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つぶやきすれっど2

177犀角独歩:2002/12/30(月) 23:02

○呼称が信者の心を操作している

169に日蓮の呼称について、少々記しましたが、それに就き、こまったさんに「言葉狩り」という観点で整理していただき、「あ、そうだな」と思ったのです。

こんなことがありますね。
学会では池田さんを「池田先生」「池田名誉会長」と言わないと、この会で言う信心に抵触します。
同じく顕正会では、浅井さんを「浅井先生」「浅井会長」と言わないと、この会で言う信心に抵触することになります。
石山では顕師を「御法主日顕上人猊下」と呼ばないと、これまた宗の信心に抵触することになります。

これはまた、やめた人間はひどく抵抗するところで、学会をやめた人は「池田先生」とは言いたくない、顕正会をやめた人は「浅井先生」とは言いたくない(菊水護国さんは例外!(笑))
石山を離れた坊さんも顕師を「管長」とか「阿部法主」とか言い方に苦慮しています。

つまり、これはその尊称、呼称に既に大きな意味が孕んでいることと、服従・違背という両極にある“信仰であると信じ込まされた感情”が蠢いているからでしょう。つまり、どう呼ぶかによって、既に心理操作が可能になっているという点を聡く看取することが大切なんでしょう。

やめた人でも、演技でも『先生』と何度も絶唱していると、熱烈に崇拝していたときの感情がこみ上げてきます。ところが元学会では池田さん、顕正会では浅井さんに、対するかつての思いが、と異なることになります。

言葉による操作は、人心操作の基本です。しかし、これは宗教だとか、信仰ではありません。心理操作なのです。その操作技術を宗教団体が使っているのに過ぎません。

このように各個人に以前とひそむ心理の正体が何であるかを見極めることは意義のあることだと思います。

けっして被害者運動をここで展開しているとか、そんなことではなくて、そのように思うわけです。(この最後の一節はやーこさんを批判する意図は、もはやありません。しかし、そのように考える複数の人がいれば、その人に向けた言葉であると理解されることは、敢えて否みません)


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