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つぶやきすれっど2
414
:
今里祐二
:2003/01/21(火) 19:38
独歩さん
>>404
>これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。
ここは独歩さんと意見を異にしますので、以下理由を述べます。
第一点は『木絵二像開眼事』は木絵二像についての御指南で、大聖人様が顕された御本尊様に対しての記述ではないという事。
第二点は、大聖人様は『日蓮は広略を捨てて肝要を好む』(法華取要抄)と言われるように、肝要を好まれたお方です。
『木絵二像開眼事』の冒頭に『仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。』
とありますが、大聖人様御自身は、可見有対色の三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕すことにより、御本尊様を直ちに三十二相具足の純円の仏とされたのではないかと推察しています。
『仏に三十二相有り、皆色法なり。』という事ですので、戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つのではないかと考えています。
>もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。
この点はご指摘の通りです。ただ「そうではない」という証拠も無い訳で…。
>なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
>つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。
これは、みかんさんからご指摘を受けた時は僕自身まだよく解っていませんでした。ご教示ありがとうございました。その後自分なりに考えた事があるので記してみます。
『下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)
「自受用身は本、上行日蓮は迹」と優劣を論じる場合と「自受用報身如来の御當體」と大聖人様を直ちに「自受用報身如来の御當體」と論じる二種類があるのは、大聖人様の御生涯の中での優劣を判じる為ではないかと考えました。
御幼少の頃、蓮長と名乗られていた頃、あるいは立宗宣言された後も、御食事を召し上がっておられる時、用を足しておられる時、等々、いわゆる普通の人間として生活しておられる時は「自受用身は本、上行日蓮は迹」。
それに相対して、出世の本懐を遂げられた時、つまり戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様の大慈大悲の御一念は「自受用報身如来の御當體」そのものであるのではないか、という事から、その時の大聖人様の御一念をそのまま顕した「戒壇の大御本尊」を「自受用報身如来の御當體」というのではないかと考えました。
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