[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
つぶやきすれっど2
2098
:
金龍
:2006/05/31(水) 15:10:14
お暇庵さんこんにちわ。
確かに現存の歴史的な背景はその様に存じます。
ここは、少し遊んでみませんか。
お説の通り、目師は走湯での13才御出家、像師は宗祖入滅時14才。
しかし目師の記述は、他の日蓮門下に明記されているのでしょうか。
又、当家では像師の事は触れる文献は有りませんよね。
私が、折り触れて思うのは、富士門と他門の文献は互いに反する場面が多いという事です。
これらの伝承等を一蹴にして「不相伝」と言う言葉でかたずけるのでは無く、双方に何らかの共通点が見られないかと言う事です。
教義は別として、日蓮門下に伝わる伝承が如何なる背景で生み出されたかと言う疑問です。
確かに目師と像師は全くの別人と思いますが、事、稚児奉公の頃から考えると、本当に別人であったのかと言う突拍子も無い発想です。
仮に、虎王丸=経一丸と推論した場合、御肉牙の伝承にも繋がり、天奏の次第も目師であったと言っても大変に面白い仮説と思います。
私は、暴論かもしれませんが、虎王丸=経一丸とした場合、鶴丸の紋章使用にも納得する場面があるのです。
後醍醐天皇の宗教政策には確かに多くの教義と手を結び一宗一派に固まる事は無かったことは確かです。
さて、それだけで終わったのでしょうか。
建武以後、日本は戦国を迎え、後、徳川まで禁裏は実験を失い、大政委任が続く体制が続きます。
その中で、目師の伝統と像師の伝統とどちらが、禁裏で捉えられていたかと言う事に続くと思います。
公家文化と言う物は、武家風とは違い、あからさまに物事を表現することはありません。
江戸よりの使者が御所に上がる際。
「遠い関東より、ありがとう・・・・・、はよお帰りやす。」
の世界です。
話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板