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つぶやきすれっど2
562
:
問答迷人
:2003/03/14(金) 11:03
顕正居士さん
貴重なご教示、誠に有り難うございます。
>上の文章の意味は「本門ノ教主釋尊」=「寶塔ノ内ノ釋迦多寶」であろう。釈迦応身と多宝法身の並坐を本門教主釋尊というなら、本尊問答抄の説は不思議ではない。
なるほど。報恩抄の文をそのまま読めば、「本門ノ教主釋尊」=「寶塔ノ内ノ釋迦多寶」と読めますね。そうすると、日蓮聖人の書かれた曼陀羅で言えば、「中尊の妙法蓮華経及び釈迦多宝」=「本門教主釈尊」とされている事になります。そう考えると、観心本尊抄の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」という文が、「本門教主釋尊」に対する信仰を述べている意味になります。また、同じく観心本尊抄の末文の「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、太公・周公の文王を摂扶し、四晧が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。」という意味も、「五字」という表現をもって「中尊の妙法蓮華経及び釈迦多宝」=「本門教主釈尊」を顕わしていると捉えると、「四大菩薩の此の人を守護」と続いて、釈迦多宝の事が説かれていない理由が鮮明になる様に感じます。
ただ、そうしますと、日蓮聖人が顕わした曼陀羅において、中尊は、「題目だけ」ではなく、「題目と釈迦多宝の二仏並坐」と言うことになりますが、そのような、「複数の中尊」を持つ曼陀羅は、他に例が有るのでしょうか。日蓮聖人の独創なのでしょうか、如何お考えになられますでしょうか。ご教示賜りますれば幸いに存じます。
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