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つぶやきすれっど2
46
:
アネモネ
:2002/12/20(金) 14:01
>ここの掲示板を「富士門流信徒“だった人の”掲示板」になっていると指摘された方がありました。
これと似た言い回しで、「あなたの言っていることは、所詮信じてない人の理屈だ」ということも、よく言われます。また「信心がないからなんじゃないの」とか、「最初から信心してなかったみたい」とかもよく言われますが、これらの言葉は人の言葉を遮るものであり、遠まわしの言論封鎖だといつも感じます。信じている人と信じていない人を分けて考える。つまり潜在的に差別して考えていると私には思えるわけです。
結局、こうやって人々を排斥し、独り善がりになっていくのが、この門流の体質なのでしょうか。
しかも当たり前に発する言葉に悪意の気持ちはなく、この体質の根はかなり深いものだとさえ感じます。
しかしお釈迦さまにしても、日蓮聖人にしても、信じる信じないの別なく、来るものは拒まなかったという印象を私はもっており、その姿勢とはかなりかけ離れた狭い心だなと感じるものです。また狭くすることがこの門流の優位姓だと勘違いをしていたりもするのではないでしょうか。それが唯一最高の教えだと、ますます自己陶酔していく、といったところでしょうか。
ここまで書くと、信じていると言っている人に対する痛烈な批判になるかもしれませんが、私は信じている人のことを排除しようなどとは思ってはいません。
これが信心だと刷り込まれたことを、今いちど、本当にそれが人の道なのかどうか、自分で考えてみることは、組織人間の社会的責任としても重要なことだ思います。そこには人を排除するような間違った考え方もたくさんあると思われます。そういうものを見直していくことも、宗教の目差す信仰のひとつの姿ではないかと、私は思いますね。
>旧信徒幹部(昔からの法華講員)の考え方にはあきれてしまいました。
私もそう思います。代々の法華講の人が元学会の方について、陰がコソコソっと口にする言葉で呆れたのは、「育ちが悪い」「生まれが悪い」といった言葉です。そんなことを本当に思っている代々の法華講は、「心根が悪い」と私は思います。
しかし、その法華講、宗創蜜月の頃には、「お寺信心」と学会から馬鹿にされていた存在だったとか。もうどこを見ても聞いても、信仰するものの心ある姿とは思えなかったですね。離れてよかったです。それこそ信心がおかしくなります。
トゲのあるつぶやきで失礼いたしました。
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