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つぶやきすれっど2

343みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
 そしてそれらを理解するためには、天台法華宗と日蓮法華宗の教理を理解する必要があります。そのために何を読んだらいいかは、今日はご紹介しません。もし必要になったら言ってください。いくらでも文献をご紹介しますから。

 デカルトを読まずにフッサールを理解することができないように、またフッサールを読まずにハイデガーを理解することができないように、日蓮を理解するためには日蓮が読んだ文献、日蓮の思想形成の礎となった文献はできるだけ読まないと理解できないのです。また日寛もそうです。彼らは、他宗を含む広汎な仏教に関する教養があるのです。当時の学僧ならどの宗派に所属していても、当然読んでいる文献というのがあったのです。そういう教養を共有することを抜きにして、彼らの文献だけ読んでも、彼らが何を言っているのか分かるはずがないのです。前提となる教養が欠けているのですから。

284
> みかんさんの >>127 に賛同したのは、僕自身にそのような『信』の自覚があるからです。

 よくわかりません。その自覚の根拠はなんですか。わたしは127で「「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。 」と言いました。それに対し、今里さんは259で「開目抄や本尊抄をよく理解できる、などという大それたことを言ったわけではありませんです」と言ったのにもかかわらず、284で「僕自身にそのような『信』の自覚がある」とおっしゃる理由が分かりません。260で私は「智慧の眼の一分が開いていたら、開目抄なり本尊抄が理解できるというのは、日蓮が菩薩であり智慧の眼の一分を開いているからです。唯仏与仏であるから、お互いにわかるのです。わからないなら、智慧の眼の一分が開いていません」と申し上げました。今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。

 あともう一つ繰り返しますが、だれかが仏であるかどうかを判断できるのは仏だけです。それは他人の境涯は、同じ境涯か上の境涯の人にしか分からないという、仏教の基本的な原理があるからです。だから、われわれ凡夫には、日蓮や釈迦が仏であったかどうかは、原理的には判断できません。

 また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。

 今里さんが今なさるべき事は、自分が何が分かっていないかを了解することです。何が分かっていないかを了解すれば、何を学べばいいか分かるからです。とにかく、最低、先日紹介した三冊を読んでください。すべてはそれからです。


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