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つぶやきすれっど2
2071
:
犀角独歩
:2006/05/19(金) 08:36:45
Taitsu さん
もしお時間等のご都合がつけば、、28日にオフ会にご参加なさってみては如何ですか。お誘い申し上げておきます。
れんさん
有り難うございます。
桓武平氏千葉氏というのは、その祖を桓武天皇とするのではありませんでしたか。
日目は武家南条の縁、けれど、小野寺家の末裔といい、新田卿をいいました。この場合も武家方ということになりますか。
美濃垂井での日目寂後、そこで、日尊、日郷が別れたと、先に記したのですが『日蓮宗事典』によれば
「日興滅後、日目に随い日郷と共に天奏上洛の任についてが、中途にして日目の遷化にあい、日郷を随えて天奏の役を果し、日郷は富士に帰り日尊は関西の遊化にあたり、暦応元年(1338)再び入洛、翌年2年六角油小路に上行院を建ててここに住した」
といい、わたしが記憶していたこととは違っています。以上の記述は『祖師伝』に基づく如くでした。
日目直授ということは、要は、日目が唯授一人相承をしたという話ではなく、日蓮・日目という直授に主眼があるのだと思います。ですから、京の日尊、富士の日道、保田の日郷等の系譜を潤色するのに、日蓮直授、さらに直授という経緯であったのではないでしょうか。
これが、天文法難以降、京の地盤を失った日辰、のちの要法寺系や、教学的根拠の一端を富士の求めた保田では、日教が北山において、一つの体系をものにしていたことなども相俟って、加上する経緯のなかで、権威を日興に求めた。その結果、「三箇秘法とは日蓮日目と御相承…御付法は日蓮・日興・日目と次第」といった折衷案を経て、蓮興目に落着していった歴史があるのではないのかというが、いちおうの、現段階でのわたしの考えです。
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