魅魍魎の巣窟かな(笑)。
   掲示板管理者は、さしづめ、巣窟の仕掛け人かな(笑)。
魑魅魍魎は、ただのご愛敬です。

>質問2.あなたはすべてのオフ会に参加されましたか。
最近なので参加してません。

>質問3.オフ会が学会批判だという根拠を明示して下さい。
「今回は、創価学会・顕正会・日蓮正宗について考えます。(もちろん「批判的に」です)」
この文章を読んで判断しました。

>質問4.上記2584の書き込みは、これまでこちらに書き込まれた方たちへの誹謗中傷になると思われませんか。
思いません。
日蓮非本仏論を堂々と論議出来るようになったのもこの掲示板のお陰です。
それは、何度も書いております。
また、学会内部でいう御本尊と曼荼羅の違いを教えてくれたのも掲示板のお陰です。
このことは、昨年12月31日犀角独歩さんへ感謝の文をのせてありますのでご覧ください。
ただ、そこまではいいのですが、日蓮非本仏論となると、種脱相対はどうなるのか、教観相対はどうなるのかという疑問が生じてきます。
それを現在思索中です。そして自分の信仰とどうつなげていくのかが検討内容です。
今まで、閲覧してきましたが、信仰態度や折伏業の悩みについては討論されておりません。
批判した先に自分たちの信仰の在り方、折伏の在り方そんなものを考えてみたいのです。
創価学会批判よりは、私にとって創価か学会の活性化の方が問題です。
現状は、婦人部だけで成り立っている創価学会、このままでいいのか。
慈悲の仏法を信じているのに、何ら社会的活動をしていない創価学会。
池田氏の一言でなんでも決まっていく創価学会、せめて人事は選挙制度導入して民主化できないものだろうか。
等々、考えますが、現実は池田氏生存中は無理なようなので、ポスト池田に期待してます。

2593たけぞう:2009/02/06(金) 17:02:45
犀角独歩さんへ

スレッドの意味をよく理解せず文章をだらだらと書いたことお詫びします。

2594犀角独歩:2009/02/06(金) 17:14:13

たけぞうさん
偶ロム偶ログさん

本来であれば、すでに2589で注意をいたしておりますので、2592のご投稿は控えていただくことが筋であったろうと思えます。
しかし、それ以前の、偶ロム偶ログさんの2586のご質問にお応えになった形ですので酌量の余地はあろうかと存じます。

ある面、偶ロム偶ログさんのご質問も当スレッドには反しますが、それは、それ以前のたけぞうさんの投稿に難じる性質上、いたしかたのない側面を有していました。

本来であれば、両投稿を削除すべきところですが、あくまで、代理管理という立場ですので、このままとします。

しかし、先に申し上げましたとおり、こちらは「つぶやき」スレッドですので、いったん、この議論は打ち切っていただくようお願い申し上げます。

2595宮本:2009/02/06(金) 17:18:35
たけぞうさんへ
>こんな魑魅魍魎な掲示板に参加しているのですか
ここは、魑魅魍魎では、おそらくないと思います。
 一例ですが、たしか「河辺メモ」の内容ですが、
(所謂、大御本尊が偽作では、ないかといゆ意見は)犀角独歩さんの
方が早く言っておられたと記憶しています。
(記憶違いでしたらごめんなさい)
ですから、「河辺メモ」の件は、早くから知っていました。
とらえかたが、学会の公式見解とは、違いますが。
 また、学会の知識だけだと、教学力等が、向上しないと思います。
と言ゆうより、それ以前の問題がある場合があるような気がします。
(四箇格言、五重相対論も、現代の現実とマッチしていません)
内部の者同士の教学では、解からないと思います。
>オフ会は創価学会批判
これは、当たり前のことかと思います。
批判される部分があるのだと思います。
(完全、完璧、100%良い宗教組織
があるのかもいれませんが)
で、民主主義ですからね。

2596犀角独歩:2009/02/06(金) 17:21:12

宮本さん

2589にたけぞうさんに申し上げたとおりです。
こちらで議論を継続することはおやめくだささい。
注意いたし警告といたします。

2597宮本:2009/02/06(金) 17:43:28
犀角独歩さんへ
 了解しました。すみません。送信した時、犀角独歩さんの書き込み
 前から、書いていたもので、前後してしまいました。

2598マターリ:2009/02/07(土) 11:21:56
素朴な疑問スレッド3721で、法難で亡くなった弟子に関する御書が、極め
て少ない件について質問させていただきました。しかし、答をいただけず
残念でした。

日蓮は厳しい反面、とても優しい面があると聞いていました。その優しい
面を、ずっと探していましたが、私は御書から感ずることができませんで
した。

本当に優しいのなら、法難で亡くなった弟子に対して、書いた文字のうえに
涙が落ちるような、心優しい文が多くあるのではないかと思っていました。

2599大縫 薫:2009/02/16(月) 11:53:09
 扶桑根源代流沙門の某師は當家沙門訓戒に
「布施なき経は讀むべからず 布施なき法は説くべからず 
 財施應分の法施無きは罪業無限累積と知るべし」という口伝が門下に残って
 いるそうですが、経典か遺文にも同様の事が示されているのでしょうか?
 お分かりの方がいましたらご教示願います。

2600顕正居士:2009/02/17(火) 15:58:06
松本師のことですか。誰が言いはじめたことかわかりませんが、宗派問わずそういうことを
言う坊さんはいるようです。読経がサービス業の一種になれば、価格破壊を避けるために
そういう考え方も出るのでしょう。
仏典の布施という言葉には儀礼の執行に対して坊さんに支払う対価の意味はありません
から、経典にも遺文にも根拠はあり得ないです。

2601犀角独歩:2009/02/17(火) 16:01:44

布施とは、菩薩が積んだ功累ねた徳を衆生に布き施すことでしょう。
菩薩戒を持す側が強要するようになっては、もはや終わりですね。

2603大縫 薫:2009/02/17(火) 20:36:02
顕正居士さん
そうです、松本先生です。
やはりその様な根拠は無いですか・・・

独歩さんが言われるとおりだと自分も思います。
尚當家沙門訓戒は活字化されています。

2604大縫 薫:2009/02/18(水) 14:24:32
法華宗本門流の寺院で冥加料を明示したHPを見つけました。
布施については、寺の雑務、草むしり等をもって身の供養で布施に代えさせて
もらうことも出来るそうです。

妙信寺公式HP
http://www.myoushinji.com/info/info.htm

2605hage:2009/02/18(水) 21:36:50
七布施を検索すると

眼施・・・たたかい目差しを布施する事
和顔悦色施・・・和らいだ顔、喜びの顔色の布施
名言辞施・・・言葉による布施、穏やかな話し方の布施
身施・・・身体に寄る布施、つまり労働奉仕
心施・・・思いやりのこころを布施する事
床座施・・・満員電車などで座席を譲る事
房舎施・・・人を気持ちよく宿泊させてあげること

以上の七つの「施」をもって、無財の七布施と言う。

とあります。

お坊さんが、御法門を信者さんに対して説かれるのを法施とも言いますよね。

2606犀角独歩:2009/07/26(日) 14:03:58

問答さん

告知力のある貴掲示板の場を貸してください。

すでにblog、GREE、mixiでは告知しましたが、あろうことか、わたしが盗用をしたというデマが流されているのです。

まったく冗談じゃない。名誉毀損も甚だしい。浅井さんの「魑魅魍魎」「創価学会崩れ」「大謗法者」という悪口雑言よりたちが悪い話です。
以下、上述へのわたしの抗議を添付させていただきます。

***

あきれ果てた言いがかり、わたしが盗用?

まったく驚くこととはあるもので、金原明彦さんの周辺では、わたしが盗用したのだと言いふらしているのだという。

なにを言っているのやら。
わたしが、大石寺の所謂「本門戒壇の大御本尊」が弘安3年5月8日の日禅授与本尊を原本として臨模作為された作品であるとは、2005年9月9日の段階からインターネットで発表したとおりである。こうした下らない言いがかりをつけられないために発表した当初からカウンターをつけておいた。金原さんの出版は2007年8月20日である。

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html&quot;

『現代宗教研究』第39号所載
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/pdf/syoho39.pdf

大石寺から離脱して、創価学会から給料をもらっている佐藤伴道さんという還俗者や、西山茂さんあたりが、それに乗っかっていると言うが、本当であろうか。本化ネット、福神でもそんなことをいっているのか? もし、そうであれば、こうした人びとの良識も含めて抗議したい。

わたしが、こうした結論に達していく経緯は、富士門流掲示板における管理人・問答迷人さんをはじめ多くの方々との公開議論に基づいている。同掲示板を時系列で閲覧してもらえばすぐにわかることである。

だいたい、金原明彦さんなどや、その周辺の人びとは、今に至るまで、誰一人会ったこともない。聞くところに拠ると、わたしがネットに書き出す以前に創価学会本部に金原さんが、こうした文書を出し、その文書をわたしが盗用したなどと言う。

だいたい、わたしは創価学会を脱会しているのであって、今に至るまで創価学会とのパイプなど存在しない。創価学会本部に出した文書など、どうやって、わたしが手にできるというのか。それよりも、ネットで公開したものものや、先行出版物を、そのまま採用することのほうがはるかに簡単ではないか。

わたしが出した書籍の目次立て、説明順序とまったく同様の内容で書かれた本が、拙書のあとに出たとしたら、盗用はどちらかは自明だろう。創価学会のやり方は、どうしていつもこうして卑劣なのだろう。それに乗っかる人びとも、人びとである。

2607管理者:2009/07/26(日) 14:45:31

犀角独歩さん

吃驚しました。有り得ない事です。

>富士門流信徒の掲示板を時系列で閲覧してもらえばすぐにわかることである。

その通りですね。この掲示板の日付は改竄は不可能ですね。今もこの掲示板は活きている訳ですから。

富士門流信徒の掲示板の管理者として、以下の通り、犀角独歩さんの論考が成立してアップされたのが2005年9月9日であることを証言しておきます。

当、富士門流信徒の掲示板の2005年9月9日の犀角独歩さんの書き込みです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1333

2608空即是進化:2009/09/10(木) 22:28:53
 富士門流としては、ほぼ話題も出尽くした状況でしょうか。
 真理は“無我・無常”ということを、かの池田先生もかなり早い時期に気づいていた
のではないでしょうか。ホントの信者ならああいう行動はとれなかったと思う。
 御本尊が張りぼてのおもちゃに等しいと知ってしまったら、知的満足感は得られても
何にもうれしくない。
 信じて希望を持った人々に真実を話しても、だれも喜ばない。後は今ある組織を活用
し、行けるトコまで行ってみよう。それが自分の使命だ。なんてね。

 創価学会の存在意義は、現代社会の中でトータルはプラスだとあらためて思います。
それがすべて幻想だとしても。

2609hage:2009/09/11(金) 07:36:53
本当の御本尊は、心の中に写った「南無妙法蓮華経」ではないのでしょうか?

同じ物を見ても、人によって見えかたは違ってしまいますし、
人間の目で見た世界が本当なのか、幻なのか誰にも解らないんでしょうね。
人間は意識の中でしかこの世界を知ることができないですからね。

2610hage:2009/09/11(金) 07:37:01
本当の御本尊は、心の中に写った「南無妙法蓮華経」ではないのでしょうか?

同じ物を見ても、人によって見えかたは違ってしまいますし、
人間の目で見た世界が本当なのか、幻なのか誰にも解らないんでしょうね。
人間は意識の中でしかこの世界を知ることができないですからね。

2611れん:2009/09/16(水) 21:11:03
確かに、富士門流の話題は、出尽くした感がありますね。

門派教学抜きで法華経の成立史なんかやるのも面白ろそうですね。

今、福神研究所の公開講座で、松山俊太郎先生の法華経講義が行われていますが、何れ本に纏められるものと思いますので、出版されたら、それを叩き台として、議論しても良さそうに思います。

2612天蓋真鏡:2009/10/29(木) 11:37:59
過去時代・釈尊本六・日蓮大聖人牧口常三郎日興日寛戸田城聖池田大作、未来時代・釈尊新六・完全自由正義追求原因論結果論平和友愛

2613天蓋真鏡:2009/10/29(木) 11:50:08
ポスト池田 「名誉会長と言う席次は無い」 公明党解散・老若男女を問わない福祉政策プランを世に問う、 コミュニティーを育てる創価大学中心・思想哲学主義主張を学問する

2614北斗★彡:2009/10/30(金) 09:55:48
皆様こんにちは(^-^*)/

質問スレではないのですが、一つ、この言い分を破折して頂ける方いませんか?

「題目は仏説」

あるコミュにて、質問者が「日蓮のお題目云々」と言っていたところ、日蓮信者らしき方が「題目は仏説」と主張していたので、「違うのでは?」と言ったところ最終的に私は「親鸞会員のコミュ荒らし」に認定されました(笑)もちろん、そういった事実はありません。まぁ、阿弥陀如来像は好きですけど(笑)

因みに、仏教辞典で「題目」調べました。

「法華経の表題である妙法蓮華経ないしそれに帰依する意の南無妙法蓮華経のこと」

とあります。

まぁ、信者得意の拡大解釈すれば「仏説」になるのでしょうが、それを法華経に興味を持ち出した方に説明するのは、問題があると感じた次第です。

で、ある研究者さんの見解をレスしたら見事スルーで、最終的に私は「親鸞会員のコミュ荒らし」に認定された訳です(笑)

ま、日蓮門下の信者はどれも「同じ」なのかな〜。

そうであって欲しくないけど、石山系以外のこういった信者を見るのは2人目です。

2616問答迷人:2009/10/31(土) 21:36:22

北斗さん こんにちは

ご無沙汰しております。

「題目は仏説」ですか。日蓮聖人は勿論、法華経の文文句句は悉く仏の説かれたものであると説かれていますから、日蓮聖人は題目を仏説とされています。

但し、仏教の経典は仏様の説法を有りの儘に記録したものとは言えませんね。なぜなら、お経が文字経典として記録されたのは、ずっと後世のことですから。

そうした経過を含めて、仏の説法を記録したものとされている経典を「仏説」と呼ぶのなら、「題目は仏説」という議論は成り立ちますね。

しかし、経典が仏の説法をそのまま記録したものではない、という観点に立てば、経典は仏説とはいえない、という事になると思います。

日蓮聖人の場合は、真跡遺文が残っていますから、遺文の真偽判定が決定的な意味を持ちますが、経典については、真跡が全く存在しないのですから、真偽判定自体が決定的な意味をなさないと考えています。

2617阿佛棒:2009/11/01(日) 17:37:26
何が悩みかといえば文字化けにつきますよ、どうして化けるんだろうw
末法だからに違いないっ!

2618北斗:2009/11/13(金) 16:14:32
問答迷人さん

お久しぶりです(^-^*)/

お元気なんでしょうか?

最近、お見かけしないので心配しておりました。

さて

>「題目は仏説」ですか。日蓮聖人は勿論、法華経の文文句句は悉く仏の説かれたものであると説かれていますから、日蓮聖人は題目を仏説とされています。
但し、仏教の経典は仏様の説法を有りの儘に記録したものとは言えませんね。なぜなら、お経が文字経典として記録されたのは、ずっと後世のことですから。
そうした経過を含めて、仏の説法を記録したものとされている経典を「仏説」と呼ぶのなら、「題目は仏説」という議論は成り立ちますね。


確かにそうですね。



>しかし、経典が仏の説法をそのまま記録したものではない、という観点に立てば、経典は仏説とはいえない、という事になると思います。
日蓮聖人の場合は、真跡遺文が残っていますから、遺文の真偽判定が決定的な意味を持ちますが、経典については、真跡が全く存在しないのですから、真偽判定自体が決定的な意味をなさないと考えています。


実は、私はこちらの方の立場から「題目は仏説」論に反論したのですが、日蓮宗の盲信者には通用せず、更に「FB〇」さんから頂いたご意見にも噛み付く始末でした。
早坂鳳城さんの論文も提示したのですが、ダメでした(笑)


日蓮教学ってのは、盲信者増やしやすいんでしょうかね〜?

念仏も似たようなもんかも知れませんが(笑)

2619問答迷人:2009/11/13(金) 21:57:28

北斗さん

>私はこちらの方の立場から「題目は仏説」論に反論したのですが、日蓮宗の盲信者には通用せず、

日蓮聖人自身が、「妙法蓮華経の五字」が、法華経の神力品に於いて久遠の釈尊から上行等の地湧の菩薩に付属された正体であると述べられていますので、日蓮信徒は、日蓮聖人の教えられた通りに信じるのが当然といえば当然であろうかと思います。日蓮の研究者なら、又違うんでしょうがね。

まぁ、『現代仏教学的には「題目は仏説」と言うのは乱暴だ』と指摘されれば、良かったのかも知れませんね。


>最近、お見かけしないので心配しておりました。

ご心配をお掛けして申し訳有りません。しばらくグリー、ミクシィ休んでおります。ご容赦下さい。

2620北斗:2009/11/14(土) 01:46:22
問答迷人さん


>日蓮聖人自身が、「妙法蓮華経の五字」が、法華経の神力品に於いて久遠の釈尊から上行等の地湧の菩薩に付属された正体であると述べられていますので、日蓮信徒は、日蓮聖人の教えられた通りに信じるのが当然といえば当然であろうかと思います。


>まぁ、『現代仏教学的には「題目は仏説」と言うのは乱暴だ』と指摘されれば、良かったのかも知れませんね。


まさに、ご指摘の通りなんですが相手の盲信ぶりに「カチーン」ときたものでちょっと冷静に反論できなかった部分もありました(笑)


やはり、独歩さんの仰せの通り「問答名人」さんですね。

流石ですm(_ _)m


>GREEやmixiはお休み…


いやぁ、お元気なら全然いいんです。
病気で長期入院とかしてるのでは?
と、心配だったんですよ。


また、こちらにちょくちょく来て「超初心者質問」すると思いますが、よろしくお願いしますm(_ _)m

2621北斗:2009/11/23(月) 06:16:22
一つ、つぶやきを…

石山一派だけでなく、一部日蓮宗信者でもそうなのですが、他宗の人に「文証だ」と説明する上で何故「真偽未決」御書を平気で使うのでしょうね。

そして、それを指摘すると「日蓮聖人の考えを狭くする」だの「他宗信者には、この程度の御書で十分」とか言う人までいます。

相手に、失礼と言うか「真偽未決」じゃあ「文証」(本来の使い方ではないけど)にならないのではないでしょうか?

まぁ、一言「真筆ではないですが」とか「真筆が残っていないけど〇〇の写本があります」とか言うならまだしも…。


そういった方々を傍から見ると「日蓮門下は、上から目線だね」とか「法華経が1番との教えだから、そうなんだ」と映るんですよね。「法華経行者だから偉い」みたいな態度がミエミエって言うか。


なんなんでしょうね。

2622れん:2009/11/23(月) 11:42:58
北斗さん

上から目線というのは、ある意味致命的ですね。

蓮祖ご自身は、自らを「名字の凡夫」(顕仏未来記・真蹟身延曾存)と定位し、最晩年には「一切衆生の同一苦は悉く是れ日蓮一人の苦と申すべし」と宣言され「末法には…不軽菩薩の利益此れなり、各々我が弟子等はげませ給へ」(諫暁八幡抄・真蹟大石寺蔵)と門家に遺言されました。

北斗さんに相対した方々の様に、他者に対し、上から目線で接する輩は、蓮祖を讃すると雖も、還て蓮祖の心を死す人々と言えるでしょうね。

2623北斗:2009/11/23(月) 21:58:04
れんさん


>他者に対し、上から目線で接する輩は、蓮祖を讃すると雖も、還て蓮祖の心を死す人々と言えるでしょうね。


信者でない私ですら、そう思うのに、日蓮門下が「上から目線」してたんじゃあハッキリ言えば「日蓮門下終了」と言いたくなりますよ。


驕りが凄いあるんでしょう。「仏教最高の経典を信じ、理解している」というのが日蓮門下には。

私のように「学者目線」で尚且つ「信者ではない」人間が、各教団の法華経解釈に質問やら批判するのが気に入らないんでしょうね。きっと。

2624れん:2009/11/24(火) 01:22:28
北斗さん

北斗さんが接した大石寺の信者や日蓮宗の信者では、さぞかし北斗さんからのご質問は荷が重いものだったと思います。

現代仏教学の上からの最新の法華経の研究としては、インド学者・幻想文学研究家の松山俊太郎氏が、福神研究所の公開講座で「法華経講義」を現在されております。氏は純粋な文学者・インド学者であり、北斗さんと同じく全くの非信仰者の立場の方ですが、だからこそ、松山氏の、インド学・文学研究の上からの鋭くかつ忌憚の無い法華経の研究・講義は“目から鱗”です。 

何れ、松山俊太郎氏の法華経講義は、著作として纏められる予定とのことですので、刊行されましたら、是非、購読をお薦め致します。

2625北斗:2009/11/24(火) 02:35:41
れんさん


>松山俊太郎氏が、福神研究所の公開講座で「法華経講義」を現在されております。


そのようですね。私は、犀角独歩さんのホームページ「犀の角のように独り歩め」で独歩さんの解説見てました。

出来る事なら、是非参加してみたいです。


>何れ、松山俊太郎氏の法華経講義は、著作として纏められる予定とのことですので、刊行されましたら、是非、購読をお薦め致します。



是非、購読したいです。

ちなみに「蓮と法華経――その精神と形成史を語る」が欲しくて探しているのですが、私の住む地方最大の書店でもないんですよ(泣)

まぁ、古い本ですからないのは仕方ないんですが…。

2626幻明影偲:2009/11/25(水) 00:11:35
近頃思う所があるのですが、本尊と曼陀羅について愚考致しておりますが私は今の所曼陀羅を外して仏壇の中に祖父の遺骨と写真を入れ、題目を唱えています。本来、曼陀羅でなければいけないなどとは空海ですら言ってなかったと思いますが、御覧の皆様方の御意見賜れれば幸いと存じます。

2627問答迷人:2009/11/25(水) 07:03:18

幻明影偲さん こんにちは

>曼陀羅でなければいけないなどとは空海ですら言ってなかった

日蓮聖人は皆様が良くご存知の通り、観心本尊抄において、次のようにお示しです。

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。}

「今、末法の初め、小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天、其の国を棄て之を守護せず。此の時、地涌の菩薩、始めて世に出現し、但、妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」

「天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと大公・周公の成王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者也」

誠に不思議な事ですが、全て「五字」と説かれ、紙に書かれた文字としての「妙法蓮華経の五字」を「受持する・服す・懸ける」事を説かれています。

「妙法蓮華経の五字」が書かれている曼陀羅こそ、まさに観心本尊抄の論旨の通りの物であり、本尊として仏壇に懸け信仰すべきものであると僕は考えています。

2628幻明影偲:2009/11/25(水) 11:27:11
問答迷人 さん 御無沙汰しております。

先頃、こちらのサイトhttp://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/mmdl/6.4kukai.htm
◇空海は日本に居たころ「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」により、今でいう右大脳半球の脳力開発を行っていたのです。ですから超人的な集中力でもって難解なサンスクリット語やパーリ語をマスターし、身につけた速読法で大量の経典類も短期間に読破できたのでしょう。
とあり、
◇空海が遣唐使船で中国に渡り、短期間に密教の極意を修得して日本に持ち帰ったものは、大量の仏教典・仏具それに曼荼羅です。今でも京都東寺に伝わる胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅の両部曼荼羅は目に見える情報として、私達に大きなヒントを与えてくれます。
とあります。
ですので所詮曼荼羅は物体、物質でありながらも題目そのものに何か人間そのものを変える不思議な力があるのではないかという
観点で見ています。
ですので、私見、個人的展開になりますが実践的な科学的な要素がもっと世に
現れてきてもいい時代なのかと愚考致すところでございます。

2629問答迷人:2009/11/25(水) 12:56:55

幻明影偲さん

>題目そのものに何か人間そのものを変える不思議な力があるのではないか

日蓮聖人は極めつけの現実主義者だと僕は考えています。神秘的なものを、神秘的なままで終わらせずに、必ず具体化しなくては気がすまない、そんな方だと考えています。

その意味で、「題目」「唱題」に籠められた神秘的な中身が有るとしても、それは全て具体化されている、と考えています。つまりは「文字曼陀羅」です。

当初はお題目を唱えるだけであったものが、佐渡以降は曼陀羅を掛けて拝し、曼陀羅を信じてお題目を唱える、という形に変化しました。つまりは、お題目を唱えるという中身が曼陀羅として具体化されたのだと僕は考えています。

2630幻明影偲:2009/11/25(水) 14:43:42
問答迷人さん

仰る通りと思います。
某方の話を以前お聴きした時の事ですが聖人は曼陀羅や釈迦仏像にも題目を唱えていなかったという話が私の耳奥に残っており未だ捨て切れずに居る次第です。某方の話ですと、曼陀羅は法華宗の証明でしか過ぎず、説法する際に曼陀羅を広げ説法をされたと拝聴した事を記憶しております。
ですので、我が家には現在曼陀羅本尊はございませんが祖父の写真に向かい題目を唱え、勤行(五座、三座)を致しております。
しかし不思議に心は晴れやかになるものです。
但し、文字曼陀羅を限定と致しますと現行では別体三宝式(御影像)もどうかと思う所もございますし、また妙蓮寺にあった別体三宝式(絵の掛け軸)もどうかと愚考致す所存です。
真蹟か不明ですが、[題目を以て本尊とすべし]最近ここに尽きるのかと未熟者ながら感ずる所でこざいます。

2631阿佛棒:2009/11/28(土) 10:25:20
法華曼荼羅というものは法華経における虚空会を文字によって図示したもので
これは当然掛けて拝むものだと思いますよ。
日蓮以前にも法華絵曼荼羅というものもありこれも拝む対象として描かれたようですし
本尊うんぬんより仏具として必須アイテムと申せましょう。

真言において各種祈願時に両界曼荼羅を掛けるに同じ

心に曼荼羅を描くほどイメージが出来ているなら要らないかと思いますが、雰囲気的には必要じゃあないでしょうか。

2632犀角独歩:2009/11/28(土) 10:59:24
以下、つぶやき。

漫荼羅が虚空会を表したというのは、日蓮宗や、創価学会の教学であって、日興門家では、違いますね。

『本尊三度相伝』に「今此の本尊大漫荼羅とは霊山一会の儀式を書き顕はす処なり」とあるからです。

また、現存する漫荼羅で折り痕が残っているものがあり、これは、つまり折り畳んで、保存されていたことを意味するというのが中尾堯先生のお話です。いまのお守りのように折り畳んで袋に入れて、懐中していたとのことです。

また、裏に木目の跡が残るものがあり、これらは板に貼られていたためであろうとのことでした。板に貼っていたのか、あるいは、板壁に貼っていたのか、その点はわかりませんが、いまのように厨子や、仏壇に納めるようになるのは、後代のことでしょう。
日蓮にその起源を見ることはできないでしょうね。

2633れん:2009/11/28(土) 17:59:30
昨日、神奈川県立歴史博物館の日蓮聖人展に行って参りまして、大幅のものから一紙の小幅の御真蹟の大漫荼羅御本尊を、間近に拝して参りました。

何時の頃から、大漫荼羅御本尊が現在の様に表装される様になったのか、まだまだ専門の研究者による検討が必要であるとは存じます。日興門流系の史料で言えば興師が聖人御真蹟漫荼羅御本尊の内、数幅に「懸本門寺…」と添書されており、この「懸」が、現在の様に表装して「懸」けるのか、中尾氏が明らかにしたように、表装して懸るのとは別の形で「懸」けるのか、新しく検討してみますと、興師当時の有様すら、実はよく分かんなくなっていますね。

日蓮聖人御自身の“御本尊”につきましては、この界隈に限らず、様々な議論・見解が角逐しておりますが、日蓮聖人晩年の本尊問答抄(真蹟は不現存ながら、筆者不明ながら興師の“弘安五年 月 日”の加筆を有する富久成寺蔵の写本・富士岩本実相寺蔵の正応の日源師写本・年記不明の北山本門寺蔵の興師の写本が現存、富木常忍氏=日常師の本尊聖教目録にも本尊問答抄が見えるので、写本遺文の中では日蓮聖人真撰として信頼出来ると言えると思われる)の意からは、少なくとも、“末代悪世の凡夫”は“法華経の題目を以テ本尊とすへし”というのが日蓮聖人の意図ではないかと愚考しております。

2634犀角独歩:2009/11/28(土) 18:05:46

れんさん

わたしも昨日、櫻川さんのおかげで行ってまいりました。お会いできず、残念でした。
その帰りに、ちょうど、ご呈示の点も雑談をしたのですが、この本尊という言葉について、日蓮は、単独に「本尊」というもあり、「本門本尊」というもありながら、「教相本尊」は、出てまいりませんね。
『本尊抄』で言われる本尊は「本門本尊」に違いありませんが、では、題目本尊は、教相・観心、さて、いずれとお考えですか。

2635犀角独歩:2009/11/28(土) 18:54:38

◎三つの法門

┌本門本尊
├戒壇
└題目五字

もし本尊=題目ならば、以上の三分類は破棄されることになりますね。

┌本門本尊=題目五字
└戒壇

つまり、三大秘法ということと題目本尊の併立は、片方の教義を潰えることになるとわたしは考えます。

この点について、せいぜい反論として帰ってきたのは、

本門本尊=題目五字=戒壇

です。ならば、なおさらのこと、三大秘法は成り立ちません。

なお、題目=本尊で、かつ四大天王が書かれているから戒壇の意義も有すのが漫荼羅本尊であるというのであれば、少なくとも、こうした包摂を意図する日蓮の真蹟遺文を挙げる必要があるとわたしは考えます。

2636犀角独歩:2009/11/28(土) 19:01:30

さらに追記。コマの無駄遣い恐縮です。

また、もし 本門本尊=題目五字=戒壇 で漫荼羅に戒壇を意義を有するというのであれば、なにも日蓮の弟子たちは戒壇建立に普請する必要などなかったことにならないかというのが、わたしの疑問です。

となれば、そこで成り立つ式は

┌本門本尊=題目五字
└戒壇

で、これを三つの法門(三大秘法)とは言うことはできないことになります。

なお、事理戒壇、事義戒壇は、後世の解釈であり、日蓮のあずかり知らないことなので、日蓮の素意を考えるうえでは、対象になりません。

2637れん:2009/11/28(土) 19:04:07
犀角独歩さん


素人の私にとっては、とっても難しい御質問です(泣)

私は難しいことは解りませんが、初期日興門流の宗義書を検するに、“日尊上人仰云”には日代師の義として「題目ハ心法妙ノ直体也」とあり、“日大直兼問答”には日尊師の義として「題目ノ五字ハ観心ノ心法妙ノ直體也」とあり、薩摩阿闍梨日睿師の“類集記”にも「心法妙ヲ受持スル時、仏法妙衆生妙自然ニ具足ス」とも、「末法今ノ時者心仏衆生三合シテ九法妙ナル妙法蓮華経ト名此五字ヲヤスヤスト可唱時節也」ともありますから、此れ等、初期日興門流の伝承から類推しますと、“題目本尊”は教相・観心のいずれかと質問されますと“観心”のかたであるのではないかと類推申し上げる次第です。

2638犀角独歩:2009/11/28(土) 19:20:36

れんさん

早々のご返信ありがとうございます。
「素人」など、とんでもない。

こちらのスレはつぶやきで、議論禁止ですが、少しだけ。

観心とは、心を観るということですね。
しかし、「末代の衆生」はしかし、こうした観念観法に堪えない。よって、題目の受持というのが至極ではないですか。

『観心本尊抄』に「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也」というのであって、観心本尊とは「釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」にほかなりません。

しかし、題目については、「召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生也」「此時地涌菩薩始出現世但以妙法蓮華経五字令服幼稚」というわけですから、題目において、観心する要素はないと考えますが、この点は、如何ですか。

また、本門本尊の本門とは迹門本尊を簡ぶ対句ですね。
迹門本尊とは方便品諸法実相百界千如に限って説いている釈尊ではないですか。
となれば、本門本尊とは久遠開顕し一念三千を説き尽くす寿量品の仏となりませんか。どうして、それがいきなり題目の五字と言うことになってしまうのか、これでは、本門と本尊をことわる理由が見当たりません。第一、迹門といえ、妙法蓮華経であることに異なりはないからです。

こうして考えるとき題目本尊とは、本門本尊ということはできないのではないかというのが、わたしの疑問です。

となれば、残るところは教相本尊かはたまた何かというのが、先に申し上げた疑問点です。

ここは議論の場ではないので、ここまでといたします。
けれど、ご賢察があれば、是非とも拝聴いたしたくお願い申し上げます。

2639れん:2009/11/28(土) 19:39:17
犀角独歩さん

残念ですが、在家かつ素人の私には、今回の犀角独歩さんのご質問に答えられる程の知識も技量もないので、残念乍らご希望に沿うことは出来ませんが、私も、分からないなりに、犀角独歩さんの疑問とされる点につきまして、折に触れて考えてまいる所存です。

2640顕正居士:2009/11/28(土) 21:36:36
発迹顕本とは?(玄義卷七)

今日發迹顯本。亦指最初爲本。未來發迹本顯迹。亦指最初爲本。
三世乃殊。毘慮遮那一本不異。如百千枝葉同趣一根。
(今日の發迹顯本も亦最初を指して本と爲す、未來の發迹顯本も亦最初を指して本と爲す。
三世乃ち殊なれども毘慮遮那一本異ならず、百千枝葉同じく一根に趣くが如し)
……
問三世諸佛皆顯本者。最初實成若爲顯本。答不必皆顯本。今作有義者。
最初妙覺指初住爲本。若初住被加作妙覺。亦指初住爲本。初住之前。
豎無所指横有體用。即指體豈非本耶。
(問ふ、三世諸佛に皆顯本あらば、最初實成も若しは顯本すと爲んや。
答ふ、必ずしも皆顯本せず、今有る義を作さば、最初妙覺は初住を指して本と爲す、
若し初住に被加し妙覺を作すは、亦初住を指して本と爲す、初住の前は、豎に指す所無けれども
横に體用有り、即ち體を指す、豈に本に非ず耶)

三世諸仏は必ず法華経を説いて本を顕す。すなわち本とは毘慮遮那の一仏のことである。
しからば最初実成の際にも顕本するのか?同じではない、最初実成の場合は初住を本と指す、
初住の前は体を本と指すのであると。つまり発迹顕本の本とは衆生本具の本覚のことである。
したがって本門には教相というものはない、第三教相はそのまま観心であるといえます。

2641犀角独歩:2009/11/28(土) 21:56:18

れんさん

こういってはなんですが、れんさんほどの方に「在家かつ素人」であり、語る資格なしなどといわせる宗派があれば、わたしはそんな寺と坊さんは論外だと思いますね。

戦前から、本尊集にせよ、遺文集にせよ、人力をしてきたのは在家なのであって、坊さんが一体何をしたというのかという思いがあります。

信者を卑屈するようにしか見えない宗派は、もはや滅びればよいと思います。

もっとも、それがれんさんの謙虚な姿勢であれば、その限りではありませんが、しかし、在家と素人が語ることができないのであれば、当の「出家」がここに出てきて、よろしく教導するようにすることが肝心ではないでしょうか。

まあ、布施と恭敬もないところに出てきて、堂々と論陣を張る日蓮のような僧侶は、現代にいるわけはないとは思いますが。

2642犀角独歩:2009/11/28(土) 21:58:10
顕正居士さん

ありがとうございます。

「衆生本具の本覚」を示す、具体的な釈文とはなんでしょうか。
ご教示いただければ有り難く存じます。

2643れん:2009/11/28(土) 22:40:33
一応、横レスにて失礼します。

犀角独歩さん

過分な評価を賜り、恐縮致します。

しかしながら、謙遜ではなく、卑下でもなく私は人間と致しましても、まだまだ門前の小人です。

過分なお言葉を賜り恐縮申し上げるばかりですが、こちらの方々を見渡しましても、犀角独歩さんをはじめ皆さんが、それぞれ積み重ねて来られた人生・ご経験・御学問には、まだまだ全然遠く及びませんし、皆さんのお姿を拝しても、私はまだまだ半人前足らずで、これから残りの人生をかけて、人として命ある限り全てにおいて学び続けて行かなければならないと決意を新たにしているところです。

これは、謙遜とか、自分を卑下するとかというレベルのことでは決してなく、自戒を込めての私自身の人生に対する“姿勢”ですから、この点、ご理解賜れれば幸甚です。

2644顕正居士:2009/11/28(土) 23:28:32
>>2642 この文です。本因初住の文底に久遠名字の妙法を秘沈するという教義の源です。

『初住之前。豎無所指横有體用。即指體豈非本耶』-玄義
(初住の前は、豎に指す所無けれども横に體用有り、即ち體を指す、豈に本に非ず耶)

若云初住之前豎無所指。以體爲本以用爲迹。此本迹倶下句也。若準此意。一切諸佛皆悉顯本。
(若し初住の前は豎に指す所無しと云ふは、體を以て本と爲し、用を以て迹と爲す。
此れ本迹倶に下しの句也。若し此意に準ぜば、一切諸佛皆悉く顯本す)-釈籤

天台智邈は最初実成に顕本有りや否やの問いに、必ずしも皆顕本しないという説もあるが、
今一意を示すに、最初実成の際は初住を本と顕す、初住の前は時間的に指す本はないが、
体を本と指すのであると。荊渓湛然はゆえに一切諸仏皆悉く顯本すと注します。
なぜならば「如三世諸仏 説法之儀式 我今亦如是 説無分別法」(方便品)と三世諸仏同道、
最初実成の際にも権実の法を説いたはずだから、顕本はあらねばならないからです。

したがって 衆生本有の理を指して一仏乗と説きたまふ-釈本覚讃

されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ-諸法実相抄
(書誌的に日蓮の真書ではない可能性があるが、思想内容は後代を待たない)

と衆生の体としての法身(本覚)、具体的には十界皆成を顕すのが発迹顕本であるから、
「不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす、法華経の
正意にはあらず」(本尊問答抄)と晩年に日蓮はいわゆる仏本尊を否定したと考えられます。

2645犀角独歩:2009/11/28(土) 23:54:42

顕正居士さん

ありがとうございます。

「衆生本具の本覚」は衆生(生)に関して、わたしは本有・本覚を示す釈文を問いました。しかしながら、引用は「一切諸佛皆悉顯本」と仏に関する引用となっておりますね。

『釈本覚讃』を初期天台の釈文とすることができるのでしょうか。また、『諸法実相鈔』を手放しに日蓮遺文とする根拠が希薄であると思えます。

よって、「衆生の体としての法身(本覚)」と所断することを日蓮の教説の確たるご説明になっているように思えないのです。

さらに日蓮が晩年、仏像本尊を否定したのならば、何故、持仏を安置し続けたのか、また、弘安2年『日眼女釈迦仏供養事』に「三界主教主釈尊一体三寸木像造立檀那日眼女」と愛でているわけですから、とても、晩年、日蓮が仏本尊を否定していたとは思えません。

また、仮に、仏本尊否定をし、かつ御説のように迹門本尊・教相本尊が、釈から成り立たないと言うことに従えば、日蓮は釈迦仏像を棄てたということになり、ならば、三つの法門(三大秘法)という教義も棄て、本門本尊=釈迦仏も棄てたということになりますが、そのような意味でしょうか。

となれば、その後、弟子分は、何故、戒壇建立に腐心し続けたのでしょうか。

2646顕正居士:2009/11/29(日) 00:56:00
本尊問答抄の仏(人)本尊否定は古来、難問になっています。
これは一つに「本尊」語を広狭に使用するためと考えます。
大日経の「本尊者、梵音娑也地提嚩多、若但云提嚩多、直所尊之義也」が本尊の定義とされます。
satyadevatāとはtrue deityで修行者にとってのまことの神、まことの偶像という意味です。

開目抄に「一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂主、師、親これなり」とあるのを「根本尊敬」、
略して「本尊」とするのは同語意義であるというべきで、本尊問答抄では密教由来の狭義に使用
されていると考えます。釈迦仏に対するならやはり南無釈迦牟尼仏でなければ変であり、
南無妙法蓮華経と唱える以上、対象は何か妙法蓮華経でなければなりません。
仏本尊を教相の本尊、曼荼羅を観心の本尊と呼ぶ人、あるいはそれを反対に呼ぶ人がおられますが、
これは本門に教相と観心ありとし、混乱を招きます。宗教に教主があるのは当然であって、
浄土では教主は釈迦仏、救主は阿弥陀仏です。教主は狭義の本尊ではないと考えればよいのです。

>「衆生本具の本覚」は〜
最初実成は妙覚を迹とし、初住を本とする、すなわち迹高本下であるということです。更に初住以前の
顕本を述べますから、結局、本とは理即仏の意味になるわけです。六即の教義は当然、そうでないと
成り立ちません。
>『諸法実相鈔』
書誌的に問題があるが、思想内容は原始天台からも直ちに出ることで、鎌倉期成立でも疑問なしと
いうことです。注(×釈)本覚讃はおそらく日蓮と同時代かやや後です(日蓮の本覚讃引用が定着した
ものと少し異なる)。

2647犀角独歩:2009/11/29(日) 03:20:30

顕正居士さん

重ねてありがとうございます。

「初住之前。豎無所指横有體用。即指體豈非本耶」-玄義
「若云初住之前豎無所指。以體爲本以用爲迹。此本迹倶下句也。若準此意。一切諸佛皆悉顯本。」釈籤

「この文が本因初住の文底に久遠名字の妙法を秘沈」ということですが、日寛がこの文を採っていうところを仰っているのでしょうか。この点が合点がいきません。

先の玄義の文は「問三世諸佛皆顯本者。最初實成若爲顯本。」の答えの部分ですね。すなわち「答不必皆顯本。今作有義者。最初妙覺指初住爲本。若初住被加作妙覺。亦指初住爲本。初住之前。竪無所指横有體用。即指體豈非本耶。…」

手許に訓読がないので、間違っていたらご指摘いただきたいのですが、この問答は、以下の如くです。

問:三世の諸仏が皆顕本するのに、最初実に成仏を顕本とするのか。
答:みな、必ずしも顕本としない。…最初の妙覚は初住をさして本とする。もし、初住に妙覚をなすを加えられれば、また、初住を指して本となす。初住の前、タテに指すところがなければ、横に体と用がある。すなわち、体をさす、本ではないか。

ここに、本因、文底、秘沈の語彙は、そうした論の展開にもなっていません。

また、引用の釈籤の前文は「若初住位被加作妙覺佛。亦指初住以爲實本。準淨名疏應作四句。謂本下迹高。本迹倶下。初住唯得此之兩句。夫論迹者約有本説。本爲法身迹爲八相。初住之前無法身本。」

初住位に妙覚仏となるを加えれば、初住をさして、実本となす。淨名疏に準じまさに四句となす。いわく、本は下(ひく)く、迹は高い。初住はただこの両句を得る。それ、迹を論じるとは約あり、本を説く。本を法身となし、迹を八相となす。初住の前は法身本はない。

どうして、この解釈が、「本因初住の文底に久遠名字の妙法を秘沈」したことになるのでしょうか。
天台妙楽共に初住を論じても、本因を語らず、そもそも初住は位であり、そこの文の底はなく、久遠名字は釈尊の因行の位でしょうから、妙法ではなく、秘し沈めるものもなく、そのようなことは論じていないと読めます。

また、「本覚」語の使用は、日蓮真蹟では『八宗違目』に「本覚心」という用法で一カ所のみ。当然の事ながら、天台・妙楽、法華六大部にこの使用はありません。ならば、この釈文をもって「本覚」の根拠とする謂われはないのではないでしょうか。つまり、本迹・体用を論じるばかりとあろうかと存じます。

こうした点から考えるとき『諸法実相鈔』の記述は大いに怪しむべきものであると考えられます。

次の2646は「切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂主、師、親これなり」という文を挙げられ、「南無」妙法蓮華経であるから、題目五字が本尊であるという論の運びであろうかと存じます。

しかし、日蓮は「釈迦仏は我等が為には主也・師也・親也」(主師親御書:真蹟なし)というのであって、この三徳を有するのは釈迦仏であるといいます。となれば、先の『開目抄』の冒頭を挙げて、題目五字本尊の根拠とするよりは、釈迦仏本尊とするほうが至当ではないでしょうか。

2648顕正居士:2009/11/29(日) 04:50:41
訓は>>2640に示しました。
「答不必皆顯本。今作有義者」は「答ふ、必ずしも皆顯本せず(との説あり、然れども)、今有る義を作さば」の意。
「被加」とは加上する意味なので、初住より八相成道することを指していると思われます。

「本覚」は華厳系の用語なので中国天台では用いられません。密教と合伝した日本天台で主要な術語になります。
中国天台での同義の語はいろいろあり得ますが、「理即仏」はその一つです。
日本天台は理即成仏を基本としますが、一般に実相からいい、対して第三教相から本覚をいうのが日蓮宗です。
ただしこれも後代に日本天台で出た思想がもとにあって、日蓮宗に輸入されたのだろうと考えます。

玄義七では三世諸仏に皆分身があるのかという議論がされています。答えはありですが、これはつまりどの仏の
側からも他仏が分身になる意味と考えられます(一つそこまで徹底してはいないのですが)。だから初住に達した
時、毘慮遮那法身に契合し「我成仏已来 甚大久遠」の自覚が生じる、つまり「長寿は只是れ証体の用」です。
これを第三教相から最初実成→初住→入住以前→久遠初発心と本へ遡るのが日寛宗学の特色で、玄義の議論
を発展させたものといえます。「法身、五道に流転するを衆生と名づく」(不増不減経)、毘慮遮那法身とは衆生の
ことになります。

2649犀角独歩:2009/11/29(日) 09:38:36

顕正居士さん

愚昧なわたしに台学のご講義を下さり、まことにありがとうございます。

ここ「つぶやき」すれは議論禁止なのですが、いきおい、れんさんから、顕正居士さんとやややり取りとなっています。

やや整理いたしますと、2633でれんさんが「末代悪世の凡夫”は“法華経の題目を以テ本尊とすへし”」と日蓮は後期、題目本尊となった点を挙げられました。
同様に2644で、顕正居士さんは「晩年に日蓮はいわゆる仏本尊を否定した」と見解を示されました。

ここに日蓮の本覚観の話が入りました。この点は、また、少しご質問させいていただきたい点はありますが、そもそも、2633以降の流れで、わたしが記してきたのは、2635のとおりで、もし題目本尊とするのであれば、所謂三つの法門(三大秘法)は成り立たなくなる、よって、日蓮は三つの法門を棄て、題目本尊へと傾斜したのか。となれば、なぜ、弟子達は、それでも戒壇建立に腐心したのだろうか、戒壇に拘ったという史実からすれば、日蓮は終生、三つの法門を棄ていなかったのではないか。となれば、釈迦仏本尊を棄ててはいなかったのではないかということです。

また、日道の時代頃から、漫荼羅正意論が喧しくなった(執行「教学史」)というのは、他の五老門家との対立を意味することで、つまり、釈迦仏本尊が生きていたからにほかなりません。

そうした点から考えて、日蓮の生前に既に釈迦仏本尊から漫荼羅本尊に移行していたとは考えづらいのではないかという問題提議です。

そもそも、釈迦仏像か・漫荼羅かという二者択一が見え隠れしますが、併用という選択しもあるのであって、それを単に題目=漫荼羅本尊になっていたとする根拠は、はなはだ希薄であるというのが、わたしの考えです。

2650犀角独歩:2009/11/29(日) 13:46:13

つぶやきです。

学会の籠絡作戦の派遣部隊。
まずは、会員、次に学術筋に関わる会員、続いて、学会僧や、創価大の学者。
虫払といった古文書、漫荼羅、重宝類が展示される法要に傍らで参加。
大石寺と、他日興門下寺院僧の同座。さらに学会員、学会僧、創価大の学者が同座。

わたしのように、そんな法要に参加しない人間からすれば、機会極まりない光景ですが、法要に参列し慣れると、いつしか鈍感になっていきます。

学会の出入りするところに謀略があり、金が動く。金が動けば、籠絡される。

そんなことは、興門寺院で、幾度と無く繰り返され、かつての統合があり、それが反古になって、また…。歴史は繰り返されるということでしょう。

2651幻明影偲:2009/11/29(日) 20:56:27
つぶやき。

昨日、某方へ富士宗学要集10巻を誕生日プレゼントとしてお贈りさせて戴いた。あまりこのような事を聞くのは忍びなかったが、(ウイルスはありませんでしたか)と聞いてみた。
そしたら、(ありません)との答えだった。

一先ず悪意のない事なので、安心して眠れようです。

2652幻明影偲:2009/11/30(月) 06:02:51
おはようございます。

何故、保田妙本寺に学会僧が来たり、または懦山寺に研究者或いは学会関連の部類が執着するのかはわかりませんが、一勉強する側にとっては関係のない、また行く必要がない、という方々が居られるのでしたら正に失言ではないでしょうか。
真面目に研究に取り組まれる方々も大勢いらっしゃいますし、ここでは保田妙本寺の話になっていますが、私は個人的に納得が行きませんので独自に調査をし、資料関連も保田へ届ける事とします。

2653阿佛棒:2009/12/02(水) 18:29:25
どうして日蓮は絵曼荼羅にせず文字曼荼羅にしたのだろうか?絵が下手だったからではないか。
もし日蓮が今曼荼羅を描いたら外国の神様入れるだろうか、八分衆は削られてしまうのではないか
仕分け反対

PC画面に曼荼羅を写せば仏壇いらないじゃん!巨大プロジェクタで大曼荼羅拝みたいです
あ、そうだ、携帯に御本尊画像入れておけばお守り本尊ももってかなくていいや!
大体無くすと困るし。しかしモニタにはエロ画像も映るまさに一念三千

などと暴言妄言を吐いてみました

2654再挑戦者:2009/12/02(水) 22:24:32
  
 2653様  ナカナカ、、面白い 御提言 でしょうか、?

 ただ、、人は 感じやすいし、、すぐ感応しやすい、のも現実でしょう、、。
 だからコソ、、 対 「ニセ本尊? 」への 害毒をも 考慮 すべきでしょう、か、?
 当然、、ニセ者らが、、ワンサカ、?、押し寄せるでしょう、、が、、?
 その、、真偽の 見極め、、こそ、、が、、?? でしょうか、、??

 その ポイントは、、???でしょうか、、??

2655天蓋真鏡:2009/12/04(金) 11:29:05
絵とか彫像は千差万別 文字なら手間暇かけ過ぎ無く描けますし学問出来ます

2656天蓋真鏡:2009/12/04(金) 11:58:57
本仏(釈尊)-三大秘法(本尊=戒壇=題目)-戒壇堂宇

2657阿佛棒:2009/12/04(金) 17:26:13
ホーボーとか邪宗の害毒とか佛罰とか
そんなものは無いと思います

日蓮は怒るかも知れないけど、そんなことで人を恐がらせたりするのは
もう止めるべきだと思う。法華経のそういうとこは良くないと思う。

善を勧め悪を止めるためには違うやり方があるんじゃないだろうか。

2658再挑戦者:2009/12/06(日) 19:07:25
 2657様
  
  何を、、?トボケタ、、ことを、、申すのでしょう、? もう、すでに実行された歴史上の事実に対して
  「、、タラ、、レバ、、」を、、申していますのが、、? でしょうか、、?

 (「G2」、「有害カルト情報」、『宗教被害者情報」、「FORUM 21]、「脱会委員会」、「国民新聞」、「政治人気ブログ」、、)

2659阿佛棒:2009/12/10(木) 17:43:30
スターリン毛沢東ポルポトなど大虐殺者が天寿を全うして
ブッシュ親子に佛罰無し

悪行に悪の報いありというがコレは一体どういうことでしょう

思えば世界で富を収奪し悪行の限りを尽くした欧米は未だに栄華を誇ります
そもそも悪行悪果、善行善果というのは本当なのか

末法だからというのではなっとくいかないきょうこのごろ

2660再挑戦者:2009/12/11(金) 19:32:22
、、、。
 長い目で  見ましょう、、。   悪因は、 悪果、、善因は、、??

 今、、これが、、問題、、でしょうか、、?

2661天蓋真鏡:2009/12/12(土) 03:51:13
長い永い前世のルーツ?

2662再挑戦者:2009/12/12(土) 18:41:34
2652様

 本当でしょうか、、?  もし事実ならば、、??
  S会の やからは、石山を 見限り、、!! 次の ターゲットは I先生の支持の元
、ヨリマシナ、、団体としての 探りあい でしょうか、、??
 保田がS会になびけば???

 当然ながら、、日代が 受継ぐべきの曼陀羅を ナゼ、、安房が強奪、出来たのかが、、? 、日郷ユカリの安房へ ? ? かが 、本格的に ネット上
で闘争が開始 されましょう、ゾ、、!!!
 (「G2」、「FORUM 21」、『有害カルト情報」、「宗教被害者情報」、「国民新聞」、、)。

2663阿佛棒:2009/12/12(土) 19:09:22
聖☆おにいさんを読んでるとあーこれ日本の教祖でやったらどうなんだろうとか思う

日蓮と法然とか同居できないだろうなあ

ちくしょう今日も駅前で念仏ディスりやがってー
そうです念仏者は地獄におつるべき

どうしたってケンカになりそうだ

2664幻明影偲:2009/12/13(日) 01:13:03
つぶやきです。

某方の発言に納得が行かずにおりますので、私は私の証拠こ提示してその詳細を資料として「提出]するのみですよ。
ですので、個人的見解、個人的主張など既に無論でしょう。
保田には今まで跳んでもない輩が出現しております。
今現在も(笑)
その近状報告をするまでですよ。
真面目に信仰している方々もおりますし、保田の主張や信者さんの主張などもあるでしょうから
私は純粋に、信仰を真剣に捉えている方々を擁護したいと考えています。
謀略、侵略とかは関係ないと私自身思っています。
因みに創価学会は私の敵ですから、そういう輩がいれば攻撃対象ですよ。
ここでは研究されている方々の集まりの掲示板ですからこれ以上も、これ以下もありません。
ただ、私は保田を守りたい、それだけです。

2665天蓋真鏡:2009/12/13(日) 14:45:14
三大秘法と書くのは 基本中の基本で護持する事が難儀だからの表記で紛らわしくて済みません

2666幻明影偲:2009/12/13(日) 15:32:01
管理人様

【書き込みの基本原則】

1.意見交換、相互理解の場との主旨から、話合いを重んじてください。  
 ①差し支えない限り、自己紹介スレッドで自己紹介をしてください。また、相手に対する敬称は『〇〇さん』で統一して戴きたいと存じます。
 ②感情的表現を避け、できるだけ冷静に話し合ってください。 
 ③掲示板参加者に対する、一方的な個人攻撃は慎んでください。

2.富士門流の発展に寄与する論議をお願いいたします。
 ①富士門教義についての矛盾点の追求を、ダブー視しないでください。
 ②各々の所属組織のあり方についての議論をお互いに避けないでください。
 ③但し、特定の組織をターゲットにした、しかも、一方的な攻撃宣伝は慎んでください。

※ここに該当する書き込みが最近、目立つような気がしてなりませんので御裁定の程、宜しく御願い致します。

2667管理者:2009/12/13(日) 15:57:19

幻明影偲さん

>ここに該当する書き込みが最近、目立つ

なるべくなら管理者が介入しなくて済むなら介入しない、という方向で、禁止事項以外は出来るだけ管理を柔軟に、との方針でおります。これは介入すべきではないか、という書込みに気づかれましたら、管理者までメールを頂戴致したく存じます。伏して宜しくお願い申し上げます。

fujimonkeijibankanrisha@yahoo.co.jp

2668幻明影偲:2009/12/13(日) 17:19:15
管理者様

早速のご回答有難うございます。
当方で誤解されてしまう表現での投稿をしてしまいましたのでここに訂正とお詫び申し上げます。

>②感情的表現を避け、できるだけ冷静に話し合ってください。

上記点につきましての事でございます。
再三にわたり、誤解を招く表現を謹んでお詫び申し上げます。

幻明影偲 拝

2669管理者:2009/12/13(日) 18:33:22

幻明影偲さん

>②感情的表現を避け、できるだけ冷静に話し合ってください。

了解いたしました。その都度、出来るだけリアルタイムでメールして頂ければ、検討させていただきます。宜しくお願い致します。

2670再挑戦者:2009/12/13(日) 18:50:27
2664 幻明 さん、、。
  保田を守りたい、、?・
 これは、、 貴方らのトップらが 決めるのです ネ、?
  所有権、、が日代に 存在する、、文献は 多数 存在します、、。!!
 是を、覆すならば、、説明責任が 存在、、です、、。 マー、、真筆の本尊の 管理に? 無頓着、?なる 日興さんも
いったい、何を? 管理を、? でしょう、?
 ここに曼陀羅を 軽視する、、源流が、?  全く、、?! トホホ、、デス、バイ、、。(「宗教被害者情報」、「G2]、
「FORUM 21]、「国民新聞」、「有害カルト情報」、「脱会委員会」、「政治人気ブログ」、、)

2671幻明影偲:2009/12/13(日) 19:28:13
再挑戦者さん

再挑戦者さんが私に対してトップだとか、何だとか意味がわかりません。
私は、手前で挙げた通り保田を守りたいと申し上げたまでです。

何か差し障りましたら、お詫び申し上げますが少なからず、再挑戦者さんに対する語ではありませんよ。
ここで質問です。
再挑戦者さんが挙げているトップとは誰を指しているのでしょうか。
私の認識では保田には一名しかおりませんが、他にもトップと称する方が居られるのでしたら、畏まらずに仰って戴けましたら幸甚です。

2672資料販売所:2009/12/15(火) 23:44:45
あるものでしたら、50万円から販売しますよ。

2673れん:2009/12/16(水) 11:55:20
横レス失礼します。

再挑戦者さん

日代師に所有権がある云々は全くの誤りですね。

根拠とされる八通遺状は石山の条条事と同列の偽書、代門は、日代師以降、日尊門流出身の日眼師が西山に入山して勝劣義に改める以前は一致派であったことは越後本成寺の日陣門流の記録に残っています。現在の西山は漫荼羅正意ですが、門祖日代師は広布時造像論者です。ですから現在の西山の漫荼羅正意の相伝は、直接的には、室町期の京都住本寺からの輸入と安房妙本寺教義からの摂取ですね。

安房妙本寺開山日郷師は御生前に文永十一年の大本尊の御図顕讃文を書写され、それを御弟子の日睿師に授与されていることから、同大本尊は日郷師が御所持されていたことは明らかですが、同時代の日代師は重須の御影像と重須坊職は我に有りと申し状で主張しておりますが、日代師が日郷師に対して、大本尊の所有権を主張した史実はありません。よって、文永十一年の大本尊は日郷師が正当な所有者であったことは、同時代の南北朝時代には異論はなく、後の時代の西山の勝手な主張を真に受けるのはどうかと思いますね。

2674れん:2009/12/16(水) 18:51:48
一応、典拠を記し置きます。
日代師・葦名阿闍梨御房御返事「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケ大事一度に成就せしめ給ふべきの由御本意なり、御本尊図は其がためなり」(正本・西山本門寺蔵)
越後本成寺日現師・五人所破抄斥
「彼の日代は初めは興師の付弟たりと雖も本迹一致の法義を信ぜらる」(日宗全七巻)
越後本成寺門流智門日求師・心鏡浮義
「日代は重須本門寺を追い出され、西山の草庵に竄居せしむ。西山本門寺を名乗り近代まで一致の立義なり。大法律師改めて勝劣に帰し、造仏読誦を為さず」(法華宗全書・教義篇・六巻)参考、石山日有・下野阿闍梨聞書「仰せに云く、西山方の僧大宝律師来つて云く、日尊門徒なり…」
西山門流文献の諸門徒規定並法門立派記「法華本門弘通得意・大法律師日眼之談」 


日郷師書写・万年救護大本尊讃文「康永三年太才甲申卯月十六日、之を模す」(正本宮崎定善寺蔵)

2675犀角独歩:2009/12/17(木) 01:15:22

れんさん

たいへんに参考になりました。

偶然ですが、本日の、わたしのブログ「日蓮墨筆を読む」は不動愛染感見記の巡りです。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51667304.html

この図について記す上古の文献は、どのようなものがございますか。

ご教示いただければ、有り難く存じます。

2676れん:2009/12/17(木) 07:28:56
犀角独歩さん

不動愛染感見記ですが、継承する安房妙本寺においては「日月之御形像」と伝称されてきております。

日月之御形像について触れた文献については、私の記憶では、京都要法寺日辰師の祖師伝の釈日目伝に、日月之御形像を挙げたあと、「右一紙日興、日目に付属し玉ふ、今房州妙本寺に在り」というのが、初見だと思います。これについては江戸時代中期以降の一致派系の文献以前には、異説はないので、日辰師以前の上古の文献にはない様ですが、日月之御形像は問題なく蓮興目郷…と安房妙本寺において継承されてきたものであると思います。

安房妙本寺第十五世日侃師が記録された御相伝の目録(千葉県の歴史資料編中世3 277ページ)には、当時、妙本寺に継承していた宗祖御筆御本尊七鋪(大石寺日精の書状には「八幅」とあるが、この残りの一鋪は、南条時光授与の御本尊と考えられる。日濃事件でこれらの宗祖御筆御本尊が流出し、文永十一年の通称・万年救護大本尊と控字之御本尊〈この控字之御本尊の一幅は、現代の鑑定により御真筆ではなく写本であることがわかっております〉の以外は妙本寺に御帰りになれなかった)の次に日月之御形像が挙げられており、安房妙本寺においては、日月之御形像は御本尊に次ぐ重宝として継承して来ております。




以上、悪文ながら、ご参考になれば幸甚です。

2677犀角独歩:2009/12/17(木) 08:19:44

れんさん

早々のご教示、深く御礼申し上げます。

こうした一連の文献考証の結果を見聞すると郷師正統継承といった思いが彷彿といたしますね。

たいへんに参考なりました。有り難うございます。

2678偶ロム偶ログ:2009/12/18(金) 03:03:47
つぶやきです。

どうも多重ハンドルのヒトが煩わしいですねぇ。

2679阿佛棒:2009/12/25(金) 11:32:11
メリークリスマスw

初期キリスト教と仏教の関係と
大乗仏教とキリスト教の影響についてどこかで読んだけど忘れたw

2680再挑戦者:2009/12/25(金) 20:54:29
2673、、れんさん

 八通遺状が マサカの、、偽書  ??  

 日興の一番の弟子 日代が、、曼陀羅を軽視する、? 造像論者、、??

 小生には、、疑義、、疑問、、が  倍増、、中、、 です バイ、、!

 難儀で ゴワス、、ナー、、。 いったい、、何を、、拝めば、、良いのでしょう、、??
 日蓮さんは、「、、末代の幼稚の者ドモ のために、 本門の文底に秘かに
沈められたる、、ところの、、本門の題目を体言!==成仏!、、可能なるは、??」

 この一点、、?? は、、!!   「、、スバラシイ、、成仏、、??」、、!!

2681れん:2010/01/09(土) 11:43:39
再挑戦者さん

日興師の直筆史料としては日目師を「一中一弟子也」と示されておりますので、確実な史料から見える日興師の一番弟子は、やはり日目師であろうと考えます。何を拝めば云々と仰いますが、日興師は「この法門は師弟子をただして仏になり候、師弟子だにも違い候へば同じ法華をたもち候へども無間地獄におち候なり」と示されており、宗祖以来の法燈を御相続されている御僧侶との師弟相対の信心により成仏が叶うというのが、本旨であると仰せです。少なくとも、興門においては、一人よがりの信心ではなく、宗祖以来の法燈を相続をされている御僧侶との師弟相対の信心がなければ、如何に同じように“法華”を持つとも成仏は叶わないのでありますから、創価や顕正などは勿論のこと論外の存在でありますね。

よくよく思慮されて御帰依する御僧侶をえらまれることをお薦めいたします。

2682再挑戦者:2010/01/17(日) 20:43:03

 、、、どーも、、です、、。
  常在しての 御給仕、、が売り の 日興サン にしても、、この体たらく、?

 、、日蓮が 心血を そそいで 現した、、曼陀羅 様を 側近の 日興サン が ナゼ、、
 何故に、、一信者への 領収書的 ? なる 低度の 誤認識 ?? しか ないようでしょうか、、?

 さて、、 周りの 僧侶方 らに 御解答は、、可能でしょうか ?
 信者らを メシ、、のタネ、、にしてきた、?? 方には、 無理 でしょうか、、??

2683再挑戦者:2010/01/29(金) 20:38:09
、、、れんさん。
  
 ワシの 実感、、だが、、 日蓮が 生死の ドマンナカの 生きるか死ぬか、、 
 ママ成らぬ 難儀なる時で 御座った、佐渡の、 記録には、、?
 
 日興が 佐渡に 同行していたならば、、「観心本尊抄」が 佐渡にて 富木殿に 当てられた ことを
 目撃して いたでしょうか、?
 当時は 日蓮 、、本人は 余命は、? 覚悟の ? 遺言 ?
? で、、したか、??
 そこに 居なかった 、、から こそ、、 「曼陀羅への正意、?、」、
などが 軽視〜誤認識、、へと 流れた ようでしょうか、、??
  もっとも  それが、、 かえって  奏功した一面も ありましょう、?

  もし、、日蓮が 「、、コレゾ、、わが、、イノチの 本尊 で御座るぜ、、」、、
 と 公言 したならば、、??  

 つぶす ターゲットが 定まれば 、、外敵らは ?
 そうです、、  一気に 総攻撃に 走ったでしょう、、? つぶされて ? いたでしょうか、?

  その 恐れを 極力 避けて  後世に 、、曼陀羅様 の 真髄を 伝えたい、、??

 という 「一念、、、」が 、「、、、墨に流して、、、信じ させ給え、、」、、

 考えれば、、クビの 皮の 一枚、、差 で、、?  伝承 されたのか、も、?

 全く、、シンドイ、、です、、ナ、、。

2684阿佛棒:2010/02/01(月) 05:34:52
なんでもすぐ地獄に落ちるっていうのは富士門の悪い癖だから直したほうがいいと思ったw

もちろんミーツゥね私も気を付けよう

>創価顕正などは勿論のこと論外
創価顕正にも師はあり弟子もある

妻帯する僧侶など僧といえるものか

2685再挑戦者:2010/04/30(金) 00:44:07
 阿仏棒 君

 僧侶が(聖職者、、?) 何ゆえに 妻帯 厳禁を強調しますか、、? 
 代、代にて 思想・真髄を伝えるのは、わがの子供が、もっとも 信用可能、と、思索するのは当然なり。
 マシテヤ キリステ御免、、の物騒なる時代だった、。 一概に、軽軽には即断は ?!でしょうか、?


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