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つぶやきすれっど2

806無徳:2004/02/02(月) 21:41
人間にとって「信」とは何かについてちょっと考えてみたいと思います。

この拙文は自分のHp(http://sakumayk.net)の掲示板に投稿したもののコピー
です。


吉本隆明氏はその著書である『信の構造』の序において、

「〈信〉は形而上的にだけいえば、事物と事物とのあいだの差異の同一化であり、
意志による世界の被覆だといえよう。ただこの被覆は、自然が精練されうるもので
あり、この自然の精練が人間化ということをも包括しているという概念のうえに思
い描かれている。被覆によって人間を自然にさしもどすことと、人間を自然の原因
あるいは起源とすること。このふたつの極端が〈信〉の構造に輪郭をつけている。
ところで人間を自然の原因あるいは起源とするということは、「生誕したことがな
い人間」という概念を思い描くのとおなじ意味をもっている。生誕した人間は、つ
まり何かの結果として生誕したのだから、それ自体で自然の原因や起源となること
はできないからだ、これは<信>がいつも擬人的な至上者を比喩としてもたざるを
えない理由みたいに思える。またこういう擬人的な至上者は所在ということ(場所
ということ)の始源に住んでいなければならない。そうでなければ結果としての始
源という云い方をしても、ほぼおなじことを意味している。」

と述べています。
はたして、<信>によって事物と事物とのあいだの差異を同一化するとは如何なる
意味であろうか?
その後に来る<意志による世界の被覆>と同義であるすれば、それは人間が意志に
よって世界を解釈し理解することをもって<信>の内実とするということなのであ
ろう。

では、なぜそれが事物と事物の差異を同一化することになるのであろう?おそらく
その後に来る<ただこの被覆は、自然が精練されうるものであり、この自然の精練
が人間化ということをも包括しているという概念のうえに思い描かれている>とい
うこととも繋がっているのであろう。

それは、人間による自然の精練つまり自然の人間化と同時に、人間の意志による世
界の被覆を通じて人間を自然の起源と位置づけ、人間を自然にさしもどすことが差
異の同一化というほどの意味なのでありましょう。

しかし現実的には人間はその意志によって世界を完全被覆することはでき得ないし、
自然を精練することも叶わないでありましょう。

したがって、私の解釈としては人間は<信>を通じてのみ世界を被覆できると幻想
し、精練できると幻想するのでありましょう。それが宗教の起源といえるのではあ
りますまいか?


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