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つぶやきすれっど2
1706
:
犀角独歩
:2005/07/13(水) 09:00:49
―1705からつづく―
いまの彫刻本尊は禅師授与漫荼羅を臨模・作為した模造品であることは明確になった。よって、それが人即法の訳もなく、彫刻を宗祖を見なす器物崇拝は高橋紳吾師の言を借りれば「象徴(シンボル)の病」に過ぎない。そのようなものを祀る寺院が正統なわけはない。また、そのような事実を隠匿して、信者を騙し、隷属搾取する形ばかりの僧が正統であるわけもない。
「御本尊様」といわれる漫荼羅書写が大石寺住職限定権限の証拠は何もなく、元より模造品である彫刻本尊を、名ばかりの書写(書かれている内容が彫刻と石山住職が書いたものでは違っている)したものに功徳があるとの思いは個人的リアリティを超えない。功徳は、宗教の数だけあり、罰も宗教の数だけある。つまり、その功罪は、実は各人の潜在能力にあり、特定宗教・指導者・教えにあるわけではなかった。
「御書」は、その大半が真偽未決であり、疑偽濃厚であり、それを直ちに日蓮の教えとするのは誠実な姿勢とは言えない。
では、真跡である日蓮の教えに間違いがないのかということが問題になる。日蓮の教えを支えるのは天台六大部その他の釈で、その釈は仏典という釈尊が説いた‘される’文書が真実であり、漢訳されたものが正確無比であるという前提によって成り立っている。
では、この前提が事実かと問われたとき、残念ながら、それを証明できるものはなく、むしろ、後世の創作であることは明らか。また、羅什の漢訳は奔放で作為的であることは近代の梵本研究で明らかになってきた。
このような釈尊が説いたわけでもない経典を釈尊が説いたものとし、さらに意訳を含む漢訳を元に釈されたものは正確であるとは言い難い。法華経に至っては西暦前100年から西暦後300年頃までに段階的な創作されたものであり、これが釈尊究極の教えであるなどということはもはや虚偽の範疇を出ない。
以上、自分が信じてきたところを総括した結果です。
さて、ここでどうするか。特定信念体系下でいまも言われ、教えられていることに疑いを懐くのは謗法であり、悪である。故にそのような自分の惰弱な信仰に鞭打ち、組織・指導者によって教えられるところを無疑曰信、以信得入の教えに従って自他共に折伏すればよいのか。こんなことを惰弱な信仰しかない自分は獅子身中の虫であるから、もっと信行学に励み、組織・指導者の言うとおり進めばよいのか。そう考えた時期はもちろんありました。
しかし、そんな選択は、事実の前には、ただ虚しいだけです。それまで、永年に亘り、人生の大半を賭けてきたことを否定する真実。その事実を受け入れることは、たしかに苦痛が伴いました。
上記挙げた15の事実に有らざるところを、では、受け入れて、それで何が残るのか、残るものが有るか無いか。有るとすれば、それは何か。また、それしか、事実で動く実社会では説得力を持ち得ないと言う事実もまた受け入れ、何があるのか、それを考えてみようと言うのがわたしがいう「21世紀の日蓮」ということです。
…長くなりましたが、つぶやきです。
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