したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

つぶやきすれっど2

570川蝉:2003/03/17(月) 17:00
(続き)
(総結の文とは、「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裏て、末代幼稚の頸に懸けさしめ玉ふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、大公、周公の文(成)王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり」を指す)

次に山川智応師は、
【「本抄正宗分の終わりに「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」とあるのを「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為す」と訓んだのと同例に「本門の釈尊を脇士と為し」と訓み、本門の釈尊を妙法五字の脇士とする閻浮未有の本尊と解する向き(寛師文段)もあり、その理由は、上の正宗分に「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩」とある文、及び流通分の「此の時地涌千界世に出現して,但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」とあるからで、即ち正宗分の文は、おのずから釈迦・多宝が妙法五字の脇士たるを示し、流通分の文は、地涌出現して幼稚に授けるのは妙法五字なるを証するというのである。
この別証は、また報恩抄の「宝塔の中の釈迦・多宝外の諸仏、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」とあるのも、また同証とすることが出来るように見える文だし、必ずしもその義はないことはないが、報恩抄すでに曼荼羅の形貌を出されているのに係わらず「本門の教主釈尊を本尊とすべし」といわれ、本抄にも正宗分にすでに「未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」といわれ、流通分の初めにそれを受けて「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣未だ崇重せざるの由之を申す」とあって、「本門寿量品の本尊」は「寿量の仏」なるを示され、第二十八答にも「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」といわれて、上の「寿量の仏」を意味せられているから、大曼荼羅の中尊の南無妙法蓮華経は、名は法であっても体は仏でなければならない。左右の釈迦・多宝は、妙境妙智を表して、八品会上の能説を示し、また五百塵点劫の能覚を示し、中央の南無妙法蓮華経は、所説に約しては、境智冥合の常住の仏果を表し、所覚に約すれば、無始の本覚を示されたもので、ともに本仏釈尊の久遠本有常寂常照の一念三千で、本仏の本体をお挙げになったものである。
だから本抄の正宗分は「本尊為体」に、釈迦仏・多宝仏に脇士の名を用いられず、上行等を本門釈尊の脇士とし、報恩抄も、形貌は大曼荼羅なるに係わらず、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」といわれているのである。
また文字の配合上から、正宗分の迦葉・阿難・文殊・普賢等に同例との説についても、必ずしも尽理といえぬ。・・・鎌倉時代の時代文としては、斯様にも自在に配字したのであって、今も漢文的ならば、必ず「地涌千界出現、為本門釈尊脇士」であるのを、時代文的に配字せられているに過ぎないのであろう】(観心本尊抄講話570〜571頁)
と解説している。

清水龍山師は、
【本抄全篇始中終を通じて「本門の釈尊」は主尊本仏で「地涌千界」は脇士本僧であることは文義意の自然妥当で、断じて主尊本仏が脇士なる地涌千界の脇士となる文義意はない。
一、本門の本尊の体相を明かして、
『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』(昭定712頁。学会版247頁)
二、其の顕現の時を明かして、
『是の如き本尊は在世四十余年之無し、八年之間但八品に限る。』(昭定713頁。学会版248頁)(続く)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板