[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
つぶやきすれっど2
2093
:
お暇庵
:2006/05/31(水) 11:25:37
藤川さん、これは面白い着眼ですね
後醍醐天皇は真言密教の伝法灌頂を受け自ら出家となって鎌倉幕府転覆と王権奪還を目指して怨敵退散の調伏をいたしていたことは事実です。中宮の御産祈祷と称し関東方調伏の祈祷を行い、更に興福寺や延暦寺などの寺社勢力を味方につけようとしていたことも(結果的には延暦寺にうらぎられますが・・・)
もともと武士の出自は源氏を始めとする下野した皇族縁故による(皇位権剥奪や権力遠慮)嫡男以外に寄って組織された護衛団の意味もありましたが、承久の乱に下克上にあって鎌倉北条家に皇位の交替まで云々され、官位や人事にまでの越権行為があったのは歴史的事実なことでしょう。
「正中の変」や元弘の変、幾度かの挙兵による蟄居や配流を経た後醍醐天皇が政権奪還のために利用しようとしたネットワークは高野から連なる連峰群に拠点を持つ修験・山伏系を始めとする山岳集団、木地師、職能・遊行者・白拍子などの芸能集団、忍者の元祖と言われる千早赤阪系の悪党山師。勿論その中には鎌倉にほど近い富士山岳の霊的ネットワークも視野に入っていたと思います。
結果的に鎌倉幕府が新田義貞と足利によって滅亡しますが、鎌倉を滅ぼしたのが新田家とは深長な意味合いが見て取れますね。
その後、建武の新政による後醍醐天皇と貴族中心の政治運営は荷担した武士達が報償面で不満を持ち、後醍醐天皇が政争に敗れて吉野の山中に逃げ込んだのも熊野地方には天皇を支えるこうした武士階級や貴族とは違うネットワークの基盤があったと思うのは自然なことではないでしょうか。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板