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つぶやきすれっど2

411犀角独歩:2003/01/21(火) 17:17

石山系譜における「本仏」を探っていたところ、道師の『御伝土代』にその語彙の使用がありました。

「日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の“本仏”なり」

 日蓮聖人の仰ったこと。本地は寂光である地涌の大士上行菩薩は六万恒河沙の上首である。久遠実成釈尊の、最初に結縁し道心を発(おこ)せしめた第一の御弟子である。
 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常に在って滅せず、我れ本(もと)菩薩の道を行じて成ずる所の寿命、今猶未だ尽きず復(また)上の数に倍する本仏である。

先文は上行菩薩を嘆じ、後文は本門教主を嘆じています。ここに「本仏」語が見えます。言うまでもなく、「我本行菩薩道」の引文は寿量品三妙合論中、本因妙を顕すとする文ですから、この「本門教主」本仏は、疑いなく寿量仏・釈尊を指しています。

ところがこれは、いまは日蓮本仏を言う石山にとって、まことに都合の悪い文章であるわけです。それ故、『日蓮正宗要義』では、あろうことか

「久遠実成無作三身 乃至 我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり」(聖典600)
と本因妙の仏といわれるのは、文底観心の重では上行菩薩が久遠実成の三身であることを暗示されるもので、もし教相の本果仏をとるならば「我本行」以下は“必要がない”文となる。(要義251頁)

と、目師から唯授一人の血脈付法の正師と持ち上げる石山4代の文章を添削し、「必要がない」と言い切っています。これが石山がいう唯授一人の正体かと呆れ果てます。
要は歴代の言であっても、現行の教学からして都合悪ければ、「必要ない」と切り捨てることによって成り立っているのが日蓮本仏論である好見本として、ここに提示しておきます。

(注:六万恒河沙は正しくは六万 [河-可*亘] 河沙です)


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