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つぶやきすれっど2

1971犀角独歩:2006/03/27(月) 22:50:17

―1970からつづく―

さて、ここで『本尊抄』の

「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり」

というときの「塔中の妙法蓮華経」が五字か・経典かという問をわたしは懐いたわけです。この本尊抄の記述に従って仏像を建立するとします。多宝塔を造り、その塔の中に二仏並座させることになります。

わたしは塔の中でなければならないと思いますが、しかし、これは四菩薩がこちらを向いているのと同様、外に置くのは致し方のない造形上の措置でしょうか。
それは、置くとして、では、肝心の妙法蓮華經はどうでしょうか。
わたしは法華経典であると思います。なぜならば、ここに法華経典がなければ、『木絵二像開眼事』と齟齬を来すからです。では、上行所伝の妙法蓮華經が表現できないではないかとなりますが、そうなのだと思います。仏像造立では妙法五字は表現できないのです。ですから、別立てで曼荼羅が必要なわけです。

富士方では、伝・三位日順文書『本門心底抄』に

「本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し」

とあり、要法寺系でも、この考えですが、わたしは、これはまったく日蓮聖人の三大法門を満たすことが出来ない謬論であると考えています。
本門の本尊は仏像・本門の題目は字像曼荼羅、そして、戒壇は『取要抄』に記される密事として、伝えられた比叡山戒壇の代わる本門戒壇であり、こうして、三大法門の三つは成就するのではないのかという考えです。

これを妙法蓮華經の五字を本仏釈尊としてしまえば、二大秘法としかならないことになります。この点は、石山で言う日蓮本仏・人法一箇でも同様ではないのか、というのがわたしの考えです。

なお、「其本尊為体」は、日蓮門下一般を通じて、「其の本尊為体(ていたらく)と読むことで、異論がないようですが、わたしはこの点に異議を有します。では、どう読むのか「其の本尊を体と為(な)し」ではないのか、というのがわたしの考えです。では、その体とされる本尊とは、その後に続く記述ではなく、その前段ではないのかと考えます。すなわち、四十五字法体段でいわれる仏が本尊であるということではないか、ということです。では、「為体」以降は何を意味するのか、つまり、それは「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」という造立される仏像の奉安様式です。
ただし、この点については、思索中です。


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