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つぶやきすれっど2
2061
:
犀角独歩
:2006/05/15(月) 09:21:48
れんさん
ご賢察のご呈示、有り難うございました。参考になりました。
「日目には法華取要抄の写本」が本物であれば、さらに現実味を帯びますね。
公家出の日目に、直接、本門戒壇勅許の特命を、日蓮を課したなどというストーリーが証明されれば、これは面白いと思えます。ただ、これは、大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います。
それにしても、日目が美濃の垂井に寂したあと、その報告を富士方に告げる必要があったことはわかるのですが、日尊と日郷は、そこで別れ、そこから、まったく別の展開をしていくことは、実に不思議に感じます。
わたしの感覚すれば、二人で日目の遺志を継いで、代奏をし、六角小路に土地を拝領し、寺院建築の基礎ができた段階で、また、二人で富士に戻って、日目の墓も建立するということが通常の在り方ではないのかと思うわけです。
ところが、そうはなっていません。日目の遺骨を、垂井の荼毘の段階で、二分しているわけです。日尊は鳥辺山に塔したわけですが、日郷は、日目の遺骨半分を下之坊に持ち帰ったといいます。大石寺ではなく、下之坊です。そして、いまに至るまで、石山には日目の正墓すら造られなかったわけです。造られてなくなったのか・当初から造られなかったのかわかりません。ともかく、ないわけです。身延に日蓮の正墓、北山に日興の正墓があるのにもかかわらず、石山には日目の正墓がない。日郷が退出に当たってもって出たのかというと、そんな事跡もなかったように記憶します。いったい、日目の遺骨は何処へ行ってしまったのか。この点は、1年前にもれんさんと応答し合った点ですが、それ故、わたしは5年前から、石山で日蓮の灰骨と言われているものこそ、日目の遺骨であると考えてきたわけです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015567021/99
話が横道に逸れましたが、日目直授があったかどうか、わたしは血脈、相承の類は疑って掛かるほうですが、この日目に係る件については、れんさんのご呈示ということもあり、かなり興味を懐いております。
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