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つぶやきすれっど2
544
:
顕正居士
:2003/02/28(金) 12:56
-仏性と仏種-
問答迷人さん。
『法華文句』は不軽品を注して不軽菩薩の礼拝の対象は正因仏性である、縁・了の
仏性もその種子は本有であるが、今はあたらないと述べる。三因仏性は本よりある
のだが、天台や日蓮の学では衆生は久遠の下種を覚知して不退の位に至るという。
久遠の下種とは最初成道の際の久遠の法華経、あるいは久遠の五時八教である。
「本未有善」の衆生は久遠下種がないのか、忘れてしまったのか、明らかではない。
中国で成立した法華宗は『華厳経』のビルシャナ仏(報身)を前提にし、『法華経』の
仏(応身)はこれと別でないとし、応身も一仏に統一する一神教であるから、本仏の
教導の歴史が救済史であって、三因仏性は教導を受ける可能的素質といってよい。
キリスト教の「啓示の光」が「久遠下種」であり、「自然の光」が「三因仏性」であろう。
法華宗は衆生に歴劫の修行をして最後に法華経の仏のように成道せよといわない、
本仏の実在を信仰せよという。信仰によって本仏と一体になることが「成仏」である。
『法華経』自体は永遠の菩薩行により、法華経の仏と等しくなれというのであるから、
不軽品が元初の修行になるが、法華宗はそうならない、本仏でなく衆生に向うのは
信仰ではない。久遠の釈尊、阿弥陀仏、大日如来の三仏の中で久遠の釈尊を信仰
せよが日蓮の教導である、不軽品は釈尊前世の修行の正体である、しかし釈尊は
すでに成道された、久遠の仏の実在への信仰のみが必要である。けれど日蓮がそう
であるように久遠下種を覚知した者は、本仏と一体になった上では、他者の救済へ
向かわねばならぬ、それが久遠の五時八教であり、未来には不軽行があり得る。
『寺泊御書』の文の意は親鸞の往相、還相の教義に類似しているのではなかろうか。
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