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つぶやきすれっど2
1817
:
犀角独歩
:2005/09/23(金) 05:33:28
つぶやきということで。
漫荼羅を本尊たらしめているのは、持(たも)つ当人が信じる力に依るのでしょうね。
ですから、それを信じるに足る通過儀礼がそれを決定付けるのでしょう。
石山末寺から下付される印刷は、入信、受戒、信仰、勤行という本人が納得する儀礼、修行を通じて、本尊となっていくのでしょう。
漫荼羅を写真に撮ったものは写真です。普通の写真のような光沢、絹目といった紙に印刷されると本尊という実感は薄いでしょう。しかし、これを和紙に印刷し、表装し、仏壇に安置し、日々、勤行・唱題を繰り返せば、やがて本尊として価値を発揮することになります。これは彫刻でも同じでしょう。店に掛かっている屋号を彫った板が看板で、漫荼羅を彫れば本尊であるというのは、そこに刻まれた文字の意義がわかる人にしか通用しない心理です。店の看板でも、寺院の本堂の仏壇に安置されていれば、まるで漢字の読めない外国人ならば、何か大切な信仰対象であると思うことでしょう。
わたしが問題にしているのは、漫荼羅を写真に撮れば謗法かどうか、もしくは写真製版した印刷が漫荼羅かどうか、ということではなく、何故、それを謗法と思うのか、もしくは本尊と思うのかという己心・他心の問題です。そのように思うようになったのは、外的要因の影響で喜怒哀楽を操作されていないのかという問題です。
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