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つぶやきすれっど2

459犀角独歩:2003/02/12(水) 11:46

漢訳仏典教学は終焉を迎えた。これは間違いのない事実である。
ただ、現在もそのような信仰が可能なのは、偏に隔離対策が成功しているからに他ならない。恐怖と功徳、選民思想で糊塗すれば、肉の付いた歯が700年以上も生き続け、今も成長しているなどという嘘も罷り通る。

梵本原文と漢訳経典が違っていようと、その漢訳経典によって組み立てられた教義の絶対性にしがみつく。しかし、しがみついているのは自分自身の執着へ、だろう。

そして、梵本原典は、というと、これまた、シャキャムニの直説とは言い難いようだ。では、シャキャムニの直説探しに時間を費やすことが賢明なのであろうか。ここで言う直説とは真理とか、法とか言われるものだ。

結局のところ、シャキャムニはそんな真理だ、法だと言われるものを言語化してはいないのだと思う、「正しい教え」、「真理」に類する発言はあったろう。それはシャキャムニが実感した、いわゆる悟りというものをそのようが語彙を以て説明したのに過ぎない。真理という語彙はしかし、真理そのものではない。

そんな言葉の限界をシャキャムニは知っていたろうと思う。そこで示せたのは、ではどうすれば、その真理にいたれるかという方法の提示であったろう。それが修行方法の提示ということであった。修行方法を語った言葉・経典に霊力があって願いを叶えるわけではない。その方法に則って修行をするから成果として真理、法にいたる悟りを得られる可能性があったのに過ぎない。

偶像崇拝というキリスト教側の批判があるが、つまるところ、言語化されたものでさえ、言語という偶像である。言語化されたものは言語であって、そのものではないからだ。その意味では聖書も偶像ならば、経典も偶像である。だから、捨て去るというのではない、限界を知るということだ。

生を得ることは天文学的な確率で、胎内では、生物数十億年の進化を追体験し、そして、わずか100年に満たない時間を与えられる。火花の煌めきよりもさらに短い一刹那の出来事である。

その間に、人間は生まれ苦しみ、老いて苦しみ、病んで苦しみ、死に苦しむ。
愛するものとはやがて別れ、憎みものと会うこともある。四苦の限界を持つ生物は叶った願いもやがて潰え、考えあぐねる身心はむしろ苦しみを生じさせる。

しかし、私はいま生きていることを奇跡であると思う。
この奇跡からすれば、宗教団体が提供する奇跡物語など、一切は色褪せて見える。
奇跡は自分が今生きている現実そのものであるからだ。


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