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つぶやきすれっど2

2379犀角独歩:2007/01/31(水) 12:09:02

ラキさんのために、ちょっと書いておきましょうか。

> 既に完膚なきまでに破折され尽くされている

既にブログで考証したとおり、細井さんの言うところは破折になっていませんし、「尽くされて」もいません。

> 此の説を見ると現存御真筆と称する百二十三幅によっている。此れ以外に御本尊がなければ此の説に一分の理がある。しかし若し他に何幅もあるとすれば其の御本尊が果して如何なる御書体であらせられるか、若し一幅でも此れに反するものがあれば、なり立たない説である。

これは一応、文面としては理屈は通りますが、ここまで言うのであれば、具体的に、どの大漫荼羅、どのようになっているのか挙げなければ反証とはならないですね。この義務を細井さんは怠っています。まあ、できなかったのでしょう。

> 然るに山中氏は石山関係の御本尊は全く含まれていないと言っている。

しかし、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』のなかで、82、111、116は大石寺所蔵だと証しているわけです。

> 弘安二年の十月に於て両様の御本尊が存在しても不思議ではない。

これは机上の空論でしょう。その実際の例を挙げなければ、論証とは言えません。不思議でないのなら、実際の例を挙げればよいだけのことです。

> 御書体の変遷は厳格に日時を区切って御変え遊ばされたのではない事が明白である。

これはある程度言えます。

> 畢畢(つまり)或る時期に於ては斯様な書体が多いということは言い得るが、絶対的なものとは言えないのである。

これについては、山中師は123の実際の大漫荼羅を挙げて説明しているわけです。方や、細井氏は、単に想像でものを言っているに過ぎないわけです。これはお話になりません。反証になっていません。口だけなら何とでも言えます。

石山の遣り方はいつもそうで、図で示されても、想像憶測を言い、それが絶対であるかのように語ることで成り立っています。悔し紛れの言い訳に過ぎません。

> さて此れで安永君の第一節の説

ここで、挙げる安永氏の説は確かに、あまり参考になりません。
細井氏が反論したくなるのは当然でしょう。

> 御歴代上人が唯授一人・血脈相承によって御相伝され、御書写されるのは、御本尊の物理的・表層的な御相貌ではなく、戒壇の大御本尊様の”御内証”である。

得意の「内証」が出ましたね(笑)
そもそも内証というのはどうやって写すのでしょうか。
それを写すと書いてある内容が変わってしまい、それでも書写だというのはどういうことだというのが、こちらの質問です。この答えになっていないわけです。

> 御法主上人御一人の御所作に依られるのであり、犀角氏などの御相伝を全く知り得ない謗法者が云々できる領域ではないのである。

出ました。「謗法」のレッテル張り。口の悪い人ですね(笑)

まあ、わたしが「御法主上人」の相伝を知らないのは事実です。
しかし、反対に聞きますが、では、これを書いている当人は、その相伝の内容を知っているのでしょうか。知りもせず、書いているのでしょうか。
知っているのであれば、意味がありますが、知らなければ何とも言えないでしょう。

> 10月12日に大御本尊を御図顕あらせられた

そうですね。この日に細井さんは日蓮が日興と共同で本尊を建立したというわけです。それなのに、日興は、日蓮の許にいなかった。どうしてでしょうか。

> 妄弁者、犀角氏は、歪んだ自らの心を省みて、大いに恥じ入るべきであろう。

こういう汚い言葉を使う前に細井氏の『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』の冒頭の言葉を読みましょう。

それから、何より、図形でこちらは論証しているのですから、図形を持って反証しましょうというところです。

詳しくは、一信者が代表できるわけもないですから、わたしは大石寺の公式発表を望みます。


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