したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

つぶやきすれっど2

1563犀角独歩:2005/05/01(日) 12:01:13
少しついでに書き足せば、「法」ということは、たとえば「宇宙に編曼する妙法」であるとか、「森羅三千を貫く真理」であるというが、これは果たしてどうでしょうか。結局のところ、シャキャムニといい、蓮師といっても人間です。また、仏法2500年の歴史を培ってきたのも人でした。そこで確かに法と言えるものは教えであろうと考えています。「如何に生きるべきか。修行するべきか」という範疇です。それが宇宙とは何か、生命とか何かとはじまれば、それは結局、想像の産物から一歩もでない。
それを恰も何でもわかっているように豪語するところに嘘があるのだとこの際、はっきりと記しておきたいと思います。

スティーヴン・ハッサン師は次のように記しました。

「『特殊用語』の詰め込みとは、特殊用語がそのとおりの意味を持ってくること、そして言葉やイメージが神になることである。非常に単純化された言語というものは、月並みに見えるかもしれないが、まさにその単純さのゆえに、途方もない魅力と心理的威力を発揮できる。しかもそれは、それなりにつじつまがあっているので、当人は真理を体験したと主張するし、事実そう感じるのである。答えはすぐ手に入る。ライオネル・トリリングは、これを『無思想の言語』と呼んだ」(恒友出版 P376)

確信を持って語られることが事実・真実であると限りません。確信を持って語れると言うことは、単なる強い妄想、思いこみ、詐欺紛いの話術ではないのか、信じることで完結してしまうこと、簡単に手に入る答、簡潔に言語で表現されるもの、それが本当に法であるかどうか、「妙法蓮華経」は、そんな‘特殊用語’化された言葉ではないのか。この言葉を信者に追及して問うても、大した答えは返ってきません。彼らにとって、この言語は信じることで完結し、何ら思想性を有しない特殊用語として機能しているように映じます。反論があれば、百万言を費やしてほしいと希望します。これらの点を、わたしたちは、もっとまじめに考えてみる必要があると思います。

言えること、「法」とは何か、そんなことは、ちょっとやそっと、考えてわかることではなく、もっと言えば、シャキャムニ、日蓮を含めて、結局のところ誰もわかってはいないことだったと言うこと、ただし、それがわからなくても、どのように生きるべきか、どうあるべきかはわかったということ、それが教えとしては意味を持ってきたということだけです。
換言すれば、「法」とは何かを明確に説明できる人は実は一人もいない。しかし、それをさも覚ったかのように確信を持って語り、人を誑かす連中によって、煽動されてきたということです。

わたしは南無妙法蓮華経というとき、それは宇宙真理などではなく、法華経に説かれた精神に基づいて、自分は命懸けで生きますと言う誓い、教えの範疇である考えます。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板