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つぶやきすれっど2

169犀角独歩:2002/12/30(月) 11:20

たしか三学無縁さんも指摘されていましたが、石山系というのは言葉に敏感すぎると思えるわけです。それはもっと言えば、呼称の仕方に既に敬意、あるいは蔑如まで意味が決められているという、世間ではあり得ない、特殊性があることを、理解しないとならないといことです。

たとえば、日蓮を「日蓮大聖人」と言わないだけで、もう軽蔑的に見ていると考えます。これが「日蓮聖人」でも「日蓮上人」でもだめで、まして、「日蓮」と尊称を省くことはとんでもないと考えるようです。私自身、このような傾向があったのですが、この言語の操作性に気づき、呼称の幅を広げた経験があります。

元来、興目両師…現石山信徒であれば、この書き方も蔑称と考えるかも知れません、日興上人・日目上人と書くべきであると…は「日蓮聖人」と申状その他に記述していたわけですから、興目の流れを自負すれば、この呼称が妥当と言うことになるでしょう。たしかに既に道師『御伝土代』に「日蓮大聖人」の記述は見られ、また寛師は大人・聖人の両義を含めて「大聖人」の呼称を置いています。以降、石山では「大聖人」が決定したかと思われるかも知れませんが、これはやや違います。例えば明治44年、石山正師の時代、監を亨師に採ったという熊田葦城師発刊の書名は『日蓮上人』です。ここには戒壇之漫荼羅の写真も掲載されていました。では上人と記した熊田師は日蓮を他山並みに拝していたかというと、そうではなく、石山に帰伏した人であったわけです。これは一例です。

同じように、私は他派・異論に対するとき、自分の尊敬する日蓮を「日蓮」と一般的に記します。元より、その無謬性を信仰するわけではありませんから、学的・科学的分析に抵触する場合は、この一般の呼称がふさわしいと個人的には考えるからです。しかし、それは日蓮を軽蔑してでも、侮辱してでもありません。一つの事象を客観的に考えようとするとき、その基本に尊敬、本仏、その他の固定概念を含む尊称を付してしまうと、それだけで、客観性を失い、厳正を期せない故の配慮です。また、歴史的位置では、蓮祖と記すことが妥当であると思います。信仰その他の情動的に表現したければ、聖人とも記し、それぞれ使い分けています。けれど、通じて、蔑如するような動機は微塵もありません。けれど、「日蓮大聖人」と呼ぶことが信仰に含まれると思う人々は過敏に反応するのかも知れません。

なお、無徳さんの如く、「日蓮御房」との呼称は鎌倉時代当時の僧侶を呼ぶ一般的な尊称であって、言語の起源を日蓮に求めるのであれば、僧侶全般は、日蓮も含めて充てるのに、この「御房」は至当であろうかと思います。

以上、記したことで重要な点は日蓮を日蓮大聖人と呼ぶ人は「信心のある正しい人」で、呼び捨て…実際は単なる客観的記述なのですが…にしたり、「聖人」「上人」「御房」と呼ぶ人は「信仰心のない間違った人」という固定観念で推し量ると、結局、私の書き込みのみならず、世の学術的文章、歴史文章もすべて読み違えることになるという点です。

いずれにしても呼称に尊敬・軽蔑などの感情を含めるのは学会を含む石山系信徒の際だった特徴に過ぎず、その固定観念で発言と発言者を見るとすべてを読み違えることになるということを、過去の自分の反省を含めて、記しておきたいと思います。

呼称そのものが蔑称、差別表現、批判を含むとは限らない、含むと考えるのは単なる信仰上の固定観念に過ぎないと言うことを記しました。


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