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つぶやきすれっど2

2097お暇庵:2006/05/31(水) 13:34:08

金龍さん、はじめましてお暇庵と申します、よろしくお願いいたしますです。

すこし、お聞きしたいですのでお願いいたします。それは「大聖人在世当時に随時給仕をした少年は二人と言うことになります」なのですが、私の記憶に間違いがあれば訂正をお願いいたします。

確か目師は文応元年(1260)に伊豆仁田郡に出生され、文永九年(1272)走湯山円蔵坊にて出家(13才)興師に謁されたのは文永11年(1274年15才、76年に得度)で、宗祖に謁見叶うのは同年11月(数え18才)のことです、目師は弘安五年(1282)では数えで22才になり、宗祖身延在住の間は(18〜22才となり)わずかに4年あまりで少年とは言えないのではないですか。

また日像こと経一丸は朗門に入ったのが建治元年の7才(1275)目師より15才若いですね、同年12月に宗祖より本尊授与されています、その時に経一丸と名乗ったとあります。朗門であったために鎌倉小企谷妙本寺が本拠で、身延にも再三登ったと物の本にはあります、宗祖遷化の弘安五年には14才ですからこちらの方が少年と言えるのではないでしょうか。

ついでながら、像師は京都布教に再三チャレンジして三度の院宣で追放に会いながら、遂に後醍醐天皇の京都還幸の祈願を護良親王より令旨を得て祈祷し、還幸の報なって尾張・備中などの三ヶ寺の寺領を朝廷より寄進されました。
また、その祈祷成就の功として後醍醐帝より綸旨を賜り勅願寺としての立場と一乗円頓之宗旨を弘める勅許がもたらされています。日蓮宗はここで天下公認の宗派になったわけです。これは像師上洛41年目のことです。

後に京都洛中四条の地の像師開基の妙顕寺(四条門流といわれています)は足利将軍の祈祷所、北朝光厳院の祈願所も兼ね、宗祖諸門流の最高峰として洛中では妙顕寺を通さずして挙状と申し状を朝廷もしくは関係各所には上げられなかったと言うことです。


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