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つぶやきすれっど2
2645
:
犀角独歩
:2009/11/28(土) 23:54:42
顕正居士さん
ありがとうございます。
「衆生本具の本覚」は衆生(生)に関して、わたしは本有・本覚を示す釈文を問いました。しかしながら、引用は「一切諸佛皆悉顯本」と仏に関する引用となっておりますね。
『釈本覚讃』を初期天台の釈文とすることができるのでしょうか。また、『諸法実相鈔』を手放しに日蓮遺文とする根拠が希薄であると思えます。
よって、「衆生の体としての法身(本覚)」と所断することを日蓮の教説の確たるご説明になっているように思えないのです。
さらに日蓮が晩年、仏像本尊を否定したのならば、何故、持仏を安置し続けたのか、また、弘安2年『日眼女釈迦仏供養事』に「三界主教主釈尊一体三寸木像造立檀那日眼女」と愛でているわけですから、とても、晩年、日蓮が仏本尊を否定していたとは思えません。
また、仮に、仏本尊否定をし、かつ御説のように迹門本尊・教相本尊が、釈から成り立たないと言うことに従えば、日蓮は釈迦仏像を棄てたということになり、ならば、三つの法門(三大秘法)という教義も棄て、本門本尊=釈迦仏も棄てたということになりますが、そのような意味でしょうか。
となれば、その後、弟子分は、何故、戒壇建立に腐心し続けたのでしょうか。
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