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つぶやきすれっど2

1695乾闥婆:2005/06/30(木) 15:42:12
>>1692
川蝉さん。

>今朝まで乾闥婆 さんの1688 番の投稿見過ごしておりました。

ここは、つぶやきスレッドですから(笑)

>シスオペをしたことはありません。

それは申し訳ありませんでした。シスオペが辞められてからすぐに閉鎖されたように記憶しております。後半はごたごたしていて管理し切れていないような印象でした。あとを継いだのは青頸さんだったかもしれません。

>実の処は折伏と云う言葉の使用は控えています。

そうですね。言葉というものは力を持ちます。創価学会がいくら「仏法対話」と言ったところで、折伏という語の使用をやめなければ「折伏精神」とやらは継続して各会員の中に息づき、折に触れて激しい言動となって現われ出ます。折り伏す行為は、正確に創価学会員の継承するところなのかもしれません。そうであるので、折伏という語を蓮祖という根源において批判し正しく読みなおそうという姿勢は大事なのだと思います。

>ただし私の理解では、日蓮聖人はご自分の強い諸宗批判は折伏の範疇に入る弘通方法せあると考えられていたことは確かと理解しているのです。

ここで行われていることは非常に重要な一種の思考実験であるのだと思っています。犀角独歩さんや顕正居士さんの提示される事実を完全に否定することができないのであれば、それはひとつの読み方として認めうるということです。その読み方が伝統的な蓮祖理解と違ったとしても、そのような読み方のありうることは受け入れなければなりません。伝統的な宗学という範疇における蓮祖受容はひとつの価値判断であると思っています。それを全否定する必要はないでしょう。しかし事実判断の中にその価値判断を持ち込むことは不可であると考えます。それはそれ、これはこれ、です。

さらに遡れば、そもそもゴータマ・ブッダは法華経を説かなかったのですし、日本の仏教は仏教であるのか、とさえ言えるのでしょう。蓮祖、その人、に遡り、その一点において事実を見極めようとする思考形態は、その後の蓮祖受容を相対化することでしょう。ゴータマ・ブッタ自体に遡ってしまえば、大きな意味での「仏教」が相対化されるように。伝統を全否定する必要はなくとも、そのような視点はつねに意識しておかなければいけないと考えています。Niftyでの仏教思想フォーラムで、現代思想フォーラムから来ていた人たちとの間で行われていたことは、そのような立場の相違が底辺にあったと思っています。


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