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つぶやきすれっど2
568
:
一字三礼
:2003/03/17(月) 12:58
相対的崇拝対象と同一的崇拝対象
相対的崇拝対象
一般的な仏・菩薩の尊像を崇拝する場合、対面者(参拝者・信仰者)はその尊像の手の組み合わせ・持物・標識等の印相(mudra)によって、その尊像の意思・働きを知ることが出来る。この形式は、尊像の自身の主体的な救済の働きを、対面者が認識して崇拝対象とするもので、二元的・相対的関係と考えることが出来る。
同一的崇拝対象
日蓮聖人の顕わした曼荼羅の役割は「観心本尊」にある。建治後半から弘安年間の一般的な曼荼羅相貌では、四天王及び諸神を除いて、首題をはじめとする仏・菩薩等には「南無」が冠されている。この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。つまり、曼荼羅と対面者とは本来、別の存在であってはならないので、一元的・同一的関係といえる。これが「観心本尊」の由来ではないだろうか。
曼荼羅座配の諸尊を仏像・絵像として表現することが妥当かというと、結論的には「南無」を冠した仏・菩薩を仏像として表現することは出来ない、と考えざるをえない。
たとえ金剛合掌や帰命合掌、十ニ合掌等で表わそうとしても、それは尊像側の主体的意思表現となって、観心行の対象としての一体感は無くなってしまう。
また、極端なことを言えば「南無」を冠さぬ諸尊も可能とするのであれば、曼荼羅本尊の中尊も「南無妙法蓮華経」ではなく、「妙法蓮華経」でも良いということになり、蓮組弘通の唱題行の意味も薄れることにはなりませんか。
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