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つぶやきすれっど2

529顕正居士:2003/02/23(日) 19:39
問答迷人さん。今成元昭師が日蓮摂受本懐を唱えておられるが。
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/p4c2.htm
「折伏」は力により屈服させる意味の語で通常は「以不淨觀折伏煩惱令不得起」
(不浄観をもって煩悩を折伏し起こることを得ざらしめよ・阿育王経)のように使う。
「摂受」は「摂取」と同じ語で教えなどを受容する(absorb)意味と衆生を摂護する
(conserve)意味とある。「摂受正法」は受容、「摂取不捨」は摂護である。
「勢力折伏」は王者が刑法を制定し警吏が犯罪者を捕縛するなどをいう。なんら
道徳観念を持たない者に五戒を説くなどはできないゆえ、折伏は在家菩薩には
摂受と同様に修行だが、要するに「折伏」は権力をもって悪人を退治する意味で
弘教の方法などではない。

本尊抄の「行折伏時〜」の文により、日蓮の摂折観は特別でないといえる。
しかし出家菩薩の弘教について「折伏」を使う文がある。たとえば『佐渡御書』 。
http://nakanihon.net/nb/gosyo//sadogosyo.htm
これらの文がある遺文にはほとんど真蹟がない。今成師はぜんぶを偽書とし、
真蹟遺文の問題箇所も後人添加とする。だが、日蓮には自らの弘教が勧持品
の説相に合致したという自覚があった。「法華経の行者日蓮」の体験は遺文の
主内容である。かつ日蓮は浄土、真言の祖師、自身所属の山門の円仁を謗り、
同時代の忍性については限度を越えている。『崇俊天皇御書』(真蹟曽存)にいう。
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。 不軽菩薩
の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
http://nakanihon.net/nb/gosyo/susyunntennnougosyo.htm
日蓮の矛盾をどう考えよう。ただし、折伏を末法弘教の方軌とした上で、それは
不軽品の精神の実行そのものという説を『寺泊御書』(真蹟完存)は否定している。
「今の勧持品は未来は不軽品為るべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為るべし」

「摂受」は「摂受正法」、「摂護衆生」(摂取不捨)の意味である。悪律儀者は折伏の
対象のはずだが、日蓮はこれら殺生を生業とする武士、漁師を摂受の対象とした
とおもう。「摂受の中の折伏」は権化の菩薩やその眷属であっても「時にあわない」
人々を批判してよいと考えたのでなかろうか。日蓮は「仏種」を本仏が下種すると
し天然と考えなかったから、「但行礼拝」は将来に属する。『本尊問答抄』は天然と
いうので困るのだが。


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