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つぶやきすれっど2
51
:
アネモネ
:2002/12/21(土) 12:36
モモさん
この話は、オフ会の2次会でも出ましたね。もう少し書いておきます。
「日蓮正宗にいらない人はいない」という言葉、敢えて言う必要もないほど、とても当たり前なことだとなのではないでしょうか。だけど、わざわざ言われてみると、目からウロコと感じる人がいるということは、裏を返せば、その組織がいかに、いらない人といる人を選別するかのような体質であることを物語っていると思うんですね。いろんなお寺があって、一概には言えないかもしれませんが、少なくとも私はそんなことを感じる法華講組織だったと思います。
オフ会で話したことの繰り返しになるかもしれませなんが、人の内心が自由であるということは、言い換えれば基本的には誰も立ち入れないものだと私は思っているんです。私は○○を信じていますということは、わざわざ人に言わなければならないことではありませんし、逆に言わないからといってその人の心に信仰心がないと言い切れるものでもないわけですね。
たとえば私自身の内心に、どのような信仰心を持っているか、いないかは、私以外の他人が表面的に推し量れることなどできるものではないわけです。お寺に行かなくなったから、所属寺院の悪口を言ったから、その表面的な行為をもって信心がないというのは、それこそ石山が刷り込んだ思考回路でみた、もの言いであって、それが真実であるというわけではありません。その刷り込まれた思考方法を私は、批判しているわけです。私の拙い説明で理解して頂くには、無理があるかもしれませんが…。
考えてもみて下さい、どこまでいっても他人の内心には誰も立ち入ってみることはできませんし、表面的な行動だけで、その人の内心がわかるほど単純なものでもないわけです。
モモさんが信じている心、信じようとしている心にも私は立ち入れないですし、それは私についても同じです。一見、組織を離れ、お寺の悪口を言っている。信じることをやめたと思うかもしれませんが、信じているか信じていないかの、内心までは他人にもわからないことですね。
だから、信じる信じないということを問題にして、教義を語り始めると検証にはならないと思うのです。それが言いたいのです。自由なのですから、それを言ってしまえば、そこで話は終ってしまいます。自由だからこそ、わさわざ信じる信じないなど関係なく、科学的に教義を検証してほしいと思うのです。時間がなくて、とりとめもなく、誤解を招くかもしれませんが、記しておきます。
また、オフ会でお会いできたらお話ししましょう。
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