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つぶやきすれっど2

404犀角独歩:2003/01/20(月) 21:51

○色心不二

「色心不二」は著名なところでは湛然著『法華玄義釋籤卷第十四』十不二門に挙がります。決して「初歩的な事」などではありません。

一色心不二門者。且十如境乃至無諦。一一皆有總別二意。總在一念別分色心。何者。初十如中相唯在色性唯在心體力作縁義兼心色。因果唯心。報唯約色。…

(手許に訓読テキストがないので、雑駁に読み下しますが)
一に色心不二門とは、且く十如境乃至無諦、一々に皆総別の二意あり。総じて一念は分別して色心あり。何者ば。初めに十如の中、相は唯色に在り、性は唯心に在り、体力作縁の義は色心を兼ねる。因果は唯心、報は唯色に約す…

と説明は延々と続きます。日蓮はこの義を踏襲するのは至極当然のことなのですが、真跡中「色心不二」は『木絵二像開眼事』に一カ所見えるのみです。ここでは

「仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」

とまず生きておわした三十二相の仏に対して、仏の木像・画像は梵音声とを欠く(故に三十一相)で、心も欠くので天地雲泥の相違があるといいます。
けれど、

「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり」

といい、仏像・画像の前に法華経を置けば純円の仏となるといいます。すなわち、これは法華経が梵音声を不可見無対色で仏像・画像に書けないところを法華経を仏の梵音声なので、置くことによって三十二相を具足することになると言うほどの意味合いでしょう。すなわち、ここに色不二を説明として使用し、

「意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。」

というのです。(梵音)声は色法。仏の心より色(梵音声)をあらわす。また、(梵音)声を聞いて心を知る。色(梵音声)が心(仏の御意)を顕すのである。色(梵音声)心(仏御意)不二なるが而二とあらわれて、仏の御意はあらわれて法華の文字となる。文字は変じてまた仏の御意となる、と言います。

これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。

もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。

なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。


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