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つぶやきすれっど2
551
:
ハル
:2003/03/04(火) 04:21
北イタリア、トリノのサン・シンドネ大礼拝堂には、あの有名な「聖骸布」が伝えられています。聖骸布とは十字架にかけられたイエスの屍骸をつつんだ布のことです。
しかしこの聖骸布、1988年に炭素測定によって、たかだか700年前に作られたシロモノだということが分かり、それも大々的に報道されました。
けれどもこの聖骸布の所有者のバチカンは、いまだにこれがニセモノだということを認めていないのです。
信仰対象になっている「モノ」は、それが「科学的・合理的に」ニセモノだと証明されても、それを信仰している人にとっては、たいした動揺をもたらさないようです。
「不合理ゆえに我信ず」という言葉がありますが、「信じている人」にとっては、科学的・合理的な反証はどうやら無意味なのです。
ここで僕は「信じる」ということの凄み、恐ろしさを感じます。
「科学的・合理的に」ホンモノだと証明されたモノを信じることは、たやすいことです。これは「信じる」というのではなく「理解する」ということなのでしょう。
科学的、合理的でないもの。それを信じるということが、本当に「信じる」ということなのかもしれません。
宗教というのは、もしかしたら、「壮大な嘘」なのかもしれません。
その嘘があまりに壮大すぎて、嘘なのか本当なのか、凡人にはおいそれとは証明できないものが、「宗教」になってゆくのかもしれません。
―――――――――――――
僕ら凡人は、普段、自信のない生活を送っていますから、誰か偉い人に自信たっぷりに「これはこうなのだよ」と断言されると、ついつい「そうなのかな」と思ってしまいます。
「なんか変だな」と感じても、「あれだけ自信たっぷりに言っているのだから、ちょっと変なことなのだけれど、それには深い意味があるに違いない」と思ってしまいます。
だいたい聖書だとか法華経みたいな聖典には、冷静な頭で見てみると、おかしなことばかりが書かれている。「死人が生き返った」なんてありえるわけがないし、「ワシは××億年前から悟りをひらいていたのだ」なんて台詞は、ふつう、誇大妄想狂でなきゃ言えない。
けれども信仰する人は、その記述を怪しいとも思わずに真面目に読むわけです。
聖典には(冷静な頭で見てみると)あまりに常軌を逸したことばかりが書かれている。いやこれが「嘘」だとしても、これだけの「嘘」を考えつくのはちょっと大した想像力だ。しかも何百年、何千年もその「嘘」を自信たっぷりに言いつづけているのです。
なんか、凄い。
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