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つぶやきすれっど2
406
:
犀角独歩
:2003/01/21(火) 12:02
○有師・化儀抄に見る「本尊」観
有師の本尊観はたしかに際だった特徴を示します。
(1) 当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし…未断惑の導師を本尊
(2) 釈尊の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人
…四依弘経の人師…地涌菩薩
(3) 只十界所具の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり、是れ則ち法華経
…法華経計りに限りて本尊とする
この(1)(2)は共に日蓮を本尊とすることを言います。
しかし、ここでは実は日蓮本仏義は展開されていません。(1)に「未断惑の導師」といい、(2)に「人師」という如く、有師の日蓮観は日蓮=人師という枠組みから出ていません。ただし、「四依弘経の人師」とはその次下に「末法四依の人師、地涌菩薩にて在す」といい、すなわち地涌菩薩であるといいます。この菩薩道の人師は釈尊の因行、すなわち「我本行菩薩道」、同じく菩薩行を本尊としているのが有師の本尊観です。もちろん、ここでは釈尊・日蓮同体論は見えません。
そして、もう一面(3)には「十界所具・所図・本尊…法華経・本尊」という別立ての本尊観を示します。これは興師古写本?を遺す『本尊問答抄』以来の法華経題目本尊論の系譜でしょう。しかし、有師に人法一個思想は見られません。
この人法一個という思想は、恰も石山独一の論の如く石山信徒で思っている人があるようですが、文献で見る限り、この考えは房州我師が先行するのであって、郷門の系譜であることが指摘できます。
では、有師における日蓮と漫荼羅のこの対象はいったい、何を意味するのか。「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」というときの日蓮は、おそらくは日蓮御影本尊を指しているのではないかと私は考えます。重須より、日蓮御影像の背に十界漫荼羅を置く奉安が定まっていた興門において御影・漫荼羅奉安形式に基づいて説明されるのが、日蓮・漫荼羅本尊観なのではないのかと私は読みます。
そして、重要な点、この奉安は人(仏)・法一体を示すものではなく、人=菩薩−因行・法をそれぞれ示すのが本来の意義であったということです。因行−日蓮、文字通りの「人」と漫荼羅という法を示す奉安形式であったのだと、有師の記述からは考えられます。
有師の発想は人師・菩薩本尊、法華経本尊の二本立てであったと知れるわけです。
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