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つぶやきすれっど2

415今里祐二:2003/01/21(火) 19:38
(つづき)
つまり僕達信徒が帰命しているのは、いわゆる普通の人間として生活しておられる時の大聖人様ではなく、出世の本懐の時・戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様である、ということです。
ただ、出世の本懐の時の大聖人様は、普通の人間として生活しておられる時の大聖人様に依存してしか存立し得ないので、分別として分ける事は出来ても、実際には分ける事は出来ないと考えています。

戒壇の大御本尊様をお顕しになった時の大聖人様の御一念が、本当に「自受用報身如来の御當體そのもの」であったかどうかは、他人にはうかがい知る事の出来ない事であり、証明は不可能です。
またこの事は、いわゆる物質としての戒壇の大御本尊様が「100%大聖人様の御真筆である」という事が証明されても、その戒壇の大御本尊様が「自受用報身如来の御當體である」という事は証明されない、証明不可能という結論になると思います。

ここまで考えて「やはり仏法とは信に始まり信に終わるのだなぁ」と思いました。
もちろん、これは信徒としての僕の考えであり、他人に押し付けるものではありません。

>二つの本仏論とは現石山などで言われる、一つは本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊、もう一つは本仏=釈尊=日蓮の二つです。

僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。
一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。
(まぁ、独歩さんのされている提案に比べれば、ずいぶんカワイイものですが…)
大聖人様の事を釈尊に相対し百千万億倍勝れた仏と立てれば「不ニの尊体」と称し管長を大聖人様のごとく拝する悪弊も少なくなると思いますし、また、そのことによって血脈の尊貴が損なわれる事も無いと考えています。

困ったという字さん(はじめまして)、からのご提案もありますので、重ねての議論はスレッドを移動したいと思いますのでよろしくお願いします。

最後に、僕の不徳により、本来楽しいつぶやきの場であったこのスレッドが論争の場のようになってしまったことを謹んでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。


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