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つぶやきすれっど2

126犀角独歩:2002/12/26(木) 14:20

モモさん:

信・不信ということ、私は、これは二元論ではなく、二極論、より正確に言えば、二極思考という視点で考えなければならない問題であると思います。

辞典に拠れば

にげん 【二元】
事物が異なる二つの原理で成っていること。また、その原理。「物心―の哲学」

とあり、けれど、「二極」という成句は載らず、「極」は

きょく 【極】
(1)物事のそれ以上行く先のない最後。きわまり。きわみ。果て。極限。

という意味を持つとのことでした。
この意味からすれば、モモさんがいう「信じる人・信じない人」という観点は、二元論ではなく二極論になっていませんか。

私は仏教に言われる信・不信は元来、移り変わり、定まらない心的状態を、いちおう二つに分けて信を目標とするのでしょう。そして、完全な信の状態は、ほぼ成仏・記別と同義に扱うのが法華経ではないでしょうか。

蓮祖にしても、彼の『開目抄』における自問自答のなかに於いても、「我が身法華経の行者にあらざるか。此の疑ひは此の書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑ひを強くして答へをかまうべし」と、厳しく論を構えるほどなのであって、その700年後の我らが容易に「私は信じている」などという事自体、まあ、モモさんの言葉を使えば、蓮祖に対して「失礼」に当たるでしょう。

そして、ここで重要な点は、この記述において「信」の対語に日蓮が置くのは不信ではなく、「疑」です。そして、「疑ひを強くして答へをかまう」というのです。

この信・疑の対句関係は、聖人の特質ではなくて、天台已来の系譜です。
例えば、玄義には「斷大“疑”生大“信”」と言う如く、また「動執正“疑”」に「断疑生“信”」という如くです。

そもそも石山教学では、真偽未決の『教行証御書』を採り、その下種の特性を金剛宝器戒というのです。「此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず」という一文をもって、受戒を説明します。ここで、一度、受戒をした者を「信じない者の論理」と排斥することはできないことになるわけです。信・不信は証悟に至る道程なのであって、その課程において、信・不信のレッテルを貼ることは、私は実に相手に対してというより、何より教化の師・日蓮に対して、実に「失礼」なことに当たるでしょう。何故ならば、下種の衆生を皆成仏をするというのが、少なくとも石山義で言う日蓮の教えであるからです。

石山義では真偽未決の『経王殿御返事』の「日蓮に怨(あだ)をなせし人々は、先(ま)づ必ず無間(むけん)地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成って成仏すべし」という一節を採って、文句記の因謗堕悪・必因得益、所謂、毒鼓の縁に充て、本仏の種熟脱の長遠の師弟関係を宣べることを詮とします。これらの定石がモモさんは「自分を石山を信じる人の理論」といいながらまったく考慮されていない点で、石山義、日蓮義、妙楽義、天台義に至っていない見受けざるを得ないわけです。

更に言えば、私はモモさん「信じない人の理論」という一節を読んで直ちに想起したのは、石山教学、日蓮教学でも、仏教でもなく、キリスト教です。「唯一絶対・全知全能の神を信じなさない」「信じる者は救われる」、そして、この神は証明することができない故に正しいというキリスト教の神学系譜です。

この点は、しかし、モモさん独りの問題ではなく、日本仏教全体が抱える問題点です。西欧化のなかで、仏教の根本仏をキリスト教の全知全能の神の如くに見立てる傾向が、近代、強く起こり、その解釈を日蓮の考えであると誤謬され現在に至っています。この点は、むしろ、みかんさんがお詳しいところでしょう。

キリスト教の信は何もわからなくても成立しますが、日蓮が言う信は、常に「疑」の克服の上に成り立っています。その意味から、私から見ると、モモさんの言う「信じる人の理論」は日蓮的ではなくて、キリスト的であると思えるわけです。

あと、「失礼、失礼」を連発する前に、自分が相手に対して、失礼に当たらないのかを少し考えてみる余地があるのではないでしょうか。私から見る限り、モモさんの対応は実に失礼なものになっていると映じます。


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