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つぶやきすれっど2

809無徳:2004/02/06(金) 23:29
阿部正雄氏は『仏教における信の問題』(日本仏教学会編)の中で、

「仏教は自我を絶対に否定した無我を原理とし、一切の分別を絶した無分別智の立
場を根本とする。仏教においては 常一主宰の我を立てこれに執着することを我見我
執としてきびしく否定し、一切は無自性にして空なる所以を説き、「無我」を真実
の立場とする。したがってまた仏教は「我」の立場よりする一切の分別は虚妄分別
であるとし、これを離れ越えた「無分別智」にめざめるべきことを説く。そこでは
自我も分別も、本来積極的な意味をもつものとは解 されておらず、共に絶対的に否
定されなければならぬものとされている」

と述べているが、この見解は仏教理解としては最も一般的なものといえましょう。
しかし、吉本隆明氏は上記の意味を『最後の親鸞』の中で、

「知識にとっての課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことで
はない。その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに
〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の知
にとっても最後の課題である。
この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的
に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親繍は、この「そ
のまま」というのをやってのけているようにおもわれる」

と、転じ(読み替え)ているように思われます。
つまり<知の頂を極め非知に向かって寂かに着地する>とは、<一切の分別を離れ
無分別智によって無自性空の位相に立つ>ことでありましょう。


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