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つぶやきすれっど2

808無徳:2004/02/06(金) 00:32
私が現在一番関心を抱いている問題は、人間が何ものか(特に宗教的なもの)を信
ずるという「心的な構造」は如何なるものか?ということです。

そのことについて竹田青嗣氏は『はじめての現象学』のなかの第六章の2において
次のように述べています。

<さて、わたしがここで試みてきたことは、ひとことで言って、人間にとって「ほ
んとう」ということの「根拠」があるのか否かという問題にひとつの決着をつける
ことでした。いまはっきりしたのはつぎのようなことです。
これまで哲学者たちは、「ほんとう」とは何かという問題をめぐって、それをもっ
ぱら「認識の構造」として捉えようとしてきました。しかし、わたしたちが見てき
たのは、それはいわば「信の構造」(確信の構造)として捉えられるべきだという
ことです。
「ほんとう」とは人間にとって、原理的にひとつの「信の構造」として存在すると
言えます。この「信」とは、単に「思い込むこと」や「信じ込むこと」を意味する
のではありません。それは「確かめ」と「確信」の構造として存在するのです>

つまり、人間にとって「ほんとう」とは、「意味」や「価値」として立ち現れる現
象のなかから「正しいと確信」し得るもの、つまり「信の構造」の中にあるという
ことになります。

このことは、私にとっては全く驚くべき考え方であると共に、なるほどと肯ける考
え方でも有ります。

しかし、この竹田氏の「信」に対する現象学的理解を、仏教上における「信の確立」
に当てはめるならば、どのように解釈できるのでありましょう。

それぞれの仏教宗派が「信」の対象とする事柄に至上の価値を置き、そこに生きる
意味をみいだしそれを「正しいと確信」できるならば、そのことは「信の構造」と
して「ほんとうのこと」の根拠となり得るのであろうか?

おそらく、フッサールによって立てられた「厳密な学」としての「現象学」であれ
ば、そう単純とも思える解釈ではありますまい、仏教においても「信」ずべき教義
に対し「厳密な学」に相当する「教相判釈」を通じて「信の確立」を目指したこと
は間違いないでしょう。

ただ、「現象学」の提唱者でもあるフッサールも最初頃は数学をやり、後に心理学
を中心に人間の心的領域の解明を目指したとされているように、「人間の心」とい
う不可思議な存在に魅せられたことでしょう。

仏教においてもこの「人間の心」の解明こそメインテーマであることは間違いあり
ません。


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