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つぶやきすれっど2

341みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:00
>今里さん
 これは千日手とはちょっと違いますね。独歩さんが囲碁のルールで戦っているのに、今里さんが連珠(五目並べ)のルールで戦っている、そういう議論でした。ようするに、議論になっていないのです。

 そして、投了を宣言しないかぎり、試合が終わらないのです。囲碁の試合は、双方が「もう良いですよね」と終局に同意するか、片方が「負けました」と言って投了しない限り終わりません。どんなに傍目から見て勝ち負けの形成が明かであってもです。まして、囲碁対連珠の試合なのですから、「負けました」と投了しない限り、決して負けませんよね。

 わたしがいくつか、今里さんに質問しましたが、あれは、今里さんが、どの程度、仏、成仏、本仏について理解しているか、具体的なイメージを持っているかを確かめるためです。私の感想は、今里さんは、なんら具体的なイメージを持っていないと言うことです。今里さんのお答えは、すべて断片的で、ひとことでした。また「判りません」という答えもいくつかありました。

 本当にものごとが分かっているのなら、そのものごとについて饒舌に語らざるを得ないのです。それが仏教というものの持つ宿命です。なぜなら、仏教が指し示していることがらは、言葉では語り尽くせないからです。決して伝えられないからです。しかしもしある人が仏教についてなにか分かっているなら、言葉を尽くして、条理を尽くして相手に伝えようとするのです。それ故、饒舌に成らざるを得ません。しかし饒舌に仏教について語る人は、それが決して相手に伝わらないことを知っています。それは仏教とは、同じ気づきを気づいたもの同士、同じ境涯の者同士にしか分からないことだからです。言語は、必ず誤解されます。それでも語らなければならないというあきらめと絶望の上に語られる言葉、それが仏教の言葉です。

 禅門が、「不立文字」といいながら、あれだけ膨大な禅籍を残しているのは、そういう事情からです。彼らは言語に絶望していたが、それでも言語以外のメディアを持たなかったのです。

 日蓮だってそうでしょう。本尊抄を富木常忍をはじめとする門下が本当の意味で理解するとおもって発語していたとは思えません。なぜなら、本尊抄は日蓮の覚りそのものの表明だからです。それでも何万分の一の可能性を信じて発語する、それが仏教の言葉の持つ性格です。

 「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。すくなくともあのHPのタイトルは変えた方が良い方と思います。今里さんには、あの呼びかけに責任はもてないでしょう?(あとトップページに「成仏しようぜ!」という文字列が入っていないので、googleでトップページがヒットしません。TITLEタグとALTタグを使って、ソースに「成仏しようぜ!」という文字列を入れたほうが良いと思いますが)


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