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つぶやきすれっど2
2023
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 13:19:49
2020に就き、「船守弥三郎許御書にある」というメールを頂戴しましたので、ご本人の許可をいただき、その後指摘を紹介させていただくと共にこの点を記します。
『船守弥三郎許御書』に「海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事」(定230)
この一節から、持仏は海中出現であるというのが、その反論でした。
わたしは、これを類推解釈であると思うわけです。「仏体」とあって、仏像とはないからです。
同御書は真蹟を遺さず、その内容からとても日蓮の真筆とは思えません。しかし、仮にここに記される出現の仏体という伝説が事実であったとしても、それが直ちに仏像であるということにはならないと考えます。
むしろ、ここで日蓮がたまわったとするのは、「海の定木」であり、それを仏像に刻んだゆえに仏(の)体としたという類推は成り立ちます。
漫荼羅正意論からは見えない日蓮の伊東流罪の心情があります。
当時は、当然、漫荼羅図示を日蓮は始めていません。日蓮が伊東で実際に過ごした場所はどのようなところであったのか、憶測の域を出ませんが、幼少より仏教に慣れ親しみ、虚空蔵菩薩に願もかけ、弥陀仏を簡んで釈迦を崇めた日蓮は、仏教の僧侶として、当然、仏像は崇敬の対象であったでしょう。
しかし、流人として流された日蓮の寓居は同宇ではなかった。当然、そこには仏像もないような場所であったのだろうと想像できます。
漫荼羅正意論者が、家に本尊がないことを寂しく不安に思うように、仏教僧として、仏像のない場所での暮らしは、どれほど、心細いものであったのか、わたしは、そんな流地伊東で流人の身上で日々を送った日蓮を想像します。そこで、海に浮かぶ一木を献上された日蓮は、自らの思いを篭めて一体の仏像を彫り、それを持仏として充て、無仏の寓居で、流罪を越した…。その苦しみを共にした手製の持仏を日蓮は、終生、大切に身に帯し、死んで身延に墓所を希望するに及んでも、身が荼毘に付されて骨となっても、その辛苦を共にした持仏を墓の傍らに置いて欲しいと願ったというのが、その日蓮の心情であったのではないでしょうか。
この持仏彫刻の伝承は、しかし、重須文献に見られる富士方が護るところであったのに、その後、徐々に漫荼羅正意に傾いた門派では、日蓮が自ら仏像を彫ったという伝説はまことに都合が悪いところであり、ゆえに今日では文献が残っているのにもかかわらず、語られるところがないことになったのであろうとも思えます。
いくえにも日蓮の痛みが伝わる顛末であると、わたしには思えます。
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