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つぶやきすれっど2

91三学無縁:2002/12/24(火) 19:14
わたしもそうなんですが、「元正宗系」というのは「言葉」に敏感になる傾向があります。
と、いっても、自分の言葉には鈍感になってしまいがちなんです。
ひとつには、正宗の思考形態に染まってしまっていて、それがなかなか払拭できないんです。
ようやく払拭できたとしても、今度は正宗時代の残滓を消そうとして、必要以上に「言葉」にこだわってしまう場合があります。
わたしなんて、約二十年もそれであがいていました。

正宗の信仰をもっているひとはその信仰を自分を高める糧にしてほしいですね。
往々にして正宗系のひとは、布教することが信仰だと思いがちなのですが、それは信仰でもなんでもなくってサークルゲームなんです。
組織といい教団といい、もともとそれは個人の信仰と二律背反するもののような気がします。

「ご」僧侶とか「ご」宗門とか「御」「法主」上人「げいか」「様」という言い方も、外からみれば「異様」なものです。
昔は正宗でも住職のことは「和尚」といっていましたが、せいぜい「和尚さん」で「和尚さま」ともいわなかったものです。
大石寺の住職だってせいぜい「上人」どまりで、内輪の坊さんも「げいか」なんて呼んだりはしていなかったようです。
妻帯したり妾をつくったり、外でこどもをつくったり、什器を売って酒代や博打につかったり、明治維新以降の正宗でもよくあったことです。
「代々僧侶」といったところで明治維新からがせいぜい、「代々法華」に比べれば新参者でしかないわけです。
つまり「代々法華」からみたら坊さんなんて偉くもなんともないわけです。
だからどんなに偉そうな坊さんでも「代々法華」にはさからうことはしませんね。
坊さんを敬うようにさせたのは創価学会でした。
それは、正宗の坊さんは他宗の坊さんとは違う、という考え方を徹底するための方策にしかすぎなかったわけです。
現実に、なぜ僧侶が偉いのか、を説明できるひとがいたらぜひ教えていただきたいと思います。

正宗の坊さんは、在家なんて相手にしていませんね。
彼らは「げいか」しか見ていませんから、「ひきこもり」に近いです。
はなっから「在家ごときがなにをいうか」というかんじですよ。

だからみなさんも、あまり「幻想」をもたないで、ふつうに信仰すればいいのでは。

という、つぶやきでした。


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