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つぶやきすれっど2

2256れん:2006/09/28(木) 18:24:30
仏像と字像、本来は相反するものではなく、両立するものだったと思います。
日尊師の仏像は日尹師の“遣日代上人状”によりますと「有る仁の方より安置候へとて寄進申さしめ候ひ畢ぬ、教主は立像、脇士は十大弟子にて御座候」とあって、十大弟子を脇士とする釈迦立像だったようです。日代師より日尹師への返状には心底抄と同様に「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケ大事一度に成就せしめたまうべきの由御本意なり、御本尊図は其れがためなり」と明示されて、本門の仏像の造立は広宣流布の時・本門寺建立の時とことわられています。また尊師実録には「日興上人の仰せに云く、末法は濁乱なり、三類の強敵これ有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶ふべからず、広宣流布の時分まで大漫荼羅を安置し奉るべし云々」とあって、これらの史料から富士上代では未広布時は大漫荼羅安置、本門寺建立の時、戒壇に大漫荼羅図の如く仏像造立安置だったようですね。しかしその本門寺戒壇に安置の仏像等の具体相は、富士に大漫荼羅正意・不造像不読誦義が定着してから戦国期頃にはその伝承は失われたようで、大漫荼羅正意の本尊義から石山では彫刻本尊を作成し、西山等では保田の大本尊を戒壇の本尊をしているようですね。
とりあえず、鳥野辺さんのご投稿を拝見して呟きました。


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